「学力」とは何か?

「学力」とは何かについて考える前に

そもそも「学力とは何か?」という定義が怪しい

世間では「学力低下」に関して様々な議論が行われていますが、しかし実は「そもそも学力とは何か?」について、人々の間で一致した定義があるわけではありません。勝手に自分の頭の中で思い込んだ「学力」について、それぞれ勝手に意見を述べているに過ぎないことが多いのですね。「学力」と言ったり言われたりした瞬間、何を対象にしているか分かったつもりになってしまいます。ここで、改めて定義を決めておこうと立ち止まる人々は、そう多くありません。しかし、「学力」の定義を共有していないとき、「学力が低下した」とか「低下していない」などと言い合っても、そもそも何を対象に議論しているのかが分かっていないのだから、話が噛み合うわけがありません。ひどい場合では、一人の論者が、文脈によって自分に都合良く「学力」の定義をコロコロ変えている場合だってあります。
そんなわけで、「学力」に関して話をしようとする場合、まず「学力」という言葉で具体的に何を対象にしているのか、最初に明らかにしておく必要があります。誰かが「学力」と言っているとき(あるいは自分が「学力」と口走ってしまったとき)、そもそもその言葉が具体的に何を対象としているか、「ちょっと待てよ」と立ち止まって確認したほうがいいわけですね。

このページの「学力」とは何か?

そういうわけで、このページでは、「学力」のことを「文部科学省が定義している学力」として解説しています。私自身が考える「学力」ではありません。

法律による「学力」の定義

学校教育法第30条

日本では、2007年、法律によって「学力」が定義されました。そもそも「学力」という言葉自体が外国語に翻訳しにくいものではありますが、「学力」のような教育目的に関わるものを法律で決めている国は、他にはありません。このことは、日本の教育を考える上で、とても重要な事実です。
教育の内容に関わることを法律で決めることが可能かどうか、あるいはいいことかどうかについて、本当は腰を据えて考察する必要がありますが、まずは文部科学省が何を言っているかしっかり確認しておきましょう。「学力」は、以下に引用する「学校教育法」第30条2項で規定されています。

前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
(「学校教育法」)

この規定の大きな特徴は、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものが示されていることです。学力の3つの要素を、文部科学省自身は以下のようにまとめています。

(1)基礎的・基本的な知識・技能。
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等。
(3)主体的に学習に取り組む態度。
(文部科学省「学習指導要領「生きる力」」)

この学力の三要素は、「学習指導要領」の目標規定や「全国学力・学習状況調査」の方向性など、様々な場面で繰り返し用いられており、文部科学省の方針にとって最も重要な土台になっています。たとえば具体的には、各教科の目標や評価は全てこの学力の三要素に沿って記述されています。逆に言えば、国語や算数などの目標を理解するには、単にそれぞれの教科について知るだけでは不十分で、しっかり学力の三要素から理解しておく必要があるわけです。

文部科学省による「学力」定義の背景

このように「学力」を定義した背景を、文部科学省自身は以下のように説明しています。要するに、世の中が変わったから、それに対応して教育も変わらなくてはいけないということで、法律によって「学力」の定義を行ったということになります。

知識基盤社会の到来や、グローバル化の進展など急速に社会が変化する中、次代を担う子どもたちには、幅広い知識と柔軟な思考力に基づいて判断することや、他者と切磋琢磨しつつ異なる文化や歴史に立脚する人々との共存を図ることなど、変化に対応する能力や資質が一層求められている。一方、近年の国内外の学力調査の結果などから、我が国の子どもたちには思考力・判断力・表現力等に課題がみられる。これら子どもたちをとりまく現状や課題等を踏まえ、平成17年4月から、中央教育審議会において教育課程の基準全体の見直しについて審議が行われた。
この見直しの検討が進められる一方で、教育基本法、学校教育法が改正され、知・徳・体のバランス(教育基本法第2条第1号)を重視し、学校教育においてはこれらを調和的に育むことが必要である旨が法律上規定された。さらに、学校教育法第30条の第2項において、同法第21条に掲げる目標を達成する際に、留意しなければならないことが次のように規定された。
(『言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】』)

そんなわけで、「学力」の定義が適切かどうかは、現状を正確に把握しているかどうかが最重大ポイントになります。具体的には、上の文章に出てくる「知識基盤社会」とか「グローバル化の進展」というものを正確に捉えることができているかどうかが大事になるわけです。
また、上の文章で「我が国の子どもたち」の「課題」と言っているのは、具体的にはOECD主催によるPISA調査の結果が芳しくないことを意味しています。特に「PISAショック」と呼ばれる出来事は、「学力」に関わる議論に大きな影響を与えました。だから文部科学省の教育方針を理解するためには、「PISAショック」について把握しておく必要があります。
ということで、「学力」の定義が適切かどうかを判断するために、学力定義の背景となっている「知識基盤社会」と「PISAショック」を確認しておきましょう。

