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【要約と感想】ホメロス『イリアス』

【要約】いまから3000年以上前のことですが、ギリシア連合軍が小アジアにあったトロイエという町を攻め落とした戦争のうち、お互いの陣営が誇る最高の武将が一騎打ちをするまでの経緯を描いた物語です。
 他にもたくさんの一騎当千の武将たちが縦横無尽に戦場を駆け巡り、たくさんの兵士たちが無残に殺されていきます。

【感想】まあ、率直に言って、ひでえ話だなあと。とても人に奨められる話ではない。特に女性と子供には読ませたくない。女性が読んだら怒り心頭に発して話の筋を追うどころではなくなるのではないか。女性をモノとして扱うことになんの躊躇もない登場人物たちの言動には唖然とするしかない。また残虐表現が酷すぎて子供に見せたくなくなる。北斗の拳劇場版ですら児戯に見えてしまうほど殺し方の描写がむごたらしい。それに最大の英雄であるはずのアキレウスが愚かすぎて、話にならない。愚か者の見本市のように、バカしか出てこない。そもそも戦争の始まった経緯も馬鹿馬鹿しいし、戦争が止められないのも馬鹿馬鹿しいし、ときどき人間界に介入する神々の愚かさ極まりない身勝手な行動と言い分には吐き気すら催す。
 まあ、女をモノとして扱って恥じないのも残虐極まりない殺人描写も、作者に悪意があるわけではなく確かに時代のせいではあるだろうが、それを認めた上で、ともかく現代の人間たちにとって読む必要のある物語ではない。今となっては分別ある大人たちが古典的教養を身につけるために読むものであって、純粋に物語を楽しむために読むような類のものではなかろう。というか、プラトンの時代ですらもはや子供に与えるのに相応しくない作品として認識されていたのも頷けるというものだ。あんな愚かな連中が神様だとしたら、とてもじゃないが敬う気になどなれない。

 そういう数々の難点を教養と分別の力で乗り越えれば、まあ、英雄譚として楽しむことはできるかもしれない。たとえば結局だれが一番強いのかなどと考え始めると、ドラゴンボールと同じような楽しみ方はできなくもない。個人的な感覚だけで言えば、アキレウス>ヘクトル>ディオメデス=パトロクロス>サルペドン=オデュッセウス>大アイアス>アガメムノン=メネラオス>小アイアス>パリスって感じか。最弱のパリスに最強のアキレウスが討たれるというのは、まあ、話の筋から言えばうまくできてると言えるが、それは「イリアス」後の話となる。
 それから、最大のクライマックスであるはずのアキレウスv.s.ヘクトルの一騎打ちが、間抜けすぎる展開であるとこは、間抜けであるがゆえに面白いかもしれない。例えば三国志演義であれば呂布と関羽・張飛の戦いは矛を何十回合わせても決着がつかないような息もつかせぬ手に汗握る展開となるわけだが、イリアスでは一撃で決着がついてしまう。あっけないことこの上ない。こういう戦闘感覚については、東洋人と西洋人の感覚の違いを考える上でもヒントになるのかもしれない。
 あと、敵を殺した後に、どうしてあんなにも武具を剥ぐことを優先するんだろう。死体から武具を剥いでいるうちに逆に狙われてやられていく描写が多すぎて、なんでこんなにバカばかりなのか、不思議になる。まあ、これが文化というやつなんだろうけれども。

【女をモノとしてしか見ていない酷い描写を備忘録的にメモ】
アガメムノン「いかにもわしはどうしても娘を手許に置きたいのだ。わしには正妻クリュタイムネストレ(クリュタイムネストラ)よりもあの娘のほうがよい。姿かたちといい、心ばえや手の技といい、娘は少しも妻には劣らぬのだ。」1・101-120

ネストル「さればなんぴとであれ、ヘレネゆえに(われらが)こうむった悲歎の報復のためにも、トロイエ人の妻を抱くまでは、帰国を急いてはならぬぞ。」2・333-368

アカイア勢一同「誉れ最も高く、神威ならびなきゼウス、ならびによろずの不死なる神々よ、両軍のいずれの側にせよ、先に制約に背いて不埒を働く時は、その当人たちのみかその子らの脳漿も、この酒の如く地上に流れ、またその妻たちは見知らぬ者に婢となって仕えますように。」3・302-309

