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【要約と感想】ダンテ『神曲【完全版】』

【要約】ダンテは地獄・煉獄・天国を巡る数奇な体験を得て、詩を詠みました。
 まず古代詩人ウェルギリウスの案内で地獄を経巡ります。地獄では、カトリック法王を始めとして、様々な罪を犯した人々が呵責ない責めにあって苦しむ様子を見ます。中には旧知の人々もいましたが、地獄に落ちて当然の奴らなので悲しんではいけません。
 煉獄では、天国に行くまでに様々な罪科の禊ぎを済ませるために苦しんでいる人々を見ます。中には旧知の人々もいて、地上に戻ったらよろしく伝えてくれと言われます。
 天国に入ると、それまで案内を努めてくれた頼もしいウェルギリウスの姿は見えなくなり、代わって初恋の女性であったベアトリーチェが至高天まで先導してくれます。ご先祖様から激励されたり、キリスト教の聖人たちと学理問答をしたりして、最終的に神の領域に辿り着きますが、それは言葉にできません。

【感想】予習をぬかりなくしたので噂には聞いていたものの、初恋の人ベアトリーチェをここまで神々しく描くというのは、いやはや、ちょっと私の感覚からは理解しがたい。やり過ぎ感がすごい。単に好きというレベルを遙かに超えるストーカー的偏執も含みこんだような情念を感じて、そこそこ怖い。

 地獄編は、訳者もノリノリに翻訳している感じが伝わってきて、けっこう楽しい。コントのような展開も多い。地獄に落ちた人々は基本的にダンテの独断と偏見で選ばれている。露骨に党派性が現れていて、槍玉に挙げられた人たちがちょっとかわいそうではある。しかし一方、党派性を離れて、キリスト教の原理原則に従って地獄に落ちざるを得なかった人々の立ち居振る舞いには、見所が多い。具体的には例えば男色などカトリック教義的に許容できない人々は、原理原則に従って地獄に落とされるものの、人格的矜持は高潔に保っていたりする。そういうところにキリスト教原理主義をはみ出す「人文主義」の臭いを感じる。
 天国篇は、訳者も言っていたように、確かに抽象度がくんと上がって、物語的に興趣が減じる上に、人文主義の臭いもなくなる感じがする。まあ個人的にはキリスト教神学の構成に興味があるので、そこそこおもしろく読める。

 文体的には、いわゆる「直喩」のオンパレードで、意外性のある喩えも多く、とても楽しい。現代で言えば、お笑いのくりぃむしちゅー上田のツッコミ(まるで○○のようだな!)を想起させる直喩だ。具体的な次元では遠くかけ離れていても形式的には似ている、というものを繋げて表現する才能は、ダンテと上田はよく似ているのかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】子どもに関する言及
 各所に子どもに関する言及があったので、サンプリングしておく。というのは、子どもに対する意識が中世と近代を切り分けるメルクマールだ、というアリエス『子供の誕生』が示唆するテーゼを検証する資料になるからだ。ダンテが属するのが中世なのか近代なのか、あるいはアリエスのテーゼそのものが信用に足るのかを検証するために、『神曲』の記述は有力な資料になる。

ウゴリーノ伯爵がおまえ〔ピーサ〕を裏切って
 城を敵方に明け渡したという風評があるにせよ、
 おまえは子供をああした刑に処するべきではなかった。
ああ第二のテーバイよ、ウグイッチョーネやブリガータ、
 また前に詩に出たあと二人の子供たちは
 年端もゆかず無邪気だった。
(地獄編第33歌85-87)

 ウゴリーノ伯爵と共に塔に閉じ込められた幼い子どもたちが餓死に追い込まれるという陰惨な場面で、よほど印象深いのか、訳者も何回も繰り返し言及している。ただ個人的に注目したいのは、ダンテが子どもたちを「年端もゆかず無邪気」と表現し、父親との連帯責任を取らせることに批判的な姿勢を示しているところだ。アリエス的な理論枠組みからは、少々外れている。

そこで私は、人間の罪から免れる〔洗礼の〕前に
 死の歯にかまれてしまった
 あどけない幼児たちと一緒にいる。
三つの聖なる徳に身を包むことをしなかった人たちと
 そこで私は一緒なのだ。
(煉獄篇第7歌31-35)

