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【要約と感想】坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』

【要約】「個としての個」の思想は近代に誕生したと思い込まれていますが、実は決定的に重要なのは4~6世紀の古代末期(ビザンツ初期)にキリスト教公会議で交わされた三位一体とキリスト論に関わる教義論争で、特に古代ギリシア哲学の伝統を引き継ぎつつもそれと対決した東ローマ(ビザンツ)の神学者の思想が重要です。ウシア、ピュシスという概念(実体・本質)からヒュポスタシスという概念(基体)を切り離し、その宇宙論的な意味を担うヒュポスタシスというギリシア語が法的・社会的な意味を担うペルソナというラテン語によって翻訳されたときに、広大で多様なローマ帝国の多文化世界を背景とした化学変化が起き、元の概念を超える豊かな概念が新たに形成され、その新たな概念「ヒュポスタシス=ペルソナ」こそがまさにキリスト教が古代ギリシアの実体・本質重視の思想・文化を超えて表現しようとしていた「隣人への愛」という教義に明確な形を与え、「個としての個」の理念が固まりました。

【感想】非常におもしろい。論旨は極めて明快で、私の個人的な研究(人格概念の探求)にとっても実に都合がいい見解が小気味よく並んでおり、喜んで今後の論文に引用させていただくことについては吝かではない。勉強になった。
 ただし、逆に明快すぎて眉に唾をつけたくなる部分もなくはない。たとえばアリストテレスの評価と位置づけについては慎重に裏付けをとる必要を感じる。たとえばアリストテレスは「個あるいは一」を共約不可能な特異点としつつ、それが成立する条件を執拗に細かく分析していたのではなかったか。いわゆる「普遍論争」における唯名論の立場は、アリストテレスの範疇論における議論を背景として、存在するのは「個物」だと主張したのではなかったか。
 また東ローマ(ビザンツ)を重視する本書全体の傾向は、ラテン的西欧(あるいはカトリック)に対するカウンターとしての意味と意義は十分に理解できるものの、本書が書かれた20世紀後半におけるアカデミズム全体のポストモダン・ポストコロニアル的ムーブメントの文脈に置いて、多少は差っ引いて考える必要を感じる。
 また、歴史的には、「個の重視」はローマ文化にゲルマン的な要素が混入して誕生したというストーリーもあるはずだ。自由と権利を重視する「ゲルマン的な個」と、本書が扱う「ビザンツ的な個」は、やはり何か依って立つところが違っているのではないか。本書が言う「ビザンツ的な個」は、確かに「なんらかの単位としての個」であることは間違いないとしても、その属性として「自由・権利・尊厳」が伴うことはまったく自明ではない。ピュシスから切り離されたヒュポスタシスには自由や尊厳などない。それは線に対する点のような、無属性の特異点に過ぎない。かろうじてペルソナという言葉と概念が神と人の両者を表現する際に同じように使用されるという「類似」と「連想」によって自由・権利・尊厳の所在を仄めかすに過ぎない。しかし一方の「ゲルマン的な個」の本質は自由と切り離せないと理解されているのではないか。
 そしてどうしても2023年の段階で想起してしまうのは、ビザンツ的なプーチンが、ゲルマン的な自由の精神を心底憎んでいるという事実である。そしてそこから逆算すると、東方ではグノーシス的な二元的異端が根強く蔓延し、それが実は「ディープステート」の陰謀を云々するような反知性的な心性に連なっているのではないか。穢れたものと見なす俗世間から隠遁して野蛮な反知性的修行で「神化」を目指す隠修士のような在り方は、イエスが説いた「隣人の愛」と本質的にまったく関わりがなく、「個としての個」にモナド的に引きこもる退廃した姿ではないのか。
 まあそういう疑問を差っ引いても、非常に面白く、勉強になる本である。

【今後の研究のための備忘録】人格、ペルソナ
 本書で鍵となる概念はラテン語の「ペルソナ」とギリシア語の「ヒュポスタシス」だが、それを日本語に敢えて置き換えると「個」とか「人格」という言葉で表現される。似たような言葉に「独」とか「孤」もあるが、圧倒的に「個」という感じがふさわしいのは間違いないだろう。

「純粋な個としての個、かけがえのない、一回かぎりの個の尊厳、そういったものが思想的・概念的に確立したのは、近代よりはるか以前のことだったと思われる。遅くとも紀元五、六世紀の、あのローマ帝国末期の教義論争のなかで、それははっきりとした独自の顔をあらわし出している。中世を通して生き続けたその顔を、近代はふたたび新たなかたちでとりあげたのである。」36頁
「今まで目に映らなかった「人格」というもの、「個の存在」というものが、見えてくるということは、やはり人の世界や他人への関わりを変える。」37頁
「そしてキリスト教の教義も、キリスト教の哲学化・思想化・体系化も、イエスが単純な「隣人の愛」ということばで語ったことのいわばパラフレーズであり、この単純な理想に、できるかぎり普遍的で透明で共時的なかたちを与えようとする努力にほかならなかった。その努力の中で人びとは、実はヨーロッパの思想・哲学にとって基本的に重要な新しい概念、新しい存在論を生み出していったと思われる。それが後に詳しく述べるような、個としての個の概念であり、純粋存在性の存在論であり、それが人格の絶対性とか尊厳とかなどに根拠を置く人権思想や民主主義体制をも支える一端となっていると思われる。」48頁
「純粋な「個」「ペルソナ」の概念が明確なものとなるのは、カルケドンのキリスト論のみならず、その前段階をなす三位一体論があってはじめて可能だったのだ。」51頁
「しかし末期ローマのこの社会の状況においては、この問題は起らざるをえない問題だった。この宗教は、この戦いを戦い抜いて、この宗教の本質の少なくとも重要な一部を、この社会・文化なりのかたちに造りあげ、救いとったのだと思われる。そこで救われ、現れてきたのが「ペルソナ=個としての個」を基盤に置く思想のかたちである。」71頁

 ここまでの記述で本書の主張が既に明らかになっている。「個」という概念を生んだのがキリスト教で、特に4~6世紀の教義論争が極めて重要という立論である。しかしキリスト教の教義論争の分析に入る前に、ギリシア哲学の話を丁寧に進める。しかもローマ帝国でヘレニズム化したギリシア哲学(具体的には新プラトン主義)の話が延々と続く。

「神とキリストの関係の問題は、イエス自身の問題ではけっしてなかったが、すでに福音記者や使徒たちにとっては問題であった。それは、古代哲学が現象の根底に見いだそうとした一なる原理と、現象の多との間の関係への問いと同質の面を持つ。感覚に触れてくる多のうちに一を求めるのは、人間理性の本能とでもいうべきものだろう。」75頁
「キリスト教の教義が問題となった「教義論争」の時代以前に、すでに現象のすべてのうちに「一なる善」を見る視線がとぎすまされてきていた」78頁
「この一元論的なピタゴラス的・プラトニズム的体系ではじめて、かっきりした理性の対象でないもの、その意味で「普遍」ではないものが、存在的・価値的に優位に立つことが、理性的に確立される。個の個性、隣人の核心をなすもの、などもそういった種類のものであるから、隣人愛を説くキリスト教とこの思想が結び付くことになっていくのは、理由あることだった。」81頁
三位一体論の背理は、個としての個なる人を論理的にも救いとる要求のためだった。」111頁

