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【東京都文京区】於大の方が眠る伝通院は新選組(の前身)結成の地

 徳川家康の母、於大の方の菩提寺伝通院は、東京都文京区にあります。春日通り沿いにあって、池袋から東大本郷キャンパスまで自転車で通っていた頃は、いつも脇を通り過ぎておりました。

 2023年に訪れた時、境内にはまだお正月の雰囲気が残っておりました。

 伝通院は、まずは於大の方の菩提寺として知られています。2013年に訪れた時には地元の方に「てんつういん」と濁らず発音するんだと言われましたが、於大の方の実家刈谷では問題なく「でんづういん」と濁って発音しますので、個人的には東京の方が邪道だと思います。今後も「でんづういん」でいきます。

 於大の方のお墓は、とても立派です。が、江戸時代中期以降の墓はもっとド派手になっていて、境内のバカでかい墓を見た後だと、ちょっと地味に感じます。

 於大の方生誕の地、愛知県東浦町による案内パネルも設置されております。

 境内には、他にもたくさんお墓があります。11代将軍家斉の子どもの墓がたくさんあります。家斉は53人の子どもを設けたにも関わらず、無事に成人できたのは28人だけだったと言われております。ここには、成人に至らずに亡くなった子どもの墓があるようです。

 教育学的には、江戸時代の乳幼児死亡率に関わる話や、子どもの埋葬に関わって、注目すべき事例です。ここまで死亡率が高かったのは、一説には大奥の子育て法に問題があったと考えられております。

 さて、この伝通院、実は新選組の前身である「浪士隊」のセレクションが行なわれた場所としても知られております。近藤勇、土方歳三、沖田総司などはこのセレクションを通過して京都に向かい、後に新選組として活躍することになるわけですが、そのセレクションを行なった側に「鵜殿鳩翁(長鋭)」という人物がおります。山岡鉄舟と一緒にセレクションをしておりますので、もちろん幕臣です。セレクションの後、近藤勇などと共に、というか取締役として京都に向かいますが、聞いていたのと話が違うということで辞職して、江戸に帰ってきます。問題はもちろん、清川八郎にありました。

 清川八郎のお墓も伝通院にあります。清川八郎は尊皇攘夷思想に傾いていて、つまり幕府の方針に逆らっていたのですが、幕府を出し抜いて浪士隊の結成に成功し、京都に入ります。しかし近藤勇や土方歳三など佐幕のつもりで浪士隊に入った立場としてみれば、清川八郎が「本当の目的は攘夷だ!」なんて訴えても、ただの詐欺にしか聞こえません。京都で袂を分かち、佐幕の近藤や土方は改めて新選組として行動することになります。清川八郎は江戸に戻ってきて、幕府の刺客に暗殺されます。鵜殿鳩翁は無事に江戸に戻り、日米和親条約締結時にはペリーの対応係を務めるなどしますが、一橋慶喜についたために大老井伊直弼に安政の大獄の一環で処罰されています。

 ほか、明治をメインフィールドとする教育史学者として見逃せないのは、杉浦重剛の墓です。明治初期から中期にかけて官立学校の校長を務める他、教育学関連の本をたくさん書いていて、明治教育史を語る上でのキーパーソンの一人です。

 江戸から明治まで激動の歴史の舞台となってきた伝通院も、今は境内で子どもが縄跳びをするなど、のどかな空間になっています。いつまでも平和であってほしいものです。
(2013年5月、2023年1月訪問)

【愛知県岡崎市】大樹寺で厭離穢土欣求浄土

 徳川将軍家と松平家の菩提寺として知られている大樹寺に行ってきました。立派な三門です。

 三門をくぐって180°回れ右をして南側を向くと、大樹寺小学校の校庭の向こうに総門が見え、さらにその総門の向こう3km南に岡崎城が見えます。写真ではピントが合わずによく分かりませんが、肉眼だと見えてます。

 岡崎城から大樹寺までの3kmは、矢作川の作る扇状地でゆるやかな登りになっています。大樹寺からは岡崎城を見下ろす形になるので、よく見えます。三代将軍家光が、大樹寺から岡崎城が臨めるように伽藍を整備したそうで、大樹寺と岡崎城を結ぶ3kmの直線を現在は「ビスタライン」と呼んでおります。

 境内は膨大に広いわけではありませんが、清潔感あふれる心地よい空間です。

 岡崎高校に通っていたので、「大樹寺」という名前そのものはバスの行き先としてよく聞いていたのですが、実際に訪れることはまったくありませんでした。岡崎市内の繁華街からはずいぶん北にあるので、高校生の時は特に用事がありません。

