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【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

【要約と感想】ヘーシオドス『仕事と日』

【要約】怠け者でロクデナシの弟よ、ちゃんと働け! ちなみに人間が働かなくてはならないのは、神様がそう定めたからです。農業のやりかたについての具体的なアドバイス付き。

【感想】ギリシア神話の最古の古典の内の一つということだけれども、ニートの弟への語りかけという体裁は、ちょっと微笑ましい。というか、ニートの弟を働かせるための説得手段が壮大な神話体系になるところが、古代感覚というところか。

多少気になるのは、プラトンやアリストテレスの時代になると、労働があまり尊いものと見なされなくなっていることだ。労働はもっぱら奴隷がするべきものであって、自由人は観照的生活を送るのが最高だという価値観となる。しかしそこから300年ほど遡るヘシオドスでは、労働が最高に尊いものと見なされている。この違いは、300年という時代の違いのせいなのか、アテネとの場所の違いのせいなのか、それともヘシオドスの個性によるのか。本書を一読するだけでは、分からないのだった。

【個人的備忘録】

労働に価値を認めるのは、プラトンやアリストテレスには見られない記述だ。とはいえ、「労働は決して恥ではない」と言っているということは、逆に言えば「労働は恥」とする価値観が一般的に存在していたということかもしれない。ヘシオドスの価値観が当時のギリシア世界をどれだけ代表しているかは、気になるところだ。

「労働は決して恥ではない、働かぬことこそ恥なのだ。」311行
「これからわしの説くようにせよ、労働につぐに労働をもってして、弛みなく働くのだ。」382行

あと多少気にかかるのは、処女を善いものとする記述があるところだ。処女を重んじるのは近代的な価値観という話をしばしば見かけるところだが、2700年前にもテキストとして存在していることは知っておいていいかもしれない。まあ、ヘシオドスがミソジニーかつ結婚悲観論者であることは、「嗜みを躾ける」という記述に影響しているかもしれない。

「嫁には生娘をもらえ、さすれば妻として心うべき嗜みを躾けることができる。」699行

ヘーシオドス『仕事と日』松平千秋訳、岩波文庫、1986年

【要約と感想】ヘシオドス『神統記』

【要約】ウラノス→クロノス→ゼウスと、神々のトップが交替しました。神々が交わった結果、さらにたくさん神様が生まれました。それぞれの神様は、権能をそれぞれ与えられています。

【感想】いわゆるギリシア神話の、最古の原典の一つ。世界の創出からゼウスを頂点とする秩序形成まで描かれている。私がそれについて言うべきことは特にない。

個人的に気になったのは、作者のヘシオドスがミソジニー(女性嫌悪と蔑視のカタマリ)かつマチズモ(腕力主義+権威主義)ということだ。やたら女に対して厳しい一方で、ゼウスには寛大だ。このあたり、ホメロスとは違うところで、本来のギリシア神話のあり方を歪めている可能性があるような気がしてならない。

手がかりは、結婚について、やたら悲観的なところか。ひょっとしたら、妻に酷い目に遭わされていただけなのかもしれない。

個人的備忘録

女が金持と結婚して貧乏人には見向きもしないという下りがあるけれども。まあ、2700年前もそりゃ変わらないよねー、というところではある。女に対する罵詈雑言は、570行~600行まで、かなり長々と続く。

「彼女たちは 死すべき身の人間どもに 大きな禍いの因をなし 男たちといっしょに暮らすにも 忌わしい貧乏には連合いとならず 裕福とだけ連れ合うのだ。」592-593行

結婚に対して批判的な下り。結婚してもしなくても男にとっては禍となるらしいが、ゼウスの呪いだから仕方ないらしい。結婚の呪いについては、602行~612行まで、そこそこ長く描かれている。

「また 彼は 善きものの代りに 第二の禍悪を 与えられた。
すなわち 結婚と 女たちの惹き起す厄介事を避けて 結婚しようとしない者は 悲惨な老年に到るのだ」602-604行

「ヘカテ」という神格についても、気になる。ホメロスにはまったく出てこないのに、神統記ではやたらと格が高い神様になっている。そして子供の養育者という権能を与えられているところは、教育学としては気になるところだ。

「クロノスの御子は 彼女を また 子供らの 養育者とされたのだ 彼女の後から 数多の事物をみそわなす曙の光を その目でみることになった子供たちの。 このように はじめから 子供の養育者であり これが彼女の特権である。」450-452行

ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫、1984年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】『アリストテレス詩学・ホラーティウス詩論』

【要約】アリストテレス「おもしろい物語を作る上で重要なのは、キャラクターよりもプロット」
ホラーティウス「なにより重要なのは、キャラ立ち」
アリストテレス「えっ」
ホラーティウス「えっ」