知識基盤社会

「知識基盤社会」とは、英語ではknowledge-based societyであり、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増すような世の中を意味します。文部科学省自身は、「知識基盤社会」について以下のように述べています。

我が国が科学技術創造立国の実現に向けて世界をリードし、成長し続けるためには、イノベーションを絶え間なく創造できる人材の育成が求められている。「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展等により、産業構造の変化も急速に進んでいる現代においては、多種多様な個々人が力を最大限発揮でき、それらが結集されるチーム力が必要とされている。(知識基盤社会が求める人材像、2009年)

つまり知識基盤社会に対応した人材を育成するとは、子供の自己実現や人格の完成を尊重するというよりは、日本が「世界をリード」したり「国際競争」を勝ち抜くために必要な人材を供給することを意味しているようですね。
そして、文中で言われている「産業構造の変化」については、内容をしっかり把握しておく必要があります。おおまかには、製造業が衰退して、IT産業が発展することを意味しています。産業構造が転換すると、社会が必要とする人材が大きく変化します。社会が必要とする人材が変化すると、社会に人材を供給する教育も変わらなくてはなりません。教育の変化の背景には「産業構造の変化」があり、そういう事態を端的に表す言葉が「知識基盤社会」となるわけです。

PISAショックと全国学力・学習状況調査

PISA調査とは、OECDが主催する「学習到達度調査(Programme for International Student Assessment)」のことです。16歳を対象とし(日本では高校1年生対象)、文章読解力や数学的リテラシーがどれだけ身についているかを調べるペーパーテストです。
PISA調査を主催するOECDとは、「経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)」であり、つまり教育に関係する組織ではなく、経済発展に関係する組織です。PISA調査は教育的な観点から作られているというよりも、どれだけ経済発展に貢献する能力があるかという観点から作られていると言えるかもしれません。
このPISA調査に関して、2003年と2006年の調査で日本の国際的順位が大幅に下がり、日本の教育関係者一同が衝撃を受けた事件を「PISAショック」と呼んでいます。既にゆとり教育に対する危惧が各方面から上がっていましたが、この結果を受けてゆとり教育見直しの方向性が決定的となりました。しかし2009年と2012年の調査では順位が上昇しており、しかもこの世代はゆとり教育を受けた世代だったこともあって、ゆとり教育の効果については改めて精査するべきだという意見も根強いところです。
また、文部科学省は「全国学力・学習状況調査」を2007年より毎年実施することにしました。小6と中3を対象とし、当初は悉皆調査として始まりました。問題の特徴は、基礎基本を聞くA問題と、活用力を問うB問題に分かれていることです。いわゆるPISA調査が聞くような問題は、B問題に相当します。日本の子どもたちは活用力が弱いという認識と、これからの世界で必要となるのはPISA型学力であるという認識の下、思考力・判断力・表現力の向上を目指した学習指導要領の方針が定着しているかどうかを調査することが目的とされています。この調査は、PDCAサイクルのCheck(評価)の指標として機能し、学校現場の実践を望ましい方向(文科省にとって)に促すことが期待されています。

PISA型学力

このPISA調査で測定される能力は、学校で伝統的に育成されていた19世紀型の知識ではありません。21世紀の社会を生き抜く上で必要となる新しい能力が想定されています。具体的には、OECDが2003年に組織したプロジェクトDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)によって定義された能力概念が採用されています。このDeSeCoは「人生の成功と正常に機能する社会(持続可能な発展)のためにどのような能力が必要かという課題に対して、人がもつべき知識や技能を超える能力軍」としてコンピテンシー(能力)を定義しようとしたもので、特に重要なキーコンピテンシーが3つ定められています。すなわち、
(1)社会及び個人にとって、価値のある結果をもたらすこと。経済的、社会的な有益性。
(2)多様な状況の重要な課題に直面した時、適応を助けること。人生の多様な領域に渡る判断能力。
(3)特定の専門家(産業や職業、社会階層など)のみではなく、すべての人にとって重要であること。
とされています。これらの能力は、先に確認した「知識基盤社会」に対応する能力と言えます。文部科学省は学習指導要領改訂作業の過程で、このDeSeCoの議論を詳細に検討し、「生きる力」概念の練り直しに反映させています。

不易と流行

さて、ここまで見てきた文部科学省の姿勢を、いわゆる「不易/流行」という物差しで測って判断すれば、「流行」のほうに傾いているように見えます。というのは、文部科学省は「変化に対応する能力や資質が一層求められている」と明確に言い切る一方で、「近年の国内外の学力調査」によって子供たちの「課題」が見つかったと言っているからです。文部科学省は、普遍的な教育の原理から「学力」を考えているというよりは、目の前の社会変化と目の前の子供の課題から「学力」を定義しているわけですね。学校教育法第30条や学習指導要領で言われている「学力」とは、「不易」の観点からもたらされたものというよりは、「流行」という観点から出てきたものと考えても良さそうです。

ただし文部科学省自身は、こうして「流行」を追究することによって、実は「不易」な教育を作り上げることになると考えているようです。本当に文部科学省の言うとおりかどうかは、しっかり学術的に研究しないと分からないところです。

不易/流行とは?

