「ヨーロッパ」タグアーカイブ

【要約と感想】アンリ・ピレンヌ『中世都市―社会経済史的試論』

【要約】西欧の資本主義は10世紀の経済ルネサンスから始まりました。それを証明するために、具体的に中世都市(主にフランドル)の発展の様子に注目します。
 そもそも古代ローマ時代に栄華を誇っていたヨーロッパ地中海世界が衰退したのは、なにも5世紀のゲルマン民族大移動が原因ではありません。ゲルマンの野蛮人どもはことごとくローマ文明に圧倒されたのであって、仮に西皇帝がいなくなったとしても、たいした問題ではありません。精神的なローマと、実質的な地中海交易圏は無傷で残ります。本当に衰退したのは7世紀にムスリムに東地中海を封鎖され、かつての地中海経済圏が崩壊してからのことです。それはローマ的なメロヴィング朝と封建的なカロリング朝の経済や制度や文化の違いに注目すれば明らかです。
 この衰退したヨーロッパが10世紀に復活するのは、ビザンツ帝国との繋がりを保っていたヴェネツィアを先頭に北イタリアの商業が活発化し、ノルマン人によるバルト海・北海交易に伴ってアルプス北側に勃興したフランドル商工業と繋がって、交換経済が甦ったからです。商人たちはかつての宗教都市あるいは城塞都市の周りに集団で定住し始め、農村経済とは相容れない自由で才気に溢れる生活を営みながら、封建的旧慣に依らない独自の特権を得たり、自治的な共同体経営を積み重ねることによって、貴族や聖職者と並ぶ第三の特権階級に育っていきました。不動産中心だった農村経済は、商人階級の勃興によって動産中心の資本主義へと展開していくことになります。ついでに宗教改革の種も。

【感想】原著出版がほぼ100年前、訳が50年以上前という古典ではあるけれども、今でも楽しく読める。時代の変化によっても簡単に変わらない確固たる事実を踏まえて、シンプルな理屈を分かりやすく表現しているからなのだろう。歴史叙述はこうありたいというお手本のような文章だ。

 それにしても、ゲルマン人を下げすぎで、笑う。いかにドイツ人のことを嫌っていたかが伺える(まあ捕虜として無体な扱いを受けたから当然だ)。逆に言えば、実はゲルマン民族大移動のインパクトを過剰に評価したがるのはドイツ人のナショナリズムを反映しているだけかもしれない。冷静に見れば、確かにピレンヌの言うとおり、ゲルマン民族大移動の後もビザンツ帝国は健在(千年も!)だし、むしろいっそう繁栄して、ユスティニアヌスの中興もある。いっそ、ローマ教皇がカール大帝に戴冠したことを以て、本当にローマ的な西ローマが滅亡してゲルマン化が完了したと見なしていいのかもしれない。しかしそうなると、ヨーロッパが地中海世界から乖離した理由は、実はイスラムの軍事的圧迫ではなく、ビザンツ帝国(東ローマ)に対するコンプレックスかもしれない。

 ともかく、いわゆるピレンヌ・テーゼ、7世紀の経済圏封鎖による封建(自給自足的農業経済)化と、10世紀の商人階級勃興に伴う貨幣経済化のコントラストは、図式的に非常に明快で、分かりやすい。あまりにも分かりやすすぎて、日本の状況にもなんとか適用したくなる誘惑が持ち上がる。
 たとえばすぐ気がつくのは、やや小さな経済圏封鎖による封建化は江戸幕府誕生時(17世紀初頭)に発生し、続く18世紀には商人階級勃興に伴う貨幣経済化が進展(荻原重秀や田沼意次)して、19世紀半ばの天保改革まで流れが止まらないことだ。徳川幕府による経済圏封鎖(世界的にも国内的にも)は、豊織政権によるグローバル経済圏への参入をはっきりと拒絶し、自給自足に基づく農村経済を志向したものだ。それを壊したのは、三代将軍家光による参勤交代制度など、国内移動の促進だったかもしれない。江戸や大阪が大量消費地となるのに伴って、当然のように物流システムが整備され、交換経済が発展する。軍事的中心地(城下町)が同時に経済的な中心地となるのも、まさにピレンヌ・テーゼの図式とおりだ。
 また、大きな観点からは、飛鳥~奈良・平安初期まで中国大陸と繋がりを持っていた列島経済が、唐の没落によって経済圏が封鎖(894年の遣唐使廃止)され、同時期に荘園制度が発達し、また農業経済圏であった関東の存在感が増して(939年の平将門~1051年の前九年役)、土地に根付いた武士による封建制度の確立に繋がっていったことを想起する。付け加えれば、平清盛による瀬戸内海を中心とした軽やかな交換経済構想(日宋貿易)が挫折して、鎌倉幕府による関東を中心とした鈍重な農業経済が勝利して封建制度に落ち着いたことも想起する。南北朝の争乱も、事によっては土地に根付いた封建的農業経済と軽やかな交換経済(いわゆる悪党や倭寇)との相克が根底にあるのかもしれない。
 そんなことは日本史研究プロパーは普通に織り込み済みで、それを踏まえて荘園制度の発達過程とか、土倉の役割とか徳政令の意味とか、悪党や倭寇や石清水八幡宮神人の経済活動とか楽市楽座とか、幕末マニュファクチュアなどを個別具体的に史料に即して解明しようとしているのではある。
 ここらへんまで掘り下げようとすると、無駄な知識は何一つなくなり、あらゆる事象が一本のストーリーに絡んでくるので、まあ、歴史は面白い。