 ダンテの案内役ウェルギリウスがどうして天国に行けないかを説明している箇所で、子どもへの言及がある。イエス降誕前に死んだウェルギリウスはもちろんイエスに対する信仰を持てるはずがないわけだが、それを理由として天国に行かせてもらえない。日本人からしたらわけが分からない変な理屈だ。ダンテも同じように感じていたらしく、何カ所かでこの理屈に言及して疑問らしきものも呈しているが、最終的には神の摂理として受け容れている。問題は、天国に行けない人々の中に、洗礼を受ける前に亡くなった「幼児」も含まれていることだ。これもやはり日本人からしたら意味が解らない理屈だが、ダンテも不審に思いつつ神の摂理として受け容れている。キリスト教の子ども観を考える上では重要なポイントになる。

だから、自分たちの行いやその功徳とは関係なく、
 もっぱら最初の視力の鋭さの違いによって
 子供たちは違った段に据えられている。
世界がまだ創られたばかりのころには
 ただ両親に信仰がありさえすれば、
 無垢な子供たちはそれで十分救うことができた。
そのはじめの時代が過ぎた後は
 罪のない男の子は割礼を受けることにより
 天へ舞いあがる力をその羽に得た。
しかし恩寵の時代が到来した後は
 キリストのまったき洗礼を受けぬ場合は
 このような無垢な子供たちもあの下界にとどめおかれた。
(天国篇第32歌73-84)

 いわゆる「洗礼」というものの秘儀を担保するためには、洗礼前の用事を犠牲にしても構わない、というところか。目の前の人間に対する救いよりも神学の論理的一貫性の方が大事というカトリック教義。

信仰と清純は幼児たちの中にしか
 見あたらなくなりました。しかもそのいずれもが
 頬に髭が生えるよりも前に逃げ出してしまいます。
口がまだまわらないころは、断食を守る子供も、
 舌がまわりだすと、食物の如何や月日の如何を問わず、
 大食らいとなってしまうのです。
口がまわらないころは、母親になついて言うことを
 よく聞いた子供も、弁が立つようになると、
 母親は墓にいる方がよい、などと思うようになるのです。
(天国篇第27歌127-135)

 子どもたちにピュアさを見出すのは近代的な心性だという見解があるが、これを見るとダンテは近代的だということになってしまう。アリエスのテーゼが間違っているのか、本当にダンテが近代的なのか、あるいは別の解釈があるか。

【今後の研究のための備忘録】個性に関する記述
 「個性」というものを考える上で興味深い箇所があったのでサンプリングしておく。

すると彼がまた尋ねた、「では訊くが、もし地上で人が
 市民生活を営まないとすれば、事態はさらに悪化するだろうか?
 私が答えた、「むろん悪くなります」
「とすると人がさまざまの職務についてさまざまの生活を送ることなしに
 地上で市民生活が満足に営まれるだろうか?〔答えは〕
 否だ。その点は君らの師の書物にもはっきりと出ている」
こうして彼はここまで演繹的に論をひろげ、
 ついで結論をくだした、「そうしたわけだから
 君らの職務には職掌柄さまざまの根が必要とされるのだ。
それである人はソロンに、ある人はクセルクセスに、
 またある人はメルキゼデク、またある人は
 空中飛行をこころみて子をなくした人のように生まれつくのだ。
天球は回転しつつ、正確に仕事を営み、
 人間という蝋に型を捺すが、
 ひとりひとりが生まれる家に区別はつけていない。
それでエサウとヤコブは体内にいるうちからすでに違っていた。
 それでクィリヌスのような男が生まれ出たりするのだ。
 実父の身分が賤しいからマルスが彼の親ということになっている。
もし神の摂理に力がなかったとするならば、
 生まれ出た子は必ず生みの親に似、
 かつ似通った道をたどるはずだ。
これで前に見えなかった点が見えるようになったろう。
 君の訳に立てば私には嬉しいのだ。だから
 いま一つ補足して君の身に着けさせようと思う、
運命が性に合わないと、性に合わぬ土地にまかれた
 種と同じで、およそ生命のあるものは
 どうしても育ちが悪くなる。
自然によって人々各自の中に据えられたこの基盤に
 もし下界の人が留意し、かつそれに従うならば、
 人々はみなその処を得るはずだ。
しかるに君らは剣を帯びるべく生まれついた人を
 無理強いに宗門に入れ、
 説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。
君らが道を踏みはずす原因は実はそこにあるのだ」
(天国篇第8歌115-148)

 人それぞれに持ち味や特徴があって、それに応じて相応しい役割が与えられるのが一番理に適っているという主張だ。これはたとえばガチガチの身分制では成立しない考えで、脱中世的な発想なのかもしれない。またあるいは119行に「市民生活」とあるように、適材適所の経済活動を想定した理屈なので、フィレンツェの卓越した商業活動が背景にあるのだろう。これが「個性」という概念の展開とどう関係してくるのか。

【今後の研究のための備忘録】近代科学観?

