教育概論Ⅰ(中高)-10

栄養・環教 6/28
語学・心カ・教福・服美・表現 6/29

前回のおさらい

・義務教育とは、誰の誰に対するどのような義務か?
・自由の罠。

今回の目標

・「自由権」とは異なる「社会権」の思想を理解しよう!
・教育に関わる権利-義務のシステムを押さえよう!

義務教育の思想

社会権としての教育

社会権:<形式的>に自由が与えられるだけでなく、全ての人が<実質的>に自由を使いこなすことができるように、強者に対してハンデを設け、弱者に対して様々なアドバンテージが与えられます。具体的には、生存権、労働基本権、教育を受ける権利があります。
・たとえば、最低賃金や労働時間の設定、労働組合の結成等により、成人の労働環境が守られ、児童労働の自然発生を抑制することができます。
・工場法制定など、児童労働の撤廃に向けての具体的な動きも必要です。
・誰が責任を持つのでしょうか?←「国家」の積極的な関与が期待されます。
※「自由権」と「社会権」の本質的な違いに気をつけよう!

コンドルセ marquis de Condorcet

・1743年~1794年、フランス出身。
・愛称:公教育の父。
・著書:『フランス革命期の公教育理論』
(1)子供の学習権。
(2)教育費無償。
(3)ライシテ:政治的中立や宗教的中立。

ロバート・オーエン Robert Owen

・1771年~1858年、イギリス出身。
・キーワード:性格形成学院。
・工場法の展開

1802年徒弟の健康と道徳に関する法律制定。
1819年繊維工場では9歳以下の労働禁止。16歳以下は1日12時間以内に制限。
1833年12時間労働。9歳未満の労働禁止。13歳未満は週48時間。
1844年女性労働者の労働時間制限。
1847年若年労働者の労働時間を1日10時間に制限。
1870年教育法制定。公費による学校設立。

小テスト

教育権の構造

・教育に関わる4つの立場「子供/親(保護者)/教師/国家」が、それぞれどのような「権利/義務」を持っているかを明らかにするのが「教育権の構造」です。それぞれが教育で果たすべき役割が明確になります。

子供の学習権

・子供は学習権を持っています。教育を受ける権利があります。
・学習する権利が保障されなければ、自分にどのような自由や権利があるかすら分からなくなってしまいます。
・この場合の教育とは、普遍的(身分や性別等に関係ない)な「普通教育」であり、人格の完成を目指す教育です。特定の知識や技術を身につける職業訓練ではなく、「人間」になるための教育です。

日本国憲法第26条-1
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

親の教育義務

・親には、子供を教育する義務=子どもの権利を保障する義務があります。

日本国憲法第26条-2(前半)
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
教育基本法第5条-1
国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

親の教育権

・子供を教育する第一の権利は、親にあります。
・しかしその自由は無限に認められるのではなく、あくまでも「子供の学習権」を保障するために与えられているという責任が伴っています。
→親には「監護権」が与えられますが、それはあくまでも「子の利益」のためです。

民法第820条、822条
*民法第820条:親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
*民法第822条:親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
教育基本法第10条-1
父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

国家による親への支援

・どんな貧乏な親でも義務を果たすことができるよう、国家が支援する必要があります。社会権としての教育を保障します。

日本国憲法第26条-2(後半)
義務教育は、これを無償とする。
教育基本法第5条3・4
3  国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。
教育基本法第16条-4
国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

国家による教育介入の制限

・国家はあくまでも親に対する支援者であって、積極的に教育の内容へ介入することは期待されていません。自由権としての教育を保障します。
*教育基本法が「準憲法的性格」を持っていることを再確認してください。
*「不当な支配」の具体的な中身について、よく理解しておいて下さい。

教育基本法第14条-2、第15条-2
*14条-2:法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
*15条-2:国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
教育基本法第16条-1
教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
外的事項と内的事項

・国家は外的事項には積極的に関与すべきですが、内的事項に関与することには抑制的であるべきです。
*外的事項:財政的措置=学校設立費・水光熱費・授業料・教科書代、法的措置=就学義務・学校制度・教員資格・機会均等、教育環境整備=教員配置・補助員配置・衛生的配慮
*内的事項:教育内容、教育課程、教育方法。

