【要約と感想】アウグスティヌス『神の国』

【要約】「地の国」と「神の国」があります。アッシリアやローマなど人間が自分の知恵と才覚で治めていると思い込んでいるのが「地の国」で、一方、三位一体の神を信じて帰依する人々が集うのが「神の国」です。「地の国」は最後には滅び、「神の国」には真の浄福が訪れます。
 それを証明するために、間違った考えを持つ人々を次々と全方位に論破します。まずはローマ市民が信仰する多神教、続いてストア派やエピクロス派や新アカデミア派などの哲学者たち、さらに一番てごわい新プラトン主義、イエスをキリストと認めようとしないユダヤ教、そしてカトリックの教義に逆らう異端者たちをことごとく論破します。
 主な論点は、多神教の非合理性、ダエモン論、自由意志/因果論、天使論/悪の由来、幸福論、イエスの神性と受肉/三位一体の認否、旧約聖書の象徴的解釈、新約聖書のカトリック的解釈などなどです。

【感想】「地の国/神の国」と二項対立を設定し、あらゆるものや事象を二項対立の観点から迷いなくズバズバ切り分けることで、極めて分かりやすい論理構成になっている。何の迷いもなく確信を持って言い切ったら説得力が生じるという典型的な論理のように読んだ。
 ただし、ある論理が無謬であることをその論理の内部から証明することは論理的に不可能であり、したがって論理全体の整合性を内的に担保するためには必ず何らかの「特異点=物語」を必要とするし、無謬であることを証明するためには必ず「外部」を請求することとなる。本書は「特異点」を「聖書の無謬性」、「外部」を「復活の奇跡」として設定している。この2つの物語・設定に対して「ちゃんちゃらおかしい」と思う立場からは、本書全体が荒唐無稽なタワゴトにしか見えなくなる。実際、カトリック信者以外には、荒唐無稽だろう。たとえば仮に同じキリスト教徒であっても、プロテスタントから見たら、ちゃんちゃらおかしい(特に旧約聖書の象徴解釈)のではないだろうか。アウグスティヌスを扱った概説書をいくつか読んでみたが、この荒唐無稽な部分は、例外なく完全に無視されている。無視するしかないのも、分からないではない。しかしこの「バカバカしい子供じみた奇跡を信じる」という「特異点」がなければアウグスティヌスの思想体系そのものが成立しないことは、肝に銘じておかなければいけないと思う。その大事な要点に正面から突っ込まず、合理的に容認できるところだけ都合良く掬い取ってくるような研究というものは、あまり意味がないようにも思うのだ。(まあいちおう、17世紀の人文主義者モンテーニュがアウグスティヌスの語る奇跡を荒唐無稽に見えると断じた上で、しかしそれを単純に否定し去るのは人間の側の無知と傲慢に過ぎず、いったい誰がアウグスティヌスより鋭敏な精神を持っているかを考慮して軽はずみな真偽の判断は保留するべきだと言っていることにも触れておこう。『エセ―』第1巻第27章。)

 とはいえ、荒唐無稽だからといって読む価値がないかというと、即座にそう邪険にする必要もない。論理の整合性を保つために「特異点」を必要とするのは特に本書に限った話ではない。逆に「特異点」さえ客観的に特定して押さえておけば、あるいは特異点を特定するようなメタ的な視点を伴えば、本書の論理体系=世界観に呑み込まれることなく、楽しく読みこなすことができるというものだ。そう思って読めば、本書全体を貫く敬虔で誠実な姿勢は、たとえば実質的には著者が伝えたいだろう「霊」の概念を確かに漲らせていて圧倒的な迫力がある。すごい。本書全体に漲る「霊」の概念に対しては、個々のエピソードが荒唐無稽かどうかに関わらず、ある種の尊敬の念と畏怖の感情が湧いてくる。これがアウグスティヌス個人の「人格」の力というものだろう。「何を言っているかではなく、誰が言っているかが重要だ」ということをまざまざと見せつけるような本なのかもしれない。こんな凄い人が言っているのだから信じてもいいかな、と思わせるような。そしてそれは本書最大の特異点とも響き合う。「何を信じるかではなく、聖書が言うことを信じる」という。で、いったんこうなると、もはや外部が存在しない絶対無謬の無敵論理になって、二度と論破されなくなるわけだ。

