「古典」タグアーカイブ

【要約と感想】アープレーイユス『黄金の驢馬』

【要約】帝政ローマ期(2世紀)の小説です。魔術への好奇心をこじらせた育ちの良い若者が、手違いで驢馬に変身してしまい、次々と主人が替わる先々で辛酸を嘗めながらも、浮き世の容赦ない試練をなんとか耐え抜いて、最後にはイシス神のおかげで無事に人間に戻ることができ、感謝の修道生活に入ります。
 物語の本筋(箱)とは無関係に語られる挿話が質量共に富んでいます。クピードーとプシューケーの恋話、恋敵を殺して自分も殺される話、傲慢な兵隊の気紛れで酷い目に遭う一般庶民の話、強欲な領主によって破滅する一家の話、間男の奸智で夫が酷い目に遭ったり、迂闊な間男が酷い目に遭ったりする話など、男も女も金と愛欲に目がくらんで狡猾かつ無慈悲に力を振り回す人間ばかり登場します。

【感想】まあ、人間ってやつは二千年経ってもまったく変わらず、どうしようもなく度しがたい生き物だな、という感を強くする。みんな金を手に入れて愛欲を満たすため、自分の持てる力を最大限に発揮しようと必死だ。男は腕力を、女は毒を使う。油断も隙もあったものではない。他人を幸せにしようとする無私の行動などひとかけらも見あたらない。生き馬の目を抜く(本作の場合は生き驢馬の目を抜くか?)ような欲望全開のローマ帝政期に、無私の愛を説くキリスト教に救いを求める人が増えたのは、不思議なことではない気もする。まあ、著者があえて世間の裏面を意図的にクローズアップして、ゴシップ的に描写しているということはあるかもしれない。
 本書の著者はキリスト教(あるいはユダヤ教)については詳しい知識を持っていなかったらしく、本文中では怪しい「一神教」としてのみ扱われている。最終的に主人公を救って人間に戻してくれるのも本来はエジプトで信仰されていたイシスという神格で、他にシュリア・デア(シリアの女神)を信奉する怪しい淫乱宗教集団も登場するなど、ローマ帝政期の多神教の様子がうかがえる。
 一方、クピードーとプシューケーの挿話(日本では一般的にアモールとプシュケーとして知られている)は、西洋古典絵画や彫刻の普遍的なテーマになっていて、私もこれまで様々な作品を見てきたけれども、原典がこの小説に納められていたのは少々意外な感じがする。他の話が下世話で下品で残酷なものばかりなため、この美しい挿話だけが浮いている印象もある。まあ、この話を語った老婆は最終的に盗賊たちによって吊され、話を聞かされた娘の方も惨殺された恋人の敵討をしてから死んでしまうわけだが。まあ、おそらくクピードーとプシューケーの物語は当時の人々の人口に広く膾炙していたもので、大半の文献が散逸してしまった中、たまたま本書に収録されたもののみが時を超えて残った、ということなのだろう。

【今後の研究のための備忘録】学校
 学校に関するセリフが出てくる。

「あのアレーテのことでしょう。私の学校友達なのよ、お前の話しているのは。」巻の9、348頁

 ある奥方が不倫相手を物色しているときに、学校友達が旦那にバレないように上手に不倫をした賢いやり口を参考にするという、酷く下品な文脈で出てくるセリフだ。その不倫をしたい奥方と、不倫を成功させた奥方の関係が「学校友達」ということなわけだが、帝政期ローマの「学校」に女性がどういう関わり方をしていたかをうかがわせる貴重な資料ではある。

アープレーイユス『黄金の驢馬』岩波書店、2013年

【要約と感想】ロンゴス『ダフニスとクロエー』

【要約】今から1800年あまりも昔のギリシアの恋愛小説です。捨て子だった男の子ダフニスと、同じく捨て子だった女の子クロエは、自然豊かなエーゲ海のレスボス島で、様々な事件や障害に遭いながらも、健全・純情・素朴・敬虔に成長し、美しく季節がめぐる中で、微笑ましくも麗しい愛をゆっくり育んでいきます。最後には実の両親とも巡り会い、大金持ちになって、結婚します。めでたしめでたし。

