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アリストテレス『政治学』

【要約】国家の形には様々ありますが、いずれにせよ、国家の目的としていちばん重要なのは教育であり、そして国家を維持していく手段としていちばん重要なのも教育です。

【感想】タイトルは「政治学」となっているけれども、教育思想の本として読むわけだ。
というのも。ニコマコス倫理学で一人の人間の幸福について考察したアリストテレスは、その興味関心と結果を引き継いで、人間の集団である国家へと議論を展開していく。さすがアリストテレスだけあって、多様な国家の形態を緻密な議論の運びで縦横無尽に検討していく。しかしアリストテレスの議論は、最終的に教育へと着地するのだ。教育は「目的」と「手段」の二つの意味で、国家にとっていちばん重要なものとされている。

まず、アリストテレスは国家の存在意義について検討し、社会契約論的な見方を明快に切り捨てる。アリストテレスによれば、お互いの利益を図るために作られた国家など、形式的に成立しているだけの、まがいものの国家に過ぎない。ほんものの国家は、ただの互助団体や軍事同盟などとは全く違うものである。国家は国民を幸福にするために存在するものでなければならない。そして幸福とは、ニコマコス倫理学で既に明らかになっているように、徳に満ちた生活を送ることだ。つまり国家とは、ただ人々が「生きる」ために存在するのではなく、人々が「善く生きる」ために存在しなければならないのだ。そして、「善く生きる」ことを知るためには、教育を受けなければならない。ただ単に「生きる」だけなら、食料や住居など生活必需品が行き渡るように工夫するだけでよい。しかし「善く生きる」ためにはそれだけでは不十分で、人々が「徳」について自覚を深めなければならない。だからほんものの国家は、国民の「徳」を呼び覚まし、ほんものの幸福な人生を与える。国家の本質は、教育機能にあるのだ。
そんなわけで、本書の解説も「それなら国は簡単には何団体と呼んだらよいか。敢えて言えば、優れた意味において、「教育団体」である。従って国はその国民のいろいろな徳の涵養を第一の、主要な任務としなければならない。」(460頁)と言っている。
ただし、ちなみにこの場合の教育とは、我々がすぐさまイメージするような学校教育を指してはいない。アリストテレスがイメージしているのは「社会教育」である。実際、アリストテレスが生きた時代には、中等教育は存在していなかった。教育=人間形成は、実際の社会の中で行われる。だから社会教育の具体的な手段が真剣に議論され、その際に「法律」が大きな問題となるわけだ。さらにちなみに言えば、ルソーが『エミール』の中で「ほんものの市民教育は失われ、二度と復活しない」というようなことを言っているが、おそらくギリシア時代に行われていた「法律を土台とした社会教育」のことを指していると思われる。

このような教育国家は、おそらくアリストテレスだけのものではなく、東洋にも広く見られる考え方であるように思う。特に儒教的な考えでは、善い君主は同時に善い教育者であらねばならない。というか、「天」から与えられた「道」を人々に指し示すことが君主の役割なのだから、そもそも善き教育者であることは君主であることの必須条件だといえる。そしてそれは「教」という漢字の成り立ちからも伺うことができるだろう。人々を支配するとは、「道」と「教」を手に入れることに外ならない。教育権を放棄した権力などというものは、想像することすらできない。支配するとは、教育するということなのだ。
もちろんこの場合の教育も、我々がただちにイメージするような学校教育のことではない。「宗教」も含め、人間の価値観全体を一つの方向に染め上げるような権力のことだ。「教育」の「教」という漢字が「宗教」の「教」でもあることを想起しなければならないところだ。「教育」は、近代的な感覚では、ただ単に価値中立的な知識を与えることを意味しがちだ。しかしアリストテレスにせよ儒教にせよ、「教」とは価値中立的な知識を機械的に与えるものなどではなく、人の価値観全体を強制的に作り上げる力だ。