 また一方たとえば、著者の知的な批判精神は形式的にであれ当時の哲学全般に対する確かで鋭い批判となっている。的確に相手の痛い要点を突いてくる哲学批判に対しては、謙虚に耳を傾ける価値がある。おもしろい。
 具体的には、キケローのストア派的な論理やエピクロスの快楽論、さらには新プラトン主義の論理をばったばったと斬りまくる。自由意志と運命論の関係、時間論等については、近代以降にカントがアウグスティヌスの立論をおさらいするような形で再論することになるだろう。さらに新アカデミア派の懐疑論に対する反駁は、あたかも近世デカルトの「我思うが故に我あり」を先取りしたような論理だ。というかデカルトのほうがアウグスティヌスをパクったのだろう。
 哲学批判に当たっては、「神の国/地の国」の二項対立が極めて有効に働く。特に論理の焦点となるのは「幸福論」の位置付けに思える。ギリシア・ローマの諸哲学は、一方で理念として「神の国」を仰ぎながら、幸福論の次元においては「地の国」に足を着けたままでいる。だから著者は、その引き裂かれた矛盾を突いていくだけでよい。そういう意味ではむしろ唯物論(デモクリトスやエピクロス)に対する切れ味はかなり鈍い。無神論に対しては批判のとっかかりがまるでない、というところではある。著者もそれは十分に自覚しているようで、本書では意図的に無神論者を相手にしていないように見える。逆にいちばんカトリックの立場に近い新プラトン主義者を説き伏せることには、極めて多大なエネルギーを割いている。
 こういう著者にかかれば、ローマの多神教のバカバカしさは、本当にバカバカしく見えてくる。多神教をバカにする論理はそのままそっくり日本の八百万神にも当てはまってしまうのが悲しいところではあるのだった。

 しかしそうなると最大の問題になるのは、「神の国」と「地の国」を橋渡しする「中間=メディア」の扱いになる。もし仮に「神の国」と「地の国」が完全な二項対立で、お互いに重なるところがまったくないのであれば、お互いに干渉することが不可能なのだから、そもそも議論する意味が前提から崩れる。だから二項対立図式を維持したままで、それでも相互に干渉することを可能にするためには、「中間=メディア」が絶対に必要になる。哲学史的には、ソクラテスがこの中間物を「エロス」に比定した(饗宴)ことは有名で、プラトンや新プラトン主義もその考えを基本的に引き継ぐ(というか饗宴に描かれたソクラテスの考えはプラトンの創作である可能性が高い)。しかしアウグスティヌスは、これを徹底的に批判する。なぜなら、カトリックにとって「神の国」と「地の国」を繋ぐものが「イエス・キリストの受肉の奇跡」に他ならず、ここが信仰の最大の特異点だからだ。絶対に譲るわけにはいかない。だからアウグスティヌスは中間物としての「ダエモン」を徹底的に、完膚なきまでに批判する(ダエモンとは、ソクラテスが言うところのエロスにあたる)。現代の我々の目から見れば、なんでそんなに熱心にダエモンを批判しなければいけないのか、まったく理解しがたい。しかしカトリックにとっては、この論点こそが天王山なのだ。「受肉という奇跡」を受け容れられるかどうか(そしてそれはユダヤ教とキリスト教を鋭く峻別する決定的なポイントにもなる)。現代の我々はともすると一笑に付してしまう話ではあるのだが、先入観を排除してよくよく考えてみると、この「受肉」という概念は極めて奥が深い。カトリックの教義に帰依するかどうかは別として、一生懸命に向きあってみる価値はあるように思うのであった。

【今後の個人的な研究に関するメモ】
 さすがに「ペルソナ」や「三位一体」に関する言及が豊富な本だった。納得するかどうかはともかく、カトリックの公式見解として味わっておきたい。

「このばあい、神ご自身のペルソナが、もちろんご自身の実体によってではなく――神の実体は死すべき者の視覚にはつねに見られないままであり続ける――、創造者の下に服する被造物を媒体とする確実なしるしによって明らかとなったのであった。」10-15

