「世界史」タグアーカイブ

【要約と感想】橋場弦『古代ギリシアの民主政』

【要約】紀元前5世紀以降にアテネを中心として東地中海に広がった民主政は、かつてはローマ帝国による支配後(2世紀半ば)に衰退したと思われていましたが、碑文調査など最新の実証研究によってその後に成熟していたことが分かりました。本書では民主政の要件として(1)広範囲の参政権(2)一人一票の原則(3)最高意思決定機関としての民会(4)役人抽選制(5)市民裁判権を挙げ、アテネを中心に民主政の実態を解説します。アテネの民主政を支えたのは、地域共同体レベルで民主政の精神と制度が根付き、人々が考え方と運用に習熟していたからです。プラトンやアリストテレスなどの権威的著作者による「衆愚政」とのレッテル張りによって現代知識人の間でも民主政に対する固定観念は根強いのですが、古代民主政とは思想として理論化されたり著述されたりするものではなく、実際に生きるものであり、一つの共同体をみんなで平等にわかちあうものです。

【感想】30年以上前に世界史で習った知識とはずいぶん異なっていて、教養は定期的にアップデートしておくべきだ、と改めて実感したのであった。陶片追放やソクラテス裁判の意味など、勉強になった。
 プラトンやアリストテレスは知的エリートとして、クセノフォンは軍人エリートとして、それぞれ民主政に対して批判的な姿勢を示している。キレッキレの君主が統治すれば下々の者は幸せになれる的思考は、いくら田中芳樹が批判しようが、根強く人々を捉えている。ただソクラテスに関しては、確かに「人々を導く教育」に関しては衆愚観を隠さないものの、それは一般の人々をコケにしようというよりはソフィストたちを批判する際の視点であって、政治の場面では民主政を遵守していたし、実際に国法には最後まで従った。本書は「有罪票を投じたアテナイ市民の立場に立てば、この判決はけっして不条理なものとは言えない」(168頁)と言うが、それはない。「〇〇の立場に立てば、不条理ではない」というのは、形式論理的に当たり前の話で、陰謀論だってなんだって正当化できてしまう。何も言っていないに等しい。たとえば「プラトンの立場に立てば、民主政を批判するのは不条理ではない」となる。お師匠さんを殺されたわけだから。
 ソクラテス裁判の判決は、民主政にあっても間違いなく不条理だった。民主政だって無謬ではない。ただし民主政以外の政体だったとしたら、ソクラテスは100回くらい有罪になっていただろう。僭主に奴隷に売られてしまったプラトンを見よ。ソクラテス裁判を不条理だと認めたからと言って、民主政を排除するという話にはならない。我々がどんなに愚かだろうと、実際愚かなのだが、民主政を成熟させていくしかない。民主政の良いところは、科学の手続きと同じく、「かつての過ちを認められる」ところにあると思う。「無謬」を主張する者ほど信用ならない。

橋場弦『古代ギリシアの民主政』岩波新書、2022年

【要約と感想】井上文則『軍と兵士のローマ帝国』

【要約】ローマ帝国はローマ軍でもっていたと言っても過言ではありません。ローマ共和政は紀元前2世紀半ばに属州を得てから統治の在り方が大きく変化し、軍では従来のアマチュア的な市民軍からプロの職業軍人へと変わります。アウグストゥス帝に至って給料制の常備軍となりますが、経済的背景にはシルクロード貿易を通じた関税収入があります。しかし2世紀の大規模な疫病と対外戦争を経て、機動軍の創設や能力主義的な人材抜擢など軍の在り方が大きく変わり、属州出身者も軍で出世するようになって、軍の実力を後ろ盾とした軍人皇帝が続出します。属州防衛のために東西を分担して統治するようになりますが、本格的にゲルマン移動が始まると、経済圏が崩壊して西ローマ軍の質と量が劣化し、軍にも異民族を大規模に取り入れるようになります。最後は異民族に滅ぼされます。

【感想】ユーラシア大陸全体の動向を視野に入れて分析し、シルクロードの交易による収入がローマ帝国草創期の常備軍を支えたと主張するのは、なるほど、説得力を感じる。アンティオキアやアレキサンドリアの地政学的な重要性がとてもよく分かる。

