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【要約と感想】苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』

【要約】日本の教育政策がどうして迷走を続けているかというと、現実に基づいた帰納的思考が貧弱だからです。具体的には、「近代(化)」という言葉を追いかけると、よく分かります。
日本は「追いつき追いこせ」の近代化を進めてきましたが、1980年代に西欧に追いついたと思い込み、「近代は終わった」と公言しはじめました。しかし「近代」とは、我々の生活をより良くしていこうという「現在」を含み込んだ考え方だったはずです。日本は「近代は終わった」と声高に叫ぶことで、むしろ「現在」を考える視点を失っただけでした。そして「近代」という参照軸を失って空虚になった1980年代以降、エセ新自由主義やエセ愛国主義が蔓延することになります。

【感想】著者が本文で何度も断っているように、本書は「言説分析」に終始している。つまり空中戦だ。著者ご本人は教育社会学者として「地上戦(つまり実態分析)」でたくさんの成果を挙げてきた。しかし本書で空中戦に挑むのは、せっかく地上戦で戦果を挙げても、空中戦で全て台無しにされてしまうというふうに、何度も煮え湯を飲まされてきたからなのだろう。本書でも、社会学者の着実な業績を台無しにし続ける官僚=東大法学部に対する恨み辛みが垣間見えるところである。著者は東大法学部に特有の思考様式を分析した上で、それを「エセ演繹思考」と切って捨てる。教育改革が迷走し続けるのは、官僚や学者がエセ演繹思考にしがみついているからだ。そう喝破して、返す刀で新自由主義やナショナリズムを薙ぎ倒す筆致は、迫力に溢れている。とても読み応えがあった。

【要確認事項】
とはいえ、明治期を主戦場とする日本教育史研究者としては、ハテナと思うところもないわけではない。
まず個人・国家・世界の関係について、著者は「個は国家(特殊)を通じて世界(普遍)に至る」という予定調和的な理想主義に触れて臨時教育審議会を分析しているが、こういう理想主義は、戦後どころか、明治20年代後半には既に広く見られる発想である。特に岡倉天心や三宅雪嶺には顕著だ。三宅雪嶺「真善美日本人」などは、そういう「特殊=日本/普遍=世界」理解を素直に体現している。「日本的な「特異」性を否定するのではなく、それを肯定する日本への回帰が強調されるようになる」(97頁)のは、まさに岡倉天心の思想そのものだ(詳細は私の論文「明治10年代の美術における国粋主義の検討」参照)。そして戦後直後においても、南原繁や上原専禄が同じような見解を表明している。臨時教育審議会から始まったわけではない。「特殊/普遍」に対する発想を戦後のものと見なすのは、思想史的に疑問とせざるを得ない。
まあ、この論点が崩れたところで本書全体の趣旨は損なわれないだろうとは思うが、専門家としては気になるところだ。
そして、「近代」という言葉で空中戦を行うなら、柳父章『翻訳語成立事情』の「近代」項目は参照必須文献だと思うのだが、敢えてスルーしたのかどうか。一言も触れられていないのは、ちょっと気持ちが悪いところだ。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」と「個性」に対する興味深い言及があった。

「ここでは「日本国民は人間性、人格、個性を十分に尊重しない」という問題を構築したうえで、「人間性、人格、個性」の三つの言葉にわざわざ説明を加えている。これらの概念が日本人には理解されていなかったという暗黙の前提がはたらいたのだろう。今日これらの言葉にこのような説明が不要なことを念頭に置けば、異様な感のする説明である。それほど、これら三つの言葉で示された価値が、戦前の日本には欠落していたとみなされていたのだろう。」(189頁)

