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【要約と感想】南川高志『マルクス・アウレリウス―『自省録』のローマ帝国』

【要約】ローマ帝政期の皇帝マルクス・アウレリウスは、ストア派の思想を記した『自省録』の著者として知られてきましたが、それはもともと出版するために書かれた作品ではありません。哲学者としての著者ではなく、マルクスを通じてローマ帝国の社会を歴史的に明らかにします。
 マルクスの統治期には凄惨なパンデミックと長期にわたる戦争がある一方、剣闘士競技会のように人間の死をエンターテインメントにする文化もあり、人々は常に死と隣り合わせで生活していました。『自省録』に頻繁に見られる「死」にまつわる記述は、単にマルクス個人の感慨を記したものではなく、当時のローマ帝国の日常を反映しています。
 当時のローマ帝国の政治は、属州出身者の台頭という点で、大きな転換点にありました。ローマ帝国が抱える様々な課題に対して、マルクスは前帝の振る舞いを模範としながら任務として誠実にこなしました。マルクスの統治にはストア派の哲学が反映しているというよりは、誠実な仕事人としての前帝の影響の方が強いでしょう。

【感想】個人的にも『自省録』は興味深く読んだ。長く読み継がれている理由がよく分かる名著だった。
 しかし確かに著者が言うように、実際にやったことや起きたことについてはほとんど記録されておらず、「歴史」の史料としては制約が多い。まあ、だからこそ時代を超えて読み継がれているという事情はあるのだろうが。
 ということで、ローマの政治史を中心に、いろいろ勉強になった。当時の教育と子ども観について厚い記述があって、よい復習になった。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 マルクスの受けた教育について、当時の時代背景も含めて解説があった。

「マルクスの他の上層ローマ市民男性と同じように、読み書き算術の初等教育、文法教師による中等教育、そして修辞学教師による高等教育の三段階をこなした。ただし、注意が必要なのは、教育を受けた場所である。現代社会では教育は「学校」でなされることが一般的であるが、それは近代後期以降の現象であり、上層階級の人々の間では「家」での教育が重視された時代が長かった。」70頁
「ギリシア文化を受け入れたローマでは、ギリシア語による修辞学の教育に学んで、ラテン語による修辞学も発展し、とくに共和制末期のキケロと一世紀のクインティリアヌスの活躍で、単に美しく巧みに語り書く技術としての修辞学ではなく、自由学科の一般教育を習得した「教養ある弁論家」を育成する修辞学教育という理念が唱えられた。しかし、この教育目標は達成されなかったといってよいだろう。皇帝政治の時代に政治弁論の比重は低下し、政治支配層の社会規範、交際の術としての修辞学の意義が大きくなると、その学問は形式を重視するようになり、弁論の技術的向上の方に力が注がれるようになったのである。」79-80頁

 まあ、そういうことだろう。とはいえ、やはり「修辞学」とか「雄弁術」の位置づけに対する理解が、特にルネサンスになって復興することを考えるととても重要なのだ。しかしこれが肌感覚で分からない。本書でも現代人にはピンと来ないだろうと指摘していた通りだ。
 個人的には、古代の人々が学問を「哲学」と「雄弁術」とで二分していたことが気になる。その伝統はルネサンスにも引き継がれる。個人的にはピンとこないが、暫定的に古代の「哲学/雄弁術」の区分は、乱暴に言えば現代の「理科系/文化系」の区分に近いものかとイメージするようにしている。

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 子どもに関する記述が、アリエスの研究を絡めてあった。

「ローマ人の平均寿命はたいへん短かったと考えられている。今日の研究では二〇~二五歳ほどと見積もられている。発見されている子供の墓や墓碑の数が想定より少ないのも、乳幼児期に死亡する者の数が多すぎたためと推定されている。」135頁
「ローマ帝国の経済と社会の研究に画期的成果を上げたケンブリッジ大学教授キース・ホプキンズは、平均寿命を二五歳と推定し、乳児の二八パーセントが誕生後一年以内に死んだと見ているが、イタリアに残されている一歳未満で死亡した子供の墓石は一・三パーセントに過ぎないとも述べる。ほとんどの子供は、何の記念もされずに集合墓に葬られ、この世からいなくなったのだろう。知られているローマ法の規定によれば、一歳に満たずに死亡した子供の服喪期間の定めはなく、三歳未満の子供の死亡の場合は大人の服喪期間の半分であった。」138頁

 日本には「七歳までは神のうち」という言葉があったりなかったりするが、さすがにローマでは「1歳」と「3歳」で区分されていたようだ。体力的・健康的な区分としてはこっちのほうがしっくりくる。7歳は、精神的・労働的・コミュニケーション能力的な区分だろう。

南川高志『マルクス・アウレリウス―『自省録』のローマ帝国』岩波新書、2022年

【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』

【要約】本書は幾何学的な手続きで記されていますが、人間の知性を改善して神とシンクロする至福に到達するためには、これが最善の方法です。
 自己原因である神(つまり自然)は唯一存在する実体として無限の属性で構成されていますが、人間に知覚できるのは精神と延長だけで、神の様態である一切の個物は神の本性の法則に従って必然的に変状を蒙った結果の表現です。
 人間の精神と身体はある一つの様態を精神・延長両側面から表現したもので、精神は身体の観念です。人間の認識には3つの様式があります。(1)表象(2)理性(3)直観。(1)表象は感覚的経験から生じますが、認知の歪みの原因となり、自由意志も錯覚です。真理は真理であるというだけで真理と分かるので、概念的・推理的認識の(2)は確実ですが、神の認識に到達できるのは(3)だけです。
 人間の根本的感情は3つだけです。(1)欲望(2)喜び(3)悲しみ。この3つから人間の感情一切を説明し尽くせますが、根源にあるのは「わたしがわたしでありたい」という自己の存在を維持しようとする傾向性(コナトゥス)であり、その傾向を実現しようとする欲望は人間の本質そのものであり、その必然的な本性に従うことが人間の自由です。
 人間の自由とは、外部から感情を刺激する受動性に隷属せず、能動的な感情に基づいた理性の指図と自己の本性のみによって判断し行動することであって、それが徳です。世界を知れば知るほど、理性と自己の本性に対する理解が高まり、行動の自由が増し、神の認識に近づきます。徳によって報酬が与えられるのではなく、徳のあること自体が至福そのものです。

