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【要約と感想】ダンテ『神曲【完全版】』

【要約】ダンテは地獄・煉獄・天国を巡る数奇な体験を得て、詩を詠みました。
 まず古代詩人ウェルギリウスの案内で地獄を経巡ります。地獄では、カトリック法王を始めとして、様々な罪を犯した人々が呵責ない責めにあって苦しむ様子を見ます。中には旧知の人々もいましたが、地獄に落ちて当然の奴らなので悲しんではいけません。
 煉獄では、天国に行くまでに様々な罪科の禊ぎを済ませるために苦しんでいる人々を見ます。中には旧知の人々もいて、地上に戻ったらよろしく伝えてくれと言われます。
 天国に入ると、それまで案内を努めてくれた頼もしいウェルギリウスの姿は見えなくなり、代わって初恋の女性であったベアトリーチェが至高天まで先導してくれます。ご先祖様から激励されたり、キリスト教の聖人たちと学理問答をしたりして、最終的に神の領域に辿り着きますが、それは言葉にできません。

【感想】予習をぬかりなくしたので噂には聞いていたものの、初恋の人ベアトリーチェをここまで神々しく描くというのは、いやはや、ちょっと私の感覚からは理解しがたい。やり過ぎ感がすごい。単に好きというレベルを遙かに超えるストーカー的偏執も含みこんだような情念を感じて、そこそこ怖い。

 地獄編は、訳者もノリノリに翻訳している感じが伝わってきて、けっこう楽しい。コントのような展開も多い。地獄に落ちた人々は基本的にダンテの独断と偏見で選ばれている。露骨に党派性が現れていて、槍玉に挙げられた人たちがちょっとかわいそうではある。しかし一方、党派性を離れて、キリスト教の原理原則に従って地獄に落ちざるを得なかった人々の立ち居振る舞いには、見所が多い。具体的には例えば男色などカトリック教義的に許容できない人々は、原理原則に従って地獄に落とされるものの、人格的矜持は高潔に保っていたりする。そういうところにキリスト教原理主義をはみ出す「人文主義」の臭いを感じる。
 天国篇は、訳者も言っていたように、確かに抽象度がくんと上がって、物語的に興趣が減じる上に、人文主義の臭いもなくなる感じがする。まあ個人的にはキリスト教神学の構成に興味があるので、そこそこおもしろく読める。

 文体的には、いわゆる「直喩」のオンパレードで、意外性のある喩えも多く、とても楽しい。現代で言えば、お笑いのくりぃむしちゅー上田のツッコミ(まるで○○のようだな!)を想起させる直喩だ。具体的な次元では遠くかけ離れていても形式的には似ている、というものを繋げて表現する才能は、ダンテと上田はよく似ているのかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】子どもに関する言及
 各所に子どもに関する言及があったので、サンプリングしておく。というのは、子どもに対する意識が中世と近代を切り分けるメルクマールだ、というアリエス『子供の誕生』が示唆するテーゼを検証する資料になるからだ。ダンテが属するのが中世なのか近代なのか、あるいはアリエスのテーゼそのものが信用に足るのかを検証するために、『神曲』の記述は有力な資料になる。

ウゴリーノ伯爵がおまえ〔ピーサ〕を裏切って
 城を敵方に明け渡したという風評があるにせよ、
 おまえは子供をああした刑に処するべきではなかった。
ああ第二のテーバイよ、ウグイッチョーネやブリガータ、
 また前に詩に出たあと二人の子供たちは
 年端もゆかず無邪気だった。
(地獄編第33歌85-87)

 ウゴリーノ伯爵と共に塔に閉じ込められた幼い子どもたちが餓死に追い込まれるという陰惨な場面で、よほど印象深いのか、訳者も何回も繰り返し言及している。ただ個人的に注目したいのは、ダンテが子どもたちを「年端もゆかず無邪気」と表現し、父親との連帯責任を取らせることに批判的な姿勢を示しているところだ。アリエス的な理論枠組みからは、少々外れている。

そこで私は、人間の罪から免れる〔洗礼の〕前に
 死の歯にかまれてしまった
 あどけない幼児たちと一緒にいる。
三つの聖なる徳に身を包むことをしなかった人たちと
 そこで私は一緒なのだ。
(煉獄篇第7歌31-35)

