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【要約と感想】廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』

【要約】ロシアは、プーチンの世界戦略の下、地政学理論に基づいた勢力圏の確保を目指し、伝統的な戦争概念には収まらない民間軍事企業やインターネットを縦横無尽に活用しながら、安く早く広範囲に紛争を拡大させ、諸国民の分断を加速させていますが、マヌケなところも多くて必ずしもうまくいっていません。とはいえ、ロシア発のフェイクニュースに日本も巻き込まれているので、嘘を嘘と見抜くリテラシー教育の重要性が増しています。

【感想】昨年出版された本なので、ウクライナ危機についても極めて切迫感のある描写になっていて、現在の侵略行為に至る背景と伏線がよく分かった。プーチンの行動の背景にある地政学理論が、一朝一夕に形成されたような思いつきレベルの代物ではなく、長い時間をかけて熟成されてきた筋金入りの妄念であることがよく分かる。
 で、ご多分に漏れず日本でも国民間の分断が加速しているように見えて、そこにロシア(および中国)が垂れ流すフェイクニュースの影響を感じてしまう。特にアメリカ(プーチンの言うアングロサクソン)やユダヤの陰謀を仄めかしながら反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントは、いちおうロシアや中国の息がかかっていることを疑ってもいいのだろう。反マスクや反ワクチンを唱えるアカウントが同時にプーチン支持を表明しがちだという傾向も、統計的に有意な数として出ている。
 まあ確かにアメリカがやっていることもたいがいだし、グローバリズムが様々な問題を引き起こして世界資本主義が人々を必ずしも幸せにしないことも間違いないのではあるが、とはいえ錯綜とした問題に対して迷いながらも何らかの判断をどうしても下さなければならないときには、個人的には「美」を判断基準とするしかない。意図的に嘘を垂れ流したり、街を破壊したり、人を殺したりすることは、醜い。アメリカやグローバル企業もたいがいだが、ロシアを支持することはできない。同じように、ワクチン強制もたいがいだが、反ワクチンを支持することはできない。敵の敵は、味方ではない。ちなみにこういう価値観は、学校教育ではなく、少年マンガやRPGゲームで身に付けたと思われる。

【個人的な研究のための備忘録】ロシア正教会
 個人的なライフワークのような研究で「人格」という概念をおいかけているわけだが、実は理念的なところで現実的なウクライナ問題と絡み合ってくる。本書は、プーチンが信奉するロシアの地政学論理をこう説明する。

「ポーランドは「特別の地位」を付与されるべきだとする一方、ウクライナはロシアに併合されるべきだと論じている。ウクライナは国家として確たる意味を持たず、特定の文化、普遍的な重要性、地理的特質、民族的排他性もない一方、その領土的野心はユーラシアを脅かしており、ウクライナがロシアの緩衝地帯とならないのであれば、その独立は認められるべきではない、というのがその理由だという。そして、ルーマニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア系地域、ギリシャという東方の正教集団は、「第三のローマ」であるモスクワと連携し、合理的個人主義の西側を拒否すべきであるとする。」198-199頁
「プーチンが考えるロシアのありうべき領土は「歴史的ロシア」というキーワードと彼の独自の判断基準から成り立っているようである。(中略)ロシアの領土の定義について、プーチンは独自の三つの判断基準を設けているという。それは、「十八世紀末までにロシア帝国に含まれていた領土」、「ロシア語を話す人びと」、「ロシア正教を信仰する人びと」を含む領域であるという。」205頁

 問題は、ここでいう「東方の正教集団」だ。ロシアは、西方のカトリック教会から分離したキリスト教の一派、東方のギリシア正教会を奉じる国や地域を潜在的なシンパとみなしている。そして西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているのを、東方ギリシア正教会は拒否すべきだとする。モスクワが本当に「第三のローマ」かどうかも大きな問題ではあるが、より本質的な問題は、西方カトリック教会と東方ギリシア正教会の教義内容の違いだ。西方カトリック教会が「合理的個人主義」を奉じているとすれば、それを拒否する東方ギリシア正教は何を奉じているのか。結論から言えば、そこに本質的に関わってくるのが「人格」という概念に対する理解だ。1500年前の宗教会議において三位一体の教義に絡んで問題になっていたことが、いま「合理的個人主義」を支持するかしないかという形となって、現実の国家観紛争の背景をなしているわけだ。そんなわけで専門家としての私の仕事は、いわゆる「合理的個人主義」(つまり人格という概念)が西側で展開した背景を明らかにすることと、逆に東方ギリシア正教では人格概念が展開しなかった上にむしろ敵視するような文化が醸成された背景だ。西洋史的にはビザンツ帝国(いわゆる第二のローマ)に対する理解が決定的な鍵になるし、日本史的には戦中期に合理的個人主義を否定しようと試みた「日本主義」が重要な補助線になる、という見通し。勉強しよう。