実験こそ人間の学芸の流れの変わらぬ泉なのです。
(天国篇第2歌96)

 訳註によれば「フィレンツェ市は(中略)ルネサンス期には自然科学の研究が非常に盛んになった学芸の都市である。その種の実験の精神ははやくもダンテのこの詩行に観取される。」とされる。一般的に科学的な実験で最初に名を挙げたのはイギリスのロジャー・ベーコンで、生年は1214年~1294年だ。ダンテはベーコンの約半世紀後に生まれているので、ベーコンの影響があっても不思議ではない。が、註が指摘しているとおり、ベーコン云々というより、フィレンツェの先進的な学芸を観取するところなのだろう。「ルネサンス」というものを考える上でもかなり気をつけるべき論点になる。

【今後の研究のための備忘録】三位一体

その時が来るに及び、神は造物主から離れていた人性を
 永遠の愛の働きによって
 神に、神の位格において、結びつけました。
(天国篇第7歌31-33)

 三位一体の秘儀について語られているところだが、訳者はペルソナを伝統通り「位格」と訳している。

この人性が結びついていた
 〔神の〕位格が蒙った非礼を考えてみると、
 かつてなく不当な罰といえるわけです。

 こちらは人性と神性の結びつきという観点から神のペルソナについて語った部分だ。問題になるのは、この「位格」という言葉の具体的な中身になる。

ダンテ/平川祐弘訳『神曲【完全版】』河出書房新社、2010年<1966年

【要約と感想】西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』

【要約】自然科学の考え方で、生徒の行動や考え方を観察して、帰納的に原理原則を考えれば、自ずと学校の在り方が見えてきます。校則は必要ありませんし、定期テストや制服も必要ありません。「ひとつの校長ルール」とは、誰かが勝手に決めたルールを無条件に信奉して演繹的に思考するのではなく、帰納的に物事を考えるということです。

【感想】物事を考えるルールは「帰納的に思考する」ということだが、根底にあるのは、子どもを一人の人間として扱い、人格を尊重するという、人権感覚だ。「大人/子ども」を区別することなく、境界線を引くことなく、徹底的に子どもたちを一人の人間として扱う。この土台が揺らがないから、教師や生徒たちも安心してついていくことができるのだろう。この理念がなかったとしたら、帰納的な自然科学思考を徹底したとしても、たいした成果は挙がらないだろう。徹底的な人間愛の理念の下で大きな成果を挙げた手腕には、ただただ頭が下がる。すごい。

カント・ヘーゲル以降の近代的人間観においては、「大人」と「子ども」の間には確固たる境界線が引かれ、「未成熟な子ども」は一方的に「理性的な大人」の指導を受ける立場だと考えられてきた。その基本的なOSの上に、学校制度を中心とする近代教育は形成されている。「大人/子ども」の厳密な区別を前提として、初めて近代学校制度は動くように組み立てられている。
しかし近代的な「大人/子ども」の峻別は、50年ほど前から向こうになりつつある。大人は決して理性的でないし、子どもは必ずしも未成熟でないという理解が説得力を持ちつつある。1989年「子どもの権利条約」は、子どもを一人の人間として認めようという理念の集大成となった。それに伴い、既存の近代的価値観に寄りかかる学校制度は機能不全を起こしつつある。近代的な「大人/子ども」の区別が説得力を持たなった現代だからこそ、「子どもを一人の人間=おとな」として扱うという根本的な価値転換が大切になってくる。
本書は、根本的な価値転換の在り方を、具体的な形で丁寧に示してくれる。とても貴重な実践だ。現実には賛否両論があるのだが、表面的なところでこの実践を否定している人々の意見は、実にくだらない。「近代的価値観」の是非にまで踏み込んで、初めて賛否両論を検討することに意味がある。

西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』小学館、2019年

【感想】画家が見たこども展(三菱一号館美術館)

三菱一号館美術館で開催されている「画家が見たこども展」を見てきました。ナビ派の画家(19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍したグループ)が描いた「子どもの絵」を中心とした企画展です。

