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【栃木県佐野市】関東七名城の唐沢山城は、暑すぎて猫が伸びていた

唐沢山城に行ってきました。関東七名城の誉れも高く、2014年にはめでたく国指定史跡となりました。続百名城にも選出されています。

国指定史跡になる前、2012年にも一度訪れています。そのときはゴールデンウィークで、ツツジが見事に咲いていたのでした。

唐沢山城は、案内板によれば、藤原秀郷が築城したとのこと。

とはいえ、現在の見事な高石垣の姿は、戦国時代の佐野氏によって整備されたものでしょう。上杉謙信の猛攻を何度も耐えた城として知られています。関東戦国史を語る上で絶対に外せない城です。

縄張図を見るだけで、固い城だということが分かりますね。現地に行くとよく分かるのですが、平野の端にいきなり断崖絶壁が屹立しており、まさに天然の要害といった趣です。関東平野の北端に位置し、戦略上も極めて重要なところです。

さっそく虎口から城に入りましょう。駐車場からすぐ虎口が見えます。

実に見事な食い違い虎口です………ん? 虎口の脇になにやら白い物体が見えますが。

どうやら猫が二匹倒れていたようです。

生きてます。ただ伸びているだけでした。
この日の佐野は、気温38.7度を記録する大変な猛暑でありました。やる気が出ないのは分かります。しかし、どう見ても「警備警戒中」とは思えない、ダラけた姿です。

起きる気配のない猫を虎口に残し、東方向、本丸へと向かいます。現在は神社の参道として整備されています。途中で何か寝てますけどね。

西側から三の丸に入るところには、立派な堀切があります。「四つ目堀」と名前がついています。

三の丸と二の丸の南側には、神社に向かう参道が整備されています。当時は帯曲輪だったのかなあ。現在は「風鈴参道」ということで、たくさんの風鈴が並べられています。

気温は38度ですが、木陰で風鈴の音が鳴ると、なんとなく涼しく感じます。

この参詣道を進むと、直接本丸に行くことができます。やはり虎口から本丸に直通することは考えにくいので、戦国時代当時の道ではなく、後から整備されたのでしょう。
本丸には唐沢山神社が鎮座しております。

唐沢山神社の祭神は、藤原秀郷公です。佐野市には秀郷の墓もあるようです(未訪)。

本丸は中世山城らしく、こぢんまりとしています。なんとなく後詰めの城という趣ではあって、従来の居館は麓にあったような気もするところです。

神社の境内は、なかなか清廉な雰囲気が漂っております。

本丸境内でも風鈴が爽やかな音を奏でていました。

本丸の南西側には、たいへん立派な石垣が組まれています。

関東戦国期の城で、これほど立派な高石垣を見ることはほとんどありません。他には八王子城か金山城くらいでしょうか。

二の丸から西に本丸を見るの図。今は神社本殿への参道として整備されていますが、かつては虎口等が整備されていたのでしょうか。

二の丸から本丸の高石垣を臨む。

実に見事です。国指定史跡になるのも、頷けます。

虎口まで戻って、南側の天狗岩に登ります。

天狗岩からの眺望は、実に見事です。

唐沢山城が関東平野の北の端に位置していることが、よく分かります。何も遮るものがなく、遙か彼方まで見晴らすことができます。空気が澄んだ冬なら、新宿のビル群まで見えるようです。いやあ、絶景。

しかしそんな見事な眺望も、ニャンコどもにはまったく意味がないのでありました。人間が近寄っても、ぴくりともしません。だらしないなあ。

駐車場脇のレストハウスでソフトクリームをいただき、焼き付けるような日差しの中を下山するのでした。空気が澄んだ季節に、また来よう。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)

【栃木県足利市】足利織姫神社は恋人の聖地だが、足利城は山の奥

足利市の足利織姫神社に行ってきました。
織姫神社の背後に続く山道をさらに進むと足利城の跡に行けて、こちらは2012年5月と2020年10月に訪問しています。

さて、足利織姫神社は機神山の中腹にあります。

鳥居をくぐったら、階段が待ち受けています。

階段は229段あります。がんばりましょう。

階段の途中、ところどころに足利市の文化を示す様々な記念碑や銅像等が据えられています。足利氏の家系図には、歴代室町将軍や古河公方などのメジャー系列のほか、千葉県小弓を本拠地とした小弓公方=足利義明の系列もしっかり書き込まれていました。鑁阿寺に寄進した足利国朝が「喜連川公方」って書かれていて、興味をそそられます。「喜連川公方」ってメジャーな呼ばれ方なんでしょうか?