【研究のための備忘録】リテラシー教育
 教育に関する提言についてメモをしておく。

「日本人の情報リテラシーは低く、フェイクニュースなどに踊らされる可能性が高い。欧米では、フェイクニュース対策は、国防戦略の重要な要素となっており、国家戦略としてフェイクニュース対策教育、メディア・リテラシー教育がおこなわれている。だが、日本ではまだそのような必要性が重視されておらず、教育には実質的に盛り込まれていない。本来であれbあ、このような教育は、子供のうちから刷り込まれることが受容であるはずである。(中略)日本人はフェイクニュースに惑わされないと言えるだろうか。欧米でおこなわれているような情報リテラシー教育が日本でも必要ではないだろうか。」335頁

 国際安全保障の観点からリテラシー教育を行うべきだという著者の危機感については、よく分かる。しかし教育畑の人間から言わせてもらうと、確かにリテラシー教育を行うのも大切だが、本質的には「批判能力」を身に付ける方が決定的に重要だ。しかしこの批判能力というものは日本国内の諸権力(政府に限らない)にとっても厄介な代物で、伝統的には民衆が批判能力を身に付けることをそれほど推奨してこなかったし、あるいは押さえつけようとしてきた感すらある。フェイクニュースを流すのは、さて、ロシアだけなのか。日本国内の諸権力にとっては、批判能力の涵養は両刃の剣として自分自身に跳ね返ってくる恐れがある。本質的な批判能力の涵養を回避したままでリテラシー教育が可能かどうかは極めて怪しいわけだが、さてはて、日本の教育の明日はどっちだ。

廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』講談社現代新書、2021年

【要約と感想】服部倫卓・原田義也編著『ウクライナを知るための65章』

【要約】ウクライナの自然・地理・歴史・民族・言語・宗教・文化・芸術・観光・衣食住・産業・経済・外交・軍事・日本との関係について、トピックごとにまとめてあり、知りたいことが手っ取り早く分かります。ウクライナとロシアの関係は、2014年以降、緊迫の一途を辿っています。

【感想】2018年出版の本なので、2019年に大統領に就任したゼレンスキーについては一切触れられていない。が、現在のロシア・ウクライナ関係に至る伏線については、かなりよく分かる。2014年にはマイダン革命によって親露政権が倒れ、それに伴ってクリミア併合とドンバス紛争が発生したが、その事情については丁寧に解説してある。ロシアもロシアだが(2008年にはグルジアと戦争してるし)、ウクライナの方もたいがいだということが分かる。まあ、たいがいだからといって主権国家に戦争を仕掛けていいという法はないし、苦しむのはいつも一般庶民なのだが、それはそれとしてウクライナの国内問題についても視野に入れておかなければいけない。特に問題なのは、右翼ナショナリストの挑発活動だろう。プーチンがゼレンスキーを「ナチだ」と決めつけていたが、ゼレンスキーの思想信条はともかくとして、2014年に親露政権を倒したマイダン革命でネオナチ支持者を含む右翼過激ナショナリストが公然と武装して破壊活動を行なったことについては知っておいて損はないのだろう。いま、敵の敵は味方ということで反露右翼過激ナショナリストたちにも現代兵器が渡っていて(しかもアメリカから)、この紛争が収まった後で地域全体の安全保障に禍根を残すことにならなければよいのだが、しかしまずは目の前に敵が迫っている以上、背に腹は代えられず、後先考えている場合ではないということも分かる。この後どう転んだとしても、この侵略行為はロシアにとっても悪手になるのだろう。
 読んでいて思わず涙が出てきてしまったのは、若い世代のポップカルチャーに関する記述を読んでいたときだ。日本のマンガやアニメが好きな子どもや、張り切ってお洒落をして自撮り画像をSNSにアップする女の子とか、ラップなど新しい音楽を楽しむ若者とかが、キイフのお洒落なカフェに集まって青春を謳歌しているという話が書いてあったが、若者たちで賑わっていたお洒落なカフェは、砲弾を浴びて瓦礫の山と化してしまっている。ウクライナやロシアの大人たちのほうにいろいろ後に引けない複雑な事情があることは本書を読んでよく分かったのではあるが、それにしても若者たちを巻き込んでこんな酷い目に遭わせていい道理などない。ウクライナの若者たちがキイフのお洒落なカフェで自撮画像をSNSにアップできる日常を取り戻すために、私にできることは、まず「知る」ことだ。さしあたって、ロシア軍の攻撃を受けて破壊された世界最大の飛行機アントーノフAn-255が、2011年の東日本大震災の時に支援物資を載せて日本に飛来していたことは、この本を読んで初めて知ったし、もう忘れない。ありがとうウクライナ。

