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個性とは何か? 歴史的・哲学的に考える

個性の定義

ありがちな勘違い

 個性は、「長所」でもないし、「特徴」でもないし、「持ち味」でもありません。「性格」とは違うものですし、ましてや、「奇をてらって人と違うことをする」こととは何の関係もありません。長所や特徴や持ち味がなくても、個性はあります。平凡であることは、個性を持つことと問題なく両立します。
 またwikipediaの記述(2020年8月)は大間違いなので、お気をつけください。wikipediaには「個性とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴」とありますが、極めて薄っぺらい理解です。また「特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。」とありますが、一部の業界でしか通用しない特殊な考え方で、常識的な理解ではありません。personalityではなく、individualityです。

個性の定義

 結論から言えば、個性とは「ひとりの人間として存在していること」を表現する言葉です。他人と違った長所や特徴や持ち味があるかどうかは、まるで関係ありません。

 さて、「ひとりの人間として存在していること」なんて、当たり前じゃないかと思う人がいるかもしれません。しかしその「当たり前」のことが極めて重要だからこそ、「個性」という言葉がわざわざ必要になるのでしょう。
 実は、「ひとり」とか「人間」とか「存在」という言葉は、考え始めると、奥が深い言葉なのです。ひとつひとつの言葉を吟味していくことによって、「ひとりの人間として存在していること」がいかに大切なことか、見えてくるかもしれません。

 ということで、このページでは、「個性」とは「ひとりの人間として存在していること」だという定義の根拠を、歴史的・哲学的に説明していきます。

歴史的に「個性」という言葉を考える

個性という日本語は、なかった

 そもそも実は、「個性」という言葉は、もともと日本語に存在しない言葉でした。江戸時代が終わって明治も半ば、明治20年(西暦1887年)頃にindividualityという英語が翻訳されたことで、初めて日本に「個性」という言葉が登場しました。(詳しい事情について知りたい方は、私の学術論文をご参照下さい。「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
 つまり逆に言えば、「個性」という言葉は120年程度の浅い歴史しか持っていないということです。そのため、individualityという言葉が本来持っていたニュアンスがしっかり理解されることがないまま、一種の流行語として広がっていくことになりました。その過程で、「長所」とか「特徴」とか「持ち味」というニュアンスが色濃く貼り付いていきます。

 「個性」という言葉がいかに流行語として蔓延していたか、夏目漱石『吾輩は猫である』を読むと、よく分かります。

「前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。」
夏目漱石『吾輩は猫である』

 この文章が書かれたのは明治39年(西暦1906年)です。日本に「個性」という言葉が誕生してからまだ20年も経っていませんが、このあと漱石は「個性」に関する多面的な議論を自在に展開し、「個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった」なんてことも言い始めて、「個性」という言葉を完璧に自分の語彙に取り込んだ様子が伺えます。『吾輩は猫である』に書かれた個性論は、多少古風な言い回しを除けば、現代でも通用しそうです。
 しかし一方、もうこの時点で個性という言葉に対して様々な手垢がついていることも分かります。明治時代の後期には、すでに個性という言葉の意味が混乱しているのです。

個「性」なのか、「個」性なのか

 さて、日本語の「個性」という言葉がわかりにくくなってしまったのは、歴史が浅いことに加えて、「個」に重点を置くか「性」に重点を置くかで、捉え方が大きく違ってしまうからかもしれません。現在の「個性」は、「性」のほうに重点を置くような理解が広がっているように思います。

 「性」とは、人や物の性質や性格を表現する漢字です。つまり「性」に重点を置いて読むと、個性とは、「各々の性質」という意味に読めます。そうすると、長所とか特徴とか持ち味などという言葉と近いニュアンスの意味を持つようになります。
 ちなみに「ひとりひとりの持ち味」という意味での「性」については、儒教の中で盛んに議論されています。全ての人間が同様の性を持つのか、それともひとりひとりが異なる性を持つのかという議論です。日本においては、特に江戸時代、伊藤仁斎が興味深い議論を展開しています。仁斎は、ひとりひとりが異なる持ち味を持っていると主張しています。
 また戦国時代には、武田信玄や織田信長なども、部下の持ち味は多様であるべきだという言葉を残しています。異なる特徴を持つ様々な人間がいるということについては、日本人も当然古くから気づいています。

 しかし、そういう「様々に異なる持ち味の人間がいる」ということと「個性」とは、厳密に言えば違う概念です。「個」ではなく「性」と読むことで、違いが明確に見えてきます。

individualは、「個」

 本来「個性」とは、「個」のほうに重点を置き、「性」のほうはオマケとして読むべき言葉でしょう。
 というのは、もともとindividualityという言葉が、individualに-ityという接尾語がついてできた言葉だからです。後ろにくっついた「-ity」は、ふつうは「○○性」というふうに翻訳されます。たとえばrealityなら「現実性」、activityなら「活動性」、productivityなら「生産性」というふうに翻訳されます。ですから、individualityも、「individual-性」というふうにできた言葉です。本体は「individual」にあって、「性」は接尾語としての意味を持つだけです。
 そしてindividualを日本語に翻訳すると、「個」となります。だから「individual-性」は「個-性」となるわけです。ちなみに幕末から明治始めにかけて、individualは「ひとつ」と翻訳されることもありました。となるとindividualityは「ひとつ-性」となるわけですね。

「○○性」の「性」とは何か?

 では、「○○性」というふうに「性」が語尾につくと、何が変わるのでしょうか。具体的に「reality=現実性」について考えてみます。たとえばreal(現実)がどうしてまさにrealなのか、その理由を考えてみて、もしも具体的にこれこれこういう状態で、こういう条件が揃っているからrealに感じるんだとなったとします。としたら、そういう、realを成立させている具体的にこれこれこういう状態や条件のことが、realityと呼ばれています。「この絵、realityあるね」と言ったとき、その絵自体はrealそのものではありえないけれども、人々にrealを感じさせる要件を備えているということを言いたいわけです。このように「realをrealたる限りでrealたらしめているもの」を、哲学ではrealの「本質」と呼んでいます。「○○性」の「性」とは、○○の本質を指し示すために付け加えられる接尾語です。
 individualityも、同様に、「individualをindividualたる限りにおいてindividualたらしめている」という、individualの「本質」を指し示す言葉です。「この絵、individualityがあるね」と言ったとき、その絵自体がindividualそのものかどうかはともかく、人々にindividualを感じさせる本質を備えているということを言いたいわけです。

「個」と「個性」の違い

 realとrealityが異なるものを指しているように、individualとindividualityはそれぞれ異なるものを指し示しています。つまり「個」と「個性」は、それぞれ違うものです。

 「個」とは、ひとつということです。バラバラになっていて、そのうちのひとつということを示す言葉です。「個々」となれば、バラバラになっているもののうち、ひとつひとつという意味です。だから「個を大切にする」と言ったなら、バラバラになっているひとつひとつを大切にするという意味です。

 一方「個性」とは、「個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」のことです。「個性を大切にする」と言ったなら、それぞれを「個」たらしめている本質を大切にするということを意味します。
 このように、「個を大切にする」ことと「個性を大切にする」ことは、それぞれ意味内容がかなり違っております。
 ちなみに中世スコラ哲学は、「存在者と本質は異なる」という議論を、アリストテレスを引き継いでさかんに展開しています。ここまでの文脈で言えば、「○○」と「○○性」は異なる、という議論です。ということで、「個性=個を、個たる限りにおいて、個たらしめている本質」とはいったい何なのか、哲学的に考えてみましょう。

哲学的に「個性」について考える

「個」であることの本質

 さて、そもそも「個」であることの本質とは何でしょうか? 結論から言えば、それは「存在している」ということです。
 なんだ「存在している」だけなら、何も特別なことじゃないと思う人もいるかもしれません。しかしちょっと考えてみれば、「存在している」ということはとても不思議なことであることが分かります。

 たとえば、私の目の前に眼鏡が存在しています。私は「眼鏡が存在している」と言います。が、どうして「眼鏡が存在している」と言えるのでしょうか?
 なぜなら私は、同じように「二つのレンズが存在している」とも言えるはずです。それなのに、私はどうして「二つのレンズが存在している」と言わずに「眼鏡が存在している」と言うのでしょうか? それは、目の前に見えるものを、「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しているからです。目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識しなければ、「眼鏡が存在している」とは言えません。
 しかしどうして私は、目の前のものを「二つのレンズ」ではなく「一つの眼鏡」と認識できるのでしょうか? 私たちが眼鏡を一つと認識するのは、おそらく、眼鏡が一つの「働き」を持っているからです。眼鏡には、「視力を補正する」という一つの「働き」があります。その「働き」をまっとうするために、二つのレンズやツルやブリッジや鼻パッドやネジなど、多数の部品が組み合わされるわけです。レンズやツルやブリッジがバラバラに存在しているだけでは、「視力を補正する」という一つの「働き」を期待することはできません。
 たとえばアプリの数はどうやって数えるのでしょうか? 一つのアプリは、たくさんのプログラムが組み合わさって働きます。しかし、そうやって動いているアプリが、たとえば30個のプログラムの組み合わせでできているとして、「30個のプログラムの束をダウンロードした」とは言うはずがありません。「ひとつのアプリをダウンロードした」と言うはずです。やはり、「働き」というものを一つの単位として、ものを数えているわけです。

 つまり、「ひとつ」であるということは、「働き」がまとまっているということです。そして「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」とか言うとき、単にレンズやツルやブリッジが組み合わされていることや、30個のプログラムが組み合わされていることを言いたいわけではありません。眼鏡やアプリがなんらかの「働き」をすると考えているときに、はじめて「眼鏡が存在してる」とか「アプリが存在している」などと言えるわけです。
 つまり「存在している」という理解は、バラバラで多様なものが何らかの「働き」の下に「個」として統一されているときに、初めて生じることになります。逆に言えば、我々が「存在という本質」を掴んだ時に、初めてその対象を「個」として理解することが可能になります。これをまとめると、「個であることの本質は存在していること」ということになります。そして「個であることの本質」のことを「個性」と呼ぶのですから、「個性とは存在していること」、というふうになるわけです。ページ冒頭に掲げた定義の輪郭が、だんだん明確になってきていますでしょうか。

哲学者たちの見解

 そんなわけで、古代の新プラトン派哲学者プロティノスは、「存在」を定義して「一であること」としました。そしてこの「一であること」と「存在」の関係については、プラトンもアリストテレスも徹底的に追究したテーマです。特にプラトン『国家』およびアリストテレス『形而上学』は、全編が「一と存在」について考え抜かれた哲学書と言えます。
 このように古代から鍛え上げられてきた「一」と「存在」の関係について、古代最末期に活躍した哲学者ボエティウスが、明確に言い切っています。

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、一たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」
ボエティウス『哲学の慰め』岩波文庫、135頁

 この「一」と「存在」の関係に関する見解は、古代から西洋世界で培われてきた思想(新プラトン主義やアリストテレス主義、さらにストア派)のエッセンスを一言でまとめたものと言えます。そしてこの見解は、近代までの西洋哲学の考え方の大前提に据えられ、individuality概念の意味内容に決定的な影響を及ぼすことになるでしょう。

人が「個」であることの本質

 さて、以上、「個」であることの本質が見えてきました。では、人が「個」であることの本質とは何でしょうか?
 私たちは、人間を「一」として数えます。「二つの手と二つの足と二つの腎臓などなどの束」などとは言いません。一つのアプリを「30個のプログラムの束」とは言わないことと同様です。では、人間がどうして「一」であると判断できるのでしょうか? アプリの場合は、「働き」が統一されていたからでした。おそらく人間についても、「働き」が統一されていることに大きな意味があるでしょう。
 そして人間の働きとは、「生きる」ことです。二本の手や二本の足や、心臓や肝臓や腎臓や、その他諸々のバラバラのパーツが、「生きる」という働きの下にすべて統合されているとき、人間は間違いなく「一」です。そして「一」であることは、「存在している」ということでした。このように「ひとりの人間として存在していること」こそが、「個」であることの本質、つまり「個性」ということになるわけです。

われわれは統一されているのか?

 しかし少し考えてみると、われわれはちっとも統一なんかされていないことが分かります。「個」としての条件を満たしていないことが分かります。
 たとえば、頭では「食べちゃだめだ」と思っていても、胃袋は「ラーメンを食べたい」と要求してきます。頭と胃が分裂しているわけですから、人間は統一されていません。「個」の条件を満たしていません。
 このように分裂している人には、個性がありません。相手によって態度を変える人とか、考え方をコロコロ変える人には、個性がありません。「一」である条件が欠けているのです。逆に、どんな立場の人にも同じように現われる人や、考え方が首尾一貫している人には、個性があります。つまり他人とどれだけ違っているかどうかが問題なのではなく、いかに「私自身と一致しているか」が問題になるわけです。もちろん、無理をして他人と違うように振る舞おうとしているとき、私自身を裏切っているわけですから、そこには個性など微塵もありません。

 たとえば18世紀啓蒙期に活躍したルソーは『エミール』の中で、以下のように述べています。

「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』岩波文庫、中179頁

 ここで言う「矛盾のない」とか「分裂のない」ことこそ、「一」であるということです。そして「わたし」が「一」であるときがルソーの言う「幸福」であり、これこそ「個性」が実現した状態というわけです。
 またあるいは16世紀ルネサンス期の人文主義者エラスムスも『エンキリディオン』の中でこう言っています。

「精神がその猛烈な謀反によって自分自身と不和になり、そのある部分が他の部分とは別の方向に突き進むことによって、揺り動かされ、分裂され、引き裂かれているような、心の軋轢がいかに恐ろしいか(中略)。理性と自然本性と罪の情欲はそれぞれ別の方向へ呼びかけている。そこから耐えざる苦痛、絶えざる争い、絶えざる戦闘が起こっている。」
エラスムス『エンキリディオン』V-1 70

 ここでいう「自分自身と不和」になって「分裂」して「引き裂かれている」ときが、個性が失われた状態です。18世紀啓蒙期のルソーと16世紀ルネサンス期のエラスムスが異口同音に主張しているこの考えは、西洋思想を遡ると、古代末期のボエティウスやローマ時代のキケロを経て、最終的にギリシア時代のプラトンに突き当たることになります。

本当に人間が「個」であるとは

 改めてルソーとエラスムスの「分裂のない」ような状態を精査してみると、共通点があることに気がつきます。彼らは「分裂」を、手や足の分裂とか心臓と胃の分裂などとは捉えていません。ルソーは「肉体の拘束」を問題にし、エラスムスは「自然本性と罪の情欲」を問題にしています。つまり彼らにとっての決定的で本質的な問題とは、理性と肉体(情欲)との分裂です。肉体が気ままに情欲をとげようとして理性と別の方向に突き進む時が「分裂」です。この分裂状態を避けるには、理性が完璧に肉体を統率するしかありません。逆に言えば、理性が完璧に肉体(情欲)をコントロールしている時、人は初めて「個」であると呼ぶことができるということです。
 そしてこれを最初に主張したのが、プラトン『国家』という本です。プラトンは理性と情欲に「気概」を加えて3つの要素の統合を説き、理性が気概の助けを得て情欲を押さえつけている状態が人間と国家が共通に目指すべき至高の「一」であると宣言しました。エラスムスの言う「理性/自然本性/罪の情欲」の統合は、明らかにプラトン思想の影響を受けています。これが古代ギリシアから16世紀ルネサンスを経て18世紀啓蒙期までヨーロッパに一貫して見られる「個」の思想の柱です。

個性を貫くと、他人に迷惑をかけるのか?