「したがって、わたしたちが神について語るばあい、二つの、または三つの神々を語ることがわたしたちにはゆるされていないように、いま述べられたような仕方で、わたしたちは二つの、または三つの始原を語るわけではない。わたしたちもそれぞれについて、すなわち、御父について、御子について、聖霊について語るとき、それぞれが神であるということを認めているのであるけれども、だからといって、サベリウスの異端説のように、御父が御子と同じであり、聖霊が御父および御子と同じである、とはいわない。わたしたちは、御父は御子の父であり、御子は御父の子であり、聖霊は御父と御子の霊であるが御父でも御子でもない、というのである。」10-24

「それというのは、単純な善から生れたものはそれと同じように単純であり、それがそこから生れたところのものと同じであるからである。この両者を、わたしたちは父と子とよぶのであり、そしてこの両者は、その霊とともに一なる神である。この父と子の霊は、聖書において、その名のいわば固有の意味で聖霊とよばれる。」11-10
「それゆえ、本質的に、真に神的であるとところのものが単純であるといわれるのは、それらのものにおいて、性質と実体とが別のものではなく、またそれらのものが、それら自身以外のものにあずかることによって、神的であったり、賢明であったり、至福であったりするのでもないからである。なるほど、聖書において、知恵の霊は、それ自身のうちに多くのものをもつゆえに多といわれているが、しかし、聖霊は、それがもつところのものであるとともに、一なるものとして、そのもつところのものすべてである。すなわち、多くの知恵があるのではなく、一なる知恵があるのであって、そのうちに、可知的なものの、いわば無限のしかも知恵の霊にとっては有限な宝があり、そしてそれらの可知的なもののうちに、その知恵を通じてつくられた可視的で可変的であるもののすべての不可視的で不変的な観念があるのである。」10-11

「それゆえ、各々の被造物について、だれがそれをつくったか、なにによってつくったか、なにゆえつくったかと問われるとき、わたしがさきにあげた三つの答え、すなわち、「神が、みことばによって、善なるがゆえにつくった」という答えに立ち帰ってみるのに、神秘的な深い意味において、三位一体――父と子と聖霊――自体がわたしたちに暗示されているのか、それとも聖書のこの箇所において、そのように解することを妨げるなにかが起こるのか、それは簡単に論じ去れない問題であり、また一巻によってすべてをせつめいすることを要求されてはならない。」11-23

「わたしたちはこう信じ、こう確立し、こう忠実に述べ伝える。父はみことばをお生みになった。みことばというのは万物がそれによってつくられた知恵であり、独り子である。一なる父が一なる子を、永遠なる父が等しく永遠なる子を、最高の善なる父が善なる子を生みだされたのである。そして聖霊は、父の霊であると同時に子の霊であり、聖霊は父と子とも実体を同じくし、それに等しく永遠である。この全体は、それぞれの位格の特殊性のゆえに三位でありながら、分かたれない神性のゆえに一なる神であり、それと同じように分かたれない全能性のゆえに一なる全能なものである。しかしそれにもかかわらず、その一々についてたずねてみても、その各々が神であり、全能と答えられるのであり、他方、そのすべてについていっしょに考えてみると、三なる神があるとか、三なる全能なものがあるとは答えられはしないで、一なる全能な神があるとこたえられるのである。このばあい、三なるものにそれほどまでに分かたれない統一性があり、そしてこの統一性がそのように述べ伝えられることを要求したのである。さて、善なる父と子との聖霊は、父と子との両者に共通であるゆえに、父と子との両方の善性とよばれて正しいかどうか、わたしは軽率な判断を早急に下すことをさし控えるが、しかしそれにもかかわらず、聖霊は両者の聖性である――といっても両者の性質であるのではなく、聖霊もまた実体であり、三位一体における第三の位格である――となら、いうことをはばからないであろう。わたしがこのような考えを抱くようになるのは、おそらく、父も霊であり、子も霊であり、また父も聖であり、子も聖であるが、それにもかかわらず、第三の位格は、実体的なしかも両者と実体を同じくする聖霊として、本来の意味において聖霊とよばれるからであろう。」11-24

わたしたちは、わたしたち自身のうちに神の像を、すなわち、かの最高の三位一体の像を認める。その像は、神と等しくはなく、いや、神とははなはだしく異なり、遠くかけはなれ、神と等しく永遠ではなく、一言でいえば、神と実体をおなじくはしないけれども、それにもかかわらず、神によってつくられたもののうち、それよりも本性上、神に近いものはなにもないのである。そしてその像は、なおその上に、神に似てもっとも近くなるように、なおつくりかえられて完成されるべきである。すなわち、わたしたちは存在し、わたしたちが存在するということを知り、わたしたちがこの存在し、知るということを愛するのである。」11-26

