「ギリシア」タグアーカイブ

【要約と感想】ロンゴス『ダフニスとクロエー』

【要約】今から1800年あまりも昔のギリシアの恋愛小説です。捨て子だった男の子ダフニスと、同じく捨て子だった女の子クロエは、自然豊かなエーゲ海のレスボス島で、様々な事件や障害に遭いながらも、健全・純情・素朴・敬虔に成長し、美しく季節がめぐる中で、微笑ましくも麗しい愛をゆっくり育んでいきます。最後には実の両親とも巡り会い、大金持ちになって、結婚します。めでたしめでたし。

【感想】話の筋自体に見るべきものはない。典型的な貴種流離譚をベースに、徹底的なルッキズムでご都合主義に終始する。主人公たちは何かトラブルに巻き込まれても神様に頼んだり恨み言を言ったりするだけで能動的に解決しようと知恵を働かすことは一切ないのに、神様たちの一方的な加護のおかげですべて事なきを得る。日頃の敬虔な気持ちと行動が大事だということではあるだろうが、主人公の主体性欠如は否めない。まあ、洋を問わず近代以前にはありがちな展開ではあって、特に本作だけが責められるものではない。
 が、一方で近代の作家たちにも支持されたという牧歌的な自然描写は非常に良かった。美しかった。これが1800年も前の作品だとは、人類も凄いものだ。自然描写の美しさは、季節の表現にもっともよく顕れていたと思う。春夏秋冬の移り変わりと、折々の季節の賜物、それに関わる人間の営みの描写は、読んでいて気持ちがよく、清々しい気分になる。訳がいいのかもしれないが、海外の知識人たちも褒めているということなので、おそらく原文から美しいのだろう。
 また、解説等では特に触れられていないが、個人的には性格描写にも感心しながら読んだ。行動そのものは受動的で展開はご都合主義に終始するのではあるが、いっぽう実は内面描写が丁寧だったりする。特に恋に目覚めた後のダフニスの内面描写は、少々しつこくもあるが、とても丁寧で、よく分かる。好きな女の子に会いたくて言い訳を考えるけれども思いつかなくて悶える様だとか、いいところを見せようと張り切るところとか、間接キスで興奮するとか、触りたいけれどもどう触ったらいいか分からなくて困惑する様だとか、もう地域も時代も関係なく、恋する人間ってみんな同じだな、と微笑ましい気持ちになる。よく伝わってくる。ご都合主義的な展開を補って余りある美点で、最後まで飽きずに読めた。
 しかしまあ、ダフニスくんの童貞喪失の場面は「あちゃー」という感じだ。ダフニスくんの童貞はクロエちゃんにもらってほしかった。

ロンゴス/松平千秋訳『ダフニスとクロエー』岩波文庫、1987年

【要約と感想】M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』

【要約】ホメロスが描いた『イリアス』『オデュッセイア』の形式と内容からは、トロイア戦争が本当にあったかどうかを確認することはできませんが、成立当時の社会状況一般を理解するための情報を取り出すことは可能です。さらに最新の文化人類学や社会学の知見(モースやマリノフスキー)を援用すると、紀元前10世紀のギリシアにはまだ国家(一元的で継続的な権力構造)と呼べるものは萌芽すらなく、家父長を中心とした拡大家族が婚姻と「贈与」を通じて結びついた世界が広がっていたことが分かります。ホメロスが歴史の真実を語っていると主張している人たちは、バカです。

【感想】ヨーロッパで「ホメロスは虚構だ」と主張するのは、日本で「日本書紀は虚構だ」と主張するのと同じく、踏んではいけない虎の尻尾のようなものなのだろう、著者の言い訳と苛立ちが一番の読みどころだ。

【研究のための備忘録】命の危険を顧みずに武具を剥ぐ行為
 『イリアス』を読んでいて「バカだなあ」と思うことはたくさんあるのだが、中でも倒した相手の武具を剥がしている最中に槍で刺されて命を落とす阿呆が極めて多いことには誰でも気がつくだろう。どうしてこんなにアホなのか、本書に説明がある。