 さて、現代日本(あるいは日本以外)でしばしば聞くのは、個性を貫くことで他人に迷惑をかけてしまうという話です。ここまで来れば、それが完全に「個性」という言葉を誤解した物言いであることが分かります。
 上の引用で、ルソーは「幸福であるために自分以外のものを必要としなくなる」と言っています。もしも他人に迷惑をかけているなら、それは自分以外のものを必要としている状態であり、「一」である条件が欠けている状態です。ルソーが言う個性とは、自分以外のものを必要としないので、もちろん他人に迷惑をかけるわけがありません。
 同じくエラスムスが言いたいのも、個性を失うことは自分自身にとって苦痛であるということです。個性を失った分裂状態は、情欲の無軌道な暴走を招き、他者をも巻き込んで自分自身もろとも不幸に陥れることになるでしょう。
 つまり、個性という言葉の本来の意味からすれば、個性を貫くことは、他人に迷惑をかけることとはまったく関係がありません。個であることは、情欲を完全にコントロール下に置いて、一人の人間として分裂していない状態を意味します。個であること(情欲をコントロールできる)と、ワガママ(情欲が野放し)であることは、まったく正反対の状態です。

まとめ

 以上、個性という言葉について、歴史的・哲学的に考察してきました。まとめると、個性とは他人と比較してどうこうという言葉ではありません。個性が失われている状態とは、他人に良く思われるために無理を重ねるなど、わたしがわたし自身に嘘をつき、騙して、裏切っている状態のことです。わたしがわたし自身と嘘偽りなく仲良くでき、「俺は俺をだますことなく生きている」ような時、他人からどう見えるかどうかは関係なく、間違いなく個性が現われているのです。
 そして、この個性の実際のあり方について考えようとしたら、実は「自己実現」という概念について、改めて吟味する必要が出てきます。「わたしがわたし自身と一致している」という命題は、実質的には「可能性としてのわたし」と「現実としてのわたし」が一致しているかどうかという問題になってきます。あり得るはずだった理想のわたしが、本当に「実現」しているかどうかという話になってきます。「個性」という概念は、「自己実現」という概念と密接に関わってくるわけです。
 まあ、個性については、とりあえずここまでということで。

個性概念を吟味するための参考文献

 手前味噌ですが、個性に関する学術論文を書いております。個性という言葉がどのように登場し、どのように日本社会の中に定着していったのか、さらに調査を続けていきたいと思います。

・鵜殿篤「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」東京大学大学院教育学研究科教育学研究室『研究室紀要』第27号、2001年
・鵜殿篤「個性概念についての一考察」文京学院大学教職課程センター『文京学院大学教職研究論集』第5号、2014年

 教育学の大先輩の片桐芳雄先生が、「個性」概念に関する論文をたくさん発表しています。日本での初出事例の検討など、興味深い内容の論文が多いです。

・片桐芳雄「近代日本の教育学と「個性」概念」人間研究42、2006年
・片桐芳雄「近代日本における「個性」の登場――「個性」の初出を求めて」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要12、2006年
・片桐芳雄「近代日本における個性教育論への道:教育雑誌掲載論文の検討を通して」日本女子大学大学院人間社会研究科紀要13、2007年

 教育の世界では、1980年代半ばから、特に臨時教育審議会の答申を受けて、「個性」という概念が急浮上してきます。それを踏まえて、教育学的に個性概念を検討した本です。小浜逸郎、佐藤学、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄という錚々たる諸氏が寄稿しています。20年経っていますが、まだまだ大いに参考になります。

ソクラテスの教育思想―魂の世話―

魂の世話

 このページでは、ソクラテスの教育について考えていきます。
 結論から示すと、ソクラテスの教育が目指しているのは、人々が「魂の世話」を心がけるようになることです。

プラトンが描いたソクラテス

 ということでさっそく内容の検討に入りたいところですが、しかしまず困るのは、ソクラテス自身が自分の教育について何も書き残していないことです。いちおう弟子のプラトンがソクラテスを主人公とした素晴らしい対話編をたくさん書き残してくれたおかげで、ソクラテスの言動を知る手がかりは豊富に与えられています。ただ、このプラトンの才能がありすぎて、むしろ困ってしまうわけです。才能がありすぎるプラトンは、師匠であるソクラテスの思想をさらに自分で突き詰めて考察を深め、最終的にオリジナリティ溢れる独創的な高みにまで上りつめます。逆に言えば、どこまでがソクラテスのオリジナルで、どこからプラトンが付け加えたものかが、分からなくなってしまっているわけですね。
 そんなわけで、私としては完全にオリジナルなソクラテスの再構成は最初から断念し、プラトンが書き残した対話編を通じて、大雑把にソクラテスの教育を捉えることに務めていくことにしたいと思います。
 で、「魂の世話」の中身を総合的に理解する上で重要な4つのキーワードがあります。「無知の知」「産婆術」「汝自身を知れ」「エロス」を順番に検討していきます。

無知の知

 まずは「無知の知」から確認していきましょう。「無知の知」とは、簡単に言えば、「自分が知らないということを自覚している」という意味です。が、もちろん「自分が勉強できないの、知ってる」なんて意味で「無知の知」と言っているわけではありません。『ソクラテスの弁明』の記述を参考に、「無知の知」について見ていきましょう。

「何」を知らないのか

 いちばん誤解していけないのは、「無知の知」と言った場合の「知らない」とは、「1+1=2」を知らないとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」を知らないとか、そういうクイズ的な知識を知らないという意味などではない、ということです。知識がなくて学校のテストの点が悪いとか、そういうレベルの無知をテーマにしているわけではありません。ここを見誤ると、ソクラテスの主張が最初からまったく分からなくなります。
 ソクラテスが言う「知らない」とは、「命を賭けてでも知りたい価値のあるものについて、残念なことにそれが本当に何なのかを絶対に知ることができない」という意味です。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識は、他人から教えてもらえれば知ることができます。ソクラテスが取り組む知識とは、そういうふうに自分の外部から他人によってもたらされる知識ではありません。
 彼の言う知識とは、「自分の生き様」が間違っていないかどうか、確認できるような知識です。たとえば「正義とは何か」が本当に分かっているなら、自分の生き様が正義にかなっているかどうか、正確に判断することができるでしょう。しかし、この肝心の「正義とは何か?」が分からないから、自分の生き様が間違っていないかどうか、確認することができません。これがソクラテスの言う「知らない」という意味です。

世界一の賢者ソクラテス

 ソクラテスは、自分がどんな生き方をするべきか絶対的に示してくれる確実な知識を「神の知」と呼び、求め憧れました。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のような、誰か他人から教えてもらえれば獲得できるような知識は、言ってみれば「人間レベルの知」です。ソクラテスは、いま自分が持っている知識など所詮は人間レベルのものであって、自分が心から求めている絶対的な「神の知」には指先すらかかっていないということを自覚していました。自分が「無知」であることを強烈に自覚して、自分なんて大したことがない奴だと思っていたわけです。
 が、ある日、友達のカイレポンがデルフォイの神殿に行って、ソクラテスこそが世界一の賢者であるというお告げを得てきます。それを聞いたソクラテスは、「ありえない」と思います。日頃から「神の知」を求めさまよい、見つからず、自分自身のことを「無知」だと自認しているソクラテスにとって、「世界一の賢者」のお告げは不可解極まりないものでした。しかし他ならない神様からいただいたお告げですから、「神の知」を求めてやまないソクラテスとしては無視するわけにもいきません。自分が世界一の賢者などとは信じられないものの、神様の言葉である以上は何かしら重大な意味があるだろうということで、ソクラテスはお告げが正しいのかどうか確かめようと試みます。

バカばっかり

 お告げが真実かどうか確かめるために、ソクラテスは頭がいい人たちと話をすることにしました。というのは、自分が知らないようなことを知っている人が一人でもいれば、少なくとも自分は二番目以下ということで、「世界一の賢者」ではないことが明らかになります。世間には「自分は何でも知っている」と豪語している人がたくさんいるので、一人くらいは本当に「神の知」を持っている人がいてもいいかもしれません。そしてさらに、そういう智者と話ができれば、自分が知りたいと願っている「神の知」を教えてもらえるかもしれない。ソクラテスはそう期待に胸を膨らませて、「自分は何でも知っている」という自称賢者たちと話をしに行きました。
 が、実際に話をしてみて分かったことは、賢者を自称する人々が、実は何も知らなかったということでした。「自分は何でも知っている」と豪語している人が本当に「神の知」を持っているのか、ソクラテスがあれこれ確かめてみると、たちまち馬脚を現して、実際には何も知らなかったことが明らかになるのでした。
 確かに自称賢者たちは、「人間レベルの知」はたくさん持っているようでした。が、ソクラテスが求めていたのはそんな「人間レベルの知」ではありません。確実な生き様を認識できる絶対的な「神の知」こそが問題なのです。自称賢者たちは、誰一人として「神の知」を持っていないどころか、それを持っていないということすら自覚していないことが発覚するのでした。

所詮は人間の知

 「神の知」を示してもらえるのではないかと密かに期待していたソクラテスは、「人間レベルの知」で満足している相手のバカさ加減にガッカリしながら帰途につきます。帰り道で、ふと気がつきます。自分も相手も、「神の知に辿り着いていない」という点についてはまったく違いがありません。ただ、相手は「自分が知らないということすら知らない」のに対し、自分は少なくとも「自分が知らないということを知っている」のです。このわずかな自覚の違いで、自分は彼らより一歩先を行っているのだと、ソクラテスは気がつきます。デルフォイの神殿のお告げは、きっとこのことを言っていたのだなと、ソクラテスは思いました。
 しかしそれはもちろん、自分は本当に「世界一の智者」なのだと自信を持ったという意味ではありません。仮にお告げの言うとおり自分が「世界一の智者」であったとしても、そんな自分は相変わらず「神の知」に届いていません。ちっとも嬉しくありません。神様がお告げによって本当に伝えたかったことは、「人間界最高の智者ですら、神の知には指先すらも届かない」とういうことなんだとソクラテスは理解します。そして神様がわざわざ自分にお告げを与えたのは、「神の知に届いているなどと自称している人々が、実はまるで無知である上に、自分が無知であることにすら気づいていない大馬鹿野郎だ」ということを暴いて自覚させる、そういう使命を与えるためだったのだと理解します。自分の使命を自覚したソクラテスは、自称賢者たちの無知を次々と暴いていくことになります。
 そういうわけで、「無知の知」という言葉の意味は、単に「知らないことを知っている」ということにとどまりません。「人間の力では絶対に神の知に手が届かない」という理解が伴って、初めて意味を持つような言葉なのです。「自分が勉強ができないことを自覚しているから、無知の知」などという「人間レベル」で理解したつもりにならないようにしましょう。

産婆術

 さて、そんなふうに自分は何も知らないと公言しているソクラテスなのですが、なぜか若者たちは喜んでソクラテスと話をしました。ソクラテスと話をすると、自分が成長したように感じるからです。それまで自分が知らなかったような知を獲得できた気になるからです。
 これはとても不思議な現象です。なぜなら、ソクラテスは「何も知らない」からです。常識的に考えれば、何も知らない人が、相手に「知」を与えることなどできません。自分の持っていないものを相手に与えることなど不可能です。それにも関わらず、ソクラテスの対話相手は、知を獲得することができました。知を持っていないソクラテスが誰かに知を与えられるはずがないのに、ソクラテスと対話している相手がいつの間にか知を獲得してしまう。このような技術を「産婆術」と呼びます。
産婆術については、『テアイテトス』という本に詳しく書いてあります。こちらを参照しながら、産婆術について見ていきましょう。(ちなみに『テアイテトス』に記述された産婆術は、現代的な視点から見るとちょっとグロいのと、プラトンの数学偏重的立場が混入されてオリジナルを歪めているように思えるので、以下の祖述には私なりのアレンジが相当程度加えられていることをあらかじめお断りしておきます。)

