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【埼玉県行田市】祝!さきたま古墳群が特別史跡に指定

埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」が、2020年3月に国内63件目の特別史跡に指定されました。見晴らしの良い真っ平らな地平線にいきなり現れる巨大古墳たちは、現代でもたいへんな迫力がありますから、1400年前には圧倒的な存在感で聳え立っていたことでしょう。

そんなわけで3年ぶりに「さきたま史跡の博物館」に訪れましたが、COVID-19緊急事態宣言のために臨時休館中でした。

風にひらめく「令和初特別史跡指定」の幟を、唖然と眺めるしかないのでした。

まあ、博物館は3年前にしっかり見学できております。
見所はものすごく多いのですが、目玉はなんといっても国宝「稲荷山古墳金錯銘鉄剣」と、その解説です。国宝の鉄剣は、古代史を語る上では何が何でも絶対に外せない圧倒的に重要な史料で、もちろん日本史の教科書には漏れなく登場します。文書資料のない5世紀、大和朝廷の成立を考える上でたいへんなヒントを与えてくれます。

そんな重要な歴史資料が発掘された稲荷山古墳ですが、自分の足で登れます。

登れるものには登りましょう。煙とナントカは高いところに上りたがるのであります。

前方部から後円部を見ると、こういう風景になるんですね。

後円部には、発掘時の状況を伺えるような展示があります。

展示パネルが充実していて、発掘された時の状況がよく分かります。発掘に携わった人も、北九州や近畿の巨大古墳ならともかく、まさか埼玉の古墳でこんな大発見があるとは想像していなかったのではないでしょうか。

続いて、丸墓山古墳にも登りましょう。

こちらは円墳として日本最大だそうです。埋葬施設の内容が確認されていないということは、発掘作業が進んでいないのでしょうか。何か重要なものが埋まっているかもしれませんね。

確かに見上げるばかりのデカさです。

天辺からは、稲荷山古墳を一望できます。
しかしこの丸墓山古墳の名が全国に轟いているのは、古墳そのものが重要というよりは、石田三成が忍城攻めの時に本陣を張った場所だったからです。今も古墳の側面に石田堤の痕跡が残っています。

頂上からは確かに忍城三重魯を臨むことができます。当時三重魯はありませんでしたが、石田三成の視界には沼沢地の中にぽっかりと浮かぶ島のような城域が見えていたことでしょう。

将軍山古墳はほとんど破壊されていたのが、後に復元されたそうです。周囲に埴輪も並べられていて、当時の様子が伺えます。

復元された古墳の内部に展示室も用意されていますが、訪れた時には残念ながらCOVID-19緊急宣言のために閉鎖中で見られませんでした(2021年3/7まで)。

鉄砲山古墳は、古墳群の南側にあります。道路を挟んだこちら側には観光客がほとんどおらず、散歩をする地元のご夫婦らしき方の姿だけ見えます。

この鉄砲山古墳の麓にはなかなか不思議な景色が広がっていたりするのですが、それはまた別のエントリで。

地図で見ると、さきたま古墳群は大宮台地の北端あたりに位置します。ここから少し北に位置する忍城が、戦国時代は沼沢地に囲まれた要害であったことを考えると、この古墳群は沼沢地が広がる寸前の乾いた台地上に築かれていただろうことが想像されます。行田市内に縄文や弥生の集落があまり見つかっていないことを考えると、利根川と荒川が氾濫する水浸しの沼沢地のために定住するにはそれほど向いていなかっただろうことが想像されます。大宮台地の北端に位置する古墳群は、人の足で行ける境界として認識されていたのかもしれません。近世以降は沼を排水して田畑に変えて、現在は真っ平らな土地が延々と広がっているので、古代の沼沢地に囲まれた古墳の様子を想像することはなかなか難しいです。

ところでさきたま古墳群に繋がる道路、その名も「古墳通り」には、古代のモチーフをかたどったパネルが埋め込まれています。

なかなか芸が細かくて、密かに嬉しいですよね。
(2018年2/24訪問、2021年2/5訪問)