 ダンテの案内役ウェルギリウスがどうして天国に行けないかを説明している箇所で、子どもへの言及がある。イエス降誕前に死んだウェルギリウスはもちろんイエスに対する信仰を持てるはずがないわけだが、それを理由として天国に行かせてもらえない。日本人からしたらわけが分からない変な理屈だ。ダンテも同じように感じていたらしく、何カ所かでこの理屈に言及して疑問らしきものも呈しているが、最終的には神の摂理として受け容れている。問題は、天国に行けない人々の中に、洗礼を受ける前に亡くなった「幼児」も含まれていることだ。これもやはり日本人からしたら意味が解らない理屈だが、ダンテも不審に思いつつ神の摂理として受け容れている。キリスト教の子ども観を考える上では重要なポイントになる。

だから、自分たちの行いやその功徳とは関係なく、
 もっぱら最初の視力の鋭さの違いによって
 子供たちは違った段に据えられている。
世界がまだ創られたばかりのころには
 ただ両親に信仰がありさえすれば、
 無垢な子供たちはそれで十分救うことができた。
そのはじめの時代が過ぎた後は
 罪のない男の子は割礼を受けることにより
 天へ舞いあがる力をその羽に得た。
しかし恩寵の時代が到来した後は
 キリストのまったき洗礼を受けぬ場合は
 このような無垢な子供たちもあの下界にとどめおかれた。
(天国篇第32歌73-84)

 いわゆる「洗礼」というものの秘儀を担保するためには、洗礼前の用事を犠牲にしても構わない、というところか。目の前の人間に対する救いよりも神学の論理的一貫性の方が大事というカトリック教義。

信仰と清純は幼児たちの中にしか
 見あたらなくなりました。しかもそのいずれもが
 頬に髭が生えるよりも前に逃げ出してしまいます。
口がまだまわらないころは、断食を守る子供も、
 舌がまわりだすと、食物の如何や月日の如何を問わず、
 大食らいとなってしまうのです。
口がまわらないころは、母親になついて言うことを
 よく聞いた子供も、弁が立つようになると、
 母親は墓にいる方がよい、などと思うようになるのです。
(天国篇第27歌127-135)

 子どもたちにピュアさを見出すのは近代的な心性だという見解があるが、これを見るとダンテは近代的だということになってしまう。アリエスのテーゼが間違っているのか、本当にダンテが近代的なのか、あるいは別の解釈があるか。

【今後の研究のための備忘録】個性に関する記述
 「個性」というものを考える上で興味深い箇所があったのでサンプリングしておく。

すると彼がまた尋ねた、「では訊くが、もし地上で人が
 市民生活を営まないとすれば、事態はさらに悪化するだろうか?
 私が答えた、「むろん悪くなります」
「とすると人がさまざまの職務についてさまざまの生活を送ることなしに
 地上で市民生活が満足に営まれるだろうか?〔答えは〕
 否だ。その点は君らの師の書物にもはっきりと出ている」
こうして彼はここまで演繹的に論をひろげ、
 ついで結論をくだした、「そうしたわけだから
 君らの職務には職掌柄さまざまの根が必要とされるのだ。
それである人はソロンに、ある人はクセルクセスに、
 またある人はメルキゼデク、またある人は
 空中飛行をこころみて子をなくした人のように生まれつくのだ。
天球は回転しつつ、正確に仕事を営み、
 人間という蝋に型を捺すが、
 ひとりひとりが生まれる家に区別はつけていない。
それでエサウとヤコブは体内にいるうちからすでに違っていた。
 それでクィリヌスのような男が生まれ出たりするのだ。
 実父の身分が賤しいからマルスが彼の親ということになっている。
もし神の摂理に力がなかったとするならば、
 生まれ出た子は必ず生みの親に似、
 かつ似通った道をたどるはずだ。
これで前に見えなかった点が見えるようになったろう。
 君の訳に立てば私には嬉しいのだ。だから
 いま一つ補足して君の身に着けさせようと思う、
運命が性に合わないと、性に合わぬ土地にまかれた
 種と同じで、およそ生命のあるものは
 どうしても育ちが悪くなる。
自然によって人々各自の中に据えられたこの基盤に
 もし下界の人が留意し、かつそれに従うならば、
 人々はみなその処を得るはずだ。
しかるに君らは剣を帯びるべく生まれついた人を
 無理強いに宗門に入れ、
 説教をするべく生まれついた人を国王に仕立てたりする。
君らが道を踏みはずす原因は実はそこにあるのだ」
(天国篇第8歌115-148)

 人それぞれに持ち味や特徴があって、それに応じて相応しい役割が与えられるのが一番理に適っているという主張だ。これはたとえばガチガチの身分制では成立しない考えで、脱中世的な発想なのかもしれない。またあるいは119行に「市民生活」とあるように、適材適所の経済活動を想定した理屈なので、フィレンツェの卓越した商業活動が背景にあるのだろう。これが「個性」という概念の展開とどう関係してくるのか。

【今後の研究のための備忘録】近代科学観?