 新プラトン主義とキリスト教の教義の親和性そのものについては、特に本書が明らかにしたわけではなく、古代教父アウグスティヌス本人が証言しているので疑いようがない。
 しかしところで、「一なる原理」「一なる善」についてはプラトンやアリストテレスなど古代ギリシア哲学が徹底的に追求したものだし、東洋でも道教や朱子学が「太一」として追求しているわけだが、ここで本書がその営為を「人間理性の本能」と呼んでいるのは、なんというか、「多のうちに一を求める」というメカニズムがはたして「本能」なのか何なのかがそもそも哲学的に追求すべき究極の問題であって、それを「本能」と言ってすませられるのなら大半の問題は簡単に解決してしまうので、私個人としてはあまり軽率に「本能」という言葉に還元したくないところではある。まあ、そう言いたくなる傾向があることを仄めかしたいときには、ありがたく本書を引用させていただくということで、言質がとれているのはありがたい。
 また、「三位一体」という現代的な感覚では圧倒的にどうでもよい論理を、「個としての個なる人を論理的にも救いとる要求」と理解しているのは引っかかる。確かにそういうストーリーも成り立つだろうし、そのストーリーで全体を構成する本書の論理に対して異論を差し挟むつもりはない。しかし個人的には、「三位一体」なる屁理屈はただただ単純にグノーシス主義的二元論への現実的な対抗策として強弁しただけで、当時の現場としては個としての個なる人なんかどうでもよかったが、意図しない副作用として偶然にそれを救いとった、というストーリーも捨てがたいところだ。
 ともかく古代ギリシアの「一」にまつわる思想を整理したところで、続いて「ペルソナ」とその周辺概念の整理を行う。

「神の一性と、それにもかかわらず厳存する父と子の区別を、すでにラテン世界ではテルトゥリアヌスが、実体(substance)の一性とペルソナ(personaいわば基体)の二性として表現し分けていたが、このペルソナにあたる語を、アタナシウスはまだ確立していなかった。」103頁
「「ペルソナ」は法律上の人格・役割を意味する、もともと非形而上学的なことばであって、社会的人間の持つ多面性を表現し得ることばであった。法律家テルトゥリアヌスは、ひとりでありつつ多くの役を矛盾なく演じ、しかもその際他人になるわけでもない具体的人間のあり方との類比で、この概念を柔軟に、それゆえ矛盾につきあたって困惑することもなく、用いることができたのであろう。いかにもラテン的なことばであり、概念である。
 しかし、これがギリシア的な自同律と矛盾律を基本に持つ形而上学的概念と結びつき、転化し、その体系のうちに組み込まれようとするとき、現実感覚の柔軟さは論理的矛盾として姿を現すことになる。」115頁
「中世末から近代にかけてのいわゆる「アリストテレス批判」「実体概念の解体」は、すでにここに、ビザンツ初期の白熱した数世紀の議論の中に準備されている。人びとは信仰上の情熱から、このきわめて基本的な問題に執拗なまでに取り組まざるをえなかった。この議論を「自然」のうちに移しさえすれば、そこに、近代科学の基本的考え方への一歩の寄与があることがわかるだろう。十三世紀スコラの盛期に、トマス・アクィナスが、ペルソナは「自存するものである関係」だという衝撃的なことを平然と言うのを見るとき、もうこれら実体とか関係とかいう概念がそれほど「いわゆるアリストテレス的」に明白なものではなく、変質してきていることがよくわかる。」128-129頁
「論理性・秩序・組織というロゴス原理は西洋の強みであり、それによって「人格」「愛」「精神(霊・プネウマ)」というような、とらえがたく柔らかい価値をも守るという、逆説的な仕事をある程度なしおおせたということが、西欧文化のもっとも大きな強みであったように思う。しかし、その場合、「愛」や「精神」はやはりともすれば内実を失って空洞化しなかったろうか?
 (中略)たとえばレヴィナスとか、バフチンなどの人びとに、私は東方思想の血筋を見る気がする。そこでは人間性(という呼び方が妥当かどうかわからないが)、人間のいきいきとした姿、人間の芯にある火――おそらくそれが、ペルソナとか人格とか呼ばれるものだろうが――そういったものへの感受性が、まだ西欧思想におけるように解体・枯渇してしまわずに残っているような気がする。」140-141頁
「その一つの答えは、ラテン語では、このヒュポスタシスがペルソーナ(persona 以下慣例に従って短くペルソナとする)と翻訳されたからである。personaは近代ヨーロッパ語のperson、Person、personeなどとなり、日本語でも「人格」などと訳されている。これが西欧思想の一つの中核語であることに異論をとなえる人はないだろう。
 しかし、ペルソナが本来はヒュポスタシスとはまったく異なった意味の語であることは明らかである。いわば、もともとギリシア語ではじまったキリスト教の思想化の努力が、西方ラテン世界に翻訳され、移行するときに、このもっとも中核的な概念が迷子になり、脱落して別のものとすりかわったかに見える。しかも、「ペルソナ」の語にしても、これからの叙述で見えてくるように、これは当時は独自の存在論の中核をなす語であった。それが西欧の中世から近代の歴史の中では、次第に単なる人間論の術語としてしか意味をもたなくなっていく。せっかく四世紀から六世紀に至る政治と理論の白熱のうちで姿を現してきたこの独自の存在性が、少なくとも西ヨーロッパでは次第にまた消滅してゆくのである。これは、「個」にきわめてよく似るが単なるギリシア的「個体存在(individium)」ではなく、おきかえのきかない純粋個者、しかも、つねに他者との文脈のうちにあることを本質とする単独者である。西欧はこの概念を失ったことによって、多くのものを失いはしなかったろうか。」150-151頁
「ヒュポスタシスは、実体・本質と区別された神の位格(父・子・精霊)を表示し、この「位格」が西方のラテン語ではペルソナと呼ばれるものである。したがって、ヒュポスタシスはまさに神のペルソナ的な、いわば人格的(正しくは位格的)な面を示すことばと言えるのである。この区別は、あるいは西方で先に確立したという面もあるかもしれない。ニカイア公会議がまだウシアとヒュポスタシスの区別をどうつけてよいかわからないでいた一方で、西方ラテン世界のテルトゥリアヌスは、そのほぼ百年も前に、父・子・精霊という古い呼びかけと神の一性を、一つの実体(essentia)と三つの位格(persona)というかたちで両立させていたのだから。」154頁
「ニカイアの公会議自体は、キリストが、また精霊も、父なる神と実体(ウシア)を同じくする「神からの神」、つまり父とまったく同一の神であることを語っただけで、「ヒュポスタシス」とか「ペルソナ」とかいう、三位格の共通名を出していない。しかし、およそ四、五十年後に、カパドキアの教父たちは明瞭にヒュポスタシスとウシアについて論じているし、さらにその四十年後にアウグスチヌスは、先に引用した『三位一体論』五巻八章のくだりで、明らかに三位格にペルソナ(persona)という共通名を与え、ギリシア語ではそれをヒュポスタシスと言うと語っている。」171頁
「まったく本来は意味の違うペルソナとヒュポスタシスという二語が、どうして対応語として用いられつづけたのか。」171頁
「カルケドン信経は、プロソーポン(ペルソナに対応するギリシア語、原義は顔、そこから個人)とヒュポスタシスを同義として列挙し、ラテン語はペルソナとスブステンチアを列挙している。この四語のうちからなぜ、ヒュポスタシスとペルソナだけが残って等値されることになったのか。」172頁
「テルトゥリアヌスが早くに用いていたペルソナという語は、この混乱を避けて、神の本質と区別された、ある種の存在性(父・子・精霊という)を指し示すために便利だったのである。」173頁
「紀元前二百年前後、第二ポエニ戦争のころに、すでにペルソナの語は、(1)劇場の仮面、(2)劇での人物、(3)たぶん役割、(4)たぶん文法での人称、などの意味をすでにもっていたと思われる。そしてこの語の意味を一挙に広めたのは(ほかの多くのラテン語のヴォキャブラリーにおけると同様)、やはりキケロだった。」177-178頁
「ローマ人の法的思考のうちで、ペルソナの語は、ギリシア語プロソーポンよりもはるかに豊かに発達し、かえってプロソーポンの語義を広めるのに影響したことが指摘される。ただ、法的発展をのぞいても、それ以前に仮面と劇の人物という意味から、タイプ、性格、社会的・道徳的役割という意味への移行は、日常言語のうちで行われていた。また劇のヒーローの尊厳やユニークさのニュアンスも、この期に与えられていた。ペルソナとはこのように豊かな社会的・法的・道徳的意味を含む語として、キリスト教成立以前にラテン語のうちに確立していたのである。」178-179頁
「「沈殿」「基礎」が、「仮面」と訳されるという奇異な事態が起こったのは、既述のような歴史的経緯の中で、おのおのの語の多様な意味のひろがりの中にある「個存在」という共通項・媒介項を介してであった。ラテン語のペルソナには、徹頭徹尾社会のうちなる個人というニュアンスがあり、役割、人に与える影響、印象、尊厳といった含意がある。ヒュポスタシスには、元来そうした意味合いはまったくない。そのかわり、ヒュポスタシスにはまた、ペルソナにはまったくなかった宇宙的視野と連関とがある。ヒュポスタシスは自然学的・形而上学的な存在論のことばであり、ペルソナは劇場と法律と日常社会生活のことばである。この両者が等値されて、一つの同じ対象を指すとされるとき、その対象には複雑な交響が生じ、多様な倍音が生じる。キリスト教思想の中核となったペルソナ=ヒュポスタシスは、このようにしてきわめて豊かな概念となった。」180頁
「ここで注目すべき重要なことは、両概念に共通する一つの性格である。それは、この両者いずれにおいても、個存在性と流動性・関係性という一見矛盾した二要素が密接に共存しているということである。ヒュポスタシスは、流動きわみない、一者からの存在の流出のうちの束の間の留まりとしての純粋存在性であった。宇宙的流動と因果関連の網なしには、ヒュポスタシスは存在しえない。ペルソナはまた、劇場という演劇的場のうちの一要素であり、そこから転じて法体系のうちでの要素、社会的関係のうちで役割をもつ個人であった。
 (中略)ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナペルソナたりえない。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等値されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い。混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。」181-182頁
「それはやはりもとをただせばローマ帝国というものの広大さ、多民族・多文化の交響であったのだ。互いに異質なものをもつギリシア語圏、それもヘレニズムの小アジア、シリア・エジプトなどの文化を含みもつギリシア語圏の文化と、ラテン語圏の文化と、東方の思弁と神秘と超越に対する西方の現世と人間の現実へのたしかな眼ざし。形而上学と宗教に対する歴史と法とレトリック。その出会いがこのヒュポスタシスとペルソナの出会いであった。キリスト教思想が豊かな種子をもったとすれば、それは、多文化混淆のローマ帝国の豊かさであった。」183頁

