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【茨城県古河市】鮭延寺に熊沢蕃山のお墓参り

 茨城県古河市にある鮭延寺に行ってきました。近世初期に活躍した思想家、熊沢蕃山(1619-1691)のお墓があります。

 境内に入ると左手に「史跡熊沢蕃山之墓所」と刻まれた石碑が見えます。

 蕃山の墓がどれかは、案内パネルが建っていてすぐに分かります。

 説明文は簡潔にして要を得ているように思いました。
 教育史的な観点から補足すると、まず中江藤樹(近江聖人)に師事して陽明学を学んでいることが重要です。というのは、江戸幕府公認の学問は儒教の中でも「朱子学」と呼ばれている流派で、身分制を維持するのに都合の良い理論を提供していました。しかし中江藤樹→熊沢蕃山ラインの陽明学は、朱子学の中でも「人間に共通する本性」に注目した論理を構成し、現実的には身分制を否定する根拠を与える反体勢的な流派でした。この陽明学の反身分制的な精神は幕末の大塩平八郎などに引き継がれ、江戸幕府を倒すための伏線となっていきます。
 また岡山藩で池田光政に使えていたときの教育関連諸政策はたいへん画期的で、日本教育史の教科書にはだいたい載っています。具体的には、寛永18(1641)年に蕃山の主催により私的な教育機関「花畠教場」が創設され、これが後に公的な岡山藩校に繋がっていきます。教場に掲げられていたという「花畑会約」は、教育史的に貴重な史料です。
 岡山藩主の池田光政は、さらに庶民のための教育機関「閑谷学校」を開設します。日本の歴史上、瞠目すべき先進的な業績です。身分に関係なく学べる教育機関を作ることができたのは、池田光政が陽明学に傾倒していたことなくしては考えられないでしょう。(いちおう、閑谷学校の創設は蕃山が岡山を去った後のことであり、直接の関連はなありません)。

 蕃山のお墓が古河にあるのは、古河藩主となる松平信之に仕えたからです。が、江戸幕府の逆鱗に触れて処罰を受け、古河藩に身柄預かり=幽閉となり、そのまま古河で亡くなりました。時の将軍徳川綱吉は学問振興にたいへん熱心な将軍でしたが、綱吉が推す朱子学は、蕃山が奉ずる陽明学とは相容れない思想でした。政権にとって都合の悪い学問が弾圧されるのは、今も昔も変わりません。
 後に再建されたという墓碑には「熊沢息游軒伯継墓」と刻まれ、妻の墓石と並んで佇んでおります。合掌。

 墓碑の向かい側には、蕃山を顕彰する石碑が建っています。

 蕃山が詠んだ漢詩「耕父春田事終否 期歌一曲騎牛還」が刻まれております。

 蕃山が眠る鮭延寺は、出羽の戦国武将・鮭延秀綱の菩提寺として創建されました。鮭延秀綱、信長の野望シリーズではかなり使えるステータスという印象です。

 鮭延秀綱の五輪塔にも合掌。

 世間では別の五輪で盛り上がったり盛り下がったりしている真夏の日、学問の大先輩の行跡に思いを馳せて、お寺を後にするのでありました。次に古河に寄る機会があったら、「蕃山公園」に行こう。
(2021年8月4日訪問)

【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)

【兵庫県三田市】三田は幕末維新の開明藩、重要人物を多数輩出

三田(「みた」ではなく「さんだ」と発音します)に行ってきました。明治維新期にあって模範的な開明派藩主の下、近代日本教育史を考える上で興味深い人物をたくさん輩出していることが印象に残りました。

今は跡形もありませんが、かつて三田城がありました。
現代では、尼崎を発したJR福知山線が宝塚から峠を越えて三田盆地に入ります。そのまま北上すると丹波篠山に至ります。つまり三田は摂津と丹波丹後を繋ぐ戦略重要地点です。ここに城を構えたくなるのも当然です。

城の跡地には、現在は県立有馬高等学校と私立三田小学校が建っています。城跡に建っている学校は全国的にもたいへん多いのですが、学校を建てるのに十分なまとまった平らな土地が城跡の曲輪くらいしかないという事情があるからですね。

三田藩の殿様は、九鬼家でした。

九鬼家は、戦国時代には鳥羽を本拠地とし、熊野水軍の中心として活躍しましたが、家光の時代に内陸部の三田に転封され、水軍の伝統を失うこととなりました。
が、13代藩主九鬼隆義は開明的な考えの持ち主で、福澤諭吉を通じて藩政改革を行なったり、貿易商社を成功させたり、最先端の洋学を取り入れつつ人材育成に意を注いだ結果、三田藩からは有能な人材が多数輩出されることとなります。

