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「遊び」について

遊びはなぜ重要なのか

 学生に「遊びはなぜ重要なのか」と聞くと、ほぼ例外なく、似たような答えが返ってくる。ストレス発散になる、コミュニケーション能力が育つ、想像力が伸びる、社会性が身につく。どれも間違っていない。しかし、どれも妙に収まりがよすぎる。
 それらの言葉はすべて、「役に立つ」という方向に整えられている。遊びが、何か別の価値へと変換されることを前提に語られている。
 ここに、最初の違和感がある。遊びは、本当に「役に立つから」重要なのだろうか。

資本主義と「役に立つ遊び」

 近代以降の社会において、遊びは明確な位置を与えられている。労働時間の外側、余暇としての時間である。そしてその余暇は、しばしば商品によって満たされる。娯楽、レジャー、コンテンツ、アプリ。私たちは遊んでいるというより、遊びを消費している。
 労働力が時間単位で売買されるようになると、労働時間とそれ以外の時間が切り分けられる。その外側に生じた時間が余暇であり、その余暇を埋めるものとして遊びが商品化される。さらに、その商品を購入する主体としての「消費者」も同時に形成される。
 つまり、遊びは単に発見されたのではなく、切り出され、商品化され、購入されるものとして再編成された。
 こう考えると、遊びの位置づけはかなり新しいものである。

かつて遊びはどうあったか

 では、それ以前の遊びはどうだったのか。
 前近代の庶民にとって、労働と遊びは未分化だった。田植え歌、祭礼、酒宴、共同体の行事。働くことと楽しむことは切り分けられていなかった。それらはすべて「生きること」の中に埋め込まれていた。
 一方で、貴族や権力者は、労働から解放された立場として、遊びを享受することができた。後白河院の『梁塵秘抄』はその象徴的な例である。遊女や傀儡の芸能を学び、それを収集し、記録する。そこには確かに「遊び」がある。しかしそれは、現代的な意味での余暇でもなければ、庶民に開かれたものでもない。
 遊びは存在していた。だが、それは今とはまったく異なる形で存在していた。それは労働から解放された層にのみ享受された。

中世の深層:「遊び」と畏れ

 「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉がある。
 この「遊び」を、現代的な意味でのレジャーとして読むと、たちまち陳腐になる。しかし、その背後には、歌舞や身体、声、そしておそらくは神仏への感応をも含んだ、より広い意味での「遊び」がある。

 「遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそゆるがるれ」

 ここで動いているのは、意志ではなく身体である。社会の秩序の中にいる大人の身体が、まだ秩序に回収されていない何かに触れて揺さぶられる。その揺らぎには、どこか畏れに近いものがある。
 遊びは、単なる楽しさではなく、秩序を揺るがすものでもあった。

遊びの軽さと商品化

 しかし、近世に入ると状況は変わる。
 井原西鶴の描く世界では、遊びはすでに都市文化の中で転がっている。金、欲望、消費、洒落。遊びは軽くなる。そこにはもはや中世的な畏れはほとんどない。代わりに、計算と快楽がある。
 遊びは大衆化されると同時に、商品化される。
 そしてそれを抑えようとする権力が現れる。朱子学的な秩序は、遊びを「はかなきたはふれ」として位置づけ、必要に応じて取り締まる。ここで面白いのは、権力が遊びを軽蔑しつつ、同時に恐れていることである。遊びはくだらない。しかし、それが広がれば秩序を崩す。
 遊びは常に、余剰でありながら危険でもある。

欲望の転換

 同じ時期、ヨーロッパでは別のことが起きている。欲望を抑圧するのではなく、それを活用するという発想である。ハーシュマンの言うように、情念は利益へと変換される。アダム・スミスは、私益の追求が社会の富につながると説明する。
 教育においても同じである。コメニウスは感覚や興味を教授法に組み込み、ロックは遊びを習慣形成のために利用し、ルソーは欲望そのものを発達の原理として位置づける。
 ここでは、遊びもまた変換されている。遊びは、抑えるべきものではなく、使えるものになる。

「失敗」と余白

 このとき、遊びの本質はどこにあるのか。
 おそらくそれは、失敗にある。
 遊びの中では、失敗がそのまま終わらない。笑いになる、ルールが変わる、別の展開が生まれる。無数の無意味な試行の中から、意味のある何かが生まれる。
 現代の合理性は、これを嫌う。無駄を削り、効率を上げ、PDCAを回す。しかし、その合理性は、既に見えている目的にしか対応できない。新しいものは、無数の無駄の中からしか出てこない。
 遊びは、その無駄を引き受ける場である。

「退屈」と「徒然」

 だが現代では、その遊びすら回収される。
 退屈はすぐに埋められる。スマホ、動画、ゲーム。空白は許されない。しかし、退屈と徒然は違う。退屈は埋めるべき空白だが、徒然はまだ何かが生まれる前の余白である。
 遊びは、おそらくこの徒然からしか生まれない。

遊びを教えるという矛盾

 ここで教育に戻る。
 授業で遊びを扱うとき、すでにそれは回収されている。意義を問うた瞬間に、遊びは何かのためのものになる。それでもなお、遊びを扱わざるをえない。
 ではどうするか。
 遊びを守ることはできないかもしれない。しかし、遊びが完全に回収される瞬間に違和感を持つことはできる。その違和感を残すことが、教育の役割なのかもしれない。

それでも遊びは必要か

 結局のところ、問いは最初に戻る。遊びはなぜ重要なのか。あるいは、遊びは本当に「重要」でなければならないのか。
 この問いに答えがあるのかどうかは分からない。ただ一つ言えるのは、遊びを説明しきったとき、そこにはもう遊びは残っていない、ということである。

ルネサンス「人文主義」について

「人文主義」とは何だったか

 ルネサンス人文主義とは何だったのか。この問いに対して、「古典好きの教養人たちの運動だった」と答えるのでは、あまりに浅い。また逆に、「キリスト教に対する反乱だった」と言ってしまうのも、やはり乱暴である。むしろ人文主義の本質は、神学を正面から否定することではなく、キリスト教世界の内部に、神学だけではないもう一つの知の中心を据え直したところにあった。そこでは神の奥義ではなく、人が人としてよく語り、よく判断し、よく生きるための学が前景に出る。その看板が、「studia humanitatis」であった。
 この「humanitatis」という言葉は、近代的な意味での「人類一般」や「人間そのものの研究」を意味していたわけではない。むしろそれは、人を人間らしくする教養、陶冶、言葉づかい、判断力、徳の教育を指していた。だが、ここにこそ決定的な転換があった。なぜなら、その「人間らしさ」の模範として人文主義者たちが読み直したのは、キリスト教徒ではなく、ギリシアやローマの異教徒たちだったからである。キケロ、セネカ、プラトン、さらにはギリシア語そのものまでが、「誤りを含みつつも、人を高める教師」として復権する。こうして、真理や徳の担い手は、もはや教会の内側だけに限定されなくなる。
 もちろん、当の人文主義者たちは、必ずしも自分を反キリスト教だとは思っていなかった。多くはむしろ逆で、古典を用いることによってキリスト教をより純化し、より深く理解し、よりよく語ろうとした。異教古代は「隠れ蓑」ではなく、まずは「利用可能な遺産」として入ってきたのである。しかし、ここに一つの危うさが潜んでいた。異教の哲学者や詩人たちが、単なる準備学ではなく、ほとんどキリスト教徒に近い徳と理性を備えた先行者として読まれ始めたとき、キリスト教だけが真理の唯一の器であるという感覚は、必然的に薄くなる。人文主義は表向きには教会の敵ではなかった。だが、その方法そのものが、教会の自己理解を静かに揺らしていた。
 この緊張を最も鮮やかに示す人物が、アウグスティヌスである。彼は人文主義にとって、最大の味方であると同時に最大の障害でもあった。味方であるのは、彼自身がキケロや新プラトン主義を通じて高みに引き上げられ、異教の学知の中にも真理の断片があることを認めていたからだ。異教の金銀を奪って神のために用いよ、という彼の比喩は、人文主義者たちにとってまことに便利な免罪符になった。しかし彼は同時に、きわめて重要な一線を引いていた。プラトン派は高いことを語りうる。だが、受肉したキリスト、十字架、へりくだり、救済への道はそこにはない。異教哲学は神を垣間見せても、そこへ至る道を与えない。ここでアウグスティヌスにとって決定的なのは、「理性」ではなく「信」である。しかもそれは、単なる命題の承認ではなく、キリストという仲保者に身を委ねることであった。
 ところがルネサンス人文主義は、このアウグスティヌスの二段構えのうち、前段だけを大きく育て、後段をしばしば弱めた。すなわち、「異教にも真理はある」という部分は熱心に受け継ぎながら、「しかし道そのものは信にしかない」という断絶の感覚を後景に退けていったのである。すると何が起こるか。異教古代は、キリスト教の前座ではなくなる。理性と教養によって人はかなりのところまで到達できる、という感覚が生まれる。信は出発点ではなく、完成や浄化として位置づけられ始める。ここに、アウグスティヌス的な恩寵の鋭さを鈍らせる力が潜んでいた。
 しかし、人文主義者たちは一枚岩ではない。この危うさに気づいて立ち止まる者もいれば、気づきながら先へ進む者もいた。ペトラルカは前者に属する。彼は古典愛に駆動されながらも、そのまま古典へ身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく、魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。彼は人文主義の創始者でありながら、その最も危険な含意を全面展開するところまでは行かない。いわば彼は、アウグスティヌスに叱られながら人文主義を始めた人である。
 これに対してヴァッラは、はるかに危うい。しかもその危うさは、異教復活を叫ぶことによってではない。彼はもっと深い場所を掘る。すなわち、キリスト教と異教の境界を支えていた神学的語彙、権威、方法そのものを、言語と本文の側から崩しにかかる。スコラ学のラテン語を人工的で不自然だとみなし、古典ラテン語と生きた言語使用を基準にして概念の足場を問い直す。ここでは、問題はもはや「異教に惹かれるかどうか」ではない。恩寵や信仰すら、権威づけられた術語の中ではなく、言語、歴史、本文批判の法廷で語られるべきものになる。ヴァッラは恩寵を否定するとは言わない。だが、恩寵を語る舞台装置を総入れ替えしてしまう。その意味で彼は、ペトラルカよりもはるかに深く、中世世界の床板を抜いている。
 こうした流れを遠くから眺めると、ダンテの位置がいっそう鮮やかになる。ダンテもまた古典を深く愛した。ウェルギリウスは彼にとって最大級の導き手であった。だが、それでもなお、古代とキリスト教のあいだには最後の門が残る。異教は尊敬され、抱きしめられる。けれど救済の中心には入らない。ダンテは古代を愛しても、最後の一線では越えないのである。これに対してルネサンス人文主義は、その門前に立ち、あるいは門の敷居を低くし始める。異教徒たちも、かなりのところまで来ていたのではないか。そう思い始めたとき、門はもはや絶対の境界ではなくなる。
 ルターがこの流れを警戒したのも、よく分かる。彼は理性一般を否定したのではない。だが、理性が神学の核心に、すなわち救済や神認識の領域にまで入り込み、自力到達の楽観を生むことを激しく警戒した。だからこそ、彼にとってエラスムスとの論争は、単なる自由意志の技術的な争いではなく、人文主義そのものがどこまで救済論に入り込めるかをめぐる争いでもあった。古代のアウグスティヌス対ペラギウスが、16世紀には、教育・修辞・聖書解釈・人間形成を巻き込みながら、ルター対エラスムスとして再演されたのである。舞台装置は新しいが、争点の芯は古い。人は自力でどこまで行けるのか。恩寵はどこから不可欠になるのか。
 だから、ルネサンス人文主義の本当の新しさは、「異教を復活させた」ことにはない。そうではなく、異教古代のうちに、キリスト教世界と連続しうる理性、徳、教育、文体の規範を見いだし、それを正統な学知として承認してしまったことにある。神学の外に、しかしなお全面的な反宗教ではない形で、「人間一般の理性」が活動する部屋をつくったこと。それがstudia humanitatisの意味だった。その部屋は当初、教会を豊かにするために増築された。しかし一度つくられてしまえば、そこは教会だけでは閉じきれない空間になる。人文主義とは、その静かな増築であった。そして、その増築がやがて、信仰と理性、異教とキリスト教、恩寵と教育のあいだの壁そのものを薄くしていったのである。
 要するに、人文主義は反キリスト教ではない。けれど、ただのキリスト教内部運動でもない。それは、キリスト教世界の内部に生まれた、キリスト教を相対化しうる知の形式だった。異教を愛することは、もはや外部への逸脱ではなくなる。むしろ、理性を持つ人間であるかぎり、誰もが触れうる普遍的な真理と徳の領域があるのではないか、という問いが、そこから静かに立ち上がる。その問いの始まりに、humanitatis という看板が掲げられていたのである。

「雄弁術」とは何だったか

 もし現代人が「雄弁術」と聞けば、たいていはまず警戒する。うまく喋る技術、相手を言い負かす話法、政治家や広告屋の操作術。せいぜい「プレゼン力」くらいの意味にしか取られない。しかし、ルネサンス人文主義がクインティリアヌスに見たものは、そういう末梢的な技法ではなかった。そこでは雄弁は、考えたことを飾って外へ出すための包装ではなく、人が人として完成していく過程そのものに属していた。なぜならhumanitas自体が、単なる知識量でも内面的な「人格」でもなく、よく語り、よく判断し、よく公共世界に関わることのできる人間のあり方を意味していたからである。studia humanitatisが文法・修辞・詩・歴史・道徳哲学を核とし、「神のことを知る学」ではなく「人が人としてよく生き、よく語り、よく判断するための学」として立てられていた以上、雄弁はその中心から外れようがなかった。
 ここでクインティリアヌスが決定的だったのは、彼が修辞を単独の技法として扱わなかったことである。彼の教育論は、幼年期から成人までを視野に入れ、文法、読書、模倣、作文、朗誦、判断、道徳訓練、人物形成を一つの連続体として組み立てていた。つまり「うまく話す人」を作ろうとしたのではなく、「よく生きることができ、その生を言葉として公に担うことのできる人」を作ろうとしたのである。ルネサンス人文主義者にとって、これほど都合のよい古典はなかった。プラトンは高すぎ、アリストテレスは強すぎるが、そのままラテン語学校の教本にはなりにくい。だがクインティリアヌスは、ラテン語で、しかも学校でそのまま使えるかたちで、人間形成の全体図を示してくれる。だから彼は、現代人の感覚よりはるかに中心人物になった。
 この点が見えにくいのは、近代以後の私たちが「思考」と「表現」を別物だと感じているからでもある。まず頭の中に本当の考えがあり、それをあとで言葉に乗せる。言葉は中身の外側にある伝達手段にすぎない。そういう感覚に立つと、雄弁はどうしても二次的なものに見える。しかしクインティリアヌス的世界では、そうではない。人は、よい言葉の中でこそよく考える。読むこと、写すこと、模倣すること、暗唱すること、朗読することを通じて、判断力そのものが形づくられる。だから雄弁とは、できあがった判断を飾る技術ではなく、判断そのものを公共的なかたちへ鍛え上げる訓練だったのである。現代ふうに言えば、彼は「コミュニケーション能力」を重視したのではない。「思考が共同世界の中で成立する」という事実そのものを重視したのである。
 さらに言えば、ここでの雄弁は「勝つための言葉」でもない。もちろん法廷や政治の現場で、説得は重要だった。だが人文主義者が魅かれたのは、勝敗以前のもっと深いところである。人が公共の場で語るとは、自分の欲望を吐き出すことではなく、言葉を通して自分を秩序づけ、他者と共有できる世界を作ることだ、という感覚である。だから雄弁は、倫理から切り離されたテクニックではありえない。クインティリアヌスの魅力はまさにここにあった。彼は、文法家、修辞家、教師を分けない。よい言葉、よい読書、よい判断、よい人物形成は、同じ一本の線の上にある。ルネサンス人文主義者たちが彼に見たのは、「話し上手の作り方」ではなく、「公的人間の作り方」だった。
 この意味で、現代の序列とルネサンスの序列は、かなり違う。私たちはたいてい、「誰がいちばん深く考えたか」で哲学者や思想家の大きさを測る。だがルネサンス人文主義は、少しちがう尺度を持っていた。つまり、「誰がいちばん人を作れるか」「誰が古典を通して判断力と公的徳を養う教育を設計できるか」である。その基準に立つと、クインティリアヌスは「理論的に最も深い哲学者」ではなくても、きわめて巨大な存在になる。彼は思想体系の創始者ではないかもしれない。だが、人を形づくるカリキュラムの設計者としては、プラトンやアリストテレスに劣らぬ、あるいは学校教育の現場ではそれ以上に重要な古典になりえた。
 そして、ここにhumanitasのローマ的な癖がよく表れている。ギリシア的なpaideiaが、魂の形成や教養そのものに重心を置くのに対して、ローマ的humanitasは、そこに「公」の手触りを強く残す。よい人間とは、ただ静かに思索する人ではなく、共同体の中で適切に語り、判断し、行為できる人間である。だから雄弁は飾りではない。むしろ共同体の中で人間が人間であるための形式である。言葉を通じてしか公共性が成立しない以上、雄弁はhumanitasの外側にある能力ではなく、その完成した姿の一部になる。studia humanitatisが「神学から独立した教育的・修辞的・道徳的世界」を前面に押し出したとき、その中心に修辞がいたのは偶然ではない。人文主義は、真理をただ所有することではなく、それを人間世界の中で共有可能なかたちへ整えることを学びの核心に置いたのである。
 だから、現代人にとってクインティリアヌス的雄弁術が理解しにくいのは当然でもある。私たちはすでに、文法を語学教師に、修辞を話法の小道具に、倫理を別科目に、政治を制度論に、文学を鑑賞に、それぞれ分けてしまっている。だがルネサンス人文主義においては、それらはまだ裂けていなかった。文法家は「読むという営み」そのものを支える人であり、そこから歴史、政治、徳へとつながる回路の管理者でもあった。だからこそ、文法と修辞の重みが現代人には過剰に見えるのである。実際には重すぎたのではなく、私たちがその後で切り分けすぎただけなのだ。