「ところが戦利品は、必要な時にはいつでも見せびらかすことのできる永遠の証拠である。もっと未開の民族の間では犠牲者の首がその名誉ある役割を果たしたが、ホメロスのギリシアでは武具が首にとって代わった。英雄たちがくり返し、大きな危険が身に迫っているときにすら、戦闘を中断して殺した敵の武具を剥ぎとろうとするのはそのためである。戦闘それ自体から見るとそんな行動は愚の骨頂であり、遠征全体を危機に陥れかねなかった。しかしながら、名誉なき勝利が受け入れがたいのであれば、そもそも戦闘の終結を最終目標と見なすことが間違いなのである。公式の勝利宣言なしに名誉はありえなかったし、戦利品という証拠なしに世間の評判となることもありえなかったのである。」227頁

 ということで、まあ事情は分からなくもないけれど、それで死んじゃうのはやっぱりアホだよなあ。

【研究のための備忘録】戦利品としての女
 で、『イリアス』を読んでいてさらにアホだなと思うのは、女性をモノとして扱って一向に恥じるところがないところなわけだが、それもこれも「女が賞品」という文化が徹底しているからなのだった。

「若く美しい女奴隷の方が年老いた女よりも名誉ある賞品であり、そしてそれが全てだった。」230頁

 逆に、女を賞品として見なくなるようになるのはどのタイミングで、どういう背景があるのかは気になるところだ。本書では明らかにしてくれない。
 で、おそらくそういう文化とも深く関連するだろうが、いま我々がイメージする「家族」というものが存在しなかったことについて言及している。

「ギリシア語には、「帰って家族と一緒に暮らしたい」というような意味での、小家族に当たる言葉が存在しなかった。」245頁

 こういう純然たる家父長制を背景に、「女が賞品」という文化が根付いていたのだろう。小家族の制度が確立すると、こういう野蛮な考え方は通用しなくなるだろう。

【研究のための備忘録】ヘラの位置づけ
 ゼウスの正妻であるヘラについて、気になる記述があった。

「彼女(アテナ:引用者)は処女神であった。彼女はゼウスの頭から跳び出したのだから、女から生まれたのですらなかった――これは女性全体への侮辱であり、ヘラはこのことについて決して夫であるゼウスを赦さなかった。ヘラこそ最も女らしい女であって、オデュッセウスの時代から神々の黄昏に至るまで、ギリシア人はこの女神を少々畏れはしたが全然好きになれなかった。」251頁

 たしかに現代的観点からすればヘラを好きになる人は多くないだろう。が、文化人類学的な観点からの知見では、もともとギリシア地域に根付いていたのは大地母神信仰であって、後に征服者が殺到して以降にゼウスを首班に頂く現在の神話体系ができたという。そしてヘラは、大地母神信仰を代表する神格だったらしい。だとすれば、家父長的ギリシア人たちにヘラが嫌われているとすれば、野蛮な征服活動によって家父長制が成立する以前の大地母神信仰を想起させるからではないのか。あるいは、ヘラに嫌な性格を押しつけていったのは、家父長制にとって都合が悪い存在や価値だったからではないのか。本書のここの記述については、50年前という時代的な制約があるのではあるが、疑義なしとはしない。

M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』下田立行訳、岩波文庫、1994年

【要約と感想】トゥーキュディデース『戦史』

【要約】ギリシア世界が一体となって異民族ペルシアからの侵略を撃退してから50年、今度はギリシア人同士による長く激しい戦争が始まりました。アテナイ連合軍とスパルタ同盟軍が27年も闘った、ペロポネソス戦争です。本書はその前半20年分の記録です。アテナイ降伏に至る最後の7年は、残念ながら扱われておりません。
ペロポネソス戦争を教科書的に理解すると、なんとなくアテナイとスパルタがガチンコで正面衝突するような形を想像してしまいがちですが、実際の経緯はまるで異なります。実は自由帝国主義アテナイと身分制スパルタによる、植民地の取り合いです。戦線は、ギリシア北東部のトラキアやマケドニア、あるいは北西部のケルキューラ、またあるいはエーゲ海対岸のイオニア地方やシケリア島を含むイタリア諸都市へと広がっていきます。アテナイ本国を巡って戦闘が行なわれたのは27年のうち最終盤も最終盤で、実は本書はそこに至る前に話が終わってしまいます。

