「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【愛知県東浦町】於大公園と宇宙山乾坤院

 徳川家康の母親於大の方が生まれたのが東浦にある緒川城で、現在は於大公園として整備されています。公園の南西に、緒川を治めた水野家の菩提寺、宇宙山乾坤院があります。

 境内は他の寺とは随分異なった趣で、不思議な羅漢像がたくさんあります。みんな宇宙を向いています。

 宇宙を指さしていたり、頬杖を突いて宇宙を見ていたり。

 片膝ついたり寝転がったりして宇宙を見ています。

 境内には水野氏四代の墓所と、先祖を顕彰する堅雄堂があります。於大の方は、初代忠政の娘です。於大の兄の信元は水野家当主でしたが、謀反を疑われて信長と家康に誅殺されることとなり、こちらには葬られておらず(墓所は緒川と衣浦湾を挟んだ対岸の刈谷楞厳寺)、乾坤院に葬られているのは水野忠善に連なる忠守流水野家の四代です。水野忠善は最終的に岡崎藩主となり、幕末まで幕政の要衝を占めます。天保の改革を主導した水野忠邦(唐津藩から浜松藩・山形藩に転封)も、こちらの家系です。ちなみに忠善以降の当主は、下総結城に墓所があります。

 立派な建物ですが、2016年に火事で焼失してしまったとのこと。写真は2011年のものです。もっと撮っておけばよかった。

 堅雄堂の脇には初代忠政の石塔。こちらも火災に遭ってどうなっているのか。

 乾坤院の東南には、宇宙稲荷大明神があります。不思議な響きの名前の神社ですが、まあ「宇宙」という単語はもともと『日本書紀』からworldの意味で使われていたりして、近代以後のuniverseとかcosmosの翻訳語としての意味は持っていないはずです。

 桶狭間合戦時に水野氏は緒川城と刈谷城を支配しておりますが、両城の立地条件を考えると、どうしても水野氏が水軍を運用していたとしか考えられません。戦略的に重要な衣浦湾を制圧していた水野氏の役割は、桶狭間合戦時にも極めて重要だったはずですが、実はイマイチ何をしていたかよく分かっていません。織田と今川に挟まれて戦略要衝である衣浦湾を押さえていた水野氏が何もしていないわけがありませんが、水野信元が誅戮されて水野氏がいったん断絶した際に重要史料が散逸してしまった可能性が高いところです。もしも史料が残っていたら、衣浦湾から三河湾さらに伊勢湾にかけての水軍の状況が分かり、鵜殿氏の動向に関するヒントもたくさんあったのではないかと推測されるだけに、残念なところです。
(2011年8月訪問)

【東京都文京区】於大の方が眠る伝通院は新選組(の前身)結成の地

 徳川家康の母、於大の方の菩提寺伝通院は、東京都文京区にあります。春日通り沿いにあって、池袋から東大本郷キャンパスまで自転車で通っていた頃は、いつも脇を通り過ぎておりました。

 2023年に訪れた時、境内にはまだお正月の雰囲気が残っておりました。

 伝通院は、まずは於大の方の菩提寺として知られています。2013年に訪れた時には地元の方に「てんつういん」と濁らず発音するんだと言われましたが、於大の方の実家刈谷では問題なく「でんづういん」と濁って発音しますので、個人的には東京の方が邪道だと思います。今後も「でんづういん」でいきます。

 於大の方のお墓は、とても立派です。が、江戸時代中期以降の墓はもっとド派手になっていて、境内のバカでかい墓を見た後だと、ちょっと地味に感じます。

 於大の方生誕の地、愛知県東浦町による案内パネルも設置されております。

 境内には、他にもたくさんお墓があります。11代将軍家斉の子どもの墓がたくさんあります。家斉は53人の子どもを設けたにも関わらず、無事に成人できたのは28人だけだったと言われております。ここには、成人に至らずに亡くなった子どもの墓があるようです。

 教育学的には、江戸時代の乳幼児死亡率に関わる話や、子どもの埋葬に関わって、注目すべき事例です。ここまで死亡率が高かったのは、一説には大奥の子育て法に問題があったと考えられております。

 さて、この伝通院、実は新選組の前身である「浪士隊」のセレクションが行なわれた場所としても知られております。近藤勇、土方歳三、沖田総司などはこのセレクションを通過して京都に向かい、後に新選組として活躍することになるわけですが、そのセレクションを行なった側に「鵜殿鳩翁(長鋭)」という人物がおります。山岡鉄舟と一緒にセレクションをしておりますので、もちろん幕臣です。セレクションの後、近藤勇などと共に、というか取締役として京都に向かいますが、聞いていたのと話が違うということで辞職して、江戸に帰ってきます。問題はもちろん、清川八郎にありました。

