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【要約と感想】リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒』

【要約】ヨーロッパの中世は暗黒時代などではありません。カトリック教会が科学を弾圧したというのは皮相的な見方で、近代の科学的思考を準備したのは信仰と理性を調和させようとした神学的営為です。
 12世紀にアリストテレスの思想が再発見されたのは偶然ではありません。ヨーロッパの知的水準がアリストテレス思想を受容する用意が調ったのが12世紀ということです。中世のアウグスティヌス、アベラール、カタリ派異端、トマス・アクィナス、オッカム、エックハルトなどが、それぞれ固有の課題を持ってアリストテレス思想を受容したり対峙したりしながら、西洋中世は一貫して信仰と理性を協調させるべく科学的・合理的な思考様式を鍛え上げていきます。
 しかし近代の入口で、資本主義的価値観を正当化しようとしたトマス・ホッブズのような人物がトマス・アクィナスと共にアリストテレスを葬り去ることによって、中世の知的営為が忘却され、理性と信仰が分離し、西洋中世は暗黒時代と見なされるようになります。しかしいま再び、理性と信仰の統合について創造的な仕事が求められています。

【感想】章ごとに主人公が交替していくが、どの章も活き活きと個性が描かれた主人公と非凡なライバルとの対決が非常にエキサイティングで、おもしろく読んだ。それぞれの章(時代)に固有の課題が簡潔かつ明確に示されつつも、最初に提示されたモティーフが最後までブレない一貫して筋の通ったストーリーで、最後まで飽きずに読みとおせる。言ってみれば「ジョジョの奇妙な冒険」の第一部から第八部までのおもしろさに通じるような、この種の本としては異例のエンターテイメント性を備えているのではないか。(だから逆に言えば、純粋な学術的にはそういう部分をさっ引いて判断しなければならない)。

 ドミニコ会とフランシスコ会の違いとその間の確執については、とても勉強になった。それぞれの会派については摘まみ食いしていてなんとなくイメージはしていたのだが、そのライバル関係について時代背景も含めて具体的に記述している文章は実は初めて読んだ。勉強になった。

 ただし専門的に気になるのは、エピクロス派の扱いだ。本書は後の近代科学に連なる思想の源泉を全てアリストテレス(およびそれに対する反応)に帰しているが、私としてはエピクロス派の唯物論と社会契約論の思想の方が遙かに近代的な発想に類似しているように思っている。実際にルネサンス期にはエピクロス派のルクレーティウスの本がよく読まれている。アリストテレスやトマス・アクィナスを葬ったとされているトマス・ホッブズの社会契約論は、エピクロス派の思想に影響されているかもしれない。エピクロスやルクレーティウスに言及しないで科学的思考の展開を説明しきるのは、少々乱暴のような気はする。
 まあ本書は明らかに、現代の新自由主義的思想が公共性の基盤を掘り崩している危機的な現状を、近代の自由主義的思想(ホッブズが代表)が公共性の基盤(トマス・アクィナスが代表)を掘り崩した過去になぞらえ、読者に警告を発することを隠れテーマとしているので、エピクロス派を無視するのも勉強不足ではなく意図的な戦略なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】集合的人格と個性と三位一体
 一人一人の人格を超えて集団があたかも一つの人格を構成するような集合的人格(エヴァンゲリオンの人類補完計画のような)について言及し、さらにそこから「個性」が剔出される過程を描いていて、私のライフワークにダイレクトに関わる話をしていたので、サンプリングしておく。

「ここに至って、中世ルネサンスの思想家たちが普遍論争にあれほど熱中した理由が明らかになってくる。中世以前のキリスト教徒は自身を一つの人種――単なる生物学的な種ではない道徳的な種――のメンバーとみなすよう、教えこまれていた。この種はその霊においても運命においても完全に一体化しているので、彼らの始原の父母であるアダムとイヴが犯した罪を一人一人の人間が直接負っている。「真実在」の普遍たる人間という観念は、一人一人の人間の違いは本質的でも重要でもなく、場合によっては救済の障害にさえなることを、暗に意味していた(中略)。ヨーロッパの伝統的な社会体制も、個人を軽視する傾向を助長した。なぜなら、ある人物の個性など、彼または彼女が農民や聖職者や貴族等の社会階層のいずれに属しているかということに比べれば、取るに足りないことだったからだ。ところが、いまや、古代のプラトン主義の氷が溶け始めたのだ。大多数の人々は依然として、いかなる世襲グループに属しているかによって限界づけられていたとしても、一部の人々は従来の枠組みから脱け出そうとしていた。放浪する学者やトルバドゥール、貿易業者や十字軍兵士、巡歴説教師や地方から都市に移住する人々――これらすべての人々が、新しい意識を育みつつあったのだ。そう、いかなる階層に属していようと、重要なのは自分の個性なのだという意識を。」205-206頁

 そしてこの記述からすぐさま「三位一体」の話に繋がっていく。

「キリスト教の神はただ一つのペルソナではなく、父と子と聖霊という三つのペルソナを有しているが、中世ルネサンスの人々はその三つのペルソナすべてに熱烈な関心を寄せていた。創造主としての神はあまりに神秘的で想像を絶していたとしても、十二世紀のキリスト教徒は父なる神に正義を期待した。彼らは子なる神を愛し、あたかも彼らが磔刑に処せられたばかりであるかのように、彼のために悲しんだ。そして、すでに始まっている偉大な復活を象徴する聖霊、すなわち慰め主に彼らの望みを託したのだ。」207頁

 非常に興味深い。ただし、三位一体の思想が「個性」という観念の源であるとまでは言っていない。坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』は三位一体の思想に対する神学的な深まり(4~6世紀)が「個」の誕生にとって決定的に重要だったと説いているのだが、本書ではむしろ十二世紀の社会的・経済的変動を重要な背景と考えているようだ。その意味では阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』が個性誕生の瞬間を13世紀に見ている見解に近いのかもしれない(ちなみに阿部もキリスト教の三位一体が個の思想誕生にとって重要な背景だと示している)。
 このあたり、本書の論理展開は残念ながらあまり明快ではない。アベラールにとって三位一体思想がどういう意味を持っていたかは詳細に追究されるものの、西洋の「個性」という観念とどう絡むかについてはそれほど深掘りしてくれていないのだった。まあ、それが中心的なテーマというわけではないので、ないものねだりではある。

【個人的な研究のための備忘録】光
 キリスト教における「光」についての言及が気になった。というのは、コメニウスの教育思想の理解に関わってくるからだ。

「ベーコンをはじめとするフランシスコ会士にとって、超自然と自然とを結ぶ架け橋、宗教的経験の領域と科学的実験の世界とを結ぶ架け橋は「光」だった。(中略)「あらゆる哲学の精華」たる数学という鍵によって鍵を開かれる宝の箱は――のちに光学と呼ばれるようになるが――ベーコンの時代には「遠近法」と呼ばれていた光の科学だったのだ。」325-326頁
「ドミニコ会から見てもっと重大な問題点は、フランシスコ会士による光の霊化がはなはだしく時代に逆行していることだった。この点でフランシスコ会はアリストテレスから大きく後退していた。アリストテレスは光をある種の実体の特性とみなすにとどまり、純粋な形相とか霊とはみなしていなかった。ましてや光を、光ほど霊的でない自然の事物を動かす力とはみなしていなかった。アルベルトゥスとその若き盟友のトマス・アクィナスの見るところでは、光を普遍的な原因とみなす理論は――しょせん実験や観察によって立証できない神秘主義的な信念に過ぎないがゆえに――科学的営為を個々の原因を探求するものから、超自然的な相互関係を試作するものへと変容させてしまった。彼らはまた、人間の知解は神の「証明」によってもたらされるという説にも同意せず、それはむしろ、創造者が人間に天賦の能力として授けた理性によってもたらされると主張した。ロジャー・ベーコンらフランシスコ会士に属する教師たちは、アリストテレスの著作を講義し、アリストテレスの用語によって彼らの理論を構築した。けれども、彼らがよって立つ基盤は新プラトン主義的な神秘主義であり、それは物質と霊という時代遅れの区別を復活させた。」328-329頁