 一方気になるのは、ピレンヌテーゼではゲルマン民族移動などたいしたことなかったとみなしているのに対して、本書は教科書通りゲルマン民族移動をローマ帝国衰亡の原因として当然視しているところだ。異民族の侵入に対して属州の人々が反抗しなかった理由として、本書は軍隊の駐留形式(民家に分泊)を挙げているけれども、ピレンヌだったら「そもそも大したことがなかったし、異民族の方がローマ文明に同化した」と言うところだろう。
 ピレンヌの主張の肝は、仮にローマ皇帝が廃位されて政権が変わったとしても、文化的には旧来のローマ的生活を問題なく引き継いでいるというところだ。そういう観点からは、一般市民から切り離された軍隊がどれだけ変化あるいは衰亡しようと、一般市民のローマ的生活には何の影響も与えないということになる。確かに476年に政権としての西ローマ(および軍)は滅びたかもしれないが、ローマ的生活が終了するのは6世紀にイスラム勢力がシリアとエジプトを抑えて西地中海の交易システムが崩壊した時だ。アレクサンドリアから地中海を通じてもたらされる物品が途絶えると、古代ローマ的生活は崩壊する。
 そういう観点からは、本書もシリアとエジプト(あるいはヘレニズム世界)の地政学的な意義を極めて大きく見積もっているところは印象的だ。従来の通説的な見方では、世界の境界としてユーフラテス川が自明視されていたが、それは「ローマ帝国」を実態視する故の錯誤に過ぎず、本質的な境界線は西ローマと東ローマの間にあると言う。西ローマは地中海世界(現代で言うヨーロッパ)で、東ローマ以東はヘレニズム世界だ。つまりビザンツ(東ローマ)はヨーロッパに近いのではなく、ヘレニズム世界に近いということだ。この視点は、「ローマカトリック=ラテン語世界/ギリシア正教=ギリシア語世界」のあまりの違いを考える上では、極めて有効に働きそうだ。たとえば、文化的にはラテン世界ではキケロ的な雄弁術の伝統が前面に出て来るのに対し、ビザンツではギリシア語的な神秘主義の伝統が前面に出て来る、ということになるか。

井上文則『軍と兵士のローマ帝国』岩波新書、2023年

【要約と感想】アンリ・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生―マホメットとシャルルマーニュ』

【要約】ヨーロッパの歴史において、ゲルマン民族侵入はこれっぽっちもたいしたことがありません。ドイツ人たちはゲルマン民族の力を不当に過大評価しすぎていますが、完全に間違いです。ゲルマン民族はヨーロッパの文化の発展に対して微塵も貢献していません。ゲルマン民族は単に移動してローマの文化に染まっただけでした。ローマ時代に発展した行政・司法・経済・文学などはゲルマン民族侵入後もそのまま保たれ、学校制度や識字能力も失われていませんでした。たとえば具体的にはメロヴィング朝にはローマの経済・精神生活が色濃く残っていました。
 ところがカロリング朝に入ると、まったく様相が変わり、ローマの経済・精神生活は見る影もなくなります。というのは、勃興したイスラム教が地中海を封鎖したことによって古代以来の通商ルートが完全に失われ、ローマ文化を維持するために不可欠だった商品の流通が途絶えた上に、人や情報の交流も断絶したからです。教育は行われなくなり、リテラシーも失われました。西ヨーロッパは商品経済から土地中心経済へと急速に衰退し、教育や行政に教会の聖職者が入り込んできます。カール大帝の戴冠とは、古代ローマ文明が完全に失われ、政治・経済・宗教・教育の閉じたシステムとして中世ヨーロッパが誕生したことの象徴です。

【感想】個人的には、納得感が半端ない。バラバラなピースが全部びしっとあるべきところに嵌まり込むような爽快感を覚える快作だ。具体的なバラバラのピースとは、地中海貿易、ゲルマン民族大移動、西ローマ帝国滅亡?、ボエティウスの学識、学校と識字の消失、ビザンツ帝国の役割、ルネサンスに至るイタリア半島の文化的意味、カール戴冠の意味、中世ヨーロッパにおける教会権力といったところだ。これらの諸要素を見事に一つの世界観に収めてみせる理屈には惚れ惚れとするしかない。まあ、もちろんドイツ人は納得しないだろうし、なるほど細かい実証レベルの話も含めて賛否両論もあろうかというところだが、このピレンヌテーゼに対して個人的には賛の側につきたい。