【感想】西洋哲学史における「人格」ないし「個性」概念の発生地点に立ち会うことを目指して古典を読み進め、古代から中世、ルネサンスを経て近代の入り口に差し掛かり、ここまでにも近代的自我の萌芽らしきものは様々確認できてはいるものの、ここに来てようやく近代性の閾値を越えた感じがする。スピノザはコナトゥスという概念を通じて「わたしがわたしでありたい」という近代的自我の在り様をそうとう剔抉してきたような印象だ。単に「わたし」という自己意識の在り様であれば、たとえばルネサンス期ペトラルカに明瞭に見られるし、あるいは古代アウグスティヌスにまで遡っていいかもしれない。また、様々な特性を持った人がいるという程度の「個性」の表現は、古代からルネサンス期まで満遍なく見つけることができる。しかし「わたしがわたしでありたい」あるいは「わたしはわたしでしかありえない」という再帰的な自我の在り方は、まずモンテーニュに文学的な表現を得て、次いでスピノザに哲学的な表現を得た、ということでいいかもしれない。ちなみにベーコンやデカルトには「わたし」意識は強烈に見られても、「わたしがわたしでありたい」という再帰的な欲望はない。
 となると、モンテーニュやスピノザに至って初めて再帰的な自我の表現が見られることの意味や背景を考えなければならない。大航海時代とか宗教改革とか重要な観点はいろいろあるが、哲学史的には、どうだろう、「懐疑論」への対決というのは一つの契機になるだろうか。懐疑論を「人間には思考の足掛かりなどない」という考え方だと捉えるとして、これを雑に一蹴する(ある特定の思考の足掛かりを示す)のはそんなに難しくないけれども、懐疑論の主張を正面から丁寧に捉えた上で乗り越えていこうと努力したとき、生産的な表現に至るかもしれない。たとえばスピノザは「真理は真理それ自体で真理を表現する」と再帰的な認識論を打ち出して懐疑論を乗り越えているわけだが、それは「私は私それ自身で私を表現する」という再帰的自我論まで紙一重だ。一方モンテーニュはもともと古代懐疑論を信奉していたように見えるが、ひょっとしたらそれを乗り越える過程で「わたしがわたしでありたい」という再帰的な思考(あるいは情念)の「足掛かり」を捉え、文学的な表現に鍛え上げたのではないか。そして仮にそうだとすると、実は懐疑論など一顧だにせず「真実が真実にしか見えない」という認識で突っ走ったガリレオやデカルトの自然科学革命が、やはりそうとう重要な役割を果たしているのかもしれない。人間が頭の中で何を考えようと、懐疑しようと、あるいは考えてはいけないと他人に強制しようと、それでも地球は回っているのである。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティ
 「流れる川は同じ川か?」というアイデンティティ(同一性)に関わる問題に対して、スピノザは明快に「同じ川だ」と言い切る。

「【第2部公理3補助定理4】もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。」
「【補助定理7】もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限の仕方で変化することを容易に理解するであろう。」

 そして同一性の考えを突き詰めていくと、世界は一つの個体だという結論に至る。というか、スピノザの人間(あるいはすべての個物)は、鴨長明にかかれば「かつ消えかつ結ぶ、淀みに浮かぶうたかた」のようなものではある。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 スピノザは子どもについて積極的に語ることはない。否定的な文脈で比喩として登場するだけだ。

「【第2部定理49備考】もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死する人間を何とみるべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。」
「【第3部定理32備考】というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。」
「【第5部定理6備考】幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐れまないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐れむだろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。」

 子どもは愚者や狂人と同じカテゴリーだ。まあ、こういう子ども観はスピノザに限った話ではなく、近代初期までのヨーロッパに共通して広くみられる。というか、ルソーが異常だっただけか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 積極的に子ども観が示されないので、教育の話も積極的に展開されることはない。しかしごく一部に教育の話が現れるので、サンプリングしておく。

「【第3部定理55備考】こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。」
「【第三部「諸感情の定義」27】それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞賛し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって瀆神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。」

 この場合の教育とは、何かしらの知識を与えるinstructionではなく、ましてや内面から可能性を引き出すeducationでもなく、習慣形成のためのtrainingのようなものだし、そもそもスピノザの思想体系に内在的に関わる話でもない。
 しかし一方、以下に引用した文章では、スピノザの認識論に関わるものとして教育を語っている。

「実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるように努める。」

 しかし、目指すべき教育の具体的なプログラムは示されない。スピノザが目指す「知性改善」は本書に示された理路に基づいて各自が認識を改めていくことでしか進まないのであって、何らかのカリキュラムを備えた学校で一定期間過ごせば身につく類のものでもない。となると、スピノザの「知性改善」を実現するためには、いわばプラトンの言う「魂の向け変え」のような契機が必要になるのではないか。
 ということを考えると、最終定理(第5部定理42)で示される「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。」なるテーゼは、プラトン『国家』で示された問いに対するスピノザの回答だ、という理解でいいか。魂の向け変えが人々を徳に導き、それがそのまま至福への唯一の道となる。

「【第4部「付録」第9項】ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の伎倆と才能を証明することができる。」 

 ということで最終的には人々に対する教育へと足を踏み出すことになるのだった。世界を変えるためには、やはり教育に頼るしかないのだ。注目すべきなのは、ここでスピノザが示している教育の内容が「各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやる」となっていることだろう。この場合、はたして教育内容は「理性」に従って同一メニューになるのか、それとも各人のコナトゥスに応じて個別最適なメニューが用意されるべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】欲望
 デカルトは『情念論』で積極的に欲望を肯定したが、スピノザも「欲望」をコナトゥス概念を通じて「人間の本質」だと見なしている。