【感想】ペルシア戦争を扱ったヘロドトス『歴史』と比較すると、本書の特徴が際立つ。本書は、著者の主観を極力排除した客観的な描写が印象的だ。ヘロドトスのほうは情報源や客観性が担保されていない噂話レベルのエピソードを極めて多く採用しているが、本書のほうは確かな情報のみに拠って客観的な記述を心がけているように見える。訳者のきびきびした日本語も、その印象を高めるのに一役かっているのかもしれない。日本語のリズムが、とても良い。

その文体的な特徴に伴っているのだろう、本書は具体的な戦術や戦闘レベルの描写に非常に優れている。ヘロドトスのほうは、ペルシア戦争を扱っていながら、具体的な戦闘シーンの描写はほとんどない。戦術レベルの話にも厚みがない。熱を入れて描写しているのは、戦闘前の神託や占いだったりする。しかし本書は、極めて詳細に戦術レベルや戦闘レベルの描写を尽くしている。両陣営の総戦力、経験値、指揮官とその履歴、進軍ルート、陣構え、兵站に加え、会戦場の地政学的な特徴、会戦に至る背景、両陣営の士気や心理状態が細かく描写されている。だから戦闘の帰趨は、精神的なもの(たとえば「自由の精神」)ではなく、客観的な環境や条件によって決まる。本格的な会戦で陣形が右へ右へと押しだされる客観的な根拠は、なるほど、勉強になった。こういうところは、ヘロドトスには完全に欠けているところだ。

詳細な籠城戦描写にも、感じ入った。土木工事の重要性が、心底よく分かる。特にアテナイによるシュラクーサイ侵攻では、土木工事のスピードが勝負の分かれ目となった。日本の戦国時代でも土木工事は極めて重要だったはずなのだが、地味なためなのだろう、あまりクローズアップされることはない。しかし織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や真田父子の強さが土木工事に拠ることは明らかだろう。そういう戦争というもの(特に籠城戦)における土木工事の意義をこれほど高い説得力で描いている本は、古今東西を通じてほとんどないのではないか。

戦術レベルの話では、特に「内乱」と戦争との連携が極めて印象深かった。攻城戦の帰趨は、外部の戦闘行為で決着がつくのではなく、お互いの内部にいる反乱分子を扇動できるかどうかで決まる。個々の戦闘行為は、内部崩壊を引き起すためのきっかけに過ぎないとも言える。というか、個々の戦闘行為も、内部扇動がきっかけとなって連動して発生する。「戦争」と「内乱」は、密接不離に連動している。
その際、アテナイの手口が現代のアメリカ帝国主義と重なって、なかなか笑えない。敵側の自由民主主義勢力に力添えをすることで、内部から封建的身分制秩序を壊すというやり口。自由民主主義にシンパシーを感じている立場からいえばなんの問題も感じないかもしれないが、戦略的に見ると、実はただ単に相手側の内乱を誘うための口実に過ぎないという。そしてシケリア島侵略などに見られる通り、「民主主義を広める」というスローガンが単なる表面的な口実に過ぎず、本音は領土侵略にあるというところも。そうすると、本書で描かれたスパルタの言い分ややり口(帝国主義からの解放)が、現代のロシアに重なって見えてくるのであった。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
やはりソクラテスの処刑やプラトンの思想形成との関係は、とても気になる。ソクラテスの処刑は、ペロポネソス戦争終結から5年後のことだ。戦争や戦後処理の影響と無関係であるはずがない。本書では「民主主義」の機能不全や、扇動に惑わされる一般大衆の愚かさが縦横に描かれている。もしアテナイの一般大衆がかくも愚かであったのなら、ソクラテスが処刑されるのも仕方がないことなのかもしれない。
メディアリテラシーが低く、デマに踊らされ、簡単に扇動される民衆の姿は、現代の我々の姿にも通じる。