近代におけるhumanitasの解体

 もともとギリシア的paideiaは、現代の意味での「文系教育」ではなかった。そこでは、よく生きること、よく考えること、共同体の成員として形成されること、さらには世界の秩序を理解することが、まだ一つの連続体の中にあった。ローマ的humanitasはそれを受け継ぎつつ、より「ポリス」的に言語中心の形に組み直した。つまり、哲学的上昇よりも、教養ある公的人間、よく読み、よく語り、よく判断する人間の形成へ重心を移したのである。しかし、それでもなおhumanitasは、単なる「文学趣味」ではなく、人間形成の総体を名指していた。だからルネサンス人文主義がそれを復活させたときも、彼らはまだ、自分たちが知の一部分だけを扱っているつもりではなかった。むしろ、神学の外に、人間形成の中心を立て直そうとしていた。
 ところが、この総体は内側からすでに二つの方向へ裂けうるものだった。その一方が、クインティリアヌス的な言語・修辞・歴史・道徳の線であり、他方が、アリストテレス的な論理・自然学・形而上学の線である。ルネサンスにおいて重要なのは、この二つが正面衝突して一方が他方を消したのではない、という点だ。人文主義者たちは、スコラ的アリストテレス主義の文体や術語を批判したが、アリストテレスそのものが消えたわけではない。むしろ大学教育、医学、法学、自然哲学の領域では、アリストテレスはなお方法的中心であり続けた。つまりルネサンスとは、「humanitasがアリストテレスを追い払った」時代ではなく、人間形成の言語的・道徳的中心を人文主義が握りつつ、自然世界の体系的理解はなおアリストテレス的枠組みが担っていた時代なのである。ここに、後の分解の雛形がある。
 このことを言い換えれば、paideia / humanitasの内部には、もともと「公的人間を作る教育」と「自然世界を体系的に理解する学知」が、まだ切り離されないまま共存していた。しかし近代国家の形成は、その二つを別々の制度へ配分し始める。俗語の標準化と国語教育は、前者をnational cultureと市民教育へ引き寄せた。ラテン語が超国家的な教養共同体の媒体であるあいだ、humanitasはヨーロッパ全体に通用する普遍教養の看板でありえた。だが、近世から近代にかけて、ラテン語の地位が漸進的に低下し、各地の俗語が文法化・辞書化・標準化されるにつれて、教養形成の舞台はフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語ごとの文化圏へ割れていった。
 その結果、humanitas は滅びるというより、各国民に分化された。普遍的教養という形では生き延びられず、フランスではhumanitésやculture、イギリスではliberal education、ドイツではBildungのような、各国語の理念へ分散移植される。ここではもう、「ラテン語で結ばれたヨーロッパの人間形成」という古い形は維持できない。かわって、国家が必要とする市民、官僚、国民文学の読者、標準語の担い手を作る教育が前面に出る。つまりhumanitasのうち公的で言語的な側面は、nation-state によって吸収され、国民文化の形成装置へ作り変えられたのである。
 では、アリストテレス自然学の側はどうなったか。自然学はhumanitasと違って、最初からラテン修辞的人間形成の中心には置かれていなかった。しかし、それは重要性が低かったからではない。むしろ逆で、自然学は大学・学部・専門知の枠の中で、より強く制度化されていた。ルネサンス期にもアリストテレスは、論理学・自然哲学・形而上学・医学の広い基盤として使われ続け、そこから近代科学への転位が起こる。つまり近代は、自然学を捨てたのではなく、人間形成の総体から切り離して、専門的で累積的な学知として独立させたのである。自然哲学はやがて実験科学、数学的物理学、専門分化したsciencesへ変わっていくが、その変化は「無からの創造」ではなく、アリストテレス的自然学の大学的制度基盤を踏み台にして起こった。ここでもまた、総合的教養が勝ったのでも負けたのでもなく、内部の一契機が別の制度的未来を得たのである。
 この意味で、nation-stateの興隆はpaideia / humanitasを単純に破壊したのではない。それは、それまで一つの「人間形成」の理念の中に折り重なっていた諸要素を、国家・学校・大学・学問分野のあいだに再配置した。言語・修辞・歴史・徳は、国語教育、文学教育、市民教育、教養へ。自然認識は、自然哲学からscienceへ。哲学そのものもまた、神学や修辞から切り離され、専門的反省として自立していく。かつてpaideiaやhumanitasが担っていた「人間を全体として作る」という野心は、そのままでは残らない。残るのは、その断片だけである。だから近代ヨーロッパは、paideia / humanitasの後継者を持ったのではなく、その遺産を分割相続したのだと言った方がよい。

「無知」を失ったhumanitas

 西洋思想史において、「無知」は、近代人が思うよりはるかに重要な主題だった。もちろんここでいう「無知」とは、単なる無学や愚鈍のことではない。むしろそれは、自分が知っていると思い込む傲慢さに対する警戒であり、人間が自力で真理や救済に到達できると思い上がることへの抑制である。イエスは、父が「賢い者・悟い者」から隠したものを「幼子」に示したと言い、パウロもまた「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と書いた。ここで価値が与えられているのは、無知そのものではなく、知を誇る自己充足の否定である。キリスト教は当初から、知性の働きそのものを嫌ったのではないが、「知っているつもり」という姿勢には、きわめて深い不信を向けていた。
 この警戒は、アウグスティヌスにも濃厚に受け継がれる。彼は異教の学知のうちに真理の断片があることを認めながらも、そこに救済への道そのものはないと考えた。異教の知は利用できる。しかし、それは仲保者キリストへの信に取って代わることはできない。だから彼の問題は、異教知そのものではない。問題なのは、知が神への依存を失い、人間が自分の力で高みに達しうると思い始めることだった。あなたの草稿が捉えている通り、アウグスティヌスの構えは「異教にも真理はある」と「しかし道そのものは信にしかない」という二段構えでできている。そしてルネサンス人文主義は、しばしばこの前段だけを大きく育て、後段を弱めていった。
 ここで重要なのは、この「無知」の主題がキリスト教だけに閉じていなかったことだ。ギリシア哲学の中にも、少なくともソクラテスには、これに響き合う契機がある。いわゆる「無知の知」は、無知を称揚する標語ではない。そうではなく、知らないのに知っていると思い込むことこそが最大の危険だ、という批判である。プラトンの『ゴルギアス』において、ソクラテスは修辞を、知識を与える技術ではなく、知っているように見せ、聴衆に信念を植え付ける力として追及する。そこでは、哲学と雄弁術の対立は、「深い学問」と「軽い話術」の対立ではない。むしろ、無知を暴き続ける営みと、無知を覆って公共的効果を生み出す技術との対立である。ソクラテスが警戒していたのは、まさにこの「無知が知を装う」構造だった。
 さらに、この「無知」の主題が、キリスト教とギリシア哲学のあいだで、アウグスティヌスにおいて一度結び合わされている。『教師論』は、方法としても論点としても、ソクラテス的対話を深く下敷きにしている。そこでは、言葉は真理を直接与えず、むしろ「知っているつもり」を崩し、学ぶ者を内面へと向かわせる。これはほとんどソクラテスそのものである。ただしアウグスティヌスは、その内面の師を、ソクラテス的自己吟味のままには置かず、キリストという「内なる教師」へと結びつけた。つまり彼は、ソクラテスを借りただけではない。ソクラテスをキリスト教化したのである。
 だから、本来ならルネサンスの humanitas は、この二つの伝統――キリスト教的な反・高慢と、ソクラテス的な反・見せかけの知――の双方から、かなり強い自己抑制を学んでもよかったはずである。実際、ペトラルカはかなりそこに近い。彼は古典愛に駆動されながらも、古典へそのまま身を預け切ることができない。彼の内面には常にアウグスティヌスがいて、人文主義が開いてしまう深淵を見張っている。哲学の目的は抽象知ではなく魂の世話であり、古典は人を高めても最後の救済線には届かない。
 エラスムスもまた、その意味では古い警戒をまだ失っていない。彼は北方人文主義の巨人であり、文献学と教育改革の担い手でありながら、『痴愚神礼讃』で、学者・神学者・権力者の知的自負を容赦なく嘲る。もちろんその書法は諧謔的であり、露骨な無知礼賛ではない。だがそこで繰り返されているのは、知そのものの否定ではなく、知が自分を絶対化することへの嘲笑である。エラスムスは学ぶことをやめよと言わない。しかし、学びが敬虔を越えて自己目的化したとき、それは滑稽になると言う。つまり彼もまた、イエスとアウグスティヌスの線から完全には離れていない。
 ところが、humanitasの主流全体を見れば、話は別になる。そこでは、知の傲慢さに対する警戒は消えないまでも、明らかにゆるむ。なぜならhumanitasの中心課題は、魂を神の前で低くすることよりも、人を公共世界で機能する存在として形成することへ移ったからである。studia humanitatisは、文法・詩・歴史・道徳哲学、そして何より修辞を通じて、人間を「よく語り、よく判断し、よく生きる」者に作り上げようとした。そこでは知は、もはやまず疑われるべきものではなく、人格形成と公共的行為の資源である。あなたの草稿が言うように、人文主義はキリスト教世界の内部に「もう一つの知の中心」を据えたのであり、その中心には雄弁術がいた。そこまで来れば、知に対する古い不信は、構造的原理ではなく、せいぜい人格上の節度に後退せざるをえない。
 そのずれは、ゴルギアスの扱いに象徴的に現れる。ソクラテスから見れば、ゴルギアスは「知らないのに知っているように見せる」危険の典型である。ところがhumanitasの側では、彼はしばしば「雄弁家」として顕彰される。これは誤読というより、意図的な読み替えである。humanitasはソクラテスの警戒を知らなかったのではない。知っていたが、それを「修辞そのものへの根本的不信」としては継承しなかった。むしろ「徳ある修辞なら救える」という方向へ弱く読み替えたのである。ゴルギアスは、真理なき説得の危険人物としてではなく、言葉の力を極限まで示した祖先として再配置された。ここでhumanitasは、無知を暴露する哲学よりも、無知を公共的に管理しうる教育を信じた。
 キケロに対する態度は、さらに露骨である。ペトラルカは1345年、キケロの書簡を発見して、「大雄弁家の仮面」の下にいる、生々しく動揺し、野心的で、必ずしも人格的に高貴とは言えない人間を見てしまった。ふつうなら、ここで醒めるはずである。しかもキリスト教的伝統とソクラテス的伝統の両方を知っているなら、なおさら「言葉の偉さ」と「人格の偉さ」は別だ、と痛感してよさそうなものだ。ところが、後代のhumanitasは、そこから逆にキケロを神格化していく。もちろん、人格的に無謬な聖人としてではない。彼らが崇拝したのは、ラテン散文の規範、教育課程の中心、そして雄弁と哲学をローマ的に結合した巨大な装置としてのキケロである。しかし、だからこそ問題は深い。人格的には尊敬しきれない相手を、制度的必要のためになお最高規範として祀り続けることは、知に対する古い警戒がすでにかなり鈍っている証拠だからである。ペトラルカはキケロを読んで「人間」を見た。後代のキケロ主義者たちは、そこから再び「規範」を作った。
 こうしてhumanitasは、キリスト教にとってきわめて重要だった「無知」のテーマから、少しずつ距離を取っていく。イエスにとって無知は、幼子性とへりくだりを通じて神へ開かれるための条件だった。アウグスティヌスにとってそれは、人間知の限界を自覚し、信へと身を委ねるための条件だった。ソクラテスにとってそれは、知の仮象を打ち砕くための条件だった。だがhumanitasは、教育・模倣・文体・修辞によって人を公共的に形成できると信じた瞬間、その「無知」を、出発点としては残しても、もはや中心原理としては保持できなくなった。無知は暴かれるべき深淵ではなく、教育によって処理できる未完成へと変わる。ここで、人間は「知らない者」ではなく、「まだ十分に教養化されていない者」として理解され始めるのである。
 この変化は、そのままデカルトを生んだわけではない。そこには断絶もある。デカルトは人文主義者のように文体や古典へ退かず、理性そのものの基礎を問い直した。しかし、彼がその問いを引き受けることができた背景には、humanitasがすでに、知を積極的価値として正統化し、神学の外に「人間一般の理性」の部屋を作っていたという事実がある。つまり近代は、「無知」を忘れたところから始まったのではない。むしろ、無知への古い畏れが、教育と修辞によって飼いならされたあとで、その上に建ったのである。
 要するに、ルネサンスhumanitasの本当の問題は、古典を愛したことそれ自体ではない。問題は、キリスト教もソクラテスも共有していたはずの、「知っているつもり」に対する根源的警戒を、修辞と教育の制度の中で弱めてしまったことにある。ゴルギアスを雄弁家として顕彰し、キケロを人格以上に規範として祀り、雄弁術を人間形成の中心に据えたとき、humanitasは「無知」を主題として抱える力を失った。そして、その喪失こそが、後の近代理性が自らをより肯定的に、より積極的に、より制度的に組み立ててゆくための、見えにくい地ならしになったのである。

地政学的背景

 イタリアのルネサンスは、しばしば「古典復興」とだけ言われるが、実際にはもっと複雑な盤面の上に成立していた。そこは単なるラテン・キリスト教世界の内部ではなく、ローマ、ギリシア、東方教会、イスラーム世界、商業、外交、都市国家が交差する地中海的空間だった。だからそこでのhumanitasは、教会的秩序の内側でのみ息をするものではない。むしろ複数の文明圏がせめぎ合う場所で、言語、修辞、歴史、外交判断を武器にして人間が動くための技法として育った。イタリアにおいて人文主義が比較的のびやかに見えるのは、その背後に最初から多元的な盤面があったからである。教会は強力ではあっても、盤面そのものではなかった。
 これに対してアルプス以北では、事情がかなり違っていた。北方人文主義もまた古典を読んだが、その重心はイタリアのcivic humanismよりも、エラスムスに典型的なように、学識と敬虔を結びつける理屈にあった。つまり古典は、都市国家の公的人間を作るよりも、教会と信仰を内側から浄化するための武器として受け取られやすかった。そして、まさにそのためにこそ、北方人文主義は成熟する前に宗教改革へ吸い込まれていく。ギリシア語、本文批判、文献学、修辞、教育改革といった人文主義の方法は、そのまま聖書解釈と教会批判の武器になった。イタリアで人文主義が比較的長く「文明の様式」として展開したのに対し、北では早い段階で「宗教改革の方法」になってしまったのである。
 この差は決定的である。イタリアではルネサンスはまだ、複数の秩序が競合する世界の中で、それらを読み分け、操縦し、媒介する知の技法だった。だが北方では、ルネサンス的人文主義は、教会の普遍秩序そのものを揺るがす運動と結びついてしまった。すると、paideiaやhumanitasが前提していた「よく形成された人間が、ある程度共有された世界の中で語り、判断し、公共性を担う」という古典的条件が崩れ始める。もはや共通のラテン語共同体も、共通の教会的宇宙も、共通の秩序の読み方も自明ではない。ここから先の北ヨーロッパでは、問題は「秩序をどう読むか」ではなく、「秩序をどう作るか」へ移っていく。
 この意味で、デカルトはルネサンスの単純な継承者ではない。むしろ彼は、ルネサンスが北で引き起こした崩壊のあとに立っている。ケプラーやガリレオの世代には、まだどこか「宇宙には秩序がある。それを読むのが学問だ」という感覚が残っていた。ケプラーは数学的に新しいが、なお有機体的調和の言葉で宇宙を考えているし、ガリレオもまだ「自然哲学」の地平から完全には出ていない。これに対してデカルトになると、世界像の語り方そのものが変わる。彼は、物体世界を延長と運動で説明する機械論、方法的懐疑、精神と物体の二分、そして自然を数学的に記述可能なものとみなす近代的枠組みを強く定式化した。前の言い方を借りれば、ガリレオとケプラーが自然研究の中身を変えたのに対し、デカルトは世界の語り方そのものを変えたのである。
 だが、この転換は、思想史の抽象空間で起きたのではない。むしろその背後には、16世紀末から17世紀前半にかけて、宗教戦争と三十年戦争がヨーロッパに与えた深い傷がある。壊れたのは単なる「アリストテレス的自然学」ではない。壊れたのは、宇宙・教会・国家がどこかで一つの調和のうちに収まるはずだという前提そのものだった。上の世代はなお「隠れた秩序」を探していた。しかしデカルト、ガッサンディ、ホッブズ、スピノザの世代になると、調和はもはや前提できない。だから世界も国家も、別の原理で組み直さねばならない、と考え始める。ここに、三十年戦争の時代の思想の深い共通感覚がある。
 この共通感覚を政治思想の側で最も露骨に表したのがホッブズなら、哲学の側で最も純粋な形にしたのがデカルトだったと言ってよい。ホッブズは、内戦の経験を、自然状態と主権という理論へ鍛え上げた。デカルトは、それと別の領域で、同じ危機に応答した。つまり、外の世界に共有された秩序がもう信用できないなら、まず理性そのものの内部に、疑いえない支点を作り直さねばならないという方向へ進んだのである。ホッブズが「国家をどう再建するか」を問うたとすれば、デカルトは「真理をどう再建するか」を問うた。両者は別々の問いを立てているようでいて、実は同じ時代の破局に対する並行した応答である。
 そう考えると、デカルトの方法的懐疑も、単なる知的遊戯ではない。あれは「とりあえず全部疑ってみよう」という思弁上の贅沢ではなく、むしろもはやどの共同体的権威にも、そのままでは寄りかかれない時代の理性が、自分で足場を掘り当てようとする必死さの表現である。中世の理性は、教会と啓示の秩序の中に住んでいた。ルネサンス人文主義の理性は、古典と文の世界の中にまだ家を持っていた。だが三十年戦争の時代の北ヨーロッパでは、その家そのものが燃えている。だからデカルトは、外にある秩序を読むのではなく、思考主体の内部に最初の確実性を立て直すしかなかった。 cogitoが近代の出発点に見えるのは、それが単なる論理の発見ではなく、戦乱と分裂の時代において、理性がなお倒れずに立つための最小限の地面だったからである。
 ここで、イタリアと北方の差がもう一度効いてくる。イタリアのルネサンスでは、知はなお都市外交・修辞・文献・歴史・公的人間形成の技法として広がっていた。そこでは古典は、現実世界の多元的な盤面を生き抜くための教師だった。だが北では、人文主義は宗教改革に吸収され、やがて宗教戦争によってその前提を破壊される。すると古典は、もはや生きた秩序の教師ではなくなる。古代はまだ読まれるが、そこから直接に世界の公共秩序を取り出すことはできない。こうして、paideia / humanitasの世界から、デカルト的理性主義の世界への転換が起きる。すなわち、「よく形成された人間が秩序を読む」世界から、「主体が方法によって秩序を作る」世界への転換である。
 だから、デカルトの重要性は、単に近代哲学の創始者だということに尽きない。彼は、イタリア的ルネサンスがまだ持っていた多元的・修辞的・外交的な理性と、北方ヨーロッパが宗教戦争の中で強いられた構築的・方法的な理性とのあいだに立つ人物なのである。彼の哲学は、古い教養世界の最後の残響ではあるが、同時に、その世界がもう立ち行かないことを知った者の仕事でもある。三十年戦争は、彼の体系を直接「生んだ」と単純化するべきではない。だが、彼の問いの切迫は、あの時代の政治的・宗教的破局なしには理解しにくい。彼は、秩序が壊れた時代に、なお秩序を語ろうとした。そしてそのとき、古典や教会ではなく、方法化された主体の理性を新しい出発点に据えた。そこに、彼の歴史的な決定性がある。