実験こそ人間の学芸の流れの変わらぬ泉なのです。
(天国篇第2歌96)

 訳註によれば「フィレンツェ市は(中略)ルネサンス期には自然科学の研究が非常に盛んになった学芸の都市である。その種の実験の精神ははやくもダンテのこの詩行に観取される。」とされる。一般的に科学的な実験で最初に名を挙げたのはイギリスのロジャー・ベーコンで、生年は1214年~1294年だ。ダンテはベーコンの約半世紀後に生まれているので、ベーコンの影響があっても不思議ではない。が、註が指摘しているとおり、ベーコン云々というより、フィレンツェの先進的な学芸を観取するところなのだろう。「ルネサンス」というものを考える上でもかなり気をつけるべき論点になる。

【今後の研究のための備忘録】三位一体

その時が来るに及び、神は造物主から離れていた人性を
 永遠の愛の働きによって
 神に、神の位格において、結びつけました。
(天国篇第7歌31-33)

 三位一体の秘儀について語られているところだが、訳者はペルソナを伝統通り「位格」と訳している。

この人性が結びついていた
 〔神の〕位格が蒙った非礼を考えてみると、
 かつてなく不当な罰といえるわけです。

 こちらは人性と神性の結びつきという観点から神のペルソナについて語った部分だ。問題になるのは、この「位格」という言葉の具体的な中身になる。

ダンテ/平川祐弘訳『神曲【完全版】』河出書房新社、2010年<1966年

【要約と感想】伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』

【要約】ヨーロッパの近代はいわゆるルネサンス(16世紀)後に急に始まったわけではありません。西欧の転換点として決定的に重要な時期は12世紀です。しかも、ビザンツ帝国やイスラム教から刺激と影響を受けたことが極めて重要です。西欧から失われた古代ギリシアの知恵は、キリスト教異端(ネストリウス派と単性論)によって東方ビザンツ帝国やイスラム世界に伝わり、シリア語やアラビア語への翻訳を通じて保存され、さらにイスラム学者達が発展させていきました。ただの辺境にすぎなかったヨーロッパは、12世紀になってから、イスラム世界で発展していた科学的精神をラテン語に翻訳して受け容れることで大きな飛躍を遂げ、近代に繋がっていくことになります。

【感想】とてもおもしろかった。勉強になった。個人的には、長いあいだ謎だったミッシングリンクをぴったり埋めてくれるような、知的爽快感がある良い本だった。「12世紀ルネサンス」という言葉そのものは各方面から様々な形で聞いてはいて、概要くらいは小耳に挟んでいたのだが、改めて自分事として革新的な意義がよく分かった。というのは、私の興味関心に直接応えてくれるような知識だったからだ。

【研究のための備忘録】三位一体
 キリスト教神学の奥義とされる「三位一体」を一笑に付しているのは、爽快感がある。私としても三位一体論は破綻しているようにしか見えないが、他の学者もそう思っているのだと分かると安心する。

「「三位一体」というのは、どうなのでしょう。私なども、キリスト教神学のなかで、これが一番わかりにくい。どうして父と子と聖霊が一体になっているのか、特に父と息子がひとつになったりするのか、一番わかりにくい。だから、キリストを神ではなく預言者であるとするイスラムの考えのほうが筋が通るのではないかなどと思ってしまうのですが。」pp.68-69
「それでは正統は何かといえば、それは神と人と聖霊との三位一体を認める立場です。前講でいったように三位一体というのはなかなかわかりにくい教義です。アウグスティヌスが論じたり、他にもいろいろな神学者が一生懸命弁じていますが、我々にとってはなかなかわかりにくい。むしろネストリオス派とか、単性論者のほうが、ある意味で割り切っていて話の辻褄が合うわけです。」p.134

