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【要約と感想】R.W.B.ルイス『ダンテ』

【要約】初期ルネサンス期イタリアの詩人ダンテの伝記で、主著『神曲』の概要も紹介します。

【感想】「ルネサンス」という概念について思案するための材料を得ることを期待して手に取ったけれども、そういう期待に直接応えるような本ではなく、堅実にダンテの生涯と著書の概要をまとめた本だった。それはそれで勉強になったからいいのだけれど。
 まあ改めて、フィレンツェという街が13世紀後半あたりから何かおかしなことになっていることは理解した。トスカーナ方言という「俗語」で文学を著すこと、そしてそういう著書が印刷術発明前にも関わらず速やかに流布すること。他の地域では不可能だったことが、どうしてフィレンツェ(あるいはトスカーナ)で可能だったのか。いわゆる12世紀ルネサンス(特にイスラムと融合したシチリア周辺の文化)との関係はどうだったのか。そのあたりの事情に対する具体的な理解が、いわゆる「ルネサンス」という概念を掴む(あるいは却下する)には不可欠のようだ。

R.W.B.ルイス『ペンギン評伝双書 ダンテ』三好みゆき訳、岩波書店、2005年

【要約と感想】M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』

【要約】ホメロスが描いた『イリアス』『オデュッセイア』の形式と内容からは、トロイア戦争が本当にあったかどうかを確認することはできませんが、成立当時の社会状況一般を理解するための情報を取り出すことは可能です。さらに最新の文化人類学や社会学の知見(モースやマリノフスキー)を援用すると、紀元前10世紀のギリシアにはまだ国家(一元的で継続的な権力構造)と呼べるものは萌芽すらなく、家父長を中心とした拡大家族が婚姻と「贈与」を通じて結びついた世界が広がっていたことが分かります。ホメロスが歴史の真実を語っていると主張している人たちは、バカです。

【感想】ヨーロッパで「ホメロスは虚構だ」と主張するのは、日本で「日本書紀は虚構だ」と主張するのと同じく、踏んではいけない虎の尻尾のようなものなのだろう、著者の言い訳と苛立ちが一番の読みどころだ。

【研究のための備忘録】命の危険を顧みずに武具を剥ぐ行為
 『イリアス』を読んでいて「バカだなあ」と思うことはたくさんあるのだが、中でも倒した相手の武具を剥がしている最中に槍で刺されて命を落とす阿呆が極めて多いことには誰でも気がつくだろう。どうしてこんなにアホなのか、本書に説明がある。

「ところが戦利品は、必要な時にはいつでも見せびらかすことのできる永遠の証拠である。もっと未開の民族の間では犠牲者の首がその名誉ある役割を果たしたが、ホメロスのギリシアでは武具が首にとって代わった。英雄たちがくり返し、大きな危険が身に迫っているときにすら、戦闘を中断して殺した敵の武具を剥ぎとろうとするのはそのためである。戦闘それ自体から見るとそんな行動は愚の骨頂であり、遠征全体を危機に陥れかねなかった。しかしながら、名誉なき勝利が受け入れがたいのであれば、そもそも戦闘の終結を最終目標と見なすことが間違いなのである。公式の勝利宣言なしに名誉はありえなかったし、戦利品という証拠なしに世間の評判となることもありえなかったのである。」227頁

 ということで、まあ事情は分からなくもないけれど、それで死んじゃうのはやっぱりアホだよなあ。

【研究のための備忘録】戦利品としての女
 で、『イリアス』を読んでいてさらにアホだなと思うのは、女性をモノとして扱って一向に恥じるところがないところなわけだが、それもこれも「女が賞品」という文化が徹底しているからなのだった。

「若く美しい女奴隷の方が年老いた女よりも名誉ある賞品であり、そしてそれが全てだった。」230頁

 逆に、女を賞品として見なくなるようになるのはどのタイミングで、どういう背景があるのかは気になるところだ。本書では明らかにしてくれない。
 で、おそらくそういう文化とも深く関連するだろうが、いま我々がイメージする「家族」というものが存在しなかったことについて言及している。

