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【要約と感想】三好信浩『手島精一―渋沢栄一が敬愛した日本の名校長』

【要約】東京工業大学の前身である東京職工学校の校長を勤め、黎明期の実業教育に大きな足跡を残した手島精一の事績と教育思想を、特に「名校長」という観点からコンパクトにまとめた評伝です。帝国大学のような高等教育と比較すると傍系に見られがちな実業系教育ですが、日本の近代化を支えた極めて重要な柱であったことが、手島の事績と思想から分かります。

【感想】伝統ある東京工業大学が、2024年秋から東京医科歯科大学と統合して「東京科学大学」となるらしい。最前線で近代化を支える「職工」を育成する使命を帯びて「東京職工学校」としてスタートした東京工業大学は、「頭と手」のバランスを重視して理学(Science)と工学(engineering)を統合を目指して、帝国大学の理学部・工学部とは一線を画す人材育成を行ってきたが、ここにきて工学(engineering)の看板を下ろして科学(science)の旗を掲げることとなった。これも時勢か。草葉の陰から手島精一は何を思うか。

 個人的には、手島も創立に関わった女子職業学校(現・共立女子大学)について何かヒントがあればと思って手に取ったわけだが、本文に敢えて触れない旨が述べられていて、少々残念ではあったが、まあ、勉強になった。

三好信浩『手島精一―渋沢栄一が敬愛した日本の名校長』青簡舎、2022年

【要約と感想】神辺靖光・長本裕子『花ひらく女学校―女子教育史散策明治後期編』

【要約】明治後期に創立された女学校の沿革史をコンパクトに記述しています。明治前期に引き続き発展するプロテスタント系ミッションスクール、それに対抗する仏教系学校、中等教育段階にあたる高等女学校の制度化、女子高等教育の発展、医者・画家などの高等専門教育を扱います。現存の中等・高等教育機関に引き継がれている学校が多数あります。

【感想】前著に引き続き、基本的にそれぞれの学校の沿革史を土台に構成されてはいるのだが、女性教育にとどまらない幅広い教育史的観点から学校の意義が位置付けられており、勉強(復習)になった。
 ただ、誤字が散見されたのは残念なところで、特に静岡英和女学校の創立に関して「鵜殿長道」(鳥取藩家老・大参事12代か?)とあるべきところが「鶴殿長道」になっていた(しかも二か所)のはションボリなのだった。元のニューズレターではしっかり「鵜殿」だったので、著者自身は正確に記述していたものがOCRか何かの段階で誤字ったのだろうと推測する。

神辺靖光・長本裕子『花ひらく女学校―女子教育史散策明治後期編』成文堂、2021年

【要約と感想】神辺靖光『女学校の誕生―女子教育史散策明治前期編』

【要約】女性を対象とする学問所の構想は幕末から始まっていましたが、本格的に展開するのは明治維新後のことです。キリスト教伝道に伴うミッション系女学校、殖産工業に関わる女紅場、国漢学系の私塾、官立の女子師範および女子中等教育、裁縫手芸を軸とした職業訓練校など、様々な形の女学校が叢生します。

【感想】女学校史は女性教育史の専門家によって研究されるケースがもちろん多いのだけど、本書は中等教育史の専門家によって記されていて、読後の印象は類書とかなり異なる。女性教育史関連の史料だけでなく、中等教育(および教育史一般)の史料と先行研究に幅広く精通していて、女性史というよりも教育史全体の流れの中に位置付くような記述になっている。その上で個別の学校の歴史について掘り下げていて、とても読み応えがある。
 まあ、著者があらかじめ断っているとおり、一次資料を新たに発掘するというよりは先行研究を渉猟して手堅くまとめるというスタイルではあるのだが、教育史の全体像を把握し尽くしたうえで個別事例の意義を解説してくれるので、理解が進む。勉強になりました。

神辺靖光『女学校の誕生―女子教育史散策明治前期編』梓出版社、2019年

【要約と感想】内田良・山本宏樹編『だれが校則を決めるのか―民主主義と学校』

【要約】8人の著者が、「子どもの権利」を尊重して「民主主義」の発展に寄与するという価値観を共有しながら、校則の問題に多様な専門性からアプローチしています。
 アプローチの仕方や強調点は個々の論者によって異なりますが、教師の労働環境を改善した上で考え方をアップデートし、子どもを信頼してルール作りに参加させることが大切であるという認識と、校則改定への熱を一過性のブームに終わらせてはならないという危機感は共通しています。

【感想】どちらかというと実践的というよりは理論的な本だ。すぐさま校則をどうにかしていやりたいという関心を持つ人よりは、じっくりと地に足を着けて原理的に学校教育について考えたい人に有益な本だろう。
 個人的な感想では、教育実践的にはともかく、教育原理的には「校則」は周辺的なテーマであって、なかなか教育の原理・原則から研究の俎上に載せられることはないような印象だ。おそらく教育の本質から考えても校則は「必要悪」に過ぎず、原則的には見たくない対象ということなのだろう。さすがに科学的教育学の元祖であるヘルバルトは教育の三領域の一つとして「管理」を挙げているが、その記述は「教授」や「訓練」と比較してそっけないものだ。
 しかし逆に、校則が単に「管理」のための必要悪だとしたら、話はそんなにややこしくならないのかもしれない。教育の本質と関係ないのであれば、時代の変化に合わせて必要に応じて改廃すればいいだけの話になる。話がややこしくなるのは、校則に「教育的効果」があると信じられている場合なのだろう。あるいは現状を維持したいだけの人が校則の存在理由と根拠として「教育的効果」を持ち出した時に、話は混乱するのだろう。そんなわけで、校則について考えたり発言したりする際、「管理のためのルール」と「教育のための手段」は理論的なレベルで厳密に分けることが大切だと思ったのであった。