 コメニウスの活躍した時代はこの記述から400年ばかり遅れることになるが、ロジャー・ベーコン(およびフランシスコ会士)の言う「光」の論理は即座にコメニウスを想起させる。あるいは、コメニウスが関わっていたとされる薔薇十字会は、フランシスコ会士ロジャー・ベーコンの「錬金術」と「占星術」から影響を受けていることも分かっている。コメニウスはヤン・フスの系列に連なる神学者としてプロテスタントに位置付けられているが、実はその神学がフランシスコ会士のような修道思想(あるいはさらに東方キリスト教)に由来する何かだったりする可能性はあったりしないか。

【個人的な研究のための備忘録】ヨーロッパ中心主義
 自文化中心主義とトマス・ホッブズの位置づけには、なるほどと思ってしまった。ホッブズを読む時には、この観点を忘れないようにしたい。

「自文化中心主義者というものはそのタイプを問わず、おのれが属している文明は、その一部たりとも「ほかの文明」の思想の産物ではなく、完全に独力で創造されたと信じたがるものだ。アリストテレス革命を歴史から抹殺することは、西欧文明がより進んだイスラーム文明から非常に大きな恩恵を受けたという事実を隠しおおす役に立つ。だが、過去を抹殺することは、そのほかにもさまざまな形で、ヨーロッパの新しい時代のリーダーたちを利していたのだ。アリストテレス主義的キリスト教は、カトリック教会の権力を粉砕し、教会による教育資源の独占を終わらせたいと願うものたちすべてにとって――すなわち、国民国家の世俗統治者や、改革派教会の指導者や、新興の実業家階層や、科学を重視する知識階級にとって――大きな障害だった。だが――ここが当惑を禁じえないところなのだが――これらのエリートたちが排除しようとしていたのは、カトリック教会の政治的・組織的権威そのものではなく、カトリック教会が自然法や「正義の戦争」という類の概念を用いて繰り返し人々に教えこみ、押しつけようとしてきた道徳的な束縛だったのだ。」478-479

 この記述は、明らかに現代の状況とシンクロしている。16世紀にはナショナリストと自由主義者が結託して教会の排除に動いたが、現代ではネオ・ナショナリストと新自由主義者が結託してリベラルの排除に動いている。おそらく私の深読みではなく、著者がだれにでも分かるようなアナロジーとして強調して書いている。まあ、そういう政治的意図を抜きにしても、西欧の歴史(あるいは日本の歴史も)を正確に理解する上で「自文化中心主義」のバイアスをかいくぐる技術が重要であることは間違いないだろう。

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』ちくま学芸文庫、2018年<2008年

【要約と感想】森安達也『東方キリスト教の世界』

【要約】カトリック(西方教会)とは異なる伝統や教義を持つ東方キリスト教について、巡礼・神秘思想・建築・イコン・儀礼・異端などを詳述しています。

【感想】御多分に漏れず、東方キリスト教と言えば私も馴染みがあるのはお茶の水にあるニコライ聖堂くらいで、西方から見た偏った知識しか持ち合わせていなかったわけだが、実際には東方キリスト教にもいろいろあることがよく分かった。勉強になった。印象に残るのは、神化を目指して山に籠もり修行に励む隠修士の姿だ。日本で言えば修験道の山伏のような感じか。
 印象としては、カトリックの方が弱者救済に焦点を当てる大乗的な姿勢を示すのに対し、東方教会は修道士などの個人的な修行による「神化」を目指す小乗的な傾向を示しているように思えた。カトリックがビザンツ的な文化を蔑むのは、大乗仏教の壮大な宇宙論を学んだ正統派僧侶が無学な修験道山伏のスピリチュアルな言動をバカにするのと似ているような感じがする。カトリックはイエス・キリストを人間には手の届かない絶対的な無限遠に置くが、東方キリスト教はお手本となる先達だとみなす。それは仏教でいえば、絶対に手の届かない「如来」と手の届く「菩薩」の違いに当たりそうだ。そして、14世紀ヨーロッパの神秘主義(主にエックハルトを想定)は、この東方キリスト教の修験道的な文化に影響を受けているのではないかとも思ったりした。
 で、「個」に関する思想史では、東方キリスト教の理論が「個の誕生」に極めて重要な役割を果たしたという研究があるが、だとしたら大乗仏教に対する小乗仏教の論理も同じような機能を果たすこともあるのではないかとも思ったりするわけだ。さてはて。

【個人的な研究のための備忘録】神化への傾向
 いわゆる「三位一体」論のうちの父と子についてはなんとなく分かるような気がするものの、日本人にとってまったく理解できないのは「精霊」というものの存在と意味と役割で、これまで私以外にも「精霊についてサッパリわからない」という言質をたくさん得てきたわけだが、本書でもは精霊の意味不明さの原因に触れている。

「精霊論は古代教会の時代に徹底的に議論されなかったつけが中世以降にもち越されたわけである。」30頁

 とはいえ、西方カトリックよりは東方キリスト教の方が精霊に対する理解と尊敬は深いようで、それが小乗的な「神化」の思想にも繋がってくるようだ。

「東方の修道士が厳しい修行と禁欲生活を身に課してひたすら求めた自己完成とは、限りなく神に近づくことであった。異端とされたキリスト単性論が東方であれほど根強く信奉された理由も、自己完成の目標ともいうべき模範、キリストに少しでも近づきたいとの願望からキリストの完全なる神性を特に重視したことに求められるであろう。」91頁

 このような「神化」への憧憬が、一般教養を旨とする学問の発達を阻害するのかもしれない。

「教育思想は意外に扱いにくい問題である。その理由はいくつか挙げられる。まずビザンツ帝国の教育の実態があまりわかっていない。首都コンスタンティノープルに大学と称すべき高等教育機関が存在したことは疑いないが、それに関する直接史料は現存しない。(中略)
 次に、ビザンツ文化は神秘思想家は多数生んだが、教育思想の面ですぐれた著作家を輩出していない。(中略)こうした著作家の作品分析を通じてビザンツ時代に特有の教育思想を抽出することは多大の困難を伴うし、またあまり意味がない。」72-73頁

 個人的な修行を通じての「神化」という傾向が東方キリスト教にあるという補助線を引くだけで、いろいろな事象がすっきり見えてきそうな気がするのだった。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスとの関連
 イタリア・ルネサンスを多面的に考える上でのヒントもあった。

「東方におけるラテン語の衰退は西方におけるギリシア語の忘却とほぼ軌を一にする。これは考えてみれば奇妙な現象である。ギリシア語にしろラテン語にしろ有力な文化的背景を持ち、通用語としての衰退は理解できるものの、政治と文化の領域においてはけっして無視しえない重要な言語のはずである。結局、ビザンツ文化そのものが本質的には内部に留まる、すなわち求心的なものであったからかもしれない。」77頁