服部倫卓・原田義也編著『ウクライナを知るための65章』明石書店、2018年

【要約と感想】黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』

【要約】ウクライナは、何度やられても、不撓不屈の精神で何度でも立ち上がります。

【感想】ちょうど20年前に出版された本で、その間に世界情勢は大きく変化しているが、ウクライナという国の歴史と文化を知ろうという向きにとっては、まったく古くなっていない。落ち着いた筆致で、さくさく読める分かりやすい文章だが、内容は熱い。周辺の大国に蹂躙されながらも、独立への熱意を失わず、自らの文化を保持し続けたウクライナの歴史がよく分かる。
 ただし、2002年出版ということは、オレンジ革命(2002年)、マイダン革命とクリミア分割およびドンバス紛争(2014年)については当然一切触れられていないということなので、最新事情については丁寧にアップデートしておく必要がある。

【個人的な思い出】バトル・コサックは、実質的にはウクライナだったんだよ!?
 ウクライナを語る重要キーワードのひとつが「コサック」だ。コサックが歴史の表舞台に現れるのが15世紀後半頃ということで、西洋史的には大航海時代やルネサンスの時期にあたり、日本史的には応仁の乱から戦国時代に向かう時期に当たる。で、「コサック」とは大雑把には国家未満の独立武装集団のことで、日本史で似ているとすれば応仁の乱後の権力空白期に地域を実効支配した戦国大名という感じか。ちなみに著者は、ウクライナのコサックは、日本の「侍」と精神性が似通っていると書いている。
 で、私の世代(1972年生)としては、「コサック」と聞くと、つい思い出してしまうのが『バトルフィーバーJ』(1979年放映)だ。いわゆる戦隊ヒーローものの最初期番組にあたる。バトルフィーバーJには5人の戦士が登場する。バトル・ジャパン、バトル・フランス、バトル・ケニア、ミス・アメリカ、そしてバトル・コサックだ。子供心にいちばんインパクトがあったのはバトル・ケニアで、その野性味溢れるアニマルアクションに「これがアフリカか」と偏見に満ちたイメージを脳味噌に刻んだわけだが、逆にいちばん意味が分からなかったのがバトル・コサックだ。当時小学校低学年だった私も、世界中にいろいろな国があることは一応知っていて、ジャパン、アメリカ、フランスについては漠然としたイメージをなんとなく持っていた。そしてケニアについては、後に映画『少年ケニヤ』(1984年公開)などもあってだんだんイメージが固まっていくものの、しかし一方「コサックって何だ?」という疑問については、長い間解消されることがなかった。大人に聞いても要領を得なかった。両親も、そして学校の先生もコサックのことはよく知らなかった。子供ながらに心得たのは、「どうやらコサックという国は存在しない」というところまでだった。しかしどうしても分からなかったのは、ジャパン、アメリカ、フランス、ケニアは独立国家なのに、どうしてバトルフィーバーJは5人の戦士の中に独立国家でもないコサックを入れたのか、ということだった。子供心に想像したのは、「ソ連というヤバい存在」が何らかの関係を有している可能性だった。たとえばバトルフィーバーJの6人目の戦士として、バトル・イスラエルとかバトル・北朝鮮とかバトル・リビアが登場すると、いろいろ面倒なことになる。同じような理屈で、バトル・ソビエト連邦が登場するのは、かなりマズい。だから制作側としては本来「バトル・ソ連」としたかったところ、大人の事情でバトル・コサックになったのだろう、という想像だ。本当はどういうことだったのか、未だに事情は分からない。
 次に「コサック」と出会うのは、ストリートファイターⅡのザンギエフだ。ストⅡがアーケードゲームとして登場するのが1991年。奇しくもウクライナ独立の年にあたり、個人的には高校を卒業して東京に出てきた年に当たる。この頃は「エリツィン14歳」などと言って喜んでいた時期でもある(分かる人には分かるギャグ)。で、ストⅡでロシア出身のザンギエフがコサックダンスを踊っていたこともあり、コサック=ロシアという漠然としたイメージがさらに強化されたのだが、じゃあコサックが何なのかという本質的なことについては相変わらずさっぱり理解していない。
 で、コサックについてようやく概要を理解するのは、21世紀に入ってから、インターネットが急速に発達して、Wikipedia等で事項検索が容易になってからのことだった。コサックは、ペテルブルクとかモスクワのようなロシア中心部とは無関係で、黒海北岸に割拠した武装集団だということを、ようやく理解し始めるのであった。
 そして本書を読んで、ようやくにしてコサックの具体的な姿を初めて掴めたような気になっている。日本の戦国史で喩えると、上杉(北)と武田(西)と北条(南)に囲まれた北関東戦国武将(真田家や長野家や佐野家)のようなものだ。ウクライナのコサックは、北にロシア、西にポーランド(当時は強国だった)、南にトルコと、強大な勢力に囲まれていた。そして北関東戦国武将たちと同じように、ロシアについたり裏切ったり、ポーランドについたり裏切ったりなどしながら、生き馬の目を抜く戦国の世を生き抜いていく。日本では真田家が西の武田につき、長野家が北の上杉家についたように、ウクライナもドニエプル川の西がポーランドにつき、東がロシアにつきやすいようだった。日本と違うところと言えば、犠牲者の数がまさにケタ違いに多い、というところになるのだろう。