 うーむ、なるほどだ。このあたりの話は類似のテーマを扱う論文や概説書でも読むところではあるが、いまのところ本書がいちばん丁寧に分析しているように思う。「ペルソナ」概念の整理については、今後の研究でありがたく引用させていただきたい。というか、こういう優れたまとめ研究があるにもかかわらず、今でも「ペルソナの原義は仮面です」と言って分かった気になっている概説書が多いのは如何なものか。
 ただしかし、この概念が中世ヨーロッパで欠落した(そして本書では強調されないが、ルネサンス以降に復活する)と繰り返し主張しているところは、眉に唾をつけておきたい。この西欧中世をディスる見解は、西洋中世が遅れた暗黒時代で、その時期の東方(ビザンツとイスラーム)のほうが進んでいたというブルクハルト的な歴史観に合致する。しかし近年では、こういうブルクハルト的な歴史観を乗り越えて西欧中世の知的水準を再評価しようとする動きが盛んだ。本書は「個としての個」に対する感受性をレヴィナスやバフチンなど現代の東方思想家に見出し、それに対する憧憬を隠そうとしない。私もレヴィナスやバフチンの現代的な思想が独創的で魅力的だと認めることについては同意するものの、ただしかし個人的な感想では、西洋中世に劣らず東方中世でも「ペルソナ」概念は忘れ去られていたように思うのだった。実際、本書でも東欧中世についての実証的な資料は提出されず、レヴィナスやバフチンなど現代的な人物名(あるいは近代以降のロシア文豪)が散発的に傍証として上がってくるだけだ。仮にブルクハルトの衣鉢を継いで西欧中世をディスるのは結構だとしても、だからといって返す刀で東欧(そしてあるいは日本など)を持ち上げることには慎重でありたい。
 さてともかく下準備が終わったので、いよいよ本格的にキリスト教教義論争の中身に入っていく。

「もっとも決定的だったのは、東方ではキュリルス風の一本性説が、キリストという特殊な例のうちで人間性がいわば神化されるさまを表現していると思われていたことだろう。上昇と神化への欲求は、プラトニズム的・ギリシア的東方の宗教性の根づよい憧憬であった。キリストという範型的な人間の神化は、人間全体の神化の可能性を示し、モデルを与え、道を開くものと解されていた。これは「全く人」の現実性にあくまでも執し、仲介者についてもその現実的人間性を尊いものと思い、その受苦の現実性によってこそ罪の贖いと人類全体の買い取りが可能であると考える西方の、人間主義的で法律的匂いがしないでもない見方とは、同じキリストという存在の理解の上でも大きなへだたりがあった。」244頁

 本書の立論からすれば傍証の位置に当たる文章ではあるが、ここで言及されている東方の「神化」という概念は気に留めておきたい。というのは、西欧中世でもグノーシス主義的二元論異端や、あるいはエックハルトのような神秘思想家が目指しているのが、明らかにこの「神化」だからだ。あるいは対抗宗教改革としてイグナチオ・ロヨラが打ち立てたイエズス会の修行の在り方も想起していいのかもしれない。だとすれば、この西欧中世の「神化」思想は、ビザンツからもたらされたものなのか。そしてそれはルネサンスや宗教改革以降の「個」の思想になにかしらのインパクトを与えているのか。だとしたら1453年のビザンツ帝国に伴う知識人や宗教家の流出にどれほどの意味を見出すべきなのか。こういう問題系が関わってくるところだ。