 前回訪問は10年前の2013年でしたが、そのときには存在しなかった家康像が本堂の脇に鎮座しておりました。

 家光が夢に出てきた家康を狩野探幽に描かせた像を元にデザインされているようです。

 沿革を見ると、創建は応仁元年(1467)年に松平親忠(第4代)にかかるものとのことです。歴史上名高いのは、桶狭間合戦の後、大高城から逃げ帰った家康が大樹寺に籠もって自害しようとしたエピソードです。

 時の住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の教えを説いて自害を思いとどまらせたほか、祖洞和尚が門から閂を引き抜いて奮戦したエピソードは、若き家康伝では必ず登場します。

 500円の拝観料を払うと、まず外陣まで入れます。入る価値があります。金色の柱に「厭離穢土・欣求浄土」と書いてあります。ただし「欣求浄土」のほうの「土」には点がついているのが注目ポイント。

 「厭離穢土・欣求浄土」は、穢れた戦乱の世を終わらせて天下泰平の世を目指そうという願いを込めた言葉で、徳川軍の旗印にも描かれ、家康の天下統一までのキャッチフレーズとなります。
 ところで個人的にずっと気になっているのは、「江戸」と「穢土」の発音が通じているということです。歴史学者の本郷和人先生は、家康はもちろん江戸から穢土を想起していたはずだが敢えて改名しなかった、と唱えています。史料はありませんが、まあ、ありそうなことだと私も思います。

 500円を払った人だけ、さらに庫裏に進んで屏風絵を干渉したり、貫木のご神木を拝めたりしますが、ハイライトは徳川将軍歴代位牌の間です。撮影禁止なので、写真はありません。

 徳川幕府歴代14代の将軍の位牌が安置されていて(15代慶喜だけは神式で葬られているので仏式の位牌がありません)、ポイントはその位牌が全て等身大で作られている(という寺伝がある)ところです。確かに8歳で亡くなっている第7代将軍家継の位牌は135cmと小さく、等身大というのもナルホドだと思うのですが。問題は第5代将軍綱吉の位牌が124cmということです。どういうことか。
 本当かウソかというところでいえば、個人的にはウソの可能性が高いと思っています。本当に低身長だったとすれば、当時の文献資料等に記録されないわけがないと思うからです。特に生類憐れみの令に絡んでアンチが多かったので、本当に低身長だったとすれば、どんなに権力側が箝口令を敷こうとも、どこかで言及されないわけがないと思うのです。そしてウソだとすれば、後にアンチ綱吉が悪質な嫌がらせをした、ということになります。アンチがたくさんいたので、あり得る話だと思っています。一方、大樹寺の位牌が正しいと考える人たちもたくさんいます。もちろん大樹寺は、124cmが正確な身長だったということを前提に展示の解説をしています。何が本当かは、今となってはまったく分かりません。

 さて、境内には松平8代の墓もあります。

 案内パネルによると、大坂の陣の後に、家康が先祖の墓を再建したとのことです。江戸時代中期以降はどんどんお墓が巨大化していくので、それと比べると、この松平家8代の墓は素朴な感じに見えます。

 ちなみに写真で一番手前に見えるのが家康の墓ですが、これは昭和44(1969)年になってから勧請したもので、江戸時代にはなかったものです。
 しかしまあ、松平初代親氏の来歴が極めて怪しく、家康が家柄ロンダリングをした疑いが濃厚なところですが、大樹寺を創建した4代親忠(安城松平家)は間違いなくこの地で大きな力を振るっており、三河では松平諸家と鵜殿家の争いが続きます。松平家と鵜殿家の争いに決着がつくのは1562年、桶狭間の2年後のことになります。
(2013年8月、2023年1月訪問)