「ギリシア語には、「帰って家族と一緒に暮らしたい」というような意味での、小家族に当たる言葉が存在しなかった。」245頁

 こういう純然たる家父長制を背景に、「女が賞品」という文化が根付いていたのだろう。小家族の制度が確立すると、こういう野蛮な考え方は通用しなくなるだろう。

【研究のための備忘録】ヘラの位置づけ
 ゼウスの正妻であるヘラについて、気になる記述があった。

「彼女(アテナ:引用者)は処女神であった。彼女はゼウスの頭から跳び出したのだから、女から生まれたのですらなかった――これは女性全体への侮辱であり、ヘラはこのことについて決して夫であるゼウスを赦さなかった。ヘラこそ最も女らしい女であって、オデュッセウスの時代から神々の黄昏に至るまで、ギリシア人はこの女神を少々畏れはしたが全然好きになれなかった。」251頁

 たしかに現代的観点からすればヘラを好きになる人は多くないだろう。が、文化人類学的な観点からの知見では、もともとギリシア地域に根付いていたのは大地母神信仰であって、後に征服者が殺到して以降にゼウスを首班に頂く現在の神話体系ができたという。そしてヘラは、大地母神信仰を代表する神格だったらしい。だとすれば、家父長的ギリシア人たちにヘラが嫌われているとすれば、野蛮な征服活動によって家父長制が成立する以前の大地母神信仰を想起させるからではないのか。あるいは、ヘラに嫌な性格を押しつけていったのは、家父長制にとって都合が悪い存在や価値だったからではないのか。本書のここの記述については、50年前という時代的な制約があるのではあるが、疑義なしとはしない。

M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』下田立行訳、岩波文庫、1994年

【要約と感想】深井智朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで』

【感想書き直し2022/2/12】実は著者が論文の「捏造」をしていたことが、読後に分かった。捏造していたのは他の本ではあるが、本書が捏造から免れていると考える根拠もない。信用できない。読後の感想で、「論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている」と書いたが、それがまさに研究にとって極めて危うい姿勢だということがしみじみと分かった。今後、本書から何か引用したり参考にしたりすることは控えることにする。

【要約】一口にプロテスタンティズムといっても内実は多様で、ルターに関する教科書的理解にも誤解が極めて多いのですが、おおまかに2種類に分けると全体像が見えやすくなります。ひとつは中世の制度や考え方を引き継いで近代保守主義に連なる「古プロテスタンティズム」(現代ではドイツが代表的)で、もうひとつはウェーバーやトレルチが注目したように近代的自由主義のエートスを準備する「新プロテスタンティズム」(現代ではアメリカが代表的)です。前者は中世的な教会制度(一領域に一つ)を温存しましたが、後者は自由競争的に教会の運営をしています。

【感想】いわゆる教科書的な「ルターの宗教改革」の開始からちょうど500年後に出版されていてオシャレなのだが、本書によれば「1517年のルター宗教改革開始」は学問的には極めて怪しい事案なのであった。ご多分に漏れず、ドイツ国家成立に伴うナショナリズムの高揚のために発掘されて政治的に利用された、というところらしい。なるほど音楽の領域におけるバッハの発掘と利用に同じだ。そんなわけで、でっちあげとまでは言わないが、極めて意図的な政治的利用を経て都合良く神話化されたことは、よく分かった。
 古プロテスタンティズム=ドイツ保守主義、新プロテスタンティズム=アメリカ自由主義という区分けも、やや図式的かとは思いつつ、非常に分かりやすかった。ウェーバーを読むときも、この区分けの仕方を知っているだけでずいぶん交通整理できそうに思った。
 全体的に論点が明確で、情報が整理されていて、とても読みやすかった。が、分かりやすすぎて、逆にしっかり眉に唾をつけておく必要があるのかもしれない。(もちろん著者を疑っているのではなく、自分自身の姿勢として)。

