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【要約と感想】伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』

【要約】ヨーロッパの近代はいわゆるルネサンス(16世紀)後に急に始まったわけではありません。西欧の転換点として決定的に重要な時期は12世紀です。しかも、ビザンツ帝国やイスラム教から刺激と影響を受けたことが極めて重要です。西欧から失われた古代ギリシアの知恵は、キリスト教異端(ネストリウス派と単性論)によって東方ビザンツ帝国やイスラム世界に伝わり、シリア語やアラビア語への翻訳を通じて保存され、さらにイスラム学者達が発展させていきました。ただの辺境にすぎなかったヨーロッパは、12世紀になってから、イスラム世界で発展していた科学的精神をラテン語に翻訳して受け容れることで大きな飛躍を遂げ、近代に繋がっていくことになります。

【感想】とてもおもしろかった。勉強になった。個人的には、長いあいだ謎だったミッシングリンクをぴったり埋めてくれるような、知的爽快感がある良い本だった。「12世紀ルネサンス」という言葉そのものは各方面から様々な形で聞いてはいて、概要くらいは小耳に挟んでいたのだが、改めて自分事として革新的な意義がよく分かった。というのは、私の興味関心に直接応えてくれるような知識だったからだ。

【研究のための備忘録】三位一体
 キリスト教神学の奥義とされる「三位一体」を一笑に付しているのは、爽快感がある。私としても三位一体論は破綻しているようにしか見えないが、他の学者もそう思っているのだと分かると安心する。

「「三位一体」というのは、どうなのでしょう。私なども、キリスト教神学のなかで、これが一番わかりにくい。どうして父と子と聖霊が一体になっているのか、特に父と息子がひとつになったりするのか、一番わかりにくい。だから、キリストを神ではなく預言者であるとするイスラムの考えのほうが筋が通るのではないかなどと思ってしまうのですが。」pp.68-69
「それでは正統は何かといえば、それは神と人と聖霊との三位一体を認める立場です。前講でいったように三位一体というのはなかなかわかりにくい教義です。アウグスティヌスが論じたり、他にもいろいろな神学者が一生懸命弁じていますが、我々にとってはなかなかわかりにくい。むしろネストリオス派とか、単性論者のほうが、ある意味で割り切っていて話の辻褄が合うわけです。」p.134

 で、カトリックに異端と決めつけられてビザンツ帝国から追放されたネストリウス派と単性論者が東(シリアとペルシア)に向かい、そこで古代ギリシアの知恵が生き残るというのが趣深い。だからいわゆるルネサンス(復興)と言った時、実は何が本当に復興したのかというと、もう紛う方なき「異端」なのだ。ルネサンスとは、「異端の異端による復興」だ。キリスト教が批判して止まなかった多神教古代ギリシアの世界が育んだ科学的な知恵が、カトリックに排除されたネストリウス派や単性論者によって保存され、カトリックを批判する人文主義者たちによって西欧にもたらされる。追い出したはずの異端が西ヨーロッパに逆流してきたのがルネサンスということになれば、自分たちの方から排除したヨーロッパは本来なら神妙な顔をして受け容れなければいけないはずで、「これが俺たちの原点だ」などとデカい顔をする権利はない。というか、もともとローマ・カトリック(ラテン語)の世界にはそういう合理的精神が息づいていなかったのだから、実ははじめから「原点」なんかではなく、「復興」と呼ぶのもおこがましい態度なのかもしれない。本当は単に「外国から学んだ」と言えばいいだけの話に過ぎないのに、そのオリジナルを自分たちのものだと言い張るのは、端的に言って傲慢な態度だ。「ルネサンス」とは、その言葉自体からして西欧史の隠蔽と捏造を試みたものである疑いが強い。
 ということで、個人的にはかねてから「ルネサンスの経緯がわかりにくいなあ」と思ったいたのだが、歴史が捏造されていたのだとすれば、私がわからないのも当たり前だ。私がミッシングリンクだと思っていたものは、私が見失っていたのではなく、実は最初からなかったのだ。ルネサンスが「復興」などではなく「異端からの輸入」だったという事情が分かれば、極めてすっきりと流れを理解できる。この「異端からの輸入」という事実を隠蔽して辻褄を合わせようとするから、ルネサンスの説明が変なことになる。

