「子ども観」タグアーカイブ

【要約と感想】カニンガム『概説子ども観の社会史』

【要約】「子ども」という概念および実態が主にヨーロッパと北米でどのように変化したか、先行研究の到達点と疑問点を簡潔にわかりやすくレビューした上で、人口動態史など社会史が積み重ねた実績を睨みつつ、福祉政策など国家レベルの政策にも目配りしてまとめた、論理的枠組が明快な概説本。

【感想】結論をおおざっぱにまとめると、(1)「子ども期」が最も根本的な変革を被ったのは20世紀前半であり、(2)そして現在は「子ども期」が消滅しつつある、という見解となる。

(1)20世紀前半の意義を強調することによって、まずアリエスの言うような近代初頭における変化の意義が相対的に小さくなる。50年前にアリエスが眼前に見ていたのは、まさに大人と子供の距離が極大に遠ざかった時期であった。一方で著者のカニンガムが生きているのは、大人と子供の距離が近づきつつある時代だと言う。研究者の「現在」の視点が歴史研究の態度を決めるというカニンガムの記述は、アリエスの研究をもすでに「史料」と見なして処理しているわけで、ちょっとおもしろい。

(2)また20世紀後半から子どもと大人の距離が縮まりつつあるという見解は、「近代」と「ポストモダン=成熟した近代」の相克と読めば、特に目新しい見解ではない気はする。たとえば「近代」という時代を、理念的には身分制を破壊して自由と平等を称揚しつつ、実質的には白人男性ブルジョワの権利のみを認めた時代だとすれば。そして「成熟した近代」を、白人男性にしか認められていなかった権利が実質的にマイノリティ=女性・労働者・有色人種・植民地・障害者にも与えられた時代だとすれば。人権の普遍原理はもちろん子供にも適用されることになる。カニンガムも指摘するとおり、その具体的な表現は1989年の「子どもの権利条約」に鮮やかに見ることができる。

「大人/子供」という二項対立の境界線の移動を見て近代とポストモダンの違いを強調することにも積極的な意味はあるだろうけれども。一方で、「子供」概念の展開を「人権の適用範囲の拡張」という一元的な過程として把握すれば、実は近代とポストモダンは連続した一つの発展過程として描けるだろうという気もする。というわけで、私は「近代の超克」的な記述に懐疑的な一方、「近代=未完のプロジェクト」という思考法に親和的なのを改めて実感したのだった。

ヒュー・カニンガム著、北本正章訳『概説 子ども観の社会史: ヨーロッパとアメリカからみた教育・福祉・国家』新曜社、2013年

 

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年

【要約と感想】河原和枝『子ども観の近代 『赤い鳥』と「童心」の理想』

【要約】日本では大正時代に近代的な「子ども観」が確立しました。

【感想】子どもを「無垢」で「純粋」な存在と考えるのは、現在では当たり前の感覚だろう。しかし歴史学の様々な研究によれば、その感覚は歴史的に「発明」されたものだという。本書は、特に日本において「子どもを無垢な存在と考える」ような態度が大正期に確立したことを主張している。

分析対象として主に扱っているのは、大正7年(1918年)に創刊された『赤い鳥』という子ども向け雑誌である。そこに掲載された童話等の分析を通じて、日本で「子ども観」がどのように確立していったかを明らかにしようとしている。

興味深いのは、単に「子ども」という観念が生まれたに止まらず、「子ども」という理想が「大人」という観念に対してどのように働くかという議論だ。子どもを研究対象としようとするときでも、単に子どもを見るだけではなく、社会全体を俯瞰する視野が必要だということを示唆している。

河原和枝『子ども観の近代 『赤い鳥』と「童心」の理想』中公新書、1998年