 で、カトリックに異端と決めつけられてビザンツ帝国から追放されたネストリウス派と単性論者が東(シリアとペルシア)に向かい、そこで古代ギリシアの知恵が生き残るというのが趣深い。だからいわゆるルネサンス(復興)と言った時、実は何が本当に復興したのかというと、もう紛う方なき「異端」なのだ。ルネサンスとは、「異端の異端による復興」だ。キリスト教が批判して止まなかった多神教古代ギリシアの世界が育んだ科学的な知恵が、カトリックに排除されたネストリウス派や単性論者によって保存され、カトリックを批判する人文主義者たちによって西欧にもたらされる。追い出したはずの異端が西ヨーロッパに逆流してきたのがルネサンスということになれば、自分たちの方から排除したヨーロッパは本来なら神妙な顔をして受け容れなければいけないはずで、「これが俺たちの原点だ」などとデカい顔をする権利はない。というか、もともとローマ・カトリック(ラテン語)の世界にはそういう合理的精神が息づいていなかったのだから、実ははじめから「原点」なんかではなく、「復興」と呼ぶのもおこがましい態度なのかもしれない。本当は単に「外国から学んだ」と言えばいいだけの話に過ぎないのに、そのオリジナルを自分たちのものだと言い張るのは、端的に言って傲慢な態度だ。「ルネサンス」とは、その言葉自体からして西欧史の隠蔽と捏造を試みたものである疑いが強い。
 ということで、個人的にはかねてから「ルネサンスの経緯がわかりにくいなあ」と思ったいたのだが、歴史が捏造されていたのだとすれば、私がわからないのも当たり前だ。私がミッシングリンクだと思っていたものは、私が見失っていたのではなく、実は最初からなかったのだ。ルネサンスが「復興」などではなく「異端からの輸入」だったという事情が分かれば、極めてすっきりと流れを理解できる。この「異端からの輸入」という事実を隠蔽して辻褄を合わせようとするから、ルネサンスの説明が変なことになる。

【研究のための備忘録】ダンテやペトラルカはルネサンスなのか。
 そして図らずも、知りたいと思っていたルネサンス問題に直接切り込んでくる文章があった。ありがたい。ここでもミッシングリンクがイスラム世界であったことが明らかになる。

「十一世紀に頂点に達したイスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激したことは疑いえないと思われます。」p.283
「トゥルバドゥールがアラビアの影響を受けたと言われるのは(中略)さらに内容の上で両者ともに官能的な恋愛を歌うこと、そして恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うことも共通しています。(中略)このロマンティック・ラブの理想が、西欧に初めて生じたのは、十二世紀のラングドックやプロヴァンスの地であったわけですが、それが十三世紀に北方に移ってトゥルヴェールになり、さらにドイツへ行きますとミンネジンガーになります。これが十四世紀にイタリアに伝わるとダンテ耶ペトラルカを含む清新体の詩というものを生み出します。」p.267
「トゥルバドゥールの愛は、さらにイスラム神秘主義の変容を経て、十四世紀にイタリア「清新体」の詩人に引きつがれ、古典主義やキリスト教をも打って一丸とし、ダンテとペトラルカに最も完成された姿を現したといってよいでしょう。」p.268

 まあ、なるほどだ。高校の世界史レベルの教科書では、ルネサンスを扱うところで何の脈絡もなくいきなりダンテやペトラルカが登場して、なんでこの時代のこの地域に新しい思想が現れたのか理由がサッパリ分からないわけだが、辻褄が合わないまま話が先に進んでしまう。しかし「実はイスラム世界の影響だったんだよ」と言われれば、いきなり視界がクリアになる。クリアになった目で歴史の流れを見てみれば、ダンテやペトラルカは、いわゆるルネサンスなんかではない。それは明らかに、中世に属する事象だ。11世紀イスラム世界から12世紀ルネサンスを経て13・14世紀に至る、一連の中世的な文脈の末期に見られる事象だ。だから、15世紀のいわゆる教科書的なルネサンスと、ダンテやペトラルカの活動は、別の文脈にある事象だ。そしてダンテやペトラルカをイスラム世界の影響から切り離して「西欧固有のルネサンス」なる文脈で語られるのは、ただただ西欧人が歴史を隠蔽・捏造して辻褄を合わせようとしただけのことだ。カラクリがよく分かった。
 ルネサンスという言葉は、やはりそれを人文主義的な動向に及ぼして使用するのは好ましくない。もともとの意味通り、ミケランジェロやラファエロなど芸術方面に限って使用するべきだろう。そして仮に敢えて人文主義的な動向に及ぼそうとするのであれば、「自分たちが追い出した異端が保存してくれた知識をイスラム世界から教えを請うて学んだ12世紀ルネサンス」という理解の下で使用した上で、従来ルネサンスと呼ばれてきた15世紀以降のたとえばエラスムスなど人文主義者の仕事については改めて「印刷術」との関係で理解するべきということになるだろう。そしてこの時点で、破綻している「三位一体」の論理は問題にもならなくなる。

