プラトンの教育思想―善のイデアを見る哲学的対話法―

【1】ソクラテスは教育で、プラトンは教育「論」

このページでは、プラトンの教育論について考えていきます。
ちなみに、ソクラテスについては彼の行った「教育」について考えるのに対し、プラトンについては彼が語った教育【論】について考えます。「教育」と「教育論」では、考えるべきことは全然違ってきます。というのは、「教育」は現実に実行された行為を指しますが、「教育論」は現実に行われたわけではなく、頭のなかで考えられた思想を指すからです。実際に行われた「教育」と、頭のなかで構想された「教育論」では、評価する観点がまったく変わってきます。

ソクラテスの教育との比較

ソクラテスとの比較で、まず事実として重要なのは、ソクラテス本人が自分の「教育論」をなに一つ残していないということです。ソクラテスは文章を書き残していないので、彼が何を考えていたかを本人の口から聞くことは、残念ながら絶対にできません。ただし、彼が実行したことについては、他の人が書き残した記録から推測することができます。特にプラトンが書き残した記録には、ソクラテスの言動が活き活きと描写されています。ソクラテスの人となりまで眼前にまざまざと思い浮かべることができるような、超一級品の文学作品です。プラトンの作家としての力量がズバ抜けていたことが分かります。が、逆に言えば、どこまでが実際にソクラテスが行ったことでどこからがプラトンの創作なのか、見極めることはとても難しいわけです。

プラトンの教育と、教育論

一方、プラトンが実際に行った「教育」についても、そこそこ記録が残っています。プラトンは「アカデメイア」という学園を作り、そこで弟子たちを育成しました。プラトンが亡くなった後もアカデメイアは存続します。様々な史料が残され、そこで実際に行われていた教育の姿をある程度は再構成することができます。
が、このページではアカデメイアで行われていた教育については直接触れません。考察の対象にするのは、プラトンが実際に行った「教育」ではなく、彼が構想した「教育論」です。

【2】プラトンの教育論(本筋)

そんなわけで、さっそくプラトンの教育論について確認していきましょう。プラトンはたくさんの本を書き残していますが、教育論に関しては、特に『国家』という本と『法律』という本が重要です。ただし、内容を精査すると、お互いに矛盾するような記述も多く、全体的・統一的・総合的に理解するのはなかなか厄介です。ということで、細かい矛盾には目をつぶって、まずは大雑把にプラトンが本当に言いたいことを理解することに努めてみましょう。

教育とは知識の獲得ではない

まずプラトンは、教育に関して世間の人々が抱いている勘違いを糾弾します。世間の人々は、教育を「知識の獲得」と勘違いしています。当時、ギリシアでは自分を教師と称して、お金をとって教育をする人々が活躍していました。彼ら自称教師のことを「ソフィスト」と呼びますが、プラトンは彼らの教育を徹底的に批判します。ソフィストたちがやっているような、人間の外側から知識を注入しようとする試みを、プラトンは断じて「教育」だとは認めません(518B)。では、プラトンが主張する本物の教育とは何でしょうか?

哲学的対話法

結論だけ示しておくと、プラトンが言う本物の教育とは、「哲学的問答法」です。この学問だけが人間を「確実な知識」へと導いてくれます。他の学問では、「確実な知識」へと辿り着くことは絶対にできません。
しかし問題は、この教育の最終目標である「哲学的問答法」というものが具体的にどのようなものであるかが、プラトンの記述そのものからは分からないというところにあります。手がかりはたくさん与えられているので、少しずつ確認していきましょう。

「確実な知識」を求めて

まず、先に「哲学的問答法だけが人間を確実な知識へと導いてくれる」と書いたわけですが、そもそも「確実な知識」とはどういうものでしょうか。実はプラトンは「確実な知識とは何か?」という問題に徹底的にこだわっていて、まずはこれを明らかにしないと彼の教育論そのものを理解することができません。
まずプラトンが否定するのは「感覚」です。感覚を通じて「確実な知識」に到達することは絶対に不可能だと、繰り返し主張しています。例えば同じ対象を見るにしても、見る人の精神的状態が違っていたり、あるいは部屋の明るさなど環境が異なれば、人に与えられる感覚はまったく違ってきます。条件が違えば変わってしまうような曖昧なものを「確実な知識」と呼ぶわけにはいきません。
つまりプラトンが言う「確実な知識」とは、どんなに環境や条件が変わろうが、場所や時代が違っていようが、絶対に変わることのない知識のことです。平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わらない知識、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わらない知識こそが、追い求めるべき「確実な知識」です。

