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【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

【要約】神など持ち出すまでもなく、世界を説明することは可能です。雷だろうが、地震だろうが、日食だろうが、なんだろうが、すべて「原子」の振る舞いによって合理的に説明することができます。そうやって神様抜きで物事の本質を捉えれば、迷信から抜けだし、不安が消えてなくなり、平穏で幸福に暮らすことができます。

【感想】エピクロスの教説を、ほぼそのままなぞっている。原子説や、自由意思の発生の根拠や、気象地質学に関する見解や、幸福と倫理に関わる議論や、社会契約論など、基本的にエピクロスからの逸脱は見られない。

 顕著な特徴を挙げるとすれば、繰り返し強調される「宗教」への敵意だろうか。ルクレーティウスによれば、この世の不幸の原因は全て宗教(あるいは宗教による迷信)にある。雷や地震などの自然現象を徹底的に合理的に解釈するのは、宗教による迷信を取り払うためだ。
 とはいえ、彼の自然科学的な説明は、現在の科学水準からすると、思わず笑ってしまうほどトンチンカンではある。が、故に、真空中での物体の落下速度は等しいとか、可算無限の等質性とか、エネルギー保存法則への言及があるところには、けっこう驚く。

【要確認事項】
 個人的に気になったのは、全体的な論調がルソーを思い起こさせるところだ。特に似ているのは、(1)自然科学に対する素朴な信奉、(2)人間の自然状態を根拠とした社会契約論にある。

(1)自然科学の知識に関しては、もちろんルソーの水準はルクレーティウスを遙かに上回ってはいる。また、ルソーは物理学というよりも普遍的な数学理論の方をより本質的なものと見ているようではある。とはいえ、自然科学的な知識を土台として世界を合理的に見ていこうとする姿勢は、極めてよく似ているように思う。

(2)そしてそれ以上に気になるのは、自然状態を根拠とした社会契約論がよく似ていることだ。特に本書の議論は、要所要所でルソー『人間不平等起源論』を直ちに思い起こさせるような言い回しに溢れている。ルソーがエピクロスやルクレーティウスからどの程度の影響をうけているのか、専門家でない私には今のところ見当がつくわけはないが、素人でも明らかに気がつく類似であることは、メモしておきたい。

 その上で、ルソーとの決定的な違いは、ルソーがそれでも最後には神の存在を認めている点と、社会契約論を単なる現状説明で終わらせずに理想の社会を描いている点にあるように思う。

【今後の研究のための備忘録】社会契約説
 本書に見られる社会契約説的な議論は、単にスローガンを掲げるだけのエピクロス教説とは異なり、人間の自然状態の記述から説き起こしており、近代の社会契約説を直ちに想起させるものとなっている。(ちなみにエピクロス本人も、今はすでに失われてしまった書物のなかで社会契約論を詳細に展開していた可能性は高そうだ)

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力な力か、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニスム)を勉強していて、このルクレティウス(およびそれを通じたエピクロス主義)が想像以上に大きな支持を受けていることを認識した。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価していたりする。実は感心していたのではないか。はたしてルネサンス期にルクレティウスが復活することを通じて、後の自然科学や社会契約説勃興への道ならしが行なわれたなんてことはあるかどうか。

ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫、1961年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年

【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

【要約】ルソーの政治社会思想に焦点を当て、現代政治哲学の成果も交えながら、特に「一般意志」について詳しく解説してくれる教養本。自然的自由を市民的自由へと変換してしまう道筋が、社会契約論の醍醐味。しかしルソーの思想は多義的で矛盾を含むものであって、一貫的な体系性はもともと期待してはいけない。「人間」と「市民」という先鋭化した両極でブレまくる姿こそ、我々がルソーに求めているものかもしれない。

【感想】個人的には、「一般意志」を、あらゆる具体的な属性を剥ぎ取られた理念人の持つ意志というふうに考えるのが、一番落ち着く。男でもなく女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、年寄りでも若者でもなく、手があるのでもないのでもなく、健康でも病気でもなく、日本人でもインド人でもない、そんなふうに具体的な属性を全て喪失した、理念的な「点」としての人間。そういう理念人が持つであろう意志を「一般意志」とすると、誰にでも普遍的に当てはまるような抽象的な共通点が見つかる。その普遍的で抽象的な共通点を憲法として構成した上で、あとは属性を元に戻してやって、多数決で具体的な法律を決めていくという感じ。まあ、ロールズの手続きとほぼ同じだけど。

具体的な人々の個人差を放置したままで集合的人格を構成するには、アクロバティックな飛躍が必要になる。ルソーの言う一般意志は、そのあたりの手続きがかなり杜撰な気はする。いったん個人差を解除するような手続きが挟まれば、多少はハードルが下がりそう。

とはいえ、「自然的自由」を「市民的自由」へ転換するという論理が、強烈な発明なのは間違いない。わがままで自分勝手だからこそ、進んで協力する。日本や中国やインドからはこんな発想は出てこない。近代ヨーロッパの面目躍如だ。

仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』NHK出版 生活人新書、2010年

【要約と感想】田中浩『ホッブズ』

【要約】ホッブズは社会契約説を理論化して、現代の民主主義の基礎となる近代的な政治哲学を打ち立てました。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ホッブズ社会契約論のアイデアがエピクロスとルクレティウスに由来していること。つまり社会契約論はルネサンスの文脈に位置づけられる。

ホッブズの意図が、宗教改革以来のローマ教皇と世俗領邦君主との争いの最終決着にあったこと。単に近代国家論を提唱したのではなく、宗教からの国家の分離が極めて重要なテーマとなっている。

■要確認事項=1640年に発表された『法の原理』第一部は、「自立的人格としての人間について」となっている。個人的な研究範囲では、近代的な意味で「personality=人格」という言葉を使い始めたのはホッブズだと思っているのだが、まだ『法の原理』は読んでいなかった。すぐ読もう。

また、近代国家の原則として「権力は一つ」ということをホッブズは強調するのだが、その見解がプラトン『国家』やプロティノスに由来するなんてことはあるのか。プラトン『国家』は、最高の善は「一なること」と言っている。社会契約論がエピクロスに由来するなら、「権力は一つ」の出自もギリシアにあっておかしくない。

ルネサンスと宗教改革を総合したということで「ホッブズこそが封建から近代へと転換する思想を最初に構築した」(p.51)と書いてあるけど、真に受けて言質にして引用しても学会的に大丈夫ですか?

そして、ホッブズが構想する国家の基本単位が、従来の家族やポリスやギルドといった集団ではなく、「個人」であるとされているが(p.88)、本当に個人主義は貫徹されているのか? 少なくとも『リヴァイアサン』では、明らかに男性を中心とした「家父長制家族」を前提としているように読めるのだが。

【感想】personalityの近代的用法の起源に関して、ホッブズは避けて通れない超重要人物に違いないという認識がますます強まってきた。

田中浩『ホッブズ―リヴァイアサンの哲学者』岩波新書、2016年