「知」はどこから来るのか

 さて、ソクラテスは知を持っていないにも関わらず、対話を続けているうちに、いつのまにか対話相手の若者は知を獲得します。この「知」は、いったいどこからやってきたのでしょうか?
 何も存在しないところから「知」がいきなり出現するわけはありません。「知」はどこかにあったはずです。そしてソクラテスは「知」を持っていません。だとしたら、残る可能性はただ一つ、対話相手の若者がもともと持っていたのだと考える以外にありません。しかしそうだとしたら、若者は「知」を持っていたにも関わらず、それを自分自身では自覚できていなかったということになります。きっと「知」は若者自身から見えないところにあったはずです。たとえば、お腹の中にあったとしたらどうでしょう。もしも自分のお腹の中に「知」があったとしたら、自分の目からは見えないので、自分が持っていることに気がつかなくても仕方ありません。しかし持っていることに気がつかなくとも、お腹の中に何かあったら、なにかしら違和感が生じます。お腹がもぞもぞして、気分が悪くなります。出産したくなります。自分のお腹に異変を感じた若者は、なんとかそれを処理しようと、助けを求めてソクラテスのもとにやってきます。ソクラテスは若者を診てやります。ソクラテスが診てやると、若者は自分のお腹の中にあった「知」を産み出します。いったん産んでしまえば、自分の体の外に出た「知」は、自分の目で見えるようになります。「あ、知だ!」と分かります。そしてその「知」はもともと自分のお腹の中にあったものであって、ソクラテスから与えられたものではありません。ソクラテスは、ただ診てやっただけです。

産婆は出産の手伝いをするだけ

 このソクラテスの対話技術が「産婆」の技術とよく似ているので、この一連の行為を「産婆術」と呼んでいます。「産婆」とは、女性が子供を出産するときにサポートする人のことです。近年は病院で出産することが増えたので「産婆」の出番はなかなかありませんが、かつては自宅で出産することが多く、妊婦さんが産気づくと産婆さんを呼んで手伝ってもらっていました。
 子供を産むのは、あくまでもお母さんの行為です。当たり前のことですが、産婆自身が子供を産むわけではありません。産婆さんは出産の「お手伝い」をするだけです。産婆さんの仕事は、お母さんのお腹をさすったり、お母さんの息を整えたり姿勢を直してやったり、洗い桶や綺麗な布など環境を整えたり、生まれた赤ん坊を綺麗に拭いてやったりすることです。産婆さんの手助けがあって、お母さんは無事に子供を産むことができます。こうやって産婆さんが妊婦さんを励ましたり応援したりしながら出産を手伝う様子が、ソクラテスの教育法によく似ているわけです。
 というのも。知を産むのは、あくまでも若者の行為です。当たり前のことですが、ソクラテス自身が知を産むわけではありません。ソクラテスは出産の「お手伝い」をするだけです。ソクラテスの仕事は、若者が何か言いたいのを励ましてやったり、発言に適切な質問を加えて議論を展開させたり、考察に必要な概念や具体例を持ってきてやったり、生まれた知識を綺麗に拭いてやったりすることです。ソクラテスの手助けがあって、若者は無事に知を産むことができます。
 こうして若者は、自分自身の中にもともとあった知を産み出すことができたのですが、いま一度確認すると、若者がソクラテスから知を分け与えてもらったわけではありません。というか、そもそも「無知」であるソクラテスが誰かに知を与えることなど最初からできるわけがありません。彼は「対話」の力によって、若者の内部から知を引き出します。

対話

 若者の内側から知を引き出す際、ソクラテスが実際に行っている作業は「対話」です。巧妙な「対話」を通じて、若者の内側から知が湧き上がってきます。産婆術とは、具体的には「相手の内部から知を引き出す対話の技術」と言い直すことができるでしょう。対話相手から知を引き出すためには、相手の言葉に辛抱強く耳を傾け、断片的な言葉と未熟な論理から相手が本当に主張したい論点を把握し、間違っている論理は間違っていると指摘したり、有望な論理が出てきたら褒めて励ましてさらに思考の展開を促したり、言いたいことを的確に表現するための適切な言葉を見つけるのを手伝ったり、気づきのきっかけを作ったり、議論の筋道を整理したり論点や到達点をまとめたりするなどの様々な手助けが必要となります。
 しかし、この姿勢がなかなか難しいわけです。まず難しいのは、相手の話を「傾聴」するということかもしれません。いわゆる「先生」と呼ばれる職業に就いている人たちは、なにかと教えたがる傾向にあり、なかなか相手の話を黙って聴くことがありません。まず、対話相手をバカにせず、しっかりと話を聴いて、相手の主張を尊重すること、これが産婆術の基本中の基本になるでしょう。そしてソクラテスが極めて謙虚に相手の話を聞くことができるのは、根底に「無知の知」があるからだということは言うまでもありません。自分が何も知らないと自覚しているからこそ、相手の話を先入観なしで聞いたり、忌憚なく質問したり確認したり、正しく理解し論理的に判断したりすることができるわけです。

汝自身を知れ

 さてところで、そうやって対話相手から引き出される「知」の中身とはどのようなものでしょうか。もちろん、「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」というような知識であるはずがありません。産婆術でもたらされる「知」の中身については、デルフォイ神殿の入口に刻まれていたという標語、「汝自身を知れ」が重要な手がかりとなりそうです。以下、ソクラテスの言う「知」の中身を検討していきます。(ただし、プラトンのテキストそのものから読み取れる内容からは大きく逸れて、私個人の見解を反映した記述に向かうことはあらかじめお断りしておきます。)

自分のお腹の中にある「知」とは何か?

 さて、ソクラテスが産婆術で引き出したのは、対話相手のお腹の中に潜んでいた知でした。外から与えてもらわないのに、もともと自分のお腹の中に潜んでいた知とは、具体的にはどのようなものでしょうか? もちろん「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識のはずがありません。そういう知識は、もともと自分の中に潜んでいるわけがなく、外から与えてもらわないと身につけることができないようなものです。
 が、「1+1=2」という知はどうでしょう? まあ確かに「1+1=2」なら教えてもらわないと分からないかもしれませんが、たとえば「53+69=122」ならどうでしょうか? おそらく「53+69」の答えが「122」だと教えてもらったことがなくとも、「53+69=122」が正しいことは分かると思います。数学の正解というものは、外から教えてもらわなくとも、基本的な原理原則さえ押さえていれば自分の中から引き出すことができます。
 数学に限らず、論理的な手続きを経て結論に至るような知識であれば、確かに外から新しい知識を付け加えなくとも、自分の内部で適切な情報処理を繰返していけば最終的に正しい結論に辿り着くことができます。この様子は『メノン』に鮮やかに描かれています。『メノン』に示されたプラトンの記述をそのまま受けとめれば、産婆術とは論理的な手続きを正確に踏んでいく対話の技術です。

理性によって知る

 数学に典型的に見られるように、論理的な手続きを正確に踏めば、外部から新しい知識を付け加えなくとも最終的に正しい結論に辿り着けるのは何故かというと、すべての人間が平等に「理性」を備えているためです。数学など論理的な問題に対しては、「理性」を正確に働かせることさえできれば、すべての人間は間違いなく共通の結論に辿り着きます。逆に言えば、生まれたときから自分の内部に備わっている「理性」を正確に運用できるなら、外部から知識を与えてもらう必要などないということです。プラトンの記述に従えば、産婆術が目指しているのは、理性を正確に運用して確実な知識に辿り着く手続きです。
 ここまでくると、デルフォイ神殿に刻まれた標語「汝自身を知れ」とは、「すべての人間に平等に備わった理性を追究せよ」という意味であると解釈することができそうです。「汝」とは、神様がわれわれ人間に向けて呼びかけた複数二人称ということになります。プラトン『メノン』や『テアイテトス』の記述を辿る限りは、そう解釈できそうです。

理性の限界を知る

 しかし、プラトンの初期著作に登場するソクラテスの言動を見ると、簡単にそう断言していいかどうか疑問も生じます。というのは、ソクラテス本人が数学を重視していた形跡がまったく見当たらないからです。実はプラトンは、中期対話篇を書く頃にピュタゴラス派と接触し、数学に傾倒したと考えられています。ですので、中期対話篇である『メノン』や『テアイテトス』にはオリジナルなソクラテスの姿が描かれているというより、ピュタゴラス派に影響を受けたあとのプラトンの思想が反映していると見るほうがよさそうに思われます。
 初期の対話篇でソクラテスが関心を示していたのは、数学ではなく、「善く生きる」とはどういうことか?というテーマでした。ただ単に「生きる」のではなく、「善く生きる」ということがテーマでした。そのために、「善い生き方とは何か?」を徹底的に追究しました。この「神の知」に数学が関わってくる余地は、あまりなさそうな気がします。
 そもそも思い返してみれば、ソクラテス自身が確実に知っていたのは、「自分は何も知らない」ということでした。そして様々な自称賢者たちと話をして確認できたのは、「自分だけが何も知らない」のではなく、「人間であれば誰もが絶対に知ることができない」ようなものがあるということでした。人間というあり方に本質的につきまとう「絶対的な無知」について知ることが「無知の知」です。単に「自分は知らないが、他の誰かは知っている」ようなものを「無知の知」とは絶対に呼んではいけません。
そういうわけで、ソクラテスの言動に即して考えれば、「汝自身を知れ」とは「すべての人間に平等に備わった理性を追究する」ことなどではなく、まったく逆に、「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ということであり、「神の知の前では謙虚になるしかない」ということになります。プラトンとソクラテスでは、言っていることがまるで違ってくるわけです。
 (ただし、プラトンも数学的理性の限界には気がついていました。数学的理性の限界を超えて真の知識に辿り着く手段として、プラトンは「哲学的対話法」を持ち出しています。そして「哲学的対話法」の中身は、厳密には分かっていません。ひょっとしたら、プラトンの「哲学的対話法」も、ソクラテスが言うような「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ための手続きかもしれません。が、今となっては、プラトンが本当に何を考えていたかは、謎のままです。)

わたしはどう生きるか?

 さらに、教育学に携わる者の関心が、テキストには書いていないところにまで飛躍することを許してもらえれば。ソクラテス本人が人間に共通する「理性の限界」を問題にしていたとしても、ソクラテスに話を聞いてもらっていた若者の受け取り方は、また違っていたかもしれません。
 たとえば。ソクラテスは実際の対話では、「正義」や「美」や、そして「善」を問題としました。ソクラテスにとっては、これらは共通して「理性の限界」を超えているものだったのでしょう。実際にソクラテス初期対話編では、問いに対する答えが出ずに消化不良のまま対話が終了し、「理性の限界」が示されます。ソクラテス本人にとっては「いちおう頑張ってみたけど、やっぱり人間の理性では答えは出ないよね。そりゃそうだよね」というふうに、改めて「無知の知」を確認した機会ということでいいでしょう。しかし対話を聞いていた若者たちに対しては、おそらくまったく違う効果があったと思われます。というのは、確かに、「正義」や「美」や、あるいは「善」というものには、一つの決まった答えがあるわけではありません。逆に言えば、「正義とは何か?」という問いは、「正義とはこういうもの」などと客観的な答えを出すべき数学的な問いではなく、ひとりひとりの主観的な「生き様」を問うような倫理的な問題として迫ってくることになります。評論家的な態度では絶対に答えは出ないけれども、当事者として必ず何かしらの見解を示さなければならないような、そういう人生観が問われるものとして迫ってきます。他人事ではなく、「わたしはこう考える」とか「わたしはこう生きる」とか、自分事としてどう「生きる」かが問われているような、そういう問題として迫ってきます。自分の外部に答えがあるのではなく、自分の内部にしか答えがないような、そういう問いとして迫ってきます。
 若者ひとりひとりが「どう生きるか」は、ソクラテスにとっては知ったことではありません。というか、ソクラテスが知るわけもありません。「無知」です。若者が「どう生きるか」については、ソクラテスが外側から何なかの「知」を若者に付け加えてやることはできません。若者が「どう生きるか」は、自分の内側から産み出さなければならない知です。そしてそれこそが、他の何よりも重要な知であるはずです。「わたしはどう生きるべきか」という問いに対する答えは、「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」などという知よりも、圧倒的に決定的に重要な、人生に関わる知です。

わたし自身を知る

 「わたしはどういう人間か?」とか「わたしには何ができるか?」とか「わたしは何をしなければならないか?」とか「わたしはどうしたら幸せになれるか?」とか、つまり「わたしはどう生きるか?」という問いは、自分にとって最も重要な問いです。そして、自分以外の人間からは絶対にもたらされない知です。自分自身の内側から産み出さなければならない知です。しかし、こんなに難しいことはありません。「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のように、他人から正解が与えられるような知識であれば、どんなにラクチンなことでしょう。しかし自分がいちばん知りたいことを他人が与えてくれることは、絶対にありません。どうしても自分自身で産み出さなければなりません。他人から与えられることが絶対にないのに、どうしても自分自身の内側から産み出さなければらない知。それこそが「汝自身を知れ」という箴言の本当の意味なのかもしれません。
 だとすれば、実はソクラテスの「産婆術」は、どう生きればいいのか途方に暮れて悩んでいた若者たちが「自分を知る」ために、大きな手助けとなっていたのではないでしょうか。悩んで、迷って、苦しんで、話を聞いてもらいたくてソクラテスのもとにやってきた若者に対し、ソクラテスは外部から知識を与えてやるわけでもなく、ただ若者の話に耳を傾け、間違っているところは間違っていると指摘し、議論を整理し、よかったところは褒め、到達点をまとめてくれるだけです。あくまでも答えは若者自身が出さなくてはなりません。が、ソクラテスのように真摯に対話相手になってくれる人がいるだけで、どれだけ救いになることでしょうか。ソクラテスとの対話を通じて、自分の内側に自分なりの答えを見つけた若者もいたことでしょう。
 (以上の見解は、プラトンが残したテキストから直接に読み取れるものではありません。教育学的想像力の産物とでも言えるものだということは、いちおう記しておきます。)

エロス

 そうやって、迷って、悩んで、苦しんだ若者たちがソクラテスのもとにやってきて、ソクラテスも喜んで若者たちの話に耳を傾けて、ひとりひとりがそれぞれの「生き方」を見つけていく。それはそれで美しい光景です。が、そうやってソクラテスのもとにやってくる若者はいいのですが、やってこない人たちはどうなるのでしょうか?

