「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【池袋散歩20180318】東西の連絡について

池袋散歩は、西と東の連絡をどう構想するかが一つのポイントとなります。今日は、西側のEsola池袋から地下に入って地下西通路を北上し、「池袋イケチカDining」を経由して地下北通路に出て、北側地下通路を東に向かい、地下一階からPARCOの建物に入ってエスカレーターを上がり、東側地上へ。

2016年にできたばかりの「池袋イケチカDining」は、まだ出来たてのせいか人口密度も比較的低く、ランチやディナーで長蛇の列に並んで疲弊している食事難民にはぜひ教えてあげたい場所です。

東池袋公園周辺は「おとめ」な雰囲気が濃厚な場所です。今日は桜が咲き始めていました。サンシャイン60を背景に桜が見られる、ちょっとした自撮りスポットです。ちなみに東池袋中央公園とは違います。

帝京平成大学前は、ちょっと不思議な空間になっております。桜は二分咲きくらいになっていて、春の訪れを感じる装いになりつつあります。

【新潟県村上市】村上城の石垣に大興奮し、鮭に舌鼓を打つ

村上城は続百名城に数えられている、素晴らしい城です。

村上城の地政学的な位置は、とても重要だと思います。新潟平野の北端に位置して庄内への連絡口であると同時に、米沢から日本海側に抜けるときに必ず通るポイントになります。江戸時代には榊原家や本多家など譜代大名が配置されており、庄内の酒井家と共に米沢の上杉家に対する最初の抑えとして期待されていたように思います。

西側の旧城下町から村上城を臨むの図。別名臥牛山と呼ばれている山塊が横たわっています。日本海岸からしばらく平らな土地が続いていますが、ここでいきなり絶壁が盛り上がる地形になっており、城を築くならここしかないだろうというポイントになっています。

山の麓にある石碑。

案内板。

軍事施設は山の上にありますが、藩主の普段の生活は、山の麓にある居館で営まれておりました。

さて、山麓の藩主居館からいよいよ山に登ります。いきなり重厚な石垣が現れて、期待が膨らみます。

麓から山を登り切ったところにある案内板。山の北側から南に向かって曲輪が連なっています。いわゆる連郭式と呼ばれる構造になっています。本丸の東と西と南が断崖絶壁になっていて攻撃される可能性が極めて低いので、北側の防御を厚くすればいいという発想です。

御鐘門から二の丸に入ります。石垣がクランク式に組まれており、敵の侵入を阻みます。「虎口」と呼ばれています。かつては石垣の上に櫓と長屋門が組まれており、鉄壁の防御を誇っていたことでしょう。

二の丸を南に進むと、本丸を防御するための巨大な石垣が現れます。山の上にこんなに大量の石を運んだことに驚きます。実に立派な石垣です。当時はこの上にさらに築地塀が築かれて、侵入者を阻んでいたことでしょう。

こういうふうに立派な石垣が組まれたのは戦国時代が終わる頃のことで、戦国時代真っ盛りの時期には土だけで組み立てられていました。村上城はそういう戦国時代の作りも観察することができる、素晴らしい史跡になっています。特に本丸東側斜面は比較的緩く、堀や曲輪を築いて防御を固めていた様子が分かります。

永禄11(1568)年に、村上城に立て籠もった本庄繁長を上杉謙信が攻めていますが、300日籠城してついに落城しませんでした。石垣がなくとも、極めて防御の固い要害であったことが分かります。近世に造られた石垣も立派ではありますが、実際の戦闘で機能していたのは土の城だったわけです。

いよいよ本丸に入ります。虎口も重厚な石垣で防御を固めています。

上から見た虎口。本来はここに櫓が建っていて、本丸に侵入しようとする敵に睨みを効かせていたはずです。

天守台。落雷で消失してから再建されることはなかったそうです。

本丸から西を臨むと、城下町の向こうに日本海まで見晴らせます。天守閣があったら、もっといい眺めだったことでしょう。

さて、山から降りて城下町を散策します。かつての城下町には「郷土資料館おしゃぎり会館」という歴史博物館があります。こちらは村上城の模型や武具類の展示が充実しているほか、村上城にまつわる戦いの様子がかなり詳しく解説されています。上杉謙信の攻撃に耐えた籠城戦や、戦国後期の庄内平野をめぐる攻防、さらに幕末戊辰戦争の帰趨など、地元博物館ならではの詳細な解説は見応えがあります。

資料館には、村上藩の武家屋敷・若林家住宅が隣接しています。かつての武家屋敷としての味わいが深いのは当然として。

ここにしかない見所は、干してある鮭でしょうか。江戸時代に藩の財政を救うほど、鮭は村上の名物となりました。武家屋敷に鮭が吊してあるところが、村上を象徴する光景なわけですね。現在でも、一人あたりの鮭消費量で村上市は日本一だそうです。

ゆえに、側溝の蓋にも鮭が描かれています。

もちろん、マンホールの蓋も鮭のデザインです。

そんなわけで、街中にも鮭料理を売りにしているお店がたくさんありました。鮭とイクラの親子丼を美味しくいただき、瀬波温泉の湯も堪能して、村上を後にするのでした。
(2014年6月訪問)