「【第4部定理18備考】これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私にひきつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。」
「【第4部定理38】人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。」

 こういう表現が見られるようになると、しみじみと「近代だな」という印象を強める。古代や中世には見られない展開だ。それは以下にサンプリングした知識観と響き合っているかもしれない。

「【第5部定理24】我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)」

 西洋哲学史ではソクラテスの「無知の知」から始まって、キリスト教の反知性主義を経て、ルネサンス期になってもペトラルカやエラスムスなど「無知」を称揚する言説に事欠かない。モンテーニュだって自分が無知であると繰り返し韜晦しているし、あのデカルトもなかなか謙虚な姿勢を示している。しかしスピノザにはそんな身振りは一切見られない。認識すればするほど、知識は増えれば増えるほど良いのだ。これは自然科学的(スピノザにおいては幾何学的)な知識観に基づいた身振りと考えていいか。ちなみに人間の認識が有限であることは、もともと織り込み済みだ。

【個人的な研究のための備忘録】国家論
 スピノザの国家論については別の著作『神学・政治論』で本格的に展開されるが、本書にも考え方の概要が示されている。

「【第4部定理37備考2】それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。(中略)そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。(中略)以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。」

 ポイントは、まず「自然権」を「断念」するとは書いてあるが「放棄」や「譲渡」とは書いていないところだろう。国家成立後も、国民は自然権を保持している。
 そして続いて「正義」を「外面的概念」と断言していることから、いわゆる「自然法」をまったく認めていないらしいところも注目だ。スピノザにとっては神(自然)の法則こそが唯一の規範なわけだが、自然の必然的な成り行きとは異なる「人間のルールとしての自然法」の客観的存在は認めないということでいいか。

【個人的な研究のための備忘録】死
 「死」に関するおもしろい文章があったのでサンプリングしておく。

「【第4部定理39備考】身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解している(中略)人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。」

 「死」というものを考える上でもなかなか示唆深い文章だが、「わたしがわたしである」という事態を考える上でも、この説明に付された事例も含めて、興味深い。「わたしがわたし」でなくなってしまうことは、スピノザにとってはただちに「死」を意味するのである。
 ところでこの一文は、ただちにローマ帝政期のストア派哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。」を思い出す。スピノザの思想がストア派と親和性が高い証拠の一つとしていいか。

スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(上)』岩波文庫、1951年
スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(下)』岩波文庫、1951年

【要約と感想】デカルト『哲学原理』

【要約】哲学とは、人間が知りえるすべての完全な知識を扱い、最初の原因からあらゆることを導き出す原理を解き明かすものです。私が示す原理は、極めて明白で、あらゆる他の事物を導き出すので、完璧です。
 初めに、まず怪しいものは全て疑います(でも普段の生活は普通にね)。すると、我疑う故に我あり。だから思惟と物体は異なります。よって神あり。おかげで我々が明晰判明に下す判断には間違いがありません。そんなわけで物体は存在し、運動法則に従います。
 この原理を理解できるようになるために、第一に道徳的な生活を確立し、続いて数学の練習を通じて理性を正しく導く論理学を習得し、続いて根として形而上学、幹として自然学の原理と全宇宙の構成の在り方、さらに枝として他の諸学(空気、水、火、鉱物、植物、動物、人間、医学、道徳、機械学)を学びましょう。この原理を土台として正しく理性を働かせると、どんどん世界の真理が見いだされ、生活が発展し、人間は幸福になるでしょう。
 続いて第二部では人間の身体を含めた物体と、その運動の原理について解説します。物体の本性は三次元の「延長」で、他の性質は属性です。真空はありません。(第三部と第四部は略)

【感想】本編第一部には例の「我惟ウ故ニ我アリ」のコギトテーゼが極めて整然と体系的に述べられている。本格的な概説書では細かいところも押さえていて誤解は生じにくいように思うが、一般的な哲学の教科書だと雑に扱われていて、デカルトの本意が伝わりにくいかもしれない。「切り抜き」ではなく、しっかりデカルト本人のテクストに当たって確認しておきたいところだ。丁寧に読むと、いくつかの疑念は解消できるようにちゃんと書いてある。

 ただ、個人的な印象では、本書の見どころは序文にあたる「仏訳者への著者の書簡」にある。というのは、デカルトの哲学観・哲学史観・知識観・教育観・進歩史観が有機的に示されているからだ。
 まず哲学観に関して、哲学があらゆる知識の原理的な土台となるべきことがしつこく繰り返されるわけだが、それは哲学が人間の「進歩」のための原理として役割を果たすべきだからだ。この素朴な「進歩」への信仰があって、初めて哲学の果たすべき役割が明確になる(だから逆にこの「進歩」への信仰が崩れたところからデカルトの失墜が始まる)。
 哲学史観に関しては、プラトンとアリストテレスに直接言及しているところが注目だ。個人的にはプラトンの評価にやや「?」となるが、それはデカルト個人の理解の問題というより、当時の書誌的水準の問題と考えた方がいいのだろう。(気になるのは、明らかにプラトンを引き継いでいるアウグスティヌスの主著『神の国』は「我疑う故に我あり」というアイデアを示しているのに、それをデカルトが完全に無視しているところだ。意図的にスルーしているのか、単に不勉強なのか、それとも深い理由があるのか)。ともかくデカルトは、プラトンを「疑い」の元祖、アリストテレスを「確実性」の元祖と見なした上で(しかもエピクロスがそれを引き継ぐと主張する!)、両者とも誤っていると切り捨てる。現在の哲学史的な水準からすれば無茶苦茶だが、デカルト本人が何を目指しているかはよく分かる話になっている。
 教育観については、まず、すべての人間に共通する教育可能性を前提としているところが注目だ。デカルトは他の著書で「特に頭がいいわけではない」などと韜晦しているが、本書でも、自分が到達した「真実」はあらゆる人間が共通して理解できると断言する。そしてご丁寧にも、「三回読んだら必ず分かる」と読書指南までしている。どれだけ自信があるんだ。さらにデカルトは学問を身につける際のカリキュラムのようなものも提示する。そのいちばん土台にあるのが「正しい生活習慣」という意味での「道徳」というところは特に注目だ。そして確かに、他の本でも、ストア的な「正しい生活習慣」の重要性はしっかり指摘されている。一般的な哲学教科書ではスルーされがちなところだが、実は後の教育学の展開を考える上でもしっかり押さえておきたい。「正しい生活習慣」の身についていない人間が「我惟ウ」をやったら必ずおかしなことになるのである。