陣痛を起こす力

 プラトンはそういう事情を「陣痛」という言葉で表現しています。陣痛が起った若者は、自分の内側にある何者かを産み出す必要に迫られて、産婆術の達人ソクラテスのもとにやってきます。しかし陣痛が起こっていない者には、そもそも産婆は必要ありません。産婆術の出番もありません。
 が、『テアイテトス』の中でソクラテスはなかなか凄いことを言っています。彼には対話相手に「陣痛」を引き起す力があるようなのです。つまり、相手の内側に何かを生じさせる力があるようなのです。『テアイテトス』では、プラトンの数学趣味によって本来のソクラテスの姿が失われている恐れがあるので、他の著作も合わせて総合的にソクラテスの「陣痛を起こす力」を考えてみましょう。たとえば『饗宴』と『パイドロス』に記されたエロスの話は、このテーマを考える上で、なかなか興味深いものです。

恋愛の達人ソクラテス

 『パイドロス』の中で、ソクラテスは恋愛についてよく知っていると言っています。何も知らないと自称している割には、恋愛については自信があるようです。結論だけ先に示すと、ソクラテスは恋愛を「美しいものの内部で出産を願う」ことだと言っています。この「出産」という言葉に注目しましょう。「出産」するためには、そのまえに「陣痛」が起こらなければいけません。逆に言えば、陣痛さえ起これば、あとは産婆術の領域です。恋愛→陣痛→産婆術→出産という順番を踏まえると、産婆術の領域に相手を引き込むには、相手を「恋愛」に巻き込めばいいことが分かります。ソクラテスの「陣痛を起こす力がある(テアイテトス)」という証言と「恋愛はよく知っている(パイドロス)」という証言を合わせて解釈すれば、彼には相手の心の中に恋心を引き起すことで結果的に産婆術の世界に引き入れるような、そういう技術があったと考えてよさそうです。

恋の対象

 とはいえ、もちろんソクラテスが言う恋愛は、世間一般で言う「恋愛」とはかなり意味が違っています。特に重要なのは、ソクラテスの言う「恋愛」には肉体的な欲望が伴っていないということです。実際に『饗宴』では、肉体的な欲望を強靱な精神力で押さえつけるソクラテスの姿が描かれています。
 ソクラテスの言う「恋愛」とは、「精神的な恋愛」を意味しています(世間的にはこれを「プラトンの恋愛=プラトニック・ラブ」と呼んでいるようです)。われわれは、美しく、素晴らしい、価値あるものに対して、心惹かれます。そしてその美しいものとは、目に見える美しさもあるでしょうが、心の目で見えるような美しさにはよりいっそう魅力を感じます。そういう価値あるものに、われわれは近づきたいと願い、求め、行動します。そうやって人々を価値ある美しいものに向かわせる動きを、ソクラテスは「エロス」と呼んでいます。エロス自身は美しいものではありません。なぜなら自分自身が完全に美しいものであったら、自分自身に留まって、敢えて外部の美しいものに向かおうとはしないだろうからです。自分自身が美しいものではないから、美しいものに惹かれるわけです。そしてまた完全に醜いものではありません。完全に醜いものは、美しいものの素晴らしさに気がつかないだろうからです。だからエロスとは、美しいものと醜いものの中間(メディア)です。
 ソクラテスは、究極に美しいものは「神」だけだと言います。そして「エロス」の働きによって、われわれのような不完全な人間が完全なる神に憧れるのだと言います。われわれは何も知らない無知な存在ではあるけれども、エロスの働きによって完全な美である神に向かっていきます。ソクラテスが人間の身でありながら「神の知」を求めてやまないのも、エロスの働きによるものです。

マニア=狂気こそが神に到達する

 ソクラテスが「エロス」というものを完全なる神と不完全なる人間の「中間=メディア=媒介物」だとしていることは、教育学的に重要な示唆だと思います。完全性への憧れを芽生えさせる「媒介物」は、ソクラテスの文脈で言えば「美しいもの」となるわけですが、おそらく人の興味関心をかき立てるようなものであればなんでも構わないに思われます。たとえば、「鉄道」でも、「切手収集」でも、「アニメ」でもいいでしょう。
 というのは、ソクラテスが言うには、人間の身でありながら神の領域に到達する奇跡を起こすには、尋常の常識的努力では絶対不可能で、「狂気」に陥って人間を超える必要があります。そしてこの「狂気」とは、ギリシア語では「マニア」です。「マニア」になった者だけが、人間の常識を遙かに超えて、神の領域へと到達することができます。「鉄道マニア」も「切手収集マニア」も狂気=マニアに陥っているという点では同じわけですが、このとき鉄道マニアや切手収集マニアは、その「媒介物=メディア」を通じて、憧れの「神の領域=真善美そのもの」に到達しているということです。
 逆に言えば、「媒介物=メディア」の工夫によって、人々を「狂気=マニア」の世界へと誘い、「神の領域=真善美そのもの」への憧れを掻き立てることができるということです。子供たちを「狂気=マニア」に陥らせるような「教材=メディア」を提供できれば、子供たちの中に「神の領域=真善美そのもの」への憧れを生み出せるかもしれません。
 そうやっていったん「神の領域=真善美そのもの」への憧れ=エロスさえ芽生えれば、時間が経てば自然に陣痛が起こり、あとは産婆術の領域の話になります。逆に言えば、この憧れが生じなかった者には、陣痛が起こらず、産婆術は何の役にも立ちません。「エロス」は、教育を可能とするエネルギーなのです。

【まとめ】魂の世話

 こうしてソクラテスは、「無知の知」の自覚のもと、若者たちの「エロス」を芽生えさせ、「産婆術」を駆使して、「汝自身を知れ」という神の教えを実践するために、「魂の世話」を勧めて回りました。

ソクラテスの処刑

 ソクラテスが見るところ、人々は、人生で大切なものについて大きな勘違いをしていました。お金とか、名誉とか、そんなものを皆が大事にしています。しかし「無知の知」の自覚のもとで吟味してみれば、お金や名誉などというものが人生で最重要なテーマになるわけがないことが分かります。大事なことは、「神の知」に辿り着くことができなくとも、それに憧れて向かって行くことです。それは、自分自身の中にたったひとつだけある「魂」を大事にすることです。しかしその最も大切なものであるはずの「魂」を、誰もがないがしろにしています。ソクラテスは、そんなことでは絶対に幸せになることができないと確信し、人々に「魂の世話」をするように説いて回りました。人生で本当に大切な「汝自身」に気づくための「産婆術」であり、手助けを可能とするための「エロス」なのです。
 しかしそんなソクラテスが、裁判にかけられ、処刑されます。紀元前399年のことです。ソクラテスは町の有力者たちから憎まれていました。町の有力者たちは、「自分は何でも知っている」と豪語していましたが、ことごとくソクラテスによって「実はバカ」だったことを暴かれていました。恥をかかされた有力者たちは、ソクラテスを憎むようになっていたのです。ソクラテスを亡き者にしてやろうと狙っていた人々は、ついにデタラメな言いがかりをつけて、処刑に追い込んだのでした。

死ぬことは怖くない

 しかし死刑に処されるソクラテスの態度は、極めて堂々としていました。まるで「死」を恐れていないようでした。実際、ソクラテスは「死」を恐れていませんでした。なぜなら、ソクラテスが言うには、死んだ後のことは誰も知らないからです。「死」が本当に嫌なものかどうか、確かめた人は一人もいないのです、それを知っているのは「神」だけです。自分が知らないようなものについて考えても仕方ありません。ひょっとしたら、「死」というものはとても素晴らしいものかもしれません。知らないものは知らないと認める、だから「死」は怖くない。これがソクラテスの理屈でした。
 いやまあ、理屈はそうかもしれません。が、実際に自分が処刑されるまさにその瞬間ですら、そういう態度でいられるなんて、ちょっと信じられない凄さです。凄い。言うことと行動が一致しているということで「言行一致」という言葉がありますが、まさにソクラテスは言行一致の人物でした。いや、言行一致なんて言っても生ぬるい気がします。「言」と「行」がまったく分離していない、そういう本物の「神の知」を最後の最後まで追究し続けた人物でした。
 この態度こそが、彼の言葉に圧倒的な説得力を持たせています。彼は本当に最後まで自分の「魂」の世話を大切にしていたのでした。

参考文献:ソクラテス教育の先行研究

林竹二著作集1『知識による救い―ソクラテス論考』
 ソクラテスの教育について原理的に興味深い考察を加えているだけでなく、さらにその理論をもとにして実際の対話的授業を作り上げており、著者本人の生き方もソクラテスのような言行一致なところが凄い。

村井実『ソクラテスの思想と教育』
 単にソクラテスの教育を客観的に理解しようとするだけでなく、そこから得た知見を自分の教育学体系全体に行き渡らせるような、主体的に対象を捉える渾身の研究姿勢が、凄い。

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 この領域の開拓者として敬意を払うべき研究。

北畠知量『ソクラテス―魂の教育について』
 独創的な研究だとは思うけれど、個人的には違和感が残る。自分をいくつかに分割するのって、ソクラテスの本意かどうか。

参考文献:ソクラテスに関する先行研究

稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』
田中美知太郎『ソクラテス』
岩田靖夫『増補ソクラテス』
F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

→参考:研究ノート『プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法―』

プラトンの教育思想―善のイデアを見る哲学的対話法―

ソクラテスは教育で、プラトンは教育「論」

 このページでは、プラトンの教育論について考えていきます。
 ちなみに、ソクラテスについては彼の行った「教育」について考えるのに対し、プラトンについては彼が語った教育【論】について考えます。「教育」と「教育論」では、考えるべきことは全然違ってきます。というのは、「教育」は現実に行われた取り組みを指しますが、「教育論」の方は現実に行われるかどうかに関係なく頭のなかで考えられた思想を指すからです。実際に行われた「教育」と、頭のなかで構想された「教育論」では、評価する観点がまったく変わってきます。

ソクラテスの教育との比較

 ソクラテスとの比較で、まず事実として重要なのは、ソクラテス本人が自分の「教育論」をなに一つ残していないということです。ソクラテスは文章を書き残していないので、彼が何を考えていたかを本人の口から聞くことは、残念ながら絶対にできません。ただし、彼が実行したことについては、他の人が書き残した記録から推測することができます。特にプラトンが書き残した記録には、ソクラテスの言動が活き活きと描写されています。ソクラテスの人となりまで眼前にまざまざと思い浮かべることができるような、超一級品の文学作品です。プラトンの作家としての力量がズバ抜けていたことが分かります。が、逆に言えば、どこまでが実際にソクラテスが行ったことでどこからがプラトンの創作なのか、見極めることはとても難しいわけです。

プラトンの教育と、教育論

 一方、プラトンが実際に行った「教育」についても、そこそこ記録が残っています。プラトンは「アカデメイア」という学園を作り、そこで弟子たちを育成しました。プラトンが亡くなった後もアカデメイアは存続します。様々な史料が残され、そこで実際に行われていた教育の姿をある程度は再構成することができます。
 が、このページではアカデメイアで行われていた教育については直接触れません。考察の対象にするのは、プラトンが実際に行った「教育」ではなく、彼が構想した「教育論」です。

プラトンの教育論(本筋)

 そんなわけで、さっそくプラトンの教育論について確認していきましょう。プラトンはたくさんの本を書き残していますが、教育論に関しては、特に『国家』という本と『法律』という本が重要です。ただし、内容を精査すると、お互いに矛盾するような記述も多く、全体的・統一的・総合的に理解するのはなかなか厄介です。ということで、細かい矛盾には目をつぶって、まずは大雑把にプラトンが本当に言いたいことを理解することに努めてみましょう。

教育とは知識の獲得ではない

 まずプラトンは、教育に関して世間の人々が抱いている勘違いを糾弾します。世間の人々は、教育を「知識の獲得」と勘違いしています。当時、ギリシアでは自分を教師と称して、お金をとって教育をする人々が活躍していました。彼ら自称教師のことを「ソフィスト」と呼びますが、プラトンは彼らの教育を徹底的に批判します。ソフィストたちがやっているような、人間の外側から知識を注入しようとする試みを、プラトンは断じて「教育」だとは認めません(518B)。では、プラトンが主張する本物の教育とは何でしょうか?

哲学的対話法

 結論だけ示しておくと、プラトンが言う本物の教育とは、「哲学的問答法」です。この学問だけが人間を「確実な知識」へと導いてくれます。他の学問では、「確実な知識」へと辿り着くことは絶対にできません。
 しかし問題は、この教育の真の姿である「哲学的問答法」というものが具体的にどのようなものであるかが、プラトンの記述そのものからは分からないというところにあります。手がかりはたくさん与えられているので、少しずつ確認していきましょう。

「確実な知識」を求めて

 まず、先に「哲学的問答法だけが人間を確実な知識へと導いてくれる」と書いたわけですが、そもそも「確実な知識」とはどういうものでしょうか。実はプラトンは「確実な知識とは何か?」という問題に徹底的にこだわっていて、まずはこれを明らかにしないと彼の教育論そのものを理解することができません。
 まずプラトンが否定するのは「感覚」です。感覚を通じて「確実な知識」に到達することは絶対に不可能だと、繰り返し主張しています。例えば同じ対象を見るにしても、見る人の精神的状態が違っていたり、あるいは部屋の明るさなど環境が異なれば、人に与えられる感覚はまったく違ってきます。条件が違えば変わってしまうような曖昧なものを「確実な知識」と呼ぶわけにはいきません。
 つまりプラトンが言う「確実な知識」とは、どんなに環境や条件が変わろうが、場所や時代が違っていようが、絶対に変わることのない知識のことです。平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わらない知識、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わらない知識こそが、追い求めるべき「確実な知識」です。

数学の重要性

 そんな時代や場所によって変わらないような「確実な知識」が本当にあるのか?と聞かれたら、自信を持って「ある」と言いましょう。たとえば、「三角形の内角の和は二直角と等しい」という事実は、平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わりませんし、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わりません。「数学」の知識は、場所や時代によって変わることがないものと言えそうです。ということで、プラトンは「数学」を極めて重要視し、最終目的である「哲学的問答法」に到達する前に必ず「数学」を修得するべきことを主張しました。プラトンの言うことに従うなら、数学が理解できない人に学問をする資格はありません。
 (そして、このようにプラトンが数学を重視することに対して、ピュタゴラス派が極めて大きな影響を与えただろうことが指摘されています。たぶん、そうでしょう。が、このページでは検証しません。)