内田良・山本宏樹編『だれが校則を決めるのか―民主主義と学校』岩波書店、2022年

【要約と感想】苫野一徳×工藤勇一『子どもたちに民主主義を教えよう―対立から合意を導く力を育む』

【要約】異なる意見を論破して喜んだり、安易に多数決でものごとを決めるのは、民主主義ではありません。対立する立場が対話を重ね、双方が納得できるような合意を導き出す知恵こそが民主主義を成り立たせます。
 学校とは、立場の異なる人々が存在することを認識し、それぞれの立場を尊重する態度を身につけ、対話の知恵を育み、主体性を伸ばす場所です。学校を民主主義を育む場とするために、最上位の目標を見極めて、着実に前進していきましょう。

【感想】目まぐるしく変化する社会の中で従来の教育システムの賞味期限が切れて有効性を失い、学校と教師が自信を失ってどうしていいか迷う中、本書はこれからの教育の方針を力強く示し、未来への見通しと展望を提供する。現状に満足している人にはピンと来ないだろうが、迷ったり悩んだりしている人には刺さる本だろうと思う。総花的にテーマを網羅していて一つ一つの話題を深掘りしているわけではないが、深めようと思ったら著者の別の本を読めばいいだけなので、まずは本書を通読して自分の問題関心を見極めるのがいいかもしれない。教職志望の学生にも分かりやすい本だと思うので、参考文献リストに載せて勧めることにする。

【個人的な研究のための備忘録】「人格の完成」について
 私がライフワークとしている「人格の完成」概念について言及があったので、本書の全体構成とはまったく関係がないが、サンプリングしておく。

「工藤「だって僕からすれば日本は教育基本法からして民主主義の思想をもとにつくられていないですよ。たとえば第1条にこうありますね。(中略)
人格の完成」とありますけど、完成した人格ってなんですかね、一般人には曖昧ですし、もう出だしから「心の教育」がはじまっているようにも感じるんですね。」137頁

 教育史の専門家から見れば、あっけにとられるような勉強不足が露呈している部分だ。草葉の陰で田中耕太郎も泣いていることだろう。しかしまあ、工藤校長をしてこの見解であれば、世間一般の理解は推して知るべきというところなのだろう。
 この見解に対して、教育学専門家の苫野先生はさすがにツッコミを入れている。

「苫野「ちなみに、「人格の完成」はおっしゃる通り曖昧な言葉で、まるで聖人君子を育てることが教育の目的であるかのようにも聞こえてしまいます。でも哲学的には、これは「他者の自由を尊重・承認できる自由な市民」を育むことに尽きると私は考えています。それ以上でも、それ以下でもありません。」139頁

 まさにまさに。草葉の陰で田中耕太郎もほっとしていることだろう。苫野先生の的確なフォローがあって、私もほっとした。(とはいえ、田中耕太郎の立法意図に踏み込むと、もっといろいろ出てくるところではある。が、まあ、そんなことは苫野先生も承知で言っているだろう。)
 しかし問題の本質は、工藤校長の無知ではなく、工藤校長のような最高峰の実践者ですら「人格の完成」という概念の正確な理解が困難になっている環境のほうにある。「人格の完成」の中身について、教員養成課程どころか教員になってからも学ぶ機会がなかったという環境に問題がある。というか、「人格の完成」の本質が理解されないように誰かが意図的に仕組んでいるという可能性も考慮してよい。
 私の個人的な調査では、問題の要点は高度経済成長期にある。高度経済成長期以前には、ほぼ田中耕太郎が意図したように「人格の完成」が理解されていた。しかし高度経済成長以後は、確かに工藤校長が主張するように「心の教育」に変質(あるいは堕落)したように見える。高度経済成長期を経た日本社会の変質によって、「人格の完成」という概念は本来の意味を失い、その空隙に儒教的な観念が滑り込んできたように見える。そのあたりの事情は私個人の研究で深めればいいところだが、ともかく現代日本では「人格の完成」の意味が見失われている証拠として、工藤校長から言質をとれたことは個人的にありがたかったりする。(ちなみに、もちろんこんな些細なことで工藤校長の考えや実践全体が否定されるわけではないし、本書の論旨に影響することもまったくない。)

【個人的な研究のための備忘録】多数決
 「多数決」について工藤校長はこう言っている。

「教育学者で多数決は問題だと主張している人も知りません。」34頁

 教育学者である私は、25年前の非常勤講師時代から一貫して「多数決」の問題を教育学の講義で取り上げ続けてきて、今現在もルソーの「一般意志」を鍵概念として「民主主義」の本質を説明する回で丁寧に取り上げている、という事実は書き残しておこうと思う。(たとえば2018年の講義記録がWEB上の「教育概論Ⅰ(中高)-6」に残っているし、ここではさらに「人格の完成」と「民主主義」の関係について触れている)。工藤校長が知らないのは、単に私の知名度が低いだけの話だ。自分自身の知名度が低いこと自体は気にならないのだが、教育学の名誉のためにはもっと頑張ったほうがいいな、と思ったのであった。

苫野一徳×工藤勇一『子どもたちに民主主義を教えよう―対立から合意を導く力を育む』あさま社、2022年