 ところで第二部の物体論は、現代的な知識から見れば、衝突に関する説明が間違いだらけだ。ちょっと確かめればわかりそうな間違いが堂々と書いてあって、何やってるんだろうと思う。この間違いは、解説にもあったが、デカルトが「質量」というものをまったく度外視して、物事をすべて幾何学的なメカニズムで説明しようとしたことに由来するのだろう。本書には化学の観点も、熱力学の考え方も皆無だ。「有機物」に対する無関心も付け加えておくか。まあそれはデカルトの個人的な資質の問題ではなく、時代の制約だったと考えるべきところなのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】アリストテレスをディスる
 ガリレオ・ガリレイはアリストテレス学説に反したかどで異端審問を受けたわけだが、デカルトがその事件に大きな衝撃を受けて自著の出版を見送った事実はよく知られている。だがそれからしばらく時間が経ち(本書出版はガリレオ裁判から11年後)、ほとぼりが冷めたということかどうか、本書ではアリストテレスへのディスが止まらない。

「ここ幾世紀の間、自ら哲学者たろうと欲した大部分の人は、盲目的にアリストテレスに従い、その結果しばしば彼の著作の意味を曲解し、彼がこの世に生き返ってきたとしたら、自分の意見とは認めないであろうような見解を、彼に帰するに至りました。」20頁

 デカルトの言う「ここ幾世紀」とは具体的にはトマス・アクィナス以降の約400年を指しているのだろう。そしてこの引用箇所でデカルトは、アリストテレス本人の学説が間違っているというより、その追随者が無能であったと主張している。しかし実は別のところでは、「アリストテレスの原理の誤りは、これに従ってきた幾世紀いらい、この手段では、何の進歩もなし得なかった」(34頁)と言っている。そしてその指摘はブーメランとしてデカルト自身に突き刺さってしまったのであった。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 理性を重んじるデカルトは、必然的に子どもを歯牙にもかけない。

「我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。」43頁
「しかも精神は幼年期には、身体に融合していたので、多くのものを明晰にではあっても判明には知覚しなかった。にも拘らず、当時も多くのことについて判断を下していたので、ここから多くの偏見が生じ、大多数の人においては、後に至っても取り除かれていないのである。」81頁
「即ち、幼年期には我々の精神は、身体と密に結合していたので、身体を刺激するものを感覚する思惟(心的現象)だけを受け入れ、他の思惟を受ける余地がなかった。」105頁

 ということで、発達論的な視点が微塵もなかったことをしっかり確認しておきたい。

デカルト/桂寿一訳『哲学原理』岩波文庫、1964年

【要約と感想】ダンテ『神曲【完全版】』

【要約】ダンテは地獄・煉獄・天国を巡る数奇な体験を得て、詩を詠みました。
 まず古代詩人ウェルギリウスの案内で地獄を経巡ります。地獄では、カトリック法王を始めとして、様々な罪を犯した人々が呵責ない責めにあって苦しむ様子を見ます。中には旧知の人々もいましたが、地獄に落ちて当然の奴らなので悲しんではいけません。
 煉獄では、天国に行くまでに様々な罪科の禊ぎを済ませるために苦しんでいる人々を見ます。中には旧知の人々もいて、地上に戻ったらよろしく伝えてくれと言われます。
 天国に入ると、それまで案内を努めてくれた頼もしいウェルギリウスの姿は見えなくなり、代わって初恋の女性であったベアトリーチェが至高天まで先導してくれます。ご先祖様から激励されたり、キリスト教の聖人たちと学理問答をしたりして、最終的に神の領域に辿り着きますが、それは言葉にできません。

【感想】予習をぬかりなくしたので噂には聞いていたものの、初恋の人ベアトリーチェをここまで神々しく描くというのは、いやはや、ちょっと私の感覚からは理解しがたい。やり過ぎ感がすごい。単に好きというレベルを遙かに超えるストーカー的偏執も含みこんだような情念を感じて、そこそこ怖い。

 地獄編は、訳者もノリノリに翻訳している感じが伝わってきて、けっこう楽しい。コントのような展開も多い。地獄に落ちた人々は基本的にダンテの独断と偏見で選ばれている。露骨に党派性が現れていて、槍玉に挙げられた人たちがちょっとかわいそうではある。しかし一方、党派性を離れて、キリスト教の原理原則に従って地獄に落ちざるを得なかった人々の立ち居振る舞いには、見所が多い。具体的には例えば男色などカトリック教義的に許容できない人々は、原理原則に従って地獄に落とされるものの、人格的矜持は高潔に保っていたりする。そういうところにキリスト教原理主義をはみ出す「人文主義」の臭いを感じる。
 天国篇は、訳者も言っていたように、確かに抽象度がくんと上がって、物語的に興趣が減じる上に、人文主義の臭いもなくなる感じがする。まあ個人的にはキリスト教神学の構成に興味があるので、そこそこおもしろく読める。