数学に足りないもの

 しかしプラトンは、数学では最終的な「確実な知識」には手が届かないと言います。確かに数学的な手続きを踏んでいけば、一つの決まったゴールに辿り着くことができます。数学の「手続き」や「ゴール」にはまったく問題がありません。問題は、「スタート」にあります。どうしてその「スタート」で良いのか、数学そのものは決して答えてくれません。確かに、いったん「スタート」が正しいと認めてしまえば、あとは決められた手続きに従えば一つの答えを出すことができます。が、しかし、その「スタート」そのものが正しいかどうかは、数学そのものの手続きでは決して分からないのです。
 たとえばユークリッド幾何学は、まずいくつかの定義と公準と公理を無条件に承認するところからスタートします。いったん定義と公準と公理を認めてしまえば、あとは手続きに従っていけば必ず一つの決まった答えに辿り着くことができます。しかしそもそも最初に承認した定義と公準と公理が本当に正しいかどうかは、ユークリッド幾何学の手続きでは確認することができません。そこは無条件に「信仰」するしかありません。プラトンはそれを問題視したわけです。本当に正しいかどうかを自分で確認してもいないものなんか、無条件に信じることなどできない、ということです。

演繹と前提さかのぼり法

 数学の方法とは、「演繹」です。ある前提が与えられると、そこから論理的な手続きを正確に辿りさえすれば、確実に真理を導き出すことができます。真理を導く手続きに「感覚」の手を借りる必要は一切ありません。「感覚」を必要とせずに真理を導き出せるところに、数学の素晴らしさがあったわけです。ところがこの「演繹」という手続きを進めるためには、まず何らかの前提が必要となります。まずは前提が与えられなければ、演繹という手続きを始めることすらできません。無条件な「前提」を必要とすることが数学の弱点だと、プラトンは見なします。「本物の知識」に辿り着くためには、「前提」そのものが正しいかどうかを確認するために、数学の「演繹」とは違う手続きが必要となります。その手続きをプラトンは「仮設廃棄」と呼びます。
 数学は何かを「仮設」するところから議論を始めるけれども、しかし本物の知識に辿り着くためには、その仮設を廃棄して、さらに根源的な仮設へと遡っていく必要があります。そうやって次々と仮設を廃棄していって、もうこれ以上は遡れないというところまで辿り着いた時、そこが究極的な出発点となるはずです。これは「演繹」という手続きとは、まったく反対の手続きです。一般的には「演繹」の反対は「帰納」ということになっていますが、プラトンには通用しません。プラトンにとっては、「演繹」の反対は「仮設廃棄」です。私個人は「仮設廃棄」という言葉よりも「前提をさかのぼる」と言ったほうが分かりやすいので、そう呼びます。「演繹」という言葉も分かりにくいので、「前提から引き出す」とでも呼びましょうか。

善のイデア

 このように、前提から結論を引き出す数学の手続きとはまったく反対に、前提をさかのぼっていくのが哲学的対話法という手続きです。そしていったん遡りはじめたら、究極的な始原に辿り着くまで遡りつづけなければなりません。プラトンの言うところによれば、この究極的な始原こそが「善のイデア」ということになります。
 ということで、結論だけ言えば「善のイデア」を認識することが教育の目的ということになるわけです。が、どのように具体的な哲学的対話を通じて「善のイデア」に到達するのか、それはプラトンの著作そのものから端的に引用することはできません。ここは、プラトンの著作の全体から総合的に感得すべきものということになるでしょう。事ここに至れば、もはや、プラトンの著作すべてが総合的に「教育」なのだと言うしかないところであります、恐縮です。

国家の存在意義としての教育

 ここまでして教育に注意しなければならないのは、プラトンにとっては、教育こそが国家が存在する理由だからです。国家は、ただ人々を生存させるために存在しているわけではありません。人々を善い人生へと向かわせるために存在しています。教育をしない国家は、国家としての存在価値がないわけです。
 しばしばプラトンの著書『国家』の主題は何かについて議論されることがありますが、私に言わせれば、その主題は「教育」で間違いありません。なぜなら、理想の国家について論じることはすなわち理想の教育について論じることだからです。教育に触れずに国家について語ることなど、プラトンには想像もできないことです。国家のあり方と教育のあり方は一体となって構想されなければいけません。その姿勢は最晩年の著作であろう『法律』でもまったく変わっていません。

プラトンの教育論(脇筋)

 さて、以上、プラトン教育論の本筋を確認したわけですが、この本筋から様々な教育的見解が派生します。脇筋とはいえ、教育論として無視できない内容が満載ですので、確認していきましょう。

体育と音楽・文芸

 さて、プラトンが数学を重視していたことはすでに確認しましたが、数学を学習する前の小さな子供たちには、まず体育と音楽・文芸を課すことを提唱しています。まず最重要ポイントは、「体育」といっても、体力を養うことを目的としていないということです。プラトンが「体育」を重視するのは、それが体力や健康の増進に役立つからではなく、「魂」を養うことに大きな意味があるからです。
 プラトンによれば、人間の魂は3つの部分が組み合わさってできています。すなわち、「理知的/気概的/欲望的」な部分です。この魂の部分のうち、「欲望的」な部分が突出するとケダモノのようなダメ人間になってしまいます。「理知的」な部分と「気概的」な部分が協力して「欲望的」な部分を押さえつけることで、立派な人間になることができます。そして数学は「理知的」な部分を成長させるのに大きな役割を果たすのですが、小さな子供にはまだ数学を理解することは不可能です。そこで、まずは「気概的」な部分を成長させ、これに「欲望的」な部分を押さえ込ませようとするわけです。この「気概的」な部分を成長させるために必要なのが、「体育」ということになります。だから「体育」とは体力や健康のために課すのではなく、魂の「気概的」な部分の成長のために課すべきものとなるわけです。
 しかし「気概」的な部分が突出して成長すると、単に粗野で乱暴な人間になってしまいます。これはプラトンの望むところではありません。そこで、「気概」的な部分を穏やかに落ち着かせるために、「音楽・文芸」を課すことにします。というわけで、この「音楽・文芸」も、単に子供を趣味人にするために課すわけではなく、「魂」の調和のために必要な学科ということになります。
 プラトンは、子供たちの魂の調和を図るために、まず「音楽・文芸」を課して気概的部分を手懐け、その後に「体育」によって気概的部分を発達させようと主張します。こうして気概的部分が調和的に発達して欲望的部分を押さえつけることに成功した後に、満を持して数学の勉強に入ろうというわけです。

エリート主義

 しかし、気概的部分が調和的に発達すれば問題ありませんが、うまくいかない場合もあるのではないでしょうか? プラトンは、うまく成長しなかった子供は、どんどん教育から脱落させていきます。欲望的部分が優位になってしまった人間は、それに相応しい低レベルな仕事に従事させればいいのであって、さらに高度な勉強をさせる必要はないというわけです。
 そんなわけで、プラトンの教育とは、万人に平等に与えられるものなどではなく、落ちこぼれを次々と排除して、最終的にエリートを選抜するものです。恐ろしいことに、この落ちこぼれの排除は、赤ん坊の誕生直後どころか、男女の結婚の過程から開始されます。赤ん坊は、誕生直後に精査され、ダメな赤ん坊は無慈悲に排除されます。ダメな赤ん坊が生まれてこないように、男女の結婚や性交渉も厳しく制限されます。プラトンの教育は、「優生主義」を背景にして成立しています。だから「数学なんてわかんない」なんてプラトンに言おうものなら、人間失格扱いになること間違いありません。

男女平等

 しかし逆に言えば、体育と音楽・文芸によって気概的部分を手懐け、さらに数学の学習にも素質を示すようであれば、男女の性差など問題になりません。優秀な女性は、とうぜん男性と混ざって高等教育を受けるべきだという話になります。プラトンが「理性」という観点から男女を完全に対等な存在と見ていることは、彼の教育論を考える上で重要な論点となります。

有害な物語の排除

 さて、小さな子供たちの教育を、まず音楽・文芸から始めるべきことは先ほど確認しました。どのような音楽・文芸を子供に与えるべきかについて、プラトンは極めて長い議論をしています。簡単にまとめると、教育にとって有害な物語は子供たちから遠ざけるべきだという議論です。人生経験が豊富な大人にとっては娯楽的作品であっても、何でも素直に受けとってしまう子供に対しては有害な影響を与えてしまうことがあると、プラトンは言います。具体的には、神々に関する物語が問題となります。
 このように有害な物語を排除しようとするプラトンの姿勢は、もちろん後の人々から批判の対象となりますが、彼の教育論を考える上で一つの重要な論点となります。

自由と遊び

 さて、音楽・文芸と体育の課程を終えて素質があると認められた子供たちは、次に数学の勉強をすることになるわけですが、ここでプラトンは学習を強制するべきではないと主張します。子供たちの自発性に任せて、遊ぶように学習させるべきだと言います。理由は主に二つあって、一つは強制的に学習させられても身につかないという実践的な理由です。もう一つは、最終的に哲学的対話法を身につけなければならない人間にとって、強制されて学習するなどということはあってはならないという理念的な理由です。このあたりは、近年の学習指導要領の「新学力観」にも通じる論理で、彼の教育論を考える上で一つの論点となります。

実用主義の排除

 そうして子供たちは数学の学習を始めますが、プラトンが注意するのは、その数学が実用的なものではあってはならないということです。具体的には、商売に役立つために数学を身につけるわけではないということです。数学はあくまでも普遍的な知識への到達を目指し、魂を向上させるために身につけるべきものです。
この姿勢は最晩年の著作『法律』まで貫かれていて、数学だけに限った話ではなく、プラトンにとっての教育とは決して職業に就くための知識や技術を身につけるものではなく、「人間」となるための「普通教育」です。
 この実用主義・職業教育の排除は、近代的な普通教育の理念を考える上でも一つの論点となります。

学問の総合

 これまで「数学」と無造作に言ってきましたが、プラトンの言う数学は我々の考える数学とは範囲や内容が少しズレているかもしれません。プラトンは数学を、(1)算術(2)幾何学(3)立体幾何学(4)天文学というふうに発展していくものと構想しています。これは単純に見れば、一次元→二次元→三次元→円運動というカリキュラム構想となっています。
 そしてすべての課程を終えた際には、それらの学問をバラバラで雑多な知識として考えるのではなく、統一的・総合的に学問を把握することを求めています。単なる知識の習得ではなく、原理の理解を要求していると言えるでしょう。そうでなければ、次のステップである哲学的問答法を始めることなどできません。
 この論点は、学習指導要領の言う「深い学び」という言葉にも通じるものであり、彼の教育を考える上でも一つの論点となります。

まとめ:ソクラテスの教育との違い

 以上、プラトンの教育論について確認してきました。私が個人的に思うところでは、重要なのは、枝葉末節にとらわれず、まず論理の根幹をしっかりと把握することです。決定的に重要なのは、「善のイデア」に対する理解です。そして、それを踏まえると、雑多に伸びているようにしか見えない枝や葉についても理解することは容易であるように思います。逆に言えば、「善のイデア」について把握する前に細々とした論点に手を出しても、おそらく何も分からずに終わります。
 ちなみに、「善のイデア」の理解とは、教科書に書いてあることを頭で理解するような、そんなレベルの話ではありません。最終的には「生き様」の問題となります。ささっとレポートを書くためにインターネットを検索しまくっている限り、一生かかっても「善のイデア」を理解することはないでしょう。(まあ、理解しなかったところで、日常生活では何の問題もありませんけどね。なぜなら、プラトンの理屈では、理解するのは一握りのエリートだけで充分なのだから…)

ソクラテスとの比較

 で、ここがソクラテスと決定的に違ってくるところかもしれません。ソクラテスの行動を見る限り、彼にはエリート主義というものが見当たりません。老若男女、どんな人間に対しても分け隔てることなく接しているように見えます。ソクラテスは、誰でも必ず「人間並の知」には辿り着くことができると考えているように見えます。ただし、ソクラテスは「人間の知」と「神の知」を厳密に分けて、我々が到達できるのはしょせんは「人間の知」に過ぎないと自覚すべきことを唱えます。ソクラテスが言う「人間並みの知=無知の知」は、知ろうと思えば知ることができるような知識について語っているのではなく、人間の力では絶対に到達することが不可能であるような、原理的で絶対的な「無知」を相手にしています。人間がたどり着ける最高の知とは、「どんなに頑張っても絶対に知り得ないことがある」ということを知っているということです。
 それに対してプラトンは、「神の知」にまで到達しようと試みているように見えます。哲学的問答法は、そのための手段です。しかし問題は、本当に我々の力で「神の知」に到達できるかということです。これがおそらくソクラテスの言うとおり原理的に不可能であったことは、20世紀になってヒルベルトやフレーゲやラッセルやゲーデルら数学者の仕事によって明らかになっていくことでしょう(ただし「人間の知」を「有限の立場」と同じと見なすかどうかなど、なかなか厄介な話ではありますが……)。

参考文献:プラトン教育論の先行研究

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 プラトン『国家』の主題が教育にあると断じており、とてもありがたい本。著者は日本の道徳教育を作り上げる際にも大きな役割を果たしており、その理論的な土台としても注目される。

稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』
 プラトンの教育論をどのように実際の道徳教育に活かすかという課題に果敢に挑戦している。

ネトゥルシップ『プラトンの教育論』
 プラトン『国家』の中に雑多に散らばっている教育論を統一的に理解しようとしている。

参考文献:プラトンの著作

 教育に直接関係するのは特に『国家』と『法律』だが、教育が主要テーマでないものであっても、その対話形式自体がすでに教育だったりするので侮れない。また内容的にも一貫して「知識とは何か」がテーマになっており、著作すべてが教育に関係しているとも言える。中でも『ゴルギアス』『プロタゴラス』『メノン』は、ソフィストを相手にしながら「本物の知識」とは何かを追究しており、教育論を考える上では外せない。さらに『テアイテトス』は産婆術についてのまとまった記述があり、プラトンの教育論を考える上でも重要な本となっている。まあ、全部読んでおこうということだな。

『ソクラテスの弁明・クリトン』
『パイドン』
『饗宴』
『ゴルギアス』
『プロタゴラス』
『パイドロス』
『メノン』
『国家』
『テアイテトス』
『法律』

参考文献:プラトンに関する先行研究

 『国家』はプラトンの著作の中でも特に重要なものと衆目が一致しており、先行研究も多い。そして『国家』の本質を教育論と見なさない立場であっても、もちろん教育を無視して『国家』を語れるわけがない。以下の文献は、教育そのものを追究課題としているわけではないものの、プラトンの教育論を考える上で参考になるような様々な視点を与えてくれる。

内山勝利『対話という思想』
納富信留『プラトン 理想国の現在』
納富信留『ソフィストとは誰か』
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

「学力」とは何か?―学校教育法の定義と背景―

「学力」とは何かについて考える前に

そもそも「学力とは何か?」という定義が怪しい

 世間では「学力低下」に関して様々な議論が行われていますが、しかし実は「そもそも学力とは何か?」について、人々の間で一致した定義があるわけではありません。勝手に自分の頭の中で思い込んだ「学力」について、それぞれ勝手に意見を述べているに過ぎないことが多いのですね。「学力」と言ったり言われたりした瞬間、何を対象にしているか分かったつもりになってしまいます。ここで、改めて定義を決めておこうと立ち止まる人々は、そう多くありません。しかし、「学力」の定義を共有していないとき、「学力が低下した」とか「低下していない」などと言い合っても、そもそも何を対象に議論しているのかが分かっていないのだから、話が噛み合うわけがありません。ひどい場合では、一人の論者が、文脈によって自分に都合良く「学力」の定義をコロコロ変えている場合だってあります。
 そんなわけで、「学力」に関して話をしようとする場合、まず「学力」という言葉で具体的に何を対象にしているのか、最初に明らかにしておく必要があります。誰かが「学力」と言っているとき(あるいは自分が「学力」と口走ってしまったとき)、そもそもその言葉が具体的に何を対象としているか、「ちょっと待てよ」と立ち止まって確認したほうがいいわけですね。

このページの「学力」とは何か?