 いや、本当に、「奇妙な現象」だ。地理的にもただアドリア海を挟んでいるだけなのに、どうしてカトリックとビザンツはこんなにも交流が絶たれたのか。あるいは両者の間に位置するヴェネツィアやナポリやシチリアが実は地政学的に何かしら決定的に重要な役割を果たしていたということか。

「ヘシュカスモスをめぐって教会が論争に明け暮れた十四世紀は、他方ではパライオロゴス朝ルネサンスの名で知られるヘレニズムへの回帰がおこった時代でもある。(中略)
 しかしパライオロゴス朝ルネサンスの灯が消えたわけではなかった。著名な異教的哲学者ゲミストス・ブレトンはフェララ・フィレンツェ公会議に参加したのちイタリアに留まり、フィレンツェのプラトン・アカデミアの創設に尽力した。ブレトンはイタリア・ルネサンスの展開に大きな足跡を残したわけである。」94-95頁

 ビザンツ帝国からイタリア・ルネサンスへの影響は各所で語られているが、実は具体的に詳しい実相はさほど詳らかになっていないように思う。

【個人的な研究のための備忘録】近代以降の東欧の教育
 スラヴの教育に関わって気になる記述があった。

「オストロクスキ公は、イエズス会の教育活動をまのあたりにして、正教徒の教育の必要を痛感し、教会スラヴ語の聖書(いわゆるゲンナディイの聖書)を刊行するほか、1580年にはオストルクに正教徒のための最初のコレギウム(神学校だが一般教育をも行った)を開設した。」233-234頁
「そこで信徒団に学校開設の許可をあたえ、出版事業のためにイヴァン・フョードロフの印刷機を買わせた。」234頁

 オストロクスキ公とは、キーフ付近と西ウクライナ・リトアニアに領地を持った大貴族だ。もちろん教育学者として気になるのは、この時期の直後にヨーロッパ全域で活躍することになるモラヴィア(現在のチェコ)出身の教育学者コメニウスとの関係だ。コメニウスは薔薇十字団と関連があると指摘されているし、ポーランドのソッツィーニ派からの影響も気になるが、コメニウスの「光」への極度のこだわりなども鑑みて、彼のキリスト教はプロテスタント的に理解するよりも、東方キリスト教の文脈で理解する方が分かりやすくなるかもしれないと思った。

森安達也『東方キリスト教の世界』ちくま学芸文庫、2022年

【要約と感想】坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』

【要約】「個としての個」の思想は近代に誕生したと思い込まれていますが、実は決定的に重要なのは4~6世紀の古代末期(ビザンツ初期)にキリスト教公会議で交わされた三位一体とキリスト論に関わる教義論争で、特に古代ギリシア哲学の伝統を引き継ぎつつもそれと対決した東ローマ(ビザンツ)の神学者の思想が重要です。ウシア、ピュシスという概念(実体・本質)からヒュポスタシスという概念(基体)を切り離し、その宇宙論的な意味を担うヒュポスタシスというギリシア語が法的・社会的な意味を担うペルソナというラテン語によって翻訳されたときに、広大で多様なローマ帝国の多文化世界を背景とした化学変化が起き、元の概念を超える豊かな概念が新たに形成され、その新たな概念「ヒュポスタシス=ペルソナ」こそがまさにキリスト教が古代ギリシアの実体・本質重視の思想・文化を超えて表現しようとしていた「隣人への愛」という教義に明確な形を与え、「個としての個」の理念が固まりました。

【感想】非常におもしろい。論旨は極めて明快で、私の個人的な研究(人格概念の探求)にとっても実に都合がいい見解が小気味よく並んでおり、喜んで今後の論文に引用させていただくことについては吝かではない。勉強になった。
 ただし、逆に明快すぎて眉に唾をつけたくなる部分もなくはない。たとえばアリストテレスの評価と位置づけについては慎重に裏付けをとる必要を感じる。たとえばアリストテレスは「個あるいは一」を共約不可能な特異点としつつ、それが成立する条件を執拗に細かく分析していたのではなかったか。いわゆる「普遍論争」における唯名論の立場は、アリストテレスの範疇論における議論を背景として、存在するのは「個物」だと主張したのではなかったか。
 また東ローマ(ビザンツ)を重視する本書全体の傾向は、ラテン的西欧(あるいはカトリック)に対するカウンターとしての意味と意義は十分に理解できるものの、本書が書かれた20世紀後半におけるアカデミズム全体のポストモダン・ポストコロニアル的ムーブメントの文脈に置いて、多少は差っ引いて考える必要を感じる。
 また、歴史的には、「個の重視」はローマ文化にゲルマン的な要素が混入して誕生したというストーリーもあるはずだ。自由と権利を重視する「ゲルマン的な個」と、本書が扱う「ビザンツ的な個」は、やはり何か依って立つところが違っているのではないか。本書が言う「ビザンツ的な個」は、確かに「なんらかの単位としての個」であることは間違いないとしても、その属性として「自由・権利・尊厳」が伴うことはまったく自明ではない。ピュシスから切り離されたヒュポスタシスには自由や尊厳などない。それは線に対する点のような、無属性の特異点に過ぎない。かろうじてペルソナという言葉と概念が神と人の両者を表現する際に同じように使用されるという「類似」と「連想」によって自由・権利・尊厳の所在を仄めかすに過ぎない。しかし一方の「ゲルマン的な個」の本質は自由と切り離せないと理解されているのではないか。
 そしてどうしても2023年の段階で想起してしまうのは、ビザンツ的なプーチンが、ゲルマン的な自由の精神を心底憎んでいるという事実である。そしてそこから逆算すると、東方ではグノーシス的な二元的異端が根強く蔓延し、それが実は「ディープステート」の陰謀を云々するような反知性的な心性に連なっているのではないか。穢れたものと見なす俗世間から隠遁して野蛮な反知性的修行で「神化」を目指す隠修士のような在り方は、イエスが説いた「隣人の愛」と本質的にまったく関わりがなく、「個としての個」にモナド的に引きこもる退廃した姿ではないのか。
 まあそういう疑問を差っ引いても、非常に面白く、勉強になる本である。

【今後の研究のための備忘録】人格、ペルソナ
 本書で鍵となる概念はラテン語の「ペルソナ」とギリシア語の「ヒュポスタシス」だが、それを日本語に敢えて置き換えると「個」とか「人格」という言葉で表現される。似たような言葉に「独」とか「孤」もあるが、圧倒的に「個」という感じがふさわしいのは間違いないだろう。

「純粋な個としての個、かけがえのない、一回かぎりの個の尊厳、そういったものが思想的・概念的に確立したのは、近代よりはるか以前のことだったと思われる。遅くとも紀元五、六世紀の、あのローマ帝国末期の教義論争のなかで、それははっきりとした独自の顔をあらわし出している。中世を通して生き続けたその顔を、近代はふたたび新たなかたちでとりあげたのである。」36頁
「今まで目に映らなかった「人格」というもの、「個の存在」というものが、見えてくるということは、やはり人の世界や他人への関わりを変える。」37頁
「そしてキリスト教の教義も、キリスト教の哲学化・思想化・体系化も、イエスが単純な「隣人の愛」ということばで語ったことのいわばパラフレーズであり、この単純な理想に、できるかぎり普遍的で透明で共時的なかたちを与えようとする努力にほかならなかった。その努力の中で人びとは、実はヨーロッパの思想・哲学にとって基本的に重要な新しい概念、新しい存在論を生み出していったと思われる。それが後に詳しく述べるような、個としての個の概念であり、純粋存在性の存在論であり、それが人格の絶対性とか尊厳とかなどに根拠を置く人権思想や民主主義体制をも支える一端となっていると思われる。」48頁
「純粋な「個」「ペルソナ」の概念が明確なものとなるのは、カルケドンのキリスト論のみならず、その前段階をなす三位一体論があってはじめて可能だったのだ。」51頁
「しかし末期ローマのこの社会の状況においては、この問題は起らざるをえない問題だった。この宗教は、この戦いを戦い抜いて、この宗教の本質の少なくとも重要な一部を、この社会・文化なりのかたちに造りあげ、救いとったのだと思われる。そこで救われ、現れてきたのが「ペルソナ=個としての個」を基盤に置く思想のかたちである。」71頁