【要検討事項】中世とはどんな時代だったか
 一つ気にかかるのは、ベルギー人ピレンヌとオランダ人ホイジンガの理論的関係だ。ピレンヌはフランドルを対象として中世に近代の前兆を見ているが、ホイジンガはブルゴーニュを対象として中世の独自性を強調する。ルネサンスや西洋近代の意義を理解するうえでも、どちらの立場に親近感を抱くかによって極めて大きな違いを生じさせる。個人的な印象では、ホイジンガは感傷的に過ぎて、唯物的なピレンヌの見解を推したくなる。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 本書は教育が主要な関心ではないが、言及は興味深いので引用しておく。

「一〇世紀になると既にヴェネツィアの商業実践がどれほど完成されていたかを知るならば一驚を喫する。ヨーロッパの他の地方ではどこでも教育が聖職者の完全な独占物である時期に、ヴェネツィアでは文字を書くことが広く普及してい、この興味ある現象を商業の発展と関連づけてみずにはいられない。」113頁
「都市の知的文化は、何よりもまず、すぐれて世俗的な文化であるというあの性格を示している。十二世紀の半ばになると、市参事会は、古代の終焉以降におけるヨーロッパ最初の世俗学校である学校を、市民の子弟のためにつくることに熱心であった。この学校の出現によって、教育は、修道院の修練士や未来の聖堂区司祭だけにその恩沢を頒ち与えるものではなくなる。読み書きの知識は、商業を営む上に必要不可欠であるからして、もはや聖職者身分に属する者だけが独占するものではなくなる。市民は、貴族にとっては知的贅沢にすぎなかったものが市民にとっては日常欠くことのできないものであったが故に、貴族よりも先に読み書きの知識を身につけた。教会はただちに都市の設けた学校に対する監督権を要求することを忘れなかったが、この監督権が教会と都市当局の間における数多くの紛争のたねとなった。宗教上の問題は無論これらの紛争とは無関係である。これらの紛争の原因は、自分達のつくった、そして自分達にその管理を保留しておくことを欲していた学校、その学校に対する支配権を自分達の手に保留したいという都市の欲求に尽きていた。」230-231頁

 読み書きの知識(原文ではリテラシーか)が商業の発達に伴って要求されるという話は、特に不思議でもなく現在では常識に属する基本事項ではあるが、古典的研究でも言及されていたことは記憶しておきたい。

【個人的な研究のための備忘録】集合人格
 都市そのものを一つの「人格」とみなす記述があった。

「すべての都市が等しくコミューンである。というのは、すべての都市において、市民は一つの団体、一つのウーニヴェルシタースuniversitas、一つのコムーニタースcommunitas、一つのコムーニオーcommunioを形成してい、そのメンバーはすべて、相互に連帯責任を負い、分かつことのできない部分を構成しているからである。その解放の起源が何であれ、中世の都市は単なる諸個人の集合体ではない。都市それ自体が個人である。但しこの個人は集団的個人であり、法人である。」180頁
「愛郷心の熱烈さには、その排他主義が照応する。その発達の極限に達した都市はそれぞれに一つの共和国――そう呼びたいのであれば――一つの集団的領主権を形成しているというまさにそのことによって、各都市は、他の諸都市に好敵手あるいは敵だけを見る。各都市は、自分の都市の利害関係の埒外に出ることができない。各都市は自分の都市にだけ関心を中心し、各都市が近隣の諸都市に対して抱いている感情は、より限られた範囲においてではあるが、かなりよく現代のナショナリズムに似ている。」209-210頁
「中世の都市は、十二世紀に入って現れてくるところでは、防備施設のある囲いの保護の下に、商工業によって生活を営み、都市を特権的な集団的人格とするところの特別の法、行政、裁判を享受する、コミューンである、と。」211頁

