「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【宮城県多賀城市】末の松山と沖の石で歌枕とは何かを思う

 宮城県多賀城市にある高名な歌枕、末の松山と沖の石に行ってきました。

 末の松山は、百人一首に採用された清原元輔の和歌、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)で知られています。

 実際に行ってみると、小高い丘の上に松の木があり、石碑や案内板があるだけです。特に絶景というわけではありません。

 和歌が掘られた石碑。
 末の松山が近年になって注目されたのは、2011年に発生した東日本大震災に伴う大津波に関してです。末の松山は、古今和歌集に「君をおきて あだし心をわがもたば すゑの松山浪もこえなむ」と詠まれています。意味は「あなたをさしおいて私が浮気したら、末の松山を波が越えてしまうでしょう。つまり私が浮気することは絶対にありません」という意味で、末の松山を浪が越えることは「絶対にありえない」ことの喩えとなっています。この「浪が越えることが絶対にありえない」ということが、重要だというわけです。
 古今和歌集が成立した905年は、東北地方を大津波が襲った貞観地震(869年)から36年後のことです。和歌に言われる「浪」とは、ただの波ではなく地震に伴って発生した津波であって、貞観地震で発生した大津波の記憶が生々しい時期に歌が詠まれただろうと思われるわけです。研究者のシミュレーションでは、貞観地震の津波によって、末の松山は海の中の孤島のようになっていただろうと考えられています。「末の松山浪こさじ」は、単なる歌のための比喩ではなく、現地の人々が津波の記憶を伝えるための言葉だったかもしれないわけです。
 2011年の東日本大震災の津波も、この「末の松山」を越えなかったそうです。

 松尾芭蕉が訪れたことで、末の松山の歌枕としての価値は、さらに上がります。ただ、末の松山を詠んだ歌人で、実際に末の松山を訪れた人はほとんどいないそうです。遠くにあって想像するものであって、実際に訪れるところではなかったようですね。まあ、末の松山に限らず、歌枕とはそういうものではあります。

 何も知らずに行くと、末の松山はただの小高い丘に過ぎません。日本の歴史を踏まえて訪れると、感動をひとしおということなんでしょう。まあ、歌枕に限らず、歴史を知らないと旅はあまり楽しくならないとは思いますが。

 末の松山の近くには、もうひとつ歌枕として高名な「沖の石」があります。

 沖の石は、「わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし」という歌で高名です。意味は「私の袖は引き潮の時でさえ海中に沈んで見えない沖の石のようで、他人には分からないだろうけれど涙に濡れて乾く時間すらありません」という感じです。
 実際に見てみると、これを和歌にある「沖の石」と見るのには無理があるなあ。そもそも石が並んでいるのは池の中で、海ですらないですし。引き潮とか、ありえませんし。
 古今和歌集で小野小町が詠んでいる「おきのゐて 身を焼くよりもかなしきは 宮こしまべの別れなりけり」という歌も、「おきのい」じゃなくて「おきのゐ」となっています。「石」は「いし」であって「ゐし」ではありませんから、「おきのゐ」と「沖の石」を一緒にするのは、どうなんだろう?
 それに、そもそも現在の形になったのは、江戸時代に入ってから仙台藩が名所旧跡の整備をしたからのようで、平安の当時の面影はまったく残っていないはずです。
 このあたり、沖の石を現在地に比定することは個人的には不可解なところですが、まあ歌枕とはそういうものかもしれないと思いつつ末の松山と沖の石を後にするのでした。
(2015年9月訪問)

【埼玉県越生町】高取城と越生神社で関東戦国史に思いを馳せる

埼玉県越生町の高取城跡へ行きました。

高取城は、越生駅からまっすぐ西の方に見える山の中にあります。山腹までは舗装された道路がありますが、最終的にただの山道になります。

舗装路が終わって山道に入るところ。花粉が凄いよ。

というか、往復2時間強程度の、親子で楽しめる手頃なハイキングコースとして人気のようです。道は岩が露出してゴツゴツしていますが、坂もきつくなく、歩きやすいですね。私は実習指導訪問の後に寄ったので、ビジネスシューズで登山でしたが。

途中でハイキングコースと分岐して、高取城へ。明らかに人工的に造成されたとおぼしき平坦な場所に出ます。写真を撮っている場所はたぶん第二曲輪で、本曲輪を見上げています。

本丸跡には、神社がありました。扁額がないので詳細は分かりませんが、麓にある越生神社の奥宮のようです。

本丸はそれほど広くなく、非常時用の後詰の城か、物見櫓として利用されていたようです。大きなスダジイの根元には小御岳や浅間神社の祠もあって、戦国の世が終わった後は信仰の場となっていたようですね。