ちなみに「不易/流行」は、教育界では本当によく使われる言葉です。
まず「不易」は音読みでは「ふえき」と発音しますが、「易わる」と書いたら訓読みで「かわる」と読みます。たとえば江戸幕府は不始末をしでかした大名を「改易」することがありましたが、これは具体的には大名を廃止したり国替え(左遷)したりすることであって、つまり「改めて、かえる」ことを意味しました。ひるがえって、「不易」は訓読みでは「かわらず」と読み、意味は「かわらない」こととなります。「教育の不易」と言った場合、場所や時代によって変わらないような、教育の普遍的原理を指すわけですね。具体的には、「教師には教育的愛情が必要だ」とか「教師には専門的な知識が必要だ」とかいう意見は、平成だろうが昭和だろうが江戸時代だろうが変わりませんし、日本だろうが中国だろうがアメリカだろうがインドだろうが変わらないと思われる普遍的な命題ですから、「不易」と判断されることが多いわけです。
一方、「流行」とは、時代や地域によって異なる価値観を指します。たとえば江戸時代にはコンピュータ教育は必要ありませんでしたが、21世紀には必須のスキルです。この場合、「コンピュータ教育」は「流行」だと判断されることになります。

世間が言う「学力」とのズレ

ここまで見てくると、文部科学省の言う「学力」と、世間一般で考えられている「学力」とは、ずいぶん中身が違っていることが分かります。世間で言う「学力」とは、学校の勉強を通じて身についた「テストによって点数をつけられる」ような尺度のことです。逆に言えば「学力が高くても世間では役に立たない」などという言われかたもするような尺度です。一方、文部科学省の言う「学力」とは、徹底的に「世界で役に立つ力」を意味しています。さらに言えば、「学力」とは「これから訪れるであろう未来の世界で圧倒的に役に立つ力」を意味しています。世間でしばしば言われるような「学力が高くても世間では役に立たない」などという言葉は、文部科学省の定義では絶対に聞かれるはずがありません。
このズレを承知していないと、学力が低下したのかどうかなど「学力」に関する議論をしても、話が噛み合うはずがないのです。

学力論争

そんな認識のズレによって、いわゆる「学力論争」という、不毛な議論が発生することになります。文部科学省による「学力」の定義が成される以前、1999年から2001年あたりにかけて、教育界を越えて広範囲に「学力論争」と呼ばれる議論が沸き起こりました。具体的には「学力低下」が問題となりました。大学生の学力が低下しているという大学教員の主張からはじまり、初等中等教育でも学力が低下しているという危惧に発展し、様々な独自調査が行われ、客観的に見ても日本人の学力が低下しているというデータが提示され、PISA調査でも国際的な凋落が明らかとなり、文部科学省の政策が多方面から批判されるような事態に展開しました。
一般マスコミ等でも「ゆとり教育」を取りあげるようになり、2001年2月には読売新聞がアンケート調査、同4月にはテレビ朝日ニュースステーションがアンケート調査を行い、いずれも「ゆとり教育」に対して「学力低下」を危惧する反対意見が多数という結果が出ています。
この結果、2003年には学習指導要領の解釈が一部変更され、2006年の学校教育法における学力定義に繋がり、2008年の学習指導要領改訂では学習時間が増加に転じるなど、いわゆる「ゆとり教育」の転換が起こったとされています。

が、残念ながら、学力論争のさなかにあって「学力とは何か」について真剣に考えた人は、そんなに多くありませんでした。目の前のゆとり教育をどうするかという政策論議に集中した結果、原理的なところまで思考が及ばなかったのかもしれません。学習指導要領の一部改訂によって学力論争が一段落する2003年以降になって、原理的に「学力」について考え直そうという動きが出てきたように思います。
そして、今後も定期的に同じような騒動が繰返されることが容易に予想できます。教育に携わる者は、目の前の一時的な現象に一喜一憂することなく、「学力」について原理的に考える力をしっかり蓄えておきたいものです。