 ここまでの記述で本書の主張が既に明らかになっている。「個」という概念を生んだのがキリスト教で、特に4~6世紀の教義論争が極めて重要という立論である。しかしキリスト教の教義論争の分析に入る前に、ギリシア哲学の話を丁寧に進める。しかもローマ帝国でヘレニズム化したギリシア哲学(具体的には新プラトン主義)の話が延々と続く。

「神とキリストの関係の問題は、イエス自身の問題ではけっしてなかったが、すでに福音記者や使徒たちにとっては問題であった。それは、古代哲学が現象の根底に見いだそうとした一なる原理と、現象の多との間の関係への問いと同質の面を持つ。感覚に触れてくる多のうちに一を求めるのは、人間理性の本能とでもいうべきものだろう。」75頁
「キリスト教の教義が問題となった「教義論争」の時代以前に、すでに現象のすべてのうちに「一なる善」を見る視線がとぎすまされてきていた」78頁
「この一元論的なピタゴラス的・プラトニズム的体系ではじめて、かっきりした理性の対象でないもの、その意味で「普遍」ではないものが、存在的・価値的に優位に立つことが、理性的に確立される。個の個性、隣人の核心をなすもの、などもそういった種類のものであるから、隣人愛を説くキリスト教とこの思想が結び付くことになっていくのは、理由あることだった。」81頁
三位一体論の背理は、個としての個なる人を論理的にも救いとる要求のためだった。」111頁

 新プラトン主義とキリスト教の教義の親和性そのものについては、特に本書が明らかにしたわけではなく、古代教父アウグスティヌス本人が証言しているので疑いようがない。
 しかしところで、「一なる原理」「一なる善」についてはプラトンやアリストテレスなど古代ギリシア哲学が徹底的に追求したものだし、東洋でも道教や朱子学が「太一」として追求しているわけだが、ここで本書がその営為を「人間理性の本能」と呼んでいるのは、なんというか、「多のうちに一を求める」というメカニズムがはたして「本能」なのか何なのかがそもそも哲学的に追求すべき究極の問題であって、それを「本能」と言ってすませられるのなら大半の問題は簡単に解決してしまうので、私個人としてはあまり軽率に「本能」という言葉に還元したくないところではある。まあ、そう言いたくなる傾向があることを仄めかしたいときには、ありがたく本書を引用させていただくということで、言質がとれているのはありがたい。
 また、「三位一体」という現代的な感覚では圧倒的にどうでもよい論理を、「個としての個なる人を論理的にも救いとる要求」と理解しているのは引っかかる。確かにそういうストーリーも成り立つだろうし、そのストーリーで全体を構成する本書の論理に対して異論を差し挟むつもりはない。しかし個人的には、「三位一体」なる屁理屈はただただ単純にグノーシス主義的二元論への現実的な対抗策として強弁しただけで、当時の現場としては個としての個なる人なんかどうでもよかったが、意図しない副作用として偶然にそれを救いとった、というストーリーも捨てがたいところだ。
 ともかく古代ギリシアの「一」にまつわる思想を整理したところで、続いて「ペルソナ」とその周辺概念の整理を行う。