教師の教育権

・教師は、親でもないのに、どうして権力を持ち、どういう根拠で子供を指導することができるのでしょうか。
→医師は、親でもないのに、どうして権力を持つのでしょうか?
・営造物理論、特別権力関係論:学校は刑務所等と同じなのでしょうか?
・親の教育権が信託されるから、教師は力を持つと考えることができそうです。

教職の専門性

・安心して権利を信託してもらうためには、教師は教育のプロフェッショナルでなければなりません。教師が教育のプロである根拠を「教職の専門性」と呼びます。
・教師はどのような点で教育のプロなのでしょうか?
(1)教える内容:教科、教育課程、学習指導要領
(2)教え方:教授法、教育理論
(3)子供の個性:心理学、教育相談
(4)集団:学級経営、特別活動、いじめ防止
(5)プロとしての自覚:教職基礎論

復習

・「社会権」の意義について押さえておこう。
・「義務教育」が成立する過程について、理論と実践の両面から押さえておこう。
・教育に関わる権利-義務関係を整理しておこう。

予習

・「産業革命」について、おさらいしておこう。

教育原論(保育)-10

前回のおさらい

・民主主義の教育:哲学編(人格とは何か?)

今回の目標

・近代の代表的な教育思想家の考え方を理解しよう!
・「義務教育」の思想を理解しよう!
・「自由権」とは異なる「社会権」の思想を理解しよう!

近代の教育思想家

・ロック/ルソー/カントが市民社会全体の構想を行った(教育はその中の一部)あと、学校教育分野に特化した専門家たちが活躍します。

ペスタロッチー Johann Heinrich Pestalozzi

・1746年~1827年。スイス出身。
・主著『隠者の夕暮』『シュタンツだより』『ゲルトルートはいかにその子を教えたか』『白鳥の歌』
・キャッチフレーズ:実物教授。直感教授。労作教育。3つのH(Hand、Heart、Head)=知徳体。
名言:「玉座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間だ」=身分に関係なく、普遍的な人間を教育するということです。「生活が陶冶する
・孤児や貧民の子供の教育を通じて、身分や階級に関わらない人間一般の教育原理を打ち立てました。ルソーが理論だけだったのに対して、ペスタロッチーは実践を通じて教育原理を明らかにしました。
・アメリカを経由したペスタロッチー主義(開発主義教育)は、明治初期に日本でも流行しました。

ヘルバルト Johann Friedrich Herbart

・1776年~1841年。ドイツ出身。
・主著『一般教育学』『ペスタロッチー直感教授のABC』
・キャッチフレーズ:教育学の父。目的としての倫理学、方法としての心理学。
・名言:「教授のない教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育のないいかなる教授も認めない
・四段階教授法。明瞭→連合→系統→方法。
・ペスタロッチーの実物教授を引き継ぎながら、教育学を体系化された学問へと鍛えました。家庭教師による教育ではなく、学校における教師の教授法を理論化しました。

ヘルバルト主義教育学

・ヘルバルトを引き継いで、科学的な教育学を発展させました。
・チラー、ライン。
五段階教授法。予備→提示→比較→総合→応用。

フレーベル Friedrich Wilhelm August Fröbel

・1782年~1852年。ドイツ出身。
・キーワード:幼稚園の創始者。恩物
・主著:『人間の教育
・ペスタロッチーの影響を受け、幼児教育に人生を捧げました。

小テスト

義務教育の思想

・近代の教育思想で、教育は本当にすべてうまくいくのでしょうか?
・学校を否定し、個人主義を貫くような、「自由権としての教育」の実態。→現実には貧民の子供が「児童労働」を行っていました。

・「義務教育」とは、誰の誰に対するどのような義務でしょうか?
・「子供が教育を受ける権利」はどのように生まれたのでしょうか?