 この記述に個人的な関心を持つのは、「個人の人格」が認められる前に「集団の人格」が認められた、という歴史的な順序が示されているからだ。個人的にはこれまで「国家の人格に対する認識に伴って個人の人格に対する認識が生じた」のではないかという仮説を立てていたが、実は「都市の集団的人格」への承認が先行しているらしい。この「都市の集団的人格」と「個人の人格」の歴史的・論理的関係は、もちろん本書の関心ではないので明らかになっていないわけだが、もちろん即座に思い出すのは北イタリアの都市国家で活躍したフィチーノやピコ・デラ・ミランドラが「人間の尊厳」を打ち出しているという事実だ。フィチーノやピコの話をする際、もちろん北イタリア自由都市の影響には言及されるものの、「都市の集団的人格」との歴史的・論理的関係にまで視野を広げることはない。個人的に、たいへん気にかかるところである。

アンリ・ピレンヌ/佐々木克巳訳『中世都市―社会経済史的試論』講談社学術文庫、2018年<1970年

【要約と感想】ウィンストン・ブラック『中世ヨーロッパ―ファクトとフィクション』

【要約】中世ヨーロッパに関して、誤解と偏見に満ちた大間違いのイメージが広く流布しています。しかし人が言うほど中世ヨーロッパは「暗黒時代」ではありません。何が真実の中世ヨーロッパだったのか、一次史料を踏まえてお見せしましょう。

【感想】ことさらカトリックを貶めてやろうとするプロテスタントや啓蒙主義者によって中世ヨーロッパの姿が酷く歪んで喧伝されたのは、日本においても明治政府が徳川幕府をことさら貶めてやろうと過剰に「士農工商」や「鎖国」を強調したのと同じ力学が働いている。
 しかし事態がややこしいのは、確かに一方に中世をこき下ろす主張があるのに対して、過度に中世を持ち上げる主張もあるところだ。本書の解説でも指摘されているが、本書の著者が中世研究者ということもあって、筆が滑っているところが実際にあったりする。本書に限らず、たとえばルネサンスをどう評価するかという問題でも、中世を賛美する論者は中世からの連続性を強調するし、近代を賛美するものは中世との断絶性を強調する。ドイツ法学の世界でも、古代との連続性を重視するローマ派と、中世との連続性を強調するゲルマン派があったりするのを連想する。
 もちろん日本でも、江戸時代に対する評価は、そのまま近代の連続性と断続性のどちらを重視するかという立場の違いに直結するし、それはそのまま日本資本主義発達段階をどう理解し、現実の課題をどう設定するかというお馴染みの問題へと連なる。
 ともかく、歴史のストーリーをどう描くかという立場に様々あれども、まず一次史料を押さえておくことの大切さが極めてよく伝わってくる本だった。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスとペトラルカ
 ルネサンスとペトラルカについての言及をサンプリングしておく。

「中世を歴史上の一時代と特定することは、ヨーロッパの思想家たちが、遠く離れたギリシアやローマの過去に高い価値を置き、自分たちの生きる時代や直近の時代をさかんに貶すことではじめて可能になった。これが生じたのは、十四世紀と十五世紀のイタリアにおいてである。この時代はやがて、古典文化の「再生」を成し遂げたとみなされる「ルネサンス」として知られるようになった。この歴史区分を行った最初の著述家の一人はフランチェスカ・ペトラルカである。」23頁