【研究のための備忘録】人格
 さてそこで気になるのが、「人格」という言葉の変化だ。ラテン語のpersonaは、周知の通りキリスト教の奥義「三位一体」を語る上で極めて重要な言葉だったのだが、その大本である三位一体が破綻していたということになれば、perosnaという言葉は理論体系から放り出されて宙に浮いてしまう。この宙に浮いたpersonaという言葉がどういう経緯で近代の「人格」という言葉に着地していくのか。このあたりは極めて不可解なミッシングリンクだったのだが、ヒントは12世紀ルネサンスにあるのかもしれないと思った。三位一体の正統教義から排除された異端が「復興」と称して西欧に戻ってきた際に、三位一体の呪縛から解き放たれたpersonaという言葉が改めてどう理解されるか、ということである。もちろんそういう話は本書には出てこない。

伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫、2006年<1993年

【要約と感想】聖アウグスティヌス『告白』

【要約】若い頃は名誉欲に駆られたり、乱暴な仲間たちと盗みを働いたり、軟弱文学やマニ教にはまったり、旧約聖書を荒唐無稽な与太話として馬鹿にしたり、性欲から抜け出せずにいたりしましたが、悩みに悩んだ末、様々な先人の助けを借りつつ、最終的には敬虔な母の願いどおり、キリスト者になりました。神様ありがとうございます。(第1巻~第9巻)
さらに、現在の私が如何様なものかを、認識の仕方、幸福の感じ方、情念に縛られる様を通じて示しますが、それが人間の在り方というものです。神様ありがとうございます。(第10巻)
そして聖書の理解について、時間論、天地論(空間論)、聖霊論(三位一体論)、生物論を通じて示します。神様ありがとうございます。(第11巻~第13巻)

【感想】かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「告白とは内面を作り出す制度」だというようなことを言った。まず内面があって次に「告白」という形の言表が行われるのではなく、まずは「告白」という制度に則った行動が行われて、それに伴って近代的内面が創出されるという洞察だ。フーコーは中世の教会における告解制度を想定してこう言ったわけだけど、本書読了後には、このような洞察をたちどころに想起する。本書に描かれているのは、まさに近代的内面であるように思われる。
とはいえ、著者アウグスティヌスが生きていたのは西洋古代最末期であって、我々が想定するような近代的自我がそのままの形で存在できるような社会経済史的条件は欠けている。我々が本書に近代的自我を読み取ってしまうのは、近代に生きる我々の側の思い入れに過ぎない可能性が高い。この違和感は、第11巻(岩波邦訳版では下巻)以降の展開に顕著に表れているのかもしれない。第10巻までは近代的感覚から見ても「告白」と呼ぶに相応しい内容に読めるが、第11巻以降の内容は「告白」という言葉のイメージからはかなり乖離している。しかし実はこの違和感バリバリの第11巻以降の行論こそ、まさに内面が創出される過程に立ち会うという経験を可能にしてくれるものなのかもしれない。

さて前半は、幼年期→少年期→青年期→壮年期の自伝的な記述となっている。言葉の獲得過程など、発達心理学的な洞察が各所で示されていたり、当時の学校の具体的な様子や学歴に関する事情が記されていて、教育学的にもたいへん興味深い。間違いなく第一級の史料だ。
また一方で、古代末期に新アカデミア派(懐疑主義)や新プラトン主義が大きな役割を果たしていたことが具体的によく分かる。マニ教も最終的には邪教ということになるが、実はこういう知的営為の一環を構成していたものとして理解できる。「自由意志と運命」とか「悪の由来」など、現代においても哲学上の問題として議論されるテーマをめぐって、1600年前にも様々な流派が鎬を削っていたのだ。最終的に西洋世界でキリスト教が説得力を持つのも、こういう古代末期の思想環境を踏まえて考える必要があるのだろう。
とはいえ一番おもしろく読めるのは、性欲に対する葛藤に関する記述かもしれない。それは、時代も地域も遠く離れた我が国の親鸞のエピソードを思い起こさせる。親鸞が性欲に対する葛藤に正面から立ち向かったところである種の悟りを得たのと同じく、アウグスティヌスもこの葛藤の克服過程を通じてある種の悟りを得ている。この性欲というやつは、自分以外の誰かに対しては表面的な糊塗によって誤魔化しがきくものだが、こと自分自身に対しては、自分自身の身体が自分の意志を裏切るという形で、しかも極めて厄介なことに寝ているときにも襲ってきたりして、まったく誤魔化しがきかないものだ。案外、近代的自我というやつが立ち上がってくるときには、この葛藤が重要な役割を果たしているのかもしれない。というか少なくとも親鸞とアウグスティヌスでは、そうだ。