デカルトの転回と「支え」

 中世のスコラ学では、思考と判断を支えるものとその射程は最初からかなり明確だった。理性は強く用いられるが、その理性は啓示と教会的権威の枠内で働く。アウグスティヌスにおいては、信は理解のあとから補われるものではなく、理解そのものの条件だったし、トマスにおいても、理性の射程と啓示の射程は最終的には区別されていた。そこでは体系はあっても、それがそれ自身だけで宙に浮かぶことはない。前の議論で言えば、スコラ学はその支点を啓示と教会に置き、人文主義はそれを古典テクスト・言語・修辞・歴史感覚に置いた。いずれにせよ、理性はまだ自分だけで立ってはいなかった。
 ところが、ルネサンス人文主義とその後の近代の進行は、その古い支えを次第に薄くしていった。humanitasは、教会的体系の外に「人間一般の理性」のための部屋を作ったが、同時に、その理性を支えていた古典的教養共同体そのものも、nation-stateの成立、俗語化、学問分化によって分解されていった。ラテン語の普遍世界も、教父と古典を共通の規範とする世界も、もはやそのままでは知の足場になりえない。つまり、近代初頭の理性は、単に自由になったのではない。古い家を失ったのである。デカルトの仕事は、この「家を失った理性」に、新しい建築法を与えることだった。
 ここでデカルトが決定的なのは、彼が人文主義者のように文体や原典へ退かず、またスコラ学者のように既成の権威へ寄りかからず、理性そのものが自分で自分の基礎を見つけられるかという問いを正面から引き受けたことである。ペトラルカやヴァッラはスコラ的な擬似公理系を嘲笑ったが、代わりに新しい公理系を建てるところまでは行かなかった。デカルトはそこへ踏み込んだ。彼だけが、「体系は建てられる」と本気で信じ、その方法を構成しようとした。だから彼は、単に近代合理主義の一員なのではない。理性に体系構成能力を最大限まで認めた最初の本格的哲学者なのである。
 しかし、ここで大事なのは、デカルトが理性を無支点のまま放り出したわけではないということである。彼はまさに、どんな体系もそれ自身では証明できない支点を要することをよく分かっていた。だから彼は、その支点を外部から借りるのではなく、理性の内部で見つけようとした。cogitoはその最初の結節点である。疑っても残るもの、すべてを剥がしてもなお消えない明証性の核。だが彼はそこで止まらない。というより、そこで止まれない。なぜなら、「私は考える、ゆえに私はある」だけでは、外界も数学も自然学も保証されないからである。そこでデカルトは、明晰判明知の一般的信頼性を保証するものとして神を導入する。前の議論の言葉を借りれば、デカルトは支点をcogitoと明証性、さらに神に置いたのである。彼は近代的人間だから神を捨てたのではない。むしろ近代的人間だからこそ、理性を立てる最後の支えとして、神を新しい位置に置き直した。
 この点でデカルトは、アウグスティヌスとも、ルネサンス人文主義とも違う。アウグスティヌスにおいて神は最初から前提であり、信が理解を導く。人文主義においては、古典教養と文の世界が人間形成の支えになる。だがデカルトでは、支えはもはや共同体的伝統や教会制度の中にそのまま置かれない。それは、孤独な思考主体が、方法的懐疑を通過したのちに、みずからの内部で発見し直さねばならないものになる。これが近代的なのである。近代とは、神が消えた時代ではない。むしろ、神さえも共同体の前提としてではなく、主体が自らの確実性の体系の中で再定位しなければならなくなった時代なのだ。デカルトはその最初の建築家である。
 だからこそ、デカルトの仕事は後世の啓蒙や科学主義にとって決定的な起点になった。彼以後、真理の基礎は、教会でも古典でもなく、「正しく方法化された理性」が握るべきだという感覚が本格化する。ヴォルテールやコンドルセのような後継者たちにおいて、古代はもはや規範の中心ではなくなり、中心は近代の理性・科学・進歩へ移る。その意味で彼らはたしかにデカルトの子孫である。だが皮肉なのは、彼らがしばしば受け継いだのはデカルトの自信であって、彼の緊張ではないということだ。デカルト自身は、体系が立つためにはどこに支えが要るかを執拗に問うていた。後の素朴な合理主義者たちは、その緊張を忘れ、「理性は自力で進歩する」とだけ考えがちになる。
 近代的な理性にとってデカルトが重要なのは、彼が「理性は万能だ」と言ったからではない。そうではなく、理性はもはや古い宗教的・古典的全体には寄りかかれない、それでもなお理性は体系を建てねばならない、そのとき支えはどこに置かれるべきかという問いを、逃げずに引き受けたからである。彼は理性の限界を知らなかったのではない。限界があることを知りながら、それでもなお理性を倒壊させずに立てる方法を探した。そのために彼は、cogitoと明証性と神を、一つの新しい建築の要石として組み直した。だからデカルトは、近代合理主義の出発点であると同時に、近代理性の不安そのものを最初にきちんと引き受けた哲学者でもある。そこに、彼の本当の偉さがある。

つまり考えるべきこと

1.ルネサンス人文主義は、何を神学の外へ立てたのか。
2.人文主義は、なぜ反キリスト教ではないのにキリスト教を相対化しえたのか。
3.ルネサンス人文主義において、雄弁術はなぜ中心にあったのか。
4.近代は humanitasを破壊したのか、それとも再配置したのか。
5.humanitasは、なぜ「無知を暴く哲学」より「無知を管理する教育」を信じたのか。

【メモ】風景の発見と国民統合の土壌

 永青文庫で開催された「くまもとの絶景―知られざる日本最長画巻「領内名勝図巻」―」(2025年4/26~6/22)を観た。「領内名勝図巻」は保存状態がいいのか修復されたのか、色味も抜群ですこぶる見応えがあった。図巻の成立は寛政5年(西暦1793年)で、肥後熊本第八代藩主・細川斉茲(1759~1835)の発注による。この寛政5年は、ちょうど松平定信が老中を退くタイミングに当たる。
 この図巻が興味深いのは、「風景を描く」という在り様において、自然そのものを主題にするという、近世初期までには見当たらない新しい視点を提供してくれるところだ。室町から江戸初期にも風景画のように見える作品もなくはないが、広く見られるのは雪舟様式の山水画であり、題材となるのは中国南部の山深い仙境や瀟湘八景、あるいは瀟湘八景に範をとった近江八景、もしくは歌枕にゆかりのある吉野の桜や龍田の紅葉、八橋といったところで、富士山ですら積極的に画材に選ばれることはほとんどなかった。つまり、題材に選ばれるのは漢詩や和歌に詠まれて文学的な意味を持つ場所であり、視覚的に美しい固有の風景そのものはインスピレーションの源となっていない。またあるいは、狩野派の四季図や長谷川等伯の松林図屏風など美しい自然を描く作品はあるが、抽象化・一般化・象徴化された自然を屋内環境で再現・経験することに重きを置いており、どこか実際にある固有の風景を写し取ろうという関心は読み取れない。一方、「領内名勝図巻」に描かれている風景は、肥後領内の名所ではあっても、まったく伝統的な歌枕ではない。肥後の殿様が領内を巡検して実際に見て感動した固有の「風景」そのものが画材となっている。また図巻には、滝の高さや大きさなど各所に説明のための文字が書きこまれているが、禅画のような賛が入ることもなく、人文地理的ではなく素朴な自然地理的な関心が先に立っている。室町期までには見られない、極めて新しい感性のように思う。
 また興味深いのは、細川斉茲が江戸参勤交代の折に司馬江漢の絵や地球儀を手に入れているという事実だ。司馬江漢は江戸期蘭画の代表者として知られておいる。府中市美術館で開催(2025年3/15~5/11)された「司馬江漢と亜欧堂田善 かっこいい油絵」も観に行ったが、展示されていた風景画は室町期までの伝統的な日本画とは決定的に異質だった。もちろん使用する絵の具にしろ、遠近法やグラデーションのような技法にしろ、あらゆるところが異質なのだが、そもそも何を書くかという画材の選択から異なっている。印象的なのは、江の島を題材としたたくさんの風景画だ。司馬江漢はよほど江の島を気に入っていたのか、様々な角度から何枚もの江の島の絵を描いている。ちなみに室町期までには江の島を弁財天信仰の対象として描いた「江島縁起絵巻」のようなものはあるにせよ、信仰を度外視して自然の風景そのものに関心を注いだのは司馬江漢からだろう。室町期までの例外として雪舟の描いた「天橋立図」が思い浮かぶが、それは実在の風景を元にしたとはいえ、仏教的象徴を帯びて理想化された空間として構成されており、現地の地誌的特性にはあまり重きが置かれていないように思える。司馬江漢の江の島に対する関心は、細川斉茲が肥後領内の風景に注ぐ関心と立場や手法は異なるものの、いずれも信仰や伝統的典拠に依存せず、実際に見た固有の風景を視覚的主題とするという点で、先駆的な風土意識を共有していたように思える。細川斉茲が司馬江漢を贔屓にしたのには必然的な理由があったように思える。
 そして細川斉茲はこの図巻を、江戸参勤交代時に同じ趣味を持つ水戸や紀州の藩主に見せる意図があったという。寛政期には肥後の殿様と同じく風景に関心を注ぐ上流階級が江戸に形成されつつあったらしいが、この細川の行為は結果として自領の風景を「国家的に共有可能な風景」として提示する意味を持った。
 一方、葛飾北斎「富嶽三十六景」は天保2年(1831年)頃、「東海道五十三次」は天保4年(1833年)頃ブームになっている。これ以前に「風景」を主題とした浮世絵は見当たらない。ちなみに旅行ガイドのような名所図会は宝暦年間前後から登場するが、定型化するのは天明〜寛政年間で、これは細川斉茲や司馬江漢の活動時期と一致する。自然風景への関心が藩主レベルの上流階級や日本蘭画の作家に発生してから40年後に一般庶民レベルに広がったことになるが、タイムラグを置いて連続した現象と見るか、あるいは独立した事象とみるところか。化政文化期における商業出版の隆盛とも関わってきそうなテーマではあるが、いちおうタイムラグがあったことだけは気に留めておく。

 さて、近代に入って、「風景」を特別のテーマとして扱ったのは、もちろん志賀重昴『日本風景論』(1894年)だ。本書は「風景」を個人的な経験として特権化する近代的なまなざしに特徴があると同時に、世界における「日本」の個性をも前面に打ち出していることが重要だ。近世までにもある風景を文学的な象徴として共有する基盤はあったが、それを国家のアイデンティティと明示的に結びつける視点は、志賀以前には体系化されていなかった。確かに日本には中国や朝鮮とは異なる政権があることは自覚されていたものの、その特徴については中国や朝鮮と異なる「ナショナリティ」に基づく違いではなく、あたかも中国古代の斉や楚や秦や韓といった国々が「君主の徳」によって異なっていたのと同じような違いとして理解されていた。人々の風俗や生活習慣の違いに関心が持たれていなかったわけではないが、それが国家の個性を支える要素だとは理解されていなかった。瀟湘八景を近江八景として翻案するように、中国の文化的伝統は何の障壁もなく日本の文学表現に翻案され、中国における君主の徳はそのまま日本の君主の徳として翻案された。風景が国家のアイデンティティや国民の精神性に関わるとは、まったく理解されていなかった。それを転回させたのが志賀重昴だが、もちろん彼の完全な独創というよりは、近代的な国家観が成熟したことによる、ある一つの表現型として理解するべきところだろう。同じような表現型として、正岡子規の俳句・短歌論があり、岡倉天心の日本美術論がある。
 しかしやはりナショナリズムが成立する前提として、日本を何らかの統一体として理解する視点は近代以前に既に育まれていたように思う。林子平の海防論(1787年)しかり、伊能忠敬の日本全図(1821年)しかり。「領内名勝図巻」という地方(熊本)の風景を描いた作品が参勤交代制度を通じて江戸(東京)で共有されるという経験は、文学的な表現の対象となってこなかった地域の風景を改めて日本という国家的空間の中に埋め込み、日本を何らかの共通性を持つ統一体として理解するうえで重要な土壌となっていたのではないか。さらに庶民による伊勢詣・富士講・善光寺詣といった聖地巡礼は、地理的に隔たった場所を身体的かつ精神的に結びつける。
 さて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」とは、新聞などの印刷物によって、地理的に隔たった人々が同じ時間・空間を共有しているという感覚を抱き、共同体の一員としての自覚を深める、近代特有の精神的構築物である。しかしその基盤には、近世以前から育まれてきた「移動する身体」「地図としての空間」「共有される地方風景」という三つの要素があった。これらがそろっていなければ、たとえメディアがあっても、「想像の共同体」はそう容易には形成されないのではないか。

社会契約論とは何か

問題の所在

 人間はどうして集団で生活するようになったのか。どうして支配する者と支配される者に立場が分かれているのか。その支配は正当なものか、もし正当化できるのならどういう理屈なのか。仮に不当な支配だとしたら支配を覆すことは許されるのか。あるいは理想的な集団とはどういうものか。
 こういう一連の問いに対して、「神」を持ち出さずに、「人間」に関わる原理原則だけで解答を与えようと試みるものが社会契約論である。神を持ち出さないことから唯物論に親和性があり、社会の存在を前提とせず「個」から議論を起こすことから自然科学的には原子論と親和性が高い。逆に、あらゆる領域にわたって「神」の原理原則が貫徹し、原子論ではなく調和的・階層的宇宙論に基づいて世界を理解しようとする中世においては、社会契約論が出現する余地はない。「人間」の原理原則に基づいた社会論が説得力を持つのは、古代(キリスト教がないから)と近代(キリスト教が衰えるから)ということになる。
 ただしキリスト教という宗教が、旧約でも新約でも「契約」という手続きに基づいて成立していることには留意しておく必要がある。ルネサンス期以降の西欧で社会契約論が説得力を持ち得たとすれば、おそらくキリスト教による「契約」の論理が地ならしをしているからだ。古代的ヒューマニズム(人文主義)に基づく社会論と中世的キリスト教に基づく契約論の領域が重なったところに、近代的な社会契約論が立ち上がってくる。
 以下、古代に社会契約論の芽を確認した上で、近代の議論を精査する。

古代

 古代ギリシアとローマでは、もちろん近代的な社会契約論に類する議論を見ることはできない。アリストテレスは、人間が集団で生活するのは「自然な本性」だとみなし、議論の対象になるとは考えなかった。プラトンは「理想的な国家のあり方」については徹底的に考え抜いたけれども、「そもそも国家が必要か」については丁寧に掘り下げることがなく、神話的なエピソードを示して神からの賜りものという理解を示すにとどまる。
 ただし古代的民主政が発達したギリシア(特にアテナイ)や共和制期ローマにおいては「正義あるいは法律」(ラテン語ではどちらもius)の本質に関する議論が展開され、そこに社会契約論の芽のようなものがあったことを確認できる。特に確認しておきたいのは、人間の本質的な性質に基づいて(つまり神様なしで)社会の成立を考えようとする姿勢である。

ルクレーティウス『物の本質について』

 エピクロス派のルクレーティウス(紀元前99頃 – 紀元前55)は『物の本質について』の中で以下のように、人間が社会を構成する以前の原始状態について記述している。

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力なか、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

 この原初の自然状態で人間が人間をコントロールするものは「欲望」「力」「報酬」に限られ、神様に言及されないことには注意を払っておきたい。この描写に続いて、ルクレーティウスは社会状態への移行メカニズムを説明する。