【研究のための備忘録】ダンテやペトラルカはルネサンスなのか。
 そして図らずも、知りたいと思っていたルネサンス問題に直接切り込んでくる文章があった。ありがたい。ここでもミッシングリンクがイスラム世界であったことが明らかになる。

「十一世紀に頂点に達したイスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激したことは疑いえないと思われます。」p.283
「トゥルバドゥールがアラビアの影響を受けたと言われるのは(中略)さらに内容の上で両者ともに官能的な恋愛を歌うこと、そして恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うことも共通しています。(中略)このロマンティック・ラブの理想が、西欧に初めて生じたのは、十二世紀のラングドックやプロヴァンスの地であったわけですが、それが十三世紀に北方に移ってトゥルヴェールになり、さらにドイツへ行きますとミンネジンガーになります。これが十四世紀にイタリアに伝わるとダンテ耶ペトラルカを含む清新体の詩というものを生み出します。」p.267
「トゥルバドゥールの愛は、さらにイスラム神秘主義の変容を経て、十四世紀にイタリア「清新体」の詩人に引きつがれ、古典主義やキリスト教をも打って一丸とし、ダンテとペトラルカに最も完成された姿を現したといってよいでしょう。」p.268

 まあ、なるほどだ。高校の世界史レベルの教科書では、ルネサンスを扱うところで何の脈絡もなくいきなりダンテやペトラルカが登場して、なんでこの時代のこの地域に新しい思想が現れたのか理由がサッパリ分からないわけだが、辻褄が合わないまま話が先に進んでしまう。しかし「実はイスラム世界の影響だったんだよ」と言われれば、いきなり視界がクリアになる。クリアになった目で歴史の流れを見てみれば、ダンテやペトラルカは、いわゆるルネサンスなんかではない。それは明らかに、中世に属する事象だ。11世紀イスラム世界から12世紀ルネサンスを経て13・14世紀に至る、一連の中世的な文脈の末期に見られる事象だ。だから、15世紀のいわゆる教科書的なルネサンスと、ダンテやペトラルカの活動は、別の文脈にある事象だ。そしてダンテやペトラルカをイスラム世界の影響から切り離して「西欧固有のルネサンス」なる文脈で語られるのは、ただただ西欧人が歴史を隠蔽・捏造して辻褄を合わせようとしただけのことだ。カラクリがよく分かった。
 ルネサンスという言葉は、やはりそれを人文主義的な動向に及ぼして使用するのは好ましくない。もともとの意味通り、ミケランジェロやラファエロなど芸術方面に限って使用するべきだろう。そして仮に敢えて人文主義的な動向に及ぼそうとするのであれば、「自分たちが追い出した異端が保存してくれた知識をイスラム世界から教えを請うて学んだ12世紀ルネサンス」という理解の下で使用した上で、従来ルネサンスと呼ばれてきた15世紀以降のたとえばエラスムスなど人文主義者の仕事については改めて「印刷術」との関係で理解するべきということになるだろう。そしてこの時点で、破綻している「三位一体」の論理は問題にもならなくなる。

【研究のための備忘録】人格
 さてそこで気になるのが、「人格」という言葉の変化だ。ラテン語のpersonaは、周知の通りキリスト教の奥義「三位一体」を語る上で極めて重要な言葉だったのだが、その大本である三位一体が破綻していたということになれば、perosnaという言葉は理論体系から放り出されて宙に浮いてしまう。この宙に浮いたpersonaという言葉がどういう経緯で近代の「人格」という言葉に着地していくのか。このあたりは極めて不可解なミッシングリンクだったのだが、ヒントは12世紀ルネサンスにあるのかもしれないと思った。三位一体の正統教義から排除された異端が「復興」と称して西欧に戻ってきた際に、三位一体の呪縛から解き放たれたpersonaという言葉が改めてどう理解されるか、ということである。もちろんそういう話は本書には出てこない。

伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫、2006年<1993年

【要約と感想】清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』

【要約】本書で言う「中世」とは12~15世紀の盛期中世を指し、「イタリアの都市」とは主にヴェネチア・ジェノヴァ・ピサなどの港湾商業都市を指し、ローマやミラノなど古くからの政治都市は対象としていません。
 これまでの都市研究は、フランドルや北ドイツの都市については近代的市民社会に直結する重要な役割を果たしたと評価する一方、イタリア諸都市については豪族・領主層や特権階級の影響力が大きいとみなされ、軽んじられていました。しかしイタリア諸都市の公証人の活動や都市周辺農村との関係を具体的に調べてみると、北欧と南欧の違いは明確には認められません。

【図らずも知った知識】1492年以降大航海時代の新航路開拓によって東南アジアからヨーロッパに香辛料が直接運ばれるようになり、一般的には地中海貿易は衰退したとイメージされているが、実際にはインド→イスラム→イタリアの交易ルートはしぶとく生き残り、そんなにすぐには衰退していない。

【感想】関心があったのは、フィレンツェなど北イタリア諸都市でどうして「ルネサンス」が盛り上がったかということで、本書はまさにその時代をドンピシャで対象にしているにも関わらず、ルネサンスについてはほとんど語っていない。まあ、ちゃんとした西洋史学とはそういうものなのだろう。
 とはいえ、関心に直接応えてくれる記述がたくさんあった。ダンテとかペトラルカとかボッカッチョなどが俗語(トスカーナ語)による文筆活動を成立させるためには、どうしても背後に広範な識字階層が必要になる。読者が存在していないところで、執筆ができるわけがない。で、フィレンツェにおける識字階層は、単純に考えれば、ヨーロッパを股にかけて活動していた商人たちとしか思えない。当時一般的に識字力があったのはキリスト教のお坊さんたちくらいなものだが、彼らはラテン語を用いて俗語は扱わないはずだし、ダンテやボッカッチョのようなキリスト教を批判したり揶揄したりする本を好んで読むとも思えない。ダンテやボッカッチョの読者は、商人たちだったと考えてよいと思う。で、本書はその仮説を傍証してくれるように、フィレンツェにおいて多くの公証人が活動していたことを記している。インドからの香辛料貿易や、イングランドに至るまでの羊毛・毛織物貿易を行うとなれば、どうしても記録類の作成や情報の伝達と共有のために文字を使いこなす必要がある。公証人が作成した公文書には保存義務があって後世まで残りやすく、かつての商業活動に際して文字がどのように活用されたか、一端を垣間見せてくれるわけだ。

【研究のための備忘録】教育
 で、教育に関して直接言及があったのでメモしておく。

「十三世紀から十四世紀にかけて公証人層の急速な増大が見られるが、その準備教育は、各地に多数存在した公証人学校において行われた。これは、多くの場合、小規模な私塾的な教育機関であって、大学ではなかった。中世イタリアの主要都市のうち、公証人に大学教育を義務づけている唯一の都市はボローニャであるが、これも、著名な法学部での勉強を要求しているのではない。むしろ、その母体となったと考えられる七自由学科(とくに修辞学、文法)の学校での勉強が必要だったのである。」
「十四世紀イタリアの大都市においては、中・上層市民における教育のレヴェルは、われわれの想像以上に高いものであった。」
「商人の子弟は、五、六歳で学校(私塾)に入り、五年間ほど勉強したのち、算術学校で二年半ないし三年の課程をおさめ、この後ラテン語学校に学び、さらに公証人のもとで修行するわけである。したがって、公証人になるにはかなり長期の準備教育が必要であった。ラテン語および修辞学がその教養の基礎になっていたのであるから、たとえばコルッチオ・サルターティのようなルネサンスを代表する人文主義者が公証人の中から生まれて来るのも不思議はないであろう。」129-130頁

