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【和歌山県高野町】高野山金剛峯寺で南無大師遍照金剛と唱える

高野山は空海(弘法大師)が816年に開山し、現在は100以上の寺院が建ち並ぶ宗教的聖地です。奥深い山中にあって交通アクセスは不便なのですが、険しい森を越えると意外なほど開放感ある空間が広がる、不思議な場所です。
今回は露天風呂のある宿坊に泊まって、ゆっくり高野山を巡ったのでした。

麓から歩いてきた巡礼者が最初に辿り着くのは、大門(重要文化財)です。巨大で、たいへん立派です。

が、まあ、私は公共交通機関で来たので、他のところを見て昼食後に辿り着いたのですが。

次回訪れるときは、ぜひ麓から歩いて登って大門を拝みたいと思います。

さて、大門を通過して参道をまっすぐ東に向かい、中門をくぐると、金堂や根本大塔などが立ち並ぶ壇上伽藍に出ます。

壇上伽藍の建物には、それぞれ中に入って参拝することができます。

今回はたっぷり時間があったので、大師教会・教戒堂で受戒して参りました。大勢の巡礼者と一緒に声を上げてお経を唱えるなど、日常的に経験できる儀式ではなく、改まった気持ちになったのでした。

さらに先に進むと、金剛峯寺(国指定史跡・世界遺産)があります。

しかし気になるのは、案内パネルの内容です。

これまで私は「高野山=金剛峯寺」と暗記していたのですが、案内パネルを読んで理解したところでは、金剛峯寺は実は空海とは直接的には関係なく、1131年に建立されたということですね。現在の歴史の教科書等にはどう書かれているのか、ちょっと気になるところでした。

さて、さらに参道を奥に進むと、奥之院一の橋に着きます。ここから雰囲気ががらりと変わります。

杉並木に囲まれた参道に沿って、歴史上の人物のお墓がたくさんあります。たとえば、明智光秀の墓。

そして、織田信長の墓。

死んでしまえばノーサイドで、同じ墓地に葬られるのですね。まあ、光秀や信長の墓は他のところにもあるのですけれども。

さらに奥に進むと、いよいよ弘法大師の廟所に着きます。この御廟橋の向こうは、聖地すぎるので、写真撮影禁止です。

というわけで、日常では不可能な荘厳な体験ができる場所でした。暗黒の地下道を手探りで進む体験とか、とてもおもしろかったです。

さて。で、つい空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)を比較してしまうわけですが。高野山で感じたのは、空海個人の圧倒的なカリスマ性です。高野山は空海個人に対する崇拝で成立しているような印象を受けました。一方の比叡山には、確かに伝教大師の廟所をお守りする聖地もあるのですが、全山的に最澄個人のカリスマはそれほど感じませんでした。それは、比叡山では法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった絢爛たる鎌倉新仏教のエースたちが育っており、その痕跡が残されているからかもしれません。逆に高野山には、空海以外には教科書に載るような僧侶を輩出していません。そういう意味では生産性がないようにも思えてしまうわけです。
まあ教科書に載るような僧侶を輩出することが素晴らしいかどうかは一概には言えないのは確かですが、私のような「教育」畑の人間からしてみれば、ここに高野山と比叡山の本質的な違いを見てしまいます。いいか悪いかは別として、空海の個人的なカリスマ性が強い高野山において、教育的想像力を発揮する余地が比叡山と比較してどれほどのものだったのか、という疑問です。
あるいは、仏教本来の考え方から思い起こして、空海に対する個人崇拝でいいのかどうかという疑問にも通じるところです。私も高野山で「南無大師遍照金剛」(意味は、ざっくり言えば、空海を無条件で全面的に信頼しますので私のことをよろしくお願いしますという感じ)と唱え、空海個人への尊敬の念を顕わにして、受戒したわけですが。改めて思い返してみれば、個人崇拝で終わって仏教的に大丈夫なのかという。もちろん真言宗によれば仏教の奥義は言葉で表現し尽くせないものなので、私のような宗教センスのない人間が人間的尺度でどうこう言う問題ではないのかもしれませんが。単に空海への個人崇拝で終わってしまったら、教育的生産性は一切ないのも確かだと思うのです。個人崇拝が単なる通過点という理屈であれば、分からなくもないのですが。
あるいは、自分自身の宗教的能力に対する限界を謙虚に設け、真理の啓示者である聖人個人(空海)を信仰の対象とする在り方は、プロテスタント的であるという点では、一神教的な浄土宗と並んで、実はヨーロッパ的な宗教の観念に近いとは言えるかもしれない。

まあともかく、露天風呂のある宿坊に泊まり、夜は写経会に参加して外国人観光客に混じって般若心経を写し、朝は早くから読経会に参加したりと、極めて充実した時間を過してきたのでありました。
ぜひまた機会を作って訪れたいと思います。
(2015年6/19・20訪問)

