「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

円覚寺の降誕会

 4月8日は降誕会ということで、円覚寺の「花まつり」に参列してきました。

 円覚寺はJR北鎌倉駅から徒歩30秒。鎌倉五山の第二位、臨済宗大本山の一つです。あいにくの雨でしたが、桜がとても綺麗でした。

 「降誕会」とは、お釈迦様が誕生したことをお祝いする儀式です。方丈に据えられた「花御堂」の真ん中には、生まれたばかりのお釈迦様が天と地を指さしている像が祀られています。

 禅様式の独特な儀式を見た後、お焼香を上げて、お釈迦様の子供像に柄杓で甘茶をかけてお祝いをしてきました。

 儀式としての降誕会に茶々を入れたいわけではないと言い訳を前置きして。「子供観の歴史」に取り組んでいる教育史学徒としては、生まれた直後に歩いて天上天下唯我独尊と宣言する「早熟な子供の表象」が気になるところです。円覚寺の誕生仏は子供らしい体型をしていましたが、誕生仏の子供像はいつ頃から子供らしい造形になったのかな?

鵜殿の野望【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う

 三河鵜殿氏の本拠地「上ノ郷城」は愛知県蒲郡市にあります。蒲郡駅から北に2kmくらい行ったところです。桶狭間の戦いと絡むので、様々な歴史ドラマでも触れられる城です。
 2020年1/22放送の『歴史秘話ヒストリア』では、極めて防御の堅い城として登場しました。(ただ、忍者が落としたという点では、私の解釈とは異なる話になっていましたが)
 2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』8~11話では、今川家が三河に侵攻しますが、その三河攻略最前線基地の一つとなっていたのが、この鵜殿氏が治める上ノ郷城です。城主の鵜殿長照は、義元の妹を嫁にもらうほど信頼されていた武将で、長年にわたって三河の松平諸家と抗争を繰り広げています。

 さて、鵜殿氏はもともと熊野を本拠地としていましたが、室町時代には蒲郡に進出しています。いつ来たのか、正確な時期と理由は分かりません。

 私が勝手に推測するに、おそらく熊野大社が所有する荘園を管理する地頭としてやってきて、次第に地元に根づいた国人領主として頭角を現し、目をつけた今川家の縁者となったのでしょう。周りにはなんとなく熊野大社ゆかりの神社もあるみたいですし。

 さて、温室ハウスが広がる畑を抜けていくと、城の案内看板があります。

 「上ノ郷城跡を愛する会」が設置した縄張図の案内板もあります。地図を見ると、城は北東南の三方を川に囲まれた舌状台地の端にあって、自然の要害であったことが分かります。

 下から見上げた上ノ郷城の本丸。当時はもっと高い土塁や土塀があったんでしょうけど、今は一面に雑草が生い茂って、諸行無常の響きあり。

 登城口。城はミカン畑になっていて、水撒き用のホースに併走して登っていきます。石垣は当時のものではなくて、ミカン畑を造成するために造られたものでしょう。

 いよいよ本丸に入る虎口の脇に、赤い木の案内がありました。青い空と緑の雑草に、素朴な赤い案内柱が映えます。

 本丸には詳しい案内板があります。鵜殿氏は蒲郡の王者だったんですね。注目すべきは、1562年、すなわち桶狭間の2年後に鵜殿氏と徳川家康が戦っていることです。桶狭間で義元が討ち死にした後も、鵜殿氏は今川家に忠誠を誓っていたんですね。今川義元の妹を嫁にもらっていたので、逃れられなかったのでしょう。

 さておき、徳川家康の三河統一の過程において、鵜殿氏が三河一向一揆と並んで最大の敵であっただろうことが分かります。そして1562年に上ノ郷城が落城した際、鵜殿長照の息子2人氏長と氏次が捕えられます。氏長と氏次は、今川家に捕えられていた家康の正室築山殿(瀬名)と人質交換されます。
 近年では2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』でエピソードとして扱われました。2020年1/22放送『歴史秘話ヒストリア』では、家康はそもそも人質交換を狙いとして上ノ郷城を狙ったことになっていました。新解釈です。

 さて、本丸から南を臨むと、遠くに三河湾が見えます。三方を山に囲まれ、南側だけ海に開けている蒲郡の地形は、鎌倉の地形を思い起こさせます。守るに易く、攻めるに難い、本拠地としては最高の立地条件ではないでしょうか。家康がこの城を落とすのに手こずったのも、よく分かります。「忍者が活躍したこと」については、いろいろ面白いエピソードもあるので、また別の機会に。

 雑草が生い茂る本丸に立ち、遠く三河湾を眺めていると、つわものどもが夢の跡。ここから見る月は、とても美しそうです。

蒲郡市博物館:上ノ郷城跡を愛する会
蒲郡市博物館:上ノ郷城跡ってなに?(こども向け)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第二章】鵜殿氏一門の墓

 鵜殿氏一門の墓は、鵜殿城の隣の山にあります。(2016年8月訪問)

「鵜殿氏一門の墓」の案内板

 一門の墓の脇にある案内板では、鵜殿氏の履歴がなかなか詳しく解説されています。熊野大社に深く関わっていた海賊だということが分かりますね。
 一門の墓自体は、貴弥谷社という神社にあります。ちなみに貴弥谷社は、社略記によると、熊野神が2500年前に神倉山からこちらにお移りになった神社だそうです。その貴弥谷社は、極めて行きにくいところにあります。

 貴弥谷社にたどり着くためには、中学校の校庭を経由しなければいけません。本当に大丈夫かと多少の不安を抱えながら学校の校庭を抜け、階段を登ると、いきなり熊野古道のような山道に入ります。人の気配は一切なく、鳥の鳴き声だけが響き渡ります。かなり登ったところに鳥居が見えてきます。