思考実験:自由の落とし穴

・自由を拡大したとき、得をするのはどういう人たちでしょうか?
・自由を拡大すると、実際には強者と弱者の間の格差が拡大します。
・自由を<実質的に>使いこなすことができるのは金持ちだけです。貧乏人はそもそも自由に<実質的に>手が届きません。形式的に自由が与えられても、まったく意味がありません。
・「自由権としての教育」だけでは、金持ちは十分な教育を受けることができたとしても、貧乏人は教育を受けることができません。教育によって、ますます貧富の格差が広がります。
・貧富の格差=資本家と労働者の階層分化が進行し、児童労働が自然発生します。

社会権としての教育

社会権:<形式的>に自由が与えられるだけでなく、全ての人が<実質的>に自由を使いこなすことができるように、強者に対してハンデを設け、弱者に対して様々なアドバンテージが与えられます。具体的には、生存権、労働基本権、教育を受ける権利があります。
・たとえば、最低賃金や労働時間の設定、労働組合の結成等により、成人の労働環境が守られ、児童労働の自然発生を抑制することができます。
・工場法制定など、児童労働の撤廃に向けての具体的な動きも必要です。
・誰が責任を持つのでしょうか?←「国家」の積極的な関与が期待されます。

復習

・代表的な教育思想家の考え方を確認しておこう。

予習

・「産業革命」について、おさらいしておこう。

【要約と感想】諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』

【要約】1970年頃から、子どもたちは決定的に変質しました。教育が行き詰っているのは教師や学校が悪いのではなく、変質した子どもに対応できないのが原因です。
変化の本質は、「近代化」が思わぬ形で達成されてしまったことです。我々教師は子どもたちに近代的自我を持たせることを夢見てきましたが、高度消費社会の到来は予想外の形で子どもたちに「かけがえのない個」をもたらしました。そして確固たる指針を失って個人的な利害にしか関心を持たない教師たちが、その傾向に拍車をかけています。産業社会における近代化に特化してきた学校は、このような形で近代化を達成した子どもたちに対して、もはや無力です。
著者は1960年代には集団主義的な学級経営によって、管理や受験に対抗し、人間形成に関する成果を上げてきましたが、70年以降の変質した子どもに対しては、もうお手上げです。

【感想】近代の断末魔だなあ。いやはや。
ちなみに私は1972年生まれで、高校に入るのが1987年ということで、まさに著者の言う得体のしれないオレ様化した子どもたちのド真ん中に位置するのであった。でも、著者の言っていることはよく分かる。なぜなら、私も本質的には近代主義者だからだ。教育の本質が「自由を強制するというアポリア」であることを自覚する、近代主義者だからだ。教育の本質が「公共性」にあることを信じる、近代主義者だからだ。
しかし著者と違うだろうところは、私(あるいは私と同世代)の場合、もはや近代を続行しなくても問題ないかもしれないと考え始めているところにある。たとえば東浩紀が言う「動物化」とかテクノロジーとは、個々の近代的自我に依拠しなくても近代的システムが成立してしまうという事態を言い表している。東の議論を徹底すると、近代的自我を持てない個体には、もはや持ってもらわなくても結構ということになる。勝手に単なる消費的主体として豚のように楽しく生きていただければいいのである。
とはいえ私個人は、教育学徒だけあって、そこまで割り切れないものを抱え込みながら近代と対峙しなければならない。著者が「近代の終わり」を明確に見据えながらも、それでもアポリアの渦中でもがき続けるのは、「それが教師だからだ」としか言いようのない情念が関わってくるように思うわけだ。そういう情念の在り処も窺わせてくれる、なかなか面白い本ではあった。

【備忘録】
近代の終わりに関する議論がとても多い。そしてそれが高度経済成長と関わって70年前後に転換点があるという指摘は、私個人の関心にも示唆を与えてくれる。言質を取っておきたい。まあ、宮台真司が言っていることとほぼ被っているんだけれども、教育関連の文章に明確な影響があることは、確認しておいてたぶん損はない。