数学の重要性

そんな時代や場所によって変わらないような「確実な知識」が本当にあるのか?と聞かれたら、自信を持って「ある」と言いましょう。たとえば、「三角形の内角の和は二直角と等しい」という事実は、平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わりませんし、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わりません。「数学」の知識は、場所や時代によって変わることがないものと言えそうです。ということで、プラトンは「数学」を極めて重要視し、最終目的である「哲学的問答法」に到達する前に必ず「数学」を修得するべきことを主張しました。プラトンの言うことに従うなら、数学が理解できない人に学問をする資格はありません。
(そして、このようにプラトンが数学を重視することに対して、ピュタゴラス派が極めて大きな影響を与えただろうことが指摘されています。たぶん、そうでしょう。が、このページでは検証しません。)

数学に足りないもの

しかしプラトンは、数学では最終的な「確実な知識」には手が届かないと言います。確かに数学的な手続きを踏んでいけば、一つの決まったゴールに辿り着くことができます。数学の「手続き」や「ゴール」にはまったく問題がありません。問題は、「スタート」にあります。どうしてその「スタート」で良いのか、数学そのものは決して答えてくれません。確かに、いったん「スタート」が正しいと認めてしまえば、あとは決められた手続きに従えば一つの答えを出すことができます。が、しかし、その「スタート」そのものが正しいかどうかは、数学そのものの手続きでは決して分からないのです。
たとえばユークリッド幾何学は、まずいくつかの定義と公準と公理を無条件に承認するところからスタートします。いったん定義と公準と公理を認めてしまえば、あとは手続きに従っていけば必ず一つの決まった答えに辿り着くことができます。しかしそもそも最初に承認した定義と公準と公理が本当に正しいかどうかは、ユークリッド幾何学の手続きでは確認することができません。そこは無条件に「信仰」するしかありません。プラトンはそれを問題視したわけです。本当に正しいかどうかを自分で確認してもいないものなんか、無条件に信じることなどできない、ということです。

演繹と前提さかのぼり法

数学の方法とは、「演繹」です。ある前提が与えられると、そこから論理的な手続きを正確に辿りさえすれば、確実に真理を導き出すことができます。真理を導く手続きに「感覚」の手を借りる必要は一切ありません。「感覚」を必要とせずに真理を導き出せるところに、数学の素晴らしさがあったわけです。ところがこの「演繹」という手続きを進めるためには、まず何らかの前提が必要となります。まずは前提が与えられなければ、演繹という手続きを始めることすらできません。無条件な「前提」を必要とすることが数学の弱点だと、プラトンは見なします。「本物の知識」に辿り着くためには、「前提」そのものが正しいかどうかを確認するために、数学の「演繹」とは違う手続きが必要となります。その手続きをプラトンは「仮設廃棄」と呼びます。
数学は何かを「仮設」するところから議論を始めるけれども、しかし本物の知識に辿り着くためには、その仮設を廃棄して、さらに根源的な仮設へと遡っていく必要があります。そうやって次々と仮設を廃棄していって、もうこれ以上は遡れないというところまで辿り着いた時、そこが究極的な出発点となるはずです。これは「演繹」という手続きとは、まったく反対の手続きです。一般的には「演繹」の反対は「帰納」ということになっていますが、プラトンには通用しません。プラトンにとっては、「演繹」の反対は「仮設廃棄」です。私個人は「仮設廃棄」という言葉よりも「前提をさかのぼる」と言ったほうが分かりやすいので、そう呼びます。「演繹」という言葉も分かりにくいので、「前提から引き出す」とでも呼びましょうか。