【個人的な研究のためのメモ】
今後いろいろな場面で使えそうな示唆に溢れる文言が多く、おもしろい本だった。
まずキリスト教の「子ども観」について、疑いようもなく明瞭な言質を与えてくれる。

【子ども観】
「だれがわたしに幼年期の罪を思い起こさせるのであるか。何人も、あなたのみ前で、罪なく清らかであるものはないのであって、地上に生きること一日の幼児でさえも清くはないからである。」第1巻第7章11

これが「原罪」というものだ。いま私たちが想起する「子どもは純真で清らか」というイメージは、キリスト教が力を失っていく近代以降に創出されたものだ。
また、幼児の世話についても言質を得た。

【幼児の世話】
「幼児はかなり大きくなった少女の背中に負われるのがつねであった」第9巻第8章17

日本でも高度経済成長期頃までは、幼児の世話をするのは少女の役割だった。大人が野良仕事に精を出している間、乳幼児の世話をするのは10歳前後の少女、いわゆる「子守」だった。これは日本だけの事情ではなく、どうやら世界共通で見られる現象のようだ。
そして当時の学校の様子が、生々しく記録されている。

【学校の様子・体罰】
「神よ、わたしの神よ、わたしがこの世で成功して、人間の名誉と虚偽の富をうるのに役たつのみである弁論の術に秀でるために、教師に対する服従が少年時代のわたしに生活の規範として示されたとき、わたしは人生の荒波だつ社会にどんな悲惨と嘲弄をなめたことだろう。それからわたしは学問を学ぶために、学校へおくられたが、それが何の役に立つかはあわれなわれわれの知らぬところであった。しかも学習をなまけると、笞で打たれた。年長の人びとはこういうことをも是認していた。」第1巻第9章14

「しかもわたしたちは書くことも読むことも考えることも、教師たちから命ぜられていたようにせずに罪をおかした。主よ、じっさいわたしたちは、記憶力も知能もなかったわけではなく、わたしたちはそれらの能力をあなたの望みどおりにわれわれの年齢のわりに十分もっていた。しかし、わたしたちは、遊ぶことに熱中して、われわれと同じようなことをしている人によって罰せられた。年長者のいたずらは「つとめ」といわれたのに、少年たちが同じことをすればかれらによって罰せられ、少年たちをあわれむひとも、年長者をあわれむひとも、まして両者をあわれむひともいない。」第1巻第9章15

学習を怠けると体罰を受けるというのは、前近代の日本では見られない現象だったように思う。西洋世界が体罰を躊躇しなかった理由について、キリスト教の「原罪観」が槍玉に挙がることがしばしばあるが、アウグスティヌスの報告によれば、キリスト教に影響を受けるまでもなく、もともとローマ世界に体罰上等の文化が広がっていたことが分かる。
また、言語を学ぶことについて言及している部分で、学ぶ際には強制されるよりも自由に任せるほうが効果的だと指摘している。

【強制と自由】
「しかしわたしの少年時代は青年時代ほど心配されはしなかったが、わたしは学問を好まず、それを強制されることを嫌っていた。それにもかかわらずわたしは、強制された。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしに強制的に学ばせていたことがらを、ゆたかな窮乏と不名誉な欲望を満たすことにすぎないということに気付いていなかった。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしはギリシア語を少しも知らなかったので、それを覚えるために残酷な脅迫と懲罰をもって激しく責め立てられた。」第1巻第14章23
「言語を学ぶには恐ろしい強制よりも自由な好奇心のほうが有力であることはまったく明らかである。」第1巻第14章23