だから当然、あらゆる国家を滅亡から救うのは、「教育」以外にはない。国家のあり方に相応しいような形で教育が行われているとき、国家は存続していく。逆に、国家のあり方に逆らうような形で教育が行われるとき、国家は容易に滅亡する。これは「教=人に価値観を植えつける」の定義からして必然的な帰結であると言える。というわけで、教育は国家存在の「目的」であると同時に、国家を保持存続させるために最も重要な「手段」でもある。というわけで、本書の全8巻のうち、最後の第8巻はまるまる教育に関する議論に費やされることとなる。
この教育の議論が、なかなか興味深い。たとえば、どのような順番で教育を行うかという議論では、まず「体育」を施してから「音楽」へ展開するという道筋を示す。この「体育→音楽」という順序にアリストテレスはかなりこだわっているわけだが、事情を知らない人には、どうしてアリストテレスがこんなにも長々と記述するのか理解できないだろう。実はこの論述でアリストテレスが試みているのは、プラトンの教育思想への反駁なのだ。プラトンは『国家』で教育思想を全面的に展開し、そこで「音楽・文芸→体育」という教育順序を示している。アリストテレスは、このプラトンの見解に真っ向から勝負を挑んでいるわけだ。かつての師匠であるプラトンの教育説と勝負するわけだから、自然と熱が籠もる。現在の我々から見ると「体育→音楽」だろうが「音楽→体育」だろうがどうでもいいように思えてしまうわけだが(あるいは「体育と音楽は同時並行でやれよ」などと思うわけだが)、プラトンやアリストテレスにとってみれば、この問題は自分の人間観全体(具体的には肉体と魂の関係をどう捉えるか)の価値を示す試金石となるものなのだ。教育論での勝敗は、思想全体の優劣を決する。アリストテレスが本書の末尾を教育に関する議論に費やしているのは、教育思想こそが哲学大系全体の要石であることを痛感しているからだ。
個人的におもしろく読んだのは、カリキュラム論だ。どのような内容を教えるべきかというカリキュラム論では、素朴な形ではあるものの、教科分類を試みている。アリストテレスは(1)読み書き(2)体操(3)音楽(4)図画というように、全教科を4つの領域に分類する。その上で、特に「音楽」の教育効果に関する具体的な議論が長々と展開される。「音楽」は何のために教えられなければならないのか? この議論は、まさに現代の「カリキュラム・マネジメント」の精神にも通じるような内容となっている。プラトンの音楽教育論と比較しながら読むと、とてもおもしろい。

研究のための個人的備忘録

本書を通じて目立つのは、一貫して「子供」を価値のないものとして理解する態度だ。そしてそれは、「奴隷」や「女性」を価値のないものとして理解する態度と通底している。アリストテレスにとって、「人間」とは「自由のある成人男性」だけなのだ。これはアリストテレスを含め、ギリシア時代の教育を考える上で頭の片隅に置いておかなければならない事実と言える。

【子供観】
「従って支配するものと支配されるものとには本性上多数の種類があることになる、すなわち自由人の奴隷に対する支配と男性の女性に対する支配と大人の子供に対する支配はそれぞれ別である、そして魂のいろいろの部分は凡ての人々のうちにあるけれども、しかしそのあり方に相違がある。つまり、奴隷は熟慮的部分を全く持たないが、しかし女性は持っている、けれどもそれは権威を持たない、また子供も持っているが、不完全である。」1260a
「しかし子供は不完全なものであるから、子供の徳も自分と自分との関係に属するものではなく、完全なる者や指導する者との関係に属するものであるということは明らかである。」1260a
「すなわち子供や老人たちは或る仕方で国民だと言わなければならないが、しかし全然条件ぬきにではなく、むしろ附け足しをして、子供の方は「未成年の」国民と言い、老人の方は「男盛りを過ぎた」国民、或は、別のこういう類の「なになにの」国民(というのはわれわれの言おうとしていることは明らかなので、どんな言葉を使っても構わないから)と言わなければならないのである。」1275a
「何故なら国民の子供でさえも大人と同じように国民であるのではなく、一方の大人たちは無条件に国民であるが、他方はただ[国民になり得るという]前提のもとに国民なのであるから。というのは、子供たちは国民ではあるが、しかし「不完全な」国民であるのだから。」1278a

このように子供を価値のないものとみなす態度は、「欲望」にたいする考え方を土台としている。子供は自分の「欲望」に打ち勝つことが出来ないために不完全な存在とみなされるのだ。

【欲望と子供】
「というのは勇気や節度や思慮の何らの部分も持たず、傍を飛ぶ蠅は恐れるが、食ったり飲んだりする欲望が起れば、極端なことさえ何一つせずにおくことはなく、一文のために最愛のものすら亡ぼす者を、しかしまた同様にその心のことでも、子供や気狂いのような風に考えがなかったり、間違っていたりする者を、誰も至福な者とは言わないだろうから。」1323a