下の写真は、右が県立有馬高等学校、左が市立三田小学校で、それを隔てている、かつての空堀の跡です。

当時はもっと深かったんでしょう。石垣が見当たりませんが、土の城だったのかな? 武庫川の河岸段丘を利用した要害だったとは思うのですが、当時の状況を想像するにはかなり手がかりが少なくなっています。

堀の脇には、「元良勇次郎先生顕彰碑」が立っています。「もとら」と発音します。石碑の裏には、建てた団体として「日本心理学会」の名が刻まれています。

というのも、元良勇次郎は日本で最初の「心理学者」でした。何を以て「最初の心理学者」と呼ぶかは難しいところですが、東京帝国大学最初の邦人心理学専任教授であったことは間違いありません。

キリスト教徒で、同志社英学校の一回生なので、新島襄からも薫陶を受けたのでしょう。青山学院大学(当時は東京英学校)の創設にも関わっています。
元良は心理学者として明治期の教育学にも深く関わっています。私も明治期教育史を専門とする研究者として、元良の本をたくさん読みました。西洋由来の心理学という学問の精髄を、日本伝統の和歌を媒介して解説するなど、なかなかオリジナリティ溢れる内容だったのが印象的です。

顕彰碑の右隣には「敬想元良先生」として「おもいよこしまなし」と刻まれた石碑が鎮座しています。

この言葉自体は『論語』為政篇からの引用ですが、どうしてこの言葉なのかは、よく分かりません。

元良の生誕地には石碑が立っております。

心理学関係者は三田に巡礼したりするんですかね?

そして、三田には「九鬼隆一先生生誕の地」の石碑も立っております。九鬼姓ですが、藩主筋の九鬼ではありません。

九鬼隆一は明治10年代前半に文部官僚として教育に大きな影響力を持った人物で、私の専攻(日本教育史)においては、絶対に外せない人物です。森有礼の台頭に伴って、教育界からの影響力がなくなりますが。

しかし現在では文部官僚としてではなく「九鬼周造の実の父」としてよく知られているでしょう。『「いき」の構造』の著者として知られている九鬼周造の「実」の父と強調されるのは、「育ての父」が別にいるからです。日本美術界に燦然と名を轟かせる、岡倉天心です。九鬼隆一の妻であり周造の母であった波津子は、妊娠中に岡倉天心と不倫の恋に落ち、隆一と別居します。波津子だけに問題があったというよりは、九鬼隆一の派手な女性関係が問題だったと考えられています。この時、岡倉天心は文部省にあって、九鬼隆一の部下でした。この事件は後に大スキャンダルに発展し、怪文書が飛び交って、岡倉天心失脚の遠因となったりします。そんなわけで、岡倉天心のファンからは、九鬼隆一は出世欲に囚われて人間の心を失った無能なくせに尊大不遜なバカ役人として描かれがちです。師匠であるはずの福澤諭吉からも人柄を酷評されて、ダメ人間であるとの評価に拍車をかけています。
が、こういう事情は、観光案内パネルにはまったく触れられていませんね。

三田駅近くの駐車場に、「三田博物館」の石碑がぽつんと建っています。

かつて、九鬼隆一が現地に作った「日本初の民間博物館」ということです。

何を以て「日本初」の民間博物館と呼ぶかはなかなか判断が難しいところだと思います(明治初期にはそれに相当しそうな施設がいくつかありますね)が、九鬼がそう称していたのかもしれません。九鬼は帝国博物館(現東京国立博物館)総長を務めるなど、美術行政の第一人者でした。自分の故郷に博物館を開設したのは「故郷に錦を飾る」という思いがあったのかどうか。

九鬼隆一のお墓も三田市内、心月院(三田藩主九鬼家菩提寺)にあります。

墓の傍らに「景慕碑」が建っています。九鬼隆一が、恩を受けた人々を顕彰するために建てたもののようです。

木戸孝允、大久保利通、岩倉具視といった政治家は、藩閥の後ろ盾を持たなかった九鬼を引き立ててくれたのでしょう。フルベッキ、福澤諭吉、加藤弘之は、文部行政に関わってお世話になったのでしょう。「星崎」は妻波津子の旧姓ですが、どういう関係でしょうか。

墓地内に、気になる墓石がありました。

「教育は感化なり、感化は人格より来る」と刻まれています。側面には「明治三十九年」と刻まれています。教育の世界で人格主義が流行する少し前のように思うのですが、どういう事情が背景にあるのでしょう? 気になります。
他、墓地には白州次郎・正子のお墓もあります。

三田が教育関係者を輩出したのは、藩閥政治の中心に食い込めず政治家を目指せなかったという事情もあるのでしょうが、最後の藩主が開明的な考え方の持ち主で、先進的な洋学教育機関が存在していたのは決定的に重要でしょう。

