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【要約と感想】西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』

【要約】自然科学の考え方で、生徒の行動や考え方を観察して、帰納的に原理原則を考えれば、自ずと学校の在り方が見えてきます。校則は必要ありませんし、定期テストや制服も必要ありません。「ひとつの校長ルール」とは、誰かが勝手に決めたルールを無条件に信奉して演繹的に思考するのではなく、帰納的に物事を考えるということです。

【感想】物事を考えるルールは「帰納的に思考する」ということだが、根底にあるのは、子どもを一人の人間として扱い、人格を尊重するという、人権感覚だ。「大人/子ども」を区別することなく、境界線を引くことなく、徹底的に子どもたちを一人の人間として扱う。この土台が揺らがないから、教師や生徒たちも安心してついていくことができるのだろう。この理念がなかったとしたら、帰納的な自然科学思考を徹底したとしても、たいした成果は挙がらないだろう。徹底的な人間愛の理念の下で大きな成果を挙げた手腕には、ただただ頭が下がる。すごい。

カント・ヘーゲル以降の近代的人間観においては、「大人」と「子ども」の間には確固たる境界線が引かれ、「未成熟な子ども」は一方的に「理性的な大人」の指導を受ける立場だと考えられてきた。その基本的なOSの上に、学校制度を中心とする近代教育は形成されている。「大人/子ども」の厳密な区別を前提として、初めて近代学校制度は動くように組み立てられている。
しかし近代的な「大人/子ども」の峻別は、50年ほど前から向こうになりつつある。大人は決して理性的でないし、子どもは必ずしも未成熟でないという理解が説得力を持ちつつある。1989年「子どもの権利条約」は、子どもを一人の人間として認めようという理念の集大成となった。それに伴い、既存の近代的価値観に寄りかかる学校制度は機能不全を起こしつつある。近代的な「大人/子ども」の区別が説得力を持たなった現代だからこそ、「子どもを一人の人間=おとな」として扱うという根本的な価値転換が大切になってくる。
本書は、根本的な価値転換の在り方を、具体的な形で丁寧に示してくれる。とても貴重な実践だ。現実には賛否両論があるのだが、表面的なところでこの実践を否定している人々の意見は、実にくだらない。「近代的価値観」の是非にまで踏み込んで、初めて賛否両論を検討することに意味がある。

西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』小学館、2019年

【要約と感想】工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』

【要約】学校が機能不全に陥っているのは、目的と手段を取り違えているからです。目的を適切に設定した上で、手段を合理的に取捨選択しましょう。必ず状況は良くなります。
たとえば、期末テストなどやめてしまえばいいのです。期末テストなんかやっても、学生は一夜漬けに勤しむだけで、本物の学力は伸びません。逆に、他の手段で学力が伸びるなら、期末テストなどやる必要はありません。
宿題も廃止しました。宿題など、学力を伸ばす上でなんの役にも立っていません。廃止したほうが、学力が伸びます。
期末テストや宿題にこだわる人は、単に目的を見失って、思考停止に陥り、前例にしがみついているだけです。学校が何のために存在しているのか、根本から考え直す時代が来ています。かつて学校は時代の最先端でしたが、むしろ今は最も遅れています。今の時代、そもそも学校など必要ないかもしれません。

【感想】文科省が校長先生に「学校運営=マネジメント」の力を要求するようになって、しばらく経つ。本書に示された諸改革は、いわばマネジメントのお手本のようなものかもしれない。まず「目的」を適切に設定した上で、PDCAの「C」を軸にサイクルを回す、というところが教科書的なわけだ。実際のところ、学校では、マネジメントの最重要ポイントである「目的を適切に設定する」ということが、なかなか難しかったりする。文科省や教育委員会から目的が降りてきて、主体的に判断する力が育ってこなかったからだ。まあ、学校そのものの問題というよりは、上から目的を押しつけてきた教育行政そのものの問題であるようには思うが。

とは言うものの、いよいよ学校が独自のマネジメントを要求される時代に入ってしまったわけで、力が育っていないと嘆いている場合ではない。これを好機と捉えて文科省や教育委員会の圧力から離れて独自路線を行くか、従来通り上から言われたことを下請的にこなしていくのか、時代の分かれ目である。主体的な力を発揮する学校と、言われたことしかやらない学校で、これからますます格差が拡大していくことになるだろう。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
学習指導要領に対する苦言が現場の校長先生から発せられていることが興味深い。

「すでに2018年度から先行実施されている新しい学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」を標榜しています。(中略)しかし、学習指導要領の存在自体が、教員の自由な発想を忘れさせて、「社会に開かれた教育課程」の阻害要因となっているのは、何とも不思議なことではないかと思います。」74-75頁