善のイデア

このように、前提から結論を引き出す数学の手続きとはまったく反対に、前提をさかのぼっていくのが哲学的対話法という手続きです。そしていったん遡りはじめたら、究極的な始原に辿り着くまで遡りつづけなければなりません。プラトンの言うところによれば、この究極的な始原こそが「善のイデア」ということになります。
ということで、結論だけ言えば「善のイデア」を認識することが教育の目的ということになるわけです。が、どのように具体的な哲学的対話を通じて「善のイデア」に到達するのか、それはプラトンの著作そのものから端的に引用することはできません。ここは、プラトンの著作の全体から総合的に感得すべきものということになるでしょう。事ここに至れば、もはや、プラトンの著作すべてが総合的に「教育」なのだと言うしかないところであります、恐縮です。

国家の存在意義としての教育

ここまでして教育に注意しなければならないのは、プラトンにとっては、教育こそが国家が存在する理由だからです。国家は、ただ人々を生存させるために存在しているわけではありません。人々を善い人生へと向かわせるために存在しています。教育をしない国家は、国家としての存在価値がないわけです。
しばしばプラトンの著書『国家』の主題は何かについて議論されることがありますが、私に言わせれば、その主題は「教育」で間違いありません。なぜなら、理想の国家について論じることはすなわち理想の教育について論じることだからです。教育に触れずに国家について語ることなど、プラトンには想像もできないことです。国家のあり方と教育のあり方は一体となって構想されなければいけません。その姿勢は最晩年の著作であろう『法律』でもまったく変わっていません。

【3】プラトンの教育論(脇筋)

さて、以上、プラトン教育論の本筋を確認したわけですが、この本筋から様々な教育的見解が派生します。脇筋とはいえ、教育論として無視できない内容が満載ですので、確認していきましょう。

体育と音楽・文芸

さて、プラトンが数学を重視していたことはすでに確認しましたが、数学を学習する前の小さな子供たちには、まず体育と音楽・文芸を課すことを提唱しています。まず最重要ポイントは、「体育」といっても、体力を養うことを目的としていないということです。プラトンが「体育」を重視するのは、それが体力や健康の増進に役立つからではなく、「魂」を養うことに大きな意味があるからです。
プラトンによれば、人間の魂は3つの部分が組み合わさってできています。すなわち、「理知的/気概的/欲望的」な部分です。この魂の部分のうち、「欲望的」な部分が突出するとケダモノのようなダメ人間になってしまいます。「理知的」な部分と「気概的」な部分が協力して「欲望的」な部分を押さえつけることで、立派な人間になることができます。そして数学は「理知的」な部分を成長させるのに大きな役割を果たすのですが、小さな子供にはまだ数学を理解することは不可能です。そこで、まずは「気概的」な部分を成長させ、これに「欲望的」な部分を押さえ込ませようとするわけです。この「気概的」な部分を成長させるために必要なのが、「体育」ということになります。だから「体育」とは体力や健康のために課すのではなく、魂の「気概的」な部分の成長のために課すべきものとなるわけです。
しかし「気概」的な部分が突出して成長すると、単に粗野で乱暴な人間になってしまいます。これはプラトンの望むところではありません。そこで、「気概」的な部分を穏やかに落ち着かせるために、「音楽・文芸」を課すことにします。というわけで、この「音楽・文芸」も、単に子供を趣味人にするために課すわけではなく、「魂」の調和のために必要な学科ということになります。
プラトンは、子供たちの魂の調和を図るために、まず「音楽・文芸」を課して気概的部分を手懐け、その後に「体育」によって気概的部分を発達させようと主張します。こうして気概的部分が調和的に発達して欲望的部分を押さえつけることに成功した後に、満を持して数学の勉強に入ろうというわけです。