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

 ここに素朴な「約束」が締結されるにいたるプロセスが描かれているが、その変化の理由が神様ではなく、人間の性質を踏まえたうえで、「安全」と「弱者の保護」から説明されていることに注目したい。そしてここでは保護の対象となる「弱者」として具体的には子どもと女性が挙げられているわけだが、頭の片隅に置いておきたいのは、子どもと女性が人類(男性)にとって一番最初の「私有財産」であった可能性(現実かフィクションかは問わない)である。原初の家父長制は、子どもと女性を家長の所有物と見なす。たとえば旧約聖書やホメロス『イリアス』などを見ると、古代においてはあからさまに女性や子どもを家長の所有物と見なす描写が散見される。そうなると、ルクレーティウスが「弱者の保護」とした記述は、実質的には「私有財産の保護」という意味を持っている。こういうことを確認しておくのは、もちろん後に「安全」を強調して契約論を唱えるのがホッブズで、「私有財産の保護」を強調して契約論を唱えるのがロックであるからだ。ホッブズとロックの主張の芽は、ルクレーティウスに確認できる。

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

エピクロス

 ルクレーティウスは忠実なエピクロス主義だとされているが、元祖エピクロス(紀元前341-紀元前270)のテキストは完全に失われてしまっている。いちおうディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半)の『ギリシア哲学者列伝』に教説の概要が記されており、ここに「契約」への言及を見出すことができる。

(31)自然のは、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。」
『エピクロスー教説と手紙』83-84頁

 このエピクロスの教説を祖述したと思われるテキストで現実的に問題になっているのは「正義」の由来と根拠であり、具体的に展開されているのは「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の弁証法である。唯物主義のエピクロスにおいて、「正義」の由来はもちろん神様ではなく、人間の本性に求められる。そしてノモス(人為の法)の観点から「契約」という手続きが示され、ピュシス(自然の法)の観点から「正」はすべての人間に同一だという法則が示される。このように神様抜きで人間の原則から「正義」の根拠を導き出してくる論理構成は、後のホッブズにそのまま見ることができる(自然権と自然法の弁証法)だろう。

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』
【要約と感想】ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

プラトンが描くソフィスト

 伝統的なピュシス(自然の法)を否定してノモス(人為の法)を前面に打ち出す議論を始めたのは、ソクラテス(紀元前5世紀)と同時代に活躍したソフィストたちである。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。プラトンは『国家』の中でソフィストの議論をこう描写している(もちろんプラトン自身はこれに反対する立場だ)。

自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
 これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。」上巻106-107頁
「すべて自然状態にあるものは、この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむりやりに平等の尊重へと、わきへ逸らされているにすぎないのです。」上巻108頁

 このテキストに関してまず注目したいのは、ソフィストが「自然本来のあり方」から議論を起こしていることだ。その認識が正しいかどうかはともかく、神様ではなく人間本性(特に欲心)という「自然」から議論を組み立てようとする態度だ。そして「自然(ピュシス)」から始まった話が、「契約」という「人為(ノモス)」へ着地するという論理構成だ。
 また共和政期ローマのキケローもほとんど同じことを言っているが、これは明らかにプラトンに倣ったものだろう。後世のラテン文化圏の読書人たちは、プラトンではなくキケローからこの考え方を知ることになったはずだ。

ピルス「しかし互いに相手を恐れ、人間が人間を、階級が階級を恐れるとき、誰も自己を頼ることができないので、一種の協定が国民と権力者のあいだに結ばれます。(中略)すなわち、正義の母親は自然でも意志でもなく、無力なのです。」
キケロー『国家について 法律について』154頁

 キケローの議論は「恐れ」という人間本性から話が始まるが、「自然(ピュシス)」も「意志(ノモス)」も否定され、「力」の不在が正義の根拠とされる。もちろんキケロー本人はこれに反対する立場であり、この発言者の議論は後に克服されることになるわけだが、ともかく神様抜きで人間本性から話を起こし、「自然(ピュシス)」と「人為(ノモス)」の弁証法を展開する議論がプラトンとキケローによって記述されていたことは押さえておきたい。
 また、プラトン最晩年の著書『法律』にも注目すべき記述がある。

「公的に見て、万人は万人に対して敵であり、私的にもまた、各人みずからが自分自身に対して敵である、ということなのです。」626D

 これは直ちにホッブズ『リヴァイアサン』を想起させる記述になっている。さらに「自然状態」に言及した記述も見られる。

「そうした時代の国政は、一般に家父長制(デュステイアー)と呼ばれているように思われます。そしてその制度は、今日でも、ギリシアや外国のいたるところに存在しているのです。思うに、ホメロスもまた、次のように歌いながら、キュクロプスたちの暮し方には、この制度の存在していたことを語っています、すなわち、
――
この者たちには 審議の集会も法令もないのだ
彼らは 高い山々の頂き うがたれた洞窟の中に住みなし
各自その子供や妻を支配し
互いに無関心のまま 過ごしているのだ」680B

 ここでは自然状態において各家族がバラバラに生活していることと同時に、子どもと女性が家父長制のもとに所有物として扱われている状況が描写されている。
 以上みたように、既に古代ギリシアとローマに後の社会契約論へと発展しそうな芽を確認することができる。実際、多くの先行研究が影響を認めている。ただし「契約」に関する議論は「正義論」の中で出現するだけで、国家や社会の構成原理の話に展開することはない。国家論にならない以上、統治の正当性や抵抗の可能性について触れることもない。近代に至るには、まだ様々な条件が整備される必要がある。

【要約と感想】プラトン『国家』
【要約と感想】プラトン『法律』
【要約と感想】キケロー『国家について 法律について』

中世

 ローマ帝国が滅びて中世キリスト教世界の時代に入ると、プラトンの著作もエピクロスの著作も失われ、しばらく忘れ去られることとなる。キケローの著作はラテン世界で読み継がれるものの、アウグスティヌスはともかく、基本的にはラテン語文法典範として活用されるにとどまり、精神世界には『聖書』の権威が君臨する。
 キリスト教においては、人間の歴史は『旧約聖書』に記されたアダムとイブのエピソードから始まる。この創世記における人類創造の記述が妥協されることは絶対にない。アダムとイブには「自然状態」(さらには子ども期)が存在せず、創造の瞬間から「コミュニケーション可能=社会状態」が成立している。したがって、子どもから大人への移行プロセスに一切の関心が払われないのと同様、自然状態から社会状態への移行プロセスにも関心が持たれることはない。キリスト教の関心の中心は、「人の国/神の国」の相違と移行プロセスにあるのであって、「自然の国/人為の国」の境界線などまったく問題にならない。キリスト教的宇宙論のなかでは、人間のみならず神や天使や動物も含めた階層的かつ調和的な世界像が示される。剥き出しの個人が世界から切り離されて単独で生活する原初の自然状態など想像もされなかった。確かに俗世間を離れた修道的隠遁者はいくらでもいたが、彼らは神と繋がっていて、剥き出しの個人ではなかった。こういう環境では、社会契約論どころか「社会」の形成に関わる議論が行われる余地すらない。
 ただしもちろん西暦500年から1500年まで千年もの時間があって、何も変わらなかったということはない。叙任権闘争(それに伴う世俗権力の剔抉)、封建国家から絶対王政への展開(それに伴う主権概念の発達)、都市やギルドの発展(それに伴う法人格概念の萌芽)、大学の誕生やスコラ学の成熟(特に普遍主義論争)、正義論の成熟(iusとlexの区別など)、東方教会とも連動しているであろう神秘主義の勃興(特に神との関係における個の剔抉)などなど、伏線となるような動きはいくらでも確認できる。また個人的には、三位一体論の成熟が大きな伏線(persona概念に絡んで)になっているのではないかと睨んでいる。ただこれらの流れがひとまとまりとなって奔流となり、世の中を大きく動かしていくのは、宗教改革とルネサンスを待たなければならない。

ルネサンス

 1453年のビザンツ帝国崩壊をきっかけとして、失われていた古代のテキストがイタリア半島に流れ込むと同時に、グーテンベルクによる活版印刷が書物の流通を加速させる。それまでプラトンのテキストは『ティマイオス』がもっともよく知られていたが、ルネサンス以降は『国家』が広く読まれ始めるようになる。このプラトン『国家』で描写されたソフィストの議論に社会契約論の芽があったことは先に確認した。

ルクレーティウスの再評価

 そして最大限に確認しておきたいことは、ルネサンス期においてルクレーティウス『物の本質について』が高く評価されたという事実である。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィ、エチエンヌ・ドレなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価している。そしてルネサンスの雄エラスムスについては「エラスムスにはホッブズの社会契約という思想は未だ認められていないが、それに近い思想が芽生えている。」(金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』248頁)との指摘があり、詳細は説明されていないのだが、ルクレーティウス経由の可能性が高い。またエラスムスの友人トマス・モアについては以下の指摘がある。

「たとえば、ユートピア的理想社会の倫理に注目すれば、モアはエピクロスの教義やストア哲学を知っていたことが明らかになる。エピクロスやストア哲学の要素がユートピアにおける倫理概念に含まれていることは疑いない。とくに、人間の存在目的としての快楽、満足に関する教義、真理および虚偽の満足に対する認識においてそうである。」И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』218頁

 エピクロス自身のテキストが失われている以上、仮にモアがエピクロスの教説を知っていたとしたらルクレーティウスを経由した可能性が高い。ただしもちろん、エラスムスやトマス・モアを含めて、ルネサンス期には近代の社会契約論の水準に到達している議論を見ることはできない。古代以来の「正義論」の範囲内で話が進むだけだし、大枠ではキリスト教宇宙論の射程圏内にある。エピクロスの影響といっても自然科学から人生論まで範囲は広大であり、ただちに社会契約論が立ち上がるわけではない。
 ちなみにルクレーティウスについては、近代以降も、モンテーニュが盛んに引用したり、ホッブズがヒントを得ていたり(田中浩『ホッブズ』)、デカルトやホッブズとも交流のあるガッサンディが強い影響を受けていたり、ルソーも影響を受けていたりする(ルソー『人間不平等起原論』解説)ことが指摘されている。社会契約論を考えるうえでキーパーソンであることは間違いない。
 そしてもう一人、後の社会契約論の展開を考えるうえでルネサンス期で忘れてはならない人物は、マキアベッリである。マキアベッリが社会契約論に類する議論を展開した形跡はまったくないものの、神様を排除して「人間」の原理原則だけで国家の動向を考察する姿勢は間違いなく近代に向かっている。ルソーも『社会契約論』でマキアベッリの人格と業績を極めて高く評価している。

【要約と感想】ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』
【要約と感想】金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』
【要約と感想】И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』
【要約と感想】マキアヴェッリ『君主論』

近代への離陸

 何をもって近代と見なすかについて難しい問題は多々あるが、ここでは便宜的に大航海時代・宗教改革・ルネサンスを目印としておく。
 大航海時代は南北アメリカ大陸やアフリカ大陸から人類学的知見をもたらし、社会契約論を展開するうえで必須の要素である「自然状態」に関する想像力を刺激した。
 宗教改革の空気は聖書に対する書誌的研究を可能とし、旧約新約両聖書における「契約」の概念に関する洞察を深めた。またイギリス国教会に典型的なように、世俗国家がカトリック教会からの独立性を高める動きは権力の正当性の問題を露骨に浮かび上がらせる。
 ルネサンスの雰囲気は、社会の成立を「神」による創造ではなく「人間」の本性に基づいて考察する姿勢を後押しした。
 これらの動きが総合的に絡み合いながら近代を準備していくことになる。

近代

 近代に入り、様々な論者が様々な形で社会契約論を提示することになる。あらかじめすべての論者に共通する要素を示すと、
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。その結果、自然科学における原子論と響きあうように、まず人間を「個人」として理解する。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。その結果、理性的で合理的な「合意」を重視する。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。その結果として、道徳的な「正義」や「公正」に関する洞察が伴う。
 といったところだろうか。
 一方、それぞれの論者の論理構成の違いを理解する目安となるのは、
(1)自然状態の定義。この相違は「自由」や「権利」という概念に対する理解の違いに基づくだろう。
(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。この相違は、社会契約の性質の違いや、抵抗の正当性に対する態度の違いに帰結するだろう。
(3)社会状態の定義。この相違から政府の権限の範囲に関する見解も異なってくるだろう。
(4)カトリック教会への対応。それぞれの論者の宗教観の違いだけでなく、現実的に直面していた課題に対応して異なるだろう。
 となるだろうか。ちなみに古代の理論には、(4)はあるわけないとして、(1)はルクレーティウスとホメロスの詩に、(2)はルクレーティウスとエピクロスに、(3)はプラトンとキケローが描写するソフィストとエピクロスの正義論に見られるが、それぞれが論理として有機的に結びついているわけではなく、バラバラに記述されている。
 以下、社会契約論と称されるいくつかの理論の内容と構成を確認する。

ホッブズ『リヴァイアサン』

 まず、極めて独創的な発想で社会契約論の水準を一気に引き上げたのが、イングランドの思想家トマス・ホッブズ(1588-1679)である。
 背景として、先行研究においてはピューリタン革命の影響が強調されるが、個人的には宗教改革のほうが、特にイングランド国教会とカトリックとの確執の方が根が深いように思える。というのは、個人的な見解では、ホッブズは民主派ではなく王党派であり、王党派の利害関心に依ってカトリックの影響を排除しようと目論んだ結果が『リヴァイアサン』に強く反映しているように見えるからだ。実際、『リヴァイアサン』は後半でしつこくカトリック批判を繰り返して世俗権力への一本化を主張する。前半で自然状態から社会状態への移行を詳細に記述しており、それによって民主派と評価されるわけだが、個人的には、ただ後半戦に備えて世俗権力を一本化しておきたかったからのように見える。
 個人的に強い関心を持つのは、ホッブズが「人格」という言葉について極めて深い洞察を示している点だ。ホッブズは「人格」にまつわるギリシア語とラテン語の相違を丁寧にたどって定義を明確にしたうえで、全編にわたって、しかも要所要所で頻繁に使用する。しかもキリスト教最大の奥義「三位一体論」に関わる記述で「人格」という言葉を巧みに使いながら、それを主権論の文脈に降ろしてくるところなど、ぜんぶ分かったうえで意図的に仕組んでいるような印象を持つ。侮れない。
 以下、論者の論理展開の相違を浮き彫りにする4観点からホッブズの特徴をまとめる。

(1)自然状態の定義。
 ホッブズは自然状態の記述に先立ち、デカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』を想起させるような筆致で人間の「情念」を丁寧に分析して、人間は欲望や嫉妬から逃れられないと喝破する。そして、人間は生まれながらにあらゆることを自由に行う「自然権」を平等に持つ一方で、だからこそ情念に支配される人間たちの自然状態は「万人の万人に対する戦争」に陥ると定義した。この状態では人間の生活は「孤独で、貧しく、下劣で、野蛮で、短い」もので、常に不安と恐怖に苛まれる。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは「情念」の理解にかかっている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ホッブズによれば、安全を実現しようとしたときに理性が必然的に見出す「自然法」の条理に基づいて、生存権を保障するためにこそ各人は「自然権」を自発的に放棄し、絶対的な権力者リヴァイアサンへ委譲する。この理屈を成立させるため、ホッブズは中世まで混同されていた「法:lex」と「権利:jus」の概念の違いを強調し、理性が見出す「自然法」の必然性を前面に打ち出す。
 ホッブズの理論が説得力をもつかどうかは「自然法」の理解にかかっている。

(3)社会状態の定義。
 ホッブズは秩序と安全を確保するために権力を絶対的な一点に集中するべきことを提唱し、君主政を擁護する。いったん社会状態が成立した以上は、統治者に逆らうことは許されない。「正義」とは統治者が決めたルールである。まさに古代のソフィストが主張したとおりの絶対的統治体制となっている。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは、絶対王政による強権を是とするかどうかの姿勢にかかっている。

(4)カトリック教会への対応。
 ホッブズはカトリック教会を極めて強い態度で批判し、権力の根拠をいっさい持たないことを丁寧に示したうえで、宗教的な指導力も世俗権力が握るべきだと主張する。カトリック教会に許されているのは示唆する程度の強制力を持たない教育に過ぎず、国家運営に口出しをするなどもってのほかだと言う。

【要約と感想】ホッブズ『リヴァイアサン』
【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』
【要約と感想】田中浩『ホッブズ』
【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

スピノザ『神学・政治論』

 オランダの思想家スピノザ(1632-1677)はホッブズと同時代を生き、お互いに影響を与え合っていると理解されている。政治学の教科書において社会契約論の論者として扱われることは滅多にないが、個人的には、『旧約聖書』の「契約」概念を現実の社会に降ろしてきた発想はかなり重要な意義を持つと思っている。

(1)自然状態の定義。
 スピノザは自然状態を個人が無限の「自然権」を持つ状態と見なし、自由は他者の干渉がない状態で自己保存を追求する能力として定義する。一方で、ホッブズのような「万人の万人に対する闘争」が起こるとは考えない。このホッブズとの違いは『神学・政治論』だけでは分からないが、おそらくスピノザ『エチカ』で示される「情念」論と合理的・調和的な世界観によると考えられる。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 スピノザは合理性に基づく自発的な協力として社会契約を見ており、個人が共同の利益のために自由の一部を制限することが社会全体の最大の自由をもたらすと考える。極めてユニークなのは、『旧約聖書』において神と人民の間に結ばれた「契約」の在り方を徹底的に掘り下げたうえで、それを現実社会において政府と人民の間に結ばれる「契約」と実質的に同じ性質の服従契約だったと見なす点である。キリスト教が「契約」の宗教であったことが世俗国家における「契約」という発想をもたらした可能性(つまり中国やインドやイスラムではそうならなかった)を、ここに見ることはできるだろう。

(3)社会状態の定義。
 スピノザは社会状態を個人の理性と合理的な欲望に基づく自由な協力の産物と見なし、政府はこの自由と秩序を維持するために存在すると考える。またどれだけ政府が人々をコントロールしようと思っても、人民は自らの本性に従って行動するだけで、無駄なことだという。これは空想ではなく、歴史上のオランダ共和国に実際にあり得た現実的な見方でもある。スピノザ自身はホッブズ理論との違いについて、社会状態においても「自然権」が手つかずのまま残っていると証言している。

