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【兵庫県三田市】三田は幕末維新の開明藩、重要人物を多数輩出

三田(「みた」ではなく「さんだ」と発音します)に行ってきました。明治維新期にあって模範的な開明派藩主の下、近代日本教育史を考える上で興味深い人物をたくさん輩出していることが印象に残りました。

今は跡形もありませんが、かつて三田城がありました。
現代では、尼崎を発したJR福知山線が宝塚から峠を越えて三田盆地に入ります。そのまま北上すると丹波篠山に至ります。つまり三田は摂津と丹波丹後を繋ぐ戦略重要地点です。ここに城を構えたくなるのも当然です。

城の跡地には、現在は県立有馬高等学校と私立三田小学校が建っています。城跡に建っている学校は全国的にもたいへん多いのですが、学校を建てるのに十分なまとまった平らな土地が城跡の曲輪くらいしかないという事情があるからですね。

三田藩の殿様は、九鬼家でした。

九鬼家は、戦国時代には鳥羽を本拠地とし、熊野水軍の中心として活躍しましたが、家光の時代に内陸部の三田に転封され、水軍の伝統を失うこととなりました。
が、13代藩主九鬼隆義は開明的な考えの持ち主で、福澤諭吉を通じて藩政改革を行なったり、貿易商社を成功させたり、最先端の洋学を取り入れつつ人材育成に意を注いだ結果、三田藩からは有能な人材が多数輩出されることとなります。

下の写真は、右が県立有馬高等学校、左が市立三田小学校で、それを隔てている、かつての空堀の跡です。

当時はもっと深かったんでしょう。石垣が見当たりませんが、土の城だったのかな? 武庫川の河岸段丘を利用した要害だったとは思うのですが、当時の状況を想像するにはかなり手がかりが少なくなっています。

堀の脇には、「元良勇次郎先生顕彰碑」が立っています。「もとら」と発音します。石碑の裏には、建てた団体として「日本心理学会」の名が刻まれています。

というのも、元良勇次郎は日本で最初の「心理学者」でした。何を以て「最初の心理学者」と呼ぶかは難しいところですが、東京帝国大学最初の邦人心理学専任教授であったことは間違いありません。

キリスト教徒で、同志社英学校の一回生なので、新島襄からも薫陶を受けたのでしょう。青山学院大学(当時は東京英学校)の創設にも関わっています。
元良は心理学者として明治期の教育学にも深く関わっています。私も明治期教育史を専門とする研究者として、元良の本をたくさん読みました。西洋由来の心理学という学問の精髄を、日本伝統の和歌を媒介して解説するなど、なかなかオリジナリティ溢れる内容だったのが印象的です。

顕彰碑の右隣には「敬想元良先生」として「おもいよこしまなし」と刻まれた石碑が鎮座しています。

この言葉自体は『論語』為政篇からの引用ですが、どうしてこの言葉なのかは、よく分かりません。

元良の生誕地には石碑が立っております。

心理学関係者は三田に巡礼したりするんですかね?

そして、三田には「九鬼隆一先生生誕の地」の石碑も立っております。九鬼姓ですが、藩主筋の九鬼ではありません。

九鬼隆一は明治10年代前半に文部官僚として教育に大きな影響力を持った人物で、私の専攻(日本教育史)においては、絶対に外せない人物です。森有礼の台頭に伴って、教育界からの影響力がなくなりますが。

しかし現在では文部官僚としてではなく「九鬼周造の実の父」としてよく知られているでしょう。『「いき」の構造』の著者として知られている九鬼周造の「実」の父と強調されるのは、「育ての父」が別にいるからです。日本美術界に燦然と名を轟かせる、岡倉天心です。九鬼隆一の妻であり周造の母であった波津子は、妊娠中に岡倉天心と不倫の恋に落ち、隆一と別居します。波津子だけに問題があったというよりは、九鬼隆一の派手な女性関係が問題だったと考えられています。この時、岡倉天心は文部省にあって、九鬼隆一の部下でした。この事件は後に大スキャンダルに発展し、怪文書が飛び交って、岡倉天心失脚の遠因となったりします。そんなわけで、岡倉天心のファンからは、九鬼隆一は出世欲に囚われて人間の心を失った無能なくせに尊大不遜なバカ役人として描かれがちです。師匠であるはずの福澤諭吉からも人柄を酷評されて、ダメ人間であるとの評価に拍車をかけています。
が、こういう事情は、観光案内パネルにはまったく触れられていませんね。