 文体的には、いわゆる「直喩」のオンパレードで、意外性のある喩えも多く、とても楽しい。現代で言えば、お笑いのくりぃむしちゅー上田のツッコミ(まるで○○のようだな!)を想起させる直喩だ。具体的な次元では遠くかけ離れていても形式的には似ている、というものを繋げて表現する才能は、ダンテと上田はよく似ているのかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】子どもに関する言及
 各所に子どもに関する言及があったので、サンプリングしておく。というのは、子どもに対する意識が中世と近代を切り分けるメルクマールだ、というアリエス『子供の誕生』が示唆するテーゼを検証する資料になるからだ。ダンテが属するのが中世なのか近代なのか、あるいはアリエスのテーゼそのものが信用に足るのかを検証するために、『神曲』の記述は有力な資料になる。

ウゴリーノ伯爵がおまえ〔ピーサ〕を裏切って
 城を敵方に明け渡したという風評があるにせよ、
 おまえは子供をああした刑に処するべきではなかった。
ああ第二のテーバイよ、ウグイッチョーネやブリガータ、
 また前に詩に出たあと二人の子供たちは
 年端もゆかず無邪気だった。
(地獄編第33歌85-87)

 ウゴリーノ伯爵と共に塔に閉じ込められた幼い子どもたちが餓死に追い込まれるという陰惨な場面で、よほど印象深いのか、訳者も何回も繰り返し言及している。ただ個人的に注目したいのは、ダンテが子どもたちを「年端もゆかず無邪気」と表現し、父親との連帯責任を取らせることに批判的な姿勢を示しているところだ。アリエス的な理論枠組みからは、少々外れている。

そこで私は、人間の罪から免れる〔洗礼の〕前に
 死の歯にかまれてしまった
 あどけない幼児たちと一緒にいる。
三つの聖なる徳に身を包むことをしなかった人たちと
 そこで私は一緒なのだ。
(煉獄篇第7歌31-35)

 ダンテの案内役ウェルギリウスがどうして天国に行けないかを説明している箇所で、子どもへの言及がある。イエス降誕前に死んだウェルギリウスはもちろんイエスに対する信仰を持てるはずがないわけだが、それを理由として天国に行かせてもらえない。日本人からしたらわけが分からない変な理屈だ。ダンテも同じように感じていたらしく、何カ所かでこの理屈に言及して疑問らしきものも呈しているが、最終的には神の摂理として受け容れている。問題は、天国に行けない人々の中に、洗礼を受ける前に亡くなった「幼児」も含まれていることだ。これもやはり日本人からしたら意味が解らない理屈だが、ダンテも不審に思いつつ神の摂理として受け容れている。キリスト教の子ども観を考える上では重要なポイントになる。

だから、自分たちの行いやその功徳とは関係なく、
 もっぱら最初の視力の鋭さの違いによって
 子供たちは違った段に据えられている。
世界がまだ創られたばかりのころには
 ただ両親に信仰がありさえすれば、
 無垢な子供たちはそれで十分救うことができた。
そのはじめの時代が過ぎた後は
 罪のない男の子は割礼を受けることにより
 天へ舞いあがる力をその羽に得た。
しかし恩寵の時代が到来した後は
 キリストのまったき洗礼を受けぬ場合は
 このような無垢な子供たちもあの下界にとどめおかれた。
(天国篇第32歌73-84)

 いわゆる「洗礼」というものの秘儀を担保するためには、洗礼前の用事を犠牲にしても構わない、というところか。目の前の人間に対する救いよりも神学の論理的一貫性の方が大事というカトリック教義。

信仰と清純は幼児たちの中にしか
 見あたらなくなりました。しかもそのいずれもが
 頬に髭が生えるよりも前に逃げ出してしまいます。
口がまだまわらないころは、断食を守る子供も、
 舌がまわりだすと、食物の如何や月日の如何を問わず、
 大食らいとなってしまうのです。
口がまわらないころは、母親になついて言うことを
 よく聞いた子供も、弁が立つようになると、
 母親は墓にいる方がよい、などと思うようになるのです。
(天国篇第27歌127-135)

 子どもたちにピュアさを見出すのは近代的な心性だという見解があるが、これを見るとダンテは近代的だということになってしまう。アリエスのテーゼが間違っているのか、本当にダンテが近代的なのか、あるいは別の解釈があるか。

【今後の研究のための備忘録】個性に関する記述
 「個性」というものを考える上で興味深い箇所があったのでサンプリングしておく。

すると彼がまた尋ねた、「では訊くが、もし地上で人が
 市民生活を営まないとすれば、事態はさらに悪化するだろうか?
 私が答えた、「むろん悪くなります」
「とすると人がさまざまの職務についてさまざまの生活を送ることなしに
 地上で市民生活が満足に営まれるだろうか?〔答えは〕
 否だ。その点は君らの師の書物にもはっきりと出ている」
こうして彼はここまで演繹的に論をひろげ、
 ついで結論をくだした、「そうしたわけだから
 君らの職務には職掌柄さまざまの根が必要とされるのだ。
それである人はソロンに、ある人はクセルクセスに、
 またある人はメルキゼデク、またある人は
 空中飛行をこころみて子をなくした人のように生まれつくのだ。
天球は回転しつつ、正確に仕事を営み、
 人間という蝋に型を捺すが、
 ひとりひとりが生まれる家に区別はつけていない。
それでエサウとヤコブは体内にいるうちからすでに違っていた。
 それでクィリヌスのような男が生まれ出たりするのだ。
 実父の身分が賤しいからマルスが彼の親ということになっている。
もし神の摂理に力がなかったとするならば、
 生まれ出た子は必ず生みの親に似、
 かつ似通った道をたどるはずだ。
これで前に見えなかった点が見えるようになったろう。
 君の訳に立てば私には嬉しいのだ。だから
 いま一つ補足して君の身に着けさせようと思う、
運命が性に合わないと、性に合わぬ土地にまかれた
 種と同じで、およそ生命のあるものは
 どうしても育ちが悪くなる。
自然によって人々各自の中に据えられたこの基盤に
 もし下界の人が留意し、かつそれに従うならば、
 人々はみなその処を得るはずだ。
しかるに君らは剣を帯びるべく生まれついた人を
 無理強いに宗門に入れ、
 説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。
君らが道を踏みはずす原因は実はそこにあるのだ」
(天国篇第8歌115-148)