「神の一性と、それにもかかわらず厳存する父と子の区別を、すでにラテン世界ではテルトゥリアヌスが、実体(substance)の一性とペルソナ(personaいわば基体)の二性として表現し分けていたが、このペルソナにあたる語を、アタナシウスはまだ確立していなかった。」103頁
「「ペルソナ」は法律上の人格・役割を意味する、もともと非形而上学的なことばであって、社会的人間の持つ多面性を表現し得ることばであった。法律家テルトゥリアヌスは、ひとりでありつつ多くの役を矛盾なく演じ、しかもその際他人になるわけでもない具体的人間のあり方との類比で、この概念を柔軟に、それゆえ矛盾につきあたって困惑することもなく、用いることができたのであろう。いかにもラテン的なことばであり、概念である。
 しかし、これがギリシア的な自同律と矛盾律を基本に持つ形而上学的概念と結びつき、転化し、その体系のうちに組み込まれようとするとき、現実感覚の柔軟さは論理的矛盾として姿を現すことになる。」115頁
「中世末から近代にかけてのいわゆる「アリストテレス批判」「実体概念の解体」は、すでにここに、ビザンツ初期の白熱した数世紀の議論の中に準備されている。人びとは信仰上の情熱から、このきわめて基本的な問題に執拗なまでに取り組まざるをえなかった。この議論を「自然」のうちに移しさえすれば、そこに、近代科学の基本的考え方への一歩の寄与があることがわかるだろう。十三世紀スコラの盛期に、トマス・アクィナスが、ペルソナは「自存するものである関係」だという衝撃的なことを平然と言うのを見るとき、もうこれら実体とか関係とかいう概念がそれほど「いわゆるアリストテレス的」に明白なものではなく、変質してきていることがよくわかる。」128-129頁
「論理性・秩序・組織というロゴス原理は西洋の強みであり、それによって「人格」「愛」「精神(霊・プネウマ)」というような、とらえがたく柔らかい価値をも守るという、逆説的な仕事をある程度なしおおせたということが、西欧文化のもっとも大きな強みであったように思う。しかし、その場合、「愛」や「精神」はやはりともすれば内実を失って空洞化しなかったろうか?
 (中略)たとえばレヴィナスとか、バフチンなどの人びとに、私は東方思想の血筋を見る気がする。そこでは人間性(という呼び方が妥当かどうかわからないが)、人間のいきいきとした姿、人間の芯にある火――おそらくそれが、ペルソナとか人格とか呼ばれるものだろうが――そういったものへの感受性が、まだ西欧思想におけるように解体・枯渇してしまわずに残っているような気がする。」140-141頁
「その一つの答えは、ラテン語では、このヒュポスタシスがペルソーナ(persona 以下慣例に従って短くペルソナとする)と翻訳されたからである。personaは近代ヨーロッパ語のperson、Person、personeなどとなり、日本語でも「人格」などと訳されている。これが西欧思想の一つの中核語であることに異論をとなえる人はないだろう。
 しかし、ペルソナが本来はヒュポスタシスとはまったく異なった意味の語であることは明らかである。いわば、もともとギリシア語ではじまったキリスト教の思想化の努力が、西方ラテン世界に翻訳され、移行するときに、このもっとも中核的な概念が迷子になり、脱落して別のものとすりかわったかに見える。しかも、「ペルソナ」の語にしても、これからの叙述で見えてくるように、これは当時は独自の存在論の中核をなす語であった。それが西欧の中世から近代の歴史の中では、次第に単なる人間論の術語としてしか意味をもたなくなっていく。せっかく四世紀から六世紀に至る政治と理論の白熱のうちで姿を現してきたこの独自の存在性が、少なくとも西ヨーロッパでは次第にまた消滅してゆくのである。これは、「個」にきわめてよく似るが単なるギリシア的「個体存在(individium)」ではなく、おきかえのきかない純粋個者、しかも、つねに他者との文脈のうちにあることを本質とする単独者である。西欧はこの概念を失ったことによって、多くのものを失いはしなかったろうか。」150-151頁
「ヒュポスタシスは、実体・本質と区別された神の位格(父・子・精霊)を表示し、この「位格」が西方のラテン語ではペルソナと呼ばれるものである。したがって、ヒュポスタシスはまさに神のペルソナ的な、いわば人格的(正しくは位格的)な面を示すことばと言えるのである。この区別は、あるいは西方で先に確立したという面もあるかもしれない。ニカイア公会議がまだウシアとヒュポスタシスの区別をどうつけてよいかわからないでいた一方で、西方ラテン世界のテルトゥリアヌスは、そのほぼ百年も前に、父・子・精霊という古い呼びかけと神の一性を、一つの実体(essentia)と三つの位格(persona)というかたちで両立させていたのだから。」154頁
「ニカイアの公会議自体は、キリストが、また精霊も、父なる神と実体(ウシア)を同じくする「神からの神」、つまり父とまったく同一の神であることを語っただけで、「ヒュポスタシス」とか「ペルソナ」とかいう、三位格の共通名を出していない。しかし、およそ四、五十年後に、カパドキアの教父たちは明瞭にヒュポスタシスとウシアについて論じているし、さらにその四十年後にアウグスチヌスは、先に引用した『三位一体論』五巻八章のくだりで、明らかに三位格にペルソナ(persona)という共通名を与え、ギリシア語ではそれをヒュポスタシスと言うと語っている。」171頁
「まったく本来は意味の違うペルソナとヒュポスタシスという二語が、どうして対応語として用いられつづけたのか。」171頁
「カルケドン信経は、プロソーポン(ペルソナに対応するギリシア語、原義は顔、そこから個人)とヒュポスタシスを同義として列挙し、ラテン語はペルソナとスブステンチアを列挙している。この四語のうちからなぜ、ヒュポスタシスとペルソナだけが残って等値されることになったのか。」172頁
「テルトゥリアヌスが早くに用いていたペルソナという語は、この混乱を避けて、神の本質と区別された、ある種の存在性(父・子・精霊という)を指し示すために便利だったのである。」173頁
「紀元前二百年前後、第二ポエニ戦争のころに、すでにペルソナの語は、(1)劇場の仮面、(2)劇での人物、(3)たぶん役割、(4)たぶん文法での人称、などの意味をすでにもっていたと思われる。そしてこの語の意味を一挙に広めたのは(ほかの多くのラテン語のヴォキャブラリーにおけると同様)、やはりキケロだった。」177-178頁
「ローマ人の法的思考のうちで、ペルソナの語は、ギリシア語プロソーポンよりもはるかに豊かに発達し、かえってプロソーポンの語義を広めるのに影響したことが指摘される。ただ、法的発展をのぞいても、それ以前に仮面と劇の人物という意味から、タイプ、性格、社会的・道徳的役割という意味への移行は、日常言語のうちで行われていた。また劇のヒーローの尊厳やユニークさのニュアンスも、この期に与えられていた。ペルソナとはこのように豊かな社会的・法的・道徳的意味を含む語として、キリスト教成立以前にラテン語のうちに確立していたのである。」178-179頁
「「沈殿」「基礎」が、「仮面」と訳されるという奇異な事態が起こったのは、既述のような歴史的経緯の中で、おのおのの語の多様な意味のひろがりの中にある「個存在」という共通項・媒介項を介してであった。ラテン語のペルソナには、徹頭徹尾社会のうちなる個人というニュアンスがあり、役割、人に与える影響、印象、尊厳といった含意がある。ヒュポスタシスには、元来そうした意味合いはまったくない。そのかわり、ヒュポスタシスにはまた、ペルソナにはまったくなかった宇宙的視野と連関とがある。ヒュポスタシスは自然学的・形而上学的な存在論のことばであり、ペルソナは劇場と法律と日常社会生活のことばである。この両者が等値されて、一つの同じ対象を指すとされるとき、その対象には複雑な交響が生じ、多様な倍音が生じる。キリスト教思想の中核となったペルソナ=ヒュポスタシスは、このようにしてきわめて豊かな概念となった。」180頁
「ここで注目すべき重要なことは、両概念に共通する一つの性格である。それは、この両者いずれにおいても、個存在性と流動性・関係性という一見矛盾した二要素が密接に共存しているということである。ヒュポスタシスは、流動きわみない、一者からの存在の流出のうちの束の間の留まりとしての純粋存在性であった。宇宙的流動と因果関連の網なしには、ヒュポスタシスは存在しえない。ペルソナはまた、劇場という演劇的場のうちの一要素であり、そこから転じて法体系のうちでの要素、社会的関係のうちで役割をもつ個人であった。
 (中略)ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナペルソナたりえない。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等値されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い。混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。」181-182頁
「それはやはりもとをただせばローマ帝国というものの広大さ、多民族・多文化の交響であったのだ。互いに異質なものをもつギリシア語圏、それもヘレニズムの小アジア、シリア・エジプトなどの文化を含みもつギリシア語圏の文化と、ラテン語圏の文化と、東方の思弁と神秘と超越に対する西方の現世と人間の現実へのたしかな眼ざし。形而上学と宗教に対する歴史と法とレトリック。その出会いがこのヒュポスタシスとペルソナの出会いであった。キリスト教思想が豊かな種子をもったとすれば、それは、多文化混淆のローマ帝国の豊かさであった。」183頁

 うーむ、なるほどだ。このあたりの話は類似のテーマを扱う論文や概説書でも読むところではあるが、いまのところ本書がいちばん丁寧に分析しているように思う。「ペルソナ」概念の整理については、今後の研究でありがたく引用させていただきたい。というか、こういう優れたまとめ研究があるにもかかわらず、今でも「ペルソナの原義は仮面です」と言って分かった気になっている概説書が多いのは如何なものか。
 ただしかし、この概念が中世ヨーロッパで欠落した(そして本書では強調されないが、ルネサンス以降に復活する)と繰り返し主張しているところは、眉に唾をつけておきたい。この西欧中世をディスる見解は、西洋中世が遅れた暗黒時代で、その時期の東方(ビザンツとイスラーム)のほうが進んでいたというブルクハルト的な歴史観に合致する。しかし近年では、こういうブルクハルト的な歴史観を乗り越えて西欧中世の知的水準を再評価しようとする動きが盛んだ。本書は「個としての個」に対する感受性をレヴィナスやバフチンなど現代の東方思想家に見出し、それに対する憧憬を隠そうとしない。私もレヴィナスやバフチンの現代的な思想が独創的で魅力的だと認めることについては同意するものの、ただしかし個人的な感想では、西洋中世に劣らず東方中世でも「ペルソナ」概念は忘れ去られていたように思うのだった。実際、本書でも東欧中世についての実証的な資料は提出されず、レヴィナスやバフチンなど現代的な人物名(あるいは近代以降のロシア文豪)が散発的に傍証として上がってくるだけだ。仮にブルクハルトの衣鉢を継いで西欧中世をディスるのは結構だとしても、だからといって返す刀で東欧(そしてあるいは日本など)を持ち上げることには慎重でありたい。
 さてともかく下準備が終わったので、いよいよ本格的にキリスト教教義論争の中身に入っていく。