 日本で言うと本居宣長のような人を想起させるような話ではある。

ウィンストン・ブラック『中世ヨーロッパ―ファクトとフィクション』大貫俊夫監訳、平凡社、2021年

【要約と感想】新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』

【要約】現代の後知恵はオスマン帝国を非キリスト教・非ヨーロッパの東方専制国家として扱いますが、実際の歴史過程を見てみると、オスマン帝国はキリスト教徒も人材として有効に活用しながらローマ帝国の後継を自認して地中海で勢力を維持する一方、ヨーロッパ諸国(特にハプスブルクを牽制するフランス王家)はオスマン帝国と手を結びながら勢力を伸ばそうと試みており、単純にキリスト教とイスラム教が対立していたと考えてはいけません。オスマンはイスラム教で統一されていたわけではなく、様々な民族や宗教や立場が渾然となりながらも、人材登用や土地経済の制度等で統一が保たれていた帝国です。だからこそイスラム教の立場が強くなり始めると、むしろ従来の寛容な人材登用や土地経済制度が機能しなくなり、力が弱くなっていきます。近代ヨーロッパの形成を考える上では、寛容と規律の精神で強力な統一国家を作り上げたオスマン帝国のインパクトを無視できません。

【感想】歴史を遡って国と「国でないもの」の間に境界線を引こうとするとき、たとえば中国にとって戦国時代の秦は境界線の内であるのに対し、匈奴は境界線の外だ。春秋時代の呉や越は境界線の内であるのに対し、三国時代の南蛮は境界線の外だ。しかしおそらく紛争の真っ最中にこういう境界線が明確に引かれていたのではなく、もともとは緩やかなグラデーションだったものが、後に歴史書を編纂する過程で徐々に細部が忘れられ、大雑把な二分化が進行し、境界線が固定されていったのだろう。
 ヨーロッパにとってのオスマン帝国もそういうものなのだろうが、中国史と決定的に異なるのはビザンツ帝国の存在だ。ローマ帝国の正統な後継として、西ローマ帝国滅亡後も約千年間存続した東ローマ帝国→ビザンツ帝国は、同時代のヨーロッパ(あるいはそれを束ねるローマ教会)にとっては極めて厄介な存在だった。このカトリックにとって厄介で目障りな存在だったビザンツ帝国を滅ぼしてしまった(1453年)のが、オスマン帝国にとっては結果的によくなかったような気がする。オスマン帝国はコンスタンティノープルを掌握したことで「ローマ帝国の正統な後継」を自認し、実際に地中海への進出を目論むようになった一方、厄介なグラデーション地帯だったビザンツ帝国が滅んだことでオスマン帝国から剥き出しの圧力を受けるようになったヨーロッパのほうは、かえって曖昧なグラデーションではなく明確な境界線を引っ張って、オスマン帝国を「外」として認識する地政学、そして旧ビザンツ=東ローマ=ギリシアを内として認識する歴史認識が成立したのではないか。だとすれば、ルネサンスとは西欧が忘れていたギリシアを「取り戻した」のではなく、実際にはもともと西洋ではなかったもの(ビザンツ=東ローマ)を境界線の内側に簒奪するムーブメントで、それはオスマン帝国という「明らかな外側」を設定することで初めて成立するものではないか。
 ということを考える上でも、後知恵からは「境界線の外側」に設定されているオスマン帝国について、歴史過程に基づいて境界線が曖昧なまま把握しようとする本書は、とても刺激的なインスピレーションを与えてくれるのであった。

【知りたくて書いてあったこと】遅れたヨーロッパ
 中世までのヨーロッパが世界的に後進地域だったことは周知の常識ではあるが、周知の常識過ぎて引用できる文章はそんなになかったりする。本書にはしっかり「文化果つる地」と書いてあった。ありがたい。

「たしかにビザンツによって東地中海の拠点奪回は緊要だったから、各地で戦闘が繰り返されていた。しかし、そうした軍事的・政治的対立が、経済や文化の交流を完全に遮断することにはならなかった。したがって商人たちの活動は絶えることなく続いたが、ただしイスラム勢力にとって、東地中海からさらに西に向かう公益は、魅力に乏しいものだった。そのため、この方面での公益活動は、もっぱらユダヤ系やアルメニア系の商人が担うことになった。
 一方西ヨーロッパは、イスラム勢力の進出以降、地中海地方から自らを隔絶させ、内陸化することによって独自の世界を形成し始める。文明の中心を離れた彼等にとって、地中海はもはや「異域」であって、彼らがこの地域へ乗り出してくるには一一世紀後半を待たねばならない。そして、この「文化果つる地」西ヨーロッパと地中海地方とを結ぶ上で重要な役割を果たし始めたのが、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの商人たちだった。」122頁