三田駅近くの駐車場に、「三田博物館」の石碑がぽつんと建っています。

かつて、九鬼隆一が現地に作った「日本初の民間博物館」ということです。

何を以て「日本初」の民間博物館と呼ぶかはなかなか判断が難しいところだと思います(明治初期にはそれに相当しそうな施設がいくつかありますね)が、九鬼がそう称していたのかもしれません。九鬼は帝国博物館(現東京国立博物館)総長を務めるなど、美術行政の第一人者でした。自分の故郷に博物館を開設したのは「故郷に錦を飾る」という思いがあったのかどうか。

九鬼隆一のお墓も三田市内、心月院(三田藩主九鬼家菩提寺)にあります。

墓の傍らに「景慕碑」が建っています。九鬼隆一が、恩を受けた人々を顕彰するために建てたもののようです。

木戸孝允、大久保利通、岩倉具視といった政治家は、藩閥の後ろ盾を持たなかった九鬼を引き立ててくれたのでしょう。フルベッキ、福澤諭吉、加藤弘之は、文部行政に関わってお世話になったのでしょう。「星崎」は妻波津子の旧姓ですが、どういう関係でしょうか。

墓地内に、気になる墓石がありました。

「教育は感化なり、感化は人格より来る」と刻まれています。側面には「明治三十九年」と刻まれています。教育の世界で人格主義が流行する少し前のように思うのですが、どういう事情が背景にあるのでしょう? 気になります。
他、墓地には白州次郎・正子のお墓もあります。

三田が教育関係者を輩出したのは、藩閥政治の中心に食い込めず政治家を目指せなかったという事情もあるのでしょうが、最後の藩主が開明的な考え方の持ち主で、先進的な洋学教育機関が存在していたのは決定的に重要でしょう。

九鬼隆一や元良勇次郎も、英蘭塾で川本幸民に薫陶を受けているようです。

川本幸民は、幕末に薩摩藩主島津斉彬に見出されて薩摩藩校の学頭を務めたり、蕃書調所(幕府直轄の洋学研究教育機関)の教授として活躍するなど、当代最高の科学者の一人です。弟子には松本弘安や橋本左内もいます。

そういう「文明開化」の志向が強かった地域だからかどうか、擬洋風の素敵な建築物も市内に残されています。

旧九鬼家住宅は、瓦屋根の上にモダンなベランダという、他に類を見ないデザインになっています。明治9年頃の建築ということなので、文明開化真っ最中ですね。内部は展示室になっていて、訪れた時は梅の盆栽の展示が行なわれていました。
隣接する「三田ふるさと学習館」でも様々な展示を楽しめます。訪れたときは豪華な雛壇の展示がありました。三田から篠山にかけては、雛人形が名物のようですね。
(2016年3/26訪問)

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【兵庫県神戸市北区】有馬温泉は日本最古の温泉なのか?

有馬温泉に浸かってきました。金の湯も銀の湯も、とてもいいお湯でした。

ついでに、「日本最古の温泉」という触れ込みですので、温泉街を歩きながら由来を確かめてみましょう。

念仏寺前の「ねがいの庭」に行基の銅像が立っていました。

銅像の脇に温泉の歴史を記したパネルが設置されており、これを読めば、どうして行基なのかの理由も分かります。

なるほど、行基が温泉寺を開いたことがきっかけで有名になったということですね。パネルにはありませんが、伝承では、山崩れで埋まってしまった源泉を、行基が薬師如来のお告げによって復興させたとされています。
まあ、信頼できる史料は存在せず、本当かどうかは確かめることはできません。行基が開いたという温泉は日本各地に存在し、どこもだいたい伝承に留まっているので、ここも行基にあやかっているだけの可能性はけっこうあります。
とはいえ、何もモトネタのない話が残されることも考えにくく、伝承の土台となった出来事は何かしら存在しているのでしょう。山崩れで埋まってしまった源泉を、土木技術に精通していた僧侶が掘り起こしたという出来事はあったのかもしれません。

