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【感想】国立歴史民俗博物館「学びの歴史像―わたりあう近代―」

 東京国立歴史民俗博物館で開催された企画展示「学びの歴史像―わたりあう近代―」を観覧してきました。
 この博物館の常設展示は、「日本と考えられているものの境界」を丁寧に掘り下げることで逆に「日本」を浮かび上がらせるような性格を示しているように個人的には思っておりまして、もちろん企画展示でも我々が通常イメージするような「学び」を打ち出してくることはありません。企画概要で「狭義の「教育史」ではなく」と示しているとおりです。「狭義の教育史」を専門とし、特に明治前半の「狭義の教育史」をメインフィールドとしてきた私としては、挑戦状を叩きつけられたようで、無視できない展示なのであります。まあ、楽しく観覧いたしました。

 企画展示では、課題を浮き彫りにするためにサブテーマを6領域設定しておりました。
(1)地図から浮かび上がる自国認識の変化
(2)幕臣が近代化に果たした役割
(3)博覧会を通じた社会教化
(4)衛生観念の普及
(5)アイヌによる教育の受容と利用
(6)学校教育の展開

 (6)はいわゆる「狭義の日本教育史」のフィールドで、私にとってはお馴染みの領域です。伊澤修二、能勢栄、湯原元一あたりについては、お馴染みすぎて、言いたいことがいろいろ胸に湧いてくるところです。とはいえ、八重山における学校定着過程を持ってくるところは、さすが「境界」を深掘りしてきた博物館なのでした。
 (1)(3)(4)のテーマに関しては、アカデミックの世界では30年前に流行っていて、院生時代によく勉強した領域のような印象があります。おそらく、(1)はポスト・コロニアルの文脈、(4)はフーコー生権力論の文脈で流行っていたという認識です。(3)についても本が立て続けに出版されて話題のテーマとなっていて、岡倉天心絡みで美術の研究にいっちょ噛みしていた私としても、一通り目を通したものでした。私の記憶にある資料もたくさん展示されていて、なんだか懐かしい感じがしました。
 (2)に関して、従来は勝海舟や福沢諭吉がよく参照されていたわけですが、今年に関しては渋沢栄一の印象が強いところでしょうか。いわゆる「教義の教育史」に関わる史料もたくさん展示されていたので、何か今後の研究のためのヒントは隠れていないかと目を皿のようにして舐めるように観覧したのでありました。
 (5)に関して、私の勉強不足の領域で、たいへん勉強になりました。常設展でも展示されているテーマですが、より深掘りした内容となっていて、見応えがありました。「境界」を掘り下げてきた博物館の知見に唸るしかありません。アイヌに限らず、一般的に植民地教育というものは「同化」の論理を押しつけるものであると同時に「上昇」のルートにもなり得るもので、両義的で複雑な意味を持ちます。それはイギリスに留学して弁護士資格を取得したガンディーなどの例を見れば分かりやすいでしょう。そこに意図的に「境界」を設けるのか、あるいは「越境」を志すのか、複雑な葛藤が生じるところです。葛藤の跡が生々しく刻み込まれている史料がたくさん展示されていて、なんだか涙が出てきたのでした。というのは、巨視的に見れば、それはアイヌに限った問題ではなく、日本全体に関しても、幕末維新期の「西洋化」や、あるいは現代のグローバル化に関わってくる問題に通じているからかもしれません。好きか嫌いかに関係なく、もはや我々は自主的自発的に英語を身につけてグローバルな商品経済に身を投じるしかありません。日本語を身につけて近代化を志すアイヌの気持ちを多少なりとも推し量れるかどうか、というところです。

 いろいろ勉強になって刺激を受けたので、私の方はしっかり自分の仕事を充実させていきたいと思います。(2021年12/10観覧)

【感想】江戸東京博物館「縄文2021―東京に生きた縄文人―」

 江戸東京博物館で開催された特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人―」を観覧してきました。

 江戸東京博物館はたいへん見ごたえのある素晴らしい博物館ではあるのですが、いかんせん名前のとおり「江戸」と「東京」に特化した博物館で、中世の「武蔵の国」およびそれ以前の関東の様子は常設展でまったく扱っておりません。もちろんかつての東京の縄文時代については一切触れておりません。それはもちろんそうしたくてそうしたというより、予算等の都合でそうなっただろうことは想像に難くありません。そういう観点からすれば、この特別展「縄文2021」は江戸東京博物館としてもある種の感慨を込めて開催したものであるように推察するところです。

