千葉県千葉市・市川市・松戸市 小弓公方足利義明の野望

千葉県千葉市の小弓城(おゆみじょう)と小弓御所に行ってきました(2018年1/31訪問)。
ここは、関東の戦国史で忘れてはならない小弓公方(おゆみくぼう)の本拠地です。
小弓公方とは足利義明(1538年没)のことで、室町幕府の将軍足利家の親戚筋です。関東制覇の野望を抱き、一時期はいいところまで勢力を伸ばしましたが、後北条氏との戦いに敗れて命を落としています。歴史の教科書には載りませんが、なかなか興味深い人物です。
小弓城は、現在の千葉市の南端のほうに位置しています。

虎口のような切り通しを抜け、坂を登ると、真っ平らに整地された台地の上に出ます。そこに小弓城の石碑が立っています。あたりは一面畑になっていて、当時の面影はまったく残っていません。

石碑から100mほど南に行くと、小弓城の案内板が。

案内板に足利義明の事跡が少し記されています。

案内板の隣には石碑も立っていますが、背後は墓地。墓地の端まで行くと断崖絶壁になっていて、戦国時代には要塞として機能していた痕跡を伺うことができます。他、付近では堀や土塁の跡のようなものも確認できます。
案内板のある地点から東に150mほど行くと、八剱神社があります。ここに足利義明が構えた小弓御所があったようです。

八剱神社の本殿。この背後の木立あたりに小弓御所があったようです。

八剱神社、額の文字がなかなか趣深いです。

小弓御所跡。一面の木立となっており、当時を偲ぶよすがは全く残されていません。

小弓城跡の台地の全景。なかなかの比高差があり、人の手が確実に入っています。台地の前に広がる葦原の様子から鑑みるに、戦国時代には東隣の大百池から広がる湿地帯に囲まれ、沼地の上に浮かぶ要塞のようになっていたことが想像されます。

さて、そんな小弓城から北西に40kmほど行ったところに、小弓公方終焉の地があります。

1538年、小弓公方と北条氏綱との間で第一次国府台合戦が行われ、ここで小弓公方の野望が潰えることとなります。現在の千葉県市川市です。(2018年2/8訪問)

国府台合戦激戦地跡。写真の中央に立っている木の棒は、昭和の電信柱が朽ちたものではなく、国府台合戦の激戦地であったことを示すものです。

階段を上がると西蓮寺という寺院があるのですが、ここに国府台合戦の案内板があります。主に第二次の経緯が解説されていますね。

橋の上から国府台合戦跡地を見下ろす。当時の面影は、まったく残っていません。とても平和です。

激戦地から南に1kmほど行ったところに、国府台城跡があります。足利義明はここに陣取ったんでしょうね。現在は里見公園となっています。(2013年4/27訪問)

国府台城の案内板によると、例によって最初に築いたのは太田道灌ということになっていますね。小弓公方足利義明の事跡にも少しだけ触れられています。

足利義明は市川市で命を落としているわけですが、お墓は5kmほど北の松戸市にあります。(2013年5/5訪問)

お墓は、聖徳大学のキャンパス内にあります。史跡を見学するには入り口の警備員に一言ことわる必要があります。

門を入ってすぐ左、2つの土饅頭と「相模台戦跡碑」という石碑、案内板が立っています。この土饅頭自体は、小弓公方本人のものというよりは、戦死者全体の供養のためのものでしょうか。

案内板には小弓公方の事跡が書いてあります。足利義明と嫡男の義純が、第一次国府台合戦で討ち死にしたことが分かります。
ただ、このお墓自体は後に復元されたもののようです。1919年に陸軍工兵学校を作るために、いったん破壊されてしまったようですが、なぜか1931年に陸軍によって復元され、聖徳大学が1995年に現在の場所に移転させたとのことです。陸軍が1931年に復元させた経緯は、少し気になるところですね。

そんなわけで、関東の覇者を目論んだ小弓公方足利義明の野望に思いを馳せ、江戸川を渡るのでした。

千葉県千葉市 加曽利貝塚と荒屋敷貝塚

千葉県千葉市の加曽利貝塚と荒屋敷貝塚に行ってきました(2018年2/15訪問)。貝塚の概念を根本から変え、縄文時代のイメージを強烈に喚起する、素晴らしい史跡でした。
特に加曽利貝塚は、2017年に特別史跡に指定され、さらに注目度が上がっています。特別史跡に指定されることは、国宝指定に匹敵するような、スゴいことなんです。ちなみに日本全国には特別史跡は62箇所ありますが、私個人は今回でようやく26箇所目の特別史跡訪問となります。完全制覇までは、まだまだ遠いですね。