アガメムノン「これは必ず果たされることだが、幸いにしてアイギス持つゼウスとアテネとが、イリオスの堅固な城を陥すことをわしに許してくださる暁には、わしの次にはそなたに第一の褒賞をとらせよう、三脚の釜か、車体と共に二頭の馬か、それともそなたと褥を共にする女かをな。」8・273-291

アガメムノン「それにまた、優れた手芸の心得のあるレスボス生れの女七人を添えよう、これはかつてあの男が見事な造りの町レスボスを陥した時、わしが選び取った女たちで、その美貌は女たちの間でも際立っていた。」9・114-134

アキレウス「わたしは幾度も眠られぬ夜を過し、昼は血腥い戦いに明け暮れた――それも彼奴らの抱く女を得るために敵と戦ってだ。」9・307-336

アキレウス
「われらが己れの力と長い槍とで、人間たちの豊かな町をいくつも屠り、苦労の末に手に入れた女たちがな。」18・310-342

アキレウス「アトレウスの子よ、これはあなたとわたしのどちらにとっても、むしろよかったのだろうか、われら二人がひとりの若い女ゆえに、嫌な想いをし心を蝕む争いで猛る狂ってきたというのは。あの女などはむしろ、わたしがリュルネソスを陥して自分のものにしたその日に船の上で、アルテミスが射殺して下さったらよかった。」19・40-73

アキレウス「私はアテネと父神ゼウスの加護の下にこの街を陥し、女どもを捕え自由の日を奪って連れ帰った。」176-198

「みまかった人を弔う催しに、三脚釜か女か、豪華な賞が賭けられる折のこと」22・131-176

アキレウス
「まず駿馬を駆る騎士に与える見事な褒賞としては、一位の者には優れた手芸の心得のある女一人と、二十二メトロンを容れる、取っ手のついた三脚釜とを、二位の者には胎に騾馬の仔を持つ、まだ馴らしていない六歳の牝馬一頭を」p.346 23・262-286

「勝者には火に掛ける大きい三脚の釜、アカイア人の間では牛十二頭と値踏みされたもの、また敗者のためには一人の女を場の中央に立たせたが、様々な技術を身につけた女で、一同の値踏みは牛四頭であった。」p.366 23・700-724

テティス「倅よ、食事も眠りも忘れ、いつまでも歎き悲しんでわれとわが心を蝕んでいるのです。こんなときには女を抱いて楽しむのもよいことなのだよ。」24・120-137

 いやあ、本当に酷い言いぐさばかりだが。特にアキレウスの酷さと愚かさには目を覆うばかりだ。ちなみにアキレウスが愚かだということは、2000年前にすでに気づかれている。具体的には例えばローマ時代のストア派哲学者エピクテトスが以下のように述べている。

【アキレウスをバカにするエピクテトス『語録』】
「アキレウスはいつ躓いたのか。パトロクロスが死んだときか。そうであってほしくはないものだ。むしろ、憤慨し、少女のために泣き、恋人のためではなく戦うためにそこにいることを忘れたときである。正しい思考が奪われ、それが失われたとき、これこそが人間の妻月であり、これこそが包囲であり、これこそが滅亡なのだ。」1-28

「アガメムノンやアキレウスは自分に現れた心像にしたがって、あのような悪事をおこない、また災難をこうむったわけであるが、私のほうは現れた心像には満足していないから、その点では私は彼らよりも優れているのだろうか。」
「人類が誕生して以来、ありとあらゆる過失や不幸はこのことの無知が原因で生じているのではないのか。アガメムノンとアキレウスはなぜお互いに意見が違ったのか。それは何が有益で何が不利益かを知らなかったからではないのか。」2-24

