鵜殿の野望【第四章】桶狭間の合戦で活躍・・?

愛知県名古屋市にある、大高城に行ってきました(2015年8月訪問)。大高城は、織田信長が全国デビューした「桶狭間の合戦」ゆかりの城として知られていますが、実は鵜殿氏にも密接な関係がある城です。

大高城の解説看板に書いてあるとおり、織田信長が大高城を攻めたとき、城を守っていたのが鵜殿長照だったんですね。鵜殿長照は今川義元の妹を嫁にもらっていて、最前線に配置されるくらい信頼の厚かった武将であったことが分かります。
が、信長に攻められて兵糧がなくなるというピンチに陥ったので、徳川家康(当時は松平元康)が決死の兵糧入れを行うという歴史イベント「大高城兵糧入れ」が発生します。家康の有能さを褒め称えるときに必ず語られるイベントとなっていますが、助けられたのが鵜殿氏だったんですね。で、鵜殿氏はいったん大高城から引いて、家康が代わりに守備についたわけですが、これが桶狭間後の徳川家復活と鵜殿氏没落に繋がっていくとは、歴史は残酷だ。

さて、こんなところから城に行けるのかと不安になるような細い道を抜けて、城の入り口に出ます。大高城の石柱が葉っぱに覆われています。

坂を登ると、本丸。周囲を見下ろす小高い丘になっていて、このあたりで城を作るならここしかないという立地条件になっています。本丸はかなり広く整地されていて、かなり重要な城であったろうことが分かります。戦国時代は海にも近かったので極めて重要な拠点だったのでしょうが、海が埋め立てられて海岸線が後退している現在では、想像によって当時を偲ぶことしかできません。

本丸には八幡社が鎮座していました。戦の神ですね。

二の丸から本丸に抜ける、土橋。樹木で埋まってしまって空堀の状態を確認するのは大変ですが、なかなか立派な堀のように見えます。二の丸の方も広々としていて、そうとうな数の兵力を蓄えていたように思います。

三の丸のほうに降りてくると、休憩所に黒い猫が。かなり暑い日だったので、涼しい日陰で休んでいたようです。
三の丸は児童公園として整備されていたりして、戦国当時の面影は残っていないようです。

2011年にも大高城を訪れたことがありますが、そのときは人相の悪い猫に出くわしました。

さて、大高城から北東に700mほど行くと、織田信長が築いた鷲津砦があります。こちらはJR大高駅からすぐ近くです。ここも大高城三の丸と同じく児童公園に整備されていますが、なんだこの生物?

砦跡には遊歩道が整備されており、中腹に「鷲津砦」を示す柱石が立っています。現在は散歩にちょうどいい遊歩道となっていますが、450年前にはここから大高城を睨んでいたわけですね。

砦の麓に降りてくると、ズタボロの案内看板が。案内板によると、この砦は今川軍の攻撃で全滅したそうです。合掌。

さらに織田信長が気づいた丸根砦へ移動。こちらも大高城攻撃のための拠点として築かれた砦で、大高城の東に800mほど行ったところにあります。

こちらの丸根砦も、今川軍の総攻撃によって全滅するという憂き目に遭っており、戦没者慰霊碑が建っております。

かなり急な斜面を下ってくると、砦の麓に説明看板が。家康に攻められて守備隊が全滅した経緯が説明されておりました。

そんなわけで、織田信長とも徳川家康とも単独で戦った戦国武将はあまりいないのではないかと思い至り、「信長の野望」等での鵜殿氏の能力の不当な低さに憤慨しながら、大高城を後にするのでした。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で活躍・・?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??