そんなわけで、教育の存在意義は、人間の「欲望」を制御するところにある。

【教育と欲望】
「しかしなお、たとい、ひとが凡ての人に中庸を得た財産を規定したにしても、何の役にも立たない。というのは財産よりも欲望を平均化することの方がむしろ必要だからであるが、このことは法律によって充分に教育されたものにとってでなければ不可能なのである。」「しかし、その教育はどのようなものであるだろうか、それを言わなければならない。一つで同じものだと言うだけでは何の役にも立たない。というのは同じ一つのものではあるが、しかしそれは金銭なり名誉なり或はその両方なりを余分に取ることを望む者にするような教育であり得るのである。」1266b
「さらに、また、人間どもの賤しい欲望は飽くことを知らないものである。例えば、初めのうちはただ二おろぼすで充分であるが、しかしすでにそれが伝統的なものになると、常にそれ以上のものを必要とし、遂に無限に進んでいくのである。というのは欲望の本性は無限であって、これを充たすために大衆は生きているのだからである。従って、かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである、そしてこのことはこの賤しい人々の数が少く、また不正に取扱われなければ、可能なのである。」1267b

人々の欲望をコントロールし、国を存続させるためには、教育を最重要の仕事として認識しなければならない。

【国家の仕事としての教育の至高性】
「このことによってまた、ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということも明らかである。というのはもしそうでなかったら、この共同体は一つの軍事同盟体であることになるからであるが、それは他の互に離れている軍事同盟体にくらべて、[その同盟者は離れず接しているので]その他のものとはただ場所によってのみ異なっている。また、もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。」1280b
「国とは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である、そしてかかる生活は、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることである。従って国的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為のためにあるとしなければならない。」1281a
「しかし国制が存続するために、私の語った凡てのことのうちで最も重要なことは、今日凡ての人々に軽んじられているけれど、それぞれの国制に応じて教育がほどこされることである、というのはもし国制の精神によって習慣づけられ教育されていなければ、例えばもし法律が民主制的なものなら、民主制的に、もし寡頭制的なものなら、寡頭制的にそうされていなければ、その法律が最も有益なものであり、凡ての国民によって是認されたものであっても、何ら益するところはないからである。」1310a 以下も教育について語られる。
「ところで立法家が特に努力を致さなければならないのは、若者の教育についてであるということを、とやかく問題にする者はひとりもいないだろう。というのは実際国においてそのことが為されないならば、国制は害われるからである。何故なら国民はそれぞれの国制に応じて教育されねばならないからである。何故ならそれぞれの国制に固有の性格がその国制を維持するのを常とし、またもともとその国制を作り出すものだからである。」1337a
「また政治家はいろいろの生活と行為の選択に関しても同様でなければならない、というのは国民は事業と戦争とを行うことが出来なければならないが、しかし一そう多く平和と閑暇とに生きることが出来なければならないからである。また生活に必要なことや有用なことを為さなければならないが、一そう多く立派なことを為さなければならないからである、従ってこれらのものを目標にして、国民がまだ子供である時にも、また教育を必要とするその他の年齢にある時にも、教育をほどこさなければならない。」1333a-b

アリストテレス/山本光雄訳『政治学』岩波文庫、1961年

F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

【要約】ソクラテスの出現によって、哲学は決定的に変化しました。ソクラテス以前には、哲学は自然の秘密を解き明かすことに力を注いでいました。が、ソクラテス以後は、人間に関心を向けることになり、プラトンとアリストテレスに伝統が引き継がれていきました。

【感想】本書が主張するような、イオニア自然哲学からソクラテスを経て人間を扱う哲学へという展開は、高校倫理の教科書にも書いてある、いわば教科書的な常識だ。本書が85年前に行われた一般向けの講演だということを考えると、実は現在の教科書的常識がこの講演によってできあがった可能性もあるように思う。
一方、現在の学問水準は、この教科書的常識を書き換えつつある。たとえば納富信留『ソフィストとは誰か?』(2006年)は、ソクラテス以前の哲学が自然哲学であったという見解を否定した上に、プラトンの位置づけを変更するよう迫っている。学術的な観点から言えば、本書の見解が古くなっていることは間違いない。

が、本書の魅力は、学問的な成果が書き換えられることによって減じるものではないとも思う。本書は独自の近代的人間観(自由と自律)を前面に打ち出すことによって、一つの作品として成立している。人間理性に対する著者の信頼を愉しむ本なのかもしれない。

F.M.コーンフォード/山田道夫訳『ソクラテス以前以後』岩波文庫、1995年<1932年

アリストテレス『ニコマコス倫理学』

【要約】あ、ありのまま、今起こった事を話すぜ。我々は「幸福」について考えていたと思ったら、いつの間にか「徳」についての考察を深めていた。何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。哲学とか倫理学かそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

