【要約と感想】ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』

【要約】精神科医としての臨床の経験を踏まえると、「個性」などというものは存在しません。ただの幻想です。「人格」も、単に存在が仮定されているものに過ぎません。その代わりに決定的に重要なのは人間関係であり、それを規定する場としての文化です。人間関係の在り方によって、つまり場面が異なれば、人の行動や思考は変わります。精神科医として大事なことは、「人格」や「個性」を所与の前提とせず、クライアントの人間関係の有り様を浮かび上がらせることです。そして精神病を生み出す「社会」の有り様の改善へ足を踏み出すことです。

【感想】人格や個性など仮説に過ぎないという1930年代アメリカの意見というと、もう即座にG.H.ミードを思い出して、何らかの関係があるのかと最後まで読んだが、本書にはミードの「ミ」の字も出てこない(シカゴ学派や社会心理学との関連については言及がある)。しかし専門論文を当たったら、やはり関係があった。後藤将之「George H. Mead のコミュニケーション論について」によれば、サリヴァンは1920年代に「Sapir を介して Mead の仕事を知った」とされ、ミードの論理をさらに先鋭化したということになっていた。そうだろうそうだろう、ガッテンである。
 そしてミードの社会心理学の議論はおそらく1920年代アメリカの高度消費社会を背景として成り立っていたのだろうが、精神科医のサリバンはもっと先鋭的に高度消費社会の被害者たち(特にスキゾフレニア=統合失調症)を目の当たりにしていたはずで、「人格や個性なんて者は仮説に過ぎない」という確信はそうとう強かったのではないかと推察する。

【今後の研究のための備忘録】個性
 編訳者の前書きで、まず全体をこう俯瞰している。

「――「個性とは幻想である」とサリヴァンが言ったとき、それはあまりにラディカルな危険思想として受け取られた。しかしまずそれは端的に、独立ないし自立した人間というのが机上論に過ぎないことの指摘であった。個人ごとの差異を、彼はまったく決定的であるとか、特別視するべきものとは考えない。人間は互いに相違点よりも共通点をずっと多く持っていると信じて「人間集団に対しての精神医学psychiary of people」を唱えたのだった。」10頁

 この「ラディカルな危険思想として受け取られた」というのは、誰にどの程度そうだったのかは気になる。というのは、既に社会心理学者のG.H.ミードが同じようなことを言っていて、シカゴ学派の間ではそこそこ受け容れられていたように思えるからだ。そしてまた精神医学の分野であっても、フロイトやユングに連なる人たちが衝撃を以て迎えるとも考えにくい。
 ともかく、「個性とは幻想である」というテーゼが、思想全体を貫く決定的な軸であることは間違いない。以下はサリヴァン本人の言で、1944年の「「個性」という幻想」からの引用。

「不安の舞台となるのは、「自己self」と呼ばれる人格の一部分です。」102頁
「ここでは「人格の一部分」としたが、「人格」がそもそも仮説であるので、ここで述べているのは仮説内仮説に過ぎないと留意しておくこと。」114頁
「そして人格の作用もまた――一対一ないし多対多の関係を通じてのみ観察されます――目を瞠るばかりであって、そして人間的です。人格は、多数の人々そして文化からなる世界と深く絡み合った生命のコンタクトから生まれるものです。ですからその領野においては、人間が単純素朴であるとか、事物の中心にいて、個々独立していて、単位的であるなどと考えるのはまったく愚かしいことであります。」105頁
人格それ自体は単独で取り出すことが不可能です。」106頁
「それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも唯一無二でもないと明らかになるはずです。私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。」107頁
「「個性とは幻想である」と私が言うのは、そう考えることが実際の対人関係に手を入れることをずっと簡単にしてくれるという意味においてです。これ以外の仮定に基づいた操作をするのでは、理論的にも相当な無理が生じます。別の言い方をすれば、議論の出発点としてどこが一般に都合がいいか、ということを私は言っているのです。」110頁
「私自身についていえば、一人ひとりに備わった特別な個性なるものを仮定する必要はなさそうだと、ここのところ少しずつ考えるようになってきました。」110頁
人間が個々独立した個体であるというのは可能性の一つに過ぎないわけです。そして私が言っているのは、その考え方が果たして役に立っていますか、ということです。」113頁
「あなたが自分の人格を皮膚で覆われた骨格とその付属器に限定したいのならそれで構いません。どういう参照のシステムなら数多の学術用語だとか概念だとか複雑性を片付けられるか、そしてシンプルな操作によってそれと同等の結果を得られるかについて、私はそれと違う提案をします。しかしこのような考え方は、今の教育システムからどうやら相当の反発を受けるようですね。」113頁