【群馬県吉井町】多胡碑はすごいけど、羊太夫伝説の底は見えない

多胡碑は、「たごひ」と発音します。石碑です。完全に文章が読めるものとしては、日本最古(8世紀後半)の石碑です。

多胡碑は、日本の歴史を理解する上であまりにも重要なので、全国に62個所しかない国の特別史跡に指定されています。私個人は、これでやっと27個所目の特別史跡訪問です。
そしてさらに2017年、多胡碑はユネスコの世界の記憶遺産に登録されました。世界的にも重要な史跡と認められたわけですね。

あまりにも重要なので、本物は厳重に守られています。建物の外からガラス越しに見るしかありません。

頭に蓑傘を乗せたような、独特の形をしています。碑文は、もちろん全部漢字です。

脇に、解説パネルが設置されています。
なるほど、新しい行政区を作って「羊」という人に管理を任せるようになった記念に作られたようです。

ところで、ゆるキャラのタゴピー・ヤマピー・カナピーは、なかなかできがいいように思いますが、どうか。

大人向けに、もう少し詳しい解説パネルもあります。
ここで無視できないのは、「羊太夫の伝説」が古くから語り継がれて親しまれているという解説です。少なくとも私は「羊太夫」については、初めて聞きました。

ちょっと調べてみると、この「羊太夫の伝説」が、ひどいひどい。さっくり概要を説明すると、

「奈良時代、羊太夫という役人が、群馬から奈良の都に日参していた。部下の八束小脛が神通力を持っていて、空を飛んで馬を引いて奈良まで毎日通っていたのだ。
が、ある日、八束小脛が寝ているとき、小脛の脇から羽が生えているのを見つけた羊太夫は、羽をむしってしまった。神通力が消えたせいで、奈良の都へ日参することができなくなってしまった。
奈良の都では、姿を見せなくなった羊太夫に謀反の疑いがかけられ、軍隊が差し向けられることとなった。羊太夫は7人の奥方を逃がしたが、捕まって全員殺されてしまった。
羊太夫は蝶になって逃れ、自ら命を絶った。」

ってことですが。
ツッコミどころがありすぎて、どうしたものか。理由もなく羽をむしるって、なんだよ! まあ、中世説話ってものは、他のもだいたいこんな感じではありますけれども。

ところがさらに調べてみると、この「羊太夫の伝説」の底が、深い深い。いくら掘っても底が見えないくらい、深いのですよ。確かに近世以降の名だたる好事家たちが羊太夫伝説に言及していて、中には東方キリスト教との関係を指摘する識者までいるほどです。なるほど、この伝説には、正史には現われない歴史の闇が示されているのかもしれません…

いやあ、まだまだ日本には知らないことがたくさん埋まっていて、侮れないなあ。

そんな羊太夫伝説の一端は、多胡碑のそばに建つ多胡碑記念館で確認することができます。
この記念館の展示は、とても素晴らしかったです。まず当然、多胡碑など上野三碑の詳細な解説があるわけですが、その解説が世界史的な視点からなされているのが特に良かったです。多胡碑が日本だけでなく、東アジア交流史を解明する上でも重要な史料であることがよく分かりました。

また、上野三碑の内容を精査することで、この地域に多民族文化が根づいていたことや、かつての日本が夫婦別姓であったことや、母系家族であったことなども分かります。

また、人類の文字文化全体の発展に焦点を当てた展示も充実しており、見応えがありました。

多胡碑は、上信電鉄吉井駅から徒歩20分くらいのところにあります。

吉井駅も昭和の雰囲気を醸し出していて、懐かしい気分になります。
吉井駅の駅舎の中でも、多胡碑が大プッシュされています。古くから多胡碑を研究している方の学術的な解説が掲げられていたり。

2017年に世界の記憶遺産に登録された際の新聞記事が誇らしげに掲示されていたりしました。

侮れないことが充分に分かったので、今後はちょっとアンテナを鋭くして、羊太夫の情報に敏感になろうと思いました。

(2018年8月訪問)