エリート主義

しかし、気概的部分が調和的に発達すれば問題ありませんが、うまくいかない場合もあるのではないでしょうか? プラトンは、うまく成長しなかった子供は、どんどん教育から脱落させていきます。欲望的部分が優位になってしまった人間は、それに相応しい低レベルな仕事に従事させればいいのであって、さらに高度な勉強をさせる必要はないというわけです。
そんなわけで、プラトンの教育とは、万人に平等に与えられるものなどではなく、落ちこぼれを次々と排除して、最終的にエリートを選抜するものです。恐ろしいことに、この落ちこぼれの排除は、赤ん坊の誕生直後どころか、男女の結婚の過程から開始されます。赤ん坊は、誕生直後に精査され、ダメな赤ん坊は無慈悲に排除されます。ダメな赤ん坊が生まれてこないように、男女の結婚や性交渉も厳しく制限されます。プラトンの教育は、「優生主義」を背景にして成立しています。だから「数学なんてわかんない」なんてプラトンに言おうものなら、人間失格扱いになること間違いありません。

男女平等

しかし逆に言えば、体育と音楽・文芸によって気概的部分を手懐け、さらに数学の学習にも素質を示すようであれば、男女の性差など問題になりません。優秀な女性は、とうぜん男性と混ざって高等教育を受けるべきだという話になります。プラトンが「理性」という観点から男女を完全に対等な存在と見ていることは、彼の教育論を考える上で重要な論点となります。

有害な物語の排除

さて、小さな子供たちの教育を、まず音楽・文芸から始めるべきことは先ほど確認しました。どのような音楽・文芸を子供に与えるべきかについて、プラトンは極めて長い議論をしています。簡単にまとめると、教育にとって有害な物語は子供たちから遠ざけるべきだという議論です。人生経験が豊富な大人にとっては娯楽的作品であっても、何でも素直に受けとってしまう子供に対しては有害な影響を与えてしまうことがあると、プラトンは言います。具体的には、神々に関する物語が問題となります。
このように有害な物語を排除しようとするプラトンの姿勢は、もちろん後の人々から批判の対象となりますが、彼の教育論を考える上で一つの重要な論点となります。

自由と遊び

さて、音楽・文芸と体育の課程を終えて素質があると認められた子供たちは、次に数学の勉強をすることになるわけですが、ここでプラトンは学習を強制するべきではないと主張します。子供たちの自発性に任せて、遊ぶように学習させるべきだと言います。理由は主に二つあって、一つは強制的に学習させられても身につかないという実践的な理由です。もう一つは、最終的に哲学的対話法を身につけなければならない人間にとって、強制されて学習するなどということはあってはならないという理念的な理由です。このあたりは、近年の学習指導要領の「新学力観」にも通じる論理で、彼の教育論を考える上で一つの論点となります。

実用主義の排除

そうして子供たちは数学の学習を始めますが、プラトンが注意するのは、その数学が実用的なものではあってはならないということです。具体的には、商売に役立つために数学を身につけるわけではないということです。数学はあくまでも普遍的な知識への到達を目指し、魂を向上させるために身につけるべきものです。
この姿勢は最晩年の著作『法律』まで貫かれていて、数学だけに限った話ではなく、プラトンにとっての教育とは決して職業に就くための知識や技術を身につけるものではなく、「人間」となるための「普通教育」です。
この実用主義・職業教育の排除は、近代的な普通教育の理念を考える上でも一つの論点となります。

学問の総合

これまで「数学」と無造作に言ってきましたが、プラトンの言う数学は我々の考える数学とは範囲や内容が少しズレているかもしれません。プラトンは数学を、(1)算術(2)幾何学(3)立体幾何学(4)天文学というふうに発展していくものと構想しています。これは単純に見れば、一次元→二次元→三次元→円運動というカリキュラム構想となっています。
そしてすべての課程を終えた際には、それらの学問をバラバラで雑多な知識として考えるのではなく、統一的・総合的に学問を把握することを求めています。単なる知識の習得ではなく、原理の理解を要求していると言えるでしょう。そうでなければ、次のステップである哲学的問答法を始めることなどできません。
この論点は、学習指導要領の言う「深い学び」という言葉にも通じるものであり、彼の教育を考える上でも一つの論点となります。