 そういうわけで、このページでは、「学力」のことを「文部科学省が定義している学力」として解説しています。私自身が考える「学力」ではありません。

法律による「学力」の定義

学校教育法第30条

 日本では、2007年、法律によって「学力」が定義されました。そもそも「学力」という言葉自体が外国語に翻訳しにくいものではありますが、「学力」のような教育目的に関わるものを法律で決めている国は、他にはありません。このことは、日本の教育を考える上で、とても重要な事実です。
 教育の内容に関わることを法律で決めることが可能かどうか、あるいはいいことかどうかについて、本当は腰を据えて考察する必要がありますが、まずは文部科学省が何を言っているかしっかり確認しておきましょう。「学力」は、以下に引用する「学校教育法」第30条2項で規定されています。

前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
(「学校教育法」)

 この規定の大きな特徴は、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものが示されていることです。学力の3つの要素を、文部科学省自身は以下のようにまとめています。

(1)基礎的・基本的な知識・技能。
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等。
(3)主体的に学習に取り組む態度。
(文部科学省「学習指導要領「生きる力」」)

 この学力の三要素は、「学習指導要領」の目標規定や「全国学力・学習状況調査」の方向性など、様々な場面で繰り返し用いられており、文部科学省の方針にとって最も重要な土台になっています。たとえば具体的には、各教科の目標や評価は全てこの学力の三要素に沿って記述されています。逆に言えば、国語や算数などの目標を理解するには、単にそれぞれの教科について知るだけでは不十分で、しっかり学力の三要素から理解しておく必要があるわけです。

文部科学省による「学力」定義の背景

 このように「学力」を定義した背景を、文部科学省自身は以下のように説明しています。要するに、世の中が変わったから、それに対応して教育も変わらなくてはいけないということで、法律によって「学力」の定義を行ったということになります。

知識基盤社会の到来や、グローバル化の進展など急速に社会が変化する中、次代を担う子どもたちには、幅広い知識と柔軟な思考力に基づいて判断することや、他者と切磋琢磨しつつ異なる文化や歴史に立脚する人々との共存を図ることなど、変化に対応する能力や資質が一層求められている。一方、近年の国内外の学力調査の結果などから、我が国の子どもたちには思考力・判断力・表現力等に課題がみられる。これら子どもたちをとりまく現状や課題等を踏まえ、平成17年4月から、中央教育審議会において教育課程の基準全体の見直しについて審議が行われた。
この見直しの検討が進められる一方で、教育基本法、学校教育法が改正され、知・徳・体のバランス(教育基本法第2条第1号)を重視し、学校教育においてはこれらを調和的に育むことが必要である旨が法律上規定された。さらに、学校教育法第30条の第2項において、同法第21条に掲げる目標を達成する際に、留意しなければならないことが次のように規定された。
(『言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】』)

 そんなわけで、「学力」の定義が適切かどうかは、現状を正確に把握しているかどうかが最重大ポイントになります。具体的には、上の文章に出てくる「知識基盤社会」とか「グローバル化の進展」というものを正確に捉えることができているかどうかが大事になるわけです。
 また、上の文章で「我が国の子どもたち」の「課題」と言っているのは、具体的にはOECD主催によるPISA調査の結果が芳しくないことを意味しています。特に「PISAショック」と呼ばれる出来事は、「学力」に関わる議論に大きな影響を与えました。だから文部科学省の教育方針を理解するためには、「PISAショック」について把握しておく必要があります。
 ということで、「学力」の定義が適切かどうかを判断するために、学力定義の背景となっている「知識基盤社会」と「PISAショック」を確認しておきましょう。

知識基盤社会

 「知識基盤社会」とは、英語ではknowledge-based societyであり、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増すような世の中を意味します。文部科学省自身は、「知識基盤社会」について以下のように述べています。

我が国が科学技術創造立国の実現に向けて世界をリードし、成長し続けるためには、イノベーションを絶え間なく創造できる人材の育成が求められている。「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展等により、産業構造の変化も急速に進んでいる現代においては、多種多様な個々人が力を最大限発揮でき、それらが結集されるチーム力が必要とされている。(知識基盤社会が求める人材像、2009年)

 つまり知識基盤社会に対応した人材を育成するとは、子供の自己実現や人格の完成を尊重するというよりは、日本が「世界をリード」したり「国際競争」を勝ち抜くために必要な人材を供給することを意味しているようですね。
 そして、文中で言われている「産業構造の変化」については、内容をしっかり把握しておく必要があります。おおまかには、製造業が衰退して、IT産業が発展することを意味しています。産業構造が転換すると、社会が必要とする人材が大きく変化します。社会が必要とする人材が変化すると、社会に人材を供給する教育も変わらなくてはなりません。教育の変化の背景には「産業構造の変化」があり、そういう事態を端的に表す言葉が「知識基盤社会」となるわけです。
(ちなみに2021年現在においては、「知識基盤社会」という言葉はほとんど使われないようになり、代わりに「Society5.0」という言葉が頻繁に使われるようになっていますが、伝えたいだろう内容はそんなに違っているわけではありません。)

PISAショックと全国学力・学習状況調査

 PISA調査とは、OECDが主催する「学習到達度調査(Programme for International Student Assessment)」のことです。16歳を対象とし(日本では高校1年生対象)、文章読解力や数学的・科学的リテラシーがどれだけ身についているかを調査しています。
 PISA調査を主催するOECDとは、「経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)」であり、つまり教育に関係する組織ではなく、経済発展に関係する組織です。PISA調査は教育的な観点から作られているというよりも、どれだけ経済発展に貢献する能力があるかという観点から作られていると言えるかもしれません。
 このPISA調査に関して、2003年と2006年の調査で日本の国際的順位が大幅に下がり、日本の教育関係者一同が衝撃を受けた事件を「PISAショック」と呼んでいます。既にゆとり教育に対する危惧が各方面から上がっていましたが、この結果を受けてゆとり教育見直しの方向性が決定的となりました。しかし2009年と2012年の調査では順位が上昇しており、しかもこの世代はゆとり教育を受けた世代だったこともあって、ゆとり教育の効果については改めて精査するべきだという意見も根強いところです。また2003年と2006年の調査が実態を反映しているかどうかも専門的には疑わしく、マスコミが大袈裟におもしろおかしく学力低下を騒ぎたて、それに教育産業が便乗して公教育を不当に貶めていた可能性は考慮した方がよいでしょう。
 また、文部科学省は「全国学力・学習状況調査」を2007年より毎年実施することにしました。小6と中3を対象とし、悉皆調査として始まりました(民主党政権下でいったん抽出調査となりましたが、自民党政権に戻ったときに再び悉皆調査となりました)。問題の特徴は、基礎基本を聞くA問題と、活用力を問うB問題に分かれていたことです(この区別は2019年になくなりました)。いわゆるPISA調査が聞くような問題は、B問題に相当します。日本の子どもたちは活用力が弱いという認識と、これからの世界で必要となるのはPISA型学力であるという認識の下、思考力・判断力・表現力の向上を目指した学習指導要領の方針が定着しているかどうかを調査することが目的とされています。この調査は、PDCAサイクルのCheck(評価)の指標として機能し、学校現場の実践を望ましい方向(文科省にとって)に促すための「政策立案のための調査」として期待されています。しかし中途半端なことに、テストの結果を個々の生徒の指導にも活かそうという「指導のための調査」という性格も併せ持たされているために、何がしたいのかわからないものになりつつあります。

PISA型学力

 このPISA調査で測定される能力は、学校で伝統的に育成されていた19世紀型の知識ではありません。21世紀の社会を生き抜く上で必要となる新しい能力が想定されています。具体的には、OECDが2003年に組織したプロジェクトDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)によって定義された能力概念が採用されています。このDeSeCoは「人生の成功と正常に機能する社会(持続可能な発展)のためにどのような能力が必要かという課題に対して、人がもつべき知識や技能を超える能力群」としてコンピテンシー(能力)を定義しようとしたもので、特に重要なキーコンピテンシーが3つ定められています。すなわち、
(1)社会及び個人にとって、価値のある結果をもたらすこと。経済的、社会的な有益性。
(2)多様な状況の重要な課題に直面した時、適応を助けること。人生の多様な領域に渡る判断能力。
(3)特定の専門家(産業や職業、社会階層など)のみではなく、すべての人にとって重要であること。
 とされています。これらの能力は、先に確認した「知識基盤社会」に対応する能力と言えます。文部科学省は学習指導要領改訂作業の過程で、このDeSeCoの議論を詳細に検討し、「生きる力」概念の練り直しに反映させています。

世間が言う「学力」とのズレ

 ここまで見てくると、文部科学省の言う「学力」と、世間一般で考えられている「学力」とは、ずいぶん中身が違っていることが分かります。世間で言う「学力」とは、学校の勉強を通じて身についた「テストによって点数をつけられる」ような尺度のことです。逆に言えば「学力が高くても世間では役に立たない」などという言われかたもするような尺度です。一方、文部科学省の言う「学力」とは、徹底的に「世界で役に立つ力」を意味しています。さらに言えば、「学力」とは「これから訪れるであろう未来の世界で圧倒的に役に立つ力」を意味しています。世間でしばしば言われるような「学力が高くても世間では役に立たない」などという言葉は、文部科学省の定義では絶対に聞かれるはずがありません。
 このズレを承知していないと、学力が低下したのかどうかなど「学力」に関する議論をしても、話が噛み合うはずがないのです。

学力論争

 そんな認識のズレによって、いわゆる「学力論争」という、不毛な議論が発生することになります。文部科学省による「学力」の定義が成される以前、1999年から2001年あたりにかけて、教育界を越えて広範囲に「学力論争」と呼ばれる議論が沸き起こりました。具体的には「学力低下」が問題となりました。大学生の学力が低下しているという大学教員の主張からはじまり、初等中等教育でも学力が低下しているという危惧に発展し、様々な独自調査が行われ、客観的に見ても日本人の学力が低下しているというデータが提示され、PISA調査でも国際的な凋落が明らかとなり、文部科学省の政策が多方面から批判されるような事態に展開しました。
 一般マスコミ等でも「ゆとり教育」を取りあげるようになり、2001年2月には読売新聞がアンケート調査、同4月にはテレビ朝日ニュースステーションがアンケート調査を行い、いずれも「ゆとり教育」に対して「学力低下」を危惧する反対意見が多数という結果が出ています。
 この結果、2003年には学習指導要領の解釈が一部変更され、2006年の学校教育法における学力定義に繋がり、2008年の学習指導要領改訂では学習時間が増加に転じるなど、いわゆる「ゆとり教育」の転換が起こったとされています。

 が、残念ながら、学力論争のさなかにあって「学力とは何か」について真剣に考えた人は、そんなに多くありませんでした。目の前のゆとり教育をどうするかという政策論議に集中した結果、原理的なところまで思考が及ばなかったのかもしれません。学習指導要領の一部改訂によって学力論争が一段落する2003年以降になって、原理的に「学力」について考え直そうという動きが出てきたように思います。
 そして、今後も定期的に同じような騒動が繰返されることが容易に予想できます。教育に携わる者は、目の前の一時的な現象に一喜一憂することなく、「学力」について原理的に考える力をしっかり蓄えておきたいものです。

様々な「学力」の定義

 以上、文部科学省が定義する「学力」について見てきました。一方、もちろん文部科学省の定義以外にも、様々な論者が様々な立場から「学力」を定義し、議論しています。参考までに、いくつか引用します。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
「ここでは「学力」を英語の「achievement」として定義します。「学力」という言葉は、もともと「achievement」の翻訳語ですから、この定義に異議を唱える人はいないと思います。英語の「achievement」は、その名の通り「学校で教える内容」についての「学びによる到達」を意味しています。そして「学びによる到達」は、通常、テストで測定されます。「学力」という意味は、それだけの意味しか持っていません。この限定された意味で「学力」を定義したいと思います。」15-16頁
「学力は一種の貨幣なのです。」「第一に、学力は、貨幣と同様、評価基準として機能しています。」「学力は、むしろ、多様な異なる学びの経験を同一尺度で値踏みする評価基準であるところに機能的な意味を持っています。」「第二に、学力は、貨幣と同様、交換手段として機能しています。」「学力は、所有することを誰もが拒まない能力であることによって、受験の市場や労働の市場における交換手段として機能しています。学力は、入試や雇用の局面において、必ずしも一致しない採用者の要求と志願者の能力の関係を間接交換として合理化する機能を発揮しています。」「第三に、学力は、貨幣と同様、貯蓄手段として機能しています。」「学力も、貯蓄それ自体を欲望する唯一の教育概念であることによって、学習活動に計画性と継続性を与え、さらには貯蓄の欲望が投資としての教育活動の基礎になっています。」29頁