 イスラム・ビザンツ・ユダヤ・アルメニア・イタリアの商人たちの活動商圏についても簡潔にまとまっている。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスは、言葉そのものが西欧視点のものであるため、もちろん西欧史の文脈でのみ語られる。そして実態は語義通りの「復活」なんてものではなく、輸入と言った方が正確だろう。西欧のガリアやゲルマンには、ローマはともかくとして、ギリシアの伝統があるはずがない。ギリシア文化は、ビザンツから輸入して学びとっている。復活ではない。ルネサンスとは、西欧がギリシア文化を簒奪し僭称するために捏造した概念だ。そういう事情は、イスラム側から見ればさらにはっきりする。

「コンスタンティノープル陥落によって、文人、芸術家の多くがイタリアへ避難し、それによってルネサンスが開花したと、ほとんど決まり文句のように言われてきたが、多くの芸術家やユマニストが――「トルコの征服者」に関する、さまざまなまがまがしい噂が流布していたにもかかわらず――コンスタンティノープルを訪れようと望み、そして実際にイタリアからオスマンへの人の流れが存在していたことを指摘するのも、公平を図る上で無意味ではあるまい。」110頁

 ビザンツ=ギリシア正教が必ずしも西欧=カトリックと結びついていたわけではなく、オスマン=イスラムとも容易に結びついていたことを思い起こさせる、大切な指摘だと思う。

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社学術文庫、2021年<2002年

【要約と感想】C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』

【要約】西欧中世は、通説では無知蒙昧で野蛮な暗黒時代とされてきましたが、とんでもない勘違いで、実際にはいわゆる15世紀のルネサンスに直接繋がっていくような、好奇心に満ち溢れた創造的な時代です。近代ヨーロッパの原型は、この時代に生まれました。

【感想】大学の一般教養レベルでも「十二世紀ルネサンス」という言葉はよく耳にするわけだが、本書はその一番のモトネタということになる。原著は1927年出版で、もう95年も前のことだ。おそらく個々のトピックについては後の研究が乗り越えているところが多いだろうと想像するが、大枠の歴史観については相変わらず通用しそうだ。おもしろく読んだが、出てくる人名は馴染みのないものばかりで、現代に至ってもいかにこの時代が高校世界史なども含めて一般教養の世界からハブられているかが分かるのだった(いや、私の勉強不足なだけかもしれないぞ)。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 中学の教科書レベルでは、いわゆるルネサンスは14世紀イタリア(具体的にはダンテやペトラルカ)に始まるとされているが、本書はその教科書的通説を批判する。ルネサンスは中世を通じて段階的に形になってきたもので、具体的には8世紀カロリング・ルネサンス→12世紀ルネサンス→15世紀ルネサンス(クァトロチェント)を経て展開したとして、特に12世紀ルネサンスが決定的に重要だったという主張だ。相対的に、従来は重要視されてきた15世紀ルネサンスを軽く見ることになる。

「イタリア・ルネサンスは中世から徐々に形をあらわしてきたもので、いったいいつをはじまりとするか学者の間でも意見がまちまちで、クァトロチェント(1400年代)の名称はもとより、その事実さえ否定する人がいるくらいなのだ。」4頁
「十四世紀は十三世紀から出てきているし、十三世紀は十二世紀から出てきているという具合で、中世ルネサンスとクァトロチェントの間にはほんとうの断絶はない。ある学生がいつか言ったものだ。ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出にあいさつを送る」!」18頁

 ダンテやペトラルカが「ルネサンスの始まり」とされているのには、かねてから個人的にも強い違和感を持っていたので、そう主張する際には「ハスキンズも言ってた」と応援を頼むことにする。
 また、ダンテやボッカッチョなど14世紀イタリア人文主義者が痛烈な聖職者批判を繰り広げていることを見て個人的には凄いなあと思っていたし、私以外にもそういう感想を漏らしている文学研究者がいるのだけれども、実はありがちだったということも分かった。これからは堂々と聖職者批判をしているテキストに触れても、驚かないようにする。