「「ああ、でも私は、友が私より長生きをして、私の息子を育ててくれるものと思っていたのだ」とアキレウスは言う。
君は愚かだったわけで、確かでないことを思い込んでいたのだ。すると、どうして君は自分を非難しないで、女の子のように座って泣いていたのだ。」4-10
「君たちはどう思うか。ホメロスはわざとこんな話を作って、最も高貴な人、最も強い人、最も富んだ人、最も容姿の端麗な人が、もっているべき考えをもたなければ、実のところ最も哀れであり、最も不幸であることを妨げるものはなにもないとこと、われわれが学ぶようにしたのではないか。」4-10

 ちなみに、トロイア戦争はヘレネという一人の美女の奪い合いに端を発するのだが、「まさか一人の女性をめぐって十年も大まじめに戦争を続行するなんてありえない。バカじゃないの」という理性的な感想は、私が言うまでもなく、しっかり古代から表明されている。具体的には例えば、アイスキュロス『アガメムノーン』には「もとをただせば、他人のものである女の奪い合い。この思いはだれしもが口をとざしたまま叫んでいる」(447)と、トロイア戦争のバカバカしさを指摘している。またエピクテトスは「不貞の女がいなくなったのだから、もっけの幸いではないのか。」(『語録』3-22)とか「もしメネラオスが、こんな妻は奪われたほうが得だというような気持ちになったなら、どんなことになるだろうか。『イリアス』だけでなく、『オデュッセイア』もなくなってしまうのだ。」(『語録』1-28)と指摘して、こんなことで戦争を起こすバカバカしさに呆れている。
 また、たとえばヘロドトス『歴史』は、ヘレネがトロイアにいなかったという説を紹介し、一人の女性のために命を賭けて戦争するなんてことがあるわけないと主張しているのだった。まあ、理性的に考えれば、そうとしか思えない。
 が、もうちょっと深堀りして考えてみると、上記の酷い引用に見られるように、「女」を実際に「財産の筆頭目録」として扱った時代がひょっとしたらあって、我々の想像を絶する価値観で人々が動いていた可能性も排除できないとは思う。たとえば農耕が広く普及する以前であれば、土地や金(交換材)の価値が極めて低く、逆に人間そのものを財産(交換可能なモノ)として重視する可能性は、あるのかもしれない。実際、領土を分割するという話はまったく出てこない。おそらく土地なんか余りまくっていた時代の話なのだろうし、上に引用した「女をモノとして見る感覚」はその仮説を支持する材料になる。逆に言えば、ヘロドトスの時代には、そういう原始的な感覚がもはや共有されないことをも意味しているのだろう。

 また、そもそも人間たちがヘレネを奪い合うきっかけになったのは、パリスの審判として知られるエピソードである。ヘラ・アテナ・ビーナスのうちの誰が最も美しいかを、人間であるパリスに選ばせようという話だ。これがきっかけで、何万人もの人間が死ぬ戦争に向かって行く。超くだらない。バカすぎ。そう思っているのは現代に生きる私だけでなく、古代の人々も「超くだらない。バカすぎ。」と思っている。たとえばプラトン『国家』アウグスティヌス『神の国』は、「そんな愚かなものは神であるはずがない」と指摘して、プラトンはホメロスなど詩人たちの愚かさを歎き、アウグスティヌスはプラトンを引用しながら多神教のバカバカしさを論難している。まあ実際、そうですよね、としか。

【ホメロスを批判するアウグスティヌス『神の国』】
「わたしたちは、むしろ、国家がどのようなものであるべきかを理性的に考えて、詩人をいわば真理の敵として、都市から追放せねばならぬと考えたギリシア人プラトンに軍配をあげねばならぬのではなかろうか。かれはじっさい、神々に加えられた侮辱に耐えることができず、また市民の心が詩人の仮作によって汚され、傷められることを欲しなかったのである。」第2巻第14章
「そこからローマ民族がおこったトロヤ、またはイリウムは、ギリシア人と同じ神々をもち、崇拝しながら、なにゆえギリシア人によって征服され、占領され、破壊されたのであるか。」第3巻第2章

 そしてルネサンス期人文主義の王と称されたエラスムスは、イリアスを一刀両断している。

【イリアスをバカにするエラスムス『痴愚神礼賛』】
「聖なる詩編『イリアス』は、王族や諸民族の常軌を逸した怒り以外に、なにを物語っているでしょうか?」205頁

 エラスムスの言うとおり、イリアスの登場人物は神も含めてことごとく常軌を逸しており、痴愚神による諧謔の対象として実に相応しいのであった。

ホメロス『イリアス(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年
ホメロス『イリアス(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年