【個人的な心配】今後の展開
 2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻以降、いろいろなニュースを目にしてきたが、気になったのはロシアのお婆さんが「ウクライナ人はみんなテロリストだ」と言っていたことだった。国営放送のプロパガンダに染まっているという単純な話ではなく、まさにロシアの歴史教育が本質的にそういう世界観を醸成しているだろうことが、本書の記述からも伺える。実際、ウクライナは大国の占領下にあっても独自の文化を失わず、不撓不屈の精神でレジスタンスを構成し、根気強くゲリラ戦を展開してきた歴史を持つ。逆に言えば、ロシア側(特に年寄り)から見れば、ウクライナはパルチザンの巣窟ということになる。おそらく、プルシェンコなどロシア愛国者たちも本気でそう信じているのだろう。ロシアのお婆さんやプルシェンコの世界観が一方的な偏見であることは間違いないとしても、ウクライナ人の伝統的な戦い方にロシア(帝政ロシアでもソ連でも)が苦しめられた歴史を反映した偏見でもある。本書は、焦土作戦とゲリラ戦を得意としたウクライナ人の戦い方についてこう記述している。

「ここで我々が気づくのは、このユーラシア大平原ではその後2000年以上たってもほぼ同じことが繰り返されている点である。すなわち、ナポレオンのロシア遠征(1812年)やナチス・ドイツのソ連への侵攻(1941-45年)に対しても撤退・焦土作戦とゲリラ戦法という基本的には同じやり方が用いられている。コサックもゲリラ戦法を得意としていた。」13頁
「反乱を起こすと、コサック以来の伝統があるので、この地の農民は強い。反乱の指導者は、歴史上のコサックの首領にでもなった気分になる。」194頁

 都市化が進んでさすがに15世紀の戦国時代とは状況や環境はまったく異なってはいるが、ウクライナが「コサック」の伝統を誇りに思い、受け継ごうとしていたのであれば、大国からの侵略に対して同じことは起こりえる。
 ウクライナの国民的詩人が「遺言」(1845年発表)という詩の中でこう歌っているのを、本書が紹介している。

わたしを埋めたら くさりを切って 立ち上がれ
暴虐な 敵の血潮と ひきかえに
ウクライナの自由を かちとってくれ
(146頁)

 こういう誇り高い詩を歌い続ける人々を、仮に一時的に屈服させることができたとしても、支配し続けることは、きっと不可能だ。ロシアが諦めない限り、この戦争は終わらない。誰も幸せにならない憎しみの連鎖を、どうにかして止めて欲しい。私にできることは、まずは「知る」ことだ。

黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年

【要約と感想】阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』

【要約】日本人は「人格」「個人」「社会」「愛」という概念を、明治以降にヨーロッパから輸入しましたが、今に至るまでその意味を理解していません。
 西欧で「個人の人格」という概念が形成され始めるのは12世紀頃からのことです。決定的に重要な契機はキリスト教の告解という制度の成立です。男女の性愛が反省の対象として意識化され、霊と肉の統一体としての人格が浮上します。

【感想】斯学の権威に対して私が言うのもなんだけど、一次史料をほとんど使わずに、もっぱら二次史料から議論を組み立てて、自分の価値観に都合の良い結論に引っ張っていく行論には、あまり感心しない。人格の形成において「告解」という制度が重要だという本書の核心にある論点はもちろんフーコーが提出したものだし、それを援用した議論は柄谷行人が先に展開していた。
 まあ、日本が「民主主義」とか「個人の尊厳」という観点から西欧に遅れているという問題意識と危機感はよく伝わってくる。いわゆる西洋近代がルネサンスではなく12世紀に起源をもつという議論が一般化した以上は、西欧中世史家として専門的な観点から状況を説明する義務感をもつのは当然ではある。そういう意味では、いわゆる「12世紀ルネサンス」の専門的な歴史議論と現代日本の日常生活を繋げるという使命を果たした本であることには間違いない。著者が示す危機感に共鳴するか反発するかはともかく、遠いヨーロッパの「12世紀ルネサンス」の議論が現代日本の我々の生活にも関係しているだろうことは頭の片隅に置いておいていいのだろう。

【研究のための備忘録】人格
 タイトルに「人格」とついているとおり、西欧中世における「人格」概念の形成に関する記述がたくさんあったので、サンプリングしておく。
 まず専門的な歴史の話の前に、日本人が「人格」という概念を理解していないという危機感が繰り返し表明されている。

「私たちは明治以後、近代学校教育の中で、自分を個人として意識し、一つの人格をもつ存在であることを学んできた。そのばあい、人格とは何かとか、近代以前において日本人は個人の人格をどのように考えてきたのか、などと問うこともなく、私たちは過ごしてきたように見える。とくに周囲の人間関係の中で、一個人が自分の人格をもちつつ活きることの意味について、深い省察はなされれていないように思われるのである。」48頁
「私たちは社会科学、人文科学のいずれを問わず、学問のすべての分野において西欧的な人格概念を前提にして議論をしている。しかし日常生活の分野においては、西欧的な人格概念ですべてを通すことは少なくとも日本国内においては不可能である(後略)」156頁
「明治十七年(1884)にindividualという語に個人という訳語が定められてから、一〇〇年が経過しているにもかかわらず、日本には個人の尊厳の思想は根づいていないといってよいであろう。」172頁

 苅谷剛彦は2019年の著書で、日本人は「人格」とか「個性」という概念を完全に理解しているという見解を示しており(苅谷『追いついた近代 消えた近代』)、阿部の論述と真っ向から対立している。阿部論文が1990年発行なので、およそ30年の間に受け止め方が変わったということか、どうか。

 で、現代日本の問題を踏まえた上で、西欧がどのように「人格」概念を形成していったかの話に入る。ポイントは、従来の歴史学では15~16世紀のルネサンス期が近代的個人の始まりだとされていたところ、中世史の進展によって12世紀こそが決定的なターニングポイントだったと理解されているところだ。

「グレーヴィッチは、かつて主張されたように、中世からルネサンスまでは個人は存在せず、個人は社会の中に完全に組み込まれ、社会に完全に服従させられていた、という説はいまでは支持しえないと述べている。(中略)そしてまさに中世において、人格という概念が形成されていった、というのである。」61-62頁
「十三世紀には、個人の自己意識に転機が訪れる。(中略)これまで人間の霊魂のみを問題にしていた哲学者たちは、十三世紀には、不可分の統一体としての霊と肉体に目を向け始めるようになったが、それこそ人格を形成するものなのであった。」66頁

 このあたりは著者やその周辺が勝手に言っているのではなく、学会というか知識人全体の共通理解になっている。
 で、歴史的な論述を具体的に進める際に著者がとりわけ注目してこだわっているのだ、男女の性愛関係だ。