 清川八郎のお墓も伝通院にあります。清川八郎は尊皇攘夷思想に傾いていて、つまり幕府の方針に逆らっていたのですが、幕府を出し抜いて浪士隊の結成に成功し、京都に入ります。しかし近藤勇や土方歳三など佐幕のつもりで浪士隊に入った立場としてみれば、清川八郎が「本当の目的は攘夷だ!」なんて訴えても、ただの詐欺にしか聞こえません。京都で袂を分かち、佐幕の近藤や土方は改めて新選組として行動することになります。清川八郎は江戸に戻ってきて、幕府の刺客に暗殺されます。鵜殿鳩翁は無事に江戸に戻り、日米和親条約締結時にはペリーの対応係を務めるなどしますが、一橋慶喜についたために大老井伊直弼に安政の大獄の一環で処罰されています。

 ほか、明治をメインフィールドとする教育史学者として見逃せないのは、杉浦重剛の墓です。明治初期から中期にかけて官立学校の校長を務める他、教育学関連の本をたくさん書いていて、明治教育史を語る上でのキーパーソンの一人です。

 江戸から明治まで激動の歴史の舞台となってきた伝通院も、今は境内で子どもが縄跳びをするなど、のどかな空間になっています。いつまでも平和であってほしいものです。
(2013年5月、2023年1月訪問)

【愛知県刈谷市】於大の方ゆかりの椎の木屋敷

 愛知県刈谷市は私の故郷で、祖父の家が刈谷城のすぐ傍にありました。徳川家康の母親がここで過ごしたということも子どもの頃からよく聞かされていたもので、於大の方はここで生まれ育ったものだとすっかり思い込んでいましたが、実は衣浦湾を挟んだ対岸の緒川が成育の場だったと知るのはずいぶん後のことです。

 現在の刈谷城の東にある「椎の木屋敷」は、松平広忠(家康の父)に離縁された於大の方が、再婚までの間を過ごした屋敷です。現在は公園として整備されています。

 公園は西側に開けており、谷を挟んで刈谷城を臨めるほか、衣浦湾の向こうには生まれ故郷の緒川も見えるようなロケーションです。

 江戸時代には神君の母ゆかりの地ということで一般庶民がおいそれと足を踏み入れられるような場所ではありませんでしたが、明治維新で徳川の権威が地に落ちた結果、いまでは私でも簡単に立ち入ることができます。

 公園内には於大の方の石像もありますが、せっかく西側が開けていて生まれ故郷の緒川が臨めるロケーションにも関わらず、完全に反対側の東の方を向いております。

 刈谷の東は、もちろん岡崎です。
▼「椎の木屋敷跡」(刈谷市)
▼「於大の方の由緒の地 椎の木屋敷跡」(刈谷市観光協会)
(2023年1月訪問)

【愛知県岡崎市】大樹寺で厭離穢土欣求浄土

 徳川将軍家と松平家の菩提寺として知られている大樹寺に行ってきました。立派な三門です。

 三門をくぐって180°回れ右をして南側を向くと、大樹寺小学校の校庭の向こうに総門が見え、さらにその総門の向こう3km南に岡崎城が見えます。写真ではピントが合わずによく分かりませんが、肉眼だと見えてます。

 岡崎城から大樹寺までの3kmは、矢作川の作る扇状地でゆるやかな登りになっています。大樹寺からは岡崎城を見下ろす形になるので、よく見えます。三代将軍家光が、大樹寺から岡崎城が臨めるように伽藍を整備したそうで、大樹寺と岡崎城を結ぶ3kmの直線を現在は「ビスタライン」と呼んでおります。

 境内は膨大に広いわけではありませんが、清潔感あふれる心地よい空間です。

 岡崎高校に通っていたので、「大樹寺」という名前そのものはバスの行き先としてよく聞いていたのですが、実際に訪れることはまったくありませんでした。岡崎市内の繁華街からはずいぶん北にあるので、高校生の時は特に用事がありません。

 前回訪問は10年前の2013年でしたが、そのときには存在しなかった家康像が本堂の脇に鎮座しておりました。

 家光が夢に出てきた家康を狩野探幽に描かせた像を元にデザインされているようです。

 沿革を見ると、創建は応仁元年(1467)年に松平親忠(第4代)にかかるものとのことです。歴史上名高いのは、桶狭間合戦の後、大高城から逃げ帰った家康が大樹寺に籠もって自害しようとしたエピソードです。

 時の住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の教えを説いて自害を思いとどまらせたほか、祖洞和尚が門から閂を引き抜いて奮戦したエピソードは、若き家康伝では必ず登場します。

 500円の拝観料を払うと、まず外陣まで入れます。入る価値があります。金色の柱に「厭離穢土・欣求浄土」と書いてあります。ただし「欣求浄土」のほうの「土」には点がついているのが注目ポイント。