驚いた。私は、現在でも日本人の大半が「人間性」「人格」「個性」という言葉を理解していないと思っている。チコちゃんから街の人に「人格って何?」と聞いてもらえばいい。大半の日本人は「ボーっと生きている」はずだ。私にしても、うまく説明できる自信はない。これらの言葉は、わかったつもりでいるが、改めて聞かれると説明できない類の「翻訳語」だ。きっと柳父章も賛成してくれるだろう。しかし著者は「説明が不要」と言っているわけだ。
まあ、著者としても、本気で言っているというよりは、筆が滑っただけのような気はする。というのも、まさに「人格」とか「個性」という言葉こそ、著者が気迫を込めて批判している「エセ演繹思考」の元凶だろうからだ。帰納的に経験や事実が積み重ねられて鍛えられた言葉ではなく、必要に迫られて(法学や経済学で必要な概念だから)海外から輸入されて、意味も分からないままに使用しているうち、なんとなく理解したようなつもりになっただけの、表面的で浅い言葉なのだ。本書でも「多くの近代法を含め、日本語にはもともとなかった観念や、翻訳によっても、日本の過去に対応物がなかったり、観念レベルでまったく異なる制度を導入しようとする場合には、外来の知識の学習を頼りに、そこからの演繹的な思考によって導きだされる理解に基づいて、制度をつくりだすしかなかったはずだ。」(282頁)と指摘しているところだ。
そしてだからこそ、著者の分析枠組み通り、1980年代以降の「近代の消失」と「経済の前景化」に伴って、「人格」や「個性」という言葉の意味はガラリと変わる。たとえば臨時教育審議会以降に「個性」という言葉から人文科学的な背景が剥落し、単に経済的な適材適所を意味するようになったのは、数々の臨教審研究が明らかにしているところだ。「人格」という言葉についても、今時学習指導要領改訂に関わった人々が、歴史と哲学に基づかない極めて皮相な経済中心的見解を示している(国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』参照)。「人格」や「個性」という言葉は、日本の現実に基づかず、「エセ演繹思考」のド真ん中(まさに教育基本法第1条)に居座っていたからこそ、逆に意味内容を完全に失いながらも現在まで生き延びていると言える。意味内容を真剣に問われることもないまま、「わかったつもり」の人々が、「エセ演繹思考」に従って使い続けるのである。だから学習指導要領解説編の「人格」という言葉は、極めて薄っぺらいものになっているわけだ。
ちなみに『新教育指針』における「人格・個性・人間性」理解は、明治後期から大正期にかけてカント及び新カント派の受容を踏まえた教養主義的な見解そのままと言える。そしてそれは天野貞祐『国民実践要領』なり『期待される人間像』にまで引き継がれる理解である。1900年から1970年までは、「人格」理解はカント的な背景で一貫している。それががらりと変わるのは、1980年以降のことになる。具体的には、カント的な理解が通用しなくなり、経済(能力)至上主義的な発想と儒教的な発想の2つが忍び込んでくる。その変化を説明する理論枠組みとして、本書が指し示した「近代が消された」という分析は極めて有効だ。「人格」からはカント(近代哲学)が殺されたのだ。実行犯は「経済至上主義」と「薄っぺらい愛国主義」だ。黒幕は、本書全体の行論が指し示すとおりだろう。
そんなわけで、著者自身は理論的な分析枠組みをしっかり提出しているのに、その枠組みを「人格」や「個性」という「エセ演繹思考」の元凶であろう言葉に及ぼさなかったのが、驚いたのであった。

それから、著者が「近代」の本質として「再帰性」を挙げているところは興味深い。自分自身が自分自身を「反省」して自分自身を変えていくというのが「再帰性」である。再帰性の要点とは、「絶え間ない変化」を繰り返しつつも、それでも「自分自身は自分自身のまま」というアイデンティティ(同一性)を保つところである。「変化しても変化しない」というのが再帰性というものが果たす機能である。つまり本書の趣旨から言えば、「近代は終わった」と認識することは、「変化するのか変化しないのか、どこをどう考えていいか分からない」という状態に陥ることを意味している。
実は「人格」というものの本質も、同じく「再帰性」である。私の定義では、「人格」とは「再帰的な一」であることに尽きる。そしてそれは「国家」にも適用できる。いやむしろ、「近代国家」と「近代人格」の本質が「再帰的な一」として相似的であるのが近代という時代の特徴とも言える。そして日本では、良いか悪いかは別として、この「再帰的な一」としての「人格」が決定的に理解されていないだろうと思うのだ。だから「アイデンティティ」という言葉の意味もわからなくなる。
しかし「再帰性」を本当に実現するためには、前期ヴィトゲンシュタインの指摘をまつまでもなく、必ず自分自身の中に「特異点」を必要とする。特異点を一つ以上設定しなければ、「再帰的な一」は成立しない。西欧諸国の場合は、それが「神」だった。日本の場合は「天皇」となった。特異点は何でもよい。「眼鏡」でもよい。本当に「近代」というものを突き詰めようと思ったら、本当はこの「特異点」にまで手を突っ込む必要がある。しかし本書は、その痒いところに手が届く前に終わっている。著者も自覚しているが。

苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』岩波書店、2019年

【要約と感想】キケロー『弁論家について』

【要約】弁論家とは、あらゆる知識を持ち、個別の事柄を普遍性に関連づけながら、ふさわしい言葉で語る者のことです。弁論術を構成する学術は現在ではバラバラに分割されていますが、本来は一つです。すなわち自由人に相応しい人間的教養が決定的に大事です。

