【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
 それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

 「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

 まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
 とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

 ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
 しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
 同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年