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
「学習してどこまで到達したかという、学んだ成果を示す「学力」のほかに、学ぶ力という意味での「学力」があり、この両者が一体となって、わが国では「学力」という言葉をかたちづくってきた」78頁

清水義範『行儀よくしろ。』ちくま新書、2003年
「学力なんて、学習したことをよく修得してテストでいい点が取れる、というだけのことなんですけど。そのいい点が取れる子は、知力が高いんでしょうか。」33頁
「人間にあらまほしきは知力である。学力は知力の一部分ではあるが、知力とイコールなのではない。」35頁

河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』岩波書店、2004年
「「学力低下」への危惧から、かつての行動主義に逆もどりしてしまいそうな昨今、ほんとうの「学力」というのは、社会の中で、文化的な実践の共同体に参加していく力であり、それはたんにいろいろな知識や技能の「リスト」を、反復練習で「習熟」していくことではありません。」149頁、佐伯執筆箇所

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
「人生のなかでの諸々の体験が、その人物の「人となり」、すなわち人柄や性格、あるいは容姿や体つきなどを形成していくのと全く同様の意味において、その人の「学力」は、その人物の経験の総体から導き出される。」26頁

斎藤孝『教育力』岩波新書、2007年
「「学力とは、そうやって点数ではかれるものばかりではない。本当の学力は違うのだ」と言う人もいるが、私の考えでは、学力ほどクリアに掴めるものはめったにない。算数や英語ができるかできないかというのは、きわめてクリアに点数に出るものなのだ。」95頁

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』東海教育研究所、2008年
「日本人の多くは、学校教育を通じて養われるものが「学力」だと信じて疑わぬようです。」(21頁)
「日本の学力観は「何を学んだか」を最重要視しますが、EUは学力観を「これから何ができるのか」にシフトしたのです。」12頁
「さまざまな人間のあいだで発揮される多様な能力――それを学力という。そう学力像は変わったのです。」16頁
「いまの日本に必要なことは、学力の詰め込みという教育観を変えることです。また受験や就職に役立つものが学力なのだという学力観を変えることです。」18頁

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「学力とは学ぶ力ではなく、学んで身につけた知的能力のことである。学校で教えていることとつながる知的能力である。社会や生産に直接役立つ知的能力のことではない。要するに、学力とは生徒(小学生から高校生ぐらいまでの)が身につけている知的能力なのである。世の中で知的能力の高い人を「あの人は学力が高い」とは言わない。学力は産業や行政や研究にすぐに通用する知的能力ではない。学校教育で言う知的能力のことである。」7頁

小笠原喜康『学力問題のウソ―なぜ日本の学力は低いのか』PHP新書、2008年
「「学力」は、単に個々人の表面的な能力の問題ではない。「ふるまい」の問題であり、「かかわり」の問題であり、「幸せ観」の問題である。ということは、すぐにその一人一人のかかわる共同体の問題となっていくことになる。」217頁

福田誠治『こうすれば日本も学力世界一―フィンランドから本物の教育を考える』朝日選書、2011年
「国民共通の基礎・基本という学力観は古い。学力はすでに国境を越えている。では人間共通の学力などあるのか、教育学的に見れば「人間誰もに共通する基礎・基本などない」と言うべきだろう。なぜなら、物理学者の基礎・基本、医者の基礎・基本、自動車運転手の基礎・基本、バレリーナの基礎・基本、そのようなものはまったく同一ではないと考えるべきだ。」234頁

苫野一徳『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』日本評論社、2013年
「そう、学力とは、とどのつまりは「学ぶ力」のことなのです。(中略)自分の直面した問題をどうすれば解決できるか考え、そのために必要なことを「学ぶ力」。これが学力の本質です。やがて忘れてしまうような知識の量は、学力の一部ではあっても本質ではないのです。」98頁

安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年
「「学力」は「学校の教育課程で育てられる能力」であり、それ以上でも、それ以下でもないと考え、子どもの「学力」を全体的かつ絶対的なものとして表しているわけではない、と見るべきだということです。」107頁

苫野一徳『教育の力』講談社現代新書、2014年
「現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、それはとどのつまり、「学ぶ-力」のことである、と。教育は、子どもたちに「学ぶ力」を育むことで、その後の長い人生において「自ら学び続ける」ことを可能にする、その土台を築く必要があるのです。(中略)このような「学力」観の転換は、知識基盤社会の進展に加えて、テクノロジーの進歩を背景に、もうずいぶん前からいい尽くされてきたことです。」58頁

池上彰『池上彰の「日本の教育」がよくわかる本』PHP文庫、2014年
「私たちが、ごく普通に使っている「学力」という言葉。学校の成績が良ければ「学力がある」といういい方をしますね。でも本来は、どんな意味なのでしょうか。文部科学省は、どう考えているのでしょうか。先ほどの指導要録についての「指導資料」をもとにまとめると、三つの「考え方」に大別できるといいます。「可能性を学力と見る考え方」と「習得した能力を学力と見る考え方」、それに「創造性を学力と見る考え方」です。」163頁

大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア―「覚える君」から「考える君」へ―』日本標準ブックレット、2016年
「これからの学力とは「コミュニケーション力」によって形成されるような学力を言うのです。」68頁
「今から必要なのは「覚える君」の「学力」ではなく「考える君」の「学力」をいかに向上させるかの議論なのです。」75頁

梅原利夫『新学習指導要領を主体的につかむ―その構図とのりこえる道』新日本出版社、2018年
「もともと学力の論議は、子どもと地域の実態に応じて自由闊達に行なわれる中で、次第に合意が図られていくものであり、それぞれ固有の表現でまとめられていく。そこで重要なのは、教育に関わる者がそれぞれの実践を背景に多様な捉え方をし、交流していくことである。学力の法定化は、こうした多様さや柔軟さの発揮を抑え込もうとする役割を果たしている。」81頁

川口俊明『全国学力テストはなぜ失敗したのか―学力調査を科学する』岩波書店、2020年
「最初に、学力の正確な値を測定することは不可能であるということを確認しておきましょう。どのような学力テストであっても、私たちは学力の正確な値を観測することはできません。」68頁
「大規模学力調査の知見をもとに現行の全国学力テストの設計を見直したとき、最初に戸惑うことは、おそらくそれが何の学力を測っているのかわからないという点です。(中略)現行の全国学力テストでは、どのような学力を測るのかという肝心要の点が、ほとんど示されていません。」97頁
「ほとんどの人が、なぜ学力テストが必要なのか考えていないし、学力テストで能力を測定することの難しさについて知らないのです。」121頁

参考文献

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
問題の本質は「学力低下」ではなく、産業構造の転換によって東アジア型教育の有効性が低下し、「勉強」の意義が見失われ、子供たちが「学びからの逃走」を起こしたところにある。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★★

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
文科省官僚による硬直した中央集権的な教育行政が、現場の教師の創造性を奪い、学力低下をもたらすと主張。少人数学級や現場による教科書採択による、個を尊重する教育を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★

戸瀬信之、西村和雄『大学生の学力を診断する』岩波新書、2001年
大学生の数学力が崩壊したことを、具体的な調査と客観的なデータで訴えた。具体的な問題として経済資本と文化資本による階層分化を挙げ、大学の少科目入試と、義務教育の授業時間削減を批判。基礎学力の重視を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★★★

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年
客観的な調査によって、学力が低下傾向にあることを示すとともに、もっと本質的な問題として家庭環境による格差拡大を提示した。格差拡大が学習成果や学習行動だけでなく、学習意欲にまで影響を与えていることに警鐘を鳴らす。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★

河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』岩波書店、2004年
「学力低下」を心配している人々を笑い飛ばすような内容。学びは合理的に追究するのではなく、役に立たないことを楽しもうと勧めている。これから本当に必要なのは「学力なしで何とかする学力」と言う。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年
学力論争とは単に学校や教育の内部で終わる話ではありません。本質的には、近代を続行するのか、それとも近代から降りるのかという社会システム選択の問題です。
学力低下の危惧 ★★★★
人格よりも知識 ★★★★

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかった、と判断し、「ゆとり教育」の理念には理解を示す。学力低下を主張する人々に対して、学校が行っている人格形成という仕事を理解していないと批判する。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
学力低下の実態が、実は家庭の文化資本の格差を原因とした学力間格差の拡大であると示す。学力を上げるためには、学校を媒介として子どもの「社会関係資本」を高めることが重要と示唆する。
学力低下の危惧 ★★
人格よりも知識 ★★★

育成を目指す資質・能力とは―知識から21世紀型能力へ―

簡単にまとめれば

 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。「知識から能力へ」と教育の重点が変わります。ということ。

 まあ「知識から能力へ」という合い言葉だけ見ればそんなに難しく感じませんが、しかし「じゃあ能力って具体的に何?」と考えたときに難しくなり始めるんですね。というわけで、学習指導要領の記述を確認しながら、文部科学省が何を考えているか吟味していきましょう。

コンピテンシー(能力)を伸ばす

 ただコンテンツ(知識)を身につけるのではなく、コンピテンシー(能力)を伸ばすためには、具体的に何をどうすればいいのでしょうか?

学習指導要領の記述

 学習指導要領の前文は、以下のように述べています。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

 学習指導要領の今時改訂の土台にある思想は、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換です。それは「何を教えるか」から「何ができるようになるか」という転換ですし、さらに言えば主語の転換です。「何を教えるか」の主語は「教師」ですが、「何ができるようになるか」の主語は「児童生徒」です。要するに、教師から子供へと、主役を転換しようということです。子供を主人公として捉えようということです。児童中心主義です。「育成を目指す資質・能力」と言ったとき、まず踏まえておかなければならないのは、子供が中心であるということです。
 さて、子供を中心にしたとして。次に「何ができるようになるか」を明らかにするには、「育成を目指す資質・能力」の具体的な中身を明確にしなければなりません。そのために具体的にどう教育課程を編成すべきかは「カリキュラム・マネジメント」に関わる仕事です。学習指導要領は、以下のように方針を示しています。

1 各学校の教育目標と教育課程の編成
教育課程の編成に当たっては、学校教育全体や各教科等における指導を通して育成を目指す資質・能力を踏まえつつ、各学校の教育目標を明確にするとともに、教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。その際、第4章総合的な学習の時間の第2の1に基づき定められる目標との関連を図るものとする。(4-5頁)

 各学校が具体的に最初に行うことは、(1)教育目標を明確にし、(2)教育課程編成の方針を家庭や地域と共有することですね。カリキュラム・マネジメントの基本です。そしてその際に「関連を図るもの」として、特に「総合的な学習の時間」が上げられていることに要注目です。

総合的な学習の時間を中心にする

 さて、「総合的な学習の時間」についての「第4章第2の1」は、以下のように書かれています。

各学校においては、第1の目標を踏まえ、各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。(144頁)

 おっと、またたらい回しですが、「第1の目標」とはどういうことか、確認すれば以下のように書かれています。

探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 探究的な学習の過程において、課題の解決に必要な知識及び技能を身に付け、課題に関わる概念を形成し、探究的な学習のよさを理解するようにする。
(2) 実社会や実生活の中から問いを見いだし、自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現することができるようにする。
(3) 探究的な学習に主体的・協働的に取り組むとともに、互いのよさを生かしながら、積極的に社会に参画しようとする態度を養う。(144頁)

 要するに、各学校が学校目標を定め教育課程編成を行う際には、総合的な学習の時間を中核に位置づけるように構成する必要があるということが説かれているのだと理解すればよさそうですね。

教科等横断的な視点

 そして『学習指導要領』は続けて具体的な教育課程編成について以下のように注意を促しています。カリキュラム・マネジメントの指針でも強調されていた「教科等横断的な視点」についての記述です。

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
(1) 各学校においては、生徒の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。
(2) 各学校においては、生徒や学校、地域の実態及び生徒の発達の段階を考慮し、豊かな人生の実現や災害等を乗り越えて次代の社会を形成することに向けた現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を、教科等横断的な視点で育成していくことができるよう、各学校の特色を生かした教育課程の編成を図るものとする。(5頁)

 ここでは、教科等横断的な視点から「資質・能力」を育成するべく教育課程を編成することが求められています。そして教科等を横断しながら育成するべき資質・能力が具体的に列挙されています。確認しますと、
(1)-1:言語能力
(1)-2:情報活用能力(情報モラル含む)
(1)-3:問題発見・解決能力
(2):現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力
 となっています。

 そして極めて重要なことは、これら資質・能力が、各教科固有の「見方・考え方」を働かせる「深い学び」を通じて育成されていくことが期待されているということです。注意したいのは、「教科等横断」に関してしばしば見られる、「コンテンツで横断する」という勘違いです。
 「コンテンツで横断する」とは、例えば、「音楽で海を扱う単元があるから、理科でも海を扱って、社会でも海を扱おう」という考え方です。これを実践すること自体は別に悪くはないのですが、文部科学省が本当に狙っている「教科等横断的な視点」になっていないことも事実です。というのは、文部科学省が「教科等横断的な視点」として本質的に求めているのは、「コンピテンシーによる横断」だからです。「海というコンテンツ」で教科等を横断することは、「言語能力というコンピテンシー」で横断することとは、まったく別のことです。

 では「コンピテンシーで横断する」とはどういうことでしょうか? ここに「教科の本質」が深く関わってきます。
 たとえば「言語能力というコンピテンシー」を育成しようとするとき。国語科は国語科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。数学科は数学科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。音楽や家庭科等も、また同じです。各教科が、それぞれの教科の本質を通じながら言語能力を育成していきます。そして国語科には国語科の特性があり、数学科には数学科の特性がある以上、各々の教科が育成する言語能力はそれぞれ違っているはずです。各教科で異なる観点から言語能力を育成していきますが、最終的にはそれらが一体となって子供の言語能力が全体的に成長していきます。それを最終的に完成させるのが「総合的な学習の時間」ということになります。これが「コンピテンシーで横断する」ということです。

 教科等横断的な視点については別のページに詳しくまとめてありますので、ご参照下さい。→【参考】教科等横断的な視点とは何か?