 そして「人間の完成」に関して、有機体理論が随所に示されていることもメモしておきたい。そしてその論理自体は聖書そのものに示されていることも記憶しておきたい。

「一つのからだには多くの肢体があるが、すべての肢体が同じはたらきをしていないように、わたしたちも数多いが、キリストにおける一つのからだであって、おのおのはたがいに肢体であるからである。そしてわたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっているのである」。これこそが、「数多いが、キリストにおける一つのからだ」であるキリスト者たちの犠牲なのである。」10-6←「ローマ人への手紙」12の3-6

「他方、他の者たちが「天に属する人」と名づけられるのは、かれらが恩寵をとおしてキリストの肢体となって、キリストがかれらと共に、あたかも頭と身体のごとくにひとつとなられるからである。」13-23、3-241

「だからして使徒パウロは、「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といっているのである。」17-5←「コリント人への第一の手紙」10-27

「というのは、正しい比によって調整された多様な音色の和合というものは、調和のとれた多様性のうちに共に融合されて、よく秩序づけられた国の一性を暗示しているからである。」17-14

「それからこの地上で四十日間弟子たちと共にすごされ、かれらの注視のうちに天にのぼられて、その十日後に約束しておられた聖霊をおくられたのであった。当時、信じていた者たちへの聖霊の到来についての最大の、そしてもっとも重要なしるしは、かれらのだれもがあらゆる民族の言語で語ったということである。そのようにして、カトリック教会の一性がすべての民のうちに存在するであろうこと、そして、そこからしてすべての言語で語るであろうこと表示しているのである。」18-49

「ここで、全き人とは何を意味するかをわたしたちは知るのである。すなわち、かしらと身体とが一つになり、そして、それらは然るべき時に完成されるであろう。肢体は日々にこの身体に加えられ、教会が建てられるのである。この教会については、「あなたがたはキリストのからだでり、ひとりびとりはその肢体である」といわれ、また、他の箇所では、「教会であるかれのからだのために」といわれ、さらに他の箇所では「わたしたちは多くいても、一つのパン、一つのからだである」といわれている。そして、身体を建てることについて、ここではこういわれている。「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。それからわたしたちが引用したことばが加えられて、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致とかれを知る知識の一致とに到達し、全き人となり、キリストの満ちみちた年の大いさにまで至る」云々、といわれている。ここにいわれている大いさと身体について、いかに理解すべきであるか、かれは説明している。すなわち、「万事において成長し、かしらなるキリストに達するのである。かれによって全身が結ばれ、すべての節々の助けにより組み合わされ、それぞれの部分は分に応じてはたらき」といっているのである。
それゆえ、それぞれの部分に大いさがあるように、そのすべての部分から成る身体全体にも「キリストの満ちみちた年の大いさ」といわれている満ちみちた大いさがあるのである。この完成については、使徒はキリストについて述べた他の箇所でもいっている。「そして神はかれ(キリスト)を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。」22-18←「コリント人への第一の手紙」12-27、「コロサイ人への手紙」1-24、「コリント人への第一の手紙」10-17、「エペソ人への手紙」1-22、「詩編」112-1

「そこでは、劣った者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使たちをうらやむことはない。だれも受けなかったものを受けようとはおもわないが、すでに受けた人とはかたい絆で結ばれているのである。ちょうど、身体においても、指は目になろうとはのぞまないがごとくである。それぞれが全身の肢体において結ばれて、調和のある結び付きのうちに包含されているからである。したがって、人が他の人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上はのぞまないという賜物もまた受けているのである。」22-30

 まあ、エヴァンゲリオン「人類補完計画」とか、あるいは『地球幼年期の終わり』や『ブラッド・ミュージック』に描かれているように、個々人の境界線が融解して一つの有機体になったときが「人間の完成」というイメージである。この「完成」というイメージが、はたして教育基本法第一条の「人格の完成」にどこまで投映されているか。