また、オオナムチ(オオクニヌシ)とスクナビコナが発見したとも記されていますが、これは日本全国の多くの温泉に共通に見られる伝承で、特に信じるべき理由はありません。
とはいえ、これもモトネタになる出来事が完全になかったということではないかもしれません。注意したいのは、有馬のみならず日本全国の温泉発見に関わった神が、アマテラスに連なるヤマト系の神ではなく、イズモに連なる神々だということです。出雲の人々が温泉開削なども含めた土木工事に精通していたことの象徴かもしれません。そこで気になるのが渡来系の人々の動きですが、まあ、史料がないので確かなことは何も分かりません。

一方、日本書紀に記録されている記事は、かなり信憑性が高くなります。パネルに記されている通り、舒明天皇や孝徳天皇が訪れたのは確かなのでしょう。舒明天皇は聖徳太子の父親、孝徳天皇は大化の改新の影の主役として知られていますね。いい加減な行基伝説に頼るまでもなく、立派な史料があるのですから、舒明天皇や孝徳天皇ゆかりということではダメなのでしょうか?
しかし愛媛の道後温泉も、舒明天皇や、さらに前の天皇も訪れていると主張しているので、これを以て有馬温泉が「日本最古」とは主張しにくいところでもあります。多めに見積もって「日本最古と言われているうちの一つ」ということになりますかね。

さて、行基が開山したという温泉寺に行きます。

温泉寺にも説明パネルがあります。

やはり行基が開基ということになっていますが、鎌倉時代に仁西上人が再興したとありますね。有馬温泉の伝承では、この仁西上人が平家の落人を祖とする木地師を従えてやってきて、荒れていた有馬温泉を再興したとも言われています。仁西上人は熊野三山ゆかりの僧ということなので、山岳修験道との繋がりもありそうです。この仁西上人の話は、なかなかリアルです。

ところで気になるのは、パネルの中に「明治維新の神仏分離以後衰微、清涼院以外の寺院は廃絶」と書いてあるところです。明治維新までの有馬盆地には、仁西上人ゆかりの十二坊が立ち並ぶ宗教都市が栄えていただろうことが伺えます。

温泉寺の隣にある「太閤の湯殿館」には、かつて豊臣秀吉が作らせた「湯山館」がありました。

現在も石垣を確認することができます。

案内パネルによると「秀吉の活躍した」時代の「野面積」ということにされていますが、秀吉が有馬に至る頃には野面積みよりも進化した打ち込みハギや切り込みハギの石垣技術が登場していますので、この案内パネルの記述は相当に微妙です。
秀吉が有馬逗留のために文禄3(1594)年に湯山館を作ったのが事実だとしても、その前になにかしらの中世城塞的な施設が当地にあった可能性が臭います。

そんなことを考えていると、猫が。

いいポジションを確保しましたね。

温泉寺の背後の山には、湯泉神社があります。

案内パネルによれば、オオナムチとスクナビコナが祀られています。

拝殿に掲げられた「湯泉神社御由緒略記」の記述は、なかなか興味深いです。

崇神天皇の時代に「神戸」が設けられたと書いてありますね。出典はなんでしょうか。
崇神天皇は形式上は第10代ですが、歴史学においては実在の可能性が高い最初の天皇と考えられています。その天皇の代に「神戸=神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸」が設けられた以上は、その根拠となる神社が存在していたことになるわけです。
ただし、「神戸」自体は大化の改新以後の呼び方になるので、直ちにこの記述を信頼するわけにはいきません。

また、仁西上人から熊野の影響が加わったことや、中世「神仏習合」や明治維新期「廃仏毀釈」にも触れられています。湯泉神社は真言宗の僧侶が治め、同時に温泉寺の別当になっていたことが分かります。

豊臣秀吉ゆかりの湯山館のすぐ東隣には「銀の湯」があります。

銀の湯は透明の炭酸温泉です。
平日の夜7:00頃行ったところ、客は私一人だけで、湯船をひとり占めでした。たいへん気分が良かったです。

いっぽう、鉄分を多く含んだ褐色の「金の湯」は、建物が工事中でした。

が、お湯に浸かることはできました。すごく熱いです。朝7:30頃に行ったところ、既にご老人たちが思い思いのだらしない格好で湯船を占領していたので、私は隅っこの方に体育座りをして浸かりました。