62箇所目の特別史跡に指定された記念ということか、旧来の石碑の隣に、新しく石柱が立てられていました。

史跡の入り口にあった案内板。史跡公園は、たいへん広大です。犬の散歩をしている人がたくさんいました。

見渡す限りの原野。縄文時代の情景を思い起こさせます。この写真は加曽利貝塚の南側遺跡の中心部を撮っています。

公園内には、縄文時代の家である竪穴式住居が復元されています。

竪穴式住居は、中にも入ることができます。
まあ、個人的な見解では、竪穴式住居は藁葺きではなく土壁であった可能性も考慮していいようには思います。竪穴式住居の復元がほとんど例外なく藁葺きであるのは、科学的に見て多少問題があるように感じています。そういう意味では、三内丸山遺跡(青森県)の復元が、藁葺きだけでなく土壁も採用しているのは、科学的観点からは極めて良心的に思います。
まあ、観光地的に言えば土壁より藁葺きの方が見栄えがいいだろうことは、分かるんですが。

史跡内には、出土品の展示や解説を行う博物館が建っています。

ゆるキャラの「かそりーぬ」だそうです。加曽利と犬が合体したんですね。

展示室入り口でも「かそりーぬ」がお出迎え。頭に縄文土器の「加曽利E式」をかぶり、貝の首輪をつけています。そしてこの「犬」という存在が、縄文を考える上で極めて重要であることは、展示をしっかり見ると分かります。

正直、施設は古く、他のハイテク博物館に比べるとマルチメディア的な観点からは貧弱ではありますが、それを補って余りある「愛」が素晴らしかったです。縄文時代と加曽利貝塚に対する「愛」が、圧倒的です。じっくり見る価値があります。私個人は、貝塚というものに対する概念を大きく変更させられ、縄文時代に対するイメージがかなり変わりました。貝塚は、ただの「ゴミ捨て場」じゃないんですよ。

博物館の展示のおかげで貝塚に対するニワカ愛が目覚めたので、急遽、2kmほど西にある荒屋敷貝塚にも行ってきました。

貝塚に建っている案内板。

こちらの史跡も、広大な原野が広がっています。ところどころ、地表に貝が露出していて、明治初期には石灰を採掘していたというのも納得です。

この貝塚史跡は、京葉道路の上にあります。というか、貴重な史跡を保存するために、わざわざトンネルを掘って遺跡の下に道路を通したんですね。史跡南側の端に行くと、高速道路を行き交う激しい車の波を見下ろすことができ、少し変な気分です。貴重な遺跡が保存されて、日本の将来のためにも本当に良かったと思います。

加曽利貝塚の発掘は、まだ7%しか進んでいないそうです。今後の研究の進展によって、さらに縄文時代の様子が詳しく分かるようになることを楽しみにしています。

千葉県木更津市 証誠寺と請西藩陣屋跡

千葉県木更津市に行ってきました(2018年2/3訪問)。
木更津までは、東京湾アクアラインができてからは新宿や東京からの高速バスが便利ではあるんですが、土日は新宿から「特急さざなみ」が直通しているので、今回は電車で。自由席でも座って行けます。

新宿から75分で木更津着。特急は速いですね。
で、駅を降りたとたん、やたらとタヌキ推しでした。マンホールの蓋も、タヌキ。証誠寺(しょじょじ)を観光の目玉として推しているようです。

駅前に据えられたタヌキのモニュメント。

木更津港の近くにある海鮮バーベキューの店頭にも、タヌキ。セルフサービスのバーベキューで、サザエとアワビをいただいてきました。

隣のみやげもの屋さんにも、大量のタヌキ。

港にも、タヌキ。

さらに海岸通りにもタヌキ。特産の貝と観光名物のタヌキを合体させたのは分かるけど、それにしてもビーナスの誕生て。どれだけタヌキ推しなんだ。

そんなわけで、証誠寺にやってきました。本堂脇の梅がほころび始めていて、とても清々しいです。

「証誠寺の狸囃子」は、明るく楽しい童謡だと思っていましたが。元の話は、なかなか悲しいことになっていますね。

境内にはタヌキを慰霊する「狸塚」がありました。

証誠寺を離脱して、駅の東側へ。
駅の東側の山の天辺には、歴史博物館があります。真里谷武田氏の動向とか、請西藩の幕末とか、上総掘りの展開とか、他の地域にはない展示が充実しています。目玉展示は、日本の古墳でここからしか見つかっていない金の鈴。たいへん立派なものでした。