 またあるいは、近代の民族国家(nation-state)は、国家を文字通り「身体」として表現してきた。特にドイツ国家学(あるいは官房学)は、国家を「君主を頭部、国民を肢体」というように、露骨に身体になぞらえて描写してきた。日本にはシュタイン等を介してもちこまれ、「国家有機体説」として影響力を持った。さてところが一方、本書では、アッシリアやローマなど「地の国」はそもそも「国家」としての体をなしておらず、それに対して本当に「国家」と呼ぶにふさわしいのは「神の国」だけだと言うのだが、その根拠こそがまさに上に引用した「キリストを頭部、教会を肢体」という有機体イメージであった。論理構成そのものは、近代の国家学とまったく変わりがない。さらにそこにアウグスティヌスが言う「神は命の命」などという言辞を組み合わせると、19世紀の「生命主義」の思想とも考え方がオーバーラップしてくる。そう考えていくと、民族国家(nation-state)の実質的な誕生は確かにフランス革命以後19世紀初頭あたりであるとしても、実は必要な素材は既にアウグスティヌスの段階で揃っていたようにも見えてきてしまうわけだ。ドイツ国家学者は、アウグスティヌスの論理そのものを換骨奪胎して、「神の国」の構成を「地の国」に当てはめた、ということかもしれない。あるいは中世においてはそれらの資源をカトリック教会が独占していたが、宗教改革以降に各種素材が俗世国家へと払下げされて馴致された、ということなのかもしれない。

 さて、そしておそらく著者自身が本当にいいたいことではないだろうけれども、するっと当時の教育の様子が分かるようなエピソードを書いているのもメモしておきたい。

「愚かさと無知そのものが小さからざる罰である。それを避けるために、子どもたちが苦痛にみちた罰によって技能や学問を学ぶことは当然であると考えられているほどである。それに付随する罰は苦痛にみちたものであるので、かれらによっては、しばしば学ぶことよりも、むしろ学ぶことをかれらに強制するところの罰を甘受したいと思うほどである。
もしも死を堪え忍ぶか、ふたたび幼児になるか、という選択に直面するなら、身震いして恐れ、死を選ばない者がだれかいるであろうか。じっさい、幼児は笑いと共にではなく涙と共にこの世の生をはじめるのであって、このことはある意味で、どんな悪に出会わねばならないかを無意識のうちに予告しているのである。」21-14、5-309

「じっさい、小さい子どもたちに、その愚かさを抑えるためにわたしたちが用いるさまざまな恐怖は何であろうか。教育、教師、棒、皮ひも、枝むち、その他すべての強制手段は、聖書が教えるように愛する子の横腹を打って、かれらが粗暴なまま成長するのを抑えるためであり、また、強情を張って教育をまったく受けつけない、あるいは、ほとんど受けつけない、といったことをなくすためである、
これらの罰はすべて、わたしたちがその悪を伴ってやって来た無知をとり除き、邪悪な欲望を抑制するためでなければ何であろうか。わたしたちは、想起するためには労苦をもってするが、忘れるためには労苦はなく、学ぶためには労苦をもってするが、無知でいるためには労苦はなく、活動的であるためには労苦をもってするが、怠惰でいるためには労苦はない、というのは、どういうことであろうか。ここからして、わたしたちの損なわれた自然本性が、いわば自分の重みにしたがって傾いて落ちていくのは何に向かっているのか、そして、そこから解放されるためにはどれほどの助けが必要であるか、が明らかとなるのではないであろうか。怠惰、無気力、怠慢、無関心、――これらはたしかに労苦を逃れようとする悪徳である。労苦は、わたしたちにとって有益であるときでさえ、それ自身は罰だからである。
しかし、年長者は、罰なしにみずから欲するところのことを少年に教えられないとしても――年長者が欲するところのことは少年の益になることはほとんどないのであるが――、それ以外にも、人類はどれほど多くの、そしてどれほどきびしい罰によって苦しまされていることであろうか。」22-22

 アウグスティヌスによって教育や学校とは、本質的に「罰」なのであった。おそらくその考え方は西洋中世を通じて変わらないのだろう。

アウグスティヌス『神の国(一)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(二)』服部英次郎訳、岩波書店、1982年
アウグスティヌス『神の国(三)』服部英次郎訳、岩波書店、1983年
アウグスティヌス『神の国(四)』服部英次郎訳、岩波書店、1986年
アウグスティヌス『神の国(五)』服部英次郎訳、岩波書店、1991年