「このように、大多数の人間は真実を究明するためには労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける。」上巻73頁

プラトンの思想形成にとって、ペロポネソス戦争の経緯はやはり決定的な影響を与えているのではないかと思ってしまう。アテナイ民衆の自己中心的な欲望暴発と道徳退廃は、プラトンの民主主義嫌悪と哲人政治推進の背景になっているだろう。

「愛国心」に関しても、興味深い記述があった。まあ、ギリシャ語の原語で「愛国心」がどう表現されているかは、しっかり検討する必要があるが。
まずペリクレスの演説の中から。

ポリスを愛し、金銭の誘惑に負けぬことでも何びとにも引けを取らぬ。」上巻246頁

ペリクレスは、自己中心的に欲望を満たすこと(金銭の誘惑)と、ポリスへの愛を背反するものとして描写する。愛国(正確には愛ポリス)とは、私利を度外視し、「公利」を追究することだ。
こんなペリクレスに対し、アルキビアデスの言う「愛国心」は、ちょっと様子が違ってくる。

「また私の愛国心とても、私に濡布を着せた国に捧ぐべきものにはあらず、市民として己が権利を守られていた国に尽す心情に他ならない。(中略)そもそも真の愛国者とはいかなる人か、己れの祖国を没義道に奪われながらこれを奪回しようともせぬ輩の称ではあるまい、己れの国を愛するがゆえに、あらゆる手段にうったえて取戻そうと務める者こそ、その名に値する。」下巻126頁

なんだかまあ。こんな理屈を言い始めたら、私利私欲にまみれた権力者もテロリストも、みんな愛国者になってしまうわけだ。

それから、専門の教育に関しても、興味深い記述があったので、メモ。まあもちろん、原語がどうなっているかは慎重に確認する必要があるが。
まずスパルタ側が自分たちの教育を自画自賛するアルキダーモスの演説から。

「われらがよき判断の主たりうるのは、法を犯す知恵をあたえず法にそむかぬわきまえを克己によって培う教育による。(中略)人間が人間である以上、もとより素質において敵味方に大差はない、しかし厳格無比の克己訓練で鍛えられたものこそ最後の勝利者たることを疑わない。
この教育の鉄則は、父祖いらいわれらに伝えられた伝統であり、われら自身生涯をつうじてその恩恵によって今日にいたったのであれば、その教をゆるがせにすることはならぬ」上巻133頁

いわゆるスパルタ教育の一端を伺うことができる記述だ。
一方のアテナイも、ペリクレスが自分たちの教育を自画自賛している。

「子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。(中略)ともあれ、苛酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危険をも肯ずるとすれば、はや此処にわれらの利点がある。」上巻227-228頁

スパルタ式訓練よりも、アテナイの自由な気風のほうが長い目で見れば優れた人材を養成するという考えが表明されている。そしてスパルタ式訓練とアテナイ式教育のどちらが優秀かは、現代でもまだ議論は終わらないのであった。

また「学校」について興味深い記述があったので、メモ。ボイオティア領のミュカレーソスの街(さして大きくもないらしい)がトラキア兵によって蹂躙される描写である。

「其処には非常に大きい、子供たちの学校があり、ちょうどその朝子供たちが校内に入り終ったところであったが、ここにも乱入した兵士らは、子供らを一人のこらず斬殺した。」下巻172頁