 まず当たり前であるが、「公教育」という観点がまったくないことが分かる。教育とは徹底的に私事に属するものであって、市政当局が関わるべき仕事ではない。そして初等教育を扱う寺子屋のような施設があり、中等職業教育を行う私塾があり、高等教育を行う大学(七自由学科だから教養学部のようなもの)という段階もあったのだろう。それら教育機関は、もちろん商業に携わるための実務的な関心から作られて発展してきたわけだが、付随的に人文主義を支える教養の土台となり、ダンテやボッカッチョの読者層を送り出していったということだろう。
 そう考えると、やはりイタリアのルネサンスは、商業活動がまず背景にあって、それに付随して行われた識字教育が前提となり、広範な読者層を得て浮上してきたと考えるべきところになる。これはラテン語をベースとしてイスラム経由でアリストテレスに触れて活発化したスコラ学者たちの活動(十二世紀ルネサンス)とは根本的に異なる性格を持っていると理解するべきだろう。この2つ(ラテン語べースの十二世紀スコラ・ルネサンスと、俗語ベースの十四世紀イタリア・ルネサンス)の交差するところは、やはり15世紀半ばの印刷術発明ということになるのではないか。(十三世紀の大学という場だったという仮説も侮れないが)。印刷術の発明によって「本屋」という商売が歴史上初めて成立し、その本屋という空間にアリストテレスの哲学書とボッカッチョの艶笑譚(あるいはもっと酷いゴシップ誌)が並んで置かれるという従来はあり得なかった現象が発生して、そこで初めていわゆるルネサンスという空気が立ち上がってくるのではないか。

清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』講談社学術文庫、2021年<1989年

【要約と感想】増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』

【要約】Q:ヨーロッパはどうして世界最先端になれたのか?
A:個性を大事にしたからです。

【感想】本書で言う「ヨーロッパ」とは、フランス・ドイツ・イタリアを中心とする西ヨーロッパのことで、ビザンツ帝国やロシアや東欧やイベリア半島やスカンジナビア半島は視野に入れていない。つまり、ほぼほぼゲルマン民族を対象にしている。また「中世」とは、ゲルマン民族移動が始まる4世紀から国民国家の形成が始まる16世紀までを指す。ヨーロッパが近代以降に強大になったのは、中世に培われた精神的風土が決定的に重要だと主張している。また「社会史」とは、アナール学派が言うような意味ではなく、政治史・経済史・法制史等を総合した上で、今後は丁寧な「地域史」を土台に歴史像を組み立て、発展段階史を乗り越えていくべきだという、著者独自の主張を含む方法概念だ。
 で、地域史を丁寧に積み上げていくと、西ヨーロッパには、アジアやイスラムや東欧とは異なった共通の精神的土台があることが確認できると言う。秦漢帝国や古代ローマ帝国のような「世界帝国」を拒否して、個々の地域の個性を大事にしてお互いに切磋琢磨しながら支え合うような仕組みの社会だ。個性的な市民団体や職能集団が独自の役割を果たし、王様や貴族(荘園地主)など権力者もルールに従わなければ何もできないような社会である。西ヨーロッパから誕生した国民国家とは、世界帝国を目指さずに、地域の個性を大事にする精神的風土から成長してきた制度ということになる。日本がお手本にすべきなのはこれだ、と本書冒頭から結論が出ているのであった。

 さて、こういう西欧理解は、そんなに新しいものではない気がする。具体的には、いわゆる「勢力均衡」がヨーロッパの政治原理であることは、ずいぶん昔から言われている。西欧の国がそれぞれ個性を活かしながら役割分担をすることで発展してきたことについては、明治時代の日本人も気がついているし、著者に言われるまでもなくお手本にしている。
 本書の独創性は、それを具体的に、三圃制の展開、都市の成立、農村と都市の経済的相補関係、経済圏の成立と地域の個性などなどで実証している点にあるのだろう。まさに「地域史」の面目躍如というところだ。個々の論点ではさすがに古いと感じるところもなくはないのだが、歴史像の総合的な構想については今でもおもしろく読める。
 とはいえ、グローバル化の負の側面を嫌ほど見せつけられると、一定程度、眉に唾をつけておきたくもなる。地域の個性化と役割分担は、本当に世界の人々を幸せにできるのか。結局行き着く先は、ウォーラーステインが描いたような、格差を前提とした世界資本主義システムではないか。本書は、冷戦崩壊後の世界情勢を知らない(もちろん著者の責任ではない)。

 著者が後進地域として切り捨てたロシア帝国(ビザンツ帝国を引き継いで世界帝国を目指す傾向)が、西ヨーロッパ(多様性と個性を尊重する傾向)の一員になることを目指したウクライナを攻撃し始めた2022年2月24日。著者は本書内で、地域の個性を活かして経済的に相互依存を高めれば平和が訪れると何度も何度も繰り返し主張し、世界帝国への傾向を批判しているが、グローバル化の果てに出来したこの現実を見たら、はたして何と言うだろうか。