【滋賀県大津市】比叡山延暦寺は一隅を照らし続けた教育機関

天台宗の本山・比叡山延暦寺は、最澄(伝教大師)が788年に開山したお寺が発展して現在の姿になったものです。現在はたいへん規模が大きなお寺ですが、当初からここまで大きかったのではなく、様々なお坊さんが関わって、ここまで発展しています。

1994年に世界文化遺産に登録されて、外国人観光客もとても多くなっております。

さて、延暦寺は、もちろん宗教施設です。が、ここでは教育機関として延暦寺が果たした役割に注目していきます。

比叡山延暦寺が教育機関であることは、最澄が朝廷に提出した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に明確に表れています。比叡山で学ぶ学生たちへの教育方針や具体的な心得を説いた内容です。最澄が、日本に正しい仏教を広めるためには教育が重要であることをしっかり認識していたことが分かります。ここで示された「一隅を照らす」という言葉は、現在でも天台宗の方針を示す極めて重要な言葉となっています。

教育に関わって注目したい建物は、重要文化財の「戒壇院」です。

周辺の建物と比較して質素ではあるので観光客はあまり注目しないわけですが、教育史関係者としては見逃すわけにはいきません。教育機関としての延暦寺を考えるときに、決定的に重要な場所です。
案内パネルにもその重要性がしっかり記されています。

案内パネルにも「比叡山中で最も重要なお堂」と明記されておりますね。最澄は、後進僧侶の育成にとって「戒壇」を設けることが決定的に重要だと考え、朝廷に働きかけていたのですが、その生存中にはついに設置を許されることがなかったのでした。
ちなみに僧侶の資格を保証する「戒壇」は、もともと日本に三個所作られたのですが(奈良の唐招提寺、下野薬師寺、太宰府)、最新の仏教理論を携えて日本に戻ってきた最澄は、比叡山延暦寺にもその資格を付与すべきだと考えたのでした。戒壇の設置は、比叡山が僧侶の教育機関として既成仏教勢力から独立することを意味するものでした。

こうして延暦寺は、「山家学生式」を教育方針とし、「戒壇」を権威として、優秀な僧侶を大量に輩出します。
比叡山の教育機関としての生産力の高さの証拠は、山の中のそこかしこに見ることができます。絢爛たる鎌倉仏教宗派の創始者たちが修行した痕跡が、比叡山のいたるところに残っているのです。

たとえば、臨済宗の栄西禅師。

そして、浄土真宗の親鸞聖人。

さらに、浄土宗の法然上人。

加えて、日蓮宗の日蓮上人。

まだあります、曹洞宗の道元禅師。

いやあ、圧倒的に錚々たるメンバーです。いかに比叡山が教育施設として卓越していたかが分かります。鎌倉仏教の新宗派創設者たちは、ことごとく比叡山延暦寺で学んでいるのですね。教育機関としての面目躍如というところです。これは、空海の高野山には見られないものです。最澄の教育構想が優れていたせいなのか、戒壇の権威なのかどうか、興味が尽きないところですね。

入山して大講堂へ向かう道には、比叡山で修行した宗教者たちのプロフィールがパネルで掲示されています。

が、まあ、そういう「教育機関としての比叡山延暦寺」にはまったく関心がなくても、比叡山はとても素晴らしいところです。

重要文化財の大講堂。

国宝の根本中堂。私が訪れたときは、大改修工事が始まっていて、普段近くで見られないような仏像を拝むこともできました。

横川の元三大師堂。

この元三大師は、江戸時代までには圧倒的な人気があって、昭和初期までよく知られていたように思うのですが、最近はあまり目立たないですね。全国に「大師堂」があって、その場合の「大師」とは「元三大師」を指すことが多いのですが、けっこう多くの人が「弘法大師」と勘違いしているように思います。

高野山の弘法大師ではなく、比叡山の元三大師であることは、日本人の教養として正しく認識しておきたいところです。

他にも、最澄の静かな眠りを守る浄土院の佇まいや、にない堂から聞こえてくる荘厳なお経の声とか、見るべきところばかりです。折に触れて訪れたい場所です。
(2015年8/11訪問)

【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)

【要約と感想】服藤早苗『平安朝の母と子』

【要約】平安時代中期、母親は子供を育てていなかったし、子供は大事にされていなかった。子供を捨てる母親が大量に存在していたのもさることながら、衝撃的な事例では、病気になった子供が道ばたに放逐されて犬に食われてしまうことすらあった。かわいそう。

というふうにまとめると身もふたもないけれども。「家族」というものの形や「子供」に対する意識が普遍的なものではなく、時代によって大きく変化するということを端的に示している。特に本書が扱う平安時代中期は、「家族」が根本的な変化を被った時代のようだ。

現在、「俺が考えた最強の家族のかたち」をデカい声で無責任に叫んでいる人たちが、いろんな立場でいるけれども。どの立場に立つにせよ、まずは日本にかつて存在した「家族」の形を客観的な事実として知ることから始めた方がいいのではないかな。我々が伝統的と思い込んでいる「家族」の形は、実はさほど伝統的でも日本的でもないかもしれない。

服藤早苗『平安朝の母と子―貴族と庶民の家族生活史』中公新書、1991年