「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】プラトン・岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』

【要約】世界はこうやってできたのじゃ(ワシの脳内ではな)。ちなみにアトランティス大陸もあったけど、滅びたよ。

【感想】中世ヨーロッパでは最も読まれて影響力が強かったプラトンの著作ということではあるけれど、現代の我々の目からみれば荒唐無稽極まりない。学ぶべきものはあまりなく、「昔はこう考えていたのね」という歴史的資料としての価値しかないように思える。また特に、ソクラテスなら逆立ちしても関心を持たなさそうなテーマであることに間違いなく、ソクラテスのファンからしてみれば「この不肖の弟子めが」と言いたくなるような、辟易する内容でもある。数学的な理屈で以て世界の成り立ちを説明するのは、ソクラテスの徒ではなく、ピュタゴラス一派がやることだ。(だからといって悪いということではないけれど)

まあ、ファンタジー小説家やゲームデザイナーが読めば、ひょっとしたらインスピレーションの源泉となるような記述が豊富なテキストかもしれない。比で成り立ってる世界とか、四大元素の成り立ちとか、重要な二つの三角形とか。

【今後の個人的研究のための備忘録】
教育に関する言及についてメモしておく。

「そしてまた、一般に、快楽を抑制できないことが、悪しきことが故意になされるかのように非難されるが、このような非難は不当である。なぜなら、誰も故意に悪いわけではないからであり、悪しき人が悪くなるのは、身体のあり方がどこか不良であることと無教育な仕方で育てられたことによるからである。」158頁
「これに加えて、人間の出来がこのように悪い時に、国政が悪く、悪しき言論が、国家で公私ともに語られ、その上、こうした害悪を癒せる学課が、若い時から少しも学ばれなければ、このような条件にあっては、悪しき人は皆二つのことを通じて非常に心ならずも悪くなるということになる。だから、これらのことについては、常に、生まれる子どもよりも、生む親たちを、また、養育されるものよりも、養育するものたちを責めるべきである、」159頁

プラトン・岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』白澤社、2015年

【要約と感想】松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』

【要約】従来の研究では、イデアに対して一性ばかり注目されてきましたが、イデアの「多性」に注目すると、それまでアポリアと捉えられてきた問題を整合的に理解できます。そのことによって、プラトン中期から後期への連続性も確認できる上、二つのディアレクティケーの相互関係も論理的に整理できます。
それもこれも、従来の哲学研究が方法論に対して無自覚だったのが大問題で、本来ならプラトンのテキストに即して理解するべきです。

【感想】痒いところに手が届く、けっこうありがたい本だった。イデアには「多性」もあると専門家に断言してもらって、しかも「一性/多性」=「本質/関係」という図式も示してもらって、個人的にはとても助かるのであった。
本書ではもちろん一切言及されていないが、この考え方は明らかにキリスト教の「三位一体」と同じ発想に基づいている。三位一体とは、神の本質は一つだが現れ方(つまり人間に対する関係)は3つ(父・子・聖霊)あるという教義だ。後期プラトン→新プラトン主義→キリスト教神学という流れを踏まえると、本書の主張はキリスト教三位一体まで射程距離に入れて考えてもいいような気がした。もちろん厳密な立証はできないが。

【この論理は眼鏡学に使える】
本書の内容は、眼鏡学に対しても多大な霊感を与える。「イデアの多性」と「分割/総観」という論点からは、「眼鏡っ娘がメガネを外したら眼鏡っ娘でなくなるのか?」という疑問に対して、一つの回答を与える。確かに眼鏡っ娘を「分割」したら、「眼鏡/娘」になって、眼鏡っ娘そのものは消失したかのような印象を与える。しかし「イデアの一性と多性」を踏まえると、仮に眼鏡っ娘を分割して「眼鏡」および「娘」に分かれて「眼鏡っ娘の多性」が確認できたとしても、しかしその手続きによってもともとの「眼鏡っ娘の一性」が失われたわけではない。
そして「イデア界が現実界にどのように関わるか」という関心から「瞬間」という論点が扱われていたわけだが、眼鏡っ娘に関しても、「眼鏡をかけたり外したりする瞬間」という特異点が大きな問題となっている。仮に眼鏡をかけていると眼鏡っ娘だとしたとき、では「眼鏡をかけた瞬間とはいつのことか?」という問題があるわけだ。これは「眼鏡っ娘ではなかったものが眼鏡っ娘になる」という意味で「イデアが現実界に影響を与える」という具体的な事例と言える。