「こういう作品は、パロディであると同時に風刺にもなっていて、またこの時期のラテン語の詩は風刺が非常に多いのである。そして風刺の対象は、中世にはいつも悪罵の的になっていた女と農奴、あるいは特定の修道会のこともあったが、とりわけ強い毒を含んだ攻撃は教会組織、特にローマ教皇庁と高位聖職者に向けられていた。こういった毒舌に類するものは、叙任権闘争のパンフレットに起源を求められるが、程度はさまざまであれ、おおむね絶えることなくつづいて、結局はプロテスタントの反逆にいたる。」185頁

 気になるのは、さりげなく「叙任権闘争のパンフレットに起源」と述べられているところだが、この論点は本書ではこれ以上は膨らまない。叙任権闘争の結果としてカトリックが俗世間に染まったのが聖職者批判の原因ということかどうか、ちょっと気にしておこう。

【研究のための備忘録】本
 西欧中世において「本」の値段がべらぼうに高かった(というかむしろ買うことすら不可能だった)ことは各所に述べられているのだが、これまで確かな出典には出くわしていなかった。ここにあった。ありがたい。

「蔵書は、もらうか買うか、その場で作るかしてふえていった。十二世紀には、本を買うことは珍しかった。というのは、パリとボローニャがすでに本を売買する場所として登場してはいるものの、筆写を職業とする人も、本を取引する市場もまだなかったからである。写本はもとより値が張るし、とりわけ共唱用の大部な典礼書など大へんなもの。大きな聖書を十タレントで買ったとか、ミサ典書をぶどう畑と交換したというような話もある。一〇四三年にバルセロナの司教は、プリスキアヌスの本二巻をユダヤ人から買うのに、家一軒と土地一区画を提供した。」70頁

 ネットにも「中世の本の値段は家一軒」と書いてあるサイトが散見されるのだがが、ネタモトはこれだな。有象無象のネット記事が根拠では恐ろしくて授業で使うわけにいかなかったが、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて堂々と言うことにする。

【研究のための備忘録】教育
 12世紀の教育に関する記述がたくさんあって、いろいろ勉強になった。もちろん学部生向けの基本的な教科書にも書いてあることではあるが、古典の言質を確保できたので、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて胸を張って言える。

「十一世紀のイタリアで注目すべきもう一つの事実は、俗界でも教育が命脈を保っていたことである。(中略)この階層は、書物という形で自分を表現しなかったにせよ、少なくとも法律と医学という在俗専門職の育つ土壌は作ったはずで、この二つはイタリアの社会で急速な発展をとげた。」30-31頁
「農民がその後何百年もの間読み書きの能力なしですませる一方、北方の都市住民は、基本的な教育を授ける世俗の学校をつくりはじめた。(中略)なかでもイタリアでは、世俗の教育の伝統が公証人や写字生の間にずっと生きつづけていて、たとえばヴェネツィアなど、読み書きは商人の階層にまでひろがっていた。すでにイタリアの諸都市は、それぞれ地元の法律学校のみならず、公文書や年代記も持っていた。その上、地中会見の商業共和政諸国は、東方とのコミュニケーションの要衝でもあった。」65頁

 イタリアでは古代ラテン的な教養が生き残っていたということで、ダンテやペトラルカやボッカッチョの古典的教養は改めてビザンツ帝国やアラビアから学んだものではなく、イタリアの知的伝統を背景にしていることをよく理解した。気になるのは、どうしてイタリアの俗界(商人階級)で教育が生き残っていたか、その理由と背景だ。本書では地中海貿易の要衝ということが前面に打ち出されているが、古代ローマからの伝統はどれくらい意味を持っているのだろうか。

 大学に起源についても、古典からの言質を得られて、ありがたい。「教科書に書いてあった」と言うより、「ハスキンズが言っていた」と根拠を示せる方が格好よく思えるのだった(要するにただの見栄だったか)。

