学習指導要領(平成29年版)に対する原理的批判

批判的な吟味

 学習指導要領(平成29年版)の目玉キーワードは、「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」です。この方針で本当に教育や学校は良くなるのか、教育原理的に考えてみましょう。

教育課程を社会に開いて大丈夫か?

「社会」とは何か?

 実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。
 そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか?

学校選択制と「社会」

 この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなるわけです。
 「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。(そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。)

local communityの問題

 また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではありません。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
 このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。

global marketとlocal communityの間

 だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。
 文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。

カリキュラム・マネジメントは可能か?

PDCAサイクルのCHECKについて

 仮にカリキュラムをマネジメントすることが教育実践の質を高めるとしたら、PDCAサイクルを確立することは確かに必須の手続きと言えるでしょう。そしてPDCAサイクルの質を大きく左右するのは、CHECK(評価)のあり方です。CHECKに利用されるべき指標は、学習指導要領や解説に言明されているわけではありませんが、「全国学力・学習状況調査」が想定されているのは間違いないように思われます。実際、カリキュラム・マネジメントの実践報告では、しばしば「全国学力・学習状況調査」の点数の上昇が実践改善の指標として示されています。
 しかし「全国学力・学習状況調査」は、カリキュラム・マネジメントのCHECK指標として本当に意味があるでしょうか? この疑問に対する教育原理的な反省が欠けているとき、PDCAサイクルは前提から破綻している可能性があります。そして、「悉皆調査」という方法がCHECK指標として役立たずの可能性が高いことは、様々な学者が指摘しているところです。「全国学力・学習状況調査」を「C」に据えてPDCAサイクルを構想することは、実は前提からマネジメントが破綻している可能性が高いことを疑ってよいでしょう。
 翻って、安易に「全国学力・学習状況調査」に依拠せず、独自のルーブリックを作成してCHECK指標としているカリキュラム・マネジメントの実践は、常に教育原理的な問い直しに開かれて、前進の可能性に満ちているように見えます。魅力的な取り組みが全国的に行われています。

マネジメントの権限

 マネジメントで有効活用するべき「資源」としては、大雑把には(1)金(2)物(3)人(4)時間の4つの領域が考えられます。一般企業であれば、(1)資金を調達し(2)環境を整え(3)有能な人材を集め(4)工数を区切るというマネジメントの方向性は見えやすいでしょう。
 しかし学校においては、(1)金と(2)物についてはあらかじめ条件が定まっており、校長の自由にできるわけではありません。この領域でマネジメントを行うのは教育委員会の仕事です。また校長は、(3)人についても自由にマネジメントできるわけではありません。自分の頭を飛び越えて割り振られた人材を、研修などで育成し、組織を構築するくらいしかできません。勢い、目先で改善できることは(4)時間のマネジメントくらいだということになってきます。委員会の数を減らしたりとか、会議の時間を減らしたりとか、会議を立って行うなどして、5分10分の時間を捻出するという涙ぐましくセコい努力が積み重ねられることとなります。民間企業の華々しいマネジメント(ITCが整備された機能的な会議室や、明るく働きやすいオフィスの改造など)との圧倒的な落差にガッカリです。
 校長のリーダーシップの下で行うスクール・マネジメントは、一般企業のマネジメントとはかなり勝手が違うことは踏まえておく必要があるでしょう。一般企業で蓄積されてきたマネジメントのノウハウが、そのまま学校で機能するかどうかは、極めて怪しいわけです。特に「教職の専門性」という要素を考慮に入れないスクール・マネジメントは、おそらく容易に破綻するでしょう。

学校民営化?

 それでは、校長先生に学校をマネジメントする権限を大幅に与えてみましょうか。たとえば金もモノも人も自由に調達する権限を校長先生に与えてみたとしましょう。銀行から資金を調達したり、提携企業から寄付金を募ったり、授業料を独自に徴収したり、教員免許を持たない人材を自由に雇ったり。そして銀行から資金を調達するためには、どんな「学校目標」だと受けがいいか、想像してみます。学力を上げて進学実績を作る、あるいはプロスポーツ選手を大量に送り出すなどでしょうか。どちらにせよ市場経済の意向と噛み合った目標となるはずです。それは「人格の形成」を目指す教育ではなく、「カネになる」ようなスキル獲得を目指す教育です。それはもはや現在の公教育とはかけはなれた学校です。というか、学校ではなく「塾」とでも呼んだ方がいいものになっています。
 そして実際、臨時教育審議会以降、学校選択制や中高一貫教育の拡大など、教育の市場化は確実に進行しています。学校へのマネジメントの導入も、市場化傾向の一つであるとも考えられます。このマネジメント万能の傾向が行き着く先には、公教育の解体、学校の民営化が待ち受けている恐れがあります。本当に教育はそれで大丈夫なのでしょうか?

「学び」はマネジメントできるのか?

 仮に学校はマネジメント(運営)できるとしましょう。実際、学校はマネジメントなしでは成立しません。マネジメントが破綻した私立学校は潰れるし、マネジメントが破綻した公立学校は税金の無駄遣いです。しかしだからといって、その内部で行われる「学び」そのものをマネジメントすることは本当に可能なんでしょうか。仮に「学び」をマネジメントできるとして、そこで言われている「学び」とは具体的に何を指しているのでしょうか。たとえば教育の目的が「人格の完成」だとして、本当に「人格の完成」をマネジメントすることなどできるのでしょうか? 個人的には、「人格の完成」がマネジメントできるなどと、無条件で信じることはできません。「人格の完成」は、マネジメントの領域を超えたところでしか起こりえないものだと思います。逆に、マネジメントできる「学び」とは、その程度の範囲をカバーしているだけでしょう。学習指導要領がマネジメントしようとしている「学び」という言葉が、そもそも具体的に何を指しているのか、その射程距離はどれほどなのか、しっかり吟味されなくてはなりません。
 マネジメントでできることとできないことは、教育原理的な観点からしっかり見極めておく必要があります。その上で、マネジメントで改善できることはどんどんやればよいでしょう。逆に、原理的にマネジメントできないことをマネジメントの領域に組み込もうとすると、必ずおかしなことになります。現在のPDCAサイクル万能感に対しては、本来はマネジメントできない領域にまでマネジメントを要求しているように見えるので、不安を感じざるを得ません。「人間とは何か?」とか「教育とは何か?」を真剣に考えていないのに「PDCA!」ばかりを主張する人々は、企業経営は得意かもしれませんが、教育ができるとはとても思えないわけです。