【個人的な研究のための備忘録】識字と教育
 ヨーロッパのリテラシーと教育を考える上で看過ならない記述が大量にあった。

「東方から運ばれて来た、消費量の大きいもう一つの商品はパピルスであった。当時未だ羊皮紙は高級品として特別の目的に使用されるに過ぎなかったから、この日常一般の筆記用紙を、帝国全域に向けてエジプトが独占的に供給していたのである。ところでゲルマン民族侵入の後にも、侵入前と同様に、文字を書くことは西方世界全体で行われていた。それは社会全体に欠くことのできない要素であった。国家の司法活動、行政活動、いな敢て言えば国家の運営そのものが文字を不可欠の前提としていたのであり、それはまた社会的諸関係についても妥当することであった。」134頁

 ローマ時代にあんなに栄えていた雄弁術なども含めたリテラシー(及びそれを支えた教育システム)がどのように失われたかは、実はあまりよく分かっていなかった。472年の西ローマ帝国滅亡に伴って文化も同時に失われたかと思いきや、どっこいボエティウスのような知識人がしっかり育っていたりする。ボエティウスがいるということは、6世紀の段階ではまだ教育システムやリテラシーは失われていなかったとみなすしかない。ピレンヌの言うことには合点するしかない。

「いわばかれ(エンノディウス)は、神聖な雄弁術の教師にありかわった修辞家であった。かれの叙述から知られるところでは、ローマでは依然として修辞学の学校が大繁盛をしていた。」167頁
知識人と学生たちの憧憬の的であったコンスタンティノープルの影響を見逃してはならない。この都市には就中有名な医学校があったらしく、トゥールのグレゴリウスの著作の多くの個所からそれを立証することができる。」172頁
文法および修辞学を授ける学校で教養を積んだ元老院貴族の階級が、高級役人の高級源であった。カッシオドルスのごとき、またボエティウスのごとき人物の名前を想起するだけで充分である。そしてこうした人物の死後も、文運の衰退にもかかわらず、同様の状態が続いたのである。」190頁
「こういったすべての役人たちのために学校があったことは明らかである。(中略)ランゴバルド王国においてさえ、学校が存続していた
 西ゴート王国では、文字を書く能力がきわめて広く普及していたから、国王は法典の写本の代価を公定したほどであった。このように読み書きの能力は、行政に関与するすべての人々の間ではごく日常的な事柄だったのである。」192頁

 そんなわけで6世紀にはまだ学校システムが存続し、リテラシーも広範に維持されていたわけだが、7世紀半ば以降にイスラム教が西地中海を封鎖することで既存のシステムが崩壊する。

(イスラム帝国による地中海封鎖に伴って)「学校はそれ以来教育を弘めることをやめてしまった。」336頁
「商業が衰退してしまい、その結果、土地が嘗てないほど経済生活の本質的な基礎になった、と。」357頁
「教養のある人士がもはや聖職者の間にしか求めることができなかったことも事実である。あの危機の間に役人の教育が途絶えてしまったからである。宮宰からして読み書きの術を心得ていなかった。民衆の間に教育を普及させようとしたカール大帝の理想家肌の努力も成功を収めず、宮廷学校の生徒の数も少かった。聖職者と学者が同義語である時代が始まりつつあった。最早ラテン語を解する者の殆どいなくなった王国で、その後の幾世紀にもわたり行政事務にラテン語を用いることを強制した教会が、重要な地位を占めるようになったのはこのためである。この事実のもっている意味をとっくりと考えてみる必要がある。この事実には測りしれない意味がある。ここに出現したものこそ中世の新しい特徴なのである。即ち国家を自分の影響の下におく宗教的階層である。」370頁
「これに対してイタリアではラテン語の存続はより完全なものであった。しかもローマやミラノでは、孤立しながらも若干の学校が引き続いて存続していた。」377頁

 世俗的な教育システムが崩壊し、リテラシーが失われ、教会が知識を独占する。地中海との人・モノ・金の流通が途絶した西ヨーロッパの経済と文化は一気に衰退していくが、一方でイタリアへの影響は限定的だったとのことだ。ビザンツ帝国との関係が大きな意味を持つということだろう。そしてこの流れはシチリア王国などを経て、大雑把にはフィレンツェ(ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ)にも引き継がれていくと考えていいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】ローマ皇帝
 この流れを踏まえると、800年のカール戴冠の歴史的意味も明確になる。

「嘗てのローマ帝国の称号とは異なり、カールの皇帝称号は何らの世俗的な意味あいも持つものではなかった。カールの即位は何らかの帝国的な制度を背景にもつものではなかった。ローマの保護に当たっていたパトリキウスが、一種のクーデターによって教会を保護する皇帝になったのである。」324頁