そしてアウグスティヌス自身は、言葉は「教える人」からはまったく学ばず、「語り合う人びとから覚えた」(第1巻第14章23)と言っている。現代日本でも、しばしば英語教育に関して同じことを主張する人がいる。

さすが古代最大の神学者と呼ばれるだけあって、「一性」や「同一性」や「三位一体」に関する言及が、本書の中にも極めて多く現れる。

【一性・同一性】
一なる者であられる方よ、あなたからすべての尺度は起こるのであり、もっとも美しい者であられる方よ、あなたはすべてのものを美しく形成し、あなたの法をもってすべてのものを統べられるのである。」第1巻第7章12
「しかしあなたは物体ではなく、また物体の生命である魂でもない。この物体の生命は物体そのものよりもすぐれて、いっそう確実である。あなたは、魂の生命であり、生命の生命であり、わたしの魂の生命よ、あなたは生命そのものでありながら、しかもけっして変化することがない。」第3章第6章10
「侵されないものは侵されるものよりも尊く、変化しないものは変化するものにまさると考えたのである。」第7巻第1章1
「それからわたしは、あなたの下にあるものを眺めて、それがまったく存在するのでもなく、またまったく存在しないのでもないということを知った。それらはあなたによって存在するのであるから、たしかに存在するが、あなたが存在するような存在ではないから、けっして実在しない。変化することなく、常住するもののみが真実に存在するのである。」第7巻第11章17
「わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと、しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。」第7巻第20章26←プラトン派の書物の影響
「また、見るものがつねに同一であるあなたを眺めるようにすすめられるばかりでなく、」第7巻第21章27
「あなたはつねに同一であって、けっして移り変わることがない。つねに同一の仕方で存在しないものをも、あなたはつねに同一の仕方で知っておられるからである。」第8巻第3章6←「詩編」101の28
「しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる――多によって多となれる――わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。」第11巻第29章39
「つぎのような被造物でさえもあなたと等しく永遠であるのではないと語られた。この被造物というのは、ただあなたのみがそれによって喜びであり、永久不変の貞節を守って、あなたをそれ自身のうちに吸収し、いついかなるところにおいても、それ自身の変易性を示すことなく、それにむかってつねに現存されるあなたに衷心からよりすがり、それが期待する未来をもつこともなく、それが記憶するものを過去に移しいれることもなく、どんな変化によっても変わることなく、どんな時間にも分散しないのである。」「もしこのようなものがあるなら、それは他のものに移るという背反の心なしにただ一途にあなたの喜びのみを観照するものであり、聖なる霊的存在の、すなわちわたしたちの見る天の上の天にあるあなたの国の市民たちの平和の紐帯によってまったく一心に結ばれたただ一つの純粋な知性である。」第12巻第11章12

一性の考え方そのものは、キリスト教に傾倒する以前、新プラトン主義(プロティノス・プロクロス)の書物から学んでいるようだ。新プラトン主義の「一性」とキリスト教の一神教教義が親和的であることは自明ではあるにせよ、どうして結果的に親和的となったかについてはいろいろなストーリーが考えられそうだ。
そしてこの「一性」に対する理解を踏まえて、「三位一体」について独特の考え方を示している。

【三位一体】【眼鏡っ娘論に使える】
「さて、わたしの挙げる三者というのは、存在と認識と意志である。じっさい、わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、自己に注視し、それを認めて、わたしに語るがよい。しかし、それらのうちにある手懸かりとなるものを見いだして、それを語るとき、それらのものの上にある不変的なもの、すなわち不変的に存在し、不変的に認識し、不変的に意志するものを見いだしたと考えてはならない。この三者のゆえに、その上にあるものにも三位一体が存するのであるか、あるいいは三位の各々にこの三者が存して、三者が三位の各々に属するのであるか、あるいはまた、不可思議な仕方で、単純でしかも複雑に、同時にそのいずれでもあって、三位一体においてはそれ自身がそれの制限をなしながら、しかも無限であり、そのような仕方によってそれは存在し、それ自身に認識せられ、その統一性の豊富な広大性によって不変的に同一なものとして、それ自身充ち足りているのであるか、だれがそれを容易に考えようか。」第十三巻第十二章12

人間の認識を超えたものを記述しようと努力すると、こういう言い回しに落ち着くということかもしれない。とはいえ、まずはアウグスティヌスの公式見解として、三位一体が「存在/認識/意志」の可分と不可分として議論されていることは、重要な基本知識として押さえておきたいところだ。この三位一体の公式は、眼鏡っ娘論で言えば、「娘/眼鏡/っ」に当たる。神秘である。

聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年

【要約と感想】八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』

【要約】カトリックの正統思想である三位一体で使用された「ペルソナ」という言葉が、中世ストア哲学によって鍛え上げられて「個」と「普遍」の関係性が厳密に考察され、それがさらにキリスト教の本質である「恩恵」と結びついて、理性の二つの働きのうち「個への気づき」が打ち出されることで、近代的な「人権」という考え方に開かれていきました。
 それとは別に、ソクラテスの「無知の知」とは、本質的には愚直であることです。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 日本での「人格」概念の定着課程を探っている私としては、知りたいことがそのまま書いてあった本だったわけだけど、私のシロウト予想とぴったり合いすぎていて、むしろ警戒感を持ってしまう。本当はしっかり論証しなければいけないところで、安易な類推が滑り込んでいないか。

 「ペルソナ」に至る経緯を私なりまとめておくと。
(1)キリスト教の正統教義(カトリック)では、「三位一体」が絶対に譲れない一線である。
(2)しかし、実際には「父/子/聖霊」が区別されていることを、どうやって説明するのか。
(3)神の本性は一つではあるが、顕れ方には複数あるということにすればよい。
(4)本性は一つであるから、それ以外の適当な言葉をもってきて、顕れ方に複数あることを表現しよう。
(5)「仮面」を意味する「ペルソナ」という言葉は、神の本性が一つであっても場面場面で仮面を付け替えて顕れるように見えるということで、都合が良さそうだ。
(6)さしあたって「ペルソナ」という言葉の中身は真剣に考えなくてもいいから、まずは複数であることを表現する言葉を作ってしまおう。
(7)ところが中世になると、哲学的議論が深まってしまったせいで、何の考えもなしにつけてしまった「ペルソナ」という言葉についても真剣に考えなければならなくなった。
(8)「ペルソナ」という言葉を突き詰めて考えると、その性格は「理性」と「個」にある。
(9)「理性」とは、ことばで以て認識する主体のことである。「個」とは、それぞれ共有不能な孤立体であることである。
(10)つまり、他から独立して理性を働かせる主体が「ペルソナ」である。

 まあ、中世哲学の原典テキストを読まなくても「三位一体」について知っていれば想像できるストーリーな気はする。しかし中世哲学の専門家がテキストを踏まえて主張しているわけで、信用してもいいのか。
 とはいえ、ここから近代的な人格概念に至るまでには、もう一歩の飛躍が必要な気もする。個人的にはホッブズが重要な役割を果たしているような予感がしているわけだが。あと個人的には「人格」概念の中核を構成する「個」概念については、新プラトン主義の言う「一」が極めて重要な役割を果たしている気がしないでもないのだが、本書では言及されていない。

 ちなみに最近では、「人格=personality」という古来からの言葉に手垢がつきすぎてむしろ何も表現できないことが多くなったためなのだろう、従来は「personality」という言葉で言い表してきたであろう概念を「agency」という言葉で表現する機会が増えてきているように思う。agencyは「代理人」という意味を持つ。そういう意味では、父や子なる神の地上代理人としての「教会」を言い表す上でもなかなか適切な言い回しあって、カトリック三位一体思想とも相性が良さそうに感じるのだが、如何だろうか。

【感想】ソクラテスの「無知の知」についての解釈は、通説とはまるで違っていて、「ナルホドそういう考えもあるのね」という感じ。
 しかしこういうテキストへの接し方の態度は、カトリックに対抗する聖書原理主義に似ている気もする。カトリックが主張するところでは、聖書の読み方についてカトリックは気が遠くなるほど長い時間をかけて解釈を積み重ねてきて、その解釈を経由しないで聖書を読んでも内容は理解できない。だから聖書の研究をしていない一般人が聖書を読んでもあまり意味はなく、特別に訓練を受けた神父の説教が重要な意義を持つ。しかし聖書原理主義者は、虚心坦懐に聖書を読めば、神の言葉なのだから理解できないはずはないと考える。だから神父など必要がない。
 同様に古代のテキストについても、先人たちが積み重ねてきた解釈を踏まえて理解すべきか、それとも先行研究を一切無視して自分の感性だけを信じるのか。どちらが素直なのかは、なかなか判断が難しいように思うのであった。

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ―現代思想としての古代・中世哲学』春秋社、2019年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年