増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』講談社学術文庫、2021年<1985年

【要約と感想】鈴木宣明『ローマ教皇史』

【要約】ローマ教皇2000年の歴史を、使徒ペトロを初代として、現代まで辿りました。

【感想】一般的な世界史の大半は、フランスとかドイツとか国民国家を単位として記述するため、ローマ教皇はその時々に脇役として登場してくるに過ぎない。たとえば「カール戴冠」や「カノッサの屈辱」などのエピソードで、何の脈絡もなくいきなりローマ教皇が登場して、「そういえば、いたんだ」って思い出すことになる。が、もちろんそれは国民国家を単位として歴史を見ているからそういう印象になるだけであって、ローマ教皇の方にも文脈があるに決まっているのだった。逆に、ローマ教皇の立場からヨーロッパの歴史を眺めることで、国民国家という単位の射程の短さが明瞭に見えてきたりする。
 しかしまあ、追放されたり、幽閉されたり、連れ去られたり、無視されたり、破門されたり、毒を盛られたり、暗殺されたり、何度も分裂したりして、ローマ教皇も大変だ。
 で、今後西洋史の勉強を進める上で注意しておくべき論点が浮き彫りになった気がするので、以下にメモしておく。著者の主張ではなく、あくまでも私が疑問に感じたことである。

【要検討事項】使徒ペトロ
 現代に至っては、ローマ教皇の権威は使徒ペトロに由来するというのが当たり前のように言われたりするけれども、実はその主張そのものが歴史的に形成されてきた神学の産物だということは押さえておく必要がある。実際、仮にペトロの権威を認めるとしても、それがカトリック教会及び歴代教皇に引き継がれる根拠については別に考慮する必要がある。ひょっとしたら、ないかもしれない。で、この根拠が崩れるとローマ・カトリックの権威が土台から崩れる。ので、カトリックがこの論点で譲るわけがない。本書でも、古代教皇のところではもっぱらこの論点が検討される。

【要検討事項】西ローマ帝国は滅亡したのか
 そして古代ローマ教皇はコンスタンティノープルの東方教会との主導権争いに明け暮れるわけだが、それはいわゆる西ローマ帝国滅亡(476年)をどう評価するかという話にも繋がってくる。いわゆる「西ローマ帝国滅亡」という考え方は、実はカトリック教会にとって都合の良い考え方に過ぎず、実態を表わしているわけではないと疑ってもよい。というのは、いわゆる西ローマ帝国滅亡以降も、ローマ教会はずっとずっと長い長い期間、東ローマ帝国からの関与と圧力を受け続けるからだ。東ローマ帝国の立場から言えば、そもそも西ローマ帝国は滅びてなんかおらず、というか最初からそもそも西ローマ帝国と東ローマ帝国が分離していることもなく、ローマ帝国はコンスタンティノープルに健在であって、だとすればローマ教皇はコンスタンティノープル宮廷であるところのローマ帝国に当然従う義務があるだろう、という話になる。しかしローマ教皇側としてはビザンツ帝国に従いたくないので、「私たちが従っていた西ローマ帝国は滅亡しました、だからもう教会は自由。ビザンツ帝国に従う理由はありません。」と主張して対立を煽ることになる。というわけで、「476年の西ローマ帝国滅亡」という事案そのものが、利害関係者によって都合良く拡大解釈されたものかもしれない、と疑ってもよい。
 たとえば神学論争についても、純粋にキリスト教神学として極められたというよりは、政治的・現実的動機によってことさら相違を強調されたと勘ぐることもできる。特にエフェソス公会議やカルケドン公会議等で問題になった「三位一体」とか「キリスト単性説」とか、大局的に見れば心底どうでもいいことで、コンスタンティノープル総主教ネストリウスが言いがかりを付けられただけのようにも見える。率直に言って、「三位一体」にこだわる理由や意義は論理的にはさっぱり分からないが、政治的な動機で騒ぎたてたと勘ぐれば極めてすっきりとよく分かる。
 となると、いわゆる西ローマ帝国滅亡後に発生した「聖画像崇拝」の問題にしても、ローマ・カトリックが聖画像崇拝を認めるのは、神学的な根拠に基づくものではなく、ことさら東方教会との違いを際立たせて、ビザンツから距離を取ってやろうという政治的意図から出たものではないか、と勘ぐることもできてしまう。
 いずれにせよ、ビザンツ(東ローマ)帝国の存在を視野に入れて「そもそもローマ帝国は滅亡していない」という主張を受け容れ、そして事実としてローマ教皇がビザンツ帝国からの影響と圧力を受けていたことに配慮することで、ヨーロッパ中心史観が描く物語とは別の側面に光が当たることは間違いないのだった。