【感想】話の筋自体に見るべきものはない。典型的な貴種流離譚をベースに、徹底的なルッキズムでご都合主義に終始する。主人公たちは何かトラブルに巻き込まれても神様に頼んだり恨み言を言ったりするだけで能動的に解決しようと知恵を働かすことは一切ないのに、神様たちの一方的な加護のおかげですべて事なきを得る。日頃の敬虔な気持ちと行動が大事だということではあるだろうが、主人公の主体性欠如は否めない。まあ、洋を問わず近代以前にはありがちな展開ではあって、特に本作だけが責められるものではない。
 が、一方で近代の作家たちにも支持されたという牧歌的な自然描写は非常に良かった。美しかった。これが1800年も前の作品だとは、人類も凄いものだ。自然描写の美しさは、季節の表現にもっともよく顕れていたと思う。春夏秋冬の移り変わりと、折々の季節の賜物、それに関わる人間の営みの描写は、読んでいて気持ちがよく、清々しい気分になる。訳がいいのかもしれないが、海外の知識人たちも褒めているということなので、おそらく原文から美しいのだろう。
 また、解説等では特に触れられていないが、個人的には性格描写にも感心しながら読んだ。行動そのものは受動的で展開はご都合主義に終始するのではあるが、いっぽう実は内面描写が丁寧だったりする。特に恋に目覚めた後のダフニスの内面描写は、少々しつこくもあるが、とても丁寧で、よく分かる。好きな女の子に会いたくて言い訳を考えるけれども思いつかなくて悶える様だとか、いいところを見せようと張り切るところとか、間接キスで興奮するとか、触りたいけれどもどう触ったらいいか分からなくて困惑する様だとか、もう地域も時代も関係なく、恋する人間ってみんな同じだな、と微笑ましい気持ちになる。よく伝わってくる。ご都合主義的な展開を補って余りある美点で、最後まで飽きずに読めた。
 しかしまあ、ダフニスくんの童貞喪失の場面は「あちゃー」という感じだ。ダフニスくんの童貞はクロエちゃんにもらってほしかった。

ロンゴス/松平千秋訳『ダフニスとクロエー』岩波文庫、1987年

【要約と感想】エラスムス『痴愚神礼賛』

【要約】私は痴愚神。ちなみに女神。誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒めちゃおっかな。バカ最高!
 まず覚えてほしいのは、実はみんなバカが大好きだということ。口でいくら立派なことを言おうと、行動を見ればみんなバカが好きってことは一目瞭然だし、昔の偉い人たちも口をそろえて言っています。バカ最高!
 そしてもっと重要なのは、バカなほうが幸せになれるってこと。頑張って勉強して賢くなっても、健康を損なうのが関の山です。みんなでバカになって幸せになろう!バカ最高!
 でも決定的に大切なのは、バカはキリスト教徒が目指すべき生き方だということ。だってイエス・キリスト自身がそう言ってるし、そもそもイエスその人が最高にバカだからね。イエスを見習ってみんなでバカになろう!バカ最高!

【感想】抜群のオリジナリティで類書が他に見当たらない文句なしの傑作。パリ大学神学部も怒髪天を衝くおもしろさだ。刻の試練を乗り越えて現代まで語り継がれている理由がよく分かった。
 先行研究も構成についていろいろ検討しているところだが、私は3段構えのように読んだ。第1段では、エラスムス専門の古典教養が遺憾なく発揮されて、様々な古典文献からこれでもかというほど大量に「バカ」を礼賛する章句が引用される。自由闊達で縦横無尽な引用には、圧倒されて唖然とするしかない。第2段では、現実世界の人々が実際にいかに愚かが活写される。市井の人物から王侯貴族、さらに修道士や神学者まで、めっためたに撫で切りされる。確かな社会観察眼を土台にしたテンポ良い皮肉と諧謔が酷すぎる(褒め言葉)。しかし恐ろしいのは、聖書の記述をふんだんに引用しながらキリスト教の本質に切り込んでいく第3段だ。やはり引き続きユーモアに満ちた記述ではあるのだが、いきなり本質的な問いをぶつけられて、「痴愚神って実は本当にすごいんじゃないか」と真顔に戻ってしまう。それは、「キリスト教は本質的に反知性主義ではないか」という問いだ。そしてさらに「表面的に反知性であることが真の知性」という反転を見せられると、もう恐れ入るしかない。