(4)カトリック教会への対応。
 スピノザ『神学・政治論』は社会契約論を示そうとして書かれたものではなく、真の自由と理性に基づく社会を実現するために宗教と政治の完全な分離を支持し、キリスト者として最低限必要な信仰箇条を守っていれば問題ないと主張することを眼目としている。その結果、カトリック教会からは無神論のチャンピオンとして蛇蝎のごとく敵視されることになる。

【要約と感想】スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』
【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』
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【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』
【要約と感想】吉田量彦『スピノザ―人間の自由の哲学』

ロック『統治二論』

 イングランドの思想家ジョン・ロック(1632-1704)は、スピノザと同年に誕生している。二人の直接的な交流は確認できていないが、オランダ滞在時に著書を読んでいるなど影響を受けているだろうことは分かっている。またホッブズとの接触も確認できていないが、著書を読む限り意識していただろうことは推測できる。思想的背景として名誉革命(1688)との関連を云々されることもあるが、歴史的研究により、執筆時期そのものは名誉革命に先行することが分かっている。

(1)自然状態の定義。
 ロックは自然状態を自然法に基づいた平和的秩序がある程度は成立している状態と考える。自由は自然権としての生命、健康、自由、財産の保護を含むが、特に労働に基づいた「私有財産」の不可侵性を強調する。また自分が被った被害を回復する権利を各人が持つだけでなく、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権も自然に与えられていると主張する点はユニークだ。
 ポイントは「私有財産」の正当化にある。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ロックは財産権を確実に保障するために政府への権力の委譲が必要だと主張するが、どうして自然状態で平和的秩序が実現しているのに権利を放棄しなければいけないのかという説明は不十分かつ不明確で、社会状態への移行の必要性が厳密に説明されているとはみなしがたい。一方、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権を各人から取り上げて政府に一本化するメリットは明確にされている。

(3)社会状態の定義。
 ロックは社会状態を法と政府による自然権の保護と定義し、政府は民衆の同意に基づいて設立されるとする。そして極めて限定的な条件付きではあるが、政府による自然権(特に財産権)の保護が不可能となった場合、政府への抵抗が許容される。
 ポイントは、抵抗権の理解にある。

(4)カトリック教会への対応。
 『統治二論』の前編は王権神授説に対する批判であり、世俗権力を正当化する原理としてのキリスト教は明確に否定している。また、別著で宗教的寛容を説く一方、カトリックに対する敵意は隠していない。ただしロック自身は敬虔なキリスト者であり、その社会契約論のいちばん根底にも「神の制作物」という人間理解が前提にある。

【要約と感想】ジョン・ロック『完訳 統治二論』
【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

ルソー『社会契約論』『人間不平等起原論』

 ジュネーブで生まれフランス語で活動したルソー(1712-1778)は、ホッブズやロックを意図的に批判しながら、独自の社会契約論を打ち立てる。歴史的背景としてはアメリカ独立に深く関わったりフランス革命の理論的支柱になったとみる向きもあるが、実証研究のレベルではフランス革命にはさほど関係していないと理解されている。
 ルソーの論理の全体像を理解するためには、『社会契約論』だけでなく『人間不平等起原論』も併せて読む必要がある。先行研究においては両著書間の矛盾や論理的不整合が指摘されてはいるが、「自然状態の定義」や「自然状態から社会状態へ移行するメカニズム」は『社会契約論』で詳述されておらず、『人間不平等起原論』を参照しなければルソーの見解は分からない。確かに不整合なところは散見されるが、全体像を理解するうえで致命的な障害になるとも思えない。

(1)自然状態の定義。
 各人は完全に生まれながらに自由と平等をもつ。全員が自己保存に一番の関心を注ぎ、それぞれが生存に必要な行動をとるが、お互いの生活を侵害することはあり得ない。アメリカ大陸や類人猿の生活等にも触れながら、自然状態が人類にとって極めて理想的な状況だったと描く。あまりにも「自然人」が理想的に描かれ、当時から多くの批判を浴びている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 『人類不平等起原論』では、人類が堕落した結果として、自然状態のままではいられなくなると主張する。特に私有財産の発見によって貧富の差が拡大し、その貧富の差が不可逆的に権力の偏在化に向かうと言う。
 一方『社会契約論』では詳細にメカニズムを語らないが、社会状態への移行がもはや不可避となった時点で理想的な形の移行が起こると言う。自然状態の自由と平等をそのまま実現するために、人民と統治者の間の「服従契約」ではなく、まずは人民同士が水平に「社会契約」を結んでひとかたまりの集団になる。この生命と一般意志を持った集団に従うことで、各人は自然状態と変わらずに自分の主人のままでいられる。どういう形の政府にするかは、契約段階の話ではなく、契約が結ばれた後に一般意志が判断すればよい。

(3)社会状態の定義。
 『人間不平等起原論』においては、滅びゆく人類の堕落の極みとして悲観的に描かれる。文化や芸術は、老人の杖のようなもので、健康な自然人には必要ないが、堕落しきった現代人にとってのみ必要になるものだと言う。
 一方の『社会契約論』においては、社会状態とは「自然の自由」に代わって「市民の自由」を得た状態であり、それに加えて「道徳的な自由」も得た素晴らしい状態であると主張する。政府も一般意志を実現するための公僕として理解されるため、一般意志と相容れない政府を覆すのはまったく問題がない。ただし一方、社会契約を結んだ以上、共同体の構成員は一般意志に絶対的に従わなくてはならない。たとえ多数決で少数者の側になろうと、命を失うような義務が発生しようと、無条件に従わなければならない。

(4)カトリック教会への対応。
 『社会契約論』においては、キリスト教の考え方は世俗的国家の現実とはまったく相容れないものだと厳しく批判したうえで、社会的紐帯を根底から支える基盤として「市民宗教」が必要であると説き、この宗教に忠誠を誓えない人間は追放せよとまで言う。しかし実質的にはこのような市民宗教が成立する見込みはないので、次善の策として宗教的寛容に徹するべきことを主張する。もちろんカトリック教会は大激怒し、『社会契約論』には禁書の指令が下ることになる。

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古代に還る:ソクラテス

 こうしてルソーは、人民がいったん合意して社会を形成した以上、共同体の成員は命を投げ出すような理不尽な法にさえも従うべきだと主張する。そして実際にそうした人物を、我々は古代に見出すことができる。『クリトン』に描かれたソクラテスである。

自ら市民として遵守するとわれわれに誓った契約や合意に背いて逃亡しようとしているお前は、最も無恥な奴隷でもしそうな振舞いをするのだ。」84頁
「またお前は今、われわれ自身に対してした契約と合意とを蹂躙しようとしていはしないか。しかもお前がその契約と合意とを与えたのは、余儀なくされたためでもなく、欺かれたためでもなく、短時日の間に考慮決定することを強いられたためでもない、もしわれわれがお前の気に入らず、この合意が不当だと思われたならば、ここを立去ることがお前に許されていた時日は、七十年もあったのだから。」
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、84頁

 このソクラテスの態度について、先行研究はこうコメントして、ルソーの論理との関係を見出している。

「思うにソクラテスのこのような国法観は、幼若な時代はいざ知らず、人が理性の年齢に達するや否や自己の理性的思惟によって祖国を放棄し、またはこれを選択する自由を認め、それをなさないで国内に居住するかぎり、暗々裡に国法の遵守を祖国に対して契約したものであることを認めるとともに、いったんこのような契約を認めたからには、「国家が汝の死が国家のために必要であるというときには、喜んで死なねばならない」と言うルソオの社会契約説と一味相通ずるものがあるであろう。
 この意味においてソクラテスの国法観は、確かにルソオの社会契約説の先駆をなすものともいいうるのである。」
稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』福村出版、1973年、184頁

 個人的には、ソクラテスの態度がルソーに相通じるというよりは、アテネの国政とソクラテスの生き様を念頭に置きながらルソーが『社会契約論』を書いた、というほうが真実に近いように思う。ホッブズはソクラテスの敵であるソフィストの議論を下敷きにして『リヴァイアサン』を書いたように見えるが、ルソーはソクラテスの生き様を踏まえて『社会契約論』を書いたように思える。紀元前5世紀に行われたソクラテスとソフィストの対決は、2000年以上後の18世紀にまで続いていたのである。あるいは今も延長戦の最中か。

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』
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まとめ

論者による相違

 以上確認したように、一口に「社会契約論」と言ったとしても、その具体的な論理展開や実質的な内容は論者によってまるで異なる。先行研究においても、その相違を前面に打ち出してくるものが多いような印象だ。
 それぞれの論理の相違に注目すると、日本における歴代政治体制の相違についても新たな視点を得られるように思う。(あくまでも日本の政治体制の特徴を相互に浮き彫りにするために社会契約論の特徴を借りて考察するだけであって、西洋の論理をそのまま日本の歴史的政治体制の実態に当てはめようとするものではない)

(1)ホッブズを踏まえて豊臣秀吉の惣無事令を考える。
 日本の中世においては鎌倉・室町時代を通じて地方小領主同士の私闘が相次ぎ、室町中期から安土桃山には広域大領主間の私闘に発展するが、豊臣秀吉による1585~87年の惣無事令によって実質的な天下統一が成ったとされる。実証的には豊臣政権の実態をどう考えるかには様々な立場があるが、各大名に絶対服従を確約する誓紙を納めさせて私闘を禁じる一方で、刀狩令や海上賊船禁止令、喧嘩停止令など被支配民の武装解除を進めたことを踏まえると、理念的には、豊臣家をリヴァイアサンとする絶対主義体制が整ったと見なすこともできる。実質的には武力を背景とした威嚇による統一ではあるが、形式的にはホッブズが言うように不安と恐怖から逃れて平和と秩序を構築するために自発的に自然権を返上する服従契約となっている。
 もちろん農民を含めた日本の全住民が自発的な契約を秀吉と結ぶわけはないのだが、ホッブズ自身も果たしてイングランドの無産者や一般庶民や、あるいは陪臣たちすら視野に入れていたかは怪しいところではある。

(2)スピノザ・ロックを踏まえて徳川政権下の幕藩体制を考える。
 江戸幕府統治下265年間には、島原の乱などいくつかの悲惨な戦乱はあるものの、おおむね平和だったと言ってよい。その間、全国約300あった藩(一万石以上)やそれ以下の小領主の領地では、法も裁判も経済も、基本的には領地内の自治に任された。これはスピノザの言う「自然権が手つかずのまま放置」の状態であり、ロックが言うように私有財産が保障(領地が安堵)された状態である。この自然権の恣意性が目に余るようになったときには公共の福祉を保障するために公権力(いわゆる公儀)が発動する。恐怖や不安に基づいたホッブズ型権力というより、平和と安定を保障するための公権力ということで、理念的にはスピノザ・ロック型と言えるだろう。また政府の専横が目に余った場合に百姓たちが武器を持って立ち上がったのは、ロックが言う抵抗権の発露と考えてよいか(あるいはホッブズ的なやむにやまれない生存権の主張のほうか)。
 ただしもちろんパックス・トクガワ―ナは身分制を土台とした暴力装置の偏在が支える制度であり、オランダの共和政を背景としたスピノザ理論やブルジョワ階級的ロック理論にそのまま適用するのは乱暴ではある。

(3)ルソーを踏まえて廃藩置県+大日本帝国憲法+教育勅語を考える。
 大名や領主たちが先祖代々実力で制圧してきた領地をいったん天皇(公)に戻したうえで、元の土地に行政官として戻ってくるという版籍奉還と廃藩置県の手続きは、まさに自然権を市民権へと転換して権力を一元化する社会契約論的なカラクリである。そして教育勅語は日本の建国神話を土台として日本人民を一体のものとして創出するフィクショナルな試みだったが、それはルソーが言う「市民宗教」を土台とした人民の組織化の手続きである。市民宗教(教育勅語)は、政治的統合を促進するために共有されるべき価値観や信念体系を提供し、国家が個々人の意識の中に深く根ざす共通のアイデンティティを形成した。その土台の上に大日本帝国憲法で定めた権利と義務の体系が作動し、市民権と公民権が実質化する。天皇制(ルソーが言う君主制)であることは、ルソーも『社会契約論』本文で主張するように、共和政であることとまったく矛盾しない。ただしそれは美濃部達吉の天皇機関説のようなものとして天皇が機能している限りの話にはなる。親政により天皇が無謬の審級かつ皇軍の大元帥としての役割を期待され始めると、とたんに人民主権が破綻する。これが大日本帝国に限られた話に過ぎないのか、それともルソーの理論が内在的に抱える根本的な問題かは、「一般意志」の絶対性・抑圧性と絡んで、実はなかなか厄介な話である。あるいは大日本帝国の司馬遼太郎史観的な勃興と頽廃の過程は、ルソー理論の射程範囲内の話になるのか。これを理論的な水準で克服するのは、カントやヘーゲルの仕事になるのだろう。

論者を超えた共通点

 さてしかし個人的には、論者による理屈の違いを強調するよりも、共通点を強調した方が実りが多いように感じる。その共通点とは、繰り返しになるが以下の4点である。
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これは古代や中世には見られない特徴的な論理構成だ。

教育学への応用

 なぜ私が社会契約論に共通する論理を剔抉することが実り多いと考えるかと言うと、それがそっくりそのまま近代教育のありようを説明する原理になるからだ。
(1)人間の「自然状態(子ども)」と「社会状態(おとな)」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態(子ども)」を人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態(おとな)」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)教育の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これを認めるにせよ批判するにせよ、「近代」という時代の原理を理解するうえで、政治にも教育にも貫徹する論理を把握しておくことに意味がないわけがない。

渡邉辰五郎(渡辺辰五郎)の研究

日本衣服学会 第76回大会

口頭発表当日資料
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基本データ

【生年】天保15年8月2日(1844年9月13日)(『近代名士之面影』33頁などには弘化元年8月8日とあり、それらに倣ったであろう資料も大量に散見されるが、弘化と改元されたのは12月で、そもそも弘化元年に8月は存在せず、生年は天保15年が正しい。国立国会図書館「近代日本人の肖像」は正確。ちなみに改元に伴う混乱は、嘉永7年の生まれなのに安政元年とされる下田歌子など、そこそこ見られる)。
陸奥宗光、井上毅などと同い年。
【没年】明治40年(1907年)5月26日
【出身】千葉県長生郡長南町

略年表

和暦西暦事項
天保15年8月2日1844年9月13日千葉県長生郡長南町(上総国埴生郡長南宿35番屋敷)に生誕。
嘉永2年1849年母39歳で死去、叔父の家に預けられる。
安政6年4月6日1859年14日本橋区田所町の仕立屋鳥居清吉方に年季奉公。
慶応4年1868年23帰郷し4月から自宅で裁縫する傍ら裁縫教育活動開始。
明治2年186925結婚。
7年187430長南小学校に授業生試補として招かれ裁縫の授業を担当する。
雛形尺 ・袖形 ・褄形を考案する。
10年187733裁縫授業用としては最初のものである「裁縫掛図」を著し、一斉授業を行う。長南小学校助教となる。12月に長男滋誕生。
11年187834千葉県市原郡(現在の市原市)鶴舞小学校の兼務を無報酬で引き受ける。
12年187935千葉女子師範学校校長那珂通世の依頼により、鶴舞の兼務を辞し、同校の教師補となる。
13年188036「普通裁縫教授書」全3巻を著す。後に尋常師範学校用図書の指定を受け、広く使用され30数版を重ねる。
14年188137本郷区湯島4丁目3番地に、私塾「和洋裁縫伝習所」を開設(現在の東京家政大学)。千葉女子師範学校教員を辞し、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)裁縫科教員となる。積り方に算式を用いた「普通裁縫算術書」を著す。
15年188238この年改良服を考案する。全文かな書きの裁縫書、「たちぬひのをしへ」全2巻を著す。
16年188339文部省御用掛を拝命、改めて東京女子師範学校勤務となる。准判任官待遇。
17年188440校舎を本郷区東竹町25・26番地に移転。
18年188541文部省より女子師範学校裁縫科教員免許状受領。
19年188642東京女子師範学校を辞職。共に辞職した宮川保全、那珂通世らと共に、和洋裁縫伝習所内に共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を創設 。女子職業学校は本郷区弓町2丁目に移転 。(その後、更に神田区錦町2丁目1番地に移転)。
20年188743山田美妙らと改良服について討論し、実物を世に出して好評を得る。
25年189248和洋裁縫伝習所を拡張、東京裁縫女学校と改称し官の認可を得る。卒業生の発起により、同窓会発会式を行う。
28年189551大日本女学会創立と同時に講師を委嘱され、通信教育により裁縫を教授する。逝去までの13年間に指導を受けた生徒は約4万名に達する。
29年189652東京裁縫女学校の生徒が100名を超え、東京裁縫女学校の校務に専念するため共立女子職業学校を辞職する。
30年189753「裁縫教科書」全3巻を著す。東京女子高等師範学校校長の依頼により裁縫教授細目三種 を調製
31年189854日本体育会特別賛助会員。千葉教育会と共著の「裁縫教授案」を発行。「婦人改良服指南」を著す。生徒数 400名に達す。
32年189955東京府教育会終身会員。本郷区東竹町34・35番地に土地(277.95坪)と建物を購入、改修 して移転。生徒数800名に達す。
33年190056教授用の「裁縫掛図」を著す。日本赤十字社正社員、12月終身社員。長男滋、東京裁縫女学校幹事補となり渡米留学。その後欧州視察(〜35)。
35年190258第1回教員養成講習会を開く。(5科目6ヶ月間)以後 、明治40年までに計6回開催。長男滋帰国、新式洋服裁縫を教授。
36年190359校歌を制定する。「婦人改良服裁縫指南」が出版される。
38年190561千葉県教育会より教育功労者に選定される。
40年1907635月26日逝去、谷中墓地に葬られる。戒名 真如教厚院鑑照日辰大居士。長男渡辺滋が校長に、那珂通世・坪井正五郎・藍澤昌貞の三氏が相談役に就任。
41年1908渡辺滋編「渡邊先生遺稿 新裁縫教科書」全3巻出版。
43年1910渡辺滋編「渡邊先生遺稿 渡邊裁縫講義 普通部」「渡邊先生遺稿 渡邊裁縫講義 高等部」出版。
44年1911校長渡邊滋の寄付行為により「財団法人私立東京裁縫女学校 」設立。