 「厭離穢土・欣求浄土」は、穢れた戦乱の世を終わらせて天下泰平の世を目指そうという願いを込めた言葉で、徳川軍の旗印にも描かれ、家康の天下統一までのキャッチフレーズとなります。
 ところで個人的にずっと気になっているのは、「江戸」と「穢土」の発音が通じているということです。歴史学者の本郷和人先生は、家康はもちろん江戸から穢土を想起していたはずだが敢えて改名しなかった、と唱えています。史料はありませんが、まあ、ありそうなことだと私も思います。

 500円を払った人だけ、さらに庫裏に進んで屏風絵を干渉したり、貫木のご神木を拝めたりしますが、ハイライトは徳川将軍歴代位牌の間です。撮影禁止なので、写真はありません。

 徳川幕府歴代14代の将軍の位牌が安置されていて(15代慶喜だけは神式で葬られているので仏式の位牌がありません)、ポイントはその位牌が全て等身大で作られている(という寺伝がある)ところです。確かに8歳で亡くなっている第7代将軍家継の位牌は135cmと小さく、等身大というのもナルホドだと思うのですが。問題は第5代将軍綱吉の位牌が124cmということです。どういうことか。
 本当かウソかというところでいえば、個人的にはウソの可能性が高いと思っています。本当に低身長だったとすれば、当時の文献資料等に記録されないわけがないと思うからです。特に生類憐れみの令に絡んでアンチが多かったので、本当に低身長だったとすれば、どんなに権力側が箝口令を敷こうとも、どこかで言及されないわけがないと思うのです。そしてウソだとすれば、後にアンチ綱吉が悪質な嫌がらせをした、ということになります。アンチがたくさんいたので、あり得る話だと思っています。一方、大樹寺の位牌が正しいと考える人たちもたくさんいます。もちろん大樹寺は、124cmが正確な身長だったということを前提に展示の解説をしています。何が本当かは、今となってはまったく分かりません。

 さて、境内には松平8代の墓もあります。

 案内パネルによると、大坂の陣の後に、家康が先祖の墓を再建したとのことです。江戸時代中期以降はどんどんお墓が巨大化していくので、それと比べると、この松平家8代の墓は素朴な感じに見えます。

 ちなみに写真で一番手前に見えるのが家康の墓ですが、これは昭和44(1969)年になってから勧請したもので、江戸時代にはなかったものです。
 しかしまあ、松平初代親氏の来歴が極めて怪しく、家康が家柄ロンダリングをした疑いが濃厚なところですが、大樹寺を創建した4代親忠(安城松平家)は間違いなくこの地で大きな力を振るっており、三河では松平諸家と鵜殿家の争いが続きます。松平家と鵜殿家の争いに決着がつくのは1562年、桶狭間の2年後のことになります。
(2013年8月、2023年1月訪問)

【愛知県岡崎市】岡崎城

 岡崎城に行ってきました。2023年の大河ドラマ『どうする家康』で賑わっているかと思いきや、天守閣と三河武士の館は1月上旬段階では工事中でした。

 まあ、高校は岡崎高校に通っていたので、城自体は見慣れたものだったりします。知立から名鉄本線に乗り換えて、進行方向左手に天守閣が見えたら「もうすぐ東岡崎駅だ」という感じ。

 とはいえ、線路を挟んで高校と反対側にあったため、わざわざ岡崎公園まで足を運ぶ機会はそんなになかったような気もします。

 大手門が復元されたのは1993年で、私が岡崎高校を卒業してから2年後のこと。あまり馴染みがない風景だったりします。

 東照公産湯井。まあ、家康が生れた時にはもちろん高石垣や天守閣なんてものはなく、土の城でした。

 本丸はさほど広くないのですが、所狭しと神君絡みの石碑が立ちまくっています。

 まあ、関ヶ原後に家康が作ることになる名古屋城とか丹波篠山城は、真っ直ぐすぎる縄張が人工感バリバリで個人的にはあまり好きではないのですが、岡崎城は自然地形の高低差を活かしたテクニカルな作りになっていて、中世の面影を感じます。空堀もなかなかワイルドです。

 二の丸はけっこう広く、江戸時代はここが政庁の中心だったのでしょう。今は各所に石像が建ちまくっています。この「しかみ像」、昔はなかったような。(2007年に設置のようでした)。現在の歴史学では「しかみ像」みまつわる定説エピソード自体が怪しいとされていますが、そもそも岡崎城ではなく浜松城の出来事ではあります。

 家康像は浜松、静岡、東京などにもたくさんありますが、この銅像はけっこうオーソドックスな印象です。

 本田忠勝の像も。桑名にある像も立派でしたね。

 ちなみに2011年4月に岡崎公園で行なわれた「グレート家康公「葵」武将隊」結成イベントの現場に私もおりまして、その時は東日本大震災直後でテンションが低かったせいもあって「いつまで続くのかな」と思ったものの、メンバー交代を経つつ、現在も頑張っているようです。今後も岡崎を盛り上げていってほしいです。

(2011年4月、2023年1月訪問)