【今後の研究のための備忘録】子ども観
 テーマが「痴愚」である以上、「子どもの痴愚」に関しての記述がそこそこある。教育史研究者としては、当時の子ども観を伺う上で重要な証言になるので、メモしておきたい。

「わけのわからぬことを言ったり、めちゃなことを言ったりすること以外に、幼年期の特徴があるでしょうか? 右も左もわからないこと以上に、もっと大きな魅力がこの年ごろにあるでしょうか? おとなのような知恵を持った子どもなど、いやらしい化け物ではないでしょうかしら?」38頁
「クピドは、いつでも子どもでいますね。なぜでしょうか? なぜかと申しますに、ふざけまわっていて、「まじめなこと」はいっこうにやりもせず、考えもしないからです。」45頁

 この文章からは、子どもを一人の人間として見るのではなく、ただただ理性を欠きつつも微笑ましく愛くるしい生き物として捉えている中世人の姿が浮かび上がってくる。キューピッドがいつも子どもの姿で描かれることにエラスムスが言及していることは記憶しておきたい。
 本書の全体構成としては、この子どもの痴愚が「老人の痴呆」に結びついて循環思想を示しているところがおもしろかったりする。昨今流行った「老人力」を先取りしているような洒落た文章もあったりして、エラスムスは侮れない。

【今後の研究のための備忘録】消極教育
 「教育」に言及した文章も見つけた。

「ねえ皆さん、その他の動物のうちで、いちばん快適な生活をしているのは、教育などをいちばん授けられておらず、自然だけに教え導かれているようなものだとは思いませんか?」95頁

 見ようによってはルソー『エミール』を経てロマン主義的な消極教育論に流れ込んでいくような発想ではある。しかも『エミール』の論理で決定的に重要な役割を果たす「自然に教え導かれる」という発想が寸分違わず登場している。おそらくエラスムス自身は本気で消極教育を唱えているわけではなかろうが、こういう発想そのものがルネサンス期に既に見られることは記憶しておきたい。逆に言えば、ルソーはまさに痴愚神から霊感を受けたということかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】自己肯定感・自尊感情
 また昨今教育界でもてはやされている自己肯定感あるいは自尊感情について、エラスムスが「自惚れ心」という言い回しで以て痴愚の一種として描いていることは、なかなか興味深かった。

「どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうかしら? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの人と折れ合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?」62頁

 エラスムスの言う「自惚れ心」は、なんらかの根拠があって自信を持つような社会的自尊感情ではなく、なんの根拠がなくても自信を持つような根源的自尊感情を意味している。なんの根拠もないのに自信を持つのだから、痴愚にされているわけだ。しかしこの痴愚の固まりである自尊感情を持っているからこそ、人間はなんとか生きていくことができる。こういう自尊感情の存在意義について、エラスムス以前に誰か言及しているだろうか? 少なくともストア派やエピクロス派の倫理説や、キリスト教系思想家には見あたらないように思う。個人的にはかなりのオリジナリティを感じるのだが、如何か。
 そしてエラスムスは、この「自惚れ心」をナショナリティに結びつける。

「自然はこの自惚れ心というものを、どの人間にもつけて生まれさせるわけですが、どの国民にもどこの都市にも同じくそれをつけてくれました。」123頁

 そして具体的に、イングランド、スコットランド、フランス、イタリア、ローマ、ヴェネツィア、ギリシア、トルコ、ユダヤ、イスパニア、ゲルマニアの特徴を挙げ、それぞれ無根拠に「自惚れ心」を持っていると言う。ルネサンス期のナショナリズムを考える上でも重要な証言だが、現代的には自己肯定感とか自尊感情という概念が持つ射程距離を改めて考えさせるような記述でもある。エラスムスは侮れない。