神戸電鉄有馬温泉駅近くの交差点脇に、太閤秀吉の像が鎮座しています。

太閤像から少し坂を登ると、秀吉正妻の寧々の像があります。

オオナムチや行基は日本全国多くの温泉に共通に伝わる話なので、有馬独特の個性を打ち出そうとすると、やはり太閤秀吉しかないということになるのでしょう。
そんなわけで、「日本最古」かどうかはよく分からなかったのですが、温泉が素晴らしいことには間違いないのでした。
(2016年3/25訪問)
(2019年8/31訪問 このときは六甲からロープウェイで来たかったけれども強風のために運行中止)

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【兵庫県丹波篠山市】篠山城の堂々たる近世城郭っぷりを戦国山城八上城と比べたい

篠山城は、日本百名城にも選出されている、たいへん立派な、ばかデカいお城です。篠山盆地のド真ん中にあります。
この、盆地のド真ん中に位置しているということが、近世の城の機能と役割を考える上でとても重要な気がします。戦国の城と比較するために、ぜひ同じ篠山にある八上城とセットで見学したい城です。

篠山城は、三の丸に視界を遮る建物がまったくなく、二の丸の石垣を思う存分堪能できるのが大きな特徴かもしれません。

天下普請だけあって、たいへん見事な石垣と堀なわけですが。

こうして城(二の丸)の全景を眺めると、不自然なほど人工的にまっすぐであることが、改めて印象的です。

設計したのは城作りの名手と名高い藤堂高虎だそうですが、このシンプルな正方形の縄張を見れば、ナルホドというところ。

このまっすぐな正方形の作りからは、自然の地形を完全に無視して、すべて人間の意志で人工的に作ってしまおうという勢いを感じます。もともとは小高い丘だったようですが、原型を留めないほど徹底的に土木工事が施されたことでしょう。

自然地形を活かした中世山城が好きな手合いとしてはあまり感じ入らないわけですが、私が感じ入らないからといって城の客観的な価値が下がるわけではありません。

篠山盆地の中心地はそれまで盆地東端にあった八上城でしたが、慶長13(1608)年に松平康重が入封するのに伴って、徳川家の天下普請によって篠山城が築かれ、以後江戸時代を通じて地域支配の拠点となります。

戦国期八上城は、京都へ通じる街道の出入り口を見下ろす山の上に築かれていました。一方、篠山城は、自然地形を無視して、盆地のド真ん中、どこからも見える中心にどっしりと構えています。これが、「戦国の城=戦闘拠点」と「近世の城=政治経済の拠点」の決定的な違いの象徴のように思います。
波多野家が八上城に期待していたのは、篠山という領国を守りきることでした。しかし徳川家康が篠山城に期待していたのは、豊臣家包囲のための全国的な戦略の一翼を担うことでした。単に篠山盆地を守ればいいのではなく、大阪城を攻撃したり西国大名を牽制したりする広域拠点として期待されていました。すると、単に城自体の防御力が高ければいいというものではなく、四方に兵員や物資を供給する兵站基地や、あるいは指揮系統のハブとして役に立たなければ意味がないわけです。広大すぎる三の丸には、大量の兵員と物資を蓄えることを想定して、兵舎や倉庫が建ち並んでいたことでしょう。
盆地のド真ん中に位置する篠山城の不自然=人工的なまっすぐさは、広域戦略拠点として期待されていたことが具体的に形に現れたもののような気がするわけです。

さて、城の北側の大手口から攻め入ります。下の写真は三の丸北側から二の丸へ向かう端の入口です。

たいへん立派な食い違い虎口になっております。当時は立派な櫓門が構えられていたのでしょう。全体的にまっすぐで単調な縄張の篠山城にあって、三個所ある虎口の部分だけは相当に手が込んでいます。築城技術の粋が詰め込まれているのでしょう。馬出の跡もよく残っており、見応えがあります。堪能ポイントです。

食い違い虎口を超え、冠木門をくぐって二の丸に突入します。

築地塀の向こうに、立派な建物が見えます。昭和19年に消失したものの、平成18年に復元された「大書院」です。

大書院は、中に入ることができます。嬉しいですね。建物だけでなく、障壁画など内装もたいへん立派に復元されていて、見応えがあります。豪華絢爛です。

歴史的展示も充実しています。八上城や波多野家の歴史、明智光秀の丹波攻め、篠山城城主松平康重などについて学ぶことができます。

初代城主松平康重は、父親が実は徳川家康その人ではないかという疑いもかけられていますが、正式には松井忠次が父親ということになっています。この松井忠次は、鵜殿総領家の上ノ郷城を攻め落とした武将の一人で、私個人からすれば憎むべき相手ではあります。

