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【要約と感想】ホメロス『イリアス』

【要約】いまから3000年以上前のことですが、ギリシア連合軍が小アジアにあったトロイエという町を攻め落とした戦争のうち、お互いの陣営が誇る最高の武将が一騎打ちをするまでの経緯を描いた物語です。
 他にもたくさんの一騎当千の武将たちが縦横無尽に戦場を駆け巡り、たくさんの兵士たちが無残に殺されていきます。

【感想】まあ、率直に言って、ひでえ話だなあと。とても人に奨められる話ではない。特に女性と子供には読ませたくない。女性が読んだら怒り心頭に発して話の筋を追うどころではなくなるのではないか。女性をモノとして扱うことになんの躊躇もない登場人物たちの言動には唖然とするしかない。また残虐表現が酷すぎて子供に見せたくなくなる。北斗の拳劇場版ですら児戯に見えてしまうほど殺し方の描写がむごたらしい。それに最大の英雄であるはずのアキレウスが愚かすぎて、話にならない。愚か者の見本市のように、バカしか出てこない。そもそも戦争の始まった経緯も馬鹿馬鹿しいし、戦争が止められないのも馬鹿馬鹿しいし、ときどき人間界に介入する神々の愚かさ極まりない身勝手な行動と言い分には吐き気すら催す。
 まあ、女をモノとして扱って恥じないのも残虐極まりない殺人描写も、作者に悪意があるわけではなく確かに時代のせいではあるだろうが、それを認めた上で、ともかく現代の人間たちにとって読む必要のある物語ではない。今となっては分別ある大人たちが古典的教養を身につけるために読むものであって、純粋に物語を楽しむために読むような類のものではなかろう。というか、プラトンの時代ですらもはや子供に与えるのに相応しくない作品として認識されていたのも頷けるというものだ。あんな愚かな連中が神様だとしたら、とてもじゃないが敬う気になどなれない。

 そういう数々の難点を教養と分別の力で乗り越えれば、まあ、英雄譚として楽しむことはできるかもしれない。たとえば結局だれが一番強いのかなどと考え始めると、ドラゴンボールと同じような楽しみ方はできなくもない。個人的な感覚だけで言えば、アキレウス>ヘクトル>ディオメデス=パトロクロス>サルペドン=オデュッセウス>大アイアス>アガメムノン=メネラオス>小アイアス>パリスって感じか。最弱のパリスに最強のアキレウスが討たれるというのは、まあ、話の筋から言えばうまくできてると言えるが、それは「イリアス」後の話となる。
 それから、最大のクライマックスであるはずのアキレウスv.s.ヘクトルの一騎打ちが、間抜けすぎる展開であるとこは、間抜けであるがゆえに面白いかもしれない。例えば三国志演義であれば呂布と関羽・張飛の戦いは矛を何十回合わせても決着がつかないような息もつかせぬ手に汗握る展開となるわけだが、イリアスでは一撃で決着がついてしまう。あっけないことこの上ない。こういう戦闘感覚については、東洋人と西洋人の感覚の違いを考える上でもヒントになるのかもしれない。
 あと、敵を殺した後に、どうしてあんなにも武具を剥ぐことを優先するんだろう。死体から武具を剥いでいるうちに逆に狙われてやられていく描写が多すぎて、なんでこんなにバカばかりなのか、不思議になる。まあ、これが文化というやつなんだろうけれども。

【女をモノとしてしか見ていない酷い描写を備忘録的にメモ】
アガメムノン「いかにもわしはどうしても娘を手許に置きたいのだ。わしには正妻クリュタイムネストレ(クリュタイムネストラ)よりもあの娘のほうがよい。姿かたちといい、心ばえや手の技といい、娘は少しも妻には劣らぬのだ。」1・101-120

ネストル「さればなんぴとであれ、ヘレネゆえに(われらが)こうむった悲歎の報復のためにも、トロイエ人の妻を抱くまでは、帰国を急いてはならぬぞ。」2・333-368

アカイア勢一同「誉れ最も高く、神威ならびなきゼウス、ならびによろずの不死なる神々よ、両軍のいずれの側にせよ、先に制約に背いて不埒を働く時は、その当人たちのみかその子らの脳漿も、この酒の如く地上に流れ、またその妻たちは見知らぬ者に婢となって仕えますように。」3・302-309