【感想】タイトルは「倫理学」となっているけれども、アリストテレス本人がそう呼んだわけでもなければ、本文中で「倫理」という言葉も使われないわけだし、より適切には「幸福論」というタイトルをつけたほうがいい内容ではないかと思った。徹頭徹尾、「幸福」とはどういう状態で、「幸福」になるためには何が必要なのかが追究される本である。で、大まかには前半と後半に分かれるように読んだ。前半では「中庸」の大切さが説かれ、後半では「愛」の大切さが説かれることになる。とはいえ、主要な論点以外にも魅力的な描写が多く、細部まで侮れない本である。

まず前半、「中庸」の大切さが説かれる部分は、プラトン『国家』の倫理説=イデア論に対する批判として読むと理解しやすいように思った。プラトンは「善のイデア」を知ることが道徳の本質であると考えた。この場合の「知る」とは、あたかも数学の問題を理論的に解くように、正解が一つあるものを明瞭に認識することを意味する。しかしアリストテレスは本書の冒頭で、「幸福」というものは数学の問題を解くように理解することなどできないと宣言する。「幸福」については、論理的に一つの答えを導き出せるものではなく、我々の「経験」から大まかな答えを引き出して満足するしかない。だからアリストテレスは、まず「論理的に一つの答えを明確に出せる」ものと「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」をしっかり区別したうえで、「幸福」に関する議論が後者に属するものだということを強調する。しかし「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」について、我々はどうして理解することができるのだろうか。「幸福」について考えるためには、まず「学問」の全体構造を明らかにしなければならないのだ。
で、この学問論がなかなか味わい深い。アリストテレスは「帰納」と「演繹」という学問的な手続きについて説明したうえで、帰納推論を突き詰めていった先に絶対に人間の認識能力では説明できない究極的な事態に遭遇することを指摘する。人間の認識能力では絶対に証明不可能な究極を、アリストテレスは「アルケー(基本命題とか根源と翻訳される)」と呼ぶ。(私自身はそれを「特異点」と呼んできた。)アルケーがどうしてアルケーであるかに対する理解は、人間の認識能力を絶対的に超えている。そうであると受け入れるしかない。その認識を、アリストテレスは「学=帰納や演繹の手続きの連続で説明できる範囲:エピステーメー」とは区別して「直知:ヌース」と呼んだ。
そしてこの直知は、究極的な「普遍」と究極的な「個」という二つの限界認識に関わる。この認識に、プラトンのイデア論との明確な違いを確認できる。プラトンの言うイデアは、究極的な「普遍」という一方向への限界認識を示す概念だった。しかしアリストテレスは、究極的な「普遍」に加えて、究極的な「個」の方向にも論理の限界があると主張するのだった。「個」というものの捉え方に、プラトンとは異なるアリストテレスの思想体系の特徴を見ることができる。

とはいえ、この魅力的な学問構造論は、本書の全体構成から言えば脇筋なのだった。本筋では、「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」を判断する能力である「知慮:フローネシス」を活用して、縦横無尽に「中庸」の徳が語られる。ほんものの勇気とは無謀と臆病の中間である、というような。まあ、「そうですよね」としか。というか、「そうですよね」としか言えないところが、「知慮」が本領を発揮するところではある。そういう意味で、アリストテレスの記述と描写は凄いのであった。

本書の後半では、「愛」についての議論が展開される。やはり「愛」に関する議論にも、プラトンに対する対抗意識が伺える。プラトンの愛とは、『饗宴』で見事に描かれているように、「エロス」としての愛である。プラトンの愛では、完全なものへの憧れに導かれて自分自身を成長させる、エロス的主体の自覚が問題となる。一方、アリストテレスの愛とは「友愛=フィリア」である。雑に言えば、エロスは「主体」を強調するのに対し、フィリアは「集団」を強調する。アリストテレスの有名な言葉に「人間はポリス的動物である」というものがあるわけだが、ポリスなど何らかの人間関係を成立させるものが自他の共同としてのフィリアであると言える。
この愛についての具体的な議論が、現代にも通じる論点を提出していて、とても読み応えがある。たとえばアリストテレスは「愛に関しては、愛されることよりも、愛することのほうが本質的だ」(1159a)と言う。現代でも「愛する」ことと「愛される」ことの優劣を議論する人々を見かけるが、既に2400年前に、「愛する」ことのほうが本質であると答えが出ているのだ。
あるいは、アリストテレスは、「ひととなり」に対する愛のほうが、「有用性」や「快楽」ゆえの愛よりも尊いと主張する(1156a-1165b)。翻訳で「ひととなり」となっている言葉は、原文のギリシャ語では「エートス」であり、個人的に言えば「人格」という日本語がいちばんしっくり当てはまるように思う。相手の「属性」ではなく相手の「人格」を愛することがもっとも尊いと、すでに2400年前に語られているのである。
あるいは、アリストテレスは、あらゆる愛の根源に「自己愛」があると言う(1166a-1168b)。ちゃんとした自己愛を持っている人でないと、他人を愛せないというようなことを述べる。現代の精神分析的な知見とも相通じるような見解が、既に2400年前に示されているのである。
高校倫理の教科書だと、「愛」と言えば「エロスとアガペー」の二種類ということにされがちだが、アリストテレスの「愛=フィリア」が無視されるのはあまりよろしいことではないように思う。