【福島県会津若松市】ハカマイラー:斉藤一、蘆名盛氏、柴四朗、柴五郎、西郷頼母

 会津若松には、ゆかりの人物のお墓がたくさんあります。最近は、歴史上の人物の墓参りをする人が増えていて、「ハカマイラー」などとも呼ばれたりしております。

 まずは鶴ヶ城から西北方面にある、七日町の阿弥陀寺へ。

 新選組三番隊隊長・斉藤一のお墓があったり、近くに会津新選組記念館があったりして、新選組ファンが訪れるお寺です。

 案内板によると、他にも戊辰戦争の死者が埋葬されています。案内板に「新政府軍」ではなく「西軍」と書いてあるのが、趣深いところではあります。
 訪れたのがちょうど秋のお彼岸の時期だったので、境内は戊辰戦争慰霊モードになっておりました。

 斉藤一は、戊辰戦争後に藤田五郎と名前を改めております。お墓も、藤田家之墓となっております。

 斉藤一の生涯を説明する案内板。壮絶な人生で、新選組の中でもファンが多い人物ですね。

 続いて、鶴ヶ城東方面の小田山山麓にあるお墓へ向かいます。まずは蘆名家累代の墓へ。

 蘆名家花見ヶ森廟は、現在は住宅地に囲まれて少し分かりにくいところにあります。

 蘆名家花見ヶ森廟。

 案内板では「葦名」になっています。シールを貼って修正しているから、「蘆名」を「葦名」に変えたのでしょうかね?

 16代盛氏の墓。蘆名家は鎌倉期から会津を400年支配した名族ですが、今では忘れ去られてしまっております。強者どもが夢の跡です。

 蘆名家累代の墓から小田山の山の中に分け入って、柴四朗と柴五郎兄弟の墓へ向かいます。

 山の中。

 柴四朗は東海散士の筆名で書いた「佳人之奇遇」が有名です。中身は、今読むとなかなかのトンデモ本で、いろんな意味でおもしろい本です。柴五郎は、会津藩出身初の陸軍大将となる人物で、義和団事件などで活躍しています。興味深い兄弟です。

 柴四朗の墓。訪れたときは秋のお彼岸だからかどうか、新しいお花が飾られておりました。

 柴四朗が書いた「佳人之奇遇」は、現在では山本八重との関連でよく知られているかもしれません。鶴ヶ城三の丸に山本八重の銅像があり、そこに添えられた案内板には「佳人之奇遇」の挿絵が載せられています。小説そのものでは八重の名前は伏せられていますが、「烈婦」として描かれた人物が八重であったことは間違いないと思われます。これに関しては、こちらの記事「残す月影」が素晴らしいですね。
 まあ、「佳人之奇遇」そのものの話の筋は八重とはまったく関係なく、荒唐無稽の部類に入ってしまいそうではありますが。

 近くにある柴五郎の墓。人格も立派であったと伝えられています。会津藩出身で陸軍大将にまで昇るのは大変だったろうと思います。

 小田山山麓を南下して、善龍寺に向かいます。ここには、戊申会津戦争時に会津藩の家老を務めていた西郷頼母と家族のお墓があります。

 二十一人之墓。

 ここでも案内板には「新政府軍」ではなく「西軍」と書かれておりますね。西郷頼母の家族と親類あわせて21人が自刃したことが説明されています。

 鶴ヶ城追手門の北に西郷邸址の石碑が立っております。ここで21人が自刃したのですね。

 案内板によれば、西郷の家族親類だけでなく、230人が自刃したと書かれています。「八重の桜」では大山巌が目撃したように描かれていましたが、史実では別の人物が目撃しているはずですね。

 西郷頼母本人のお墓は、実に小ぶりで慎ましやかなものでした。

 案内板では、西郷が和平論者であったことが強調されています。それ自体はいいとして、白河城の戦いがあまり褒められたものでなかった感じは否めません。

 境内には「なよたけの碑」が建てられています。西郷の妻・千重子の辞世の句にちなんだ石碑です。

 名前が分かるだけで233人の婦女子が自刃したそうです。

「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ」。この歌の精神自体はとても立派なことは間違いないと思います。
 ですが、200名以上の婦女子が自刃するに至った経緯自体は、さほど立派なこととは思えません。どうして城に入れなかったのかとか、そもそもどうして同じ日本人同士の戦いであるにも関わらず「死を選ぶ」という発想に陥ってしまったのかとか、様々な問題が横たわっているように思います。女子が死を選ぶということは、日本人同士の戦争時に極めて野蛮な行為(死ぬこと以上の屈辱)が横行していたことを示唆するわけですから。

 仏さんに手を合わせて、平和な時代に生まれたことを感謝しつつ、会津を後にするのでした。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】小田山城の跡には新政府軍砲台の跡がある