【研究のための備忘録】中世の教会の状態と印刷術
 そんなわけで新書ということもあって、論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている。ありがたい。
 まず、宗教改革以前(というか「印刷術」以前)の教会の状態を簡潔に説明してくれている本は、実は意外にあまりない。

「また人々は、教会で聖書やキリスト教の教えについての解き明かしを受けていたわけではない。たしかに礼拝に出かけたが、そこでの儀式は、すでに述べた通りラテン語で執り行われていた。一般の人々には何が行われているのかわからない。もちろん人々の手に高価な聖書があるわけではない。仮にあったとしても、聖書はラテン語で書かれているので理解できなかった。」p.28

 こういう印刷術前の状況は、「教育」を考える上でも極めて重要だ。たとえば印刷されたテキストそのものが存在しない場合、今日と比較して「朗読」とか「暗誦」という営み、あるいは「声」というメディアの重要性が格段に上がっていく。そういう状況をどれくらいリアルに思い描くことができるか。
 で、現代我々がイメージする「教育」は、「文字」というメディアが決定的に重要な意味を持ったことを背景に成立している。もちろん印刷術の発明が背景にある。ルターの見解が急速に広がったのも、印刷術の効果だ。

「ルターの提言は、当時としては異例の早さでドイツ中に広まった。(中略)この当時は、版権があったわけではないから、ヨーロッパ各地で影響力を持つようになっていた印刷所や印刷職人が大変な勢いで提題の複製を開始した。」p.45
「いわゆる宗教改革と呼ばれた運動が、すでに述べた通り出版・印刷革命によって支えられていたことはよく知られている。ルターはその印刷技術による被害者であるとともに受益者でもある。」p.49

 これに伴って「聖書」の扱いが大きな問題になる。

「一五二〇年にルターはさまざまな文章でローマの教皇座を批判しているが、その根拠となったのは聖書である。(中略)しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖につながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。
 この問題を解決したのは、一つはグーテンベルクの印刷機である。写本ゆえに高価であった聖書が印刷によって比較的廉価なものとなったからだ。しかしなんと言っても重要なのはルターがのちに行う聖書のドイツ語訳である。(中略)これは画期的なことであった。聖書を一般人も読めるのである。文字が読めなくても朗読してもらえば理解できる。」pp.58-59

 本書では「近代」のメルクマールを人権概念や寛容の精神に求めていて、もちろんまったく問題ないが、一方でメディア論的にはそういう法学・政治学的概念にはまったく関心を示さず、印刷術の発明による「知の流通量増加」が近代化を促した決定的な要因だと理解している。「教育」においても、印刷されて同一性を完璧に担保されたテキストが大量に流通したことの意味は、極めて大きい。

【研究のための備忘録】フスとの関係
 ルターの主張と宗教改革の先輩ボヘミアのヤン・フスの主張との類似性は明らかだと思うが、教育思想史的にはコメニウスとの関係が気になるところだ。フス派だったコメニウスにはどの程度ルター(あるいはプロテスタンティズム)の影響があるのか。本書で説明される「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」の説明を踏まえると、コメニウスの主張にも反映していないわけがないようにも思える。(先行研究では、薔薇十字など神秘主義的な汎知学との親和性が強調されているし、そうなのだろう。)

「エックは、ルターがフスの考えを一部でも支持して、フスは正しかったと言ってくれれば、それでこの二人は同罪だと指摘すべく準備していたのだ。エックは事前にルターの考えを精査し、ルターとフスの考えの類似性を感じ取っており、また内容それ自体で勝負しようとしているルターを陥れるとしたら、この点だと確信していたのである。」p.54

【研究のための備忘録】中世と近代
 で、歴史学的な問題は「中世と近代の境界線」だ。はたして「宗教改革」は中世を終わらせて近代を開始したのか。本書は懐疑的だ。

「トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。」p.107
「近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。」pp.108-109