リンク

渡邉辰五郎・青木誠四郎コレクション(東京家政大学図書館)
近代日本人の肖像 渡辺辰五郎(国立国会図書館)
千葉県長南町役場「郷土の偉人」
渡辺辰五郎(Wikipedia)
キャンパス万華鏡「渡辺辰五郎と裁縫技術」日本私立大学協会

聖地

■生地:上総国埴生郡長南宿35番屋敷(現在は千葉県長南町2550番地):天保15年
■奉公先:日本橋区田所町(現在は中央区人形町)の仕立屋鳥居清吉方
■赴任地:長南小学校(明治2年)校舎=長円寺。小出三平校長。裁縫教授書の執筆。
■私塾「和洋裁縫伝習所」本郷区湯島4丁目 3番地(明治14年)
■移転地:本郷区東竹町25・26番地
■共立女子職業学校:本郷区弓町2丁目→神田区錦町2丁目1番地
■墓地:谷中墓地乙3号2側
■頌徳碑:千葉県長南町、長福寿寺(昭和25年)永野たけ

関係人物

■那珂通世:千葉女子師範学校や東京女子師範学校へ辰五郎を招聘。遺言を託す。
・故那珂博士功績記念会『文学博士那珂通世君伝』(1915年)14頁に、千葉女子師範学校に渡辺辰五郎を招聘した記述あり。
■坪井正五郎:人類学者。辰五郎と親交深い。遺言を託す。
■塩澤昌貞:経済学者。遺言を託す。
■小池民次:千葉県の教育者。女子教育発展に尽くす。
■小西信八:後年までの親友。
■宮川保全:東京女子師範学校の同僚。女子職業学校(共立女子大学)創設メンバー。
■手島精一:女子職業学校(共立女子大学)創設メンバー。
■今村(矢田部)順子:東京女子師範学校時代の教え子(明治17年2月卒業:辰五郎在籍は明治14-19)。明治33年段階では東京女子高等師範学校助教諭。東京女子高等師範学校裁縫教授担当教授。教科書執筆。
■神田順子:東京女子師範学校の教え子。東京女子高等師範学校教授。教科書執筆。
■竹内豊子:東京女子師範学校の教え子。裁縫界の重鎮。
■伏見藤三郎:手芸家。教授法を辰五郎に倣う。
■元田直・岩本善治・山田美妙・弘田医学博士:女子改良服関係者。

著書

渡邉辰五郎・青木誠四郎コレクション(東京家政大学図書館)
※以下に列挙する著書は、こちらの機関リポジトリのデジタルアーカイブで閲覧することができます。

■『普通裁縫教授書 上』明治13年
■『普通裁縫教授書 中』明治13年
■『普通裁縫教授書 下』明治13年
■『普通裁縫算術書』明治14年
■『たちぬひのをしへ1』明治15年
■『たちぬひのをしへ2』明治15年
■『裁縫教科書1』明治30年
■『裁縫教科書2』明治30年
■『裁縫教科書3』明治30年
■『裁縫教授案』明治31年(千葉県教育会と共著)
■『夫人改良服指南』明治31年
■『夫人改良服裁縫指南』明治33年
■『新裁縫教科書1』明治41年
■『新裁縫教科書2』明治41年
■『新裁縫教科書3』明治41年

史料

一次史料

■大日本女学会通信教育(明治28~40)
■「裁縫雑誌」(同窓会誌の役割も)明治36~
■東京裁縫女学校(1906)『東京裁縫女學校一覧』
■小林甚作編(1908)『渡辺辰五郎君追悼録』 東京裁縫女学校出版部
東京裁縫女学校(渡辺滋)編、吉村千鶴子・中川真砂子閲(1908)『新令適用裁縫教授法』東京裁縫女学校出版部
※pp.11-12に渡辺辰五郎の人柄や実践に関する記述あり。
私立東京裁縫女学校(1909)『私立東京裁縫女学校一覧 明治42年』
私立東京裁縫女学校(1911)『私立東京裁縫女学校一覧 明治44年』
寺部だい(卒業生)(1962)『おもいでぐさ 寺部だい自叙伝』
林宏一(2015)「≪資料紹介≫校祖渡邉辰五郎翁の手跡 : その2」東京家政大学博物館紀要 20 149-159
林宏一・鴻池由香里(2013)「≪資料紹介≫ 校祖 渡邉辰五郎翁の手跡」東京家政大学博物館紀要 18 113-120
林宏一(2011)「≪資料紹介≫ 校祖 渡邉辰五郎翁の書簡」東京家政大学博物館紀要 16 185-198
林宏一・高橋佐貴子(2014)「≪資料紹介≫渡邉滋あて坪井正五郎書簡一覧―二代目校長渡邉滋と坪井正五郎―」
※上田万年や沢柳政太郎との関連もあるか。

ヘルバルト主義に影響を受けた裁縫教授書

椙山正弌『新編裁縫科教授法』(渡邊辰五郎による序文)東京裁縫女学校同窓会、明治38年
「裁縫科の教育的価値」において「手工教育」の重要性を説いたうえで、「知育方面、徳育方面及び身体に及ぼす価値」を主張する。pp.8-10
「各学科相互の関係を親密ならしめ統一を保たしむるは品性の陶冶をなし人格を完成するに最も必要なる条件であります」p.11
※明らかにヘルバルト主義の影響
「今日最も汎く行はれて居るのはヘルバルト学派の称導せる五段階教授法でありまして(後略)」p.75

矢田部順子『再訂裁縫教授法』明治42年増補8版<明治41年再訂
普通教育に於ける裁縫科は、生活に須要なる技能を授くるを主とするものなれども、児女心身の発育に意を留め、他の諸学科と相連絡し、相補佐して、教育の成効を期し、中にも徳性の涵養に至りては、特に注意して教授すべきものなるがごとし。」pp.1-2

「教授に二種あり、教育的教授・非教育的教授これなり。(中略)教育的教授とは、その目的これにとどまらで、身体及び心意諸作用の発達に留意し、品性を陶冶せんことを務むるものをいふ。普通教育における教授は、いふまでもなく教育的教授に属すべきものなり。」pp.2-3
※明らかにヘルバルト主義に基づいた記述。

「裁縫科の教育的価値」として以下の項目が掲げられる。pp.17-22
「一、忍耐の気象を養ひ緻密の思想を練る。」
「二、観察思考の力を増す。」
「三、美感を養成す。」
「四、秩序・清潔・整頓等の良習を養ふ。」
「五、節約・利用の習慣を得しむ。」
「本科は女子の教育上、その実質的及び形式的の価値頗る大なるもの(中略)且つ教師は児童各自に接触すること多きを以て、随つて其の個性を認識し得るの機会少からず。」

二次史料

共立女子職業学校(1911)『共立女子職業學校二十五年史』

矢部新太郎編(1914)『近代名士の面影第1集』竹帛社、33-34

木下竹次(1916)『裁縫新教授法』文昌堂

新治韜堂編(1929)『渡辺辰五郎翁伝』渡辺交友会、2009年複製版発行
※伝記の基礎文献。後年の小伝等は、ほぼこの本からの引用。生年についてはこれに先行する諸史料も間違えているものの、それを踏まえた本書から誤りが広がっていると推測する。

木下竹次『裁縫学習法の建設』育英書院、1938年
「我が国の学校裁縫は仕立屋裁縫から発達したものであるが、其の学校裁縫の発達に大なる功労のあつた人は千葉の渡邊辰五郎である。氏は明治七年以来裁縫教授に従事し和服裁縫の研究と其の教授法の改善とに多大の貢献を為した。其の影響は広くて深い。(後略」)pp.5-6

「学級一斉教授の普及に与つて力のあつたのは今村順子(矢田部順子)である。氏の裁縫教授法は明治三十二年の出版で大に世に行はれた。かくて裁縫教授にも所謂五段教授法が行はれたのである。」p.6

「若し裁縫科に依つて人格陶冶ができるならば女子は男子に比して他学科の教授時間が減少して居ても裁縫科に依つて人格陶冶が出来るから敢えて差支が起らぬ様になる訳である。」p.15
「此の如く裁縫生活は人生の七方面に触れて価値生活を為すことが出来るから全人格の育成に参することが出来る。」p.79

常見育男(1940)『創立六拾周年記念 明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』財団法人渡邊学園
※広範囲にわたる極めて重要な史料集成。渡辺辰五郎を先達者として極めて高く評価している。
明治十三年刊行の『普通裁縫教授書』は全三巻すべて裁縫指導の要点指導事項を問答体に記してゐる。(中略)此の問答法は開発教授の一方法である。開発教授は明治十一年高嶺秀夫が外国より帰朝して後伊澤修二と共に東京師範学校にて行つたに始まり、同十六年同校訓導若林虎三郎、白井毅の共著『改正教授術』の刊行に依つて全国に弘まつたものである。此の頃氏は裁縫教授の改善に心を砕いてゐた際であるから、其の問答式教授法は、或は高嶺等の影響もあつたかも知れぬが『普通裁縫教授書』は明治十三年五月の刊行であるから『改正教授術』に先立つこと三年で、全く氏自身の工夫創案とみるべきである。」(18-19頁)
「以上の衣服科又は衣類科の新教科名提唱によつて明瞭なる如く、教育としての裁縫即ち裁縫科其物の本質が不分明である所に裁縫教育上の一大欠陥があるのである。従つて裁縫教育に対する刻下焦眉の問題は裁縫科それ自身の本質の究明にある。今後は裁縫科教師全体がこの根本問題解決のために深刻なる批判を加へることを忘れてはならない。」(82頁)
教授方法の工夫と教科の本質を閑却した所に教育としての裁縫科はない。この点に就て現在の裁縫科教師は静思反省する必要があるであらう。」(87頁)

桑田直子(1998)「『明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』解説」『日本教育史基本文献・史料叢書58明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』大空社

■『創立六十年史』

校祖生誕150年記念誌委員会編集『女子教育の先駆者 渡辺辰五郎と今日の教育』東京家政大学、1994年

仁茂田弘「辰五郎のふるさと長南町」東京家政大学生活資料館『館報』No.22、1994年秋の号

山本悠三「渡辺辰五郎小伝」東京家政大学生活資料館『館報』No.22、1994年秋の号

■長南町教育委員会編『渡邉辰五郎ってどんな人?』長南町教育委員会、2018年

■三友晶子執筆・三友晶子・太田八重美編集『辰五郎と滋の見た明治の衣生活大転換』東京家政大学博物館、2017年

『東京家政大学140年の歩み』

女子職業論史料

■中蔦邦(1993)『近代日本における女と職業』近代女性文献資料叢書、大空社
春陽(1917)『自活の出来る女子の職業』洋光社出版部
鴨田坦(1913)『現代女子の職業と其活要』成蹊堂
伊賀歌吉(1907)『婦人職業論』実文館
菅原臥竜(1906)『新撰女子就業案内 : 附・名家譚叢』便利堂
近藤正一(1906)『女子職業案内』博文館
木下祥真(1905)『女子の新職業』内外出版協会
落合浪雄(1903)『女子職業案内』大学館
福良虎雄(1897)『女子の職業』普及舎

書籍・論文

渡辺辰五郎と和洋裁縫伝習所

神辺靖光・長本裕子(2021)『花ひらく女学校―女子教育史散策明治後期編』成文堂
女子高等師範学校の高嶺秀夫がカリキュラム改革によって文科・理科・技芸科のコース制にしたことに触れた上で、「(前略)技芸科は裁縫・編物・刺繍・割烹・衛生・衣食住・育児・看護・家計簿記等を学ぶコースである。このコースを別名「家事科」と呼んだ。この中で裁縫は一般に重視され、多くは旧来の裁縫師匠の伝統を引きずった教員によって行なわれてきた。天才・渡辺辰五郎によって改革された裁縫教師も居たが、日本全体から見れば少数であった。」p.372

神辺靖光(2019)『女学校の誕生―女子教育史散策明治前期編』梓出版社
※女子教育史全般を扱う本だが、そのうちの一章を「裁縫手芸系の女学校」に宛て、和洋裁縫伝習所について詳述している。また江戸末期から明治期にかけての裁縫教育の状況について、各所で言及している。
「機織をしなくなったというのは、江戸後期にはマニュファクチュアーの時代になって、機織は近郊在地の地場産業化して、江戸市中には機織がなくなっていた。縫い仕事も、専門の仕立屋、ないし寡婦の仕立業があったからであろう。」p.24
「桑を食わせた蚕から糸をとり、布にして立ち縫って着物に仕上げる一連の技術が女のわざ、即ち女功=女工なのである。
 古代・中世のある頃まではそうであった。宮廷、貴族、豪族が生き生きした時代、そこの女性は、この一連の技術を駆使して一族郎党の衣類を調達していたに違いない。しかし時代が下って分業が進むと養蚕と紡績は専門業となり、裁縫だけが家庭の女の仕事として残ったのである。」p.80
「明治・大正・昭和を通じて”お裁縫”は女子教育を語る時、離すことができない言葉であった。良家の娘が近所の裁縫師匠に裁縫を習い、主婦ともなれば家族の衣服を整える習慣は江戸時代に胚胎した。明治期には学校教育で、特に女学校で裁縫が教科の中で重視され、昭和戦前期まで裁縫は普通の家庭の主婦の教養として拡まった。
 明治前期はこれまで個別に裁縫師匠で習った裁縫を学校という集団授業の中でどう学ばせるか苦心した時期である。」p.253
「かくして各地に裁縫女学校ができはじめたが個別指導であった裁縫を学校という一斉授業で行なうようになると特殊の知識技術を持つ教師が必要になる。ここに渡辺辰五郎という天才的教師が現れて各地の女学校、女子師範学校で裁縫を教え、教具教材を作った。渡辺は私立東京裁縫女学校(現東京家政大学)を創立し裁縫教師の養成に尽した。」p.254
辰五郎の長南小学校での取組みを詳述し、「かくして千葉県上総の長南、鶴舞の二つの女児小学裁縫授業は成功裡に進展したのである。明治十二年の「教育令」で「女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ(第三条)」と「学制」の「小学教則」を修正したのは女子ノ裁縫授業が全国的に拡まっていたからである。」p.262
那珂校長が”田舎に残して置くには惜しい”と言った渡辺の才能は学校における裁縫授業の開発であった。これまで裁縫は家庭で母親が教えるか、または裁縫上手な女性が教える裁縫塾(関東でいうお針屋)の個別指導である。ところが、明治になるとこれを学校で、多数の生徒を同時一斉に教えねばならなくなった。大勢の生徒を同時一斉に教えるこの方式に旧来の裁縫塾師匠は対応できなかった。」p.263
「渡辺は明治十年『裁縫掛図』を著した。この掛図は千葉県庁を経て文部省に提出され、教育博物館に陳列された。学校の教具教材が出揃わない時期で、この掛図は珍重された。長南小学校の裁縫一斉授業に立ち会って掛図の有効性がひらめいたのであろう。これ一つをとってみても渡辺のただならぬ直観と思考力がわかる。千葉女子師範学校の教員になってからは『普通裁縫教授書』上中下三冊(明治十四年)、さらに、ここに述べた積り方と裁ち方を理解させるための練習書として『普通裁縫算術書』(明治十五年)を続刊した。布、織物などの生地を人体の部分に合わせて裁つ。その見積もりを計算する。若年の頃の仕立屋修行が役立ったであろうが、それを当時の算術で解き明かした渡辺の才覚は尋常のものではない。これらは最良教科書として全国に普及した。」p.264
「学校で裁縫を教えると言っても裁縫教員を養成するところがなかった。ここに渡辺辰五郎という天才的な裁縫教師が現れて女子師範学校や独自の渡辺裁縫女学校で裁縫の専門教師を養成する。さらに女性の職業的独立を目指した共立女子職業学校の成立によって裁縫手芸の教育は中等教育の一つに位置づけられ、さらに高等専門教育機関としての発展が展望されるようになったのである。」p.286

池田仁美(2016)「明治末期から大正期におけるミシン裁縫教育―シンガーミシン裁縫女学院の教育活動と実物教材の検討―」武庫川女子大学『生活環境学研究』巻 4, p. 56-61
※ミシンを使用した裁縫教育の源流として渡辺辰五郎を評価。本格的な米国式製図による洋裁教育は、渡辺滋から学んだ卒業生矢野元子(主席教師)を介してシンガーミシン裁縫女学院に伝えられた。
「『裁縫教科書』の記述には,「シャツの縫い方」にミシンによる縫製方法の説明がある。ただし,手縫いに完全に代わるものではなく,飾りミシンとしての用途も含まれる。あくまで手縫いを主とし,一部にミシン裁縫を取り入れた裁縫教育である。(中略)同コレクションの民俗文化財調査票からは,明治 30(1897)年に製作された洋服雛形教材の一部に,ミシンによる縫製が確認できた。同コレクションの雛形の縫製方法は,手縫いとミシン縫いが混在していたことから,「東京裁縫女学校」では,手縫いによる裁縫指導からミシン裁縫に完全に移行した訳ではないことがわかる。」p.57
「シンガーミシン裁縫女学院でおこなわれた米国式の製図による洋裁教育は,シンガーミシン社が米国から持ち込んだ物ではなく,ストーン裁断学校で学んだ渡辺滋が「東京裁縫女学校」に持ち込み,そこで洋裁指導に使用した製図法を学んだ矢野によってシンガーミシン裁縫女学院が取り入れたという流れが浮かび上がった。」p.59
シンガーミシン裁縫女学院のミシン裁縫教育の位置づけを川の流れと例えるならば,源流に渡辺辰五郎が考案した裁縫教育法がある。渡辺滋による米国のストーン式洋裁教育の流れがそこに加わり,渡辺式の裁縫教育を受けた秦利舞子が考案したミシンによる縫製を主とした洋裁教育とミシン刺繍の教育が合流し,さらに太い流れとなる。」p.61