研究のための個人的備忘録

本筋とは関係ない記述ではあるが、各所に散見される「子供」に対する記述は、当時の子供観を象徴するものとして参照するに値するかもしれない。アリストテレスに従えば、子供とは徹底的に価値のない存在である。

【個人的備忘録】子供観
「同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質のはたらきをなしえないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるにすぎない。」1100a
「放埒を意味する「アコラシア」(=無懲戒)という名称はわれわれはこれを子供の「わがまま」の意味にも適用している。両者は、事実、或る類似性を有している。そのいずれがもとになってそう呼ばれるようになったかは差しあたりどうでもいいことであるが、後にきたるものが、前のものに由来するものなることは明らかであろう。この転用は悪くないようである。なぜかというに、もろもろのみにくきものごとを欲求するところの、しかもその成長の速やかであるところのものは懲戒的な「しつけ」を必要とするが、その最も著しいのは欲情と子供たちなのだからである。事実、欲情のままに子供たちは生きるものなのであって、快というものへの欲求の最もはなはだしいのも彼らなのである。だからもし、彼らにききわけが生ぜず、支配的なるものの下に立つにいたらないならば、その赴くところ測るべからざるものがあるであろう。」1119b
「下等動物や子供の追求するのは、このような無条件的な意味では善きものとはいえないような快楽でしかないのであって、知慮あるひとの求める「無苦痛」なるものも、このような性質の快楽の欠如に基づく苦痛からの自由を意味している。このような性質の快楽というのは、欲望を伴い欠如の苦痛を伴うところの快楽、つまり肉体的な快楽ないしはその過程であり、それはまた、放埒なひとが放埒なひとである所以のものたるごとき快楽にほかならない。」1153a
「また、何びとといえども、子供たちが快楽を感ずるごときことがらについての快楽を、たとえどれほど満喫できるからといって、一生涯子供の知性の域を脱しないで生きていくことを選びはしないだろうし、また、たとえそれゆえに苦痛を受けるおそれが全然ないにしても、何らきわめて恥ずべき行為をなして悦ぶことを選ぶひとはないであろう。」1174a

また、「教育可能性」に対する議論も興味深い。「遺伝」か「環境」かどちらが重要かという、教育学の伝統的な議論の元になっているような議論が、この時点ですでになされているのである。アリストテレスは人間の教育可能性を重視しており、「習慣づけ」の重要性を繰り返し主張することになる。

【個人的備忘録】教育可能性
「かくして卓越性(徳)には二通りが区別され、「知性的卓越性」「知性的徳」と、「倫理的卓越性」「倫理的徳」とがすなわちそれであるが、知性的卓越性はその発生をも成長をも大部分教示に負うものであり、まさしくこのゆえに経験と歳月とを要するのである。これに対して、倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」という言葉から少しく転化した倫理的という名称を得ている所以である。」1103a
「このことからして、もろもろの倫理的な卓越性ないしは徳というものは、決して本性的におのずからわれわれのうちに生じてくるものでないことは明らかであろう。」1103a
「これを一言に要約すれば、もろもろの「状態」は、それに類似的な「活動」から生ずる。われわれの展開すべき活動が一定の性質の活動であることの必要な所以である。これらの「活動」の性質いかんによって、われわれの「状態」はこれに応じたものとなるのだからである。つとに年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」1103b
「善きひとびとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部の人々によれば教えによる。ところで、もし本性に属するのだとすれば、明らかにこれはわれわれのいかんともしがたいところなのであって、何らか神的な原因によって真の意味における「好運な」ひとびとに与えられたものなのだつするほかはない――。また、理説とか教えとかも、おそらくは必ずしもあらゆるひとびとにおいて力があるわけではなく、それが有効であるためには、「うるわしき仕方において悦びや惜しみを感ずる」より、あらかじめ聴き手の魂がもろもろも習慣づけによって工作されてあることを要するのであって、これはいわば、種子を育むべき土壌に似ている。というのは、情念のままに生きるひとびとは、忠告的な言説に耳をかさないであろうし、耳をかしてもこれを理解しないであろう。こうした状態にあるひとを、いかにして説得翻意せしめることができよう。総じて、情念は理説に譲らず、その譲るのは強要に対してのみであると考えられるのである。してみれば、そこには、徳の完成に固有な倫理的性状――すなわち、うるわしきを愛し醜悪なるを厭うという――が、何らかの仕方で、すでに見出されることが必要となる。
しかるに、若年の頃から徳へのただしい誘導を受けるということは、やはりそういった趣旨の法律の下に育成されているのでないかぎり行われがたい。というのは、節制的に我慢強く生きていくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろも営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。けだし世人は、理説よりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」1179b-1180a