「もっとも決定的だったのは、東方ではキュリルス風の一本性説が、キリストという特殊な例のうちで人間性がいわば神化されるさまを表現していると思われていたことだろう。上昇と神化への欲求は、プラトニズム的・ギリシア的東方の宗教性の根づよい憧憬であった。キリストという範型的な人間の神化は、人間全体の神化の可能性を示し、モデルを与え、道を開くものと解されていた。これは「全く人」の現実性にあくまでも執し、仲介者についてもその現実的人間性を尊いものと思い、その受苦の現実性によってこそ罪の贖いと人類全体の買い取りが可能であると考える西方の、人間主義的で法律的匂いがしないでもない見方とは、同じキリストという存在の理解の上でも大きなへだたりがあった。」244頁

 本書の立論からすれば傍証の位置に当たる文章ではあるが、ここで言及されている東方の「神化」という概念は気に留めておきたい。というのは、西欧中世でもグノーシス主義的二元論異端や、あるいはエックハルトのような神秘思想家が目指しているのが、明らかにこの「神化」だからだ。あるいは対抗宗教改革としてイグナチオ・ロヨラが打ち立てたイエズス会の修行の在り方も想起していいのかもしれない。だとすれば、この西欧中世の「神化」思想は、ビザンツからもたらされたものなのか。そしてそれはルネサンスや宗教改革以降の「個」の思想になにかしらのインパクトを与えているのか。だとしたら1453年のビザンツ帝国に伴う知識人や宗教家の流出にどれほどの意味を見出すべきなのか。こういう問題系が関わってくるところだ。

「三位一体論とキリスト論は、プラトン-アリストテレス風の、普遍を実体とし、真実在とする存在論を逆転する構図を人びとにつきつけてきたのである。その先駆はストアやネオプラトニズムにあったと思われるが、ここまで先鋭に、非妥協的に正面から対決するに至ったのは、このきわめて抽象的な存在論的差異が、実は何よりもごくふつうの人びと心情と希求の差であり、政治的党派の差でもあったからだ。存在論はここでは希み、愛し、生き、党派と体制をつくり、またそれに反抗し、利害と権力を争う人間のあり方をまるごと受肉しているのである。
 ヒュポスタシス=ペルソナというかたちでここに姿を見せてきたこのものは、まさにあの透明な、いかなる属性をも顧慮しない、神の愛・隣人愛の向うもの、その対象でもあり、またその愛を与える源泉でもある。」291-292頁
「ギリシアがものの神髄として、本質として見たものが何といっても共通的なものだったのに対し、キリスト教がもっとも尊貴なものとして、その意味での本質として見るものは、個の個たるところである。トマスがアリストテレスをうけつつ、例の鋭さで「働きは単独者のものである」と語っていたのが思い出される。キリスト教があらゆる出来事と存在の神髄として説くのは、個々の人間の心の救いであり、そのために一回一回独自の仕方で、つまりいわば単独者として働く、神の行為と愛である。その神への愛と隣人への愛である。」315頁

 ここが本書の一番の肝になる部分だ。この論証が成功しているかがどうかが、本書全体の説得力を決定する。そして、それは極めて難しい。なぜなら、これこそ普遍的なことばに変換して他者と「共約」することが不可能な部分だからだ。
 そしておそらくそのことを一番わかっているのは著者自身で、だからこそ本書全体の構成が本書のようになったのだと思う。本書の書き出しと書き終わりは、他者と共約不可能な極めて個人的なエピソードとなっている。まさに「一回一回独自の仕方で、つまりいわば単独者として働く」ような感情と行為が書き連ねられている。そういう共約不可能なものを共約しようと努力を重ねる「単独者」としての行為こそが、おそらく本書の一番の見どころなのだ。そう思ってみれば、レヴィナスやバフチンに対する偏りが表明されようが、東方に共感を寄せようが何だろうが、そんなものを論理的に難詰する必要などないわけだ。隣人としてできることは、この本書の仕事を私自身が「一回一回独自の仕方」で受け取るだけであり、それがいままさにこのような私自身の単独者としての感想として現れているということだ。不遜にもいろいろ疑問点を書き連ねてはいるが、著者をディスっているのではなく、私自身の研究を進める橋頭保とするための備忘録であることは独り言として言っておきたい。そしてこういう読書が「交流」として成立するのであれば、それに越したことはない。

「アリストテレスの場合はピュシスをひき去ってしまった基体は無性質無形の、ほとんど無にひとしい「質量」であったが、レオンチウスで姿をあらわす純粋のヒュポスタシスはまったく逆である。これはネオプラトニズムの系統をひく、むしろ非質量的な、活動的統一原理、つまり「一者」の流れをひく能動的な個的存在性そのものである。」322頁
「アウグスチヌスはまた、さきに三位一体論のところで述べたように、この「個」の問題への、まったく独特のアプローチを西欧に与えた。それは、外界、自己の肉体などのすべてがそこから証明されてくる「心(cor)」という場の探求であった。自己の心の奥深くへ沈潜することが、すべての自己の意識、記憶、思考、意志、感覚を統合する一なるもの、あのプロチヌスのはるかな「一者」につらなる真我の体験に至ることを、アウグスチヌスは私たちに具体的にかいま見させてくれた。彼は東方でレオンチウスたちがうちたてた、人を統合し、またはキリストという存在を統合するペルソナ=ヒュポスタシスの存在論を、いわば内面から、内的体験として証明してみせてくれたのである。」329-330頁
「このようなことはすべて、受肉のロゴスのヒュポスタシスについて言われることである。この個こそが、もっとも範型的な個、個の内の個であることは明らかだろう。この強烈な凝集力、無限の包容力、無限の多様性は、あらゆるヒュポスタシス-ペルソナの範型であり、キリスト存在の類比者として語られる人間存在にも弱められたかたちで似姿的に存在するわけである。それゆえ、人間の心と身体を集めるヒュポスタシス=ペルソナも、同様に「統合されたヒュポスタシス」と呼ばれる。」341-342頁

 ここは丁寧に論証を求めたいところだが、やはりこういうふうにしか書けないことを認識させられたところだ。私個人の関心は「人間の人格」にあるわけだが、それはやはり神の「類比者」とか「似姿」という形でしか表現できないものだった。ともかく、私自身はとてもではないがここまでの論証はできないので、巨人の肩に乗せていただくような気持ちで、ありがたく引用させていただく。