「私たちは、人格や個人のあり方を考えるときに、抽象的、あるいは形而上学的に語るばあいが多い。しかし現実の個人や人格のあり方は、人と人の関係の中で現れるのであって、対人関係を抜きにして、個人や人格を語ることはできないのである。(中略)男女の関係こそは、人間と人間の関係の基礎であり、個人や人格の問題も、そこからはじめて考察しなければならないのである。それと同時に、個人や人格について抽象的に語るのでなく、具体的に語らねばならないとするなら、人間の肉体と人格の関係についても語らねばならないであろう。」74頁
「人間と人間の関係のなかで、男と女の関係が最も親密なものであろう。この親密な関係を肉の面で棄てることによって得られるもの、それが「一つ心」であった。自分の肉体の奥底にある「真の自分」を発見し、絶対者である神に直面しようとする態度である。ここには冒頭でのべた、ペルソナのキリスト教的理解が明確な形で示されているように見えるのである。三位一体の神を構成する三つのペルソナに対して、ひとつのペルソナである人間が、自己のペルソナを発見することによって応えようとしているのであり、絶対者と人間の個とが直面する構図があり、近代のヨーロッパ哲学における人格の概念につらなってゆくものをみることができるのである。」p.88

 個人的に言えば、なんとなくこのあたりは論理が飛躍しているようにも思えるところではある。「人格の形成」と「男女の性愛」はいきなり繋がるようなものなのか、またさらにそれがキリスト教のペルソナといきなり接触するものなのかどうか、疑問なしとはしない。まあ、言いたいことそのものは分からないでもない。
 で、「男女の性愛」が「人格の形成」に結びつくのは、カトリックが制度化した「告解」という仕組みが媒介するという論理になっている。本論が成立するかどうかは、この論点の説得力にかかっている。

「告解という制度が個人による自己の行為の説明からはじまる以上、個人が自己を意識する大きなきっかけとならざるをえなかったのである。(中略)ヨーロッパにおいては、このような個人の内面に対する上からの介入を経て、近代的個人が成立する道がつけられたのである。」132頁
「告白の中で個人は自分の行為を他人の前で語らねばならないのである。自己を語るという行為こそ、個人と人格の形成の出発点にあるものだからである。たとえ強制されたものであったにせよ、そこには自己批判の伝統を形成する出発点があった。ヨーロッパ近代社会における個人と人格は、まさにこの時点で形成されつつあった、といってよいだろう。」140頁

 まあ、なんとなくフーコーと柄谷行人の議論でお馴染みの話ではあるように思える。ここに納得するかどうか。言いたいことは分からないではないけれども、そうとう眉に唾をつけておきたい気分だ。別のストーリーも大いにあり得るところだ。個人的に気になっているのは、いわゆる「近代的個人」の成立が「近代的国家」とパラレルになっているというところだ。「告解」という制度から攻めるよりも、「近代的国家と近代的個人の相似」のほうに注目する方が説明としては説得力をもつのではないか。まあ、「告解」を重視する議論は一つの仮説として留意はしておきたい。
 話はさらに、12世紀トゥルバドゥールの宮廷風恋愛の具体的分析に進む。

「ここで注目しておきたいのは、トゥルバドゥールにおける想像力の問題である。恋人の裸身に手で触れ、接吻をしながらも性交にはいたらない彼らの行動は、自己に制約を課すことによって肉欲を霊的な脈絡の中に置き換え、愛を理想化し、エネルギーを詩作に向けたというのである。風景や自然に対する愛が歌われるのも、彼らの想像力の結果なのである。それは自分たちの愛を人間独自の世界の中で完成されるものとし、神の愛に連なるものと見なかった結果なのである。このようにみてくると、トゥルバドゥールの恋愛が、西欧における個人の人格の成立と不可分の関係にあったということがうなずかれるであろう。」263-264頁
「この頃にヨーロッパの多くの人が愛について語り始めた背景には、第二章で述べたように個人・人格が成立しつつあったことがあるであろう。真の意味での恋愛が成立するためには、男女両性が独立した人格をもっていなければならない。(中略)宮廷風恋愛は、このような西欧における愛の発見の一環として生まれたものであった。そしてその大前提として、個人の成立・人格の成立があったのである。」p.277