九鬼隆一や元良勇次郎も、英蘭塾で川本幸民に薫陶を受けているようです。

川本幸民は、幕末に薩摩藩主島津斉彬に見出されて薩摩藩校の学頭を務めたり、蕃書調所(幕府直轄の洋学研究教育機関)の教授として活躍するなど、当代最高の科学者の一人です。弟子には松本弘安や橋本左内もいます。

そういう「文明開化」の志向が強かった地域だからかどうか、擬洋風の素敵な建築物も市内に残されています。

旧九鬼家住宅は、瓦屋根の上にモダンなベランダという、他に類を見ないデザインになっています。明治9年頃の建築ということなので、文明開化真っ最中ですね。内部は展示室になっていて、訪れた時は梅の盆栽の展示が行なわれていました。
隣接する「三田ふるさと学習館」でも様々な展示を楽しめます。訪れたときは豪華な雛壇の展示がありました。三田から篠山にかけては、雛人形が名物のようですね。
(2016年3/26訪問)

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【兵庫県丹波篠山市】八上城は明智光秀に兵糧攻めで落とされた

丹波篠山市(たんばささやま)の八上城に行ってきました。

市内には代表的な近世城郭篠山城もありますが、八上城は戦国山城の面影を残しています。国指定史跡の、立派な城跡です。頂上まで約1km、45分の山登りです。

JR篠山口駅で借りたレンタルサイクルを山の麓に置いて、さっそくアタックです。

八上城は、戦国時代には丹波地方の国人領主である波多野氏が治めていました。織田信長の攻撃を何度も跳ね返した堅城です。

しかし最終的には明智光秀と細川藤孝に包囲され、兵糧攻めに遭って、落城しています。

地元の有志が建てたっぽい案内パネルには、明智光秀を卑怯者とディスって、地元国人領主である波多野氏をリスペクトするような文章が達筆で書き付けられております。

春日神社脇の登城口から攻め入ると、まず主膳屋敷跡に出ます。

ここには「八上城主前田主膳正」の供養塔が建っております。

前田主膳茂勝は、波多野氏が滅亡した後に八上城に入りました。関ヶ原では負けた西軍側に立ち、細川藤孝の立て籠もる但馬田辺城を攻めていますが、戦後も領土は安堵されます。ところがその後、発狂して、改易されたとのこと。前田茂勝本人はキリシタンだったようですが、供養塔は伝統的な五輪塔ですね。

1608年、茂勝改易後に篠山に入った松平康重は、近世平城として篠山城を築いたため、中世山城の八上城は役割を終えて廃城となります。
ちなみに松平康重は、家康の親類としての松平ではなく、もともとは「松井」の姓を持っていました。康重の父、松井忠次は、鵜殿長照が籠もる上ノ郷城を攻め滅ぼした武将の一人です。しかし一方、康重の実父は松井忠次ではなく徳川家康本人であったという説もあるようですね。

登山を続けると、下の茶屋丸に出ます。

視界が西側に広く開けていて、東西に長い篠山盆地を東端のほうから一望できます。普通のハイキングとしてもいいところですね。

さらに登ると、右衛門丸に。

石垣の跡が残っています。関東の中世山城にはなかなか見られない光景で、さすが近畿の城だと感心します。波多野氏時代のものでしょうか、その後のものでしょうか。

さらに行くと、三の丸。なかなか険しい傾斜ではありますが、しっかり整備されていてとても歩きやすいです。

続いて二の丸。

上の写真の奥の方に見える丘が、本丸です。

本丸は、面積としてはさほど広くないので、象徴的な意味合いが強かったかもしれません。実質的には二の丸が砦としての機能を担っていたのでしょう。

本丸には、波多野秀治の表忠碑が建っています。

正親町天皇即位の際に献金を行なったため、贈位されているようですね。

本丸にも案内パネルが立っています。

国人であった波多野氏は、管領を放逐したり、守護代を攻略したりと、まさに下克上を体現するような存在だったようです。三好長慶と抗争を繰り広げたり、織田信長が丹波に進出してきた際には明智光秀に従ったふりをした後に反抗してみたり、なかなか曲者のようです。が、一年半の攻城戦の後に光秀に敗れ、安土城下で磔に処せられて果てます。本能寺の変の3年前のこと(1579年)ですが、2020年度NHK大河ドラマ『麒麟がくる』ではどのように描かれるでしょうか。