松浦明宏『プラトン後期的ディアレクティケー―イデアの一性と多性について』晃洋書房、2018年

【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年

【要約と感想】相馬伸一『コメニウスの旅<生ける印刷術>の四世紀』

【要約】コメニウスは、教員採用試験レベルでは『大教授学』や『世界図絵』のみに依拠して「近代教育学の祖」とされてきましたが、それは近代的な関心からコメニウスの一部を都合良く切り取って歪めた語りに過ぎません。また近代批判の文脈に巻き込まれてコメニウスが非難されることもありますが、これも現代的な関心からテキストの一部を恣意的に切り取ったものです。さらに民族主義や史的唯物史観など、コメニウスは時代によって様々に異なる立ち現れ方をします。しかしだからといって、コメニウスの実像を客観的に記述するべきという単純な話にはしてはいけないのです。
コメニウスの語られ方を四世紀に渡って確認することで、教育と歴史が実践的な関心にどう応えるかという課題が浮き彫りになっていきます。

【感想】とてもおもしろく、かつ勉強になり、様々な霊感を与えてくれる、素晴らしい本だった。一点突破全面展開のお手本のようなスピード感溢れる内容で、一気に読み終わってしまった。
いやあ、教育原理の授業でコメニウスをどう扱うかヒントを得ようと思って読み始めた本だったわけだが。もともとは、ヤン・ジシュカを扱ったマンガを枕にして、ミュシャに着地しようかなんて安易な考えを思っていたけれども、そんな小手先の工夫でコメニウスを扱うのではすまなされないような衝撃を受けた。とはいえ、二十歳前の学生に伝えるにはどうしても情報の縮減をしなければならないわけで、私自身が実践的な課題の前に立たされるのであった。いやはや。

私自身の年来の関心に引きつけて言えば、「教育の<教>は宗教の<教>」であることが強烈に再確認できたのが極めて大きな収穫であった。たとえば東洋の教育思想(具体的には儒教と仏教)を語る上でも、「教育(教)=宗教(天)」の全体像をイメージしておかないと、本質を見失う。教育を単なる「技術=手段」であると見なすと、とんでもない見当違いに陥る。またあるいは、プラトンやアリストテレスを考える上でも、教育は単なる「技術=手段」なのではなく、それが国家存在理由の「目的=本質」でもあることを押さえておく必要がある。要するにかつての「教」は、現代の「教育」とは射程距離がまったく異なっている。そもそも「教」という漢字は、神の声を聞くための占いをしている形象に由来するのだった(※諸説あります)。私の関心に引きつけて恐縮ではあるが、コメニウスも同様に、「教育」ではなく「教=神の声を聞く」の射程距離で理解しようと努める必要があることが、よく分かった。この「教」の射程距離の話を、「教育=手段」という近代的な学校経験で凝り固まった学生たちにどのように伝えるのか。いやはや。

本書が手法として用いた「メタヒストリー」は、様々な対象に施すことができる。私の関心に引きつけて恐縮ではあるが、たとえば具体的に、日本教育史では「足利学校のメタヒストリー」なんかは、かなりおもしろいのではないかと思う。(※参考「【栃木県足利市】足利学校は日本最古の学校じゃないよね?」)

【今後の個人的な研究のための備忘録】
私の専門の明治日本教育史の話も出て来た。谷本富が明治28年の著作で「コメニウス/ペスタロッチー」を「実質陶冶/形式陶冶」の対として理解していたという話だ。本書には出てこなかったけれども、谷本が本当に言いたかったのは、その実質陶冶と形式陶冶の統合を実現したのがヘルバルト教育学だという理屈だったはずだ。
しかしところで、日本人がこのように「実質陶冶/形式陶冶」を理論的に理解するようになったのは、私の観察では明治25年頃のことだ。そもそも日本人が「形式」という言葉を頻繁に使用するようになったのは明治25年前後のことだ。明治10年代には、「形式」という言葉自体に出くわすことが極めて希だ。また「内容」という言葉は影も形もない。たとえば福沢諭吉は一切使用していない。ところが明治25年を過ぎると、いたるところに「形式/内容」の二分法が現れるようになる。谷本が「コメニウスは実質陶冶」と主張したのは、まさにこの黎明期に当たる。「形式/内容」二分法的思考の黎明期に、コメニウスは実質陶冶代表として登場せしめられた瞬間、ヘルバルトによって止揚されることとなった。ヘルバルト教育的教授の前座としての「コメニウス=実質陶冶/ペスタロッチー=形式陶冶」という扱いだったわけだ。なるほどなあ。
私の年来の追究課題である「形式/内容」二分法思考の日本での定着過程を考える上でも、ちょっとしたインスピレーションを受けたのであった。