 さて、東京の縄文時代の決定的な特徴は、なんといっても「縄文海進」です。縄文時代は今よりも温暖で、南極や北極の氷が少ないため、海面全体がかなり高く、日本列島で現在陸地になっている多くの部分が海に沈んでおりました。特に現在関東平野として知られている地域には、ずいぶん奥地まで海が入り込んでいました。その結果、埼玉県にまで貝塚を見出すことができます。東京にも大規模な貝塚がたくさんありました。
 ちなみに貝塚は、一般的には「単なるゴミ捨て場」と認識されているようではありますが、実際はそんなものではなかったでしょう。仮にゴミ捨て場であるとすれば、貝殻以外にも他にいろいろなもの(動物や魚の骨など)が見られるはずですが、そういう気配はありません。だとすれば、貝塚は「貝だけを意図的に集めて加工していた場所」の痕跡ということになるはずです。そして仮にそうだとすれば、私の推測では、それは「出汁」の制作場だっただろうと思います。というのは、縄文時代にドングリなど木の実を煮炊きしていたことが知られていますが、単に木の実を煮炊きしたところで美味しく食べられるはずがありません。が、ここに「貝の出汁」を加えることで、圧倒的に美味しい料理になるわけです。
 で、本展示でも、貝塚が単なるゴミ捨て場ではないだろうことがしっかり解説パネルに書いてあって、我が意を得たのでありました。

 しかしガッカリしたのは、縄文時代の村落の復元ミニチュアで、竪穴式住居が藁葺きで再現されていたことです。縄文時代の竪穴式住居は一般的にも藁葺きで再現されることが多いのですが、いやいや、そんなわけはないだろうと。たとえばそれが弥生時代以降、農耕文化が根付いた時代であれば藁葺きにも説得力があるのですが、未だに農耕が始まっていない縄文時代に藁葺きは考えられません。そもそも今に至るまで、竪穴式住居が藁で吹かれていたという証拠は見つかっていません。
 そして縄文時代は、圧倒的な「土の文化」の時代です。世界に類を見ない独特な造形の火炎式土器や亀ヶ岡式土偶など、縄文時代は独特の「土の文化」を花開かせています。だとしたら、住居だけそれから外れていると想定する道理はありません。竪穴式住居だって、おそらく「土の文化」を見事に反映した造形になっていたでしょう。私個人の意見では、竪穴式住居は土葺きです。そのほうが、縄文時代全体の様式と整合します。
 ただ安心したのは、図録に収録されていた専門家の対談と、「竪穴住居復元プロセス」では、しっかり土葺きになっていたことでした。おそらく専門家レベルでは「竪穴式住居は土葺き」ということで問題なかったのが、一般展示になるところで何らかの変な圧力がかかって藁葺きになったのだろうと邪推するところです。
 一般に縄文の竪穴式住居を藁葺きだと思い込んでしまうのは、おそらく、現在知られている日本文化のテンプレートを縄文時代にまで遡って当てはめてしまうからです。具体的には現在みられる神社様式を竪穴式住居にも投影してしまうわけです。「日本文化が一貫して続いている」という無意識が働いています。しかしやはり農耕が始まって以降、特に青銅器や鉄器が入ってきてからの生活様式と、それ以前の生活様式は、まったく質が違っています。「戦争が始まった」という事情も決定的に大きいでしょう。現在の日本文化テンプレートを縄文時代にまで遡って適用してしまう心性には、つくづく用心しなければなりません。同じ事情は、古墳時代にも当てはまります。文字がなく、仏教との接触もなかった時代に対して、現在の日本文化テンプレートを当てはめると、おそらく根本的な勘違いを招くことになります。
 そんなわけで、縄文時代の竪穴式住居を「あえて土葺きで再現する」ことは、我々の無意識の歴史認識を暴き出していく良い実践だと思うので、各地でどんどんやっていただきたいわけです。それは日本文化テンプレートに対する無反省な思い込みそのものを相対化する実践にもなります。歴史的に真実かどうかも重要ですが、教育的にも大きな意味があります。本展示の復元模型で藁葺きだったことにガッカリしたのは、私個人のそういう歴史文化教育観のせいでありました。
(2021年12/5観覧)