山腹にある梅の花は、見頃を迎えておりました(2018年2月)。

秋は、同じ角度から紅葉が見事なのです(2020年10月)

織姫神社の御祭神は、天八千々姫命と天御鉾命の二柱。もともとは伊勢で機織りに関わる神様だったのが、いわゆる織姫と彦星に習合していった感じです。

階段を登りきると、目の前に本殿が現れます。本殿は鮮やかな朱色を基調としていて、なかなか見事です。階段を登りきったという達成感を増幅させてくれます。

振り返ると、足利の街と渡良瀬川を一望できます。229段上ってきた甲斐がある、清々しい眺めです(2018年2月)。

秋は紅葉が見事ですね(2020年10月)。

ところで、2012年にも織姫神社に来ているのですが、その時とは境内の印象がかなり変わっています。というのは。

2012年にはこういう萌え幟がそこかしこに立っていたんですね。2008年に西又葵が描いたイラストで萌え米が話題になって以降、萌えキャラによる町おこしが盛んになっていた時期です。足利も萌えキャラで頑張っていたんですね。2018年訪問時には、神社境内からは萌え幟が消えてしまっていましたが、町中ではまだまだひめちゃんとたまちゃんは頑張っています。

境内には「恋人の聖地」の鐘が設置されています。七夕のロマンスにあやかるのと、機織りで縦糸と横糸が結び合わさるという連想から、足利織姫神社は恋愛パワースポットということになっています。
(2018年2月には修復工事中で鐘そのものは取り外されていましたが、2020年10月には工事完了していました。)

さて、2018年は神社に参拝してすぐに帰りましたが、2012年と2020年はここからさらに山の奥へ、足利城を目指して踏み入ります。

織姫神社から北の山一帯は自然公園として整備されていて、ハイキングコースとしてとても人気があります。織姫神社を起点とするハイキングコースを、足利城を超えてさらに進むと名草巨石群というパワースポットがあって、そこを目指すハイカーが多いのですが、私は足利城まで。

地図で見るとこんな感じ。足利城は織姫神社のほぼ真北に位置しています。

で、ゴツゴツした岩が露出する山道を進んでいくと、おっさんの声が響き渡ってきました。

断崖絶壁の岩の上で叫ぶおっさん。まあ、眺めがとてもいいので、ヤッホーの一つでも叫びたくなる気持ちは分からないでもありません。
で、こういうふうに岩が露出しているので、足利城とか金山城とか唐沢山城とか、関東の城には珍しく石垣が組まれるのかなと思いました。

細尾根の岩道をさらに進むと、足利城跡に着きます。

2012年に来たときは、手前の紅葉が新緑で輝いていましたが。

2020年は紅葉の見頃にやってきました。

本丸下の東屋から切り取られる風景が、なかなか趣深かったのでした。

案内板。足利城は両害山城とも呼ばれているようですね。源平合戦と戦国時代に機能したお城のようです。足利氏の勃興についても完結にまとめられていて、分かりやすいです。

縄張の様子が分かる案内板。

案内板。

本丸は、神社として整備されています。ところが2021年2月に山火事があり、全焼したとの報道がありました。驚きました。

美しい風景も灰燼に帰しているのでしょうか。被害が少ないことを祈ります。

足利城本丸跡から東方の足利市街を臨むの図。ここからの眺めを見る限りでは、ここに城を設置するのは地政学的に合理的な気はします。まあ、広域的な観点で見た場合、前橋や佐野ほどの地政学的重要性はないような気もしないではないですが、今と昔では川の流れや道筋が違っているから、一概には言えないんだよなあ。関東の戦国時代には、古河公方や上杉謙信等も絡んで、何度か争いに巻き込まれているようです。

さて、織姫神社の少し北は織姫公園として整備されていて、「もみじ谷」と名付けられたエリアは、名前の通り秋は見事に真っ赤になります。

谷を埋める紅葉。

見事ですね。

春は梅、秋は紅葉で彩られる織姫神社ですが、春も秋も境内でいちゃいちゃするカップルを横目に見ながら、足利を後にしたのでした。
(2018年2/26訪問、2020年11/18訪問)