さて、二の丸には、かつては大書院の他にも御殿があって、藩の政庁として機能していました。

しかし明治維新の時に御殿は破却されたもののようです。建物がどのように建っていたのか、平面表示の工夫がされています。

当時はさぞ立派な御殿が建っていたことでしょう。

現在は大書院だけ復元されていますが、たいへんありがたいことです。堪能しましょう。

さて、本丸は、二の丸の南東隅にあります。

幕府の命令で天守閣建築は中止され、規模を縮小して隅櫓が作られたようですね。

天守台に登って南東角に立ってみます。

水堀の水面まで、相当の比高差があります。落ちたら死ぬ高さです。絶対に夜に来てはいけない場所です。

二の丸を出て、三の丸を彷徨ってみますが、唖然とするデカさです。デカすぎます。三の丸の水堀が、またデカいです。

戦国山城の八上城に訪れた後だったから、さらにそのデカさに圧倒されます。戦国から近世への移り変わりを、これほど圧倒的な形で対比させてくれる地域は、そうそうないような気がしたのでした。丹波篠山、城マニアにとっては絶対に外せないところです。
(2016年3/25訪問)

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【兵庫県丹波篠山市】八上城は明智光秀に兵糧攻めで落とされた

丹波篠山市(たんばささやま)の八上城に行ってきました。

市内には代表的な近世城郭篠山城もありますが、八上城は戦国山城の面影を残しています。国指定史跡の、立派な城跡です。頂上まで約1km、45分の山登りです。

JR篠山口駅で借りたレンタルサイクルを山の麓に置いて、さっそくアタックです。

八上城は、戦国時代には丹波地方の国人領主である波多野氏が治めていました。織田信長の攻撃を何度も跳ね返した堅城です。

しかし最終的には明智光秀と細川藤孝に包囲され、兵糧攻めに遭って、落城しています。

地元の有志が建てたっぽい案内パネルには、明智光秀を卑怯者とディスって、地元国人領主である波多野氏をリスペクトするような文章が達筆で書き付けられております。

春日神社脇の登城口から攻め入ると、まず主膳屋敷跡に出ます。

ここには「八上城主前田主膳正」の供養塔が建っております。

前田主膳茂勝は、波多野氏が滅亡した後に八上城に入りました。関ヶ原では負けた西軍側に立ち、細川藤孝の立て籠もる但馬田辺城を攻めていますが、戦後も領土は安堵されます。ところがその後、発狂して、改易されたとのこと。前田茂勝本人はキリシタンだったようですが、供養塔は伝統的な五輪塔ですね。

1608年、茂勝改易後に篠山に入った松平康重は、近世平城として篠山城を築いたため、中世山城の八上城は役割を終えて廃城となります。
ちなみに松平康重は、家康の親類としての松平ではなく、もともとは「松井」の姓を持っていました。康重の父、松井忠次は、鵜殿長照が籠もる上ノ郷城を攻め滅ぼした武将の一人です。しかし一方、康重の実父は松井忠次ではなく徳川家康本人であったという説もあるようですね。

登山を続けると、下の茶屋丸に出ます。

視界が西側に広く開けていて、東西に長い篠山盆地を東端のほうから一望できます。普通のハイキングとしてもいいところですね。

さらに登ると、右衛門丸に。

石垣の跡が残っています。関東の中世山城にはなかなか見られない光景で、さすが近畿の城だと感心します。波多野氏時代のものでしょうか、その後のものでしょうか。

さらに行くと、三の丸。なかなか険しい傾斜ではありますが、しっかり整備されていてとても歩きやすいです。

続いて二の丸。

上の写真の奥の方に見える丘が、本丸です。

本丸は、面積としてはさほど広くないので、象徴的な意味合いが強かったかもしれません。実質的には二の丸が砦としての機能を担っていたのでしょう。

本丸には、波多野秀治の表忠碑が建っています。

正親町天皇即位の際に献金を行なったため、贈位されているようですね。

本丸にも案内パネルが立っています。

国人であった波多野氏は、管領を放逐したり、守護代を攻略したりと、まさに下克上を体現するような存在だったようです。三好長慶と抗争を繰り広げたり、織田信長が丹波に進出してきた際には明智光秀に従ったふりをした後に反抗してみたり、なかなか曲者のようです。が、一年半の攻城戦の後に光秀に敗れ、安土城下で磔に処せられて果てます。本能寺の変の3年前のこと(1579年)ですが、2020年度NHK大河ドラマ『麒麟がくる』ではどのように描かれるでしょうか。