「ハルナックはまったく正しくも、この概念の中にすでに「自然と区別された〈人格(Personlichkeit)〉という近代的概念が、もとより影のようにではあるが、姿を現わしている」と書く。ただし、私はこれが近代の人格概念の影であるというよりは、むしろアウグスチヌスーデカルトという線を辿ってひたすら意識的内省へとその場を移していった近代の人格概念の方が、もとのヒュポスタシスにあった存在の意味を見失っているのではないかと思う。」347頁
「この思想の中心であるヒュポスタシス=ペルソナは、知、情、意、身体的なもの心的なもの、すべてをひとしなみに集め、かけがえない個として形づくるものである。しかもそれは、それら多なる要素を束ね、集め、覆い、あるいは生み出す純粋な働きであり、他のそのような純粋な働きたちと、根において連なり、交流している純粋存在である。
 そのモデル、範型は、もとより神の性質をも人の性質をも、これほど相容れないものどもを、集め、束ね、一つにしている受肉した神の第二の位格、キリストである。彼はまた、神としても、三位の交流関係によってはじめて存在する、関係者にして存在者、とでも言うべきものである。存在が関係においてはじめて成り立つことのモデルでもある。」353頁
「東方でスコラ的に精錬されたヒュポスタシス=ペルソナ思想の概括を、ペルソナの定義というかたちで西方中世に伝えたのは彼(ボエティウス)であった。しかしその「功績」には多少の疑義もある。彼の定義「理性的本性の個的実体」は、アウグスチヌスが賢明にも注意深く避けた実体(substance)という語を、ペルソナの定義の中心にふたたび導入してしまった。そのことによって、個なるペルソナの中核は、ネオプラトニズム系・セム系の動性を失って、アリストテレス風の静的に閉じた個になりはしなかったか?」356頁
「キリスト論は古代に現われた種々な存在論を、ほとんど不可能な仕方で一つに結び合わせる。それは、キリストという存在が、もともと不可能な存在だったからである。全く人・全く神。つまり人としては私と種的に同一なもの。しかし個なる私にとっては他者。神としては私と絶対に異であり他であるもの。しかも創造者として種的にも個としても、私の存在の根源であり、私を包み、あらしめているもの。私にとって絶対に他であり私と非連続であり、しかも私とある意味で絶対に同一なもの。物質的・人間的存在であり非物質的・非人間的な神存在。――それはこの世界と絶対者が一つに結合する場所であり、絶対者が自らを世界のために失うところであり、逆に世界が自らを失って絶対者に参与するところでもある。しかもまた、両者が自己を失わずに差異と区別を保ちつづける場とも考えなければならない。」364-365頁

 畳みかけるような論述で、圧倒される。ナルホドと頷くしかない。世間には「キリスト教は一神教だから個の概念を生んだ」などという粗雑でいい加減な思い付きで分かったようなことを言う文学者もいたりするわけだが、つまらないことこの上ないので、こういうクザーヌス的な「対立物の一致」くらいの技は見せてもらいたいところだ。

坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』岩波現代文庫、2023年<1996年

【要約と感想】イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』

【要約】考えるな、感じるんだ!

【感想】読んで知識を蓄えるタイプの本ではなく、修行を実践するための指南書だ。頭で理解するのではなく、行動と実践を通じて「体験」しなければ、本書に書いてあることは何の意味も持たない。だから、修行も体験もしなかったし、最初からするつもりもなく、おそらく今後もしないであろう私にとっては、ほぼ無意味な読書ではあった。まあ、私にとって無意味であることを知っただけでも意味があるのかもしれない。他の誰かにとって有意義であればいいのだ。他の誰かにとって無意味だと主張するつもりは、まったくない。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンスと人文主義
 ロヨラの本文ではなく、解説のところで、ルネサンスと人文主義に関する言及があった。が、その記述には疑問なしとしない。

「パリ大学で学んだことはイグナチオに多くのことを教えた。まず第一に、ルネサンス・人文主義を学び、ルネサンスの最初のヒューマニストと見なされるようになった。」36頁

 わたしの知識の範囲だと、ルネサンス最初のヒューマニストと呼ばれるべき人物はペトラルカだし、百歩譲って「ヒューマニスト」という言葉にケチをつけて範囲を絞るとしても、他にエラスムスやトマス・モアなど候補はいくらでも挙げられる。本書がどういう観点からどういう意図でロヨラを「ルネサンス最初のヒューマニスト」と言うのか、よく分からない。
 で、ここに続く文章は、教育史的に考慮すべき材料を多く含んでいるのでサンプリングしておく。

「というのは、イエズス会を創立し、若い会員を養成するとき、ラテン語・ギリシャ語とギリシャ・ローマの文学の徹底的な勉学を義務づけ、その上で哲学・神学の研究をさせるようになったからだ。その後、イエズス会のコレジウムが全ヨーロッパに拡がり、この教育方針が受け継がれ(一六世紀には二百校を数えた。その中の一つ、ラフレーシュ王立コレジウムから近代哲学の祖デカルトが生まれた)、西洋近代教育史に絶大な影響を与え、西洋文化にヒューマニズムの伝統を築き上げる上に大きな影響を与えた。」36頁

 イエズス会が近代に続く学校制度の源流の一つであろうことまでは否定しない。ヒューマニズムの伝統を築き上げる上で影響を与えたこともある程度は事実だろう。だがしかし、たとえば同時代のエラスムスと比較した時、どうなのか。最終的には徹底的に宗教的修行と神秘的体験を重んじて「考える」ことを相対的に低く置いたイエズス会の理念と、とにかく「考える」ことを中心に丁寧なテキストクリティークを積み重ねていったエラスムスなど人文主義者の活動では、どちらがヒューマニズムの伝統の中核に位置付くのか。ロヨラやイエズス会が仮にヒューマニズムの時代的雰囲気に棹さしていたとしても、本質はまったく別のものではないのか。

「「霊操を授ける人」から「霊操を受ける人」へ神体験が伝えられ、霊的伝承がイグナチオから現代にまで継承され続けている。それがキリスト教の本質を形成する上の根幹となっているだけでなく、この霊的伝承から近代教育が生まれ、西洋文化全体を活性化させている。」41頁

 教育学者から見れば、筆が滑っているように見える記述である。確かにロヨラの活動の一端は近代教育に繋がるのだろうとしても、いやいや、他にもっと源流として重要な要素がいくらでもある。
 あるいは、そもそも、「キリスト教の本質を形成する上の根幹」というところが、意味が分からない。例えばアウグスティヌスから見たら、ロヨラの考え方はペラギウス的異端に似ていたりしないか。実際、ヒューマニズム的感性からキリスト教の本質に迫ろうとしたエラスムスの試みは、カトリックからもルター派からも異端の疑いを受けた。だとしたら、著者が言うようにロヨラが「ルネサンス最初のヒューマニスト」とすれば、異端へ転がり落ちるのは容易だ。実際、自らの意志による修行で神に近づけるという傾向を持つビザンツ的な修道士たちは、ペラギウスがアウグスティヌスから批判されたのと同様に、カトリックから何度も異端の烙印を押されている。ロヨラのように自らの修行で神的体験を得ようという傾向は、「キリスト教の本質」から言えば極めて危険な考え方ではないだろうか。
 解説者は「禅宗の師資相承による法灯伝統とそれによる日本文化への影響を考えれば、日本の読者にはわかり易いかも知れない」(41頁)と畳みかけるが、それこそビザンツ(東方)的な小乗の感性に近いということであって、カトリック(西方)的な大乗の本質からすれば危険であることの証拠に過ぎない。キリスト教の本質とは、貧しく、弱く、醜いものにこそ神への道が開かれているという考え方ではなかったか。厳しい修行を経なければキリスト教の本質に近づけないという「強者」の発想は、キリスト教の土台を掘り崩すものではないのか。

 とはいえ、アウグスティヌスに非難されたペラギウスが極めて高潔な人物で、カトリックから異端の烙印を押されたネストリウスが人望厚い立派な人物であったのと同様、仮にロヨラの思想と活動がカトリックから見てどうだったとしても、立派な人物だったであろうことには変わりない。ただそれが「キリスト教の本質」とか「ルネサンス最初のヒューマニスト」だったかと聞かれると、それはさすがに怪しいですよね、となるだけの話だ。

イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』門脇佳吉訳・解説、1995年、岩波文庫

【要約と感想】トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』

【要約】西郷隆盛「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして修道士の大業は成し得られぬなり。」
玉川カルテット「金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し愛が欲しい。」