【近代の達成と終わり】
「私は高度消費社会と大衆民主主義とを二つながら備えているこの国が新しい「時代」に入りつつあると考えているが、それは「近代」が達成されたと同義である。」(18頁)
「教師が教え、生徒が学ぶという教育の方が危うくなり、生徒の個別的な学びを教師が支援するという怪しげな「個性重視」なるものに文部省は流れつつある。これは「個性」や「個人」にもともと実体的な価値があるということを前提としなければ成り立たない。近代公教育は市民の卵としての無数の「私」を育成するところに、その原基がある。
(中略)もともと、人間は「私」の局面において「外部」を学べるものである、近代の夢は十全な「私」が成熟して「この私」(自立した近代市民)になるということになっていた。
(中略)おそらく、個体の成長のしかるべき時期に「外部」が適切に提示されなかったこと、システム的な「外部」である学校が有効に機能していないこと、高度消費社会からの眼差しが個体に強い「主体」の意識を与えていることが、この国において子どもたちが「私」と「この私」制を簒奪する形で「自己確立」を成し遂げた理由であろう。かくして、日本の普通教育は「時代」に合わなくなってきたのである。
子どもたちの変容に適合すべく、「個性重視」のソフトな教育や学校が耳ざわりよく語られる。たぶん楽天主義者は「近代」そのものの確実性や普遍性に寄りかかっている。これらの問題はことによると「近代」そのものの宿痾かもしれないのにである。」(51-52頁)
「時代の子としての高校生たちは七〇年以降の高度成長経済の進行のなかで、内部に社会性を持った個人としての硬質さをどんどん欠いていったように、私には見えました。」(245頁)

高校生の変質を「70年」という具体的な年代を出して、資本主義の変質という下部構造から理論化してくれているのは、私個人の理屈にとってはとても都合がいい。

また、時代がどうかというよりも、近代教育に本質的なアポリアに対する意識がとても高いところは実に興味深い。この原理を自覚していない人は、世の中にとても多い。

【近代教育の本質的なアポリア】
「教育は子どもに文化伝達をしながら、将来主体的人格として「自立」することを期待している。」(23頁)
「冷静に考えればわかるように、生徒は学校では明らかに「文化伝達の対象」であるが、「主体的な人格」は学校を出てからそうなるべく想定されていることであり、そこに時間差があるといってよかろう。また、すでに「主体的な人格」になった者が「文化伝達の対象」であるはずがない。」(24頁)
「とりわけ、教師の側が「主体的人格としての子ども」の側面を重視することは、教師の個々の知性や人格によって生徒たちに「価値」を教え込もう、教え込めるという思い上がりと錯覚を生じさせる。」(29頁)
「学校では何ごとか意味のあることをなそうとすると、必ず「近代」になってしまう。」(165頁)
「近代公教育の学校は、「未開」である子どもを啓蒙して、近代社会の市民・生活者たるべく育て上げることを目的としている。」(166頁)
「親は子どもが言うことを聞くように育てながら、いずれ言うことを聞かなくなるように育てなければならない。」(231頁)

ちなみに諏訪は「教育活動(生徒にとっては学習活動)においては「文化を伝達する」プロセスと、「生徒が自立へ向かう」プロセスが同時的に進行している。どちらか一方だけがなされているわけではない。」(25頁)というが、これがまさしくヘルバルト(教育学の父)が言った「教授(instruction)があって教育(education)があり、教育があって教授がある」という洞察であることは自覚されているだろうか?

そして近代教育のアポリアの焦点となるのは、近代的自我を支える「特異点」である。この特異点への言及も、興味深いところではある。諏訪は絶対的に「外」や「上」など外部からもたらされると決めつけているが、実はそれこそが諏訪の論理構成全体の鍵を握っている。諏訪のこの認識と論理が正しいかどうかが、彼の教育論を批判する上での決定的な要点となる。逆にいえば、この急所を認識しないで批判しているとしたら、ほぼ間違いなく的外れということだ。