 ということで、本書は中世の終わりをさらに後の時代に設定している。それ自体は筋が通っていて、なるほどと思う。とはいえ、メディア論的に印刷術の発明をメルクマールに設定すると、いわゆる「宗教改革」は派生的な出来事として「知の爆発的増加」の波に呑み込まれることになる。このあたりは、エラスムス等人文主義者の影響を加味して具体的に考えなければいけないところだ。

【研究のための備忘録】市場主義と学校
 教会の市場化・自由化・民営化を、学校システムと絡めて論じているところが興味深かった。

「「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教史上の独占状態を前提としているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提としているという点である。」p.112
「それ(古プロテスタンティズム:引用者)はたとえて言うならば、公立小学校の学校区と似ているかもしれない。」p.113
「その点で新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけではなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。」p.117

 現代日本(あるいは世界全体)は、いままさに学校の市場化・自由化・民営化に向けて舵を切っているが、コミュニティ主義からの根強い反対も続いている。なるほど、これはかつて教会の市場化・自由化・民営化のときにも発生していた事態であった。つまり、教会改革の帰結を見れば、学校改革の帰結もある程度予想できるということでもある。

【研究のための備忘録】一と多
 本書の本筋とは関係ないが、「一と多」に関する興味深い言葉があったのでメモしておく。

トレルチ講演原稿の結び「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」p.208

 カトリックの思想家ジャック・マリタンの発言との異同を考えたくなる。

【要約と感想】池上俊一『フィレンツェ―比類なき文化都市の歴史』

【要約】古代ローマの植民市から出発したフィレンツェは、毛織物産業で栄え共和政が発展する「自由」の中世を経て、ルネサンスでヨーロッパの先頭を走る比類なき「美」の街になっていきますが、16世紀ヨーロッパ領域国家による領土的野心に巻き込まれて存在感を失っていきます。しかしその魅力は完全に失われたわけではなく、イタリア統一後、現代にも文化的意義を見出すことができます。

【感想】フィレンツェという一つの都市を扱う新書ながらも、エピソードが多面的・多角的で、論点が多岐に渡り、読みこなすためにけっこうな教養量を要求してくる本だった。たとえば美術に関しては、通り一遍の西洋美術史的知識(ルネサンスといえばダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロという類の)だけでは、ちょっと歯が立たない。さくっと旅行ガイドの代わりにしようなんて考えている向きにはお勧めしない。軽い本ではない。

【要検討事項】
 で、問題は、「中世とルネサンスの連続性と断続性」だ。教科書的には、ルネサンスの起点はフィレンツェの人文主義者、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらの活動に求められるので、フィレンツェを扱うなら「ルネサンス」は絶対に避けて通れないテーマだ。で、本書は、中世とルネサンスの連続性を強調する立場を採っている。ダンテらの人文主義者は14世紀にいきなり登場したのではなく、それ以前の中世の活動や組織や文化が決定的に重要な背景になっているという論旨だ。中世において、毛織物産業を中心に金融や流通を発達させた経済活動と、同業組合を中心に構成された共和的な政治活動と、「家庭」および「キリスト教」を大切にする文化が背景となって、比類なきルネサンスを可能にするための力が蓄えられていく。なるほど、だ。
 で、教育屋の私にしてみれば、経済活動を背景にした識字率の向上と教育への関心は、極めて重要な論点だ。本書は、中世フィレンツェにおいて、圧倒的な経済活動を背景にして教育・文化活動が興隆し、それを前提にルネサンスが花開く様子を描いている。思い返せば、日本の江戸時代中期に庶民文化が一挙に花開くのも、圧倒的な平和を前提にした経済活動の興隆と、それを背景として向上する識字率、教育への関心が決定的な要因となっている。中世とルネサンスが「連続」するという論旨には、なるほど、頷きたくなる。
 しかし一方で、個人的に常々疑っているのは、中世とルネサンスの連続性というよりは、ルネサンスと近代の連続性だ。フィレンツェのルネサンスが近代にそのまま繋がっていかないように見えてしまうのは、16世紀以降の存在感がなさすぎるせいでもある。それは単に共和政が失われたという政治的な事情だけではなく、新大陸発見以降、大航海時代(あるいは絶対王政の時代)の地政学から取り残されたという経済的な事情のほうが大きいように思える。で、近代を実質的に用意していくのは「印刷術」に媒介された識字文化・出版文化(具体的にはエラスムスやルター)であって、フィレンツェ人文主義(ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ)のような「印刷術以前」の活動は、近代とはまだ隔絶していると考えるほうがよいのではないか、というところ。というか、14世紀~15世紀前半は「フィレンツェ(あるいはイタリア)だけおかしかった」ということで、それをヨーロッパ全体へと一般化するのは無理ではないか。で、フィレンツェだけおかしかった(ルネサンスした)要因が金融を伴った広範囲の商業活動と共和政だとすると、ヨーロッパ全体がおかしくなる(近代化した)のは何故なんだ、やっぱり印刷術が決定的な要因じゃないか。とすれば、ルネサンスはフィレンツェ(イタリア)だけに特有の現象で、ヨーロッパ近代とは別のものと考えようという話になってくる。
 まあ歴史は複合的な要因で動いていくわけで、フィレンツェ(イタリア)のルネサンスが西洋近代を準備した極めて重要な要素であることは間違いないわけだが、それをどう相対化し全体のストーリーに位置付けるか。しかしまあ、やはりまずはダンテ、ペトラルカ、ボッカチオを読まないと話にならない。改めて自分の勉強不足を痛感する本なのであった。