また、論理的な手続きの限界に関わる議論は、2400年前に既に論理体系の「不完全性」=定理の任意性が認識されていたものとして、瞠目に値するように思う。

【個人的備忘録】特異点
「「学」は普遍的なるもの・必然的なるものを対象としこれについて行なわれる理解なのであるが、もろもろの論証的な帰結は、したがってまたあらゆる「学」は、個々の基本命題の上に立っている。だとすれば、学的認識の基本命題それ自身にかかわるところのものは「学」ではなく、いわんや「技術」や「知慮」ではありえない。というのは、「学」の領域は論証的な性質のものであるが、「技術」や「知慮」は「それ以外の仕方においてあることの可能なことがら」にかかわっているのだからである。さりとてまた、「智慧」はもっぱら基本命題にかかわるというわけでもない。けだし、智者の智者たる所以としては、若干のことがらに関しては論証を与えうるということがやはり存するのだからである。
かくて、もし「それ以外の仕方においてあることのできないごときことがら」ないしは「それのできることがら」に関してわれわれをして真を認識せしめ決して誤った認識に導くことのないものとして「学」と「知慮」と「智慧」と「直知」があるとするならば、だがもし、そのうちの三者はいずれもこれに該当しないとするならば、あますところ、基本命題にかかわるところのものとしては、直知以外にはないのである。」1140b-1141a

アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波書店、1971年
アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』下、岩波書店、1973年

フレーベル『フレーベル自伝』

【要約】自分自身を一つの統一された生命と捉える傾向のある私は、断片的な知識を伝達するだけの旧来的教授に馴染めず、生徒が自発的に活動して生命力を発揮する新たな発展的教育を目指しましたが、世間には理解されませんでした。

【感想】まあ、体系的にまとまった著作ではなく、公開されることを前提としていない手紙の草稿だけあって、読みにくいことこの上ない。繰り返しや重複も多く、理解不能な晦渋な言い回しばかりで、とてもではないが学生には勧められない。

とはいえ、ある程度の知識と経験を持って臨めば、得られるものは以外と多いかもしれない(と覚悟して付き合うしかない)。
まずは、全体として陰鬱な印象を受ける抽象的な言葉の羅列の中で、フレーベル自身が創造的な授業をする光景が具体的に描かれている表現に出くわすと、かなりホッとする。フレーベルは自身が行う地理の授業で、従来の詰め込み型の指導ではなく、生徒の自発性を尊重する活動を試みる。授業はうまくいき、生徒の保護者からの称賛だけでなく、学校の上司からも褒められ、なおかつ生徒自身の熱心な活動そのものに喜びを見出している。フレーベル自身もこの授業の成功をそうとう誇りに思っているようで、文章から喜びが沸き立ってくるようだ。フレーベルがただの批評家ではなく、誠実な実践家であったことを示す、読み応えのある文章だと思った。

またあるいは、フレーベルが繰り返し繰り返ししつこく「生命」と「統一」への志向性を表明することに関して思ったのは、いわゆるアクティブラーニングと呼ばれる教育関連諸技術の根底に、こういった「生命の統一」への志向性が据えられるべきだということだ。フレーベル自身もアクティブラーニング的な授業を成功させているわけだが、彼はただの教授テクニックとしてアクティブラーニングを導入したわけではなく、自分自身の内側から滲み出てくる生命の統一への志向に促されて教授改革へと向かっていった。フレーベルの教育思想の根底には常にこの「生命の統一」への憧憬と確信が据えられており、いわゆるアクティブラーニングもそこから生じる必然的な系に過ぎない。こういった「生命の統一」への志向性が欠けているとき、どれだけ表面的な技術を磨いたとしても、授業の本質は何も変わらないのではないかとも思う。