子どもたちだけを収容する「学校」が、大都会ではない小さな町にもあったことが分かる。この場合の「子供」が何歳くらいを指しているのかは、本書の描写だけでは分からない。ただ本書の著者が、この事件を非常に残念に思っていることは伝わってくる。古代において「子ども」とは何か、「学校」とは何かを考える上で、一つのヒントになる記述である。

ところで著者の表記は、ツキディデスか、トゥキディデスか、ツキヂデスか。難しいなあ。どうでもいいんだけれども。

トゥーキュディデース『戦史(上)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(中)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(下)』岩波文庫、1967年

【要約と感想】ヘロドトス『歴史』

【要約】「歴史の父(キケロー談)」とも称されるヘロドトスの作品です。題材は紀元前5世紀前半にアケメネス朝ペルシアとギリシア連合軍との間で起こった戦争で、その原因と経緯について記しています。ところが、単に一連のペルシア戦役そのものを記すだけではなく、ペルシアを始めとする様々な民族の生活習俗に加え、人文地理や自然生態系についての情報も事細かく記しています。扱われる諸民族は、東は小アジアや黒海周辺の遊牧民族から、果てはウラル山系へ至り、南はエジプトを超えてナイル川奥地まで及びます。現代の感覚で言う「歴史」というよりは、戦争を中心的な題材としつつも、総合的な「地誌学」となっています。
 戦争そのものは、第一次ペルシア戦争(ダレイオスⅠ世)ではマラトンの戦いでギリシア連合軍が勝利し、第二次(クセルクセスⅠ世)ではアテナイが一時的に占領されるもののサラミス海戦でギリシア連合軍が逆転勝利、さらに第三次(マルドニオス将軍)でもプラタイアの戦いでギリシア連合軍が勝利します。
著者ヘロドトスは、「自由」を求めるギリシア精神の勝利であったことを強調しています。

【感想】読み始める前は、がっつりペルシア戦争の記述があるものだと思い込んでいたけれども、戦争自体の記述はかなりアッサリ風味だった。戦闘シーンのボリューム自体が、かなり少ない。戦闘シーンで分量がたくさんあったのは、テルモピュライの戦いの経緯くらいかなあ。一方で、戦争に至るまでの外交などの心理的な駆け引きや、神に犠牲を捧げる儀式の段取りや、神託を求める経緯や、下された神託に対する多様な解釈や、両陣営の作戦会議の記述等が、めちゃくちゃ長い。まあ、クラウゼビッツも言っているとおり、戦争というのは戦闘行為そのものよりも、そこに至るまでの準備で勝負が決まっているということなんだろうけれども。

 それから戦争そのものに関して、てっきりペルシアとギリシア連合軍が真正面から戦ったものだと思い込んでいたら、いやいや、実際の経緯はそんなに単純なものではなかった。
 まずギリシア連合軍が、全然一枚岩ではない。裏切りだらけ。印象に残ったのは、たとえばアテナイを追放されてペルシア王の庇護を求めたギリシア貴族が、故郷に逆恨みして大王に入れ知恵をしてギリシアを攻めさせるエピソードだ。またあるいは、テバイ(ボイオティア)がライバルであるアテナイをやっつけるためにペルシア方に積極的に荷担する姿だ。ペルシア王に積極的に協力する姿勢には、ギリシア人であるという自覚は微塵も感じない。また最終的には協力するアテナイとスパルタにしても、事あるごとにお互いを出し抜こうという駆け引きを繰り返す。ペルシア軍が通過するギリシアの町々からもペルシア軍に参加する兵士が続出したりと、現在の「国民国家」の感覚で戦争をイメージすると、まったく意味が分からなくなる。まだ「国民意識」の欠片すら存在しなかった段階での古代戦争であったことをしっかり押さえて読む必要がある。
 またペルシア方も、インドからアフリカ大陸、あるいは黒海周辺の諸民族の連合軍となっている。そして戦闘行為に突入すると、これら周辺諸民族がまさに烏合の衆で、まったく役に立っていない。数がどれだけ多かろうが、勝負の帰趨には影響を与えない。ヘロドトスはギリシア連合軍の勝利を「自由精神の勝利」であることを強調しているけれども、確かに「隷従」で集めた軍隊は、戦闘時にまったく役に立っていないことが分かる。戦争においては兵士たちの「帰属意識」の有無が極めて重要なことが分かる。