【感想】日本においては、「演説」という言葉が明治時代に入ってから初めて翻訳語として登場した事実からも伺えるように、声によって物事を弁ずることの価値がさほど高くない。価値が高いのは、「書かれたもの」だ。だから江戸時代までは、話し言葉としての日本語を洗練させるのではなく、書き言葉としての漢文を洗練させることに意が注がれていた。現代においても、「弁舌」とか「演説」とか「講演」といったものに対する尊敬というものは、さほど高くないような気はする。今でも「書かれたもの」の優先順位が高いと思うのだ。(そういえば古代中国でも、諸子百家が蠢いていた春秋戦国時代あたりは弁舌の価値が極めて高かったように思う)
そういう文化にどっぷり浸かった者の目から見ると、「弁論」について微に入り細をうがって展開する本書の内容は、あらゆる意味で遠い国の出来事のようにも感じるのではあった。

ところで個人的に興味深いのは、ことあるごとに言及される「ギリシアとローマとの比較」だ。キケローが言うような、ギリシアが哲学的・思弁的(現実離れ)なのに対し、ローマは現実的・実践的という図式は、現代でもお馴染みのものではある。ただしキケローは一般的なそういう図式を踏まえつつも、ローマのほうが哲学的にも優れているという議論を巧妙に滑り込ませてくる。
そして、本論のテーマである「弁論家」こそが、ローマが実践的でありつつも、同時にギリシアに負けないほどの奥深い哲学的文化を開花させていることの実例となっている。ローマにおける「愛国心」や「独自性」というものが、ギリシア文化との対比の過程から生じてくる例として、なかなか興味深い。日本の「愛国心」というものも中国文化との対比の過程から生じてきたわけだが(たとえば本居宣長は分かりやすい)、この心理的メカニズムは人類に普遍的だということかどうか。

本書の議論を現代に敷衍するのなら、「評論家」とか「知識人」というものの有り様について考えさせる内容なのかもしれない。専門的な深い知識にも通暁しつつ、一方でそれを分かりやすく噛み砕いて格好良く表現し、一般大衆の心を動かすという点で。専門家ではなく「知識人=普遍的な人間的教養を備えた人格」が必要であることを主張する上では、本書は現代にも通じていると言えるのかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教育」に関する言及がたくさんあった。

「学芸の要諦はふさわしさであり、しかも、唯一これだけは学芸によって授けることのできないものだ」上巻82頁

持って生まれた素質の重要性を踏まえ、教育の限界を示している言葉だ。今の言葉で言えば「センスは生れつき」ということになるか。

「語ろうとする者、あるいは書こうとする者は、子どもの頃に自由人にふさわしい教育と学問を施された者でありさえすればよく、さらに、情熱に燃え、天性の助けを得、一般的・包括的な主題に関する非限定的な問題の論争の修練を積み、誰よりも詞藻を凝らした著作家や弁論家を範に選んで知悉し模倣しさえすればよいのである。」下巻188-189頁

教育について、大人になってからの専門学校(この場合は弁論家養成学校)は必要ないという議論だと理解するところか。キケローは繰り返して専門的な知識など必要なく、基礎的・普遍的な知恵さえ備えていれば立派な弁論家になれると論じる。専門家を育てるための学校を揶揄する。大人になってからは素質と実践と修練が大切で、誰かから知識を教えてもらえるなどということはないということだ。逆に、子どもの頃の基礎教育は「自由人にふさわしい」というところが重要なのだろう。

「およそ教養ある人が学ぶにふさわしく、また、国政で抜きん出ようと望む人が学ぶにふさわしい事柄の教育体系は一つであったのであり、その教育を施された者は、言葉を操る才知の力に恵まれており、さらに、天性に妨げられることなく弁論の道に邁進したかぎりにおいて、余人にまさる人になったのだと。」下巻199頁

ここでいう「教育体系は一つ」というのは、もちろん188-189頁に記されている「自由人にふさわしい教育」を指す。しかしやはり「天性」というものが考慮されているのは見逃せないところだ。

プラトン『国家』に対する具体的な批判があるのも、記憶しておきたい。思弁的なギリシアと実践的なローマとの対比にも直接つながる論点である。

「プラトーンは、こうした正義や信義を言葉で表現しなければならないと考えて、ある種の斬新な国家像をその書で描き出してみせたが、正義について彼が語るべきと考えた事柄は、日常生活の習いや一般の国家の慣習とはあまりにもかけ離れたものなのである。」上巻137頁