中村精二(2012)「渡邉辰五郎の先見性 : 渡邉辰五郎, 那珂通世, 福沢諭吉を通じて見た女子教育」東京家政大学博物館紀要 第17集、pp.39-54
※福沢諭吉の女子教育思想との類似性を評価。

山田民子・寺田恭子・柏原智恵子・富澤亜里沙(2011)「明治時代の水着の復元を通してみた校祖・渡邉辰五郎の洋装教育」東京家政大学博物館紀要 第16集、pp.83-95
※実際の制作過程から渡辺辰五郎の先進性を評価。

櫛田眞澄(2008)『男女平等教育阻害の要因―明治期女学校教育の考察』明石書店
※渡辺辰五郎の業績を「経済的自立」の観点から高く評価。
彼は右記のような信念のもとに、女子一般のために、職業的訓練を行う私塾「和洋裁縫伝習所」を創設することになった。この学校の創設の目的は、裁縫の職業訓練であったため、職人養成と同様な厳しい技術指導がなされていた。したがって、この学校の出身者は、順次各地において、裁縫塾を経営し、あるいは小学校・女学校の裁縫教員として巣立ち、経済的に身を立てることになった。彼は職業訓練を表面だって論じなかったが、明らかに職業教育を実践していた、と言える。」221頁
「両校に共通して重要なことは、女子に対して裁縫技術による職業的訓練を与えて「経済的に自立」させること、すなわち女子に「自活」の道を得させることをめざして、学校を設立し、経営に当たった点である。(中略)技術の伝授と修得によって、女子を「経済的に自立」させるという両校の教育は、「良妻賢母」的家庭婦人の要請を目的とする「高等女学校令」に適応するものではなかった。それ故に、両校は明治・大正期を通して長期間にわたり、女学校という各種学校の格づけと、その扱いに甘んじていた。しかし職業上の資格を求めて入学を希望する者は年ごとに増加し、学校経営上の生徒募集には苦労がなかった。これは女子中等教育としての職業伝授を目的とした両校の設立と実践活動が、時代的に意義が大きかったことを意味している。」240頁
国家による改革ではなく、庶民の側からの改革は、後の女子の職業的進出を先取りし、モデルを提示したところに意義があった、と考える。」245頁
渡辺辰五郎自身が丁稚制度の基で裁縫技術を身につけた男性であり、職業訓練は、正確さと美しさが要求され、職人的技術の習得と熟練には、男女間に性別による区別はない。この二校の設立者たちは、女子が経済的に独立できないことを哀れに思った。そのため当時多くの女子が家族のために身につけていた裁縫技術を「手段」として利用し、技術の厳しい訓練を実施し、技術時代を高度化して、職業として金銭を稼ぎうる裁縫技術を身につけさせることにより、女子を経済的に自立させていた。これは、女性だから裁縫を、というジェンダー的特性論ではなく、あくまでも経済的独立の「手段」のためであり、両校の設立者の建学の精神には技術面における女子特性論は現れていない。」308頁
両校に共通する点は、女子に対して裁縫技術による職業訓練を行い、経済的に自立させることであった。女子を「経済的に自立」させるという両校の目的は、良妻賢母を目的とする「高等女学校令」に反するものであったため、長期間にわたり各種学校の格づけのままであった。」312頁
しかし明治期における和洋裁縫伝習所および共立女子職業学校の職業教育により、女性の能力は少しずつ開発され、無能者扱いにされていた女性の人権が、社会において次第に認められる契機となった。「人間的自立」の視点および「男女平等」の視点から見るとき、女性の「経済的自立」は、自立項目の中でも、特に重要な要素である。」319頁

高野俊(2002)『明治初期女児小学の研究 : 近代日本における女子教育の源流』大月書店(376.2/Ta47 )
※極めて重要な先行研究。渡辺辰五郎の千葉県での実践を高く評価している。
「第五章で詳しくみる千葉県の渡辺辰五郎、あるいは宮城県で活躍した朴沢三代治、この二人の適任者を得たことは女児小学の具体化と発展にとって非常に大きなファクターであった。」20頁
「行政主導型の女児小学の特徴というのは、積極的に裁縫を導入したということである。その点では先にも触れたが宮城県に朴沢三代治、千葉県に渡辺辰五郎がいて、文明開化の時期にこのような二人の専門家がいたということが非常に重大な事実であった。これは歴史の偶然性というよりは歴史の必然性が、その時代が必要とする人間を生み出すという事例だったといえるのではないだろうか。」28頁

新福祐子(1992)「家庭科教員養成に関する研究-渡辺辰五郎による裁縫教員養成-」大阪教育大学紀要 第II部門:社会科学・生活科学 第41巻 第1号、pp.11-32
※大正期「専門学校」の高度な教育内容を評価。

二見剛史(1988)「女子教育に関する史的研究ー裁縫女学校を中心としてー」科研費。※「研究成果の一部は、教育史学会第32回大会(於和洋女子大学・63年10月)で口頭発表し、鹿児島女子大学の『研究紀要』に論文として収めた。なお、「女子教育関係文献資料目録ーー裁縫女学校の部ーー」を編集、印刷した。」
二見剛史(1989) 鹿児島女子大学研究紀要. 10. 155-177

中川浩一(1986)「共立女子職業学校裁縫科主任中川とう–ある女教師の数奇な生涯」 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)35,  1-10
※明治17(1884)年入学生のライフヒストリー。自立した女性として成長した卒業生が新たに学校立ち上げに参加する様子などが具体的にわかる。
→中川九郎編(1927)『中川とう子刀自記念録』中川九郎

高野俊(1983)「明治初期の女子教育と千葉県の裁縫教育」和洋女子大学『大學紀要』 第1分冊, 文系編 24 45_a-23_a
※学制期女子教育の発展過程(特に千葉県)の分析を背景に、渡辺辰五郎が開発した教授法の近代性を高く評価。
【問】明治9年千葉県『女児小学教則』の裁縫に関する規定はそうとう先進的だが、これに明治7年以来の渡辺辰五郎の実践がどれくらい反映しているか?

岡通子(1981)「渡辺辰五郎の近代的裁縫教育」高橋春子編『女性の自立と家政学』法律文化社、70-90頁
※全体的にはマルクス主義的な社会科学の観点から、特に「女性労働」の社会科学的位置付けの理論に基づいて既存の家政学の方向性とイデオロギーを批判し、女性の社会進出について考察する。
「近代市民社会の成果は、具体的には、近代的家族の生みだしたものだと、フーリエは考えていた。かれは、近代が「人格の解放をもたらす」というが、この「人格」の内容も家族にほかならないのであった。」(155頁)]

高野俊(1978)「明治初年における渡辺辰五郎の裁縫教育」『私学研修』No.79

樋口哲子(1970)「わが国における被服教育発展の様相(第1報)明治期の裁縫教授法(1)」日本家政学会編『家政学雑誌』編 21 (7), 40-47
※裁縫教育全体の流れを踏まえ、渡辺辰五郎の実践を特に「雛形」と「問答」の面から分析し、高く評価する。
「第 1 期 (30年 以前)教授書 の一般的傾向は、梅村たか著、岩間恵美他著上巻の一部を除いては、ほとんどが実際指導の具体的記述である。(中略)第2期(30年以後)の教授書の傾向は、理論的な面の研究が進み、教育の原理 、教育思潮と密着して、目的、意義、教育的価値、他教科との関連、教授方法(教授案、教式)教授細目、施設・設備、教便物などしだいに体系化されていった。」p.452
当時、教授したことのたしかめに問答法を用いたことは文部省年報にも見 られるが、問答体で書かれたこの「普通裁縫教授書」が広く普及した背景には教育思潮の影響が考えられる。」p.456
「明治近代学校教育初期における裁縫教授法は、従来からの個別教授にすぎなかった。一斉教授の導入、庶物指教・開発主義を基本とする欧米教育思潮の導入・普及・学校制度の拡充などを背景 として、朴沢氏、渡辺氏は、他教科同様の一斉教授を可能とすべ く裁縫教授法の工夫案出に貢献し、分解教授、雛形教授、積もり裁ち(計算による)、教便物(掛図)、問答法による教授形態を案出した。これらの工夫は、両氏の多年の経験と研究によるもので、実際指導の面における工夫であり、教授法の理論的価値づけの段階 には至らなかった。一般人のもつ封建的女子教育観は根深く、学制当初の女子就学率は15%程度にすぎなかったが、裁縫教育を重視することによって徐々にその数を増していった。こうした中で両氏の教授法は、門下生によってしだいに伝えられ、第2期において検討され、さらに新しい教育思潮と密着した裁縫教授法へと発展する素地となった。そればかりでなく、今日の被服教育になお生きており、被服教育の基礎を確立したことにおいて偉大な貢献をしたといえる。 」p.457

尾中明代(1971)『黎明期の洋装とミシンについて (第4報)―明治の女子教育と裁縫教育― 』東京家政大学研究紀要 11、1-9
※渡辺辰五郎と和洋裁縫所に対する考察の他、明治36年に制定された渡辺女学校の校歌に関する言及あり。

■平塚益徳/編著(1965)『人物を中心とした女子教育史』帝国地方行政学会

裁縫関連

清重めい(2023)「明治・大正期の裁縫教育における教育的価値づけの変化 : ドイツ新教育の受容に着目して」東京大学大学院教育学研究科紀要 62 15-23
「女子教育の整備が進む明治30年代より以前には,裁縫の教育的意義が深く言及されてこなかった」17頁
「明治後期から大正期にかけては裁縫教育論で教育的価値がより意識されるようになり,裁縫は徳性の涵養に資するといった視点があらわれる」18頁
「今村の裁縫教育論において裁縫は,ただの技術修練ではなく子どもの心身の涵養にも資するものとして位置づけられ,広く受容されていた」18頁
「1905年版以降の今村は,裁縫教育を普通教育の中で捉える,すなわち児童生徒の人格陶冶が教育全体の目標としてあるとすれば裁縫教育がそれにどう資するかを考えていた。」18頁
「教育的教授とは,知識・技術の伝達にとどまらず「身体及び心意所作用の発達に留意し,品性を陶冶せんことを務むるもの」38)のことを指した。」18頁
「明治20年代以前と異なり,女子教育への関心の高まりも相まって,裁縫教育における教育的意義への言及が増えた。その中で,縫製の技術・知識だけでなく,裁縫を通した女子の人格形成全般が期待されるようになり,裁縫の教育的意義が拡張された」21頁
「裁縫教育史は従来,日本における教育史あるいは女性史の中でのみ語られてきたが,上述のような今村によるライへの言及をみると,裁縫教育は,新教育からの影響,特にドイツ新教育に位置する筋肉運動主義並びに労作教育からの影響を受けていたと指摘できる。」21頁
「ライは,手指を動かすという行為そのものを重視し,知識伝達だけの教養的修養ではなく,身体活動を伴う学習に価値を見出す考え方を促した。それを踏まえた小西の労作教育思想は,裁縫を通した女子の人格陶治を目指した裁縫教育実践家たちにとって,受容しやすい思想だった」22頁

江端美和(2022)「ミシン技術の系統化調査」技術の体系化調査報告書31集
「産業革命により、家庭内での生産性を伴う女性の仕事であった糸紡ぎ、機織りの作業は生産効率の高い工場生産に変わり、衣服製作だけが家庭内に残り、縫製は家庭内における数少ない製品生産手段として貴重な作業となったのである。」pp.6-7
「衣・食・住は人間の文化と生活を担う最も基本的な三要素であるが、衣文化が家庭内に残ることにより家庭内文化における衣服製作の重要性が増し、ミシンがその大きな担い手として、女性の経済的基盤を創出し、労働負荷軽減により余暇を生み、女性の地位や権利の確立に大きな役割を果たしてきたことは、ミシンがいかに「産業革命の失敗作」と揶揄されようとも、ミシンに携わる人々にとって大きな誇りとなっている。」p.7
「軍服を中心とする制服、軍需縫製品は輸入に頼れず、このような生産現場では輸入ミシンが盛んに使われ、このミシンのメンテナンス部品の製造、修理・調整を行なう職業が成り立ち、これに対応した人・技術がミシンの国内生産の基礎となった。」p.10
「今井又三郎は 1877 年 8 月に上野公園の 3 万坪を会場にあてた「第 1 回内国勧業博覧会」に “縫製機械(ミシン)”を出品しており、彼が日本人最初のミシン製造者と考えられる。佐口鉄蔵は 1881 年 3 月開催の「第 2 回内国勧業博覧会」にミシンを出品し、有功賞状と賞牌を授けられている。」p.10
「それまでも和裁洋裁を問わず裁縫の重要性を認識し、1881 年頃
から渡辺辰五郎、鳩山春子、堀越千代らにより女子の為の学校が設立され、被服製作を家政学の一つに据える活動がされていたが、別行動とは言えこの様な活動にシンガー社の潤沢な資金が投入されたことで、被服製作が家政学の柱となり、被服製作の技術の習得が「良妻賢母」の必須条件となっていった。」p.10
「明治時代の日本は、一般社会でのミシン需要はほとんどなく、軍服、制服の生産工場のミシン需要は「工業用ミシン」の範疇にあり、ドイツからの輸入が大勢を占めた。」p.19

■額賀せつ子(2020)「茨城県の裁縫学校の始まりと女子中等教育に与えた影響 : 太田裁縫学校と小坂部裁縫女学校をとおして」おおみか教育研究

■アンドルー・ゴードン(2013)『ミシンと日本の近代―消費者の創出』みすず書房

佐藤和賀子(2013)「朴澤三代治と裁縫教授用掛図」仙台大学紀要44 (2), 59-71

■三好信浩(2012)『日本女子産業教育史の研究』風間書房

田中陽子(2011)「小学校裁縫科における裁縫と手芸の統合的扱い」『日本家庭科教育学会誌』54巻 2 号,pp.108-117

■田中陽子(2010)「『裁縫』から『被服製作』への展開過程における裁縫と手芸」『相愛大学研究論集』26巻,pp.125-139

島立理子(2008)「石造物にみる裁縫師匠一幕末から明治の千葉県を事例として一 」千葉県立中央博物館研究報告 人文科学10 (2): 75-82
※幕末から明治初期にかけての裁縫師匠の具体的な様子が分かる。単に裁縫の技術だけでなく「婦徳」も扱っていたことが分かる。渡辺辰五郎への言及あり。
裁縫教育の父と呼ばれる渡辺辰五郎も、裁縫師匠のひとりであった。」p.79

■島立理子(2004)「針供養の変容と裁縫を教える場の終焉―千葉県佐原の事例から―」『千葉県中央博物館研究報告―人文科学―』8-2、pp.25-42

■島立理子(2003)「『まち』の裁縫所―その特色と役割―」日本民具学会『民具研究』128号、pp.45-62

島立理子(2001-2002)科研費「「裁縫所」からみる近代の女子教育」
「明治時代半ば以降に各地に設立された裁縫女学校では、裁縫を数学や国語と同じ一つの教科とするために、一斉教授法などの工夫が行われ、それが全国に広まっていった。また、裁縫教育は、良妻賢母主義の教育を担うという側面もあった。こういった教育を受けた裁縫所の師匠も数多くおり、町場の裁縫所ではこういった時代の影響を受けた教育が行わる事もあった。しかし、町場、農村部を問わず、その教育内容の多くやそのあり方は、人々の生活に根ざした裁縫や日々の生活に必要な知識を教授する場といった性格を有していた。」2001 実績報告書
「特に全国の裁縫所の師匠を多く排出した東京の渡辺裁縫女学校、仙台の朴沢学園関係の資料を収集するとともに、同校の生徒が学校の授業の際に製作した雛形について調査をおこなった。その結果、これまでの研究では「雛形の渡辺、部分縫いの朴沢」と言われていたものが、朴沢でもかなりの数の雛形を授業の中で製作していたことがわかった。」2002 実績報告書

■島立理子(2000)「『むら』の裁縫所」千葉県立房総のむら『町と村調査研究』第3号

■島立理子(1999)「ひながたにみる明治末千葉県佐原の裁縫所」神奈川大学日本常民文化研究所『民具マンスリー』pp.7169-7180

■田中陽子(2005)博士論文『小学校裁縫科教育の歴史』

田中陽子(2004)「小学校裁縫科における洋裁教育推進の背景:大正後半期から昭和戦前期を中心にして」『日本家庭科教育学会誌』47巻1号,pp.38-47

田中陽子(2003)「大正後半期から昭和初期小学校裁縫科教材論」『日本家庭科教育学会誌』46巻3号,pp.207-215

田中陽子(2003)「大正自由教育の小学校裁縫科教授法への影響と限界」『日本家庭科教育学会誌』46巻2号,pp.103-113

■三好信浩(2000)『日本の女性と産業教育 : 近代産業社会における女性の役割』東信堂

田中陽子(1999)「明治・大正期の小学校裁縫科における洋裁技術の受容:和裁への適応」『日本家庭科教育学会誌』42巻3号,pp.17-23

田中陽子(2000)「裁縫・大正期の小学校裁縫科教授法(第四報):手工科教授との関連」『日本家庭科教育学会誌』43巻3号,pp.193-198

田中陽子(1999)『明治・大正期の小学校裁縫科教授法(第3報):大正期の裁ち方教授』『日本家庭科教育学会誌』43巻3号,pp.185-192

田中陽子(1999)「明治・大正期の小学校裁縫科教授法(第二報):教授法重視の影響」『日本家庭科教育学会誌』42巻2号,pp.39-45

田中陽子(1999)「裁縫・大正期の小学校裁縫科教授法(第一報):裁縫科教授定型過程と 実践上の問題」『日本家庭科教育学会誌』42巻 2 号,pp.31-38

■桑田直子(1998)「市民洋装普及過程における裁縫科の展開とディレンマ̶成田順の洋裁教育論を中心に̶」『教育学研究』65巻2号,pp.1-10.

