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【要約と感想】新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』

【要約】現代の後知恵はオスマン帝国を非キリスト教・非ヨーロッパの東方専制国家として扱いますが、実際の歴史過程を見てみると、オスマン帝国はキリスト教徒も人材として有効に活用しながらローマ帝国の後継を自認して地中海で勢力を維持する一方、ヨーロッパ諸国(特にハプスブルクを牽制するフランス王家)はオスマン帝国と手を結びながら勢力を伸ばそうと試みており、単純にキリスト教とイスラム教が対立していたと考えてはいけません。オスマンはイスラム教で統一されていたわけではなく、様々な民族や宗教や立場が渾然となりながらも、人材登用や土地経済の制度等で統一が保たれていた帝国です。だからこそイスラム教の立場が強くなり始めると、むしろ従来の寛容な人材登用や土地経済制度が機能しなくなり、力が弱くなっていきます。近代ヨーロッパの形成を考える上では、寛容と規律の精神で強力な統一国家を作り上げたオスマン帝国のインパクトを無視できません。

【感想】歴史を遡って国と「国でないもの」の間に境界線を引こうとするとき、たとえば中国にとって戦国時代の秦は境界線の内であるのに対し、匈奴は境界線の外だ。春秋時代の呉や越は境界線の内であるのに対し、三国時代の南蛮は境界線の外だ。しかしおそらく紛争の真っ最中にこういう境界線が明確に引かれていたのではなく、もともとは緩やかなグラデーションだったものが、後に歴史書を編纂する過程で徐々に細部が忘れられ、大雑把な二分化が進行し、境界線が固定されていったのだろう。
 ヨーロッパにとってのオスマン帝国もそういうものなのだろうが、中国史と決定的に異なるのはビザンツ帝国の存在だ。ローマ帝国の正統な後継として、西ローマ帝国滅亡後も約千年間存続した東ローマ帝国→ビザンツ帝国は、同時代のヨーロッパ(あるいはそれを束ねるローマ教会)にとっては極めて厄介な存在だった。このカトリックにとって厄介で目障りな存在だったビザンツ帝国を滅ぼしてしまった(1453年)のが、オスマン帝国にとっては結果的によくなかったような気がする。オスマン帝国はコンスタンティノープルを掌握したことで「ローマ帝国の正統な後継」を自認し、実際に地中海への進出を目論むようになった一方、厄介なグラデーション地帯だったビザンツ帝国が滅んだことでオスマン帝国から剥き出しの圧力を受けるようになったヨーロッパのほうは、かえって曖昧なグラデーションではなく明確な境界線を引っ張って、オスマン帝国を「外」として認識する地政学、そして旧ビザンツ=東ローマ=ギリシアを内として認識する歴史認識が成立したのではないか。だとすれば、ルネサンスとは西欧が忘れていたギリシアを「取り戻した」のではなく、実際にはもともと西洋ではなかったもの(ビザンツ=東ローマ)を境界線の内側に簒奪するムーブメントで、それはオスマン帝国という「明らかな外側」を設定することで初めて成立するものではないか。
 ということを考える上でも、後知恵からは「境界線の外側」に設定されているオスマン帝国について、歴史過程に基づいて境界線が曖昧なまま把握しようとする本書は、とても刺激的なインスピレーションを与えてくれるのであった。

【知りたくて書いてあったこと】遅れたヨーロッパ
 中世までのヨーロッパが世界的に後進地域だったことは周知の常識ではあるが、周知の常識過ぎて引用できる文章はそんなになかったりする。本書にはしっかり「文化果つる地」と書いてあった。ありがたい。

「たしかにビザンツによって東地中海の拠点奪回は緊要だったから、各地で戦闘が繰り返されていた。しかし、そうした軍事的・政治的対立が、経済や文化の交流を完全に遮断することにはならなかった。したがって商人たちの活動は絶えることなく続いたが、ただしイスラム勢力にとって、東地中海からさらに西に向かう公益は、魅力に乏しいものだった。そのため、この方面での公益活動は、もっぱらユダヤ系やアルメニア系の商人が担うことになった。
 一方西ヨーロッパは、イスラム勢力の進出以降、地中海地方から自らを隔絶させ、内陸化することによって独自の世界を形成し始める。文明の中心を離れた彼等にとって、地中海はもはや「異域」であって、彼らがこの地域へ乗り出してくるには一一世紀後半を待たねばならない。そして、この「文化果つる地」西ヨーロッパと地中海地方とを結ぶ上で重要な役割を果たし始めたのが、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの商人たちだった。」122頁

 イスラム・ビザンツ・ユダヤ・アルメニア・イタリアの商人たちの活動商圏についても簡潔にまとまっている。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスは、言葉そのものが西欧視点のものであるため、もちろん西欧史の文脈でのみ語られる。そして実態は語義通りの「復活」なんてものではなく、輸入と言った方が正確だろう。西欧のガリアやゲルマンには、ローマはともかくとして、ギリシアの伝統があるはずがない。ギリシア文化は、ビザンツから輸入して学びとっている。復活ではない。ルネサンスとは、西欧がギリシア文化を簒奪し僭称するために捏造した概念だ。そういう事情は、イスラム側から見ればさらにはっきりする。

「コンスタンティノープル陥落によって、文人、芸術家の多くがイタリアへ避難し、それによってルネサンスが開花したと、ほとんど決まり文句のように言われてきたが、多くの芸術家やユマニストが――「トルコの征服者」に関する、さまざまなまがまがしい噂が流布していたにもかかわらず――コンスタンティノープルを訪れようと望み、そして実際にイタリアからオスマンへの人の流れが存在していたことを指摘するのも、公平を図る上で無意味ではあるまい。」110頁

 ビザンツ=ギリシア正教が必ずしも西欧=カトリックと結びついていたわけではなく、オスマン=イスラムとも容易に結びついていたことを思い起こさせる、大切な指摘だと思う。

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社学術文庫、2021年<2002年