八上城周辺にはたくさんの砦が築かれています。

篠山は丹波丹後と京都あるいは神戸を繋ぐ交通の要衝にあったため、盆地全体が要塞化されていた感じですね。
現在の篠山は、JR福知山線と舞鶴若狭自動車道が盆地の西端を南北に貫いており、八上城のある盆地東側は要衝から外れている感じもありますが、実は戦国期には盆地を東西に貫いて山陰街道(現国道372号)が通っていましたので、盆地東端にある八上城は京都への出入口を固める極めて重要な地政学的位置を占めていたはずです。

おそらく平時は麓の館に住んでいて、八上城は緊急時の後詰めの城として機能していたような気もします(実際、主膳屋敷跡は山の麓の春日神社周辺にありましたし)。

ところで、マンホールの蓋には各地の個性が出るのですが、八上地区のマンホールもなかなかです。

二匹のイノシシ、松、黒豆、ササユリ、そして山頂に天守閣(おそらく八上城を象徴)というデザインです。が、まあ、中世山城にこんな立派な天守閣が建っていたわけはないんですよね。ツッコミ失礼しました。
(2016年3/25訪問)

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【兵庫県伊丹市】有岡城本丸は伊丹駅から徒歩0分

有岡城は、JR福知山線伊丹駅西口を降りてすぐのところにあります。というか、伊丹駅を作るために有岡城本丸の東半分が破壊されてしまったといった方が正確でしょうか。
自然の地形によって交通の要衝となっているところに城が築かれるわけですが、もちろん鉄道を引くときにも交通の要衝を通らざるを得ないので、城跡となっているところは線路が引かれやすいところでもあります。長篠城や鉢形城など、城の中を線路が突っ切っているところはたくさんありますが、地形を考えれば当然であるとも言えます。

さて駅徒歩0分の史跡には、虎口らしきものが残されていて、有岡城を示す石碑も立っています。

ほんの少しだけ、石垣も残されています。

礎石建物や井戸の跡も残っています。

まあ、残っているものだけ見れば、たいしたことないように思えてしまうわけですけれども。

しかし実際は、もともとの有岡城は極めて広大な城でした。当時では珍しい「総構」だったようです。
駅の東の方には川を挟んでイオンモールがあるのですが、そこに辿り着くまでの橋の上から見ると、川面から本丸まで相当の比高差があって、当時は天然の要害であっただろうことが伺えます。

有岡城主の荒木村重は、もともと織田信長の部下で摂津方面攻略の主軸でしたが、天正6(1578)年に謀反を起こし、一年近くも立て籠もって対抗します。信長の攻撃を一年耐えるというのは、なかなかの堅城です。

まあ信長包囲網で毛利家や石山本願寺のプレッシャーがあって、信長としても村重だけを相手にするわけにはいかなかったという事情もありますが。
村重の説得に訪れた黒田官兵衛が一年間幽閉されたのは、2014年度のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも描かれて有名なエピソードですね。落城後の村重親族の悲惨な最期も印象的でした。村重自身は、本能寺の変で信長が死んだ後も生きながらえるという。明智光秀も説得に訪れているので、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも有岡城が描かれるでしょうか。

さて、戦国末期には有岡城は破棄されます。太平の江戸時代、伊丹は近衛家の領地となり、酒造りで栄えたとのことです。尼子の忠臣として高名を馳せた山中鹿之助の長男・直文が伊丹に落ち延びて清酒開発に成功し、鴻池財閥の祖となったとか。これもなかなか凄い話です。

大名の居城や天領(幕府直轄地)は地域の政治経済の中心として個性を強めていきますが、こういう公家や寺社の領地、あるいは一万石以下の旗本・御家人の領地は、なかなかこれといった個性が出にくいように思います。そんななか、伊丹は経済的にうまくやったような印象です。
(2013年8/26訪問)