田中陽子(1997)「明治期の裁縫教授書類における教授媒体としての「図」」『北海道教育大学紀要第二部C家庭・養護・体育編』47巻2号,pp.309-315

野田満智子(1997)「那珂通世による家事教育創設の取り組み』」日本家庭科教育学会誌 40 (3), 9-15

野田満智子(1996)「井上毅による高等女学校規程「家事」の起草過程」日本家庭科教育学会誌 39 (2), 33-38

田中陽子(1996)「明治期における小学校の和裁教育:教授書・教科書よりみた内容および方法」『日本家庭科教育学会誌』39巻3号,pp.1-6

田中陽子(1996)「明治期における小学校「裁縫科」の教材配列」(『北海道教育大学紀要第二部C家庭・養護・体育編』47
巻1号,pp.1-6

■伊藤瑞香・永野順子(1994)「明治時代の中等教育における裁縫科の内容分析:高等女学校を中心として」『日本服飾学会誌』13号,pp.10-19

伊藤瑞香・永野順子(1993)「明治時代の家庭科教育で取り扱われた裁縫科の学習内容 : 初等教育」和洋女子大学『和洋女子大学紀要. 家政系編』巻 33, p. 145-165

伊藤瑞香・永野順子(1992)「家庭科教育における裁縫学習の変遷-教育政策の推移-」和洋女子大学『和洋女子大学紀要. 家政系編』巻 32, p. 163-175

植村千枝(1992)「日本の学校教育における裁縫ミシンの導入 : 北海道地区の開拓にかかわって」日本家庭科教育学会『日本家庭科教育学会誌』35 巻 1 号 p. 59-65
※渡辺辰五郎と洋裁の関係について言及あり。

中込省三(1982)『衣服産業のはじめ』国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告

■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-女子不就学対策と裁縫教育-」『家政学雑誌』32巻7号,pp.31-36)

■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江戸・明治両時代における裁縫教育を中心として-」(『家政学雑誌』32巻 1 号pp.11-24)

■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江
戸時代における女子教育と裁縫習得の実態-」(『家政学雑誌』32巻5号,pp.34-46)

■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-「府縣教則」よりみた裁縫教育の実状について(明治8~9年)-」『家政学雑誌』32巻5号,pp.47-51

■関口富左(1980)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江戸・明治両時代における裁縫教育を中心として-江戸時代における市民生活と女子」『家政学雑誌』31巻10号,pp.46-55)

尾中明代(1967)『黎明期の洋装とミシンについて (第3報)』東京家政大学研究紀要 7、55-64

尾中明代(1966)『黎明期の洋装とミシンについて (第2報)』東京家政大学研究紀要 6、21-28

尾中明代(1965)『黎明期の洋装とミシンについて (第1報)』東京家政大学研究紀要 5、41-50
※幕末維新期に洋装が一般化していった過程。
「文久2年の武家服制改革によって,調練には戎服と称する筒袖,細袴が次第に用いられるようになり,地質も木綿に代って羅紗,呉紹などの毛織物が用いられるようになった。これら戎服着用の武士が現われるにつれて,服を修理する仕事も多くなって,足袋職人や仕立物職人,袋物師らは戎服裁縫を兼業したり,専業の職人に転業する者もあった。従って幕府でも慶応年間にはいってから,横浜からミシンを仕入れることとなって,ミシン裁縫が次第に行われるようになるのである。 」p.44
「また慶応3年にオランダから帰朝した榎本武揚は,軍艦乗組員用の戎服を作るために,横浜から羅紗や,ミシンなどを大量に購入している。このようにミシンの必要が高まるとともにミシンが輸入されはじめ,その広告などもみられるようになった。」p.44

千葉女子師範学校関連

■(1981)『千葉大学教育学部百年史』
■(1983)『千葉県教育百年史』第一巻

教育史一般(女子教育・産業教育)

■小山静子(2023)『高等女学校と女性の近代』勁草書房

三好信浩『教育観の転換―よき仕事人を育てる―』風間書房、2023年
※渡辺裁縫学校には触れていない。女子の産業教育に関して各種学校の果たした役割が大きいことに言及する。
「産業分野に限らず、日本の女子教育全般に果たした各種学校の役割は大きい。」p.62

三好信浩『日本の産業教育―歴史からの展望』名古屋大学出版会、2016年
※渡辺裁縫学校に関する記述はないが、共立女子職業学校を大きく取り上げて、女子職業教育の展開に関しては若干ネガティブな評価を下している。
これまでの日本の近代女子教育史の研究物は、高等女学校の教育を中心にしてきたうらみがある。しかし、産業教育の指導者たち、例えば工業教育の手島精一、農業教育の横井時敬、商業教育の渋沢栄一らは、高等女学校に不満を抱き、よりいっそう産業社会に密着した教育を求めてきた。」p.287
日本の職業学校がこのように産業から遠ざかった理由は多々あるであろうが、その一つとして共立女子職業学校の先例がモデルにされたことも考えられる。同校は、一八八六(明治一九)年という早い時期に宮川保全を中心とする有志によって各種学校として設置された。岩本善治の『女学雑誌』のごときはその企図を美挙として逐一紹介記事を載せた。」pp.271-272
日本の女子職業学校の先進校である共立女子職業学校が裁縫と並んで技芸を重視したこと、中等学校の裁縫科または裁縫手芸家の教員養成をしたことは、戦前期の女子の「職業」の範囲を区画したものと言えよう。」p.272

小山静子編『男女別学の時代―戦前期中等教育のジェンダー比較』柏書房、2015年
※裁縫に関する記述は特になかった。

■三好信浩『日本女子産業教育史の研究』風間書房、2012年

■稲垣恭子(2007)『女学校と女学生』中央公論社
■新福祐子(2000)『女子師範学校の全容』家政教育社

小河織衣(1995)『女子教育事始』丸善ブックス
※裁縫教育・実業教育や渡辺辰五郎への言及はなし。

■小山静子(1991)『良妻賢母という規範』勁草書房
■片山清一(1984)『近代日本の女子教育』建帛社

深谷昌志(1981<1966)『増補良妻賢母主義の教育』黎明書房
※学制期における女子教育について、「文部省日誌」「文部省年報」記載の各県教則を分析したうえで、A型「男女同一教則」B形「男女とも教則は同じであるが、女子には家庭科が付加される。」C型「原則として、男女同一教則であるが、一定の時間、女子には家庭科を与え、それに相当する時間、男子に別の教科を教える。」D型「同一教則の形をとっているが、家庭科以外の内容も性によって異なる。」E型「男女別教則」の5類型に分類し、明治8年当初はA型が多かったものの、明治12年にはA型が減少し、E型が増加していることを明らかにした(48頁)。その上で、民間では裁縫や手芸のニーズがあったものの、現実的には地方に行くほど具体的な設置が進まず、表面的な現象として男女同学となっていたと分析している。逆に東京や大阪など都市部では男女別学になっている。(48-54頁)
「このような傾向を総合すると、各府県では学生初期より性によって教材をちがえ、特に裁縫、手芸を女子に課する必要を認めていた。しかし、女教員不足や施設の不備のために、結果として、男女共通教育の現象が現れたと考えられる。そして、財政的な基盤が弱く、しかも、多くの課題をかかえた各県では、他の事業をさしおいて、裁縫室を作るほど女子教育に強い関心を抱いていなかった。」(54頁)
「女子中等教育については法的な規制がないだけに、一定のモデルに従って女学校作りをする必要はなかった。したがって、地域によっては、明治以前から自生的(Voluntary)に発達していた裁縫塾を、積極的に公教育にとり入れる試みがなされていた。その代表例が京都府で、先にふれた京都女学校のほかに、明治六年二月の柳池女紅場、三月の初音女紅場以下、明治八年には市内だけで一九の女紅場が設置された。」(74頁)
初等教育では、明治14年の小学校教則綱領の施行に伴って、「全体としては、文部省の教則に準拠して、教則中の作文、習字、図画から各一時間をさいて裁縫にあてる方法がとられている。そして、学制初期のような県による相違を認めることはできなくなった。」(85頁)
小学高等科では、「教則の上では、中等科以上の小学課程に女子用教材が加えられることになった。しかし、のちにくわしくふれるように、裁縫科、家庭経済の設置は、教員、施設の不足から、名目だけで実施されることはなかった。」(85頁)
「西村茂樹は、学習院女子科での経験から、裁縫一つをとりあげても、上層は仕立てを他人に頼むのだから必要なく、下層は立派な着物を作らないので不必要だ。裁縫が必要なのは、ひととおりの着物が必要だが、それを自分で縫わなねばならない中層ではないかと、階層に対応した教育の必要性をといている。」(明治31年、164頁)
「日清戦争、条約改正、産業革命を契機として、女子に対する国民教育の必要が生じた。そして伝統的な儒教志向型の女子教育思想は、家庭内での規範を国家的規模に拡大し、性差を本性の相違にすりかえて、上下関係をあいまいにし、体制イデオロギーとしての正当性を獲得するに至る。しかも、性差の協調は、ナショナリズムと無縁の民衆にも受けとめやすい、歓迎すべき傾向であった。また為政者側も、女子労働者の増加に対するアンチテーゼとして、また、底辺の女子をもリードしうる女性の鑑を設定し、国策を底辺に伝達する中間溝として、中間層の女子に、純度の高い女子向けの教育――良妻賢母主義教育――が強調されるに至る。」(165頁)
[明治30年代]「この頃、各地方の主要都市には裁縫塾と家塾を統合した形の女学校が発生しており、その底辺に無数の無名の裁縫塾が存在していた。新設高女は、これら各種学校と一線を画した女学のリーダーでなければならない。各種学校では民衆の教育要求を受けとめて裁縫を中心とした主婦学を、やや組織化された学校では主婦学に女礼を加えて儒教的な権威づけを行なっているだけに、高等女学校はナショナリズムとのゆ着に独自性を求めざるをえず、これが校長の積極的な態度をもたらしたと考えられる。」
[明治29年訓令十二号]「この時期となると、家塾を発展させて、女学校形式をとるものが登場する。」(ex.三輪田女学校、成女学校、跡見女学校。194頁)
このように、女学塾から高等女学校へ変質する学校がある一方で、裁縫塾から女学校へ体質改善を図る学校もあった。たとえば、和洋裁、礼法、点茶、生花、造花、刺しゅうの六科を教科として、本郷に設立された和洋裁縫伝習所は、明治二十九年、東京裁縫女学校と改称、上記の科目のほかに、修身、教育、家事、習字の四科を加え、普通教育学校への一歩を踏みだしている。」(史料は渡辺学園『創立五〇年史』、195頁)
「このように、私立女学校の有力校は高等女学校令に積極的に準拠して、私立学校の中での最上位の地位を確保、大規模な裁縫塾は私立女学校に体質を変え、私立女学校の間にも、上は高等女学校から下は裁縫塾までの段階づけが行なわれはじめた。」(196頁)
「このような動き[※高等女学校長会議]と並行して、明治三十四年から、私立女学校に対する視学の巡視が開始され、強力な行政指導が行なわれた。たとえば、明治三十四年十二月、日本女学校、渡辺裁縫女学校に、
「建築物建直し、又は教室を増築するまで、生徒を収容する事を禁ずる」(135)
旨の指令が発せられた。」(史料135は「教育時論」明治35年3月5日48頁「私立学校取締」、198頁)

常見育男(1971)『家政学成立史』光生館
 東京家政大学の前身である「東京女子専門学校」について、「旧女子専門学校の家政家庭の名称の推移」の節で、57-58頁に簡略な記述がある。渡邊辰五郎の著書についての言及もあるが、家政学の成立に関して大きな役割を果たしたとは考えられていない。

常見育男(1959)『家庭科教育史』光生館<増補版1972年
 江戸時代の裁縫教育に関して「裁縫を習うことは修養の一切を意味した」と見出しを付けた上で以下のように述べる。
「江戸時代に女子の使命を説いたものは、すべて裁縫を習うことが大切であるから、これに上達すべきことを強調している。当時の女子教育思想は、裁縫を習うことが大切であると強調はしているが、裁縫の技術だけが上達すればよいとしたのではない。裁縫を習うことによって得られる女子としての躾の大事であることをも強調している。(中略)将来一家を主宰すべき女子としての修養を積む便宜として、裁縫を学んだ。要するに、たちぬいは針業の道に精出すことが、当時の女子教育の教授内容のすべてであり一切であった。」50頁
 しかし一方で「女訓物においては裁ち縫いの業が女子の修養上で大切な要件であるとしているが、いかなる意味合から裁縫が女子に大切なのか、この点から裁縫の本質を明瞭に規定したと思われる資料は比較的い。」46-47頁としつつ「女訓物において裁縫が大切であるとしたのは、単なる実用的意味からではなく、女性の家族に対する愛情と犠牲奉仕の心の贈物としての裁縫であった。」47頁と分析する。
「江戸時代において女子が裁縫を習うことは、単に裁ち縫いの技術の上達を目指したのではない。女子としての大切な一切の躾を積むためであり大切な修養をするためでもあった。(中略)思うに当時の学習の方法は、今日の如く生活と学習とが離れ離れになっておらないで両者がぴったり一致していた。生活の中に学習があり、学修の中に生活があった。」69-70頁

「裁縫女学校型の女子教育機関の代表的なものは、明治十三年設立の仙台の松繰裁縫塾(後の松繰女学校)と明治十四年設立の東京の和洋裁縫伝習所(後の東京裁縫女学校)の二校である。前者は朴沢三代治、後者は渡辺辰五郎の設立にかかる裁縫塾で、両人とも明治裁縫教育史上の先覚者であった。この両裁縫塾には文字通り全国津々浦々から入学希望者が集まり、その卒業生がおのおの郷里に帰って裁縫塾や裁縫女学校を興し、女子教育史上に偉大な貢献をした。」109頁
東京女子師範学校について「明治十四年七月那珂通世が同校校長に任ぜられた。同校長は家庭科に対しては高い見識を持ち、その教育の実施に対して創意創見の企画を実現するところがあった。たとえば前任地千葉県師範学校においては田舎の位置小学校裁縫科教師であった渡辺辰五郎を見出して、千葉県女子師範学校の裁縫教員に抜擢し、裁縫科教育の面目を一新し、更に東京女子師範学校長に転任後は再び渡辺を迎えて同校裁縫教授を担当せしめている。渡邊辰五郎は現在の東京家政大学の前身の学校の創立者であり、本邦家庭科教育史上の一大先覚者であった。」119頁

■東京都(1961)『東京の女子教育』東京都公文書館
■常見育男(1938)『日本家事教育発達史』創元社

教育史(人物)

実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』勁草書房、2021年
※下田歌子は女子のための職業学校設立を目指したり、自立のために手に職をつけることを推奨している。

泉雅博・植田恭代・大塚博著『跡見花蹊―女子教育の先駆者』ミネルヴァ書房、2018年
※跡見女学校は基本的に伝統絵画や書道を軸とした良妻賢母主義教育を行っていたが、大正期には女性の職業的自立を推奨する文章も見られる。

女性労働史一般

山崎明子(2023)『「ものづくり」のジェンダー格差』人文書院
「手芸を学ぶ過程は、その多くが技術の修得に費やされるが、手芸の言説は技術に言及することはあまりなく、女性の精神性――婦徳・高尚優美など――ばかりが語られる傾向にある。(中略)こうした考えは近代女子教育のなかでは広く認識されており、裁縫や手芸は、忍耐、綿密、節約、清潔を必要とするものであり、これらの何か一つでもかけては完全な制作品はできず、またこれらは家政に不可欠な徳だと考えられていた。つまり裁縫・手芸は女子の徳を育て、また徳が身につかなければ裁縫・手芸はできない、どこまでいっても針仕事と婦徳は相互に不可欠なものとみなされていた。」38-39頁

濱貴子(2022)『職業婦人の歴史社会学』晃洋書房
 1920年代~30年代の女性労働状況について量的質的に明らかにする。裁縫については大規模な市場化はされておらず、内職・副業として成立している様子がうかがえる。

論点

明治維新時の動向

辰五郎1868年1月に長南町に帰郷。このとき京都で戊辰戦争勃発。
辰五郎1868年4月に裁縫塾開始。このとき江戸は無血開城。
1868年7月~12月にかけて長南宿の浄徳寺が知県事務所。上総安房知県事=柴山文平(久留米藩士)。

洋服について

「辰五郎がいつ、どこで洋服の仕立てを学び、服装文化に関わる着装の約束事から生地、デザイン、裁断、縫製とも和服とは全く異なる洋服の知識や仕立方を身に付けたのかは今のところ明らかではない。」『女子教育の先駆者 渡辺辰五郎と今日の教育』p.5

開発教授との関係

 常見育男(1940)と樋口哲子(1970)が、渡辺辰五郎『普通裁縫教授書』における問答法の意義について触れている。はたして問答法は辰五郎の独自創案によるものか、あるいは何かしらからの影響を受けたものか。神辺靖光(2019)は「掛図」や算術を用いた教科書の画期性については言及するものの、問答法には触れない。
 たとえば明治10年には内国勧業博覧会が開催される他、各地で博覧会が開催されているが、何かしらの影響はあるか? たとえばなにかしらの「掛図」そのものは、明治10年8月に上野に開館した教育博物館で展示されているはず。

人格教育との関連

 清重めい(2023)は、辰五郎の教え子がより直接的に裁縫教育を人格形成に寄与するものと考えていたことについて言及している。
 一方、櫛田眞澄(2008)は、辰五郎の意図はあくまでも職業教育に専念したものであり、それゆえに主に経済的な観点から女性の自立に結びつくものだったと高く評価している。