 ペルシア対ギリシアという1対1の勝負ではなく、たくさんのプレイヤーが様々な思惑を持って戦争に参加している様子を見て、「ディプロマシー」というボードゲームを思い出した。本書の世界観を土台にして「ディプロマシー・紀元前5世紀版」を作ったら、けっこうおもしろくなるんじゃないかという気がした。プレイヤーは、アテナイ(アッティカ)・スパルタ(ペロポネソス)・テバイ(ボイオティア)・イオニア・スキュタイ・エジプト・ペルシアの7勢力がいいように思うのだが、如何か。今度ためしに作ってみようかな。

 で、当時の国と国の違いは、現在の「国民国家」的な帰属意識とは違い、生活習俗の違いが決定的なものとして意識されているように見えた。食事や、服装や、葬式や、婚姻形態などで、敵と味方の区別がつけられているようだった。周知の通りプラトン=ソクラテスの議論では自然法と慣習法の相違が大問題となるわけだが、本書では「慣習」の持つ力がかなり強調されている(上巻355頁など)。
 多少気になるのは、宗教の特徴については言及されるものの、信仰形態によって敵と味方が区別されているような感じがしないところだ。多神教的な世界観からだろうか、敵の神も尊重する姿勢が見える。というか、まったく違う文脈から出てきているはずの相手の神様を、著者が知っているギリシアの神様に当てはめて理解しているところに、現代的感覚からすると、たいへんな違和感がある。

 それから面白かったのは、いろいろなところで見て知っている事柄のモトネタが確認できたことだ。
 たとえば、「マラトンの戦い」の記述は本書6巻(中巻299頁)にあるのだが、巷で流布されているような戦捷報告のエピソードは、実はいっさい記されていない。実際は、アテナイからスパルタへ派遣された伝令の話が記されているに過ぎない。マラトンからアテナイへ走って絶命した兵士など記録されていないのに、間違って伝わっているのは、どうしてなんだろう? いちおう考えられるのは、すぐあとの記述で登場する、マラトンで勝利したアテナイ全軍がすぐさまアテナイ市内に帰還して市街防御にあたったエピソードだ(中巻307頁)。全軍が全力で帰還した話が、一人の伝令の疾走ネタと混同されてしまったのかもしれない。アテナイ軍のマラトンからの帰還は、秀吉の中国大返しも想起されて、それ自体がなかなか興味深い。
 またホメロス『イーリアス』に登場する、トロイア戦争の原因となる女性ヘレネについて、実は本物の彼女はエジプトにいたのだというエピソードが本書に記録されている(上巻268-271頁)。そして著者ヘロドトスは、本物のヘレネはトロイアではなくエジプトにいたと考えればトロイア戦争の経緯を合理的に理解できると言う。当時から、一人の女をめぐって戦争が勃発したというのは不合理だと考えられていたことが分かる。
 寓話で有名なイソップが奴隷だった話についても記されている(上巻284-285頁)。
 それから、藤子・F・不二雄のSF短編集で「カンビュセスの籤」という話があるのだが、モトネタは本書にあった(上巻342-343頁)。いやしかし、私はすっかりギリシアに侵攻する途中の話だと思い込んでいたのだが、実際にはペルシア戦役とはまったく関係なく、カンビュセスが気の迷いでエチオピアに遠征する話だったとは。本書を読んで、改めて知った。
 また、スパルタの300人がペルシア兵百万人を相手にするのも、本書がモトネタだ。テルモピュライの戦いは、本書の中では随一といっていいほどの戦闘描写だ。映画にしたくなるのも、よく分かる。
 あと、RPGやライトノベル等で、強大なラスボスを倒すとき、味方の一人がラスボスを押さえつけながら「俺ごと剣で刺し貫け」と言うシーンを散見することがあるわけだが、そのモトネタは本書にあった(上巻391頁)。ダレイオスⅠ世が王位に就くエピソードで、味方のゴブリュアスが「構わぬからその剣で二人ごと突き刺せ。」と言っている。
 さらには「背水の陣」を彷彿とさせるエピソードも記されている(中巻225頁)。