 西ヨーロッパ(フランク王国カロリング朝)は7世紀半ばに途絶した古代ローマ帝国の文化を復活させることを完全に諦め、あるいは忘却し、新たな経済圏の構築を始める。カール戴冠とは、その断絶を象徴する出来事だ。これ以降は、アルプスを南北に繋ぐルート(後の神聖ローマ帝国)やベルギー・オランダなどの低地地方、ノブゴロドから黒海に抜けてコンスタンティノープルに至るルートなどが重要な地政学的意味を持つことになるだろう。

アンリ・ピレンヌ、増田四郎監修、中村宏・佐々木克巳訳『ヨーロッパ世界の誕生―マホメットとシャルルマーニュ』講談社学術文庫、2020年<1960年

【要約と感想】山本文彦『神聖ローマ帝国―「弱体なる大国」の実像』

【要約】962年のオットー大帝戴冠から1806年の滅亡までの神聖ローマ帝国の権力構造と政治過程を、(1)皇帝と教皇の関係(2)開かれた国制/凝集化という2つの観点から複合的・重層的に描きます。
 皇帝と教皇の関係については、具体的には帝国教会を通じた支配構造を説明した上で11世紀の叙任権闘争の意味について考えます。
 権力構造の制度化という観点からは、一方では皇帝選挙制度や帝国議会制度の整備、地方分権的な安全保障体制の整備について記述しつつ、もう一方では三十年戦争の戦後処理や同盟・外交戦略における人的ネットワークの意義を強調し、中央集権的な国民国家とは異なる権力構造の在り方を描きます。
 総じて、神聖ローマ帝国は確かに近代的な国民国家の価値観から見れば時代錯誤の「弱体」な権力構造にしか見えないかもしれませんが、権力構造や政治過程の実態を丁寧に確認してみると、実は強大な権力を作らずに平和を維持するための知恵としては優れているし、その知恵は現在のEUにまで活きています。

【感想】前提として必要となる知識がそこそこあるのと、それ以上に既存の教科書的な通史記述を乗り越えようという意欲を感じて、ゼロからドイツ史を学ぼうという初学者には少々お勧めしにくい印象はある。多少なりとも西洋史の大枠や地理について分かっている人なら、封建制の重層的な権力構造の実態(皇帝と国王・大公の権力関係、有力貴族の婚姻戦略、皇帝選挙の実態、聖俗領邦の異同、宗教改革の影響、帝国外権力との同盟や権力均衡策など)が具体的に分かって面白く読めるだろうと思う。しかしやはり少なくとも近代国民国家を相対化することの意味が共有できていないと、個々の記述の狙いが掴めないんじゃないかという気がする(たとえば三十年戦争そのものの経緯ではなくその戦後処理に大量のページを割いていることの意図など)。

 自分の課題意識としてはビザンツ(東ローマ)帝国の皇帝との関係がいちばん気になっていて、基本的なところは序章で解説があるものの、最も知りたかった11世紀~14世紀あたり(イタリアルネサンス前夜)はもっぱら叙任権闘争と金印勅書の話になっていて、ビザンツ帝国は話題に上らない。そしてその後はルネサンスではなく宗教改革の話に突入する。意外なところでペトラルカの名前が出てきて勉強になったが。ともかく本当にこのイタリアルネサンス前夜にビザンツ帝国との関係は無視してもいいほどになっていたのか、あるいは著者が重点を置かなかっただけなのか、分からなくてモヤモヤするところではある。まあ、自分で勉強しよう。このあたりは神聖ローマ帝国の政治史ではなく、ハンザ同盟の経済史の方が示唆するところが多いかもしれない。

 ところで本書はところどころに日本史と比較する話が出てきて、分かり味は深い。ということでオットー戴冠から帝国滅亡まで約850年ということだが、むりやり日本史と比較しながら考えてみると、鎌倉幕府成立から明治維新まで約700年にわたる武家政権の道のりになぞらえられるだろうか。ローマが京都で教皇が天皇、レーゲンスブルクが鎌倉で皇帝が将軍、ウィーンが江戸。まあもともと無理がある比較ではあるけれども、日本に絶対起こらないのはフランスとトルコの連携という事態だろうな。