アガメムノン「これは必ず果たされることだが、幸いにしてアイギス持つゼウスとアテネとが、イリオスの堅固な城を陥すことをわしに許してくださる暁には、わしの次にはそなたに第一の褒賞をとらせよう、三脚の釜か、車体と共に二頭の馬か、それともそなたと褥を共にする女かをな。」8・273-291

アガメムノン「それにまた、優れた手芸の心得のあるレスボス生れの女七人を添えよう、これはかつてあの男が見事な造りの町レスボスを陥した時、わしが選び取った女たちで、その美貌は女たちの間でも際立っていた。」9・114-134

アキレウス「わたしは幾度も眠られぬ夜を過し、昼は血腥い戦いに明け暮れた――それも彼奴らの抱く女を得るために敵と戦ってだ。」9・307-336

アキレウス
「われらが己れの力と長い槍とで、人間たちの豊かな町をいくつも屠り、苦労の末に手に入れた女たちがな。」18・310-342

アキレウス「アトレウスの子よ、これはあなたとわたしのどちらにとっても、むしろよかったのだろうか、われら二人がひとりの若い女ゆえに、嫌な想いをし心を蝕む争いで猛る狂ってきたというのは。あの女などはむしろ、わたしがリュルネソスを陥して自分のものにしたその日に船の上で、アルテミスが射殺して下さったらよかった。」19・40-73

アキレウス「私はアテネと父神ゼウスの加護の下にこの街を陥し、女どもを捕え自由の日を奪って連れ帰った。」176-198

「みまかった人を弔う催しに、三脚釜か女か、豪華な賞が賭けられる折のこと」22・131-176

アキレウス
「まず駿馬を駆る騎士に与える見事な褒賞としては、一位の者には優れた手芸の心得のある女一人と、二十二メトロンを容れる、取っ手のついた三脚釜とを、二位の者には胎に騾馬の仔を持つ、まだ馴らしていない六歳の牝馬一頭を」p.346 23・262-286

「勝者には火に掛ける大きい三脚の釜、アカイア人の間では牛十二頭と値踏みされたもの、また敗者のためには一人の女を場の中央に立たせたが、様々な技術を身につけた女で、一同の値踏みは牛四頭であった。」p.366 23・700-724

テティス「倅よ、食事も眠りも忘れ、いつまでも歎き悲しんでわれとわが心を蝕んでいるのです。こんなときには女を抱いて楽しむのもよいことなのだよ。」24・120-137

 いやあ、本当に酷い言いぐさばかりだが。特にアキレウスの酷さと愚かさには目を覆うばかりだ。ちなみにアキレウスが愚かだということは、2000年前にすでに気づかれている。具体的には例えばローマ時代のストア派哲学者エピクテトスが以下のように述べている。

【アキレウスをバカにするエピクテトス『語録』】
「アキレウスはいつ躓いたのか。パトロクロスが死んだときか。そうであってほしくはないものだ。むしろ、憤慨し、少女のために泣き、恋人のためではなく戦うためにそこにいることを忘れたときである。正しい思考が奪われ、それが失われたとき、これこそが人間の妻月であり、これこそが包囲であり、これこそが滅亡なのだ。」1-28

「アガメムノンやアキレウスは自分に現れた心像にしたがって、あのような悪事をおこない、また災難をこうむったわけであるが、私のほうは現れた心像には満足していないから、その点では私は彼らよりも優れているのだろうか。」
「人類が誕生して以来、ありとあらゆる過失や不幸はこのことの無知が原因で生じているのではないのか。アガメムノンとアキレウスはなぜお互いに意見が違ったのか。それは何が有益で何が不利益かを知らなかったからではないのか。」2-24

「「ああ、でも私は、友が私より長生きをして、私の息子を育ててくれるものと思っていたのだ」とアキレウスは言う。
君は愚かだったわけで、確かでないことを思い込んでいたのだ。すると、どうして君は自分を非難しないで、女の子のように座って泣いていたのだ。」4-10
「君たちはどう思うか。ホメロスはわざとこんな話を作って、最も高貴な人、最も強い人、最も富んだ人、最も容姿の端麗な人が、もっているべき考えをもたなければ、実のところ最も哀れであり、最も不幸であることを妨げるものはなにもないとこと、われわれが学ぶようにしたのではないか。」4-10