【要約と感想】キケロー『老年について』

【要約】歳をとることについて、世間の人々は厭なことと思っているようですが、実際はたいへん素晴らしいことです。が、素晴らしい老年を迎えるためには、若いころからの行いがとても大切です。

【感想】まあ、まだ私には早い話だったかな。壮年期のうちは、ばりばり働こう。で、この本は、ヨボヨボになって意気消沈している時に、もう一度読むことにしよう。とても元気が出そうだ。そういう意味では、この本の存在を知っていて、損はしない気はする。

【個人的な研究のための備忘録】
人生の諸時期を区分する様式について、老年を語る本書もやはり言及している。

「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。」10・33

人生の区分についてはアリストテレス等にも既に見えるわけだけれども、キケローの文章で特徴的なのは、所持期に特有の使命を想定している点かもしれない。単に時期を区切るだけでなく、エリクソンに通じるような「発達段階論」に足を踏み入れている感じがするわけだ。

また、プラトンの「想起説」について言及している部分があるけれど、プラトンよりもより直接的な表現になっていて、興味深い。

「人間が生まれる前から多くのことを知っているということの大いなる証拠を挙げるなら、子供でさえ難しい学問を学ぶ時、数えきれぬことがらをいとも迅速に了解するので、今初めて聞かされるのではなく、思い出し想起しているように見える、という事実がある。」21・78

ここでキケローが言及しているように、確かに子供でもけっこう難しい理屈をすんなり理解したりすることがある。この現象をブルーナーが捉えて主張したのが、「どの教科でもその知的性格をそのままに保って、発達のどの段階の子どもにも、効果的に教えることができる」という「教育の現代化」理論であった。この現象はおそらく「人間理性の共通性・普遍性」に基づいているわけだが、それが古代では「想起説」として表現されているのはノートしておきたい。

キケロー『老年について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年

【要約と感想】セネカ『怒りについて』

【要約】怒っても、いいことは何もありません。

【感想】まあ確かに、私が怒ることで学生が勉強するならいくらでも怒るけれども、私が怒ったところで彼らが勉強する気になるはずがないわけで。
個人的にはセネカは当たり前のことを言っているようにしか思えないわけだけれども、こういう文章を必要とする人もいるのでしょう。たとえば以下の文章なんかは、現代においても、twitter等ネット上の議論で白熱している人に対して、一言一句も変えずに適用できてしまうのであった。逆に言えば、人間、2000年ものあいだ全く進歩していないということでもあるのだった。

「あの議論では、君の語り方はかなり喧嘩腰だった。今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できず、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えられるかどうか、気をつけるがいい。良き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受け取るものだ。」3・36・4

【今後の研究のための備忘録】
子どもに関する記述は、なかなか興味深い。ギリシア時代の子ども観を引き継いで、子どもに理性を認めない立場が徹底されている。

「そういったものは、なんであるにせよ、怒りではない。怒りのようなもの、子供のそれのようなものにすぎない。子供は転ぶと、台地に懲罰の鞭がふるわれるのを願う。なぜ怒っているのかが自分でも分かっていないことも間々ある。ただひたすら怒るだけで、理由も不正もない。」1・2・5
「仮にもし怒りが善であったとすると、まさに完成に到達した人間にそなわることになるはずではないか。ところが、いちばん怒りっぽいのは幼児と老人と病人である。およそ、ひ弱なものは本性上、愚痴っぽい。」1・13・5
「こんな場合、行なっている人間の性格と意志を突きとめよう。子供だ。年齢に譲ってやれ。悪いことをしているか分からないのだから。」2・30・1
「怒りと不正に耐えるというのは、実は今、あなたがしていることなのだ。なぜあなたは病人の激怒、狂人の罵言、子供の無遠慮な手の悪戯に耐えているのか。言うまでもなく、彼らは何をしているのか分かっていないとみなされているからだ。」3・26・1