山を下りると、麓に越生神社があります。御祭神はスサノヲですが、明治後期の神社合祀令のために様々な神社がここに集められています。たとえば稲荷の祠は4社、狐の石像は4体ありました。祠も狐も、越生村各地から集められたのでしょう。
いま考えれば神社合祀令は野蛮な政策なわけですが、まあ、自然村から行政村へと地方行財政制度の再編成を目指す権力機構としては避けて通れない課題ではあります。こういうところに近代化の爪痕が残るわけですね。

神社にあった説明看板によると、越生神社の下方に越生四郎左衛門の屋敷があったようです。この越生四郎左衛門、太平記によれば、なんと北畠顕家を討ち取った武将のようです。ものすごいヒーロー(あるいは北朝の憎き手先)です。
遺構は、太田道灌と長尾景春の戦いの時期のものと見る説があるのですね。燃える。確かに鉢形城(長尾景春本拠地)から鎌倉に通じるルートを考えると、越生は地政学的に極めて重要な位置にあります。ここを押さえているのと押さえていないのとでは、まるで戦況が変わってきます。太田道灌ゆかりの地として名高いのも、地政学的な観点から、よく分かります。

南北朝から戦国期の関東戦国史の全体像を思い描きつつ、お土産に梅酢を買って越生を後にするのでした。
(2018年2/27訪問)

【埼玉県越生町】越生梅林に行く途中、不思議な光景に出くわす

越生梅林(おごせばいりん)に行ってきました。
越生梅林は、関東三大梅林の呼び名も高い、梅の名所です。2/17~3/21まで梅まつりを開催しています。

早咲きの紅梅は見頃を迎えておりました。目にも鮮やかな紅色です。

が、主力の白梅はほとんど咲いていませんでした。早咲種は八分咲きほどでしたが、全体的にはまだ寂しいかな。

一昨年の3月に訪れたときは、古木の魁雪も満開で、実に見事でした。上の写真は一昨年に訪れたときのもの。このときは梅の香りも鮮烈でした。

ところで、越生梅林に行く途中、不思議な光景に出くわしました。こんな感じ。

円筒形ポストの大群。なんだこれ。

ポストの大群の脇には、トリケラトプスが首に紐をかけています。一部のB級スポットマニアの間では有名な神辺土建というところのようです。何も予備知識なしで通りかかると、驚きます。

そんなわけで、梅酢をお土産に買い、見頃になったらもう一度行ってみようかなと思いつつ、越生梅林を後にするのでした。
(2018年2/27訪問)

【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)

【岩手県盛岡市】盛岡城ともりおか歴史文化館

 盛岡城は、関東以北にはとても珍しい、重厚な石垣が張り巡らされたお城として大注目です。とても格好いい城です。

 北側の三の丸から攻め入ります。さらに北側にある下曲輪跡に飲食店が建ち並ぶ現在の風情も興味深いところではありますが、城としては三の丸からが本番かなあ。

 盛岡城は、北側から下曲輪→三の丸→二の丸→本丸というふうに順番に並べて設計されている、いわゆる連郭式のお城になります。連郭式は横からいきなり本丸を攻められると弱いのですが、盛岡城は中津川と北上川に挟まれていて、いきなり横から攻められる心配はあまりないんですね。

 三の丸の虎口の脇にある桜山神社には、烏帽子岩という巨大岩石が祀られています。

 三の丸から本丸方面を臨む。現在は多目的広場になっている部分は、台所と呼ばれている場所で、周りを高石垣に包囲されている巨大な枡形という趣ではあります。が、あまりにも巨大すぎて、枡形として機能するかどうか、ちょっと不思議な感じがします。こんなに巨大な枡形は、他に類例があるのかな。なかなか個性的な縄張のように思います。

 台所から盛岡城をパノラマで見る。左側が本丸で、右側が三の丸。

 改めて、三の丸から城内へ。クランク型の虎口を抜けると、城に入ったって気分が高まりますね。

 二の丸付近から、本丸の石垣を見る。極めて立派な高石垣です。盛岡城は、各所の石垣が本当に素晴らしい。

 この橋を渡ると本丸です。江戸時代には、この橋には屋根がかかっていたようですね。

 盛岡城はところどころの案内板も充実していて、見学のしがいがあります。

 三の丸の東には、もりおか歴史文化館が建っています。一階は盛岡のお祭りなどを展示する無料スペースで、2階が有料の博物館施設になっています。
 博物館の展示は、南部家の宝物が素晴らしいのと、模型や復元などものすごく気合いが入っているのとで、たいへん見応えがありました。中世以前の蝦夷の歴史等にも触れられていて、東北地方の個性を考える上でも貴重な施設です。

 また、歴史館から東に中津川を越えたところに、もりおか啄木・賢治青春館があります。ここでは盛岡中学で学んだ石川啄木と宮沢賢治の事跡が紹介されています。一階には喫茶店も併設されていて、趣がある建物でいただくコーヒーは格別です。こういう文化の香りがする場所があるのは、とても貴重ですね。
(2015年10月訪問)