「教科を教える」から「教科で学ぶ」へ

 「コンピテンシーで教科等を横断する」ことを実現するためには、各教科が子供たちにどのような能力を育てるのか、「教科の本質」をしっかり認識する必要があります。単に「コンテンツ」を教えるのではなく、コンテンツを通じてコンピテンシーを伸ばすことを意識しなければいけないわけです。
 これを私はスローガン的に【「教科教える」から「教科学ぶ」へ】の転換というふうに呼びます。従来のコンテンツ重視の教育では、各教科ごとに特有の知識を与えることが教科の中心的役割と思われていました。しかしこれからは、教科特有の知識を与えることも重要ではありますが、それを通じて「能力を育てる」こともさらに重要であることを意識しなければなりません。そのためには、どうしても各教員が「教科の本質」をしっかり捕まえておく必要があるわけです。そしてこの「教科の本質」を踏まえた授業が、「見方・考え方」を働かせるような「深い学び」を実現します。だから「主体的・対話的で深い学び」というものに対する洞察が必要になってくるわけですね。→【参考】主体的・対話的で深い学びとは

どうしてコンピテンシー?

 以上、各学校や各教員に何が求められているかは確認できました。しかし考えてみれば、そもそも、どうして「コンテンツからコンピテンシーへ」と転換する必要があるのでしょうか。従来の知識中心の教育では本当にダメなのでしょうか?
 そんなわけで、さらに突っ込んで、教育原理的に学習指導要領の思想背景を確認していきましょう。

学習指導要領解説 総則編の記述

 『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の狙いが以下のように示されています。

② 育成を目指す資質・能力の明確化
中央教育審議会答申においては、予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要であること、こうした力は全く新しい力ということではなく学校教育が長年その育成を目指してきた「生きる力」であることを改めて捉え直し、学校教育がしっかりとその強みを発揮できるようにしていくことが必要とされた。また、汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流を踏まえつつ、知識及び技能と思考力、判断力、表現力等をバランスよく育成してきた我が国の学校教育の蓄積を生かしていくことが重要とされた。
このため「生きる力」をより具体化し、教育課程全体を通して育成を目指す資質・能力を、ア「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」、ウ「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」の三つの柱に整理するとともに、各教科等の目標や内容についても、この三つの柱に基づく再整理を図るよう提言がなされた。(3頁)

 ここで言われている「汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流」とは、具体的にはOECDで議論されているキー・コンピテンシーを指しています。そして文部科学省は、この「世界的な潮流」を参考にした上で、学校教育法第30条に定められた「学力の三要素」に対応して「資質・能力の三要素」を設定したようですね。「資質・能力」を設定するに当たって、いったいどのような「世界的な潮流」をどのように参考にしたかは、平成26年3月31日「論点整理」に見ることができます。

論点整理(平成26年3月31日)の記述

 学習指導要領改訂に向け、教育課程に関する学識経験者を集めて開催された「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」では、以下のような提言が行われました。

今後、学習指導要領の構造を、
① 「児童生徒に育成すべき資質・能力」を明確化した上で、
② そのために各教科等でどのような教育目標・内容を扱うべきか、
③ また、資質・能力の育成の状況を適切に把握し、指導の改善を図るための学習評価はどうあるべきか、
といった視点から見直すことが必要。
← 従来の学習指導要領は、児童生徒にどのような資質・能力を身に付けさせるかという視点よりも、各教科等においてどのような内容を教えるかを中心とした構造。そのために、学習を通じて「何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」が重視されがちとなり、また、各教科等を横断する汎用的な能力の育成を意識した取組も不十分と指摘されている。
世界的潮流として、OECDの「キー・コンピテンシー」をはじめ、育成すべき資質・能力を明確化した上で、その育成に必要な教育の在り方を考える方向。(アメリカを中心とした「21世紀型スキル」、英国の「キー・スキルと思考スキル」、オーストラリアの「汎用的能力」など。)
日本でも比較的早い時期から「生きる力」の理念を提唱しており、その考え方はOECDのキー・コンピテンシーとも重なるものであるが、「生きる力」を構成する具体的な資質・能力の具体化や、それらと各教科等の教育目標・内容の関係についての分析がこれまで十分でなく、学習指導要領全体としては教育内容中心のものとなっている。
← より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要。

 以上の記述から、『学習指導要領解説 総則編』にあった「汎用的な能力の育成を目指す世界的潮流」が、OECDの言う「キー・コンピテンシー」をイメージしていることが明らかとなります。そしてOECDの「キー・コンピテンシー」については、以下のように言及していることを確認できます。

特に、OECDの「キー・コンピテンシー」の概念については、グローバル化と近代化により、多様化し、相互につながった世界において、人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力として定義されており、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)にも取り入れられ、大きな影響を与えている。
この「キー・コンピテンシー」の概念については、具体的には、次のような内容で構成されている。
・ 言語や知識、技術を相互作用的に活用する能力
・ 多様な集団による人間関係形成能力
・ 自律的に行動する能力
・ これらの核となる「思慮深く考える力」(9頁)

 かなり具体的な記述となっていますね。注目は、ここで育成される資質・能力が「人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力」と定義されていることです。この文章が言う「成功」とは具体的にどのような状況を指すのか、あるいは「正常に機能する社会」とはどのような社会なのか、十分に吟味する必要があるでしょう。検討会でも、「キー・コンピテンシー」をどのように捉えるのかに対して、たとえば経済色が強いのかそうでないのかについてなど、委員の間で見解の相違が見られます(17頁)。経済発展を最優先に考えた能力育成なのか、そうでないのかで、ずいぶん結論は変わってきそうです。
 もちろん検討会は無批判にOECDの見解を取り入れたのではなく、他の様々な能力観と比較対照しながら「生きる力」概念の分析に取り組んで、最終的に以下のように整理されることとなりました。

そのための一つの方策として、育成すべき資質・能力を踏まえつつ、教育目標・内容を、例えば、以下の三つの視点を候補として捉え、構造的に整理していくことも考えられる。
ア)教科等を横断する、認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの
① 認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル等としては、例えば、問題解決、論理的思考、コミュニケーション、チームワークなどの主に認知や社会性に関わる能力や、意欲や情動制御などの主に情意に関わる能力などが考えられる。
② メタ認知(自己調整や内省・批判的思考等を可能にするもの)
イ)教科等の本質に関わるもの
具体的には、その教科等ならではのものの見方・考え方、処理や表現の方法など。例えば、各教科等における包括的な「本質的な問い」と、それに答える上で重要となる転移可能な概念やスキル、処理に関わる複雑なプロセス等の形で明確化することなどが考えられる。
ウ)教科等に固有の知識・個別スキルに関わるもの(21頁)

 ここに見られる見解が、『学習指導要領』本文には「教科等横断的な視点」および「深い学び」という形で落とし込まれています。逆に言えば、「教科等横断的な視点」や「深い学び」とは何かを本質的に理解しようと思ったら、この記述まで遡る必要があるわけですね。

様々な21世紀型学力

 以上、学習指導要領の背景にある能力観について見てきました。「論点整理」等では、PISAだけでなく、様々な21世紀型学力も検討されていますので、代表的なものをざっと見ておきましょう。

年月主体提言内容
1996文部科学省生きる力確かな学力、豊かな心、健やかな体
1998大学審議会答申課題探求能力
1999日本経営者団体連盟エンプロイヤビリティ(雇用されうる能力)
2001OECD-PISAリテラシー
2003内閣府-人間力戦略研究会人間力知的能力要素、社会・対人関係的要素、自己制御的要素
2004厚生労働省就職基礎能力
2006経済産業省社会人基礎力前に踏み出す力、考え抜く力、チームで働く力
2006OECD-DeSeCoキー・コンピテンシー
2008「学士課程教育」に関する中教審答申学士力教養を身に付けた市民として行動できる能力として、知識・理解、相同的な学習経験と創造的志向、汎用的技能、態度・志向性
2011「キャリア教育・職業教育」に関する中教審答申基礎的・汎用的能力人間関係形成・社会形成能力、自己理解・自己管理能力、課題対応能力、キャリアプランニング能力

 共通しているのは、従来型の能力ではこれからの新しい社会(知識基盤社会、高度情報化社会)には対応できないという認識でしょう。産業界が教育に要求しているのは、従来のハードスキル(目に見える知識・技能)だけでなく、ソフトスキル(目に見えない人格特性)も含めた総合的な能力の開発です。受動的な順応性ではなく、能動的な創造性や個性が求められているわけです。「生きる力」も、同じ特徴を持っていますね。

批判的な吟味

 以上、文部科学省の見解を確認してきました。以下、私の個人的な見解を記しておきます。

「人格の完成」との関係

 個人的に特に気になるのは、教育の目的である「人格の完成」と、ここで議論されている「資質・能力」の関係性です。注目したいのは、検討会自身が以下のように言明した点です。

今後、育成すべき資質・能力の検討に当たり、まず留意すべきことは、教育基本法に定める教育の目的を踏まえれば、育成すべき資質・能力の上位には、常に個人一人一人の「人格の完成」が位置付けられなければならないということである。
あわせて、教育基本法に定める教育の目的の一つとして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成があることを踏まえ、自立した民主主義社会の担い手として求められる資質・能力の育成は、公教育の普遍的な使命であることに留意しつつ検討を行うことが必要である。(10頁)

 他、「人格の完成」という理念に対して、委員個人の意見としては大きな関心が払われていることがわかります(15頁)。私が勝手に推測するに、これはおそらく安彦忠彦氏の発言でしょう。しかし、この見解が『学習指導要領』本文にしっかり反映しているかどうかについては、個人的には心許ないところです。いちおう前文には教育基本法の目的と目標には触れられているものの、単にアリバイ的にお題目として掲載されているように見えてしまいます。というのは、「人格の完成」と「育成を目指す資質・能力」との内的連関、あるいは教育原理的な結びつきが、まったく見えてこないからです。そしてそれは、「人間形成とは何か?」を統一的に記述する教育哲学が『学習指導要領』に欠けているせいでしょう。「育成を目指す資質・能力」を把握する限りでは、AIにも対抗可能な高機能な自律型有機生命体を計画的に作ろうとする意図は見えるものの、それを無条件に「人間」と呼んでいいかどうかは判然としません。まあ、『学習指導要領』はあくまでも教育課程編成のための大綱的な基準に過ぎないから、教育哲学が欠けていることそのものに罪はないかもしれませんし、高度な教育的配慮から意図的に記述を避けている可能性もあるでしょう。ただその教育哲学の欠如の原因が、経済原理による教育の乗っ取りにあるとしたら、大問題です。

コンピテンシー・ベースへの転換と言うが

 文科省は、今回の学習指導要領の主要論点を、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換だと言います。しかし振り返ってみれば、同じ事は明治時代の注入主義(コンテンツ・ベース)から開発主義(アビリティ・ベース)への転換に既に見られます。あるいは、100年以上前にジョン・デューイが遙かに体系的な哲学を背景に主張しているところです。しかも文科省がデューイの教育理論をどう捉え、かつて自分自身が放棄したことをどのように反省しているかは、まったく明らかにしていません。かつてコンピテンシー・ベースの教育を放棄した理由、あるいはうまく機能しなかった原因を顧みずに、本当に学習指導要領が目指すコンピテンシー・ベースの教育など実現できるのか、なかなか不安なところではあります。過去の総括が欠けているところに、未来への展望は開けないように思うからです。

参考文献

 学習指導要領の方向性に親和的な本。引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類。教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければならないこと、そして具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣と説く。
国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

 新学習指導要領が何を目指しているのか、ものすごくよく分かる。現役の教師だけでなく、学生にとっても読みやすそうだ。教員採用試験対策にもいいんじゃないか。
特に良いのは、文科省が立場的に書けないようなことが、本書ではしっかり書かれているところだ。具体的には、これまでの教育が産業社会に従属してきたことの明瞭な指摘と、背景にブルーナーの復権があるという記述が腑に落ちた。

奈須正裕『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社、2017年

 著者は、学習指導要領改訂のために「資質・能力」を検討した文部科学省の有識者会議で座長を務めた。が、その主張は、必ずしも学習指導要領の内容と親和的ではない。むしろ批判的とすら言える。特に「資質・能力」と「人格」との関係に対する理解については、決定的な隔たりがある。「資質・能力」の何がどのように問題なのかを考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる本。
安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年

 学習指導要領の方向性に懐疑的な本。「資質・能力」の育成は、単に産業界の要請に応える人材育成に過ぎないという懸念を随所に見ることができる。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。
日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

 新学習指導要領が育成を目指すという「資質・能力」というものが、どのような思想的背景から生まれてきたのか、歴史的な経緯をふまえた上で分かりやすく論点を整理しており、読書案内も充実していて、勉強になる。「知識=実質的陶冶」と「能力=形式的陶冶」の関係について、多面的多角的に考察するヒントがたくさん含まれているように思う。
松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか 学力・リテラシー・コンピテンシー』ミネルヴァ書房、2010年

■佐藤学「21世紀型の学校カリキュラムの構造 イノベーションの様相」東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年 13-25頁。
 冷戦体制の崩壊とグローバル化という世界情勢の変化に伴って世界の教育がどのように変化したか、コンパクトに概観できる。変化の方向は4つ。(1)知識基盤社会への対応(2)多文化共生社会への対応(3)格差リスク社会への対応(4)成熟した市民社会への対応。なんとなく大雑把には、政府の「教育振興基本計画」の内容と対応しているように見える。が、日本の教育改革は世界水準から見て15年遅れという「ガラパゴス的状況」にあるという指摘は、なかなか重い。