「三位一体論とキリスト論は、プラトン-アリストテレス風の、普遍を実体とし、真実在とする存在論を逆転する構図を人びとにつきつけてきたのである。その先駆はストアやネオプラトニズムにあったと思われるが、ここまで先鋭に、非妥協的に正面から対決するに至ったのは、このきわめて抽象的な存在論的差異が、実は何よりもごくふつうの人びと心情と希求の差であり、政治的党派の差でもあったからだ。存在論はここでは希み、愛し、生き、党派と体制をつくり、またそれに反抗し、利害と権力を争う人間のあり方をまるごと受肉しているのである。
 ヒュポスタシス=ペルソナというかたちでここに姿を見せてきたこのものは、まさにあの透明な、いかなる属性をも顧慮しない、神の愛・隣人愛の向うもの、その対象でもあり、またその愛を与える源泉でもある。」291-292頁
「ギリシアがものの神髄として、本質として見たものが何といっても共通的なものだったのに対し、キリスト教がもっとも尊貴なものとして、その意味での本質として見るものは、個の個たるところである。トマスがアリストテレスをうけつつ、例の鋭さで「働きは単独者のものである」と語っていたのが思い出される。キリスト教があらゆる出来事と存在の神髄として説くのは、個々の人間の心の救いであり、そのために一回一回独自の仕方で、つまりいわば単独者として働く、神の行為と愛である。その神への愛と隣人への愛である。」315頁

 ここが本書の一番の肝になる部分だ。この論証が成功しているかがどうかが、本書全体の説得力を決定する。そして、それは極めて難しい。なぜなら、これこそ普遍的なことばに変換して他者と「共約」することが不可能な部分だからだ。
 そしておそらくそのことを一番わかっているのは著者自身で、だからこそ本書全体の構成が本書のようになったのだと思う。本書の書き出しと書き終わりは、他者と共約不可能な極めて個人的なエピソードとなっている。まさに「一回一回独自の仕方で、つまりいわば単独者として働く」ような感情と行為が書き連ねられている。そういう共約不可能なものを共約しようと努力を重ねる「単独者」としての行為こそが、おそらく本書の一番の見どころなのだ。そう思ってみれば、レヴィナスやバフチンに対する偏りが表明されようが、東方に共感を寄せようが何だろうが、そんなものを論理的に難詰する必要などないわけだ。隣人としてできることは、この本書の仕事を私自身が「一回一回独自の仕方」で受け取るだけであり、それがいままさにこのような私自身の単独者としての感想として現れているということだ。不遜にもいろいろ疑問点を書き連ねてはいるが、著者をディスっているのではなく、私自身の研究を進める橋頭保とするための備忘録であることは独り言として言っておきたい。そしてこういう読書が「交流」として成立するのであれば、それに越したことはない。

「アリストテレスの場合はピュシスをひき去ってしまった基体は無性質無形の、ほとんど無にひとしい「質量」であったが、レオンチウスで姿をあらわす純粋のヒュポスタシスはまったく逆である。これはネオプラトニズムの系統をひく、むしろ非質量的な、活動的統一原理、つまり「一者」の流れをひく能動的な個的存在性そのものである。」322頁
「アウグスチヌスはまた、さきに三位一体論のところで述べたように、この「個」の問題への、まったく独特のアプローチを西欧に与えた。それは、外界、自己の肉体などのすべてがそこから証明されてくる「心(cor)」という場の探求であった。自己の心の奥深くへ沈潜することが、すべての自己の意識、記憶、思考、意志、感覚を統合する一なるもの、あのプロチヌスのはるかな「一者」につらなる真我の体験に至ることを、アウグスチヌスは私たちに具体的にかいま見させてくれた。彼は東方でレオンチウスたちがうちたてた、人を統合し、またはキリストという存在を統合するペルソナ=ヒュポスタシスの存在論を、いわば内面から、内的体験として証明してみせてくれたのである。」329-330頁
「このようなことはすべて、受肉のロゴスのヒュポスタシスについて言われることである。この個こそが、もっとも範型的な個、個の内の個であることは明らかだろう。この強烈な凝集力、無限の包容力、無限の多様性は、あらゆるヒュポスタシス-ペルソナの範型であり、キリスト存在の類比者として語られる人間存在にも弱められたかたちで似姿的に存在するわけである。それゆえ、人間の心と身体を集めるヒュポスタシス=ペルソナも、同様に「統合されたヒュポスタシス」と呼ばれる。」341-342頁

 ここは丁寧に論証を求めたいところだが、やはりこういうふうにしか書けないことを認識させられたところだ。私個人の関心は「人間の人格」にあるわけだが、それはやはり神の「類比者」とか「似姿」という形でしか表現できないものだった。ともかく、私自身はとてもではないがここまでの論証はできないので、巨人の肩に乗せていただくような気持ちで、ありがたく引用させていただく。

「ハルナックはまったく正しくも、この概念の中にすでに「自然と区別された〈人格(Personlichkeit)〉という近代的概念が、もとより影のようにではあるが、姿を現わしている」と書く。ただし、私はこれが近代の人格概念の影であるというよりは、むしろアウグスチヌスーデカルトという線を辿ってひたすら意識的内省へとその場を移していった近代の人格概念の方が、もとのヒュポスタシスにあった存在の意味を見失っているのではないかと思う。」347頁
「この思想の中心であるヒュポスタシス=ペルソナは、知、情、意、身体的なもの心的なもの、すべてをひとしなみに集め、かけがえない個として形づくるものである。しかもそれは、それら多なる要素を束ね、集め、覆い、あるいは生み出す純粋な働きであり、他のそのような純粋な働きたちと、根において連なり、交流している純粋存在である。
 そのモデル、範型は、もとより神の性質をも人の性質をも、これほど相容れないものどもを、集め、束ね、一つにしている受肉した神の第二の位格、キリストである。彼はまた、神としても、三位の交流関係によってはじめて存在する、関係者にして存在者、とでも言うべきものである。存在が関係においてはじめて成り立つことのモデルでもある。」353頁
「東方でスコラ的に精錬されたヒュポスタシス=ペルソナ思想の概括を、ペルソナの定義というかたちで西方中世に伝えたのは彼(ボエティウス)であった。しかしその「功績」には多少の疑義もある。彼の定義「理性的本性の個的実体」は、アウグスチヌスが賢明にも注意深く避けた実体(substance)という語を、ペルソナの定義の中心にふたたび導入してしまった。そのことによって、個なるペルソナの中核は、ネオプラトニズム系・セム系の動性を失って、アリストテレス風の静的に閉じた個になりはしなかったか?」356頁
「キリスト論は古代に現われた種々な存在論を、ほとんど不可能な仕方で一つに結び合わせる。それは、キリストという存在が、もともと不可能な存在だったからである。全く人・全く神。つまり人としては私と種的に同一なもの。しかし個なる私にとっては他者。神としては私と絶対に異であり他であるもの。しかも創造者として種的にも個としても、私の存在の根源であり、私を包み、あらしめているもの。私にとって絶対に他であり私と非連続であり、しかも私とある意味で絶対に同一なもの。物質的・人間的存在であり非物質的・非人間的な神存在。――それはこの世界と絶対者が一つに結合する場所であり、絶対者が自らを世界のために失うところであり、逆に世界が自らを失って絶対者に参与するところでもある。しかもまた、両者が自己を失わずに差異と区別を保ちつづける場とも考えなければならない。」364-365頁

 畳みかけるような論述で、圧倒される。ナルホドと頷くしかない。世間には「キリスト教は一神教だから個の概念を生んだ」などという粗雑でいい加減な思い付きで分かったようなことを言う文学者もいたりするわけだが、つまらないことこの上ないので、こういうクザーヌス的な「対立物の一致」くらいの技は見せてもらいたいところだ。