教育学者という職業柄、「子どもの絵」と聞くと、どうしてもフィリップ・アリエスの研究を思い浮かべてしまいます。子どもに対する視線が、近代になってから決定的に変化したという話です。著書『〈子供〉の誕生』の表紙は、ブリューゲルが描いた「子どもの遊戯」でした。さて、この展覧会で扱う作品は19世紀から20世紀への変わり目、まさにエレン・ケイが『児童の世紀』を上梓して、人々が子どもに注視し始めた時代と重なります。
そういう教育学研究者視点を以て観覧に臨んだわけですが。まあ、正直言って、ポイントを掴み損ねた感じがします。よく分かりませんでした。
全体的な印象は、「あまり可愛くないなあ」というところです。岸田劉生「麗子」の可愛くなさともイメージがダブります。(岸田劉生とは、時代的にも微妙にカブっていますかね)。後ろ向きや横向きの絵も多く、焦点を合わせにくい感じもありました。まあ、あまり居心地は良くありません。ひょっとしたら、そういう掴み所のない、得体の知れない感じというものこそ重要ということなのかもしれません。

撮影OKのパネルがあったので。

「PETITS ANGES(可愛い天使たち)」と題された版画です。警察官が貧しい身なりの男を連行していく周りに子どもたちが集まって囃し立てている情景です。さすがに展覧会イチオシの絵に選ばれているだけあって、「居心地の悪さ」を端的に言語化するきっかけを与えてくれます。やはり不気味さを感じたのは、「学校化されたブルジョワの子どもばかり」というところだったのでしょう。同時期のヨーロッパでは、急激に資本主義が展開する過程で、まだまだ酷い児童労働が横行していました。解説等で「無垢」という言葉を見るたびに身を捩りたくなるような違和感を覚えざるを得なかったわけですが、そういう「人工的に作られたブルジョワ的な無垢」というものへの違和感をこの版画は表現してしまったのかもしれません。

まあ、居心地の悪さを体感すること自体は、悪い経験ではありません。これまで縁がなかった価値観に触れるチャンスだったということです。「子ども」という主題でなければナビ派の展覧会に興味を持つこともなかったでしょうから、これを機会に私自身の感受性や世界が広がればいいかなというところです。

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』

【要約】独創性の必要ない単純労働を大勢に我慢させてやらせる時代には日本の教育はうまくいっていましたが、現在では完全に時代遅れになっています。単に過去を記憶して正確に再現させる学力では、変化の激しい時代に対応できません。これから必要なのは、自分で考え判断し学び続ける「未来の学力」です。
参考となるのが、フィンランドの教育です。地域間格差を徹底的になくし、個人差に対応することで、世界一の学力を実現しています。教育の専門家としての教師の権威が高く、行政も適切なサポートに徹しているからです。素人である政治家が思いつきで適当に口を出す日本とはまるで異なっています。
日本は、英米の弱肉強食型新自由主義を採用してからおかしくなりました。多文化共生のEUに学ぶべきです。

【感想】本書が出版された2008年は、いわゆる「学力低下」に関する論争が一段落し、詰め込み型の学力観が一定程度の勢力を確保していた時代だった。そんななか、本書は旧来の学力観を徹底批判し、「未来の学力」の旗印を掲げる。だから、口ぶりも過激に流れがちになるのも、無理はないような気はするのだった。
とはいえ、2019年現在の地点から見れば、著者の考え方が勝利を収めているように見える。文科省はOECDのほうばかり見ている。(本当に本質を理解しているかどうかはともかくとして。)
本書は、学力低下論争の最中に投じられた一石として、十分に役割を果したということかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
学力観の転換を考える上で、示唆に富んだ表現が極めて多い。

「日本の学力観は「何を学んだか」を最重要視しますが、EUは学力観を「これから何ができるのか」にシフトしたのです。」12頁
「知識の量や計算スピードを測るという学力はEUの眼中にはありません。たとえ計算など遅くても、また知識量は少なくても、問題を把握する力、その問題を解決するために何を応用するのか、なにが必要なのかを選別し組み合わせる力が、今日の学力として問われるのだと、はっきり言っているのです。」16頁
「さまざまな人間のあいだで発揮される多様な能力――それを学力という。そう学力像は変わったのです。」16頁
「いまの日本に必要なことは、学力の詰め込みという教育観を変えることです。また受験や就職に役立つものが学力なのだという学力観を変えることです。」18頁
「日本人の多くは、学校教育を通じて養われるものが「学力」だと信じて疑わぬようです。」21頁
「新自由主義は、学力は商品にすぎず、資格や免許にとどまり、真の能力、人生や生き方、考え方、成長につながる学力としてはとらえていません。」29頁
学力とは何かを規定することはとても難しいことです。学力の定義は、教育研究者の数ほどあるといった見方さえあります。(中略)学力の暫定的な仮説とは、
・学校教育において育成されるべき能力
・学齢期に形成される能力のうち、将来の基盤となる重要なもの
です。」123頁