エラスムス『痴愚神礼賛』渡辺一夫・二宮敬訳、中公クラシックス、2006年

【要約と感想】ペトラルカ『無知について』

【要約】若い者4人に「無知」だと決めつけられてしまいました。いや結構、確かに私は無知です。しかしそれは、若い者4人が考えるような意味の無知ではありません。本当の「無知」とはどういうことなのか改めて考えてみれば、我々人間など、神様の前ではみんな無知です。というか、若い者4人はアリストテレス主義にかぶれてしまい、甚だしい勘違いと思い上がりによって、神様の素晴らしさを忘れ去っています。神様をあざ笑い、信仰厚い人々を「無知」と決めつけてあざ笑うくらいなら、私は無知で結構です。知者であることよりももっと大切なものがあります。

【感想】イタリア・ルネサンスを代表する詩人との呼び声が高いペトラルカの本を初めて読んだわけだが、いろいろ印象が変わった。まずペトラルカ自身について、ルネサンス人というよりは、中世人の印象が強くなった。心からカトリックを信仰しているように見えた。確かにルネサンスの特徴である人文主義的な教養は炸裂しているのだが、それは16世紀ルネサンスのように「人間」に関心の焦点を当てたものではなく、あくまでもカトリック教義に付随するものと扱われている。ペトラルカがプラトンに関心を示してギリシャ語を学び原典を読もうとしたのも、人文主義的な関心というよりは、当時まだ大きな影響を持っていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係が決定的だろう。ビザンツ帝国の存在を忘却して単純なヨーロッパ主義に陥れば「ヨーロッパの原点であるギリシアに遡ろう」というルネサンス文脈に回収できるのだろうが、ペトラルカが生きていた14世紀にビザンツ帝国が君臨していたことを踏まえれば、ギリシアへの関心は東西キリスト教会の分裂という同時代の問題が前提にあるに決まっている。しかもペトラルカはビザンツ帝国の知識人との交流が実際にあったのだから、古代へ遡ろうという人文主義的な関心ではなく、同時代的な問題解決への関心がないはずがない。ペトラルカをルネサンス人に規定してしまうのは、単に「ビザンツ帝国の存在を忘却し、単一のヨーロッパを実体化しよう」という欲望に基づくように思える。改めて、ペトラルカを何の考えもなしにルネサンスの文脈に落とし込むのは、なかなか危険なように思う。

  さらに問題になるのは、ペトラルカを誹謗中傷したという4人の若者だ。もちろん本書内ではボロクソにこき下ろされているわけだが、むしろこの4人のほうがルネサンス人ではなかったのか。本書内ではこの4人がアリストテレスに心酔し、カトリックの教義に対して冷淡で、「唯物論」的で「無神論」的な傾向にあったことが仄めかされている。中世カトリック信者から見ればとんでもない瀆神者になるわけだが、現代から見ればむしろ唯物論的な世俗感覚を持つ人間のほうが大多数を占める。本書は「アウグスティヌスをバカにするな」と繰り返し主張するが、しかしアウグスティヌスはあまりにも荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい幼稚な奇跡を信じていて、現代的感覚から見ると目を覆うほど「愚か」で「無知」に見える。少なくとも私にはそう見える。そしてペトラルカを「無知」と決めつけた4人にも、既にそう見えていた。だとしたら、こっちの4人こそが真性の「近代人」だ。
 しかも解説によれば、4人はヴェネツィアというグローバル商業都市に経済的基盤を持っていた。とういことは、カトリックの中世的世界観を覆すために必要な社会経済史条件が揃っていた可能性が高い。ペトラルカが評価しないアヴェロエス主義は、むしろアリストテレスに基づいた実証主義の精神で以てヴェネツィアの経済的繁栄を支え、近代へ向かう足がかりになったのではないか。だとすれば、グローバル経済に足場を置いて実証主義を唱える4人を敵視するペトラルカの方が保守反動だ。
 またあるいは例えばペトラルカはこの4人が「ラテン語を扱えない」ことを馬鹿にするが、グローバル商業都市を基盤とした商業活動を前提にすれば、むしろ「ラテン語はオワコン」というのが共通理解になってくる。グローバル経済圏の中心であるヴェネツィアで唯物的経済生活を駆動させる商業資本から見れば、ラテン語よりもアラビア語の方が圧倒的に重要だ。実際、17世紀が終わる頃にはジョン・ロックが「ラテン語はオワコン」と主張するようになる。ラテン語に固執するペトラルカの態度は実は単なる保守反動で、ラテン語なんか気にしない4人の態度の方が近代的ではないのか。ここまでくると、4人がペトラルカを「無知」と決めつけたのにも、相当の社会経済史的理由があるように思えてくる。