相馬伸一『コメニウスの旅<生ける印刷術>の四世紀』九州大学出版会、2018年

【要約と感想】北詰裕子『コメニウスの世界観と教育思想―17世紀における事物・言葉・書物』

【要約】コメニウスの教育思想の特徴は近代的な「事物主義」とされてきましたが、実際には前近代(17世紀)的な性格を色濃くもっています。コメニウスの教育思想は、単に「方法」として見るだけでは理解できません。「神の三書」という存在論や17世紀の言語観(普遍言語構想)を踏まえて、初めて全体像が見えてきます。コメニウスの言う「事物」とは、現代の我々が考えるような客観的な対象ではなく、「神の三書を読む文字」でした。

【感想】とてもおもしろく読んだ。
大学の講義(教育原理)でコメニウスを扱う必要が当然あって、西洋教育史の概説書はいくつか読んできているわけだが、ことコメニウスに関しては、正直、位置づけがよく分からなかったのだった。具体的には、実際に『世界図絵』を読む限り、それが「近代的な教育」に連なるものとはどうしても思えなかったのだ。どういうことか知ろうと思って概説書をなぞっても、だいたい「感覚主義」とか「事物主義」と言って終わってしまい、本質が見えてこないのだった。そこで一念発起して、ちゃんとしたコメニウス研究書を読もうと思って本書を手に取ったわけだが。いやはや、とてもおもしろかった。勉強になった。

結果として、「コメニウスは近代じゃないだろう」という私の違和感は、半分当たっていたようだった。私の理解では、これは「教育」ではなく、「教」だ。「教育」の「教」は「宗教」の「教」でもある。そういう、教育と宗教が未分化である「教」の世界が展開されているのが、コメニウスの世界だ。本書の結語でも仄めかされているように「教育」だったら単なる方法に落とし込むこともできなくはないが、「教」であったら世界観や存在論と切り離すことは不可能だ。
そしてその世界観や存在論は、間違いなく「進化論以前」のものだ。本書自体には「進化論」というモチーフはまったく出てこなかったわけだが、私の読み取りでは「前近代」というよりは「進化論以前」の認識論・存在論という印象が強く残った。というのは、コメニウスの言う「事物」とは、進化論以後の私たちが考える「個物」ではなく、「類」に相当するように読めたからだ。
本書ではそれをプラトン主義的に「イデア」と呼んでいたが、アリストテレス的に言えば「類」ということになる。コメニウスの言う「事物」が「個物」ではなく「イデア/類」であると理解すれば、『世界図絵』がどうしてああなっていたのか、すんなりと理解できる。コメニウスは「類」の体系を漏れなく網羅的に示すことが可能であり、義務であると考えていたわけだ。完全に進化論以前の発想だ。(なんとなく、朱子学の言う「格物」の「物」に近いかもしれない。フーコー『言葉と物』を読みかえさねば…)
だから、「コメニウスは近代じゃないだろう」という理解は半分間違っていて、正確には「進化論以前だろう」と理解するべきところだったわけだ。たとえば「進化論」や「熱力学」の前には、普遍言語としての数学を用いて世界を完全に記述できるという認識と義務観が存在していた。そしてそれは近代的な価値観であり、そういう意味ではコメニウスも近代的な価値観を共有しているように思える。

それから、コメニウスが世界そのものを学校だと捉えていたところなど、極めて興味深かった。プラトンとの親和性を想起させるところでもある。プラトンは教育を学校だけで完結するものではなく、本質的には「正義の法」に基づいた社会教育であるべきだと捉えていた。コメニウスも、学校教育は8段階ある人生行路のうちの前半部分で必要となるだけで、最終的には世界そのものが学校になると言う。

そんなわけで、新プラトン主義の射程距離の長さにも、改めて驚く。私が追究している「人格」という近代的概念の背後には、どうやら新プラトン主義が控えている。
講義に活かせるかはどうかは分からないが、少なくとも個人的にはかなりスッキリした。ありがたい本であった。

北詰裕子『コメニウスの世界観と教育思想―17世紀における事物・言葉・書物』勁草書房、2015年