まあ、同じことを様々な角度から述べているわけではある。つまり、「ゆとり教育」は正しかったのだ。(著者は「ゆとり教育」という言葉を前面には打ち出さないけれど)

また「大人と子どもの境界線」についても、興味深い記述がある。

「日本の法律体系は、子どもと大人のあいだに明確な境界線を設け、それぞれまったく違う対応をしています。しかし教育の論理では、人は子どもから徐々に大人に成長する者であり、ある日突然、大人になるわけではない。
その「徐々に」の段階で自立への支援をし、子どもの自由度が高まるような教育をすることこそが肝心なのです。その自由の中で自分をコントロールし、失敗したときには自分で責任をとるような力を身につけさせていく。
ところが日本では、力をつけて自立しようとする子どもを「まだ子どもだから」という理由で抑圧し、大人の支配下に置く教育方法がとられています。自立できるように人間を育てようとしていないのです。」119頁

厳密に言えば、「日本の法律体系」というよりも「近代的な法律体系」と言ったほうがいいのだろう。ヨーロッパでも、近代になってから「子どもと大人のあいだに明確な境界線」を設けるようになったわけで。
しかし1945年以降、ふたつの観点からこの境界線が壊されていく。ひとつは「生涯教育」の理念で、これは近代的な大人概念を相対化する。もうひとつは「子どもの権利」の理念で、これは近代的な子ども概念を相対化する。
学力観が変わるのも、土台にあるのは「子どもと大人のあいだの境界線」が相対化したことにあるように思うのだった。

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』東海教育研究所、2008年

重松清『せんせい。』

【要約】学校の先生(保健室の養護教諭含む)が主人公だったり重要なキャラクターとして登場する短編小説6本のオムニバスです。
ほぼ全ての作品に共通しているのは、おとなになるとはどういうことかということ、そしてそれを受け容れる際のほろ苦さとの付き合い方です。

【感想】40代になってから読むと味わいがある作品群のような気がするんだけど、若い人はどう読むのかなあ。分かるのかなあ。言葉の表面的な意味は追うことができても、ある程度の人生経験を積まないと本当のところは分からないような気がしないでもないのだが、どうだろう。

【言質】「おとな」に関する文章がたくさん出てくる作品群だ。

「センセ、オトナにはなして先生がおらんのでしょう。先生なしで生きていかんといけんのをオトナいうんでしょうか。」51頁、白髪のニール

教育史学の知見から言えば、その通りなのであった。学校教育(すなわち教師)と「大人/子ども」の分離という事態は、理論的に同時に発生する。

「私は両親に言った。「高校は卒業できなかったけど、立派におとなになってました」とつづけると、」243頁、泣くな赤鬼
「悔しさを背負った。おとなになった。私の教え子は、私の見ていないうちに、ちゃんと一人前のおとなになってくれたのだ。」245頁、泣くな赤鬼

「そういうあだ名を付けられる教師は、じつは意外と生徒から好かれているものなのだ。――おとなになったいまなら、なんとなくわかるのだけど。」253頁、気をつけ、礼
「不満が顔に出たのだろう、父親は「子どもじゃのう」と笑い、静かに言った。」268頁、気をつけ、礼

要するにつまり、「おとな」とは現実と折り合いをつけて自己を自己として定位した存在を言うようだ。確かにそれは論理的にも「自己実現」のモードだ。本書では夢に破れ理想を失いながらも、現実の中に自分を定位させていく姿が切なく描かれていく。それが「おとな」になるということと言いたいわけだ。
まあ、いろいろ思うところはあるが、切ないのは間違いない。なれなかった自分や切り捨てていった可能性に対する諦め、そしてそれを抱えながら前に進む姿勢が、切なさを増幅させるのであった。
そして「せんせい」とは、そういう自己実現を強制する役割を課せられているからこそ、おとなになることの意味を扱う作品群で重要なポジションを得るのかもしれない。教育とは自己実現を促すことであり、自己実現とは子どもを断念(止揚)することなのだ。

重松清『せんせい。』新潮文庫、2011年