 というわけで、本書から見えてくるのは、ペトラルカ自身はルネサンス人でも何でもないが、同時代には確かに近代(神を必要としない唯物的世界)に向けた地殻変動が起こりつつあった、という事実だ。そしてペトラルカの証言が確かであれば、無神論的傾向の助長にはアリストテレス主義が決定的に関わっている。そしてそれはいわゆる「12世紀ルネサンス」に属する事項だ。そしてそのアリストテレス主義がアヴェロエス主義という形でイスラム世界からもたらされ、13世紀にはトマス・アクィナスが真剣に対峙して新境地を開拓することを思えば、教科書的に「ペトラルカはルネサンスを代表する人文主義者」などと呑気に言っている場合ではなく、むしろ12世紀以来200年近くに渡って成長しつつあった近代化傾向に対して冷や水を浴びせる体制内保守派知識人として理解するべき人物かもしれないのだが、どうなのか。
 だからペトラルカに対する評価は、彼のプラトンやキケロに対する興味関心が何処から生じたかが決定的な問題となる。単純に人文主義的な興味関心とするなら、確かにルネサンス文脈に回収できる。しかし12世紀ルネサンスを踏まえて、ビザンツ帝国の存在を視野に入れると、別のストーリーも出てくる。さてはて。

 ちなみに本題である「無知」については、哲学史を多少でも齧っていれば直ちにソクラテスの「無知の知」を想起するはずだ。もちろんペトラルカもソクラテスに言及する。ただし本格的に掘り下げていないのは、プラトンの著作が伝わって間もないので仕方がないところではある。むしろペトラルカが依拠するのは、アウグスティヌスの論理だ。この「知」よりも「愛」のほうが大事という論理は、哲学の語源が「知を愛すること」であったことを思えば、実はソクラテスにも通ずる話ではある。改めて、「無知」というテーマが哲学的にも教育学的にも極めて重要であることを認識したのであった。

【今後の研究に対する備忘録】
 本書の本筋とはあまり関係ないところだが、私の興味関心にとっては都合のよい言質なのでサンプリングしておくのだった。

「けだし真の神は唯一でしかありえず、どこにおいても自己より大きくも小さくもなく、どこでもつねに同一の自己です。ときによって自己と異なることも異なったこともありえません。」89頁

 カトリック教義の本丸で、もちろんペトラルカだけがこう考えているわけではない。誰もが繰り返しこの「同一性」の教義を述べているということを知っておくことに意味がある。

「とはいえ、教えること自体も技術的熟練を必要とします。なぜなら、キケロが『法律論』第二巻で言うように、「なにかを知っていることだけが技術ではなく、教えることもなんらかの技術なのです」(第一九章四七)。しかしこの技術はむろん知性と学知との明晰さにもとづいています。じっさい、自分の考えを表現して他者の心にきざみつけようとすれば学知のほかにもこの種の技術が要求されるとしても、しかしいかなる技術も明晰でない頭脳から明晰な弁論を生み出すことはないでしょう。」100頁

「わたしの見るところ、アリストテレスはたしかに、徳をみごとに定義し、分類し、するどく論じ、さらに悪徳や美徳のあらゆる特質についても論じています。それらを学び知ったとき、わたしの知識は以前よりすこしばかり増えます。しかし魂は以前のまま、意志ももとのままで、わたし自身は変わりません。知ることと愛することとは別であり、理解することと意志することは別なのです。かれはたしかに、徳とはなにかを教えてくれます。しかし徳を愛し悪徳をにくむよう、ひとの心をかりたてたり燃えたたせたりする、ことばの力や炎が、かれの論述には欠けています。あるいは、ごくわずかしかそなわっていません。
 そのようなことばの力や炎をもとめるひとは、これをわがラテン作家たち、なかでもキケロとセネカに見いだすでしょう。」113頁