【感想】古代オリエント博物館「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」

 古代オリエント博物館で開催された秋の特別展「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」を見学してきました(2021年12/3)。タイトルの通り、エジプトやメソポタミアやインドやギリシア・ローマから日本までの女神を一堂に会した展覧会です。有名でよく名前を知っているお馴染みの女神からよく知らない女神までたくさん紹介されており、楽しく観覧してきました。

 まず先史時代の女性像(土器が多い)が数多く展示されていましたが、感覚的に気になったのは、フォルムが二極化していたように見えたことでした。乳房や臀部をやたらと強調して造形している像があるのに対して、もう一方にはやたらと平板でほっそりしたフォルムの造形があり、なんとなく中間というものがないように感じました。地域性や歴史性を反映しているのか、あるいは展示物をチョイスした学芸員さんの意図なのか、よく分からないところではあります。が、一口に「先史時代の女性像」といってもいろいろあることはよく理解できます。

 歴史時代に入ると、名前がついてキャラクター化した女神たちが登場し始めます。ここで気になるのは、この展覧会のモティーフでもあるのですが、男性の神はわざわざ「男神」と呼ばないのに、女性の神はことさら「女神」と呼ぶという現象です。ただこれが古代から続く現象なのか、あるいは近代に入ってからの現象なのかは注意する必要があるのかもしれません。
 思い起こすのは、たとえばギリシア神話に登場するヘラがもともと母系制社会のギリシア各地で信仰を集めていた大地母神だったのが、権力の統合によって家父長制が発達する過程で、男神であるゼウスが神々の筆頭に祭り上げられて、それに伴ってヘラの権威が貶められたという説であります。(参考『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』)。結局、ヘシオドスがギリシア神話古典の一つである『神統記』を記す頃には、ギリシア神話の中身は完全にマチズモとミソジニーで定着したように見えます。
 そしてまた思い起こすのは、日本における最高格の神が女神=天照大神であるということです。これもやはり、マチズモとミソジニーで膨れあがった江戸時代の朱子学において、「天照大神は男である、なぜなら最高神が女であるはずはない」という意見がむりやり罷り通った結果、アマテラスを男として描いた絵や文章が広く流通していたという事実です。本展覧会でもアマテラスを雨宝童子として描いてた図像が一幅展示されていて、見た目は男性に見える(と言いつつかなり性別不明の中性的)わけですが、なんでそうなっているかの解説はありませんでした。

 個人的に古代オリエントの女神でいちばん興味を抱いているのは、キュベレーです。興味関心を持っている理由は、もちろんハマーン様が専用機として乗っていたMSの名前に由来します。しかしこのキュベレーという神様、知れば知るほどわけのわからない神様で、いったい何をしたくてそうなっているのか、ますます興味関心を掻き立てるのです。が、残念ながら、本展覧会ではあまりフィーチャーされていなかったのでした。