坂口ふみ『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』岩波現代文庫、2023年<1996年

【要約と感想】深井智朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで』

【感想書き直し2022/2/12】実は著者が論文の「捏造」をしていたことが、読後に分かった。捏造していたのは他の本ではあるが、本書が捏造から免れていると考える根拠もない。信用できない。読後の感想で、「論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている」と書いたが、それがまさに研究にとって極めて危うい姿勢だということがしみじみと分かった。今後、本書から何か引用したり参考にしたりすることは控えることにする。

【要約】一口にプロテスタンティズムといっても内実は多様で、ルターに関する教科書的理解にも誤解が極めて多いのですが、おおまかに2種類に分けると全体像が見えやすくなります。ひとつは中世の制度や考え方を引き継いで近代保守主義に連なる「古プロテスタンティズム」(現代ではドイツが代表的)で、もうひとつはウェーバーやトレルチが注目したように近代的自由主義のエートスを準備する「新プロテスタンティズム」(現代ではアメリカが代表的)です。前者は中世的な教会制度(一領域に一つ)を温存しましたが、後者は自由競争的に教会の運営をしています。

【感想】いわゆる教科書的な「ルターの宗教改革」の開始からちょうど500年後に出版されていてオシャレなのだが、本書によれば「1517年のルター宗教改革開始」は学問的には極めて怪しい事案なのであった。ご多分に漏れず、ドイツ国家成立に伴うナショナリズムの高揚のために発掘されて政治的に利用された、というところらしい。なるほど音楽の領域におけるバッハの発掘と利用に同じだ。そんなわけで、でっちあげとまでは言わないが、極めて意図的な政治的利用を経て都合良く神話化されたことは、よく分かった。
 古プロテスタンティズム=ドイツ保守主義、新プロテスタンティズム=アメリカ自由主義という区分けも、やや図式的かとは思いつつ、非常に分かりやすかった。ウェーバーを読むときも、この区分けの仕方を知っているだけでずいぶん交通整理できそうに思った。
 全体的に論点が明確で、情報が整理されていて、とても読みやすかった。が、分かりやすすぎて、逆にしっかり眉に唾をつけておく必要があるのかもしれない。(もちろん著者を疑っているのではなく、自分自身の姿勢として)。

【研究のための備忘録】中世の教会の状態と印刷術
 そんなわけで新書ということもあって、論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている。ありがたい。
 まず、宗教改革以前(というか「印刷術」以前)の教会の状態を簡潔に説明してくれている本は、実は意外にあまりない。

「また人々は、教会で聖書やキリスト教の教えについての解き明かしを受けていたわけではない。たしかに礼拝に出かけたが、そこでの儀式は、すでに述べた通りラテン語で執り行われていた。一般の人々には何が行われているのかわからない。もちろん人々の手に高価な聖書があるわけではない。仮にあったとしても、聖書はラテン語で書かれているので理解できなかった。」p.28

 こういう印刷術前の状況は、「教育」を考える上でも極めて重要だ。たとえば印刷されたテキストそのものが存在しない場合、今日と比較して「朗読」とか「暗誦」という営み、あるいは「声」というメディアの重要性が格段に上がっていく。そういう状況をどれくらいリアルに思い描くことができるか。
 で、現代我々がイメージする「教育」は、「文字」というメディアが決定的に重要な意味を持ったことを背景に成立している。もちろん印刷術の発明が背景にある。ルターの見解が急速に広がったのも、印刷術の効果だ。

「ルターの提言は、当時としては異例の早さでドイツ中に広まった。(中略)この当時は、版権があったわけではないから、ヨーロッパ各地で影響力を持つようになっていた印刷所や印刷職人が大変な勢いで提題の複製を開始した。」p.45
「いわゆる宗教改革と呼ばれた運動が、すでに述べた通り出版・印刷革命によって支えられていたことはよく知られている。ルターはその印刷技術による被害者であるとともに受益者でもある。」p.49

 これに伴って「聖書」の扱いが大きな問題になる。

「一五二〇年にルターはさまざまな文章でローマの教皇座を批判しているが、その根拠となったのは聖書である。(中略)しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖につながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。
 この問題を解決したのは、一つはグーテンベルクの印刷機である。写本ゆえに高価であった聖書が印刷によって比較的廉価なものとなったからだ。しかしなんと言っても重要なのはルターがのちに行う聖書のドイツ語訳である。(中略)これは画期的なことであった。聖書を一般人も読めるのである。文字が読めなくても朗読してもらえば理解できる。」pp.58-59

 本書では「近代」のメルクマールを人権概念や寛容の精神に求めていて、もちろんまったく問題ないが、一方でメディア論的にはそういう法学・政治学的概念にはまったく関心を示さず、印刷術の発明による「知の流通量増加」が近代化を促した決定的な要因だと理解している。「教育」においても、印刷されて同一性を完璧に担保されたテキストが大量に流通したことの意味は、極めて大きい。

【研究のための備忘録】フスとの関係
 ルターの主張と宗教改革の先輩ボヘミアのヤン・フスの主張との類似性は明らかだと思うが、教育思想史的にはコメニウスとの関係が気になるところだ。フス派だったコメニウスにはどの程度ルター(あるいはプロテスタンティズム)の影響があるのか。本書で説明される「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」の説明を踏まえると、コメニウスの主張にも反映していないわけがないようにも思える。(先行研究では、薔薇十字など神秘主義的な汎知学との親和性が強調されているし、そうなのだろう。)

「エックは、ルターがフスの考えを一部でも支持して、フスは正しかったと言ってくれれば、それでこの二人は同罪だと指摘すべく準備していたのだ。エックは事前にルターの考えを精査し、ルターとフスの考えの類似性を感じ取っており、また内容それ自体で勝負しようとしているルターを陥れるとしたら、この点だと確信していたのである。」p.54

【研究のための備忘録】中世と近代
 で、歴史学的な問題は「中世と近代の境界線」だ。はたして「宗教改革」は中世を終わらせて近代を開始したのか。本書は懐疑的だ。

「トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。」p.107
「近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。」pp.108-109

 ということで、本書は中世の終わりをさらに後の時代に設定している。それ自体は筋が通っていて、なるほどと思う。とはいえ、メディア論的に印刷術の発明をメルクマールに設定すると、いわゆる「宗教改革」は派生的な出来事として「知の爆発的増加」の波に呑み込まれることになる。このあたりは、エラスムス等人文主義者の影響を加味して具体的に考えなければいけないところだ。

【研究のための備忘録】市場主義と学校
 教会の市場化・自由化・民営化を、学校システムと絡めて論じているところが興味深かった。

「「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教史上の独占状態を前提としているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提としているという点である。」p.112
「それ(古プロテスタンティズム:引用者)はたとえて言うならば、公立小学校の学校区と似ているかもしれない。」p.113
「その点で新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけではなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。」p.117

 現代日本(あるいは世界全体)は、いままさに学校の市場化・自由化・民営化に向けて舵を切っているが、コミュニティ主義からの根強い反対も続いている。なるほど、これはかつて教会の市場化・自由化・民営化のときにも発生していた事態であった。つまり、教会改革の帰結を見れば、学校改革の帰結もある程度予想できるということでもある。