それから、人間の生まれつきの性格が変わらないことについて明確な表現があることは、押さえておいていいかもしれない。「氏か育ちか」という議論は教育学では宿命的に避けられないわけだが、セネカは「氏」を踏まえた上で「育ち」の意義を主張している。なかなかバランスがとれているようには思う。
また、性格そのものの形成について、セネカが環境決定論のような発言をしているのも押さえておく。

「最も大きな力をふるうのは習慣である。それが劣悪なとき、悪徳が養われる。自然を変えることは難しい。いったん生まれくる者の構成要素が混合されると、それを覆すことはできない。とはいえ、知っておくと役立つことはある。灼熱質の人から酒を遠ざけることなどだ。プラトーンは、子どもに酒を禁ずるべきだと考え、火を火で駆り立てることを禁じている。」2・20・2

また、教育に関しては簡潔な言葉しか残っていないものの、なかなか含蓄が深い。極端に偏らず、バランスを取ることを重視している。

「私は主張するが、子供を早いうちから健全に躾けることこそ、何よりもためになる。だが、その舵取りは容易ではない。というのも、彼らのうちに怒りを養わないよう、同時に素質を鈍らせないよう努めなければならないからである。事は細心の配慮を要する。持ち上げるべきものも抑えつけるべきものも、似たものによって育まれる。そして、似たものは注意深い者をすら容易に欺くからである。覇気は放任によって増大し、隷従によって減少する。褒められれば立ち上がり、自信へとつながっていく。けれども、同じそのことが増長と怒りやすさを生み出す。だから、ある時には馬銜を、ある時には拍車を用いるようにして、両者のあいだを巧みに操縦していかねばならない。」2・21・1-3

セネカ『怒りについて 他二篇』兼利琢也訳、岩波書店、2008年

【要約と感想】セネカ『人生の短さについて』

【要約】無意味に長生きすることに、なんの意味もありません。真に「生きた」と言えるためには、意味のある人生を送らなければなりません。そしてそれは、「死に様」に現われます。だから、つまらない他人に人生を振り回されず、貴重な時間を自分自身のために使うべきです。本当の幸福とは、私が私自身であり続けることにあります。そのためには、自分が「死すべき運命にある」という必然を認識し、受け入れることが肝要です。

※2008年に改訳されましたが、学生のときに買った旧訳で読んでいます。

【感想】事実を積み上げて帰納的に論理を構築していく類の言論ではなく、あらかじめ結論が決まっていて、各事例を演繹的に斬っていくという類の言論だろう。そういう意味では、哲学的な緊張感をさほど感じない本ではある。

 とはいえ、一定程度完成した論理体系の完成度と射程距離を測定するという意味では、充分に機能してもいる。ストア派の論理から導き出される人生観と世界観について、具体的によく分かる本でもある。

 簡単にまとめると、セネカの言う幸福とは「わたしがわたしである」ということに尽きる。だが、これを実践するのはとても難しい。名誉や財産などを追い求めることは、他人のために人生を浪費することであって、わたし自身を失っていく愚かな行為だ。「わたし」とは本質的に「死すべき存在」だ。「死すべき存在」としての在り方を突き詰め、その本質を受け入れることが、平静であるということであり、自由ということであり、「わたしがわたしである」ということだ。その境地に達している人間を賢者と言う。
 なるほど、まあ、ひとつの卓見ではあると思う。だがそれは絶対的に無矛盾なのではなく、「死」という特異点を軸として構築された仮構的に無矛盾な体系ではある。これを受け入れるためには、「死」というものを特異点として無条件に受け入れるだけの覚悟と度量が必要となる。この姿勢を得ることがそもそも「死すべき存在」である人間には極めて難しいわけだが。

【個人的な研究のための備忘録】
 ところでセネカは、「自由」に関して、なかなか興味深い文章を残している。

「しかしソクラテスは市民の中心にあって、時世を嘆いている長老たちを慰め、国家に絶望している人々を勇気づけ、また資財のことを憂慮している金持ち連中には、今さら貪欲の危機を後悔しても遅すぎるといって非難した。さらに、かれを見習わんとする人々には、三十人の首領たちの間に自由に入って行って、偉大なる模範を世の中に示した。にもかかわらず、この人をアテナイ自身が獄中で殺した。僭主たちの群をあざ笑ってもなお安全であったこの人の自由を、自由そのものの力で持ちこたえることはできなかったのである。」pp.81-82