 笑ってしまったのは、「ヨーロッパ」の語源となっているエウロペに言及したところだ。ヘロドトスは以下のように言っている。

「ともかくエウロペなる女がアジアの出身であることは明らかで、この女が今日ギリシア人がヨーロッパと称している土地へきたことはなく、せいぜいフェニキアからクレタ、クレタからリュキアまでしかいっていないことも明白である。」中巻35頁

 いやあ、なんとなく私も「エウロペがヨーロッパの語源って、変だぞ?」と思っていたけれども、既に2500年前からおかしいと思われていたということが確認できて、よかった。

 で、当然のことだけれども、「歴史の父」と言われているが、近代歴史学とはまったくの別物だ。伝聞に基づいたいい加減な記述も多く、「歴史」というよりは、人文地理学的(あるいは地誌学的)な教養を縦横無尽に駆使した戦記文学と言ったほうがいいような気がする。まあ、本書固有の価値がそれによって損なわれるわけでもないだろう。

【要確認事項】
 異民族の習俗を記すところで、「妻を共有して自由に交わっている」(中巻71頁)ということが記されているが、こういう民俗学的な知識がプラトン『国家』で主張されるような妻や子どもの共有というアイデアへ影響を与えているかどうか。
 処女を尊重する民族についての記述も出てくるが(中巻117頁)、アテナやアルテミス崇拝とも関係して、古代の処女尊重をどのように理解したらよいか。

【今後の研究のための備忘録】
 本書には「自由平等」の概念に関して、興味深い記述がある。

「かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。これによって見るに、圧制下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞をしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである。」中巻191頁

 自由平等に関するこのような功利的な理解は、古代東洋には一般的に見られないような気がする。東洋専制と西洋自由の対比が鮮やかに浮かび上がってしまうところだ。この古代ギリシアの自由平等に関する観念が、近代西洋にどのような影響を与えたかは、やはり大きな論点になる。たとえば16世紀の半ばには、ラ・ボエシ(モンテーニュの親友)が言及している。

「これほどの勇気をもたらしたのは、ペルシア人に対するギリシア人の戦いというよりむしろ、支配に対する自由の、征服欲に対する自立への欲求の勝利であったと考えられまいか。」ラ・ボエシ『自発的隷従論』17頁

 そして自由な民は戦争でも有能だが、隷従する民は烏合の衆だという記述を確認できる。ラ・ボエシの言う「自由」は近代的な個を前提とした自由とは少々異なっているような気はするが、近代西洋への繋がりがゼロだと決めつけるわけにもいかない。

 それから近代の「国民国家」を考えるための参照軸として、本書に見られる「ギリシアの実体化」に関して。アテナイからスパルタ使節団への言葉に以下のようなものがある。

「第二にはわれわれが等しくみなギリシア人同胞であり、血のつながりをもち言語を同じくし、神々を祀る場所も祭式も共通であるし、生活様式も同じであることで、アテナイ人がこの同胞を敵に売るようなことは許されることではあるまい。」下巻272-273頁

 ここには、アテナイとスパルタという政体の相違を乗り超えて、ギリシア人全体を同胞として捉え、ギリシア人という「想像の共同体」を実体化する思考が確認できる。そして想像の共同体を実体化する理屈として、(1)血(2)言語(3)宗教(4)習慣という4つの要素が確認できる。「国民国家」は近代の産物であると言われるが、実は「想像の共同体」を実体化する理屈は古代から連綿と存在しているのではないか。
 またたとえばテバイ人からペルシア人の言葉として以下のように記録されている。