【研究のための備忘録】一と多
 本書の本筋とは関係ないが、「一と多」に関する興味深い言葉があったのでメモしておく。

トレルチ講演原稿の結び「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」p.208

 カトリックの思想家ジャック・マリタンの発言との異同を考えたくなる。

【要約と感想】『エックハルト説教集』

【要約】神は否定の否定であるところの一なるものであり、魂もまた同じです。一なるものの内には、神もわたしもなく、私は神であり、神はわたしです。「神」のない最内奥の光こそ、この世界のすべてを超えた浄福です。

【感想】エックハルト「獣を超え、人を超え、そして神になる。」
信徒「おお、言葉の意味は分からんが、とにかくすごい自信だ!」

【今後の研究のための備忘録】新プラトン主義
 言っている内容の大半は、ほぼ新プラトン主義の主張を素直に繰り返しているだけのように見える。具体的には「一なるもの」に対する強烈な信仰と、それに基づく自己言及的な流出論である。プロティノスやプロクロスを直接参照しているというよりも、アウグスティヌスおよび偽ディオニュシオス・アレオパギテースからの影響なのだろうけれども、プラトンという固有名詞にも直接言及している箇所がある。

「ところで、大いなる事物について語るのを好む偉大なる師プラトンは、この世にはない純粋性について語っている。それはこの世の内にも外にも存在せず、それは時間の内にも、永遠の内にもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深遠とを現し出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。「われ(ego)」という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。「汝ら(vos)」という言葉は、「一性の内で汝らは一である」という意味である。「われ」と「汝ら」、この言葉は一性を指し示している。」p.136

 言っている内容は完全に新プラトン主義の主張そのままではあるが、エックハルトの固有性という観点から興味深いのは、「われ(ego)」および「汝ら(vos)」に対する言及だ。真に主語になることができるのは「神」のみという理屈は古代哲学にも見られるものの、二人称複数型である「汝ら」を一性のうちに捉えるのはユニークな見解と思っていいのか、あるいはこれにも先行例があるのか。そしてこの場合の「汝ら」の具体的な中身は、キリストも共有した「人性=人間の本質」ということになる。「人性」は一つであって、それは私も持ち、あなたも持ち、あるいはその他の誰も彼もが持ち、キリストも持つという、人間すべてに共有のものだ。人間すべてに共有する本質だから、「汝ら」というふうに二人称複数型になる。問題は、この「人性=人間の本質」の共有というアイデアを突きつめていったとき、さて、「人間の平等」を前提に成り立つ近代人権思想に行きつくのかどうか、というところだ。

【今後の研究のための備忘録】神を超える人間中心主義の萌芽
 エックハルトが死後に異端宣告を受けたことは解説でも触れているところで、中身を読んでみると、確かに異端宣告を受けるだろうという、大胆不敵な理屈が並んでいる。なかでも、神がいらないとか、神を超えるという理屈は、かなり強烈だ。

「もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、「神」もまたなかったであろう。神が「神」であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は「神」でなかったであろう。」p.173

 このようなまさに神をも畏れぬ物言いは、「わたし」というものの特権性に対する洞察に由来するように読める。「人性=人間の本質」は他人(あるいはキリスト)と共有できるが、「わたしであること」は共有できない。

「わたしがひとりの人間であるということ、そのことは他の人間もまた同様であり、わたしが見たり聞いたり、食べたり飲んだりすること、これもまた動物でもなすことである。しかしわたしであること、このことはわたし以外のだれにも属すことはない。どんな人にも、天使にも、わたしが神と一である場合以外には、神にもこのことは属すことはないのである。それはひとつの純粋さでありひとつの一性である。」p.134

 おそらくエックハルトが「魂」と呼ぶものと「神」との類似性も、この共約不可能な「わたしの特権性・唯一性」に由来する。エックハルトは、「わたし」というものが、他の何ものによっても代替の効かない世界で唯一の何かであるということに対して、強烈な霊感、それこそ「神」の拠って立つところを見ている。この「わたしがわたしである」ことの<唯一性・特権性>(そしてこれが「魂」と呼ばれている何かの根底)が「神が神である」ことの<唯一性・特権性>と同じだということを、エックハルトは繰り返し繰り返し強調する。勢い余って、「わたしがわたしである」という悟りに到った場合、もはや神は必要ないというようなことを言い始める。それはカトリックの論理から言えば、明らかに被造物である分を超えた畏れ多い主張で、異端とされるのも仕方あるまい。が、神を不必要とするエックハルトの異端的見解は、近代人権思想の根底にある「人間の尊厳」(神がいなくても世界が成り立つための根拠)まで、もう一歩のところまで来ているのではないか。

「神が魂の単一なる光(知性)の内で働くただひとつのわざは、全世界よりもすばらしいものであり、神がこれまでにあらゆる被造物の内で働いたすべてのことよりも神の気に入っているものなのである。」p.152

 この魂の働きは、人類に共通の二人称複数である「人性」に基づく。だとすれば、エックハルトが「全世界よりも素晴らしい」と褒め称えているものは、端的には「人間の本質」だということになる。「人間の本質が全世界よりも素晴らしい」という見解は、古代哲学には見当たらない。古代哲学において人間とは、神の前では吹けば飛ぶ塵の如き取るに足らないものにすぎず、だからこそ謙虚になるための教説(ストア派など)が意味を持った。しかしエックハルトは、人間の本質が「全世界よりも素晴らしい」と言う。この新しい感覚は、キリスト教を背景として生じたと考えるべきなのか、あるいはエックハルトの生きた中世の社会経済的な背景が決定的な要因とみるべきところか、あるいはエックハルトだけオカシイのか。しかしこれが近代に入ってからはより広い範囲で聞かれる見解になることも、確かなのだ。果たして、神を必要としなくなった近代の「人間中心主義」に、エックハルトはどの程度踏み込んでいるのか。

【今後の研究のための備忘録】否定神学
 ちなみに否定神学に関する公式見解に満ちあふれている本だった。否定神学とは何かを説明する羽目に陥ったときは、ここから引用しよう。

「ある師は、一とは否定の否定であると語る。わたしが、神は善なるものであると言えば、それは神に何かを付け加えることになる。これに対して、一は否定の否定であり、否認の否認である。「一」とは何を意味するものであろうか。一とは何ものもそれに付け加えられないようなものを意味するのである。魂は、何も付け加えられていない、また何も考え足されていない、それ自身の内で純化されている、神性をつかむのである。一とは否定の否定である。すべての被造物はみずからに否定をたずさえている。つまりある被造物であることは別の被造物であることを否定するのである。ある天使は、別の天使であることを否定する。神はしかしながら、否定の否定である。神は一であり他の一切のものを否定する。なぜならば神の外には何もないからである。一切の被造物は神の内にあり、そして神の固有の神性である。これがわたしがさきに豊かさといった意味である。神は全神性の一なる父である。わたしが一なる神性というのは、そこではいまだ何ものも流れ出さず、何ものも触れず、思惟されることもないからである。わたしが神の何かを否認するとすればそのことにおいて――たとえばわたしが神の善を否認するならば、本当はもちろんわたしは神のいかなるものも否認することはできないのだが――つまり、わたしが神の何かを否認すれば、そのことにおいて、わたしは神ではない何かをつかむこととなるのである。ところでまさにこのなにかが捨て去られねばならないのである。神は一であり、神は否定の否定なのである。」pp.106-108