【栃木県足利市】鑁阿寺に日本人の「名門」好みを見る

足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)に行ってきました。

この鑁阿寺、個人的には、日本の歴史を貫くライトモチーフを理解する上で極めて重要な場所であると認識しています。

鑁阿寺の手前には、室町幕府初代将軍、足利尊氏の銅像があります。

この足利尊氏の銅像、武家政権のトップにもかかわらず、武者姿ではなく、公家様式なんですよね。最初に見たときは、違和感が先に立ちます。他に、埼玉県東松山の菅谷館にある畠山重忠像や新発田城の初代藩主像も、武者姿ではなく公家様になっていますが、なんでなんだろう?

鑁阿寺の仁王門。

寺の周りを水堀が囲んでいて、かつては武家館として守りを固めていたことが分かります。「足利氏館」として日本百名城にも選定されています。

参道から本堂を見る。この本堂は鎌倉時代に建てられたもので、国宝に指定されています。鎌倉の建物が戦乱等で失われているので、鎌倉時代の関東では極めて貴重な国宝となっています。

紅梅が咲き始めていました。梅の向こうに本堂を見るの図。

上の写真は、2012年に訪れたとき、本堂脇にあった案内板。2012年時点では重要文化財だったのですが、この後、なんと2013年に国宝に再指定されます。ということで、今回訪問時には、案内板は撤去されていました。

中御堂。本堂等と比べると小さく感じるけれど、なかなか風雅な建物です。

案内板によると、建物は安土桃山時代のもののようで、再修したのは生実御所国朝(おゆみごしょくにとも)ということです。この国朝が、関東戦国史に名を残す小弓公方=足利義明の孫に当たります。小弓公方については、過去記事を参照=「千葉県千葉市・市川市・松戸市 小弓公方足利義明の野望」。
小弓公方の野望は後北条氏によって潰えることになりますが、秀吉が後北条氏を滅ぼした後、足利義明の系統は秀吉の計らいによって復活することになります。復活した足利家は喜連川藩となって、江戸時代を通じて藩閥体制の中の例外的な存在として生き残ることになります。小弓公方一族の粘り強さが興味深いわけですが、日本の歴史を考える上で重要なことは、実力で天下を取ったはずの秀吉や家康が、零落した名門足利家の権威をまったく無視できていないという事実です。

御霊屋。

中には、室町幕府歴代15将軍の像が祀られています。2012年に訪れたときは、この15代将軍像の特別展示を見ることができました。9歳で亡くなった7代将軍義勝の像とか、けっこう面白かったなあ。

多宝塔。

案内板によると、多宝塔は徳川家が寄進して再建したものですが、その理由の説明がちょっと興味深いですね。案内板には「徳川氏は新田氏の後裔と称し」と書いてあります。「徳川氏は新田氏の後裔であり」とは書いていないんですね。徳川氏が新田氏の後裔であるというのは、事実として確認されておらず、あくまでも「自称」であるというところがポイントです。鑁阿寺の公式見解として、「称し」とされているところに趣を感じます。このあたり、名門の権威を利用しようとする徳川家と、名門の矜持を保とうとする足利一族の微妙な関係を伺えるように思います。

仁王門近くにある説明盤。名門縁の大寺院だったのに、廃仏毀釈によって寺勢が衰えた無念さが滲み出ているように読めました。

説明盤の裏には、足利氏の家系図が刻まれています。名門を誇る自意識が示されています。
日本では、応仁の乱(1467年)までは武士であっても名門であるかどうかが極めて大きな意味を持っていたわけですが、150年間の下克上の世を経て実力重視の世の中へと変化しました。とはいえ、秀吉や家康ですらこの名門足利家の存在を無視できなかったという事実が、鑁阿寺の各所に刻まれているわけですね。そう考えると、鑁阿寺の前にある足利尊氏の像が武者様ではなく公家様である理由も、分かるような気がするわけです。

ガンダムシリーズ等に日本人の「名門」好みの特質が如実に出ているよなあと思いつつ、鑁阿寺を後にするのでした。
(2018年2/26訪問)

【栃木県足利市】足利学校は日本最古の学校じゃないよね?