【東京都文京区】小石川後楽園と湯島天満宮は、梅が素敵

小石川後楽園と湯島天神に梅を見に行ってきました。
どちらとも東京の梅の名所として知られており、見頃を迎えておりました。

まずは小石川後楽園へ。梅林は門から一番の奥、北東の隅にあります。遠くから白く霞む梅林が見えてくると、梅の香りも漂ってきます。本場の水戸偕楽園にある梅林と比較すると規模は1/30くらいではありますが、味わいはあります。

梅林の奥には、藤田東湖の顕彰碑があります。

藤田東湖は1855年の安政大地震で亡くなっています。もしも藤田東湖が生きていたら、水戸斉昭の暴走が押さえられて、安政の大獄が発生せず、桜田門外の変による彦根藩の弱体も防がれて、幕末の流れが大きく変わったかもしれないなあ、などと思わせるような学者です。惜しい人を惜しい時期に亡くしました。まあ、天狗党の武田耕雲斎のようになっていたかもしれないけれど。

小石川後楽園は、全国で63箇所しかない特別史跡と全国で36箇所しかない特別名勝の両方に指定されているんですね。素晴らしい史跡です。

梅の香りを袖に含め、藤田東湖に学問成就を誓い、後楽園を後にして、次は湯島天神へ。後楽園から湯島天神までは、徒歩30分弱です。

湯島天神では梅まつり開催中。

素晴らしい見頃を迎えております。

女坂と男坂の脇にある梅林も綺麗。

ご祭神は菅原道真公と天之手力雄命の2柱。案内板には太田道灌の名前も出てくるけれど、確かに立地的には本郷台地の端の崖の上にあって、上野台地の先端を対岸に臨む地政学的にも重要なポイントのように思えます。

境内は、至る所に梅。

満開。香りも素晴らしいです。

そしてものすごい量の絵馬。梅が満開の頃は、受験も佳境に入った時期ですからね。私も良い論文が書けるよう、道真公に学問成就を誓って、湯島天満宮を後にするのでした。
((2018年3/6訪問))

【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)

【青森県青森市】三内丸山遺跡は、巨大木造建築物だけでなく竪穴式住居の復元にも注目

 青森県の三内丸山遺跡は、噂に違わず、たいへん素晴らしい史跡でした。

 2000年に特別史跡に指定されています。たいへん価値のある縄文時代の遺跡です。

 遺跡に併設されている博物館「縄文時遊館」も素晴らしいです。発掘された様々な石器や土器が展示されているほか、復元模型や映像による解説も充実していて、見応えがあります。

 三内丸山遺跡といえば、まず思い浮かぶのはこの巨大木造建築物ですね。すごい。これが出てきて、一気に史跡保存に流れが傾きます。

 掘立柱建物の案内板。この建物の存在によって、縄文人が規則正しく長さを測っていたことや、巨大な建築を指示した指導者がいただろうことが想像されます。縄文時代のイメージを覆す、大発見です。

 いま建っている巨大掘立柱はレプリカで、こちらが発見された穴と木。よく残っていてくれました。

 あと、三内丸山遺跡で感心したのは、竪穴式住居の復元に関してです。

 竪穴住居の案内板によると、茅葺きと樹皮葺きと土葺きの3種類で復元しています。これが素晴らしい。たいていの復元では茅葺きになっていますが、個人的には怪しいと思っています。

 土葺きの竪穴式住居復元。いやあ、やっぱりこれだったんじゃないですかねえ。稲作も始まっていないのに藁葺き屋根って、不自然なように思います。

 後ろから見ても、とても自然な土葺き竪穴式住居。
まあ、土葺きである証拠もないんだけれども、少なくとも藁葺きである根拠もないので、藁葺きで復元するときは「可能性の一つ」であることを並記するべきであるように思います。

 まだ発掘作業は続いているので、さらに縄文時代のイメージを豊かにするような発見を楽しみにしています。
(2015年10月訪問)