【今後の研究のための備忘録】同一性と差異性
 フランス現代思想が、近代の哲学を「同一性の哲学」と批判し、意図的に「差異性」の論理を前面に打ち出したことはよく知られているが、エックハルトもそれを彷彿とさせる一文を遺している。

「区別性は一性に由来する。この区別性とは三位一体における区別性である。一性は区別性である。そして区別性は一性である。区別性が大きければ大きいほど、一性もますます大きくなる。というのもこれはまさに区別なき区別性だからである。もしもそこに千の位格があるとしても、そこにあるのは一性の他の何ものでもないであろう。」p.74

 要点は、「区別」と「区別性」の意味の違いにあるのだろう。「区別」とは端的に区別だが、「区別性」とは「区別の本質」のことだ。「区別」と「区別の本質」では、意味がまったく異なる。エックハルトが「一は区別である」と言ってるわけではなく、「一性は区別性である」と言っていることには注意する必要がある。「一の本質」が「区別の本質」と同じだと言っているわけだ。だから仮に感覚的に「区別」のようなものを認めたとしても、それが本質的に「区別」であるとは限らない。「一」か「区別」かを決めるのは、感覚ではないからだ。たとえばいま目の前にある「眼鏡」を「一」とするかどうかは、感覚で決めることではない。というのは、いま目の前にあるのは「一つの眼鏡」ではなく「2つのレンズ」かもしれないからだ。実際に英語では「glasses」と、複数形で理解している。英語話者は目の前にあるものを「2つ」と認識しているのだ。だとすれば、目の前にあるこれは、「一つの眼鏡」なのか「二つのレンズ」なのか。もうそれは感覚で決めることではない。エックハルトが言う「三位一体における区別性」とは、そういう事態を解釈しようとするときに生じる言葉だ。何かが「一」であるかないかを決めるのは、感覚ではなく、「一性」および「区別性」という<本質>であり、それを見極めることこそ「知性」の役割なのだ。
 で、古代からの西洋哲学は確かに「同一性」を土台にして議論を進めて成果を挙げてきた。しかしエックハルトが言うように「一性は区別性」であるのなら、「区別性」を根拠にして議論を展開したらどうなるか。そしてそれは東洋的なセンスが伝統的に表現してきたことなのかもしれないし、「無」とか「空」とか「非連続」とかの哲学が言いたいことなのかもしれない。

『エックハルト説教集』田島照久編訳、岩波文庫1990年

【要約と感想】ボエティウス『哲学の慰め』

【要約】著者ボエティウスは、無実の罪を着せられて処刑されることとなり、牢屋の中でこの世の不条理に絶望しています。そこに「哲学」が現れて、世界は神の摂理で成り立っていることを教え、彼は不幸どころではなく、本当は至福であることを諭そうとします。死を目前に控えながら、「本当の幸福」とは何かに目を開いていきます。

【感想】もうすぐ処刑されて命を落とすことが確実な人間が「論理的に考えれば私は幸福だ」という内容を淡々と書き連ねている本で、そういう状況を思い浮かべると、類書が見当たらないものすごい迫力の本なのだった。同じような前例としてソクラテスという偉大な人物の処刑死もあるにはあるものの、ソクラテス刑死の様子を描いた『パイドン』は長生きするプラトンの手になる書物であって、実際に処刑される当の本人が死を目前にしながら書いている本書とは当事者具合がまるで異なる。本書が内容的に区切りの良くないところでプッツリ終わっているのも、ああ、ここまで書いたところで連行されて処刑されたんだなと、実に生々しいのであった。

 内容としては、『パイドン』の他にもプラトンの影響を顕著に感じる。善人が苦しむ一方で悪人が栄華を誇るのは何故かというテーマは、『国家』序盤で扱われているものだ。またさらに「一」に対する信仰は、プロティノス等新プラトン主義の影響が色濃いように読める。自由意志と決定論に関する問題については、両方が両立すると主張するのはストア派的か懐疑主義的か。いちおうアウグスティヌスもそういう立場ではあるが。ともかく全体的には、あまりキリスト教的には読めないような印象を受ける。
 まあそういう観点からすればオリジナリティや独創性というものを感じることはないのだが、本が書かれた状況が状況だけに、むしろ実践的な説得力の高さは半端ないのだった。死に臨んだ著者の生き様そのものを含みこむ形で、本書特有の迫力が立ち上がってくる。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関する記述サンプルをたくさん得た。まあ、内容そのものは新プラトン主義が到達した地点を越えてくることはないのだが、古代思想の到達点を端的に示しているという点で参照する意味があるように思う。

「だが、理由は極めて明白だ。すなはち、その本性上単一的で不可分的なものを人間が誤つて分割し、かくて、真実なもの・完全なものを、偽なもの・不完全なものに変へてしまふのだ。」p.113
「では、その本性上一にして単一なるものが、人間の斜視に依つて、部分に分けられてゐるのだ。そして人間は、もともと部分のないものについて部分を得ようと努力してゐるのであつてみれば、全然存在しないその部分は得られる筈もないし、全く得ようと力めないところのその全体も亦得られる筈がないのである。」p.115

「多くの人々に依つて追求される諸物が真の完全な善でない所以は、それらのものが相互に異つてゐるからであるといふこと、つまりそれらの各々は、互に他のものを欠くが故に充実した・完全な善を与へることが出来ないのだといふことを。更にまたこれらが、いはば一形相・一作用にまで結合される時、例へば満足が同時に勢力であり、尊敬であり、名誉であり、愉快である時には真の善となるが、之に反して、これらすべてがにして同一物でないやうでは、それらは願はしいものの中に数へ入れられる所以の何者をも持たぬといふことを。」p.131
「では、分離しては決して善でない諸物が、たり始めると善になるのだ。それならこれらはたることの獲得に依つて善となるわけではなからうか。」p.131
「それではお前は同様に、たること(unum)と善とは同一であるといふことをも認めなくてはならない。本性上同じ結果をもたらすものは、同じ実体を持つわけだから。」p.132

「存在する一切は、たる限りに於て存続し・持続するが、ひとたびたるを失ふや滅亡し・崩壊するといふことを知つてゐるか。」
「どうして?」
「それは諸生物に就いて考へて見るとわかる、」と彼女は言つた、「すなはち魂と身体とがに結合しそしてたるに留まる限り、それは生物と名づけられる。だが、両部の分離に依つてこのたることが崩壊するや、それは明かに滅亡し、もはや生物でなくなつてしまふ。身体そのものもまた、それが各部分の結合に依つての形相を保持する限り人間の外形を呈してゐるが、しかし、身体の各部分が分裂し・離散してそのたることが壊されるや、今まであつたところのものは無くなつてしまう。これと同様に、その外の諸物をひとわたり観察してみるに、如何なる事物も、それがたる間は存続したるをやめると滅びるといふことが疑ひもなく明白になるのであらう。」pp.132-133

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」p.135
「一切のものはたるを欲する」
「然るに、我々の示したところに依ればそのものが善である。」
「それでは、一切の事物は善を求める。」p.136

 プラトンやプロティノスが抽象的に表現していた思想内容が、本書だとかなり具体的な記述に落とし込まれて分かりやすくなっているような気がする。中世末までよく読まれていたというのも、なんとなく分かる気がする。