【要検討事項】カール戴冠の意味
 西暦756年の「ピピンの寄進」や西暦800の「カールの戴冠」は高校世界史でも扱われる題材で、現在の西ヨーロッパ世界成立の原点とされているが、ビザンツ帝国が絡んでくると急にきな臭い話になる。そもそもローマ教皇がフランク国王カールに「西ローマ皇帝」の称号を授けるためには、前提として、西ローマ帝国が滅んでいなければならない。西ローマ帝国が滅んでいなければ、カールに称号を授けることはできない。ローマ教皇としては、是が非でも西ローマ帝国が滅んだことになっていなければならない。そこで邪魔になるのがビザンツ帝国=東ローマ帝国だ。ビザンツが「ローマ帝国は滅んでいない」と言い張ったら、ローマ教皇はカールにローマ皇帝の称号を与えることなどできない。実際、東ローマ帝国はカール戴冠の実効性を認めない。ローマ教皇の方としては、現実的にはただただビザンツ帝国を完全に見限ってフランク王国=ゲルマン人に乗り換えただけなのだが、その行為を正当化するためには、「西ローマ帝国は実は滅亡していたんだよ」という歴史を創作しておく必要が出てくる。となると、カール戴冠によって「西ローマ帝国が復活した」と言っている人もいるが、極めて怪しい話になってくる。そもそも滅亡していなければ、復活のしようがない。逆に言えば、復活したと言い張ることで、滅亡していたことにできる。カール戴冠は、本当に「西ローマ帝国の復活」としていいのか。ローマ教皇に、そんな権能が本当にあったと考えていいのか。というか、仮に権能がなかったとしても、後に何も事情を知らない人たちに対して「西ローマ帝国の復活」と言い張り続けることで、ローマ教皇に権能があったことにできてしまうのだ。こういうふうに既成事実の神話化を試みているのはローマ・カトリックだけではないのだが、ローマ教皇はこの技術が実に巧みだ。とういか、その知恵だけで生き抜いてきたようにも見えてしまう。

【要検討事項】神聖ローマ皇帝位の行方
 高校世界史のレベルでは、西ローマ皇帝の称号はその後ドイツ国王との関係で云々されることになるのだが、それも怪しい話だ。ローマ教皇は、カール戴冠の後、特に一貫してドイツ国王(東フランク王)に皇帝位を与え続けたわけではない。実は西フランクに浮気していたりもするし、10世紀初頭には形骸化して消滅している。
 神聖ローマ帝国皇帝の称号がドイツ国王と結びつくのは、西暦962年のオットー1世戴冠からのことだ。逆に言えば、ここでもまた歴史が創作されたと考えて良い。カール大帝の戴冠とオットー1世の戴冠には、直接的な連続性は認められない。それを連続していると理解できるのは、オットー1世とローマ教皇が歴史を創作したからに過ぎない。しかし実はそれすらも後世の創作に過ぎないのだろう。オットー1世に皇帝の称号を与えたローマ教皇ヨハネス12世は、物理的支配の後ろ盾を得るために皇帝の称号を形式的に利用しただけであって、それを理念の次元で「ローマ帝国の継承」などと考えていたわけはなかろう。またオットーはオットーで単にローマ教皇を利用しようとしただけで、実際に皇帝の称号を得てからは、ローマ教皇ヨハネス12世を殺人罪や汚聖罪を理由に退位させている。オットーがローマ皇帝の称号を得たのは、どうもローマ教皇ヨハネス12世が軽率で迂闊だったからに過ぎず、カール戴冠とオットー戴冠を理念的に繋げようとするのは、後の時代の創作に過ぎないだろう。
 そのあたり、ナポレオンの戴冠については神話化を許容できないほど生々しくも野蛮な剥き出しの実力主義だったことを記憶しているわけだが、そういうふうに生々しいのは事情が詳細に知られている(おそらく印刷術の効果)からであって、実際にはオットー1世の戴冠にも似たり寄ったりの事情があったのをみんな忘れてしまった(おそらく印刷術がなかったため)だけなのだろう。