 この文章には、自由のアポリアが示されている。自由を破壊するのは自由である。こういう意味での「自由」は、人間の尊厳をも自由自在に破壊して恥じるところのない新自由主義者たちが掲げる「自由」に相当するものと言える。
 しかし同時に、セネカは以下のようにも言っている。ここで言われている「自由」は、上の新自由主義的な「自由」とはずいぶん違うように読める。

「宇宙の定めの上から堪えねばならないすべてのことは、大きな心をもってこれを甘受しなければならない。われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない。我らは支配の下に生まれついている。神に従うことが、すなわち自由なのである。」p.149

 このような「自然を認識し、それに従うことが自由」という自然主義的な「自由」は、近代に入ってからもヘーゲル等の言葉に見ることができるだろう。

 また、「自分自身と一致する」ことに対する徹底的なこだわりも、印象に残るところだ。「個性」概念や「アイデンティティ」概念について考える際に、ストア派的伝統をどの程度考慮に入れるべきか、ひとつの参照軸にできるように思った。

「しかし自分自身のために暇をもてない人間が、他人の横柄さをあえて不満とする資格があろうか。相手は傲慢な顔つきをしていても、かつては君に、君がどんな人であろうとも、目をかけてくれたし、君の言葉に耳を傾けてくれたし、君を側近くに迎え入れてくれたこともある。それなのに君は、かつて一度も自分自身をかえりみ、自分自身に耳を貸そうとはしなかった。だから、このような義務を誰にでも負わす理由はない。たとえ君がこの義務を果たしたときでも、君は他人と一緒にいたくなかったろうし、といって君自身と一緒にいることもできなかったろうから。」p.13
「ルクレティウスが言うように、誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとするのである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。」p.74

 ルクレティウスを引用していることからも分かるように、ストア派といいつつも、けっこうエピクロス派の論理に親和的でもある。
 ちなみにセネカがこのように「自分自身」との関係性にこだわるのは、「理性」と「神」との類似性に由来すると思われる。

「理性は感覚に刺激され、そこから第一の原理を捕えようとしながら――つまり、理性が努力したり真理に向かって突進を始める根拠は、第一の原理以外にはないからであるが――そうしながら、外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らのなかに立ち帰らねばならない。なぜというに、万物を抱きかかえる世界であり宇宙の支配者である神もまた、外的なものに向かって進みはするが、それにもかかわらず、あらゆる方向から内部に向かって自らのなかに立ち戻るからである。われわれの心も、これと同じことをしなければならぬ。心が自らの感覚に従い、その感覚を通して自らを外的なものに伸ばしたとき、心は、感覚をも自らをも共に支配する力を得ることになる。このようにして、統一した力、すなわちそれ自らと調和した能力が作り出されるであろう。そして、かの確実な理性、つまり意見においても理解においても信念においても、不一致も躊躇もない理性が生まれるであろう。この理性は、ひとたび自らを整え、自らの各部分と協調し、いわば各部分と合唱するようになれば、すでに最高の善に触れたのである。(中略)。それゆえ大胆にこう宣言してよい――最大の善は心の調和である――と。」p.136

 このような「再帰的な理性」という存在の在り方が、動物など他の存在にはありえない人間独自の在り方であり、人間と神との相同性を主張する理論的根拠ともなる。
 セネカの文章では、この「再帰的」な在り方の記述は徹底せず、論理がすべって一目散に「調和」のほうに流れている。このあたり、いったん自分の外部に出て、再び自分に返るという理性の運動については、ヘーゲル『精神現象学』が執拗に記述することになるかもしれない。そのときは、セネカが言うような「調和」ではなく、矛盾と闘争の果ての総合が問題となるだろうけれども。

 ところで、我が日本にもセネカと同じようなことを言っている先哲がいたことは記憶されて良いかもしれない。江戸時代初期の福岡の朱子学者・貝原益軒は次のように言っている。