学校評価に対するコメント(158-159頁)も、上から基準を設定することの無意味さやバカバカしさを指摘していて、なかなか要点を突いている。

またあるいは、教育のサービス化に対する苦言も、興味深い。

「しかし、現状の学校と保護者の関係を見ると、保護者が「消費者」、学校が「サービス事業者」と化しているような状況が見受けられます。保護者のクレームを真に受けて対応した結果、子どもが自律する機会が失われてしまったこともあるはずです。(中略)自身に当事者だという意識があれば、文句を言うより先に「どうすればよいか」を考え、行動を起こします。逆に、当事者意識がないと、「お客様感覚」で何か不都合が起きると、自分ではない周りの誰かのせいにしようとするものです。」152-153頁

ここから「コミュニティ・スクール」の必要性へと話が展開していく。これからの公教育は、学校だけが担うのではなく、大人たち全員が責任を持って進めなければ成り立たないと、私としても思う。

全体的な思想背景としては、「近代の終わり」が強烈に自覚されている。「近代」には学校の存在価値について疑問が持たれることはなかったが、「近代の終わり」に際しては、学校の存在価値が失われるという時代感覚である。これからの学校は、「近代の終わり」に対応して、変わっていく必要があるという認識である。学校改革で打った手が有効かどうかは、最終的にはこの歴史認識が適切かどうかに関わってくるのであった。

工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』時事通信社、2018年

【要約と感想】小林成樹『学校はパラダイス―認め合える「歓び」が活気ある集団をつくる』

【要約】公立中学校校長として活気ある集団づくりをしてきた経験を伝える本です。子ども、教師、保護者への関わり方や、学級経営の考え方を具体的なエピソードを元に記しています。子どもたちは、集団の中で一人一人が個性を発揮し、お互いが認め合えることで、大きく成長します。
いま学校や教育を巡る環境は大きく変わってきていますが、学校が果すべき役割は変わっていません。集団主義の教育は、まだまだ必要です。

【感想】エピソードそれぞれの繋がりが分かりにくくて散漫な印象もありつつ、よくよく考えると集団の中で一人一人が活躍できる環境を整えることの重要性を一貫して訴えており、しばらくするといい本だったなあと思えるようになってくる、という感じだ。ところどころ昭和テイストな感じも受け、これからの令和時代にどれだけ対応できるかどうかは分からないものの、学校や教育の一つのモデルを提示しているという点では、教師を目指す学生が読んでも損はしないのかもしれない。

【言質】学校目標に関するエピソードで、学習指導要領に言及したところはなかなか興味深い。

「こうなる理由の一つは、学習指導要領への無責任な追従にある気がします。一種の責任逃れです。」44頁

人間は自分で決めたことには責任を取るが、他人に決められたことは責任転嫁する傾向がある。仮に学校が隠蔽体質だったり無責任体制にあるとしたら、その原因の一端は確かに学習指導要領の法的拘束性にある可能性を疑ってよい気がする。(とはいえ、現状の新自由主義的な責任の取らせ方が効果的かどうかも、また疑問ではあるのだが)
上記引用部は、体制に反対しがちな立場の人が言ったのではなく、現場を経験した人が実体験から言っていることに意味があるように思う。

あるいは「近代の終わり」についての言及は、一つの教育的知見を代表するものであるように思う。

元々近代の公教育を制度化するに当たって描いた姿は、経済発展を支える高度な工業社会の担い手であり、国家や民族に誇りを持つ国民の育成だったと思います。その基盤となる義務教育において、日本は順調に根付かせ、成功してきた国だと言えましょう。そこで培われた組織への忠誠心や知識、技術は、巧緻性と勤勉さに支えられ世界に冠たる経済大国を実現しました。
しかし今、その仕組みを一変させるかもしれない高度な情報化社会を迎えています。その急速な発展と知識の多様さと質の変化に、平均的で個性を活かせない集団主義思考の公教育制度は対応しきれていないと考える人も増えてきました。そして、むしろ制度化されない自由な教育機関に期待する意見も聞かれます。
そこには一理ありますが、私は賛成ではありません。もったいないからです。少なくとも日本には、本書で述べてきた高い倫理観を持つ集団主義の教育を可能にする地盤があると思うからです。」227-228頁

「近代の終わり」に対する一定の説得力を感じつつも、それでも従来の学校が推進してきた「集団主義」を維持する姿勢が、はてしてこれからの時代に受け容れられるかどうか。20年後、30年後の学校や教育の姿や如何に、というところだ。注目していきたい。