貴弥谷社の鳥居

 静かな山の中で、とても落ち着きます。真夏の猛暑日に行ったのですが、ここは不思議と涼しかったです。熊野三山はどこも観光客で溢れていますが、ここは隠れた癒やしスポットだと思います。

鵜殿氏一門の墓

 これが鵜殿氏一門の墓。地元の方が綺麗に管理してくれています。熊野の鵜殿氏自体は大坂夏の陣で滅びてしまったのに、たいへんありがたいことです。しっかりお参りしてきました。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

東京都品川区・大田区 如来寺と本門寺

 大井の養命院如来寺と池上の本門寺に行ってきました(2017年3/28訪問)。

 養命院如来寺はJR西大井駅から徒歩10分程度。こじんまりとした敷地を有効活用している様と、こまごまと微笑ましい布袋さま等の石像群と、亀やフクロウなどおもしろい形のベンチにはホッコリさせられますが、木造五智如来像は圧巻です。

 3メートルの如来像が5尊ならぶ光景は、なかなかの壮観。様々なお寺を見てきましたが、これは他にないユニークな空間のような気がします。

 池上本門寺は都営浅草線西馬込から徒歩15分くらい。浅草線の車両基地を眺めながら長い歩道橋を渡るコースがお奨めです。4年前までは散歩コースでしたが、引っ越してからは久しぶりの訪問です。
 本門寺には日蓮聖人入滅にまつわる物を中心に普通に見どころがたくさんありますが、個人的にはアントニオ猪木をモデルにして作られたという仁王像がお気に入りです。大半の観光客が気づかない所にひっそりと立っているのがもったいないので、もっと大々的に宣伝してもいいんじゃないかと思うなあ。

 プロレス関連では、もちろん力道山のお墓が有名です。こちらは案内版がたくさん立っていて、たくさんの人が訪れます。
 力道山の銅像の台座に寄付者?の名前が刻まれているのですが、三澤光晴の名前を見ると、少しホロリとしますね。
 今日見たら北野武の名前も刻んであったけど、たしか4年前に来たときにはなかったはず。梶原一騎とか天龍源一郎の名前には見覚えがあるので、そのとき北野武の名前がなかったのは間違いない。4年の間になにがあったのかな?

 満開のしだれ桜も青空に映え、風がないせいで花粉も少なく、なかなか楽しい散歩日和でした。本門寺の展望台から富士山が見えなかったのが残念だったくらいかな。

鵜殿の野望【第一章】鵜殿城という城がある

 鵜殿一族は、紀伊半島の熊野地方出身の、海賊でした。吉川英治『新・平家物語』では、屋島の合戦の時に鵜殿氏が義経に協力する姿が描かれていて、NHK人形劇でもしっかり登場していたりします(新・平家物語「紀伊の巨鯨」(NHK))。ただし、ちゃんとした歴史的史料は確認できておりません。
 鵜殿氏が海賊として活躍していた痕跡は、鵜殿城に見ることができます。鵜殿城は、熊野川の河口、北側にあります。熊野川は三重県と和歌山県の県境を流れていて、鵜殿城の対岸に新宮城があります。

 JR鵜殿駅を降りてから、徒歩15分くらいで鵜殿城に着きます。本丸までは、基本的にただの山登りです。
 下の写真が、鵜殿城の本丸です。

鵜殿城本丸

 うーん、何もありません。というのも、400年前には廃城になっているのです。大坂夏の陣で紀伊の鵜殿一族は豊臣方に付いてしまったせいで滅びてしまい、お城も400年のあいだ野ざらしになっていた模様です。

 が、城マニアの目からはいろいろ重要な痕跡が見えてくるはずです。堀切や土塁跡など、遺構を比較的良好に観察することができて、大興奮です。

 水軍の城ということで、本丸からは熊野川と太平洋がよく見えます。どこから敵が攻めてきてもすぐに発見することができます。なかなか良い立地条件です。

鵜殿城本丸から太平洋を臨む

 右側に見えるのが熊野川の河口です。訪問日には川の水が茶色く濁って見えましたが、たぶん前日の雨のせいで上流から大量の土砂を運んできたためでしょう。遙か彼方に見えるのが熊野灘の水平線です。真ん中に見えるのは製紙工場。

 本丸には、鵜殿城の案内看板が立っています。鵜殿一族の経歴も分かります。

鵜殿城の案内版

 夏の日差しが強すぎて、写真では看板の一部が読めませんが…。

 書いてあることをまとめると。
 鵜殿一族は、平安時代末期から南北朝期にかけて、この城を中心として活動します。室町時代には海を渡って三河に移り、蒲郡を中心に勢力を拡大することになります。紀伊半島と蒲郡は、今の感覚でいうと遠い気もしますが、当時は陸よりも海上交通が重要だったことを考えると、実は直接的に繋がっているのです。
 しかし、蒲郡に移った鵜殿氏は桶狭間の後に徳川家康に敗れて衰亡し(1562年)、熊野に残った鵜殿氏は大阪夏の陣(1615年)でまたもや徳川家康によって滅亡します。徳川家康に2回もやられるとは、断固許すまじ。

 実は2016年の大河ドラマ『真田丸』では裏で熊野鵜殿氏が滅亡していて、2017年の大河ドラマ『おんな城主』では裏で蒲郡鵜殿氏が滅亡していたのでした。鵜殿の野望は夢半ばにして潰えたのでありました。残念無念でありました。
(鵜殿城には2016年8月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??