 人それぞれに持ち味や特徴があって、それに応じて相応しい役割が与えられるのが一番理に適っているという主張だ。これはたとえばガチガチの身分制では成立しない考えで、脱中世的な発想なのかもしれない。またあるいは119行に「市民生活」とあるように、適材適所の経済活動を想定した理屈なので、フィレンツェの卓越した商業活動が背景にあるのだろう。これが「個性」という概念の展開とどう関係してくるのか。

【今後の研究のための備忘録】近代科学観?

実験こそ人間の学芸の流れの変わらぬ泉なのです。
(天国篇第2歌96)

 訳註によれば「フィレンツェ市は(中略)ルネサンス期には自然科学の研究が非常に盛んになった学芸の都市である。その種の実験の精神ははやくもダンテのこの詩行に観取される。」とされる。一般的に科学的な実験で最初に名を挙げたのはイギリスのロジャー・ベーコンで、生年は1214年~1294年だ。ダンテはベーコンの約半世紀後に生まれているので、ベーコンの影響があっても不思議ではない。が、註が指摘しているとおり、ベーコン云々というより、フィレンツェの先進的な学芸を観取するところなのだろう。「ルネサンス」というものを考える上でもかなり気をつけるべき論点になる。

【今後の研究のための備忘録】三位一体

その時が来るに及び、神は造物主から離れていた人性を
 永遠の愛の働きによって
 神に、神の位格において、結びつけました。
(天国篇第7歌31-33)

 三位一体の秘儀について語られているところだが、訳者はペルソナを伝統通り「位格」と訳している。

この人性が結びついていた
 〔神の〕位格が蒙った非礼を考えてみると、
 かつてなく不当な罰といえるわけです。

 こちらは人性と神性の結びつきという観点から神のペルソナについて語った部分だ。問題になるのは、この「位格」という言葉の具体的な中身になる。

ダンテ/平川祐弘訳『神曲【完全版】』河出書房新社、2010年<1966年

【要約と感想】エピクテトス『人生談義』

【要約】幸せに生きましょう。そのために、自分の力の範囲でできることと、できないことを、明確に区別しましょう。自分の力が及ばないことに執着すると、必ず不幸になります。たとえば、財産、健康、家族、生死といったものは、自分の力ではどうにもなりません。自分の力が及ばない不運が人生に降りかかってきたときは、「ふーん」「ですよね」とでも思いましょう。それは私たちの善悪とは何の関係もありませんから、特に気にする必要はありません。不幸とは、不運なことではなく、不運を気にかける心が原因で陥ってしまうものです。
 一方、自分の力が及ぶものに関しては、力の限り頑張りましょう。その価値はありますし、トレーニングすれば誰にでもできるようになります。すぐやりましょう。自分の力が及ぶ対象とは、自分の心に浮かび上がってくる「心像」です。何でも自分の思い通りになります。心像を思うがままにコントロールすることで、私たちは幸せになることができます。そんなわけで、哲学とは、心像を把握し、容認し、判断するための知恵です。

【感想】後期ストア派を代表する哲学者エピクテトスの言葉を弟子が書き記した『語録』と、思想の要点をまとめた『要録』が収められている。文章量は多いけれども、言っている内容そのものはかなり単純で、同じ趣旨を何度も繰り返している。いつもいつも初心者が同じような初歩的な質問をしてくるから、何度も何度も基礎・基本を確認している、ということなのだろう。というわけで、ストア派の考え方の基礎・基本がよく理解できる本になっている。

 ところで、本書に示されているエピクテトスの考え方は、ひろゆきの考え方とよく似ている、と思う。自分の力が及ばないことには関心を持たず、他人の意見や感情などどうでもよく、見栄や外聞などに気を揉むことなく、できないことができるようになるような努力などせず、ただただ自分のやりたいこと=やれることに力を傾けながら、生活の静穏と安寧を心がけ、ひたすら幸福を噛みしめる、という観点で。という私の直観が正しいとして、もしも仮に今人々がひろゆきの言動に説得力を感じているとすれば、本質的には、実はストア派の考え方に人々が共振している、ということだ。その仮説を傍証するかどうかは分からないが、今まさにストア派の需要が広く生じている。エピクテトスを扱った一般書が立て続けに出版されていたりもするし、セネカ(同じくストア派の思想家)が脚光を浴びていたりもする。
 思い返してみると、エピクテトスが活躍していた帝政期ローマの状況と、現代日本の状況は、「行き詰まり感」という意味において、よく似ている気もする。都市の消費文化が頽廃を極めて拝金主義が横行し、地域格差や経済格差が埋め合わせ不可能なところまで拡大し、人生がうまくいくかどうかは「〇〇ガチャ」で決まり、人々を束ねる共通の目的が見失われ、古くからの共同体が機能しなくなり、人々は剥き出しの「個」として自己責任の名の元に放り出されている。そんな行き詰まり感。そんな真綿に首を絞められて窒息死させられそうな状況で、それでもなんとかサバイバルしようと手を伸ばしたときに、指先にひっかかるのがストア派であり、ひろゆきである、ということなのかもしれない。まあ、おそらく悪いことではない。どのみち、私たちは、何らかの手段で以て、サバイバルしなければならない。

【今後の研究のための備忘録】
 本書には「教育」という言葉がよく出てくる。ただしその中身は、いま我々が考える教育とはずいぶん趣を異にする。

「概してあらゆる能力は教育がなく力が弱い人がもつと、それによって自惚れ尊大になってしまう怖れがあるのだ。」1-8
「人は自分になにか優れた点があるとき、あるいはないのにあると思っているとき、教育を受けていなければ、必ずそのために自惚れることになる。」1-19