栃木県足利市の足利学校に行ってきました。
ちなみに足利学校、観光案内等では「日本最古の学校」と言い切っちゃっているけれども、本当に「日本最古の学校」かどうかは、極めて怪しいところです。というか、どう考えても「日本最古の学校」のはずはないので、特に教員採用試験を受ける人は誤解しないようにしておきましょう。「日本最古の学校」なんていい加減なキャッチフレーズを垂れ流さなくても、足利学校の価値が下がることはないのになあ。

さて、足利学校には門が3つあって、まずは一つ目の「入徳」の門に入ります。入徳門の先は有料エリアになっています。

さすが足利学校、マンホールの蓋にも「學」の字が刻まれています。

ちなみに足利市の町中のマンホールの蓋は、足利学校の「學校」の門がデザインされています。

さて、入校料を払って「杏壇」の門を抜けると、いよいよ「學校」の門が見えます。

白梅と紅梅の花が綻んでいて、春らしく気持ちよい気分になります。

「學校」の扁額。かっこいい。

学校門の案内板がありますが、ここは個人的には「学校」ではなく「學校」でいってほしかったところ。というのは、「學」と「学」は、単に形が違うだけではなく、意味が違ってくると思っているからです。そういえば古谷野敦も「芸」と「藝」の違いにこだわっていたけれども。

學校門を抜けると大成殿が見えます。ここには孔子と小野篁が祀られています。祀られているということは、宗教施設です。
この宗教施設が、近代学校と中世學校を分ける具体的な要素になってくると思います。つまり、「宗教的な背景」があるかないかが、「學」と「学」の違いに繋がります。中世の「學」には、宗教的な背景が色濃くまとわりついています。足利学校は、そのことがよく分かる、素晴らしい史跡となっています。

足利学校の創設者と言われる、小野篁の像。小野篁には様々な伝説がこびりついていて、足利との接点も皆無ですし、足利学校の創始者という伝説もかなりの眉唾ではありますが、いちおう一つの説として完全否定はできないという。まあ、伝説でしょうけれど。
が、気になるのは、小野篁創始者説と「日本最古の学校」というキャッチフレーズの整合性をどう考えているんだろうというところ。もしも小野篁が創設者だとすると、完全に足利学校は日本最古の学校ではなくなってしまうんですね。というのは、「日本最古の学校」とされる根拠は奈良時代の「国学」の遺制だったということなんですが、小野篁が創設者としたら奈良より後の平安時代に創建ということになってしまいます。小野篁創始者説と「日本最古の学校」というキャッチフレーズは、両立しないんですね。

ただ、「日本最古の学校」との絡みで問題になるのは、孔子像や孔子廟 との関係です。

大成殿には孔子の像も祀られており、「孔子像」としては日本最古である可能性があります。もしも学校が単なる教育施設ではなく、宗教的な儀式も行う「學」の校であるとすれば、足利学校は日本最古の「學校」ということになるかもしれません。日本最古の学校ではなく、日本最古の學校。

「学」と「學」の違いは、足利学校で行っていた実際の教育課程に明確に表れています。中世の教育課程がしっかり保存され、展示されているのが、極めて価値が高いところです。

(※2021年2/25追記 2/24の最高裁大法廷、那覇市の孔子廟をめぐる政教分離訴訟にて、孔子廟が宗教施設であると判断されました。教育史的に言えば孔子廟は間違いなく「學」の施設ですし、大雑把に言えばそれは宗教施設に当たります。が、現代における役割については地域の具体的な状況を鑑みて判断する必要がありますし、歴史学的に言えば「宗教」という言葉が西洋の翻訳語であって東洋における「教」とは概念の範囲が大幅にずれていることを踏まえる必要もあります。)

教育は、宗教施設である大成殿とは別の建物で行われます。

足利学校では儒教が教えられていましたが、中でも「易経」が重視されていたことが強調されています。この「易経」とは、いわゆる「うらない」というものを体系化したもので、儒教の体系の中でも最も神学的な背景を持つものであるように思います。神学的な背景を持つからこそ、単なる合理性を超えていく、学問の中でも一番の奥義でもあったわけです。この奥義を修得することが、足利学校で学ぶ最大の意義であったろうと思います。このあたり、近代以降の教育とはまったく方向性が違っていることは、前近代の「學」を考える上で極めて基本的な観点になります。あるいは、江戸期に新井白石や伊藤仁斎や荻生徂徠などが合理化した儒教とは、大きく異なっていることは忘れてはいけません。「學」の校とは、我々がイメージするような近代的な教育機関である「学校」とは違って、宗教的な背景を持つ機関なわけです。