【特異点】
「「神を畏れなくなった」ということは、「個」が自立したのである。正確には、「個」が自立したと錯覚しはじめたのであり、「個」が現実において生活している「共同社会」を対象化しはじめたのである。(中略)要するに、高度消費社会と大衆民主主義社会と情報化社会が「新しい個」を分泌しはじめたのである。」(113頁)
「私たちは「個」が自立するためには「外」なる「上」なる「普遍」が必要であることを知らなかったのである。」(115頁)
「「個」が主体となるためには、一度「個」を超える超越系に征服されなければならない。そのためには、個体が本源的に持っている自己中心性が完全に「外」から「上」から否定される契機が必要である。」(202頁)

個人的には、「特異点」は「特異点」でありさえすればいいので、論理的にはそれが必ず「外」や「上」からもたらされる必要はないと思える。まあ、「特異点」は外や上から与えるのが一番「らくちん」なのではあるだろうが。しかし、「内」や「下」から特異点が立ち現れる可能性は、模索してもいい。

そして著者は、近代が終わって教育がどうなるかという予見も示している。

「前期近代型の公教育システムはそこからはみだし、落ちこぼれる生徒を作り、それは個人の責任ではなくシステムに問題があるとされているが、後期近代型の個性尊重システムは、個人の逸脱を許さないものになろう。つまり、これこそ超「近代」の理念に沿った「構築」なのである。」(167頁)
「いま文部省が押し進めている教師の意識改革は、本来教育的意味合いを持っていた「近代前期」的な要素を洗練させて「近代後期」的なものにすることである。」(167-168頁)

なかなか鋭い指摘だと思う。1998年段階でこれをしっかり予見できていたことに驚くが、まあ、宮台も言っていたことではあった。ともかく、いわゆるインクルーシブ教育等は、この方向(個人の逸脱を許さない)での構想ではあるだろう。あるいは苫野一徳が目指すのも、この近代後期的な構築ではある。いちおう、それが悪いと言いたいのではない。私個人としても、「事ここに至れば、選択肢はそれしかないだろうなあ」というところではある。

ところで、「見る/見られる」の非対称性というメガネ論的にも興味深い文章も記録しておきたい。

「日本は近代になって一度だけ「見られる」側から、「見る」側にまわろうとして致命的な大失敗をした。」(206頁)

なるほど。これはメガネ弁証法に対しても示唆を与えてくれる観点だ。勉強になった。

諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』洋泉社、1998年

【要約と感想】小笠原喜康『議論のウソ』

【要約】産業構造が大きく変化した現代では、誰かから一つの正解を教えてもらうのではなく、自分にとっての正解(幸せ)を自分で見つける姿勢が大事になってきます。そのためにも、分かりやすい正解に盲目的に飛びつくのではなく、一歩ひいて、ウソをウソと見抜ける自分なりの視点を持ちましょう。

【感想】14年前の本なので、個々の具体的な事例は既にかなり古くなっている。2011年以降だったら、具体的な事例としては間違いなく原発事故関連が取り上げられなければならなかっただろう。それにしても、「ゲーム脳」のデタラメさとか、もうすでにかなり懐かしい。
まあ、個々の事例は古くとも、本書が示す論理的な枠組みは古くなっていない。というか、現在進行形で意味がある議論を行っているように思う。数字やグラフのまやかしや、権威付けによるウソ、ムードに流される風潮は、現在でも後を絶たない。10年以上前にこれだけハッキリ指摘されているにもかかわらず、人間、なかなか進歩しないものではある。

【備忘録】
「個性」に関する言質を得た。まあ事実関係と理屈自体は各所で既に指摘されているところではあるが、いちおう言質をとって記録しておく。

「それ(ゆとり教育)は、端的にいえば、新たな資本主義の時代を構想したからである。この新たな資本主義の時代は、個性的な商品をたゆまず産み出す能力を必要とする社会である。」(191頁)
「こうした時代の変化を背景に、かつての「臨教審」はおこなわれた。したがって、そこでの教育改革の方向性は、こうした産業の変化に対応したものであったはずである。それが、「個性重視」だった。それは、一九世紀から二〇世紀にかけて標榜された学力とは全く正反対のものである。個性的な人間が個性的な情報を産み出すと考えられ、いかにすれば「情報」の時代を担う個性的な人間を育成できるのかがそこでの課題であった。そしてこれを進めるための改革を標榜するのが、「臨教審」で中心的なコンセプトになった「教育の自由化」である。」(198頁)