「むしろ、教育を受けるというのは、それぞれの物事が起きるがままに起きるように願うことを学ぶということなのである。」1-12
「とすると、教育を受けるというのはどのようなことなのか。それは、自然な先取観念を個々のものに自然本性にかなうようにあてはめ、さらには、物事のうち、あるものはわれわれの力の及ぶものであり、あるものは及ばないものであるということ、つまり意志や意志に基づく行為はわれわれの力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものはわれわれの力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。」1-22

「真の意味で教育を受けた人にとって最もうるわしく最もふさわしいものは、平静であること、恐れのないこと、自由である。自由人だけが教育を受けることを許されるという多くの人たちの言葉を信じるべきではなく、教育を受けた者だけが自由であるという哲学者たちの言葉を信じるべきである。」2-1

教育を受けるというのは、自分に関わるものと他人に関わるものとの区別を学ぶことだ。」4-5

「自分がうまくいっていないことで他人を非難するのは、教育を受けていない人がすることである。むしろ、教育を受け始めた人なら自分を非難するし、教育を受けてしまった人なら他人も自分も非難しないであろう。」『要録』5

 つまりエピクテトスが言う「教育」とは、ストア派の考え方を本質的に理解して実生活で実践できるようになることを指している。単に知識や技術を身につけることはまったく意味していない。(このあたり、原語を踏まえて研究を深めておく意味がありそうだ。)
 それを踏まえると、やたらと「子供」を例に出してくることもおもしろい。エピクテトスにとって、子どもは単に「教育」を受けていない未熟なものに過ぎない。そこに発達可能性の一端も見ることはない。

「何のためにか。自分が納得するだけで十分ではないのか。子供たちがやって来て、手をたたきながら「サトゥルナリア祭おめでとうございます」と言っているのに、彼らに「それはめでたくないよ」などと答えるだろうか。けっしてそんなことはしない。むしろ、自分たちも手をたたくのだ。だから、君もだれかの考えを変えることができなければ、その人を子供だと思って、一緒に手をたたけばよい。そんな気持ちにならなければ、それからは黙っていることだ。」1-29

「だが、ソクラテスはそれらのものをうまくお化けと呼んでいた。つまり、経験がないために子供たちにはその仮面が恐ろしくて怖いもののようにみえるように、われわれもまた、子供たちがお化けに対するのと少しも変わることなく、それらの事柄に対して同様の感情を抱くわけである。というのも、子供とは何であるか。無知である。子供とは何であるのか。学びの欠如である。子供が知っているところでは、彼らもわれわれと変わるところがない。」2-1

「そうしないと、子供に戻って、ある時はレスリングで、ある時は一騎打ちをして遊んだり、ある時は喇叭を吹いたり、さらにみたり驚いたりしたことで悲劇の芝居ごっこをする。そのようにして、君もある時は競技者になり、ある時は剣闘士になり、さらに哲学者に、またさらには弁論家になるけれども、本気ではなににもなっていない。」3-15
子供のように、今が哲学者だが、後で税務官に、その次には弁論家に、またその次は皇帝任命の太守になりたがってはならない。」3-15

「例えば、われわれがまだ子供だった頃、口を開けて歩いていてなにかに躓いたりすると、乳母はわれわれを叱らずに、その石を叩いたものだった。いったい石は何をしたというのか。君の子供の馬鹿な行動のために、石はよけねばならなかったのか。さらに、われわれが風呂から帰ってきたときに食べるものがないと、子守役の召使はわれわれの欲求を抑えてかかるのではなく、代わりに料理係を打ちすえる。ねえ君、われわれは君を料理係の守役に決めたのではなく、われわれの子供の守役にしたのだから、子供をしつけて、子供のためになることをすればいいのだ。
 このように、われわれは成長しても子供のようにみえる。音楽を知らない人は音楽において子供であり、読み書きを知らない人は読み書きにおいて子供であり、教育のない人は人生において子供であるからだ。」3-19

「そんなふうに幼稚で子供っぽくふるまうのをやめる気はまったくないのか。子供のようにふるまう人が歳を重ねると、それだけ滑稽になるということが分からないのか。」3-24

「それでは、子供を護衛兵がついている僭主のところに連れていっても、怖がらないのはどうしてだろうか。子供が護衛兵を知らないからか。」4-7
「だれかがイチジクやアーモンドを撒くと、子供たちが奪い合って、互いにけんかを始める。だが、大人たちはつまらないことだと思うから、そんなことはしない。しかし、だれかが陶片を撒いたら、子供たちも奪い合うことはない。地方総督の仕事が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。お金が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。将軍や執政官の職が配分される。子供たちに奪い合いをさせるがよい。」4-7

 徹頭徹尾、子どもを未熟で無知でくだらないことをする取るに足らない存在だと見なしているのであった。まあ、エピクテトスに限らず、西洋の古代から中世にかけてあらゆる人が同様の見解を示しているわけではあるが、分かりやすく表現されたサンプルということでは、けっこう貴重かもしれない。

 それから、「有機体」思想に関するおもしろい表現もサンプリングしておきたい。

「つまり、足については清潔であることが自然本性にかなっていると私は言うだろうが、もし君が足を足として認め、ほかから切り離されたものではないと考えるならば、それを泥の中に突っ込んだり、茨を踏んだり、時には全身のために切り離したりすることがふさわしく、もしそうでなければ、もはや足でないことになるだろう。われわれについても、なにかそんなふうに考えねばならない。君は何であるのか。人間である。もし君が自分をほかから切り離されたものと考えるならば、老年まで生き、富を蓄え、健康であることが自然本性にかなっている。だが、自分を人間として、つまりある全体の一部だと考えるならば、その全体のために時には病気をし、時には航海して危険を冒し、時には困窮し、また寿命の前に死ぬこともふさわしくなる。そうすると、なぜ君は腹を立てているのか。切り離された足がもはや足でないように、君も人間でなくなるということに気付かないのか。というのは、人間とは何であるのか。それは国家の一部である。第一には、人間と神々とからなる国家の、その次には、これに最も近似していると言われているもので、全体的な国家のなにか小さな模倣である国家の一部である。」2-5