【感想】伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」

 東京国立博物館で開催されている「伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」」を見てきました。タイトルに偽りなく、確かに天台宗の法統を一通り網羅していて、とても見応えのある展覧会でした。
 専門の教育史的関心からは、国宝の「光定戒牒」に大注目でした。奈良時代までの僧侶教育が、これを転換点として決定的に変わります。正式な僧侶になるためには受戒しなければいけませんが、戒壇院は奈良時代には東大寺、太宰府観世音寺、下野薬師寺の三箇所にしかありませんでした。最澄は延暦寺にも大乗戒壇を設立すべく、僧侶教育の方針を「山家学生式」に著すなど努力を重ねますが、その願いは生前には叶いませんでした。このあたりの事情は、私が大学で受け持っている「教育原論」の日本教育史パートでもしっかり触れるところです。さて、最澄入滅後11日経ってから、大乗戒壇院設立の勅許が降ります。これを受けて翌年、光定が延暦寺一乗止観院で大乗菩薩戒を受け、嵯峨天皇から正式な僧侶としての身分証である「戒牒」を与えられます。これを転機として日本における僧侶教育のあり方が大きく変わっていきます。延暦寺で学んだ僧侶たちが個性的な主張を展開する鎌倉新仏教の隆盛も、ここに起点を持つということになるでしょう。ちなみに嵯峨天皇の確実な真筆はこれのみだとも言われているようですが、筆跡は優雅なのに力づよく、実に見事で、眼福でありました。実物を見たという経験を加えて、今後の私の授業の説得力も多少は増すと良いのですが。
 しかし展示を一覧してしみじみと思ったのは、中学高校の教科書レベルでは天台宗=最澄でファイナルアンサーということになっているけれども、実は天台宗を土台で支えていたのは最澄の弟子たち(光定・円仁・円珍など)の献身的な努力だったんだなあということです。教科書には現れない弟子たちの努力があって、実は初めて師匠の最澄の業績が輝くことになります。「教育」というものの意味と機能を考える上でも、いろいろな示唆を受けるような気がしました。最澄と弟子たちの関係に留まらず、その後も延暦寺が教育機関としてズバぬけた力を発揮したことの理由と意味は、しっかり考えていく必要があるように思います。(2021年11/12観覧)

【埼玉県行田市】忍城跡に立つ行田市郷土博物館の展示はとても充実している

埼玉県行田市の忍城(おしじょう)に行ってきました。2012年に映画化された『のぼうの城』の舞台としてもよく知られている城です。続百名城にも選ばれました。

三重魯がカッコいいですね。
が、こちらの三重魯は「のぼうの城」の時代には存在していませんでした。戦国時代が終わって江戸時代に入り、家康の家臣である阿部氏が忍藩主となって以降、忍城は大々的に整備されます。このときに戦国期の忍城の面影はほぼなくなったことでしょう。三重魯は、江戸時代に一新された近世城郭としてのシンボルです。

説明パネルに、忍城の沿革が簡単に示されています。おおまかに、戦国期(成田氏)→近世前中期(阿部氏)→近世後期(松平氏)と、3期に分かれていることが分かります。このあたりの事情は、忍城跡に建つ行田市郷土博物館でかなり詳しく説明されています。
郷土博物館の展示は、とても充実しています。忍城や石田三成による水攻めの説明の他、近世に名産となった足袋、さきたま古墳群の展示で盛りだくさんです。三重魯も実は鉄筋コンクリートでできていて、中は展示室になっています。

地図で見ると、忍城は江戸を守る際にもかなり重要な戦略地点だということが分かります。ポイントは利根川と荒川に挟まれている上に、利根川から荒川までの距離が一番短い地域だというところでしょう。利根川を渡って北に行くと足利、荒川を渡って南に行くと武州松山城を経由して川越に至ります。行田市内をレンタルサイクルで走り回ったのですが、真っ平らなところでした。沼沢地を排水して作られたので真っ平らなのでしょう。
埼玉県には近世を通じて藩(一万国以上の大名が支配する地域)が3つ(忍・川越・岩槻)しかなく、他の地域は石高の少ない旗本や御家人の所領になっていました。逆に言えば、忍・川越・岩槻はどうしても信頼のできる譜代大名に押さえておいてもらわなければならない重要戦略地点と認識されていたということでしょう。

しかしそんな忍藩も、明治維新ではほとんど存在感を出せませんでした。幕末動乱期には京都警備や海浜警備など重要な役割を担っていましたが、戊辰戦争では圧倒的な量と勢いの官軍を前に、忍藩を佐幕派と信じて頼ってきた幕府側部隊を追い出して、無血開城せざるを得ませんでした。忍城も破却されます。藩主は明治維新後すぐに30歳の若さで亡くなっています。苦労が祟ったのでしょうか。明治維新前後の話は、郷土博物館でも詳しく扱っていません。誇りを持って表に出せるような材料が少ないのでしょう。
上の写真は、かつて石垣に使われていた石材です。こういうところで当時を忍ぶしかありません。

城跡は公園として整備されていて、梅が綺麗です。
(2018年2/24訪問、2021年2/5訪問)