【要検討事項】カトリック教義との関連
 中身はキリスト教っぽくないと思ったのだが、しかしボエティウス(480-525)の生きた時代が、西ローマ帝国滅亡(西暦476年)直後のゲルマン人東ゴート族支配の時期で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と国家的にも教会的にも対抗していたことを考え合わせると、当然なのかもしれない。なにしろ、公会議が立て続けに行われた時期で、三位一体やイエスの神性に対する教義そのものが定まっていない。ちなみにフランク人メロビング朝のクローヴィスがカトリックに改宗したのが西暦508年で、カロリング朝カール戴冠が西暦800年。西ローマ教会(カトリック)は、完全にゲルマン人に乗り換えると割り切るまでは、やはり東ローマ(ビザンツ)教会との協調関係を模索せざるを得ない。西ローマ教会と東ローマ教会が教義の面で対立していた段階では、東ゴートとしては西ローマ教会と協力する意義が大いにある。ボエティウスもラヴェンナの東ゴート宮廷で重きをなしていだだろう。しかし西ローマ教会が東ローマ教会に接近すると、東ゴートとしては西ローマ教会を疑いの目で見ざるを得なくなる。ローマ貴族の末裔であったボエティウスの身柄も危なくなる。で、現在私たちがカトリックの教義と思っているもの(三位一体やキリストの神性)は、度重なる公会議の過程で、東ローマ教会に馴染みやすい教義(ネストリウス派、キリスト単性説)と対決しながら鍛え上げられてきたものだ。で、西ローマ教会が東ローマ教会と仲が良かったということは、逆に言えば今わたしたちがカトリックの真正教義と思っているものがないがしろにされていたということでもある。そして、西ローマ教会がネストリウス派や単性説を批判してカトリック特有の理論を打ち出すと、今度は東ローマ帝国との仲が険悪になる。で、ボエティウスが東ゴートに睨まれたということは、西ローマ教会と東ローマ教会が仲が良くなったということで、つまり教義的にはカトリック特有の考えがないがしろにされるということになり、『哲学の慰め』にカトリックの匂いがしないことにも説明がつく。さて、はたして。

ボエティウス『哲学の慰め』畠中尚志訳、岩波文庫、1938年

【要約と感想】富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』

【要約】アウグスティヌスは、近代的な意味での「個」の思想が生まれた出発点です。人は、伝統的な共同体から切り離されたとき、はじめて「私とは何か?」という問いに直面します。そしてアウグスティヌスが活躍したローマ帝政末期とは、まさにそういう時代でした。アウグスティヌスはその問いに対して誠実に真正面から取り組む過程で、神と対面することになりました。それは鏡を通して自分の見慣れない不気味な顔と対面するような奇妙で居心地の悪い体験でありつつ、告白の言葉が自分に折り重ねられて内側に向かい、向かい合わせの鏡に映る顔のように何重にも畳み込まれて重層化します。そして「告白」というものが愛する人に対して行なう行為であるように、「私とは何か?」を問う相手は「愛している者」です。だから誰を愛しているかさえ分かれば答えは分かったも同然かと思いきや、「愛する者」と「私」が合わせ鏡にように無限の問いを生み出して、結局「私とは何か?」という問いに答えが出ることはありません。それが近代的な「個」というものの有り様でしょう。

【感想】アウグスティヌスの概説書ではない。アウグスティヌスを題材として切り口に使っているところまでは間違いないが、言っている内容は徹底的に著者本人の興味関心に即している。アウグスティヌスについて情報を仕入れようと思って本書を繙いた人はおそらくガッカリすることだろう。
 が、個人的には非常におもしろく読んだ。というのは、「一」の思想について示唆に富んでいる本だったからだ。そして「一」とは「無限」であり「特異点」でもあることを改めて確認したのであった。「一」を「一」たらしめるためには何らかの「特異点」が絶対に必要になるのだが、その「特異点」が論理必然的であることは「一」そのものからは証明することができず、論理は「無限」のトートロジーに陥るしかない。そしてそれは合わせ鏡に映る景色のようなもので、論理的に無限であることは分かりつつも、有限な人間の身においては無限を見通すことなどできず、実際に認識できるものは有限回のうちに留まる。その認識が有限回で行き着く限界のそのまた先にあるだろうものがいわゆる「神」というもので、理論的には絶対にあるはずなのに、人間の感覚では捉えることが不可能という。しかしまあ、いわゆる「神」と呼ばれている何かが合わせ鏡に映った像の向こう側にある何かであり、そしていわゆる「私」と呼ばれるべきものが合わせ鏡に映った像を認識している何かだとしても、合わせ鏡の中にいる「それ」が何なのかは結局は分からないのであった。いやはや、合わせ鏡の思考実験と比喩はなかなか優秀なように思う。自分でも使っていこう。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 「一」に関する表現サンプルを得た。ありそうでいて、なかなか多くないので、貴重だ。

「そもそも「一」であること、何であれ、およそ何かが「一つ」であるとはどういうことなのか。そういうふうに考えてみると、キリスト教の教理がどうのといったこととは関係なく、問題はあまりにも身近でありふれているとともに、とても不思議な様相を呈してくる。「一つ」であるということは、自明であるどころか、捉えどころのないものに思えてくる。」p.35
「私というものもまた、そのようなありかたをしている。私の一つの身体には、たとえば二本の腕があり、そこにはそれぞれ五本の指があり、ずっととんで細胞レベルまで行けば、身体全体でおよそ60兆もの細胞があるらしく、その各々がまたそれぞれに多を含む。心のなかにはいつもさまざまな思いが去来し、その思いの一つ一つがまた、さらに微細な感情や思い出や期待や欲望を秘めている。一人の私、一つの心とは言っても、それはとりとめようもないほど多くの多からなっており、にもかかわらず、一人のこの私である。」pp.35-36

 まあ、プラトン『国家』やアリストテレス『形而上学』から問題となっていることで、哲学の本丸ではある。が、実はこの本丸にダイレクトに突っ込んでいくような論述は、あまり多くないように思っていたりする。

 また、「告白」に関する言質も得た。ちなみに個人的には、「告白」に関する論述というと、直ちにフーコー『性の歴史Ⅰ』とか柄谷行人『日本近代文学の起源』を想起するところではある。

「考えてみれば、私たちがふつう「告白」と言えば、罪の告白のこともあるかもしれないが、まず素朴に思い浮かんでくるtのは恋や愛の告白だろう。まして「告白」という言葉が賛美の意味を同時に含みもつとすれば、まさに愛の告白こそがそれにふさわしい。そう言えば、罪の告白もまた、刑事や判事といった人たちにではなく、まずは愛する者に対して行なわれるものなのかもしれない。見ず知らずの、信じてよいのかどうかも分からない人たちにではなく、私が信じ、私を信じてくれている人に対してこそ、告白はもっとも切実で偽りのない告白であるだろう。私が信じている人とは、私が愛している人であり、その人が私を愛してくれていると思うからこそ、その人を信じ、その人の言葉を信じてみることができる。私が私について知るために鏡として引き受ける言葉とは、誰の言葉であってもいいわけではない。それはほかでもない、私が愛し、私を愛してくれる人の言葉である。私が私にとって謎となったとき、私が私を問いかけるその相手は、愛する人である。」pp111-112

 先に内面があって後に告白という行為があるのではなく、先に告白という形式的な行為があって後に内面が作られるという、フーコー=柄谷図式とはどう響き合うか。内面があって愛が生まれるのではなく、愛があって後に内面が生じるということかどうか。

富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』NHK出版、2003年