 ちなみに、トロイア戦争はヘレネという一人の美女の奪い合いに端を発するのだが、「まさか一人の女性をめぐって十年も大まじめに戦争を続行するなんてありえない。バカじゃないの」という理性的な感想は、私が言うまでもなく、しっかり古代から表明されている。具体的には例えば、アイスキュロス『アガメムノーン』には「もとをただせば、他人のものである女の奪い合い。この思いはだれしもが口をとざしたまま叫んでいる」(447)と、トロイア戦争のバカバカしさを指摘している。またエピクテトスは「不貞の女がいなくなったのだから、もっけの幸いではないのか。」(『語録』3-22)とか「もしメネラオスが、こんな妻は奪われたほうが得だというような気持ちになったなら、どんなことになるだろうか。『イリアス』だけでなく、『オデュッセイア』もなくなってしまうのだ。」(『語録』1-28)と指摘して、こんなことで戦争を起こすバカバカしさに呆れている。
 また、たとえばヘロドトス『歴史』は、ヘレネがトロイアにいなかったという説を紹介し、一人の女性のために命を賭けて戦争するなんてことがあるわけないと主張しているのだった。まあ、理性的に考えれば、そうとしか思えない。
 が、もうちょっと深堀りして考えてみると、上記の酷い引用に見られるように、「女」を実際に「財産の筆頭目録」として扱った時代がひょっとしたらあって、我々の想像を絶する価値観で人々が動いていた可能性も排除できないとは思う。たとえば農耕が広く普及する以前であれば、土地や金(交換材)の価値が極めて低く、逆に人間そのものを財産(交換可能なモノ)として重視する可能性は、あるのかもしれない。実際、領土を分割するという話はまったく出てこない。おそらく土地なんか余りまくっていた時代の話なのだろうし、上に引用した「女をモノとして見る感覚」はその仮説を支持する材料になる。逆に言えば、ヘロドトスの時代には、そういう原始的な感覚がもはや共有されないことをも意味しているのだろう。

 また、そもそも人間たちがヘレネを奪い合うきっかけになったのは、パリスの審判として知られるエピソードである。ヘラ・アテナ・ビーナスのうちの誰が最も美しいかを、人間であるパリスに選ばせようという話だ。これがきっかけで、何万人もの人間が死ぬ戦争に向かって行く。超くだらない。バカすぎ。そう思っているのは現代に生きる私だけでなく、古代の人々も「超くだらない。バカすぎ。」と思っている。たとえばプラトン『国家』アウグスティヌス『神の国』は、「そんな愚かなものは神であるはずがない」と指摘して、プラトンはホメロスなど詩人たちの愚かさを歎き、アウグスティヌスはプラトンを引用しながら多神教のバカバカしさを論難している。まあ実際、そうですよね、としか。

【ホメロスを批判するアウグスティヌス『神の国』】
「わたしたちは、むしろ、国家がどのようなものであるべきかを理性的に考えて、詩人をいわば真理の敵として、都市から追放せねばならぬと考えたギリシア人プラトンに軍配をあげねばならぬのではなかろうか。かれはじっさい、神々に加えられた侮辱に耐えることができず、また市民の心が詩人の仮作によって汚され、傷められることを欲しなかったのである。」第2巻第14章
「そこからローマ民族がおこったトロヤ、またはイリウムは、ギリシア人と同じ神々をもち、崇拝しながら、なにゆえギリシア人によって征服され、占領され、破壊されたのであるか。」第3巻第2章

 そしてルネサンス期人文主義の王と称されたエラスムスは、イリアスを一刀両断している。

【イリアスをバカにするエラスムス『痴愚神礼賛』】
「聖なる詩編『イリアス』は、王族や諸民族の常軌を逸した怒り以外に、なにを物語っているでしょうか?」205頁

 エラスムスの言うとおり、イリアスの登場人物は神も含めてことごとく常軌を逸しており、痴愚神による諧謔の対象として実に相応しいのであった。

ホメロス『イリアス(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年
ホメロス『イリアス(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年

【紹介と感想】鴨志田英樹『次世代リーダーを育てる!ファーストレゴリーグ』

【紹介】「ファーストレゴリーグ」(FLL)とは、ブロックおもちゃのレゴを使用して自律型のロボットを作り、課題をこなして獲得した得点を競いあう、全世界の子どもたち32万人が参加する、世界最大級のロボット競技会です。
競技といっても、勝ち負けが重要なのではありません。この競技を通じて様々なことに気づき、成長することこそが一番の眼目です。
本書は、FLLに参加した日本の子どもたちや指導者たちへ、FLLで何を学んだのか、何ができるようになったか、自分がどう成長したか等をインタビューし、それを通じて教育にとって大切なことは何かを考えています。