 うーん、どうなんだろう。牽強付会な感じがしないでもない。本論でもちょこっと言及されているが、こういう恋愛の技法はアラビア経由で入ってきたという説も有力なところで、そうなると特に「西欧に個人が誕生した」という文脈で語るべきことではなくなってくる。実際にトゥルバドゥールの詩を読んでみても、中身は極めて抽象的で、具体的な個性が描かれているわけではなく、「個人」とか「人格」の誕生に繋がるとは素直に受け取ることはできない。
 まあしばらくは、眉に唾を大量につけつつ、一つの仮説として頭の片隅に置いておく、という扱いでいこうと思う。

阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』講談社学術文庫、2019年<1992年

【要約と感想】C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』

【要約】西欧中世は、通説では無知蒙昧で野蛮な暗黒時代とされてきましたが、とんでもない勘違いで、実際にはいわゆる15世紀のルネサンスに直接繋がっていくような、好奇心に満ち溢れた創造的な時代です。近代ヨーロッパの原型は、この時代に生まれました。

【感想】大学の一般教養レベルでも「十二世紀ルネサンス」という言葉はよく耳にするわけだが、本書はその一番のモトネタということになる。原著は1927年出版で、もう95年も前のことだ。おそらく個々のトピックについては後の研究が乗り越えているところが多いだろうと想像するが、大枠の歴史観については相変わらず通用しそうだ。おもしろく読んだが、出てくる人名は馴染みのないものばかりで、現代に至ってもいかにこの時代が高校世界史なども含めて一般教養の世界からハブられているかが分かるのだった(いや、私の勉強不足なだけかもしれないぞ)。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 中学の教科書レベルでは、いわゆるルネサンスは14世紀イタリア(具体的にはダンテやペトラルカ)に始まるとされているが、本書はその教科書的通説を批判する。ルネサンスは中世を通じて段階的に形になってきたもので、具体的には8世紀カロリング・ルネサンス→12世紀ルネサンス→15世紀ルネサンス(クァトロチェント)を経て展開したとして、特に12世紀ルネサンスが決定的に重要だったという主張だ。相対的に、従来は重要視されてきた15世紀ルネサンスを軽く見ることになる。

「イタリア・ルネサンスは中世から徐々に形をあらわしてきたもので、いったいいつをはじまりとするか学者の間でも意見がまちまちで、クァトロチェント(1400年代)の名称はもとより、その事実さえ否定する人がいるくらいなのだ。」4頁
「十四世紀は十三世紀から出てきているし、十三世紀は十二世紀から出てきているという具合で、中世ルネサンスとクァトロチェントの間にはほんとうの断絶はない。ある学生がいつか言ったものだ。ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出にあいさつを送る」!」18頁

 ダンテやペトラルカが「ルネサンスの始まり」とされているのには、かねてから個人的にも強い違和感を持っていたので、そう主張する際には「ハスキンズも言ってた」と応援を頼むことにする。
 また、ダンテやボッカッチョなど14世紀イタリア人文主義者が痛烈な聖職者批判を繰り広げていることを見て個人的には凄いなあと思っていたし、私以外にもそういう感想を漏らしている文学研究者がいるのだけれども、実はありがちだったということも分かった。これからは堂々と聖職者批判をしているテキストに触れても、驚かないようにする。

「こういう作品は、パロディであると同時に風刺にもなっていて、またこの時期のラテン語の詩は風刺が非常に多いのである。そして風刺の対象は、中世にはいつも悪罵の的になっていた女と農奴、あるいは特定の修道会のこともあったが、とりわけ強い毒を含んだ攻撃は教会組織、特にローマ教皇庁と高位聖職者に向けられていた。こういった毒舌に類するものは、叙任権闘争のパンフレットに起源を求められるが、程度はさまざまであれ、おおむね絶えることなくつづいて、結局はプロテスタントの反逆にいたる。」185頁

 気になるのは、さりげなく「叙任権闘争のパンフレットに起源」と述べられているところだが、この論点は本書ではこれ以上は膨らまない。叙任権闘争の結果としてカトリックが俗世間に染まったのが聖職者批判の原因ということかどうか、ちょっと気にしておこう。

【研究のための備忘録】本
 西欧中世において「本」の値段がべらぼうに高かった(というかむしろ買うことすら不可能だった)ことは各所に述べられているのだが、これまで確かな出典には出くわしていなかった。ここにあった。ありがたい。