八上城周辺にはたくさんの砦が築かれています。

篠山は丹波丹後と京都あるいは神戸を繋ぐ交通の要衝にあったため、盆地全体が要塞化されていた感じですね。
現在の篠山は、JR福知山線と舞鶴若狭自動車道が盆地の西端を南北に貫いており、八上城のある盆地東側は要衝から外れている感じもありますが、実は戦国期には盆地を東西に貫いて山陰街道(現国道372号)が通っていましたので、盆地東端にある八上城は京都への出入口を固める極めて重要な地政学的位置を占めていたはずです。

おそらく平時は麓の館に住んでいて、八上城は緊急時の後詰めの城として機能していたような気もします(実際、主膳屋敷跡は山の麓の春日神社周辺にありましたし)。

ところで、マンホールの蓋には各地の個性が出るのですが、八上地区のマンホールもなかなかです。

二匹のイノシシ、松、黒豆、ササユリ、そして山頂に天守閣(おそらく八上城を象徴)というデザインです。が、まあ、中世山城にこんな立派な天守閣が建っていたわけはないんですよね。ツッコミ失礼しました。
(2016年3/25訪問)

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【岐阜県恵那市】明智城の麓には明智光秀の供養塔があるが怪しさ満点、大河ドラマとは違う場所

岐阜県恵那市にある明智城に行ってきました。明智城の麓には、明智光秀出生地の碑と供養塔もあります。
ちなみに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台となっている明智荘は、同じ「明智」でも、ここではありません。ドラマの方では、同じ岐阜県でも、可児市にある明智(恵那明智から北北西に約40km)が舞台に設定されています。

明智城は、明知鉄道の終点「明智駅」から500mくらいのところにあります。明智には日本大正村もあり、見所が多いところです。
ちなみに大河ドラマの舞台は、同じ岐阜県の明智でも、名鉄広見線の「明智駅」が最寄りです。違う場所です。

明智光秀の供養塔は、龍護寺にあります。

明智光秀公の御霊廟に「おはか」とふりがなが振ってあります。

霊廟に入ると、「明智光秀公出生地」の石碑が立っています。

何度も書きますが、大河ドラマ『麒麟がくる』では、同じ岐阜県でも、こちら恵那市ではなく、可児市の明智のほうを出生地としています。どちらが正解でどちらが間違っているというわけではなく、史料が存在しないため、現時点では確かなことは分かっていません。
ちなみに、可児明智と恵那明智も含め、光秀の出生地と言われている場所は6個所あります。

さて、霊廟内には供養塔が立っています。

「色即是空 明智光秀公供養塔」は、まあいいのですが。

裏に回ると……

「空即是色 敵は本能寺にあり」とありますよ!! 怪しすぎ!
ちなみに、現在の歴史学の水準では、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったことは明確に否定されています。大河ドラマでは、このセリフを言うのかどうか。

ところで、この龍護寺には「遠山の殿さんの墓」もあります。

実は、恵那市の明智を領有していたのは明智氏ではなく遠山氏だったんですね。遠山氏は岩村城や苗木城なども領有しており、東美濃一帯を支配する国人領主でした。明智の遠山家の末裔には、「遠山の金さん」として有名な遠山景元がいます。

龍護寺の案内パネルにも、「遠山家菩提寺」とあります。恵那の明智は遠山家が代々領有する地であって、光秀の出身地とするには微妙な感じもします。
ただし、明智光秀が可児明智の生まれではなく、遠山家に生まれて可児明智に養子に出た可能性などもあり、一概に恵那明智が光秀の出生地であることを否定できるわけではありません。恵那と可児の距離や当時の勢力関係から考えても、養子に出ている可能性は低くありません。
文書資料が残されていない以上、確かなことは分かりません。

さて、案内パネルにもあるとおり、龍護寺から明智城本丸までは650mの山道です。15分ほど山登りです。

明知城の案内パネルでも、城主は遠山氏となっていますね。ちなみに漢字は「明智城」ではなく「明知城」となっています。

本丸までの山道はしっかり整備されていて、とても歩きやすいです。

本丸は比較的こじんまりとしている印象ではありましたが、中世山城はこんなものでしょう。

本丸からは明知の里が一望できます。北北西には岩村城も臨めるところです。

地政学的には、恵那明智から明智川を南下すると矢作川に当たり、矢作川を下っていけば豊田と岡崎に出ます。恵那明智は、木曽川水系と矢作川水系を結ぶ中継点になっています。木曽川や矢作川を直接抑える拠点と比較すれば重要度は一歩下がるものの、美濃や尾張の側から見れば、武田家の侵攻を一番最初に食い止めるべき前哨地点として、無視できない要所であることには間違いありません。

明知城には、光秀が学んだ学問所という伝承のある天神神社もあります。果たして明智光秀はどこで生まれ、どう育ったのか。負けたものの史料は時代の流れの中で意図的に失われていき、現在では想像にまかせる他ありません。(2011年8/31訪問)

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