山の上にはふるさと創生の一億円で作ったという展望台があったので、登ってみると、木更津市街を一望できる上に、はるか京浜工業地帯の工場群から立ち上る煙と東京湾を見渡すことができます。絶景。

博物館から1.5Kmほど南に行くと、請西藩陣屋跡があります。ここに来たかったんですよね。

請西藩陣屋跡には、現在は石碑が建っているだけで、跡形もありません。

案内板には、幕末の林忠崇の動向が少し説明されています。中公新書から出ている「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯 」という本がとても面白くて、興味を持ったのでした。昭和16年まで存命の、ラスト大名です。なかなかすごい人生。

案内板の裏には重機が入って、宅地造成大開発の真っ最中でした。真っ平らにされてしまって、当時を偲ぶよすがは、ほとんど残されていません。と思いきや。

陣屋跡の周りを探索していると、なかなか面白い地形にでくわします。たとえば上の写真は、虎口ぽい感じです。他にも、土塁の跡らしきものや、堀の形跡らしいものはたくさん見えました。これらも今後の大開発で消えていくんでしょうね。

陣屋跡から数百メートル北には、請西城の跡があるらしいのですが、行ってみてもほとんど形跡は残っていませんでした。上の写真は請西城の跡地周辺のはずですが、左側の断崖絶壁が要塞としての痕跡を残している他には、当時を偲ぶ手がかりは見つかりませんでした。

今回は真里谷城に行けていないので、また木更津には行きたいと思います。

日本保育学会「関東地区研究集会」の個人的まとめ

2018年2/11にお茶の水女子大学で行われた日本保育学会「関東地区研究集会」に行ってきました。汐見稔幸先生の講演を聞きましたが、保育だけに限らず、新学習指導要領の背景を理解する上でも有益な内容だったと思うので、私が理解したことを書き留めます。

法令の改定を、世界史的な流れで理解する

研究集会のテーマは、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」(以下、三法令)の改訂に関してでした。そして汐見先生の話は、会場が期待していたような(?)具体的な保育実践に関わるものではなく、抽象的な理論の話でした。が、抽象的な理論の話でなければならなかった本質的な理由があったと思います。三法令改定の意味は、お上が命令するから逐条解釈するのだという姿勢では理解できず、世界史的な背景を踏まえて理解しなければならないというわけです。

この「世界史的な流れ」というのは、具体的には「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という動きです。この大きな流れを把握しておかないと、三法令の改定の意味がわからないということです。そして、この「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という世界史的動向は、いったん「19世紀型教育から20世紀型教育への転換」を振り返ると、分かりやすくなります。この19世紀型から20世紀型への教育の転換のことを、教育史では「新教育運動」と呼んでいます。

新教育運動:19世紀型教育から20世紀型教育へ

新教育運動を推進した人物として、教科書にはデューイ、キルパトリック、モンテッソーリといった名前が登場します。それぞれ個性的な教育を展開しましたが、古典的な教育とは異なる観点が共通して6点ほど挙げられます。
(1)子ども中心主義:興味関心をベースに
(2)活動主義:なすことによって学ぶ
(3)生活主義:生活の充実を目標都市、生活の中で豊かに学ぶ
(4)ホーリズム:人格全体、特に感情や自我の育ちを重視
(5)性善説・向善説:プロテスタンティズムの子ども観を転換
(6)民主主義の担い手育て:自分で自分を統治する教育

しかしこうした新教育運動の試みは、教養中心で主知主義的な19世紀型教育からは疑惑の目で見られることになります。20世紀の教育は、新教育と詰め込み教育が葛藤する100年となります。

20世紀教育の展開と限界

実際の20世紀の教育は、新教育が目指したものにはなりませんでした。現実には、産業化や工業化に必要な人材を大量に養成する教育となりました。産業至上主義に対応して選抜システムが洗練され、知能指数や学歴が信仰されるようになり、主知主義的で知識中心主義の教育が蔓延し、企業の中で駒として有能に働く能力の育成が追求されることになります。
こうした資本主義に適合する教育に対抗して、マカレンコ等の共産主義的教育が登場しましたが、それは結局は全体を優先する集団主義教育に過ぎませんでした。資本主義教育と共産主義教育の対立は、全体を優先して「個」を犠牲にするという意味では、結局は主知主義内での争いに過ぎませんでした。