山本文彦『神聖ローマ帝国―「弱体なる大国」の実像』中公新書、2024年

【要約と感想】菊池良生『ドイツ誕生―神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』

【要約】西暦962年にローマ皇帝戴冠を果たしたオットー1世の生涯を辿りながら、ドイツという概念の誕生の場面に立ち会います。オットーが生きた時代にはドイツという概念も言葉もありませんでしたが、オットーによるイタリア遠征という一つの目的に集結することでそれまでバラバラだった東フランク諸大公国が(イタリア側から見ても)一つのまとまりを形作るようになります。しかし同時にオットーのイタリア遠征は東フランク領内の権力細分化と在地領主の自立化を促進し、ドイツが国として一つにまとまることを長く妨げる事にもなりました。

【感想】本書の発行が2022年11月で、三佐川著『オットー大帝』発行が2023年8月。ついでに山本文彦著『神聖ローマ帝国』発行が2024年4月ということで、何か流れができているのか、ただの偶然なのか。
 ともかくつい昨日読んだばかりの三佐川著『オットー大帝』とどうしても比べてしまうわけだが、分量がコンパクトなことも含めておそらく初学者はまずこちらを手に取る方がいいのだろう。一方大学院生レベルなら三佐川著のほうが史料への立ち向かい方などの歴史技法も含めて相当な勉強になるような気がする。良いとか悪いとかではなく、お互いに対象としている読者層が違っているような印象だ。
 また使っている史料が基本的に同じなので、判断材料となる歴史的事実はほとんど同じなのだが、細かいところでけっこう解釈が異なっていておもしろい。三佐川著のほうが史料を厳密に批判して少々禁欲的に解釈を施すのに対し、本書は同時代の文脈の方を重視して合理的な解釈を施しているような印象だ。
 で、私が個人的に興味を持っている「西洋における皇帝という称号の意味」については、三佐川著のほうは禁欲したのかほとんど語らないのに対し、本書の方は史的文脈も含めてそうとう分かりやすく整理している。オットー大帝だけでなくカール大帝の事績に遡ってビザンツ帝国の状況と立場と判断を整理してくれて、とても分かりやすい。

【個人的な研究のための備忘録】リテラシー
 文化史に関して気になる記述があったのでサンプリングしておく。

「ところがオットーが国内の行政機構の整備に取り掛かってきたころから、東フランクの非識字者の社会が様相を変えはじめるのである。歴史叙述が重視され、教養が尊ばれるようになるのだ。そして952年ごろからオットーの官房では文書が増大していった。(中略)
 オットーの文書覚醒は続き、オットーは第一次イタリア遠征の際にノヴァラの学者グンツォをその有名な蔵書ともども東フランクに迎えている。さらに晩年になると、彼はフランス人の最初のローマ教皇シルウェステル二世となるオーリヤックのジェルベールの数学、天文学に興味を示すのである。ある史家はこの現象をカール大帝の宮廷でのカロリング・ルネッサンスになぞらえてオットー・ルネッサンスと呼んでいる。」144-146頁

 オットー期から識字率が向上し文書による政治が一般化していったことはしっかり押さえておきたい。「ノヴァラの学者グンツォ」とか「オーリヤックのジェルベール」は完全ノーマークだったので、調査しておきたい。

「ニケフォロス二世はこのリウトプランドをあたかもスパイ同然に扱い、四ヵ月にわたってコンスタンティノープルに軟禁同然に留め置いた。リウトプランドはこの体験をつづるが、これが先にも挙げた有名な『コンスタンティノープル使節記』である。(中略)
 ビザンツに対する情報が極端に少なかった当時、この書が唯一の情報源であり、その後のヨーロッパのビザンツ観を形成していったのである。その意味で、この『コンスタンティノープル使節記』はビザンツの東方教会と鋭く対立していたローマ・カトリックの長である教皇ヨハネス十三世がリウトプランドに依頼して書かせた反東方教会のプロパガンダである、という説もあながち無視できないのである。」206頁

 リウトプランドは、中世の教養や知識人のあり様を考える上でとても重要な人物だということをよく理解した。たとえば10世紀にリウトプランドがギリシャ語を巧みに操ってアルプスの北側とコンスタンティノープルを結んでいたわけだが、13世紀にはフェデリーコ二世の宮廷がアルプスの北側とビザンツおよびイスラームを結びつける。そこまでは個人的には分かっているつもりだ。ということで個人的な課題は、一つにはこの流れがイタリア・ルネサンスや人文主義とどう結びつくか(あるいは結びつかないか)の理解であり、一つには10世紀から13世紀のイタリアの状況に対する理解である。勉強すべきことが多い。

菊池良生『ドイツ誕生―神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』講談社現代新書、2022年