キケローがプラトンを低く評価するのに対して、ゴルギアスやプロディコスなどソフィストたちを比較的好意的に評価するのも、こういう観点からになる。

キケロー・大西英文訳『弁論家について(上)』岩波文庫、2005年
キケロー・大西英文訳『弁論家について(下)』岩波文庫、2005年

【要約と感想】プラトン・岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』

【要約】世界はこうやってできたのじゃ(ワシの脳内ではな)。ちなみにアトランティス大陸もあったけど、滅びたよ。

【感想】中世ヨーロッパでは最も読まれて影響力が強かったプラトンの著作ということではあるけれど、現代の我々の目からみれば荒唐無稽極まりない。学ぶべきものはあまりなく、「昔はこう考えていたのね」という歴史的資料としての価値しかないように思える。また特に、ソクラテスなら逆立ちしても関心を持たなさそうなテーマであることに間違いなく、ソクラテスのファンからしてみれば「この不肖の弟子めが」と言いたくなるような、辟易する内容でもある。数学的な理屈で以て世界の成り立ちを説明するのは、ソクラテスの徒ではなく、ピュタゴラス一派がやることだ。(だからといって悪いということではないけれど)

まあ、ファンタジー小説家やゲームデザイナーが読めば、ひょっとしたらインスピレーションの源泉となるような記述が豊富なテキストかもしれない。比で成り立ってる世界とか、四大元素の成り立ちとか、重要な二つの三角形とか。

【今後の個人的研究のための備忘録】
教育に関する言及についてメモしておく。

「そしてまた、一般に、快楽を抑制できないことが、悪しきことが故意になされるかのように非難されるが、このような非難は不当である。なぜなら、誰も故意に悪いわけではないからであり、悪しき人が悪くなるのは、身体のあり方がどこか不良であることと無教育な仕方で育てられたことによるからである。」158頁
「これに加えて、人間の出来がこのように悪い時に、国政が悪く、悪しき言論が、国家で公私ともに語られ、その上、こうした害悪を癒せる学課が、若い時から少しも学ばれなければ、このような条件にあっては、悪しき人は皆二つのことを通じて非常に心ならずも悪くなるということになる。だから、これらのことについては、常に、生まれる子どもよりも、生む親たちを、また、養育されるものよりも、養育するものたちを責めるべきである、」159頁

プラトン・岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』白澤社、2015年

【要約と感想】松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』

【要約】従来の研究では、イデアに対して一性ばかり注目されてきましたが、イデアの「多性」に注目すると、それまでアポリアと捉えられてきた問題を整合的に理解できます。そのことによって、プラトン中期から後期への連続性も確認できる上、二つのディアレクティケーの相互関係も論理的に整理できます。
それもこれも、従来の哲学研究が方法論に対して無自覚だったのが大問題で、本来ならプラトンのテキストに即して理解するべきです。

【感想】痒いところに手が届く、けっこうありがたい本だった。イデアには「多性」もあると専門家に断言してもらって、しかも「一性/多性」=「本質/関係」という図式も示してもらって、個人的にはとても助かるのであった。
本書ではもちろん一切言及されていないが、この考え方は明らかにキリスト教の「三位一体」と同じ発想に基づいている。三位一体とは、神の本質は一つだが現れ方(つまり人間に対する関係)は3つ(父・子・聖霊)あるという教義だ。後期プラトン→新プラトン主義→キリスト教神学という流れを踏まえると、本書の主張はキリスト教三位一体まで射程距離に入れて考えてもいいような気がした。もちろん厳密な立証はできないが。

【この論理は眼鏡学に使える】
本書の内容は、眼鏡学に対しても多大な霊感を与える。「イデアの多性」と「分割/総観」という論点からは、「眼鏡っ娘がメガネを外したら眼鏡っ娘でなくなるのか?」という疑問に対して、一つの回答を与える。確かに眼鏡っ娘を「分割」したら、「眼鏡/娘」になって、眼鏡っ娘そのものは消失したかのような印象を与える。しかし「イデアの一性と多性」を踏まえると、仮に眼鏡っ娘を分割して「眼鏡」および「娘」に分かれて「眼鏡っ娘の多性」が確認できたとしても、しかしその手続きによってもともとの「眼鏡っ娘の一性」が失われたわけではない。
そして「イデア界が現実界にどのように関わるか」という関心から「瞬間」という論点が扱われていたわけだが、眼鏡っ娘に関しても、「眼鏡をかけたり外したりする瞬間」という特異点が大きな問題となっている。仮に眼鏡をかけていると眼鏡っ娘だとしたとき、では「眼鏡をかけた瞬間とはいつのことか?」という問題があるわけだ。これは「眼鏡っ娘ではなかったものが眼鏡っ娘になる」という意味で「イデアが現実界に影響を与える」という具体的な事例と言える。

松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』晃洋書房、2018年

【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年