しかし、20世紀後半に至り、こうした教育の限界が認識されるようになります。たとえば現在では、民間企業が率先して20世紀型教育を批判しています。20世紀型教育は指示された作業をこなす能力や枠に縛られたノウハウを育てることはできるものの、それ以上の価値を創造する力が弱く、民間から不満が噴出しています。国民の側も、不登校やいじめ、失業問題や環境問題等、教育が機能不全を起こしていることに不満を表明しています。同時に、情報機器の発展等によって学校以外の様々な教育機関が進展し、学校の相対的位置が低下しています。

こうして、20世紀型教育の限界が認識され、21世紀型教育への転換が叫ばれるようになっているわけです。

21世紀を見通したときに出てくる課題

さて、21世紀型教育が必要となるのは、これまでの教育では対応できないような課題に人類が直面しているからです。新たな課題は、主に3つあります。
(1)解決策がまだ見つかっていないが、解決していかないと地球自体がもたないという深刻な問題を解決するための力の養成。
(2)価値観の多様化と地球規模で人々が交流する時代にふさわしい知性の涵養。
(3)AI、ロボット、コンピュータがあらゆる生活に入り込んで情報処理をしてしまう社会での人間らしさの涵養。

これらに加えて、日本特有の課題もあります。
(1)日本の教育は、「個の充実」、特に「主体であること」の自覚と能力育成が弱く、組織の一員になるための教育へと偏っている。
(2)市民になる力の涵養、民主主義の担い手としての自覚とその力の教育の弱く、シティズンシップ教育が不足している。

20世紀教育の限界を突破する方策

こうした限界を突破するために、3つの方策が考えられます。
(1)すでに20世紀初頭に議論し実践してきた新教育運動の知恵からもう一度学び、必要な修正をしながら課題に対応する。
(2)この100年の実践、生活主義を引き継いで発展させる。
(3)シティズンシップ教育など新たな課題に対応する。

方策(1)新教育運動の知恵

倉橋惣三らが世界新教育運動から学び取った知恵を、もう一度振り返ってみると、それらが21世紀的教育が求める「非認知能力」や「社会情動的スキル」と通じていることに気がつきます。新教育運動の人格主義的性格は、感情・意志・主体性等の育てを重視しており、これは21世紀教育が追求する「心情、意欲、態度」とリンクしています。社会情動的スキルという考えには、心理学や社会心理学における情動研究の進展が反映しており、これがアタッチメントの再評価に繋がってきています。これらが、三法令改定における「資質・能力」という概念に反映しています。
三法令が言う「資質・能力」という概念は、倉橋惣三の仕事をしっかり振り返ることで、明確になっていきます。倉橋の仕事を学び直し、引き継いで、必要な修正を施しながら発展させていくことが、21世紀型教育の確立に結びつきます。

方策(2)生活主義の引き継ぎ

生活の中で学ぶという考えを精緻にしたのはデューイで、それを日本に紹介したのは宮原誠一の仕事です。倉橋惣三が言う「生活を、生活で、生活へ」も、この考えに共鳴しています。

「生活」とは英語では「life」ですが、「life」とは「生命」でもあり「日々の営み」でもあり「人生」でもあり、それらを串刺しにした概念です。人間は生活=いのちの営みを充実させることで必要な文化を身につけ、教育はそれを手伝い、ときには少しコントロールし、社会に必要な市民として子供を育てる営みと言えます。

生活主義の根底には、子供は自ら育っていこうとする存在だという子ども観があります。それを宮原は「形成」という独特の言葉で総称しました。一方で「教育」のことを、「形成」への関わりであり、その首尾良い具体化のための援助であると定義しました。現代の日本では、形成を具体化するための援助のことを「環境づくり」と呼んで、環境を通じた教育を目指しています。倉橋惣三が言う「保育の四層構造=自己充実、充実指導、誘導保育、教導保育」も同じことを言っているわけです。