まあ、この本だけでフレーベル思想の全体像を掴むことは難しいので、諸々の研究書にあたって勉強するべきなのであった。

【個人的備忘録】アクティブラーニング
「私はまた地理の教師としてこの機会を利用して、生徒に土地の表面の状態を直感させ理解させ、このようにして得た直感に地理教授を結び付け、そしてそこから地理教授を出発させた。」「学校取材の第一回公開審査の際、私は幸福にも――この最初の試みはひどく多くの不完全な点を含んでたにも拘らず――ただに出席した両親達の満場一致の賛成だけではなくて、更に特に私の上役の人々の賛成を得た。そして人々は言った。「地理は須くこのやうに教えるべきだ。少年は遠方に行く前にまずその郷土を知らなければならない。」生徒は実際町の周囲のことを恰かも家庭の自分の部屋のやうに熟知し、そして迅速に且つ適切に周囲のあらゆる地面の状態について答えた。この授業こそ私が後年十分改訂して、現在まで多年の間応用して来た授業の源になった。」(85-86頁)
「その際私は審査の人々を十分満足させる結果を得て喜んだだけではなくて、私の生徒が愉快に熱心にまた自発的に活動しているのを見た。」(87頁)
「成績そのものよりもむしろ私の善良な意志と火のような熱心とのために与えられた好意ある親切と獲得した好評とが私を鼓舞して、愈々深く教授の本質のなかに深入りさせた。併し一つの大きな学校の組織された全体は鞏固な形式があり、確実な・承認された・外部的に予じめ時間と目標とを規定し得るような課程を有ち、而も総ては時計仕掛けのように互いに噛み合っていなければならない。ところが私の流儀はただ目覚めた生命と目覚めた精神とだけを要求した。」(87頁)
「即ちこれまでの教育方法、殊に単に伝授的で単に外面的歴史的に伝達する基礎学校乃至練習学校の教授法は、一層高い真実の認識に対し、精神的の洞察に対し、将来の真の科学的陶冶に対し、本質直感に対し、従って真の知識に対し、知識における真理に対し、感応を鈍くし、否なそれのみか、私は率直に言いたいのであるが、此等に対して破壊的に影響している。
だから私はこれまでの基礎的な練習教授はその改良されてるものでも全く反対にされなくてはならない、即ち発生的発達的というような全く反対の方法で行われなくてはならないということを、今も確信しているがその時確信した。だから私は私の欲するものが抑々何であるかと尋ねる人には次の如くに答えた。
「今日一般に教育及び教授の部門において行われているものと全く反対のもの。」」(179頁)
「あらゆる現象と存在、従ってまた直感や認識や知識の出発点は実行であり行為である。
だから真の人間教育即ち発展的の人間教育は実行若しくは行為から始まり、実行若しくは行為のうちに芽生え、そこから成長し、そこに基礎を有たなくてはならない。」(185頁)
【個人的備忘録】統一への志向
「当時私の念頭に浮んだ最高原理は次のものだった。総ては統一である。「総ては統一に基づき、統一から出発し、統一に向って努力し、統一に至り、そして統一に還る。」
統一におけるこの努力と統一に向ってのこの努力とは、人間生活における百般の現象の基礎である。併し私の内的直感と外的認識、表現と行為との間には一箇の大きな深淵があった。
だから教育及び教授に依って人間のために生ぜしめねばならない・また生ぜざるを得ない総ての事柄は、人間のうちに・また人間がそのうちに生起する諸関係のうちに・更には人間の必然的の発達段階の本質のうちに必然的に規定され、また与えられると私には思われた。
人間が此等の関係を尊重し、認識し、それに通暁し、且つそれを概観するように教育される時、彼は教育されまた教授されるのだと私には思われた。」(99頁)
「併し私はまた人間は絶対的な統一を認識することが出来るものであり、事物及び現象の多様性を統一のうちに認識することが出来るものであり、この統一のうちに事物及び現象の多様性が不断に発展して行くものである、ということを洞察した。そして私がこのようにして人間の生活と活動と思考と感情と表現との諸現象の多様性を、人間の存在と本質との統一のうちに明らかにし、且つそれを意識した時、私はまたもや教育問題に向った。」(125頁)
「ところが更に進んで、このような生活に依って人類そのものは真にその本質において、自己をあるがままに認め、あるべき姿として認め、一つの大きな全体生命として認め、従ってこの教育は人間を真の人間へ、即ち人間の本質を自己のうちに発展させそして自己から生活し出すような人間へ教育しようとするのであるから、これはまた真の人類学校とならなければならなかった。而も私の始めた教育活動こそは人間をその本質のあらゆる方面とあらゆる関係とからりかいしなければならなかった。即ち――土地として――或いは自然物乃至地上物として――人間として――意識的なまた思索的な生類乃至理性的な生類として――そして神の子として理解しなければならなかった。」(187頁)