本書が指摘するように、臨教審の本音である「教育の民営化」が文教族議員の抵抗に遭遇して挫折し、妥協の産物として「個性」というキーワードがアリバイのように立ち上がってきたことは、教育学では常識の部類に属する。しかしどうやら世間ではこの常識が必ずしも共有されておらず、「ゆとり教育」に対しておかしな誤解が蔓延る原因ともなっているのだった。
そしてこの場合に臨教審が言う「個性」とは、もちろん代替不可能な唯一性に基づいた「individuality」ではなく、差異を産み出す「個人差」を指しているに過ぎない。臨教審が主導した「個性重視の教育」も、本書が指摘する「ムード先行のウソ」の部類に属するマヤカシなのであった。

小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年

【要約と感想】田中耕治他『教育をよみとく―教育学的探究のすすめ』

【要約】高校生や学部1年生向けに書かれた、教育学入門書です。定番の教育課題に対するアプローチの仕方や、論文の書き方に関するお作法、さらに教師として実践的な力をつける道筋が記されています。

【感想】京都大学教育学研究科の英知を結集しただけあって、必要な情報がコンパクトにまとめられている。類書(初心者向入門書)と比較すると、アプローチの仕方やお作法などの記述が厚いためか、クールな印象を受ける。政治と教育との絡みが後景に退いているのが、多少気になるというくらいか。

【備忘録】
個性とメガネに関する言質を得たのでメモしておく。

「ただし、「個性」は「個人差」と同じものではありません。(中略)つまり、個人差に応じる教育とは、到達度や、習得に必要な時間の差などの量的な測定データをもとに、子ども一人ひとりに合った指導を行うことであり、一方、個性に応じる教育とは、子どものそれまでの経験や興味・関心などをベースにした個人の主観的・主体的な判断で進める学習に合わせる指導といえるでしょう。このように区別することによって、学力格差(個人差)を個性だとして容認するといったリスクを減らすことができます。」(51-52頁)

実践的な場面では、確かにこのような構えでうまく回るのかもしれない。とはいえ、「個性」を哲学的に考えた場合は、もっと別の景色が見えてくるようにも思う。まあ、本書の主題と話の流れから言って、ないものねだりではあるが。

それからメガネについて。

「概念という装置は、顕微鏡や望遠鏡といった重く存在感のあるものではなく、手軽に持ち運びができるメガネのようなものです、かけ続けていると、かけていることすら忘れるくらいに体になじんでいきます。したがって私たちは、日常生活において、概念というメガネを通して世界をみていることを意識することはありません。それゆえに、日常生活においてかけているメガネを、探求を行う際にも無意識にもち込んでくることになります。それ自体は悪いことではありません。しかし、探求を進める過程においては、日常生活でかけているメガネは度が弱すぎて、実は世界がよくみえていなかったということに気がつきます。わかっていると思っていたことがわからなくなる、これまで疑いもしなかったことについて改めて考えてみないと一歩も先に進めなくなる。実はこれが探求の醍醐味の1つです。不安になる必要はありません。このような状態になることは、普段使っているメガネを捨てて、精度の高い学問的なメガネを手に入れつつあることを示しています。むしろ成長の証なのです。」(81頁)

なるほど、「概念」をメガネに喩えるのは、うまいかもしれない。かねてから、世間では「観念」と「概念」が使い分けされていないと感じていた。「頭で思うこと」は単に「観念」であって「概念」ではないのだが、世間的には「頭で思うこと」を「概念」と言ってしまったりする。しかし私の理解では、「概念」とは世界を理解するための素子みたいなもので、これが精緻であればあるほど解像度の高い像を得ることができる。解像度の高い世界を手に入れるという意味で、概念をメガネに喩えるのはうまいかもしれないと思った次第。

田中耕治・石井英真・八田幸恵・本所恵・西岡加名恵『教育をよみとく―教育学的探究のすすめ』有斐閣、2017年

「人格の完成」とは何か、絶賛研究中。