【要検討事項】イタリア・ローカリズム
 現代ではローマ教皇の権威は全世界に普遍的であると見なされているのだが、それは極めて近年の話で、中世からルネサンスあたりまではそうとうローカルな政治権力として機能していたことをイメージしておく必要があるように思う。たとえばマキアヴェッリ『君主論』ではローマ教皇アレクサンデル6世(およびその息子)が大活躍するのだが、それは西ヨーロッパに普遍的な宗教的権威としてではなく、ただただイタリアの現実政治に影響を及ぼすローカルな権力としてだ。
 14世紀のフランス王国によるアヴィニョン捕囚も、その文脈で理解しておく必要がある。フランス王国は宗教的に何かしようとしてローマ教皇を捕えたのではなく、ただただイタリア(特にナポリとシチリア)に影響力を行使するべく、ローカル権力であったローマ教皇を拉致していただけなのだろう。実際、ローマ教皇が捕囚されていたアビニョンは、フランス王家の支配地ではなく、ナポリとシチリアに極めて大きな関心を抱いていたアンジュー家の所領だった。捕囚直前の13世紀には、アンジュー家のシャルル・ダンジュー(シチリア王)が、ビザンツ帝国を征服して地中海の覇者となることをも夢見ていおり、ローマ教皇もその野望(東ローマ帝国征服)に乗っかっていた。ローマ教皇としては、やはり相変わらず東ローマ帝国の存在は目の上のたんこぶのようなものだったのだろう。
 ビザンツ帝国は1453年にイスラム勢力によって滅ぼされるわけだが、ローマ教皇は特に十字軍の発令などをすることもなく、ルネサンス美術にうつつをぬかしてローマ市内の美的整備に力を尽くしている。世界全体の動向などどうでもよく、ローマが美しくなればそれで嬉しいという、ただただローカルな権力になっている。その勢いのまま1517年、いわゆるルターの宗教改革に突入していくわけだが、ローマ教皇に対応する力がなかったのは当然だったかもしれない。とすれば、たとえばイギリスが国教会を打ち立ててローマから離反し、宗教的寛容を唱えたジョン・ロックが「カトリックと無神論者は例外だ」と主張することになる気持ちにも想像が及びそうだ。
 そんなカトリックが、いつの間にか「普遍」を装っているのはどういうことか、そこに至るまでにどういう歴史の創作があったのかは、しっかり把握しておく必要がある。案外、日本人だけが勘違いしていて、ヨーロッパ現地の人はそんなふうに思っていないかもしれない(たとえば日本人が神社やお寺に対して抱いている程度の感覚)ということも視野に入れておく必要がある。

鈴木宣明『ローマ教皇史』ちくま学芸文庫、2019年<1980年

【要約と感想】堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』

【要約】本書の「ヨーロッパ」とは、ケルト・ガリア・フランクの諸民族を基礎として、フランク王国から分離して伸長するフランス(フランス王国)、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(ローマ教皇)を中心に、イングランド、スカンジナビア、スペインまでを視野に入れています。ロシア(スラブ民族)とビザンツ帝国は視野に入っていません。また「中世」とは、ローマン・ガリアへのゲルマン人の移動と西ローマ帝国の崩壊あたりから始まり、15世紀半ば(つまり新大陸発見と宗教改革以前)までをターゲットにした1000年あまりの期間を指します。
 叙述は複層的に展開しますが、いくつかの軸があります。
(1)封建制の伸長過程(主にフランス王国と神聖ローマ帝国を題材に、王と貴族層の相克)。
(2)身分制の確定過程(騎士階級の位置づけを中心に流動的であったことを強調)。
(3)カトリック教会の展開(叙任権闘争など世俗権力との関係と、修道院改革など後の宗教改革の萌芽)。
(4)中世都市と村落の形成過程(北イタリアとフランドルを題材に、経済圏の議論)。
(5)辺境という視点(ヨーロッパに内在する辺境から、十字軍を通じた外在の辺境への視点移動)