様々な「学力」の定義

以上、文部科学省が定義する「学力」について見てきました。一方、もちろん文部科学省の定義以外にも、様々な論者が様々な立場から「学力」を定義し、議論しています。参考までに、いくつか引用します。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
「ここでは「学力」を英語の「achievement」として定義します。「学力」という言葉は、もともと「achievement」の翻訳語ですから、この定義に異議を唱える人はいないと思います。英語の「achievement」は、その名の通り「学校で教える内容」についての「学びによる到達」を意味しています。そして「学びによる到達」は、通常、テストで測定されます。「学力」という意味は、それだけの意味しか持っていません。この限定された意味で「学力」を定義したいと思います。」(15-16頁)
「学力は一種の貨幣なのです。」「第一に、学力は、貨幣と同様、評価基準として機能しています。」「学力は、むしろ、多様な異なる学びの経験を同一尺度で値踏みする評価基準であるところに機能的な意味を持っています。」「第二に、学力は、貨幣と同様、交換手段として機能しています。」「学力は、所有することを誰もが拒まない能力であることによって、受験の市場や労働の市場における交換手段として機能しています。学力は、入試や雇用の局面において、必ずしも一致しない採用者の要求と志願者の能力の関係を間接交換として合理化する機能を発揮しています。」「第三に、学力は、貨幣と同様、貯蓄手段として機能しています。」「学力も、貯蓄それ自体を欲望する唯一の教育概念であることによって、学習活動に計画性と継続性を与え、さらには貯蓄の欲望が投資としての教育活動の基礎になっています。」(29頁)

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
「学習してどこまで到達したかという、学んだ成果を示す「学力」のほかに、学ぶ力という意味での「学力」があり、この両者が一体となって、わが国では「学力」という言葉をかたちづくってきた」(78頁)

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
「人生のなかでの諸々の体験が、その人物の「人となり」、すなわち人柄や性格、あるいは容姿や体つきなどを形成していくのと全く同様の意味において、その人の「学力」は、その人物の経験の総体から導き出される。」(26頁)

斎藤孝『教育力』岩波新書、2007年
「「学力とは、そうやって点数ではかれるものばかりではない。本当の学力は違うのだ」と言う人もいるが、私の考えでは、学力ほどクリアに掴めるものはめったにない。算数や英語ができるかできないかというのは、きわめてクリアに点数に出るものなのだ。」(95頁)

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「学力とは学ぶ力ではなく、学んで身につけた知的能力のことである。学校で教えていることとつながる知的能力である。社会や生産に直接役立つ知的能力のことではない。要するに、学力とは生徒(小学生から高校生ぐらいまでの)が身につけている知的能力なのである。世の中で知的能力の高い人を「あの人は学力が高い」とは言わない。学力は産業や行政や研究にすぐに通用する知的能力ではない。学校教育で言う知的能力のことである。」(7頁)

安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年
「「学力」は「学校の教育課程で育てられる能力」であり、それ以上でも、それ以下でもないと考え、子どもの「学力」を全体的かつ絶対的なものとして表しているわけではない、と見るべきだということです。」(107頁)

参考文献

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
問題の本質は「学力低下」ではなく、産業構造の転換によって東アジア型教育の有効性が低下し、「勉強」の意義が見失われ、子供たちが「学びからの逃走」を起こしたところにある。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★★

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
文科省官僚による硬直した中央集権的な教育行政が、現場の教師の創造性を奪い、学力低下をもたらすと主張。少人数学級や現場による教科書採択による、個を尊重する教育を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★

戸瀬信之、西村和雄『大学生の学力を診断する』岩波新書、2001年
大学生の数学力が崩壊したことを、具体的な調査と客観的なデータで訴えた。具体的な問題として経済資本と文化資本による階層分化を挙げ、大学の少科目入試と、義務教育の授業時間削減を批判。基礎学力の重視を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★★★

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年
客観的な調査によって、学力が低下傾向にあることを示すとともに、もっと本質的な問題として家庭環境による格差拡大を提示した。格差拡大が学習成果や学習行動だけでなく、学習意欲にまで影響を与えていることに警鐘を鳴らす。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年
学力論争とは単に学校や教育の内部で終わる話ではありません。本質的には、近代を続行するのか、それとも近代から降りるのかという社会システム選択の問題です。
学力低下の危惧 ★★★★
人格よりも知識 ★★★★

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかった、と判断し、「ゆとり教育」の理念には理解を示す。学力低下を主張する人々に対して、学校が行っている人格形成という仕事を理解していないと批判する。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
学力低下の実態が、実は家庭の文化資本の格差を原因とした学力間格差の拡大であると示す。学力を上げるためには、学校を媒介として子どもの「社会関係資本」を高めることが重要と示唆する。
学力低下の危惧 ★★
人格よりも知識 ★★★