「十二世紀は、単に学問の分野で復活の時代だったにとどまらず、制度の分野、とりわけ高等教育制度の分野でも、新たな創造の時代だった・はじめは修道院付属学校と司教座聖堂付属学校、終わりになって最初の大学が登場するわけで、高度の学問を制度化した時代、少なくとも制度化の動きを定めた時代だと言うことができよう。一一〇〇年にはまだ「教師が学校に先行する」が、一二〇〇年になると「学校が教師に先行する」。同時に言えるのは、その間の百年は、まさしく学問が復興したというその事実によって、一歩進んだ学校を作り出したということである。十一世紀の末には、学問は七自由学芸という伝統的なカリキュラムの枠の中に、ほぼ完全におさめられていた。十二世紀は、三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、それに神学という専門の学部を生み出した。それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学問が西ヨーロッパになかったからである。この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。知的な革新と制度上の核心が相携えて進行した。」347頁
「もともと大学(universitas)という言葉は、広く組合、あるいはギルドを意味するもので、中世にはこういう共同体がたくさんあった。それが次第に限定されて、やがて「教師と学生の学問的な共同体ないしは組合」だけを指すようになった。これは大学の定義としてはいちばん最初にあらわれた、しかも最善の定義と言うことができる。このような一般的な意味からすれば、同じ町にいろいろなギルドがあるのと同じく、いくつかの大学(universitas)があってもかまわないわけで、法律や医学などその一つ一つの大学は自分たちの共同体を大切に守り、いくつかの専門学部を擁する単一の大学に合体する段にはなかなかならなかった。」348頁

C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』別宮貞徳・朝倉文市訳、講談社学術文庫、2017年<1989年

【要約と感想】増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』

【要約】Q:ヨーロッパはどうして世界最先端になれたのか?
A:個性を大事にしたからです。

【感想】本書で言う「ヨーロッパ」とは、フランス・ドイツ・イタリアを中心とする西ヨーロッパのことで、ビザンツ帝国やロシアや東欧やイベリア半島やスカンジナビア半島は視野に入れていない。つまり、ほぼほぼゲルマン民族を対象にしている。また「中世」とは、ゲルマン民族移動が始まる4世紀から国民国家の形成が始まる16世紀までを指す。ヨーロッパが近代以降に強大になったのは、中世に培われた精神的風土が決定的に重要だと主張している。また「社会史」とは、アナール学派が言うような意味ではなく、政治史・経済史・法制史等を総合した上で、今後は丁寧な「地域史」を土台に歴史像を組み立て、発展段階史を乗り越えていくべきだという、著者独自の主張を含む方法概念だ。
 で、地域史を丁寧に積み上げていくと、西ヨーロッパには、アジアやイスラムや東欧とは異なった共通の精神的土台があることが確認できると言う。秦漢帝国や古代ローマ帝国のような「世界帝国」を拒否して、個々の地域の個性を大事にしてお互いに切磋琢磨しながら支え合うような仕組みの社会だ。個性的な市民団体や職能集団が独自の役割を果たし、王様や貴族(荘園地主)など権力者もルールに従わなければ何もできないような社会である。西ヨーロッパから誕生した国民国家とは、世界帝国を目指さずに、地域の個性を大事にする精神的風土から成長してきた制度ということになる。日本がお手本にすべきなのはこれだ、と本書冒頭から結論が出ているのであった。

 さて、こういう西欧理解は、そんなに新しいものではない気がする。具体的には、いわゆる「勢力均衡」がヨーロッパの政治原理であることは、ずいぶん昔から言われている。西欧の国がそれぞれ個性を活かしながら役割分担をすることで発展してきたことについては、明治時代の日本人も気がついているし、著者に言われるまでもなくお手本にしている。
 本書の独創性は、それを具体的に、三圃制の展開、都市の成立、農村と都市の経済的相補関係、経済圏の成立と地域の個性などなどで実証している点にあるのだろう。まさに「地域史」の面目躍如というところだ。個々の論点ではさすがに古いと感じるところもなくはないのだが、歴史像の総合的な構想については今でもおもしろく読める。
 とはいえ、グローバル化の負の側面を嫌ほど見せつけられると、一定程度、眉に唾をつけておきたくもなる。地域の個性化と役割分担は、本当に世界の人々を幸せにできるのか。結局行き着く先は、ウォーラーステインが描いたような、格差を前提とした世界資本主義システムではないか。本書は、冷戦崩壊後の世界情勢を知らない(もちろん著者の責任ではない)。

 著者が後進地域として切り捨てたロシア帝国(ビザンツ帝国を引き継いで世界帝国を目指す傾向)が、西ヨーロッパ(多様性と個性を尊重する傾向)の一員になることを目指したウクライナを攻撃し始めた2022年2月24日。著者は本書内で、地域の個性を活かして経済的に相互依存を高めれば平和が訪れると何度も何度も繰り返し主張し、世界帝国への傾向を批判しているが、グローバル化の果てに出来したこの現実を見たら、はたして何と言うだろうか。

増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』講談社学術文庫、2021年<1985年