【茨城県古河市】鮭延寺に熊沢蕃山のお墓参り

 茨城県古河市にある鮭延寺に行ってきました。近世初期に活躍した思想家、熊沢蕃山(1619-1691)のお墓があります。

 境内に入ると左手に「史跡熊沢蕃山之墓所」と刻まれた石碑が見えます。

 蕃山の墓がどれかは、案内パネルが建っていてすぐに分かります。

 説明文は簡潔にして要を得ているように思いました。
 教育史的な観点から補足すると、まず中江藤樹(近江聖人)に師事して陽明学を学んでいることが重要です。というのは、江戸幕府公認の学問は儒教の中でも「朱子学」と呼ばれている流派で、身分制を維持するのに都合の良い理論を提供していました。しかし中江藤樹→熊沢蕃山ラインの陽明学は、朱子学の中でも「人間に共通する本性」に注目した論理を構成し、現実的には身分制を否定する根拠を与える反体勢的な流派でした。この陽明学の反身分制的な精神は幕末の大塩平八郎などに引き継がれ、江戸幕府を倒すための伏線となっていきます。
 また岡山藩で池田光政に使えていたときの教育関連諸政策はたいへん画期的で、日本教育史の教科書にはだいたい載っています。具体的には、寛永18(1641)年に蕃山の主催により私的な教育機関「花畠教場」が創設され、これが後に公的な岡山藩校に繋がっていきます。教場に掲げられていたという「花畑会約」は、教育史的に貴重な史料です。
 岡山藩主の池田光政は、さらに庶民のための教育機関「閑谷学校」を開設します。日本の歴史上、瞠目すべき先進的な業績です。身分に関係なく学べる教育機関を作ることができたのは、池田光政が陽明学に傾倒していたことなくしては考えられないでしょう。(いちおう、閑谷学校の創設は蕃山が岡山を去った後のことであり、直接の関連はなありません)。

 蕃山のお墓が古河にあるのは、古河藩主となる松平信之に仕えたからです。が、江戸幕府の逆鱗に触れて処罰を受け、古河藩に身柄預かり=幽閉となり、そのまま古河で亡くなりました。時の将軍徳川綱吉は学問振興にたいへん熱心な将軍でしたが、綱吉が推す朱子学は、蕃山が奉ずる陽明学とは相容れない思想でした。政権にとって都合の悪い学問が弾圧されるのは、今も昔も変わりません。
 後に再建されたという墓碑には「熊沢息游軒伯継墓」と刻まれ、妻の墓石と並んで佇んでおります。合掌。

 墓碑の向かい側には、蕃山を顕彰する石碑が建っています。

 蕃山が詠んだ漢詩「耕父春田事終否 期歌一曲騎牛還」が刻まれております。

 蕃山が眠る鮭延寺は、出羽の戦国武将・鮭延秀綱の菩提寺として創建されました。鮭延秀綱、信長の野望シリーズではかなり使えるステータスという印象です。

 鮭延秀綱の五輪塔にも合掌。

 世間では別の五輪で盛り上がったり盛り下がったりしている真夏の日、学問の大先輩の行跡に思いを馳せて、お寺を後にするのでありました。次に古河に寄る機会があったら、「蕃山公園」に行こう。
(2021年8月4日訪問)

【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)

【兵庫県三田市】三田は幕末維新の開明藩、重要人物を多数輩出

三田(「みた」ではなく「さんだ」と発音します)に行ってきました。明治維新期にあって模範的な開明派藩主の下、近代日本教育史を考える上で興味深い人物をたくさん輩出していることが印象に残りました。

今は跡形もありませんが、かつて三田城がありました。
現代では、尼崎を発したJR福知山線が宝塚から峠を越えて三田盆地に入ります。そのまま北上すると丹波篠山に至ります。つまり三田は摂津と丹波丹後を繋ぐ戦略重要地点です。ここに城を構えたくなるのも当然です。

城の跡地には、現在は県立有馬高等学校と私立三田小学校が建っています。城跡に建っている学校は全国的にもたいへん多いのですが、学校を建てるのに十分なまとまった平らな土地が城跡の曲輪くらいしかないという事情があるからですね。

三田藩の殿様は、九鬼家でした。

九鬼家は、戦国時代には鳥羽を本拠地とし、熊野水軍の中心として活躍しましたが、家光の時代に内陸部の三田に転封され、水軍の伝統を失うこととなりました。
が、13代藩主九鬼隆義は開明的な考えの持ち主で、福澤諭吉を通じて藩政改革を行なったり、貿易商社を成功させたり、最先端の洋学を取り入れつつ人材育成に意を注いだ結果、三田藩からは有能な人材が多数輩出されることとなります。

下の写真は、右が県立有馬高等学校、左が市立三田小学校で、それを隔てている、かつての空堀の跡です。

当時はもっと深かったんでしょう。石垣が見当たりませんが、土の城だったのかな? 武庫川の河岸段丘を利用した要害だったとは思うのですが、当時の状況を想像するにはかなり手がかりが少なくなっています。

堀の脇には、「元良勇次郎先生顕彰碑」が立っています。「もとら」と発音します。石碑の裏には、建てた団体として「日本心理学会」の名が刻まれています。

というのも、元良勇次郎は日本で最初の「心理学者」でした。何を以て「最初の心理学者」と呼ぶかは難しいところですが、東京帝国大学最初の邦人心理学専任教授であったことは間違いありません。

キリスト教徒で、同志社英学校の一回生なので、新島襄からも薫陶を受けたのでしょう。青山学院大学(当時は東京英学校)の創設にも関わっています。
元良は心理学者として明治期の教育学にも深く関わっています。私も明治期教育史を専門とする研究者として、元良の本をたくさん読みました。西洋由来の心理学という学問の精髄を、日本伝統の和歌を媒介して解説するなど、なかなかオリジナリティ溢れる内容だったのが印象的です。

顕彰碑の右隣には「敬想元良先生」として「おもいよこしまなし」と刻まれた石碑が鎮座しています。

この言葉自体は『論語』為政篇からの引用ですが、どうしてこの言葉なのかは、よく分かりません。

元良の生誕地には石碑が立っております。

心理学関係者は三田に巡礼したりするんですかね?