小林成樹『学校はパラダイス―認め合える「歓び」が活気ある集団をつくる』幻冬舎、2018年

【要約と感想】森隆夫『校長室はなぜ広い―教育深化論』

【要約】生涯教育における教養の重要性を説く第Ⅰ部と、理想的な校長のあり方を説く第Ⅱ部で構成されています。
第Ⅰ部では、教育を学校だけに任せるのではなく、親や社会全体が関わっていくべきことが示されます。特に「伝統文化」の果す役割が強調され、深みのある「教養」が大事であり、「言葉」を大切にすることが一番の土台であると説かれます。
第Ⅱ部では、校長にとって重要なのは人格的権威であり、道徳教育を率先して行なうべきことが示されます。管理職にとって法的思考も大切ですが、教育的思考はもっと大切にし、熟慮・瞑想しましょう。校長室が広いのは、熟慮と瞑想の場だからです。

【感想】ウィットとユーモアに富んだ洒脱な文章で、なかなか読ませる。2014年に亡くなった著者の最後の本だと思うと、ますます味わい深い気にもなってくる。学ぶべきものは多い。
まあ、「江戸しぐさ」と「マリー・アントワネット」の都市伝説を鵜呑みにしてしまっているところは、ご愛敬というところか。

【今後の研究のための備忘録】
昭和ヒトケタ生まれの著者だけあって、「人格」とか「自己実現」という言葉の用法が、現代とは少々異なる感じがあり、興味深い。
たとえば「自己実現」については、以下のように言葉を連ねている。

「ちなみに、自己実現というと、自分の希望や目標を達成することと安易に使われたりしているが、マズローのいう自己実現とは、人格が完成したような立派な人を指す。」27頁
「生涯教育の観点からみると、人生の道程ごとに「家訓」「校訓」「社訓」等という教育目標が示されているが、それらを貫くものは自己実現(人格完成)のための「信念」という教育理念である。つまり、人生は常に自己実現の道程にあり、それは「信念の駅伝」というか、「心の駅伝」といってもよいだろう。」32頁
「「坐」の字は、土という字の上に二人の人が対面しているのだが、それは「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」で、相互に対話していることを表わすのだという。坐禅は二人の自分の対話なのである。この「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」の対話がなくなると、人は悪事を働くのではないかと思う。(中略)ここで「自己実現」と「自我実現」の違いに気付く。」59頁
「心理学者マズローは、人間像として「自己実現」を説いたが、それは「完全な人間性」の意味だと後の著書で訂正している。というのは、「自己実現」を「自我実現」と誤解していることが多いからでもある。彼は自己実現した人の例として、歴史上に実在した立派な人物を調べることで、完全な人間性の特性を抽出しようとしたのである。」174頁

著者は、現代社会で追究されているものが単なる「自実現」に過ぎず、それは完全な人間性を目指す「自実現」とは無縁のものだと主張する。「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」がどう異なるのかという心理学的・哲学的な議論が十分に展開しなければ深奥を掴むことはできないのだが、本書では入口で終わっている感があり、少し残念ではある。(ちなみに自己と自我の違いについては、東洋哲学者の上田閑照が詳細に語っているという印象はある)。あるいは「人格」と「人間性」の違いについては、もうちょっと突っ込んで吟味しないといけないところのはずだが、著者は同じものとして杜撰に扱っているようには見える。

また、著者は「教養」と「人格」や「個性」との関係についてもこだわっている。

中教審答申にも「教養」についての答申がある。筆者は当時の委員でもあり、ヒアリングをとおして多くを学んだが、審議を参考にした結果、教養とは「知性と感性を軸にした人格形成」という教養観を得た。」88頁
「挨拶は人格の表現。言葉は口から出るものではなく、心から出るもの。」92頁
「だが、こうした挨拶は誰にでもできるわけではない。この校長の人格個性が然らしめたのである。「個性」とは「特化された普遍」(西田幾多郎)であるから、誰しもが努力すれば別の個性的挨拶が可能となるはずである。」92-93頁
人格的芳香も、その人に人格が人並み以上だと認められたときに漂ってくることになる。ところが、今日では人格的芳香(品性)ではなく、人工的香水で人間性をごまかしているようにも思える。」128頁

そして「教育基本法」に関する言及は、なかなか味わい深い。

「教育的教養、それを端的にひと言で要約すれば、「教育基本法の教育学」ということができるだろう。」120頁

こういう文章を見ると、ああこの人は法学者なのではなく教育学者なのだ、と思う。私の大学での講義も「教育基本法の教育学」を志しているわけだが、さて、はたして学生には言葉が伝わっているかどうか。

森隆夫『校長室はなぜ広い―教育深化論』教育開発研究所、2012年