「君は野獣と区別され、家畜と区別される。それに加えて、君は宇宙の市民であり、その一部であり、奉仕するものではなく指図するもののひとつである。なぜなら、君は神の支配を理解し、それから結果することを考慮することができるからである。ところで、市民の務めとは何であるのか。市民の務めは、どんなことでも私的な利益に関わるものとみなさず、どんなことについてもほかから切り離されたものと考えず、かりに手足が理性をもち、自然の仕組みを理解しているならば、全体に関わること以外のことに衝動を感じたり、欲求したりすることはけっしてないであろうが、それと同じように行動することである。」「それが全体の秩序から分かれて配分されたこと、全体は部分よりも、国家は市民よりも優れたものであることに気づいているからだ。」2-10

 もちろんこういう有機体思想は、既にプラトン『国家』の中に色濃く見られる(というか主題そのもの)であって、エピクテトスやストア派の専売特許というわけではない。後にキリスト教思想においても「神の国」における一体化が強調されていくことにもなるだろうし、ヘーゲルは「胃」によるメタファーを好んで使うことになるだろう。ここでは具体的に「足」や「手」というメタファーが使われているということに注目しておきたい。

 さてまたさらに、「人格」(ギリシア語でプロポーソン)の用例サンプルを得た。

「しかし、理にかなうこと、かなわないことを判別するために、われわれは外的なものの価値だけでなく、それぞれが自分の人格に関わるものの価値も用いている。」1-2
「というのは、一度でもそのようなことを考えたり、外的なものの価値を計算したりした者は、自分自身の人格を忘れてしまった者とほとんど変わらないからだ。」1-2
「ある人がこう訪ねた。「どうやってわれわれはそれぞれ自分の人格にかなったことを知ることになるのでしょうか」」1-2

「このことをよく記憶していれば、どんな場合にも、君がもつべき君自身の人格を保つことができるだろう。」4-3

 これに関して、本書の解説では以下のように指摘している。

「人格と訳したギリシア語のプロソーポンは顔の意味であるが、仮面をも意味しうる。いわば内面の自己である。それは本来の人間性を指し、同じく仮面を意味するペルソーナ(persona)によってラテン語化されて、キケロなどを通じて後に近代の人格概念(personality)へと受け継がれる。基本的には人格の喪失が個人の存在意義の喪失を結果させることを意味するわけであるが、尊厳を失わないための手段とされる自殺は、今日的な意味よりも範囲が広いことが注意されてよいであろう。」下486-487

 解説では、キケロを通じて近代の人格概念へと受け継がれるとサラッと書いてあるが、果たしてそんなにサラッと理解してよいのかどうか。別の研究者はキリスト教の「三位一体」思想が決定的に重要な役割を果たしたと言っている。個人的には、「有機体」の思想も背後で大きな役割を果たしているような直感がある。
 このテーマに関して「カラクテール=刻印」に関する記述もサンプリングしておきたい。

「つまり、土地、家屋、旅館、奴隷ではなく――これらは人間にとって真に固有のものではなく、すべて他人のもの、隷属的、従属的であるもの、主人によってその時々に各人にあたえられたものだからである――、むしろ人間的なもの、心の中にもってこの世に生まれてきた刻印を失った人を悲しむべきなのだ。われわれはこにょうな刻印を貨幣の中にも探し、これをみつければ貨幣として認めるが、みつからないとそれを投げ捨ててしまう。」4-5

 ここに表現された「刻印」とはカラクテール、後には「性格」と訳されるような言葉である。むしろ近現代の「人格性=personality」とは、人間が人間である所以のものをさしており、こちらの「刻印」のほうが意味内容としては近いのではないか。だからというか、現代においてもcharacterという言葉は「性格」と訳されることもあれば「人格」と訳されることもある。エピクテトスの段階においては、むしろプロポーソンという言葉には「社会的な役割=仮面」という意味合いが強く、近現代のような「責任の主体」という意味合いは薄いような印象がある。このあたり、もっとたくさんサンプルを集めて検討しなければならない。

 また近代以降に表明される考え方と響き合うような表現がいくつかあったのでサンプリングしておく。まず個別の利益が集団の利益と自然に一致することに関して。(もちろんアダム・スミスとの関連)

「一般的に言って、ゼウスはこのような自然本性をもった理性的な動物をこしらえたが、それは共通の利益になんらかの貢献をするのでないかぎり、個別的な善のいかなるものも獲得できないようにするためなのである。かくして、すべてのことを自分のためにするからといって非社会的であるわけではないことになる。」1-19

 それから、一般と個別の明確な区別に関して。(教育に関しては、普通教育=education/専門教育=instructionの区別)

「さらに、目的には一般的なものと個別的なものとがある。最初のものは人間としてあるための目的である。これには何が含まれているか。たとえおとなしくても羊のように行動することではなく、野獣のように有害な行動をすることでもない。個別的な目的のほうは、各人の生の営みや意志に関連している。竪琴を弾いて歌う人は竪琴を弾いて歌う人として、大工は大工として、哲学者は哲学者として、弁論家は弁論家として行動する。」3-23

 もちろんこれらはエピクテトスやストア派固有の考えというよりは、アリストテレスを引き継いで様々な立場から表明されているものではある。サンプルをたくさん集めて、近現代に流れ込んでくる様子を把握したいものではある。

エピクテトス『人生談義(上)』國方栄二訳、岩波書店、2020年
エピクテトス『人生談義(下)』國方栄二訳、岩波書店、2021年