フレーベル/長田新訳『フレーベル自伝』岩波書店、1949年

ペスタロッチー『隠者の夕暮・シュタンツだより』

【要約】教育というものは、相手が身分の高い人だろうが賤しい人だろうが、同じものであるはずです。なぜなら、教育とは人間をつくる仕事だからです。すべての人間は、その本性の奥底に、共通する素質と力を持っているはずです。

【感想】特定の身分や職業に即した教育を否定し、人間すべてに通じる普遍的な教育を目指したという点では、たしかにルソー『エミール』を引き継ぐものと言える。が、決定的な点で、ペスタロッチーの言っていることはルソーの主張とは異なっているように思える。

決定的な相違の一つ目は、「神」の位置づけだ。ルソーは、自然科学の見識が深まれば、必然的に内部から神の思想に至ると考え、早期からの宗教教育を戒めた。しかし一方ペスタロッチーは、神に対する畏敬の念こそがすべての教育活動の基礎とならなければならず、早期からの宗教的心情陶冶は必須である。ルソーは人間の普遍性の根拠としておそらく「理性」をイメージしているが、ペスタロッチーは「理性」というよりも「信仰」を共通イメージの基礎に置いているようにみえる。

もう一つの決定的な相違は、「君主」の位置づけだ。ルソーは、社会契約論の主張者だけあって、彼の体系のなかで「君主」というものが占める位置は大きくない。一方、ペスタロッチーは君主の教育権を最大限に確保しようとしているようにみえる。それは「父権」の絶対的な位置づけにも相通じる。ペスタロッチーは「国民を教化して彼の本質の浄福を悦楽するようにするためにこそ、人民の長たる父があるのだ。そしてすべての国民は家庭の浄福を悦楽することによって、君主の親心に対する子としての純粋な信頼のうちに安らい、そしてその君主が子たちを教育し向上させて、人類のあらゆる浄福の悦楽に到らせる父としての義務を果たすことを期待している。」(30頁)と主張する。ここだけ読むと、パターナリズムの思想であるようにも理解できてしまう。(ここは長田新が戦時中に翻訳したせいでこうなっているのか、あるいは原文もこんな調子なのかどうか。ドイツ語本文で確認しなければならないところだ…)。なんにせよ、自分の主人は自分だけというルソーからは逆立ちしても出てこない言葉であることは間違いない。

また、現代的な感覚で読むと、ペスタロッチーが体罰を肯定する文章(75頁)には困惑させられる。しかもその体罰肯定の根拠として、肉親の愛情に基づいた暴力は許されるという理屈を持ち出されると、困惑を超えてドン引きしてしまう。解説の長田新は、ペスタロッチーだからこそ体罰も許されるのだと擁護するわけだが。いやいや、ペスタロッチーだから許されるなんてことがあるわけはなく、単に220年前だったから大目に見られただけのことと理解するべきところだ。

そんなこんなで、書かれたものだけから判断するかぎり、完成度にしても人間教育への洞察にしても、どうしてもルソーのほうに軍配を上げざるを得ないというのが正直なところではある。とはいえ、難しいのは、書き遺した断片からペスタロッチーの全体像を判断してはいけないというところだ。というのも、彼の真骨頂は「実践」にあるからだ。一方のルソーは、言っていることは立派ではあるが、やっていることはゴミのようだ。実践的に見た場合、圧倒的にペスタロッチーのほうを尊敬せざるをえない。

本人の著作から思想構造を再構成しにくいので、ペスタロッチーについて語るのはなかなか厄介だなあと思う次第である。が、授業ではしっかり扱わざるを得ないので、各種研究書で補足するのであった。

【個人的備忘録】自然や生活による陶冶
「わたしは事物のもっとも本質的な関係を人間に直感させ、健全な精神と天賦の知力とを発達させ、そしてなるほど人生のこのどん底に塵芥に埋もれているようにみえはするが、しかしこの環境の泥土のなかから浄化されると、明るい光で輝き出す諸力を刺激するために、生活そのものからくるもろもろの必要ないし要求が、どれほど多く寄与するかということを知った。」(51頁)
「しかも大抵彼らは、何ら人為的の方法によらず、ただ子供を取り巻く自然や、子供の日常の要求や、いつも活溌な子供の活動そのものを、陶冶の手段として利用しようとする思想も嫌えば、またその思想を実現することも嫌っていた。ところがわたしの企図を完全に実現する基礎をなしているのが、まさに右の思想だった。」(53頁)

ペスタロッチー/長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年<1779,1799