 鶴ヶ城から東南東に1.5kmほど行ったところに小田山という山があり、峰の上に小田山城が築かれておりました。

 小田山城は戦国期まで会津を治めていた蘆名家の城です。現在は戦国時代風の冠木門が復原されて、雰囲気が出ています。

 案内板によれば、黒川城(現在の鶴ヶ城の位置にあった)の詰城として機能していたようです。

 冠木門には蘆名の幟も翻って、なかなか雰囲気を醸し出しております。こういう復元は楽しいですね。

 曲輪は会津松平家の家老の墓所として整備されていて、堀や土塁など城の痕跡はあまり残っていません。

 ほぼ、ただの山登りになっております。

 本曲輪に立つ。堀や土塁は確認できませんが、まあ、明らかに人の手が入った平らな場所が曲輪として機能していたことは明らかではあります。

 さて、小田山の山腹には、戊申会津戦争で新政府軍が鶴ヶ城を砲撃した砲陣跡がそこかしこに残されています。

 案内板によれば、佐賀鍋島藩のアームストロング砲が、上野彰義隊戦争に続いて大活躍したようです。

 砲台跡から鶴ヶ城を臨むの図。天守閣が丸見えで、撃ちたい放題だったでしょう。

 案内板には、「西軍」と書いてあります。「新政府軍」と書きたくなかったのでしょうか。行間から無念さが滲み出ています。

 訪れた2014年秋は、2013年に放映された「八重の桜」の余韻が残っておりました。

 彼岸花の向こうに、鶴ヶ城天守閣が丸見えです。訪れたときは秋風が爽やかで、幕末の動乱があったことなど微塵も感じさせない美しい小田山でした。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】幻の神指城の近くには、斉藤一本陣や中野竹子殉節之地がある

 神指城跡は、JR会津若松駅から西に5kmほど行ったところにあります。

 会津の城というと普通は真っ先に鶴ヶ城を思い浮かべるはずです。ですが、城マニアとしては、会津の城として神指城は絶対に外せません。「幻の城」としてあまりにも有名なのです。一般にはちっとも知られていませんけれども。

 というわけで、神指城の本丸跡へ。現在はただの原っぱになっています。とても平ら。

 地図を見ると、神指城が会津盆地のほぼド真ん中にあることが分かります。現在の鶴ヶ城が盆地の南東側に寄っているのと比較すると、その地政学的な意図が極めて明らかになるように思います。戦国時代の合戦重視の山城ではなく、領国経営のための政治経済的拠点として、城下町を含む都市経営が重点に置かれていたと思われるわけです。

 が、今はただ広大な空き地が広がっているだけです。城の資材は全部鶴ヶ城建設のために再利用され、持ち去られたと思われます。

 神指城をアピールする幟が、かつて城があったことを窺わせてくれます。

 本丸跡も荒れ放題。

 城跡にあった案内板には、CGで神指城の完成予想図が展示されていました。凄いことになっています。まあ、姫路城に匹敵するような城を想像するなら、あながち的外れとも言えないようには思います。

 案内板の説明によると、関ヶ原に絡んで城の命運が尽きたことが分かります。

 わずかに土木工事の痕跡が認められるような感じです。

 本丸から北東の方に「高瀬の大木」という場所が整備されています。こちらは二の丸北東隅の土塁にあたる場所のようです。

 

地図で見ると、神指城の広大な縄張が分かります。

 本丸の石垣造営のために運ばれた巨石が、こちらに移動して並べられています。

 神指城二の丸北東付近から東方向を臨むの図。広々としています。山並みが近くに迫っていた鶴ヶ城からの眺めとかなり異なって、神指城が会津盆地のド真ん中に位置することが実感できます。

 高瀬の大木付近の案内板では、昭和22年当時の空撮画像があって、神指城の土塁跡が見事に残っていることが確認できます。デカいなあ。

 そして神指城本丸の南西隅には、新撰組の斉藤一が本陣を構えた如来堂があります。

 「新選組殉難地」の石碑が残されています。

 案内板によれば、土方歳三が函館まで転戦したのに対して、斉藤一は会津降伏後も残り、苦渋を共にしたようです。斉藤一と会津というと、『SHIDO』というマンガ作品を思い出しますね。

 如来堂の建物自体は、新選組の提灯と共に、ひっそりと残っています。

 神指城本丸から東に1km弱ほどのところに「中野竹子殉節之地」石碑が立っています。

 戊申会津戦争の際に、長刀で戦った娘子隊(じょうしたい)の一員だった中野竹子の顕彰碑です。

 薙刀を構える中野竹子の石像も建てられています。

 案内板。会津戦争では、婦女子まで戦いに出る総力戦になっていたことが伺えます。壮絶な覚悟で戦地に赴いた竹子は、生け捕りにしようと迫る新政府軍を寄せ付けない奮闘を見せ、痺れを切らした新政府軍が遠巻きに放った銃弾を額に受けて戦死したとも伝えられています。

 竹子たち侍の娘たちの奮闘はすさまじかったわけですが、実際には会津のために命を賭けていたのは武士階級だけであって、搾取される側だった農民たちが無関心であったことは各種資料から分かっています。会津戦争では、身分制の限界もあからさまになったと言えます。

 晩夏の太陽が照らす顕彰碑からは、日本人同士で殺し合った殺伐とした当時を思うことはまったくできません。
(2014年9月訪問)