「彼らはマルドニオスに、ギリシア人は過去に置いても協力一致する実を示してきたが、心を一にして団結したギリシア人を制圧することは全世界の兵力をもってしても困難であることを説き…」下巻275頁

 周辺の諸民族に存在せず、ギリシアだけが持っているものこそ、「自由平等」であり、「協力一致」であった。そしてそれこそがギリシアの戦争での優位を担保した。想像の共同体が生み出す「協力一致」や「心を一にして団結」という「実」が戦争遂行に当たって極めて強力に働くことは、教育勅語が目指すところでもあった。想像の共同体に関する理論は、近代を待つまでもなく、古代ギリシアに用意されていたのかもしれない。

ヘロドトス『歴史(上)』岩波文庫、1971年
ヘロドトス『歴史(中)』岩波文庫、1972年
ヘロドトス『歴史(下)』岩波文庫、1972年

【要約と感想】丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』

【要約】紀元前5世紀にギリシア悲劇が大発展したのは、当時のギリシアの状況を反映しながらも、人間の姿を普遍的に描いたからです。紀元前5世紀のギリシアの歴史は、異国であるペルシアとの戦争から始まり、同民族の争いであるペロポネソス戦争で終わります。この間の情勢が、ギリシア悲劇に大きく反映しています。
たとえば前半では、ギリシアの優位性である自由・法・叡知・勇気が、バルバロイであるペルシアとの比較を通して称揚されます。しかし後半では、ギリシアの優位性であった自由や法や叡知に対する疑惑が次第に高まり、作品の中で相対化されます。ギリシア的価値が低落する過程で、法や理性では捉えきれない人間性の奥底にあるものが抉り出されていきます。ここにギリシア悲劇が普遍性を持つ契機があります。

【感想】さくっとギリシア悲劇の粗筋を理解したい人にはお勧めしない。全体像が簡単に分かるような書き方にはなっていない。逆に、原典を多少なりとも読んでいて、自分の解釈に多様性を持たせたい人にとっては有益な本かもしれない。そういう意味では、気軽な新書スタイルというよりは、研究書に近い感じで多少身構えて読む類の本かもしれない。
というのは、それぞれの作品には長い研究史の中で解釈が問題になっている章句があるわけだが、本書はその研究史的課題に対する筆者なりの解釈から切り込み、作品全体の意図を見定め、当時の状況の中に位置づけるというスタイルを採用しているのだ。素人にとってみれば研究史的課題なんかどうでもいいので、もっと手っ取り早く内容そのものを理解したいわけだが、そういう書き方にはなっていない。だから筆者の解釈を正当化するために外堀を埋める作業がだらだらと続き、同じことが何回も繰り返され、素人にとってみれば文体が冗長に感じることにもなる。とはいえ逆に言えば、長い研究史の中で焦点になっている章句の解釈に説得力を与えるためには、幾重にも取り巻かれた外堀を埋める作業が必須であって、研究者としては誠実な態度ではある。
そんなわけで、実際に原典を(ただし翻訳で)読んでいた『オイディプス王』や『アンティゴネー』や『バッカイ』に対する著者の解釈に対しては、目から鱗が落ちる感じがした。特にアンティゴネーが再び葬儀に戻ってくることに対する解釈には、なるほどと思った。オイディプスが「知」の観点から英雄である理由についても、神々の掌の上で踊っていることを承知しながら自らの行動を自らで律する意志に存していることなど、よく分かった気がする。素人に分かりやすく書くスタイルでは、このあたりはしっかり説明できない気がする。逆に、原典を読んでいない人に著者の意図がちゃんと伝わるかどうか、不安なところではある。実際、ちゃんと読んでいない『キュクロプス』と『オレステス』に関する記述では、私にはどこがどう凄いのかがいまいちピンときていない。すみません。

丹下和彦『ギリシア悲劇―人間の深奥を見る』中公新書、2008年