まとめ:ソクラテスの教育との違い

以上、プラトンの教育論について確認してきました。私が個人的に思うところでは、重要なのは、枝葉末節にとらわれず、まず論理の根幹をしっかりと把握することです。決定的に重要なのは、「善のイデア」に対する理解です。そして、それを踏まえると、雑多に伸びているようにしか見えない枝や葉についても理解することは容易であるように思います。逆に言えば、「善のイデア」について把握する前に細々とした論点に手を出しても、おそらく何も分からずに終わります。
ちなみに、「善のイデア」の理解とは、教科書に書いてあることを頭で理解するような、そんなレベルの話ではありません。最終的には「生き様」の問題となります。ささっとレポートを書くためにインターネットを検索しまくっている限り、一生かかっても「善のイデア」を理解することはないでしょう。(まあ、理解しなかったところで、日常生活では何の問題もありませんけどね。なぜなら、プラトンの理屈では、理解するのは一握りのエリートだけで充分なのだから…)

ソクラテスとの比較

で、ここがソクラテスと決定的に違ってくるところかもしれません。ソクラテスの行動を見る限り、彼にはエリート主義というものが見当たりません。老若男女、どんな人間に対しても分け隔てることなく接しているように見えます。ソクラテスは、誰でも必ず「人間並の知」には辿り着くことができると考えているように見えます。ただし、ソクラテスは「人間の知」と「神の知」を厳密に分けて、我々が到達できるのはしょせんは「人間の知」に過ぎないと自覚すべきことを唱えます。ソクラテスが言う「人間並みの知=無知の知」は、知ろうと思えば知ることができるような知識について語っているのではなく、人間の力では絶対に到達することが不可能であるような、原理的で絶対的な「無知」を相手にしています。人間がたどり着ける最高の知とは、「どんなに頑張っても絶対に知り得ないことがある」ということを知っているということです。
それに対してプラトンは、「神の知」にまで到達しようと試みているように見えます。哲学的問答法は、そのための手段です。しかし問題は、本当に我々の力で「神の知」に到達できるかということです。これがおそらくソクラテスの言うとおり原理的に不可能であったことは、20世紀になってヒルベルトやフレーゲやラッセルやゲーデルら数学者の仕事によって明らかになっていくことでしょう(ただし「人間の知」を「有限の立場」と同じと見なすかどうかなど、なかなか厄介な話ではありますが……)。

参考文献:プラトン教育論の先行研究

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
プラトン『国家』の主題が教育にあると断じており、とてもありがたい本。著者は日本の道徳教育を作り上げる際にも大きな役割を果たしており、その理論的な土台としても注目される。

稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』
プラトンの教育論をどのように実際の道徳教育に活かすかという課題に果敢に挑戦している。

ネトゥルシップ『プラトンの教育論』
プラトン『国家』の中に雑多に散らばっている教育論を統一的に理解しようとしている。

参考文献:プラトンの著作

教育に直接関係するのは特に『国家』と『法律』だが、教育が主要テーマでないものであっても、その対話形式自体がすでに教育だったりするので侮れない。また内容的にも一貫して「知識とは何か」がテーマになっており、著作すべてが教育に関係しているとも言える。中でも『ゴルギアス』『プロタゴラス』『メノン』は、ソフィストを相手にしながら「本物の知識」とは何かを追究しており、教育論を考える上では外せない。さらに『テアイテトス』は産婆術についてのまとまった記述があり、プラトンの教育論を考える上でも重要な本となっている。まあ、全部読んでおこうということだな。

『ソクラテスの弁明・クリトン』
『パイドン』
『饗宴』
『ゴルギアス』
『プロタゴラス』
『パイドロス』
『メノン』
『国家』
『テアイテトス』
『法律』

参考文献:プラトンに関する先行研究

『国家』はプラトンの著作の中でも特に重要なものと衆目が一致しており、先行研究も多い。そして『国家』の本質を教育論と見なさない立場であっても、もちろん教育を無視して『国家』を語れるわけがない。以下の文献は、教育そのものを追究課題としているわけではないものの、プラトンの教育論を考える上で参考になるような様々な視点を与えてくれる。

内山勝利『対話という思想』
納富信留『プラトン 理想国の現在』
納富信留『ソフィストとは誰か』
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」