 言っていることは明快だ。が、それがオリジナリティに溢れるかというと、21世紀の現在では「ですよね」としか言いようがないありきたりの言辞に見える。現在の生物学の知見を踏まえれば、群体であれ、共生であれ、DNAであれ、一人の人間を単位として絶対視することに有効性はまるでない。だから、このサリヴァンの見解が、1944年の時点で、G.H.ミードの社会心理学とどういうふうに響き合い、どの程度ラディカルなものと見なされていたのか、ということが関心の対象となる。

 さて、他の論文からも「人格」の用例サンプルを得られる。

人格personalityとはまず第一に、ヒトという可塑的動物に被せられた、文化なるものの産物である。西欧文明といえども不均一であって、その内側に多くの下位文化をもっている。下位文化の間では矛盾や対立のあることが珍しくない。そのなかにある個々の人格とはどういっても<様々な対人関係を取りまとめる比較的に持続性のシステム>以上のものではないだろう。いずれは満足とか安全保障の感覚に回収されていくものだ。人格が成長していく途上には障害物とか、余計な口出しばかりであるから、そのせいで前進と後退を繰り返し、そのうちに落ちぶれていく。それでいながら自己意識self-consciousnessは人格のことを独立独歩で、一定不変で、無矛盾なシステムとして認識する。自分で自分について語るときはとてもシンプルで、今日の記憶と機能の行動が違っていても気にはならない。だからこそ逆に、言行不一致を他人から指摘されると人間はまったく落ち着かなくなって、自尊感情が傷つくことを恐れて「何か」しなければいけない気分になる。」146頁

 上は「プロパガンダと検閲」と題された論文からの引用だ。「人格の一貫性」について正面から説こうという趣旨ではなく、人に影響力を行使するにはどうしたらいいかという関心から書かれていて、そして「人格の不一致」こそが相手をぐらつかせると言っているわけだ。まあ、「ダブスタ」を衝いたら「はい論破」と言えるのは、こういう理屈が背後にあるわけだ。しかしそもそも「人格の一貫性」そのものが成立しないのであれば、「ダブスタ」をいくら衝かれても、痛くも痒くもない。場面によって人格が切り替わるのは、当たり前のことなのだ。

「精神科医がクライアントについて一切合切を知ろうとすることはない。人格なるものは定義不能であり、たえず動きながらあると知っているからである。」247頁

 上は「緊張―対人関係と国際関係」にある一文だ。臨床の場面で「人格」概念が役に立たないと言っている。実際、そうなのだろう。ただし、具体的な人間関係が成立する場面において,「人格」という概念の実質的な意味内容である「人間の尊厳」という観念は、決定的に重要な役割を果たす可能性はある。

【今後の研究のための備忘録】人格と国家
 そして興味深いことに、人格と主権国家の相似性を指摘する一文がある。

「国家はその周囲に他国のあることを前提としていると同時に、他国から独立して機能するための組織を備えるものである。この二点によって国家が他の集合体と決定的に区別されるとしたギュルヴィッチの議論は、まさに正鵠を得ている。国際的運動の核となるような組織は他にあるにしても、しかし主権を与えられている点で国家はやはり特殊である。
 無数の準・国家的な運動が収束するところに国家が成り立ち、そして主権の行使という独特のプロセスによって結束されている。これは内的ないし相互的な作用が人格のもとに統合されていることと並行しているように思われる。国家のもつ主権とは、個々の人間に受け継がれてきた方式が、歴史を通じて具体的な形をとるに至ったものであると私は考えている。」278-279頁

 国家と人格に相似性を認める議論は、もちろんプラトン以降2400年の伝統を持っている。近代の主権国家誕生以降も、ドイツ国家学や国家有機体論でお馴染みだ。この一精神科医の発言が、はたして精神科医としての臨床の経験から出てきたものか、それとも逆に20世紀半ばにはまだ影響力を持っていた国家有機体論に影響されたものなのか、興味は尽きないところだ。

ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹訳、講談社学術文庫、2022年