【感想】それぞれ細部までおもしろく読んだけれども、今回は特に「性格」という言葉に注目した。「性格」とはギリシア語の「エートス」を翻訳した言葉だが、本来の「エートス」は現代日本語で「性格」と言った場合よりも広い範囲をカバーする言葉であることに注意が必要だ。さしあたってこの感想文では、「性格」のことを現代的に「キャラクター」とでも言いかえようか。

さて、まずアリストテレスは物語を構成する要素を6つ挙げ、そのうち「筋=ミュートス」をもっとも重視する。この「筋」とは、現代の感覚で言うと「プロット」のようなものだろう。マンガに詳しければ、「ネーム」と言ったほうがより正確に伝わるかもしれない。アリストテレスは物語を組み立てる骨格の出来こそが作品そのものの出来を左右すると考える。だから相対的に「性格=キャラクター」を軽視する。アリストテレスの立場では、仮にキャラクターが立っていなくても、プロットが優れていれば良い作品になる。
ただしもちろん、アリストテレスはキャラ立ちそのものを否定しているわけではなく、ホメロスのキャラ立てが巧妙なことを賞讃してもいる。

一方のホラーティウスは、キャラ立てにかなりこだわっている。物語が成功するかどうかは、キャラクターの首尾一貫性にかかっていると言う。そしてキャラクターを立てるために、しっかり現実から人間観察すべきことを主張している。

現代でも物語を作る場合、小説であれマンガであれ、「プロット」と「キャラクター」の関係はやはり問題となる。プロットを優先させるとご都合主義でキャラクターの動きが不自然になり、キャラクターを立てるとプロットが破綻するという、二律背反に陥る場合がある。アリストテレスは、キャラクターを立てるあまりにプロットが破綻すること(=機械仕掛けの神)をひどく嫌う。それに対しホラーティウスは、キャラクターの一貫性を重視する。
現代では、ホラーティウスの立場のほうに説得力があるように思える。たとえばマンガやライトノベルでは、プロットより先にまずキャラクターをしっかり作って、「キャラが勝手に動く」ような作品が結果的に成功しやすいように思う。アリストテレスが賞讃するような「プロットが巧妙な作品」は、現代では玄人受けはしても、一般受けはあまり望めないような気がする。だからだろう、アリストテレスは吐き捨てるように、「最近の読者はバカばかりで、つまらない作品が流行する。嘆かわしい」と何度も書きつけるのだった。うーん、こういうふうに「キャラ重視作品」をけなす人、今でもいますねえ。2300年前から変わらない光景なのだった。

今後の研究のための個人的メモ

この本は、現代的な観点からもなかなか見所が多い。たとえば、性格の首尾一貫性に関して、両者とも興味深いことを書き残している。

【個人的備忘録:性格の首尾一貫性】
「たとえ再現の対象とされる人物が首尾一貫しない性格をもっており、そのような首尾一貫しない性格が前提とされる場合においても、その人物は首尾一貫しない性格の点で首尾一貫していることが求められる。」アリストテレス1454a
「しかしこれまで試みられたことがないものを舞台にのせ、あえて新しい人物をつくり出すなら、それは最初舞台に現われたときの性格を最後まで保持し、己れに忠実でなければならない。」ホラーティウスpp.237-238

また、アリストテレスがホメロスのキャラ立ちを褒める文章も、現代的関心から見ても興味深い。

「これに反しホメーロスは、短い序歌を歌ってから、ただちに男または女、あるいはほかの役の人物を登場させる。しかも、彼らの一人として性格をもたないものはなく、めいめいがその性格をそなえている。」アリストテレス1460a

また、どのような人間が作家に向いているかについてのコメントは、現代にも通じるように思う。これが2000年前の文章かと思うと、なかなか怖いものがある。

「それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。」アリストテレス1455a
「称賛に値する歌ができるのは、生まれついた才能によるのか、それとも技術によるのか――これはよく尋ねられることだ。だが、いくら努力しても豊かな鉱脈がなければなんの役に立つのか、あるいは、いくら才能があっても磨かなければ何ができるのか、わたしには分からない。このように才能と努力は互いに相手の助力を求め、友好の契りをむすぶ。」ホラーティウスp.252

そして、演劇が自由によって栄えたにも関わらず、自由すぎて個人を中傷する表現が溢れ、あまりに表現が過激になりすぎた結果、法によって規制されたという記述は、現代の表現規制問題を思い起こさせ、なかなか考えさせるものがある。人間、2000年前から進歩しねえなあ。

「しかし自由は放縦に流れ、法の取りしまりを受けてもおかしくない暴力に堕した。法が布かれ、コロスは人を傷つける権利を奪われて沈黙したが、それは恥ずべきことであった。」ホラーティウスpp.246

『アリストテレス詩学/ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年