「かくみじかき此世なれば、無用の事をなして時日をうしなひ。或いたづらになす事なくて、此世くれなん事をしむべし。つねに時日をしみ益ある事をなし、善をする事を楽しみてすぐさんこそ、世にいけらんかひあるべけれ。」貝原益軒『楽訓』巻上

 あるいは両者を比較して、セネカが「死」を思ってとかく悲観的なのに対し、益軒が「楽」を思ってとても楽観的なことについては、考えてみると面白いかもしれない。

セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年

【要約と感想】プロチノス『善なるもの一なるもの』

【要約】「存在」とは要するに「ひとつ」であることです。「ひとつ」とは、「知性」や「精神」や、あるいは「万有」といったものよりも先の何かです。われわれはその「ひとつ」と一体になることによってのみ、本当に存在し、幸福になることができます。しかしその有り様は言葉によって説明することがそもそも不可能な事態であって、実際に経験するしかありません。
ただし、どうして「一」から「多」が生じたのか、という問題に答えるのはとても難しいです。

【感想】プラトンが対話編で具体的に展開した議論を、筋道立てて抽象的な論理にまとめるとこうなるという、新プラトン主義の精髄のような論文だ。そして新プラトン主義の「存在」に対する議論は、キリスト教神学を経由して、近代西洋哲学の土台になっていく。これこそ「同一性の哲学」の核心だ。たとえば、ここに描かれた「一から多への運動」は、そのエッセンスをヘーゲル精神現象学もパクっているんじゃないかと思えたりするし、自己へ還る「ひとつ」という主体の様式の議論は、そっくりそのまま実存主義と重なる。極めて重要な霊感がたっぷり詰まっている論文であるように思う。

一方、訳者の翻訳の仕方にも関わってくるとは思うのだが、とても東洋的なセンスを感じる論文でもある。言葉では伝えられずに経験によって伝授するしかない真実の在り方に関しては禅が言う「不立文字」をどうしても想起せざるを得ないし、あるいは現実の物質的世界を解脱して「ひとつ」と精神的に一体化するという展望は、そのまま仏教の教えと重なる。神と一体化するというよりも歓喜のうちに神自体になるという論理には、東洋的なセンスを感じざるを得ない。

とはいえやはり、最終的には本書は「同一性」の哲学であって、東洋の「空」の思想とは決定的に異なる。この「同」と「異」をどう捉えるかは、西田幾多郎的な課題となる。

【この本は眼鏡論にも使える】
「一と二の関係」を原理的に考察する本書の論理は、もちろん眼鏡論にも多大な霊感を与える。なぜなら、「眼鏡っ娘は一」であるのに「眼鏡と娘は二」という根本的な絶望に対し、論理的な光明を与えてくれるからだ。

「かくて、見るものは見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られた者というよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。」47頁

プロチノスのいう「見るもの」と「見られたもの」との対立は、まさに眼鏡という視線を制御するアイテムが「媒介」するものにふさわしい論理構成と言える。

「ところで、これらの各は一つずつの知性であり、存在なのであるが、これらを合わせた全体は、知性の全体であり、存在の全体なのであって、その場合知性は直知することによって、存在を存立せしめ、存在は直知されることによって、知性にその有様を与え、直知することを得させているのである。とはいえ、直知の原因となるものは別にあるのであって、それはまた存在に対しても原因になっている。つまり両者に対して同時に原因となるものが別にあるのである。というのは、両者は同時に、しかもいっしょにあって、互いに見棄てることのない関係にあるけれども、この知性と存在のいっしょになっている一者は二者なのである。すなわち知性は直知する作用に即してあり、存在は直知されるものの側にある。これはすなわち、異の対立がなければ、直知は成り立たないであろうということなのである」63-64頁

この文章の解釈は困難ではあるが、眼鏡について語っていることは間違いない。「知性=眼鏡」と「存在=娘」を同時に成り立たせる原因である「別のもの=眼鏡っ娘」ということだろうか。さらに研究を深めなければならない。

プロチノス『善なるもの一なるもの』田中美知太郎訳、岩波文庫、1961年