「蔵書は、もらうか買うか、その場で作るかしてふえていった。十二世紀には、本を買うことは珍しかった。というのは、パリとボローニャがすでに本を売買する場所として登場してはいるものの、筆写を職業とする人も、本を取引する市場もまだなかったからである。写本はもとより値が張るし、とりわけ共唱用の大部な典礼書など大へんなもの。大きな聖書を十タレントで買ったとか、ミサ典書をぶどう畑と交換したというような話もある。一〇四三年にバルセロナの司教は、プリスキアヌスの本二巻をユダヤ人から買うのに、家一軒と土地一区画を提供した。」70頁

 ネットにも「中世の本の値段は家一軒」と書いてあるサイトが散見されるのだがが、ネタモトはこれだな。有象無象のネット記事が根拠では恐ろしくて授業で使うわけにいかなかったが、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて堂々と言うことにする。

【研究のための備忘録】教育
 12世紀の教育に関する記述がたくさんあって、いろいろ勉強になった。もちろん学部生向けの基本的な教科書にも書いてあることではあるが、古典の言質を確保できたので、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて胸を張って言える。

「十一世紀のイタリアで注目すべきもう一つの事実は、俗界でも教育が命脈を保っていたことである。(中略)この階層は、書物という形で自分を表現しなかったにせよ、少なくとも法律と医学という在俗専門職の育つ土壌は作ったはずで、この二つはイタリアの社会で急速な発展をとげた。」30-31頁
「農民がその後何百年もの間読み書きの能力なしですませる一方、北方の都市住民は、基本的な教育を授ける世俗の学校をつくりはじめた。(中略)なかでもイタリアでは、世俗の教育の伝統が公証人や写字生の間にずっと生きつづけていて、たとえばヴェネツィアなど、読み書きは商人の階層にまでひろがっていた。すでにイタリアの諸都市は、それぞれ地元の法律学校のみならず、公文書や年代記も持っていた。その上、地中会見の商業共和政諸国は、東方とのコミュニケーションの要衝でもあった。」65頁

 イタリアでは古代ラテン的な教養が生き残っていたということで、ダンテやペトラルカやボッカッチョの古典的教養は改めてビザンツ帝国やアラビアから学んだものではなく、イタリアの知的伝統を背景にしていることをよく理解した。気になるのは、どうしてイタリアの俗界(商人階級)で教育が生き残っていたか、その理由と背景だ。本書では地中海貿易の要衝ということが前面に打ち出されているが、古代ローマからの伝統はどれくらい意味を持っているのだろうか。

 大学に起源についても、古典からの言質を得られて、ありがたい。「教科書に書いてあった」と言うより、「ハスキンズが言っていた」と根拠を示せる方が格好よく思えるのだった(要するにただの見栄だったか)。

「十二世紀は、単に学問の分野で復活の時代だったにとどまらず、制度の分野、とりわけ高等教育制度の分野でも、新たな創造の時代だった・はじめは修道院付属学校と司教座聖堂付属学校、終わりになって最初の大学が登場するわけで、高度の学問を制度化した時代、少なくとも制度化の動きを定めた時代だと言うことができよう。一一〇〇年にはまだ「教師が学校に先行する」が、一二〇〇年になると「学校が教師に先行する」。同時に言えるのは、その間の百年は、まさしく学問が復興したというその事実によって、一歩進んだ学校を作り出したということである。十一世紀の末には、学問は七自由学芸という伝統的なカリキュラムの枠の中に、ほぼ完全におさめられていた。十二世紀は、三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、それに神学という専門の学部を生み出した。それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学問が西ヨーロッパになかったからである。この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。知的な革新と制度上の核心が相携えて進行した。」347頁
「もともと大学(universitas)という言葉は、広く組合、あるいはギルドを意味するもので、中世にはこういう共同体がたくさんあった。それが次第に限定されて、やがて「教師と学生の学問的な共同体ないしは組合」だけを指すようになった。これは大学の定義としてはいちばん最初にあらわれた、しかも最善の定義と言うことができる。このような一般的な意味からすれば、同じ町にいろいろなギルドがあるのと同じく、いくつかの大学(universitas)があってもかまわないわけで、法律や医学などその一つ一つの大学は自分たちの共同体を大切に守り、いくつかの専門学部を擁する単一の大学に合体する段にはなかなかならなかった。」348頁

C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』別宮貞徳・朝倉文市訳、講談社学術文庫、2017年<1989年