そして、三田には「九鬼隆一先生生誕の地」の石碑も立っております。九鬼姓ですが、藩主筋の九鬼ではありません。

九鬼隆一は明治10年代前半に文部官僚として教育に大きな影響力を持った人物で、私の専攻(日本教育史)においては、絶対に外せない人物です。森有礼の台頭に伴って、教育界からの影響力がなくなりますが。

しかし現在では文部官僚としてではなく「九鬼周造の実の父」としてよく知られているでしょう。『「いき」の構造』の著者として知られている九鬼周造の「実」の父と強調されるのは、「育ての父」が別にいるからです。日本美術界に燦然と名を轟かせる、岡倉天心です。九鬼隆一の妻であり周造の母であった波津子は、妊娠中に岡倉天心と不倫の恋に落ち、隆一と別居します。波津子だけに問題があったというよりは、九鬼隆一の派手な女性関係が問題だったと考えられています。この時、岡倉天心は文部省にあって、九鬼隆一の部下でした。この事件は後に大スキャンダルに発展し、怪文書が飛び交って、岡倉天心失脚の遠因となったりします。そんなわけで、岡倉天心のファンからは、九鬼隆一は出世欲に囚われて人間の心を失った無能なくせに尊大不遜なバカ役人として描かれがちです。師匠であるはずの福澤諭吉からも人柄を酷評されて、ダメ人間であるとの評価に拍車をかけています。
が、こういう事情は、観光案内パネルにはまったく触れられていませんね。

三田駅近くの駐車場に、「三田博物館」の石碑がぽつんと建っています。

かつて、九鬼隆一が現地に作った「日本初の民間博物館」ということです。

何を以て「日本初」の民間博物館と呼ぶかはなかなか判断が難しいところだと思います(明治初期にはそれに相当しそうな施設がいくつかありますね)が、九鬼がそう称していたのかもしれません。九鬼は帝国博物館(現東京国立博物館)総長を務めるなど、美術行政の第一人者でした。自分の故郷に博物館を開設したのは「故郷に錦を飾る」という思いがあったのかどうか。

九鬼隆一のお墓も三田市内、心月院(三田藩主九鬼家菩提寺)にあります。

墓の傍らに「景慕碑」が建っています。九鬼隆一が、恩を受けた人々を顕彰するために建てたもののようです。

木戸孝允、大久保利通、岩倉具視といった政治家は、藩閥の後ろ盾を持たなかった九鬼を引き立ててくれたのでしょう。フルベッキ、福澤諭吉、加藤弘之は、文部行政に関わってお世話になったのでしょう。「星崎」は妻波津子の旧姓ですが、どういう関係でしょうか。

墓地内に、気になる墓石がありました。

「教育は感化なり、感化は人格より来る」と刻まれています。側面には「明治三十九年」と刻まれています。教育の世界で人格主義が流行する少し前のように思うのですが、どういう事情が背景にあるのでしょう? 気になります。
他、墓地には白州次郎・正子のお墓もあります。

三田が教育関係者を輩出したのは、藩閥政治の中心に食い込めず政治家を目指せなかったという事情もあるのでしょうが、最後の藩主が開明的な考え方の持ち主で、先進的な洋学教育機関が存在していたのは決定的に重要でしょう。

九鬼隆一や元良勇次郎も、英蘭塾で川本幸民に薫陶を受けているようです。

川本幸民は、幕末に薩摩藩主島津斉彬に見出されて薩摩藩校の学頭を務めたり、蕃書調所(幕府直轄の洋学研究教育機関)の教授として活躍するなど、当代最高の科学者の一人です。弟子には松本弘安や橋本左内もいます。

そういう「文明開化」の志向が強かった地域だからかどうか、擬洋風の素敵な建築物も市内に残されています。

旧九鬼家住宅は、瓦屋根の上にモダンなベランダという、他に類を見ないデザインになっています。明治9年頃の建築ということなので、文明開化真っ最中ですね。内部は展示室になっていて、訪れた時は梅の盆栽の展示が行なわれていました。
隣接する「三田ふるさと学習館」でも様々な展示を楽しめます。訪れたときは豪華な雛壇の展示がありました。三田から篠山にかけては、雛人形が名物のようですね。
(2016年3/26訪問)

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