方針(3)シティズンシップ教育

新たな教育課題として特に市民教育が挙げられますが、具体的な実現を目指して導入されたのが総合教育でした。前回の学習指導要領改訂では総合教育が後退したように見えますが、今回の改訂は総合教育の再登場であり、さらに言えば乳幼児期からの開始という特徴があります。乳幼児期教育は、シティズンシップ教育という観点から小学校以降の総合教育と結びついていくことで大きな意義を発揮すると言えます。

総合教育を成功させるためには、教育の3つの層の統合を考えなければいけません。すなわち(1)個別知(2)実践知(3)人格知の統合されたものです。この統合を目指すために必要となるのが、「主体的・対話的で深い学び」というものです。これを単に「教える方法」だけに矮小化せず、「目的」そのものであることを理解する必要があります。

保育学会の役割

というわけで、保育という営みを、生涯にわたる教育という大きな枠の中に積極的に位置づけていくことが重要になってきます。保育とは乳幼児教育学に他なりません。この大きな背景を見失っては、具体的な保育の方針も見えてきません。
こういう観点を得ると、たとえば保育の五領域についても考え直していく必要が見えてきます。たとえば具体的には、ニュージーランドの教育指針「テファリキ」等と比較したとき、日本の五領域には将来の市民を育成していくという視点が弱いのではないかと思われます。生涯にわたる学習という視点が乏しいということでしょう。

学会は、そうしたことを議論していく場です。ラディカルな議論をしていきましょう。

そんなわけで、単に三法令の逐条理解なんかしても大した意味はありません。改訂の背景にある時代の流れを大きな観点から理解していかなくてはいけません。その理解を促進するためには、20世紀の新教育が目指したものを振り返って学び直すことが極めて重要になってくるわけです。

個人的感想

学習指導要領本文には、20世紀初頭の新教育運動について振り返るような記述はまったくありません。あるいは、宮原誠一や倉橋惣三が行った仕事をリスペクトしているような記述もまったくありません。だから、学習指導要領だけ読むと、先哲の仕事をいったいどう考えているのか、何を引き継ぎ何を発展させるかという問題意識があるのかどうか、たいへん不安になるわけです。
が、汐見先生の話を聞く限りでは、先哲の仕事を十分に踏まえ、その重要性を理解した上で、さらに新たな課題を見据えて修正し、学習指導要領なり保育所保育指針が構成されているだろうことが伺えます。逆に言えば、こういう話がなければ、学習指導要領や保育所保育指針が本当に何を目指しているかは見えてこないように思います。そういう意味で、この講演の内容は、逐条解説なんかよりも、はるかに本質的な理解に繋がる内容だったと思います。

(以上、あくまでも私が講演を聴いて理解し考えたことを私の観点からまとめたものであって、誤解があった場合は汐見先生の責任でないことは書き添えておきます。)

天谷祐子『私はなぜ私なのか』

【要約】「私」というものに実存的な疑問を抱くのは、小学校高学年から中学校にかけてのことです。全ての人が自我体験するわけではありませんが、一部の人しか体験しないような特別のものでもありません。しかし高校生に上がると、多くの人がその疑問を忘れてしまいます。

【感想】貴重な実証研究だと思った。「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、どれくらいの人がどれくらいの時期に抱き、どれくらい持続してどれくらい影響を与えるのかという、客観化が恐ろしく困難な課題に粘り強く取り組んだ研究だ。結果もなかなか興味深く、とてもおもしろく読んだ。実証的なデータとして、今後も参照材料とさせていただきたい。

が、まあ、疑問なしとはしない。特に、「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、あたかも普遍的な問題として扱っているように見えるのには、問題の本質を捉え損なう可能性があるのではないかと危惧する。というのは、「私」というものが実存的なテーマの対象となるのは、私見では、近代以降のことと思われるからだ。普遍的な問題ではなく、時代に制約された問題だと思うのだ。
たとえば前近代に「私」というものが成立していなかったことは、フーコーとかギンズブルク等の仕事を参照すれば分かりやすい。あるいは、たとえば明治後期以降の日本文学において実存的な疑問は文学的テーマとなり得るように見えるが、明治前期以前の作品に見出すことは難しい。坪内逍遙や幸田露伴や尾崎紅葉が実存的なテーマを扱っているようには見えない。このあたりは柄谷行人あたりも言及していたように思う。
つまり、「私」が統合されて一つであるべきだというアイデンティティの意識自体が歴史的な産物である疑いがあって、これを本書のように人間の普遍的な傾向と前提してしまうと、様々な可能性を見落とす恐れがあると思うわけだ。