 ペトラルカはアリストテレス主義に対してプラトン及びアウグスティヌスを対峙させて、攻撃する。それに加えて、キケロやセネカなど「ラテン作家」を持ち出して、アリストテレス主義を攻撃する。前者と後者では、攻撃の意味合いが異なる。
 プラトンとアウグスティヌスを持ち出すときは、アリストテレス主義の唯物論的傾向が批判の対象となる。プラトンのイデア論を、ペトラルカは神に近づいた認識として好意的に記述する。
 一方ラテン作家を持ち出すときは、文体と雄弁が問題の焦点となる。現代風に言えば「コミュニケーション論」ということになるか。近代化が進展するに伴って「雄弁」の意義が忘却されていくように個人的には思えて、ペトラルカのように「雄弁」の意義を強調する議論に触れると、なんとなく中世的な匂いを感じてしまうのであった。

ペトラルカ・近藤恒一訳『無知について』岩波文庫、2010年

【要約と感想】エラスムス『平和の訴え』

【要約】権力者たちは戦争ばかりします。権力者たちは、自分の欲望を満足させれば、いくら人が死んでも平気です。狂っています。平和を愛する一般民衆が力を合わせて、権力者たちの横暴を止めましょう。それがキリスト教本来の精神ってもんでしょう。

【感想】本書が出版されたのは西暦1517年。ルターが宗教改革の口火を切る「九十五箇条の提題」を掲げた年でもあるが、今からもう505年も前のことだ。しかし言っていることは、今でも通じる。というか、ロシアがウクライナに侵攻してから10日経ち、戦火が広がる今だからか、むしろ迫力がある。

「大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀栄華を貪るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません。こういう一握りの邪悪なご連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身でとくと判断していただきたいもの。」76節、96頁

 500年経っても人間が進歩していないというのは、とても悲しいことだ。

【研究のための備忘録】ナショナリズム
 ナショナリズムに関する興味深い言質を得た。

「というわけで、イングランド人はフランス人を敵視していますが、その理由はといえば、それはただフランス人であるということのほか何もないのです。イングランド人はスコットランド人に対し、ただスコットランド人というだけのことで敵意をいだいているのです。同じように、ドイツ人はフランス人とそりが合わず、スペイン人はこれまたドイツ人ともフランス人とも意見が合いません。ほんとうにまあ、なんというひねくれ根性!(中略)なぜ人間が人間にたいして好意をもてないのでしょうか? なぜキリスト教徒がキリスト教徒に対して好意が持てないのでしょうか? (中略)それぞれの祖国にただ違った名前がついているというだけで、国民を駆りたてて他国民の絶滅に征かせるのが正しいと思うのでしょうかしらね?」59節、78-79頁

 16世紀初頭の段階で、現代に通じるナショナルな感覚が定着していたことを伺うことができる。が、こういうナショナルな感覚は、12世紀の段階ではまだ成熟していなかったはずだ。13世紀~16世紀の間に何が起こったかを理解することは、ナショナリズム(あるいは近代国家の成立)を考える上で極めて重要だ。そしてエラスムスが、そういうナショナリズムの感覚を人文主義的な立場から軽蔑しているのも印象的だ。

【研究のための備忘録】人間の平等
 さすが人文主義の王エラスムスだけあって、「人間」というものに対する洞察が簡潔に示されている。

「洗礼はすべての人にとって共通のものです。そのおかげで、われわれはキリストにおいて蘇り、この俗世から切り離されてキリストの四肢に合入されてしまうのでし。それにしても、一つの肉体の各部分以上に同じ一体をなしているものが、他に何かあるでしょうか? 誰であろうと、洗礼を受けた後は、奴隷でもなく、自由民でもなく、異邦人でも、ギリシア人でもなく、男でも、女でもありません。あらゆる人がすべてを和合させるキリストに帰して一つとなるのです。」30節、47頁

 ここでは形式的にはキリスト教における平等が説かれているのだが、本質的にはあらゆる人間の平等が説かれている。性別も国籍も関係なく、「みんな同じ人間」であることが強調されている。これは古代ギリシアやローマにはあり得なかった考え方だし、中世キリスト教に萌芽はあるものの、全面的に展開するのは16世紀人文主義以降のことだ。この「みんな同じ人間」という意識を打ち出したことこそが人文主義の決定的な成果であり、近代化への大きな一歩だ。こう、「同じ人間」だと思えば、鉄砲の引き金は引けない。

エラスムス『平和の訴え』箕輪三郎、岩波文庫、1961年