【感想】通史というものは、折に触れて読むべきだろうなと思った。ひとつは答え合わせという意味があって、各所で仕入れた知識が正確かどうか改めて確認する機会になる。もう一つは、新たな問いを霊感するという意味があって、それまでバラバラに見えていたものに何かしらの関連を発見するきっかけを得られる。ということで、何気なく読み始めた本だったが、いろいろと勉強になった。

【要検討事項】三位一体
 カロリング・ルネサンスのところで三位一体に関する記述があった。

「キリスト教神学についても、また、このゲルマン男は一家言もっていた。「父と子と精霊」の三位一体論の解釈をめぐり、東ローマ教会の決定に反論し、「精霊は父および子から発する」との説を西方教会の根本教義としたのは、じつにアルクィンとカールの共謀であったのだ。」95頁

 なるほど。しかし一方、アウグスティヌス研究者山田晶は、この西方教会の教義はアウグスティヌスに由来すると主張し、アルクィンとカールの名前は一言も出さない。さて。

【研究のための備忘録】貨幣経済
 貨幣経済の進展と影響について、13世紀のペスト流行にも関わって気になる記述があったので、サンプリング。

「おそらくこの災禍は、都市においても農村においても、富めるものと貧しいものとの較差を、いっそう拡げる作用を及ぼしたことであろう。これまた、すでにじわじわと進行していた事態であった。この大災害は、人間と土地に拠ってたつ農業生産、一口にいってものの価値のたよりなさと、金銀貨の形でのかねの価値のたしかさを、しみじみとさらせる効果をもったのではなかったか。かねをためた商人、上級役人、大借地農、こういった連中が主役の社会が中世後期に現出する。主役の座から下ろされたのは、ものの体系である領地経営にしがみついた領主たちである。」386頁

 貨幣経済のインパクトというものは日本の歴史(特に個人的な専門的関心から言えば江戸中期以降の教育爆発)を考える上でも極めて重要な観点なのだが、感染症の流行という要素を踏まえると、なんとなく昨今のコロナ禍による環境変化にも当てはまってしまうような気がするという。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスという概念について専門的な観点からの言及があったのでサンプリングしておく。

「「ルネサンス」とは「再生」を意味する。なにが「再生」したのか。言葉本来の用例では、古典ラテン語と古典古代の美術様式が、である。
 十五世紀のイタリアの人文学者は、ダンテもペトラルカもだめだ、ラテン語でものを書かなかったから、と批評している。これが、いわば本音であって、事情は「アルプスの北の」人文学者たちにとっても同様であって、彼らの神経質なまでの気の使いようは、ホイジンガが『中世の秋』最終章に紹介しているところである。」430-431頁

 要するに、13世紀~14世紀のフィレンツェ文化の華であるペトラルカやダンテは「ルネサンス」とは認められないという主張だ。そして本書はブルクハルトを「混乱のもと」「中世という時代についての無知を背景」(431頁)と名指で批判して、世俗のルネサンス概念を修正している。これが歴史学プロパーの常識というところだろうか。私個人としては、本書の理由とは異なるが、「印刷術」の登場前と後ではまったく事情が異なるという理解から、ダンテやペトラルカをルネサンスに位置付けるのにはかなり違和感を持っている。

【研究のための備忘録】説明のシステム
 ヨーロッパ中世の歴史とは関係なく、私の個人的な研究に関わって響いたところをサンプリング。

「既成の言葉では説明しきれないと感じたとき、人は、その場その場の臨機の判断で、現実を処理してゆく。理念の体系そのものは、そのまま残されていても一向にかまわない。むしろ残しておきたいのである。説明のシステムをもたない生とは、なんと不安な生ではないか。やがて数世紀ののち、既成の理念の体系をそっくり作りかえて、新しい現実説明のシステムが生まれる。」421頁

 これは中世から近代への移り変わりを説明した文章だけれども、同じことは近代の終わりにも言えるのだろう。まさに現在、近代が生んだ「理念の体系」の要であった「人格」という言葉が説明のための力を失いつつある。しかしまだ代わりとなる「説明のシステム」は見えてこない。おそらく「持続可能」とか「共生」といった言葉が重要だろうことまでは分かるのだが。

堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』講談社学術文庫、2006年<1977年