さて、私が「日本最古の学校」というキャッチフレーズを気に入らない理由の一つは、これによって相対的に上杉憲実の功績が見えにくくなることです。足利学校は、ぜひ上杉憲実という名前とセットにして記憶されてほしいと思っています。

足利学校の片隅に、「上杉憲実公顕彰碑」が置いてあります。観光客は誰も見向きもしませんけれども。

顕彰碑の後ろに回ると、憲実の事跡が紹介されています。上杉憲実が足利学校の中興に尽くしたことが書かれています。というか、現在に続く足利学校の基礎を作ったのは、実質的には上杉憲実のはずです。

展示室にあった、上杉憲実像。足利学校だからこんな文人の格好をしていますが、実際には武人としても極めて有能な人物のようでした。永享の乱における大活躍など、関東戦国史を考える上で、最大のキーパーソンの一人です。上杉憲実が足利学校を再興し、重視したという事実は、足利学校の価値を考える上で極めて重いものです。「日本最古の学校」なんていい加減なキャッチフレーズに頼らなくとも、足利学校はとても素晴らしい史跡です。

方丈から北の庭を見る。梅がほころび始めて、春の雰囲気が漂ってきます。とても気持ちよいです。

そんなわけで、孔子様に学問成就のお祈りをして、足利学校を後にするのでした。

ちなみに入徳門に向かう参道ぽい路地の入口では、「足利學校」の石碑と孔子像がお出迎えしてくれます。
(2018年2/26訪問)

【埼玉県越生町】高取城と越生神社で関東戦国史に思いを馳せる

埼玉県越生町の高取城跡へ行きました。

高取城は、越生駅からまっすぐ西の方に見える山の中にあります。山腹までは舗装された道路がありますが、最終的にただの山道になります。

舗装路が終わって山道に入るところ。花粉が凄いよ。

というか、往復2時間強程度の、親子で楽しめる手頃なハイキングコースとして人気のようです。道は岩が露出してゴツゴツしていますが、坂もきつくなく、歩きやすいですね。私は実習指導訪問の後に寄ったので、ビジネスシューズで登山でしたが。

途中でハイキングコースと分岐して、高取城へ。明らかに人工的に造成されたとおぼしき平坦な場所に出ます。写真を撮っている場所はたぶん第二曲輪で、本曲輪を見上げています。

本丸跡には、神社がありました。扁額がないので詳細は分かりませんが、麓にある越生神社の奥宮のようです。

本丸はそれほど広くなく、非常時用の後詰の城か、物見櫓として利用されていたようです。大きなスダジイの根元には小御岳や浅間神社の祠もあって、戦国の世が終わった後は信仰の場となっていたようですね。

山を下りると、麓に越生神社があります。御祭神はスサノヲですが、明治後期の神社合祀令のために様々な神社がここに集められています。たとえば稲荷の祠は4社、狐の石像は4体ありました。祠も狐も、越生村各地から集められたのでしょう。
いま考えれば神社合祀令は野蛮な政策なわけですが、まあ、自然村から行政村へと地方行財政制度の再編成を目指す権力機構としては避けて通れない課題ではあります。こういうところに近代化の爪痕が残るわけですね。

神社にあった説明看板によると、越生神社の下方に越生四郎左衛門の屋敷があったようです。この越生四郎左衛門、太平記によれば、なんと北畠顕家を討ち取った武将のようです。ものすごいヒーロー(あるいは北朝の憎き手先)です。
遺構は、太田道灌と長尾景春の戦いの時期のものと見る説があるのですね。燃える。確かに鉢形城(長尾景春本拠地)から鎌倉に通じるルートを考えると、越生は地政学的に極めて重要な位置にあります。ここを押さえているのと押さえていないのとでは、まるで戦況が変わってきます。太田道灌ゆかりの地として名高いのも、地政学的な観点から、よく分かります。

南北朝から戦国期の関東戦国史の全体像を思い描きつつ、お土産に梅酢を買って越生を後にするのでした。
(2018年2/27訪問)