さらに、「私1」と「私2」という記述について。私自身の理解によれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、人間存在に対する「形式/内容」の峻別に対応していると思われる。または「人格/個性」の概念的区別と言ってもいい。私の理解では、このような「形式的な人格」と「内容的な個性」の峻別は、近代(市民社会と資本主義と国民国家)を成立させる上でどうしても必要なフィクションだ。近代を成立させるためには、個人差の内容を完全に捨象して全ての人間を同一の単位と見なす必要がある。侍と農民を区別するような身分制においては、近代の政治と経済は作動しない。全ての人間を形式的に平等な「一」と見なすことで、初めて近代の政治と経済は正常に作動することができる。しかしそれは逆に、近代を成立させるために、人々に対して「形式的な人格」と「内容的な個性」を峻別させるような有形無形の圧力が具体的に加えられるということでもある。この圧力が「私1=形式的な人格」と「私2=内容的な個性」をズラし、「私(形式的な人格)はなぜ私(内容的な個性)なのか」という疑問を生じさせる。「私はなぜ私なのか」という疑問を生じさせるメカニズムは、近代という時代が人々に加えている圧力の存在を抜きにしては見えてこないのではないか。
著者も「あとがき」において、「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」(169頁)と言っている。それ自体は問題ない。というか、近代という時代では当たり前の想定とも言える。が、それを「結論を出してしまった」と言ってしまうのは、正直、ちょっとどうかと思った。そこは結論どころではなく、考察のスタート地点に過ぎないだろう。この問題の本質は、「どうしてそういう仮定が必要なのか?」というところにあるはずだ。私の理解では、そういう「仮定」が必要なのは、それこそが近代という時代を成立させている鍵だからだ。だから、その仮定の土台を掘り下げていけば、近代という時代の本質を捕まえることができるはずだ。スタート地点に立っただけで、その下に豊かな鉱脈が眠っていることに気がつかず、「折り合い」がついたと言われても、私としては「もったいない」としか言いようがない。

もう少し敷衍してみれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、文法で言うところの「主語/述語」の違いに対応する。英語で言うと「I/me」の区別となる。ジェームズが言うような「I/me」の区別は、文法的に言えば「主語/述語」の区別となる。そしてこれは、哲学的に極めて重要なテーマだった。たとえばプラトンやアリストテレスは、主語がどうして主語なのかを追究している。述語としての「私」は現実的に多様であるのに、どうして主語としての「私」は同一性を保持できるのかという問題を、彼らは追究した。プラトン(特に後期)は自我同一性が厳密に成立するのは神だけだとしつつ、人間は神と獣の中間の「エロス的主体」として自我同一性が成立すると言ったし、アリストテレスは「神」の概念を追究する過程で、神とは「常に主語であり、決して述語にならないもの」というようなことを言った。本書が言う「私1=主語」の同一性が成立するのは、プラトンやアリストテレスの論理で言えば「神」だけなのだが、彼らはその地点から人間の同一性の根拠をさらに掘り下げていった。西洋において近代が成立したのは、主語の同一性を対象として考察を積み重ねたプラトンやアリストテレスの伝統が土台にあるからかもしれない。
かたや日本語の場合、主語の「私」も述語の「私」も同じ「私」として表記される。あるいは、主語を表記すること自体を避ける傾向にもある。「私1」を「主語」として理解した場合、日本においてはそもそも「私1」を成立させる言語的条件が歴史的に存在していなかった可能性があるのではないか。
だとしたら、本書が検討していたのは、実は人々の自我体験ではなく、近代西洋語の影響によって変容を被った後の「日本語の主語=述語の関係構造」だったのではないか。特に日本語における「主語」というものの機能と働きが大きく変化したことによって、前近代には起こりえなかった「I/me」のズレが生じたという事態を浮き彫りにした研究だったのではないか。「主語としての私の単一性」と「述語としての私の多様性」が言語的な矛盾として意識されるのが小学校高学年から中学生にかけてということだったのではないか。問題の本質は「心理」ではなく「言語」ではなかったのか。

が、まあ、そのあたりは私の仕事として追究すればいいところではある。本書の丁寧な実証研究に意味がないということではない。参照に値する貴重な本であることに変わりはない。

天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年

鵜殿篤の「人格の完成」はどっちだ?