【感想】世界中で聖書に次いでよく読まれた本という謳い文句で知られている本だが、確かに内容は分かりやすく、具体的な指針が明確で、人々の需要に応えたのもナルホドというところだ。言いたいことは非常にシンプルで、「世俗的な価値にこだわるな」ということに限る。だが、この実践が極めて難しい。本当に幸せになりたいのであれば、金や名誉に執着するな、食欲や性欲をコントロールせよ、という理屈は頭の中では分かるとしても、実際に行動に移すのは並みの人間では無理だ。だから「神の恩寵」に縋るしかないわけだが。
 また、現代的価値と決定的に異なるのは、自己肯定感を徹底的に挫こうとしているところだ。が、本書にとってみれば自己肯定感こそが最大の堕落の原因であり、悪魔の誘惑の根本なので、繰り返し繰り返し、徹底的に、執拗に、挫こうと試みることになる。まあ本書が修道士向けに書かれたものであって、世俗信者向けにメッセージを発したものではないだろうことを念頭に置けば、こういう姿勢にもそんなに違和感を持つ必要はないのだろう。(逆に言えば、こういう出家者に対する行動規範を世俗信者にまで求めるようになるとカルトになってしまうのだろう)
 で、それ故にというか、一本気な神に関する記述はともかくとして、糾弾の対象である世俗的な悪に対する描写は極めて精彩に富んでいて、おもしろい。人間的な自然から生じる悪の数々を微に入り細を穿って懇切丁寧に描写するのだが、これがたいへんな迫力だ。正義は一つだが、悪は多様だ、というところか。世俗的な快楽に流れようとする人間性の本質というものが、現代も中世ヨーロッパもまったく変わらないことがよく分かるのだった。

【個人的な研究のための備忘録】反知性主義
 本書の特徴の一つは、「反知性主義」的なメッセージを執拗に繰り返し発しているところだ。

「人間はみな生まれながらを望みもとめる。けれども神を畏れることのない知識が何の役に立とうか。まことに、神に仕える卑しい田舎の男は、自身をゆるがせにして天体の動きを測る傲慢な哲学者に優るのである。」第1巻第2章1
「つつましくわずかな理知によって、少しばかりの知恵をもつ方が、大そうな知識の宝庫を、空しい自惚れと共にもつよりまさっている。」第3巻第7章3
「神によって光を与えられた信心ふかい者の知恵と、学問のある篤学な聖職者の知識には、大した違いがあります。天上からの尊い御力より流れ出る教えは、人間の才能で骨を折って獲られる教説よりも、ずっと貴いものです。」第3巻第31章2
「お前がいろんな本を読んでたくさん知識を積んでいても、いつも唯一の根本原理に立ち帰らねばならない。人間に知識を与えるのは私だ、ということ、そして私が小さい者どもにわかち与える知恵は、人間の教えるところよりも、ずっとはっきりしたものだということを。」第3巻第43章1
「わが子よ、多くのことにおいてお前は無知なのがよい」第3巻第44章1
「お前に要求されているのは、信仰と真率な生活であって、理知の高遠さとか、神の玄義についての深い知識ではない。」第4巻第18章2

 人間の持つ「知識」などは大したことがなく、神の恩寵に由来する「知恵」こそが重要だというメッセージだ。近代的な価値観から見れば、とうてい受け容れることができない戯れ言ではある。完全に中世だ。
 問題はこの反知性主義の射程距離だ。少なくともルネサンス期のエラスムス『痴愚神礼讃』には明らかにこの反知性主義の反映が見られるし(そして初期人文主義者ペトラルカ『無知について』を想起してもよい)、啓蒙期ルソー『エミール』の自然主義教育(消極教育)や、啓蒙主義に反発したロマン主義の流れも同じベクトルの延長線上にあると考えてよいか。この反知性主義的な傾向を、どう思想史に位置づけるべきか。
 そして現代に至っても、カルト系キリスト教団体の教義の核心にはこの反知性主義が居座っており、それは信者から健全な批判能力を奪う結果に陥っているように見える。この反知性主義を、我々は実践的にどう扱うべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】わたしらしいわたし
 「わたしがわたし」というアイデンティティの思想は、もちろんプラトンから始まって古代ストア派哲学を経由し、キリスト教神秘主義にも見られる考え方だ。ご多分に漏れず、本書にも見られたのでメモしておく。

「人が自分と一つになり、内において単純となるにつれ、彼はいよいよ苦労なしにいっそう多くのさらに高いことを悟るようになる。」第1巻第3章3
「世の賞讃を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない。」第2巻第6章3

 こういう「誰から褒められようがけなされようが、わたしがわたしであることに対しては何の影響も与えない。気にするな。」という考え方は、古代ストア派もしばしば表明するテーゼだが、SNS時代の現代にも非常に良くマッチする。逆に言えば、人から何か言われるてクヨクヨするのは、SNS時代の現代文化に特有の現象ではなく、2000年前から続く人間の本質に根ざした何かだということだ。

【個人的な研究のための備忘録】人性(human nature)
 いつの世も変わらない人間の本性について執拗に記述しているのが興味深い。

「十字架を担い、十字架を愛し、身体を責め苛み、苦役に服させ、名誉を遁れ、侮辱を喜んで堪え忍び、自分自身を蔑み、人にも蔑まれるのを願い、あらゆる不幸を損失と共に忍びとおし、何の仕合わせもこの世では乞い求めないというのは、人性のままではない。」第2巻第12章9

 日本語で「人性」となっている言葉は、英語ではhuman natureだが、原文ではどうなっているのか。ともかく、人間というものが何かと快楽と名誉を欲し、苦役を避けて怠けたがることを、畳みかけるように表現している。そしてその「人間としての自然」を徹底的に打ち砕くことが、本書の目的だ。

「自分を愛することは、この世の他のどんな物事よりも、身を害なうものだ、ということをわきまえなさい。」第3巻第27章1
「人間の本当の霊における向上は、されば、我、すなわち自己、を否定し去ることにある。そして、自己を否定した人間は、全く自由であり、安固である。」第3巻第39章4
「完全な勝利とは自分自身に打ち克つことである。というのは、自身をいつも服従させておき、こうして官能を理性に従わせ、理性を万事につけて私に従うようにする者こそ、まことに自己に打ち克った者、この世界を支配する者なのだ。」第3巻第53章2
自己を内に捨てるというのが、すなわち神に結ばれることなのである。」第3巻第56章1

 特に「自己愛」とか「自尊感情」というものを徹底的に挫くことを目指している。現代的感覚からは信じられない。が、この自己否定のポイントは「自己を内に捨てる」というところなのだろう。外に捨てるのではなく、内に捨てるという感覚を掴めるかどうかだ。自己を内に捨てると、無限後退のプロセスに陥り、特異点が発生する。そしてこの特異点が果たして弁証法的なプロセスを経て近代的自我というものに繋がってくるのかどうかは気になるところだ。

【個人的な研究のための備忘録】持ち味と個性
 人それぞれ個性を持っているという描写があったので、メモしておく。ただもちろん「個性」本来の概念を示したものではなく、人それぞれに持ち味があるという以上の表明ではない。この程度なら日本の戦国時代に織田信長や武田信玄も言っている。こういう意味での「個性」の把握と理解は、特に近代的な思考枠組みがなくても十分に可能だ、ということの証拠である。

「誰も彼もが、みな一つの勤めをおこなうことはできない。ある人々にはこれ、他の人々にはそれが、いっそう適するというものだ。さらにまた、それぞれの時季に応じて、それに従い、あれやこれやの勤めが適当しよう。」第1巻第19章5

トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年