【今後の研究のための備忘録】
 子どもへの愛着というエピソードは、アリエス『子供の誕生』の理屈に対する明らかな反例として記憶しておきたい。

「死亡率が高く平均寿命さえ三五歳前後のこの時代、家系の存続と発展のために、嫁入りした女性には多くの子を産むことが望まれた。そして母を中心に、子供たちを大切に育てようとする気持ちが商人家系の記録からは垣間見える。(中略)そして現在まで伝わっている商人の覚書や書簡には、子供への愛情を面々と吐露しているものがあるし、実子に加えて養子を引き受けて家庭をさらに賑やかにするケースも多く、それは一種の美徳行為とされた。」pp.123-124

 明らかにアリエスの主張を否定する史料だ。が、注意したいのは、言及しているのが「商人」で、農民ではないというところだろう。日本で子どもを大事にし始めるのは江戸時代中期以降のことだが、やはり商品作物の生産と流通の増大を背景にしている。「子どもを大事にする」という心性や振る舞いが「商人」の生活様式と何かしらの親和性を持っていることを疑ってもよいところかどうか。

池上俊一『フィレンツェ―比類なき文化都市の歴史』岩波新書、2018年

【要約と感想】高遠弘美『物語パリの歴史』

【要約】カエサル『ガリア戦記』に登場するローマ時代から、中世王権(カペー朝~ブルボン朝)、フランス革命、ナポレオン、共和制等を経て、21世紀までの2000年間のパリの歴史を、具体的なエピソードを交えつつ、旅行ガイドとしても役立つようにまとめました。

【感想】文学関連(特に著者ご専門のプルースト)の話や現代の街並み散歩の話では筆が活き活きと躍動していて、著者ならではの知識と経験を踏まえたエピソードを楽しく読める一方、歴史絡みの話ではなんとなく概説書を読んでいるような感じで、よく調べてまとめまていただきました…という印象になる。通史を補完する目的で手に取った本だから、不満があるというわけではないけれど。
 まあ、読み終わって、一度くらいはパリに行っておきたいな、と改めて思ったのであった。歴史が重層的に刻まれている街は、歩いているだけで絶対に面白い。その機会が訪れるまで、家の近くのフランス料理店「パリ4区」でせめてものフランス気分を味わうのであった。サンダルのようなポークソテーが柔らくてボリューム満点で旨い上に安いのだ。

高遠弘美『物語パリの歴史』講談社現代新書、2020年