【感想】いいなあ、うらやましいなあ。私もいま子どもだったら、絶対にFLLに参加するのになあ。と、心から思う。めちゃめちゃ楽しそう。小さい頃から世界を相手に戦えるのも、ほんとう、うらやましい。

プログラミング教育が論理的思考力や粘り強く目標を実現する力、あるいは問題発見・解決能力を養うことは様々な人が指摘しているけれども、本書が明らかにするのは、それ以上に「コミュニケーション能力」や「リーダーシップ/フォロワーシップ」や「団結力」など、「人間関係調整能力」が有意に発達するということだ。参加した子どもも指導者も、異口同音に人間関係調整能力の重要性を指摘する。お互いの個性を認め合い、異なる多様な考えを受けとめて総合し、一つの目標に向けて全員の持ち味を存分に発揮すること。これがFLLで成功するための決定的な秘訣なのだ。参加者や指導者が口々に言う「一人でやるよりも仲間といっしょにやったほうが成功しやすい」という世界の真理は、学校の勉強だけではなかなか気がつかないことだ。

「21世紀型スキル」とか「ソフトスキル」とか「生きる力」とか、いろいろな言葉で抽象的に表現されてきていることが、FLLでは極めて具体的な姿で目に見える。本当に素晴らしい実践だと思う。私は子どもとして参加することはできないけれども、教育に関わる者として何かしらの形で関わってみたい、そう思わせる熱量の高い実践だ。

鴨志田英樹『次世代リーダーを育てる!ファーストレゴリーグ』KTC中央出版、2018年

【要約と感想】キケロー『老年について』

【要約】歳をとることについて、世間の人々は厭なことと思っているようですが、実際はたいへん素晴らしいことです。が、素晴らしい老年を迎えるためには、若いころからの行いがとても大切です。

【感想】まあ、まだ私には早い話だったかな。壮年期のうちは、ばりばり働こう。で、この本は、ヨボヨボになって意気消沈している時に、もう一度読むことにしよう。とても元気が出そうだ。そういう意味では、この本の存在を知っていて、損はしない気はする。

【個人的な研究のための備忘録】
人生の諸時期を区分する様式について、老年を語る本書もやはり言及している。

「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。」10・33

人生の区分についてはアリストテレス等にも既に見えるわけだけれども、キケローの文章で特徴的なのは、所持期に特有の使命を想定している点かもしれない。単に時期を区切るだけでなく、エリクソンに通じるような「発達段階論」に足を踏み入れている感じがするわけだ。

また、プラトンの「想起説」について言及している部分があるけれど、プラトンよりもより直接的な表現になっていて、興味深い。

「人間が生まれる前から多くのことを知っているということの大いなる証拠を挙げるなら、子供でさえ難しい学問を学ぶ時、数えきれぬことがらをいとも迅速に了解するので、今初めて聞かされるのではなく、思い出し想起しているように見える、という事実がある。」21・78

ここでキケローが言及しているように、確かに子供でもけっこう難しい理屈をすんなり理解したりすることがある。この現象をブルーナーが捉えて主張したのが、「どの教科でもその知的性格をそのままに保って、発達のどの段階の子どもにも、効果的に教えることができる」という「教育の現代化」理論であった。この現象はおそらく「人間理性の共通性・普遍性」に基づいているわけだが、それが古代では「想起説」として表現されているのはノートしておきたい。

キケロー『老年について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年

【要約と感想】セネカ『怒りについて』

【要約】怒っても、いいことは何もありません。

【感想】まあ確かに、私が怒ることで学生が勉強するならいくらでも怒るけれども、私が怒ったところで彼らが勉強する気になるはずがないわけで。
個人的にはセネカは当たり前のことを言っているようにしか思えないわけだけれども、こういう文章を必要とする人もいるのでしょう。たとえば以下の文章なんかは、現代においても、twitter等ネット上の議論で白熱している人に対して、一言一句も変えずに適用できてしまうのであった。逆に言えば、人間、2000年ものあいだ全く進歩していないということでもあるのだった。

「あの議論では、君の語り方はかなり喧嘩腰だった。今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できず、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えられるかどうか、気をつけるがいい。良き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受け取るものだ。」3・36・4

【今後の研究のための備忘録】
子どもに関する記述は、なかなか興味深い。ギリシア時代の子ども観を引き継いで、子どもに理性を認めない立場が徹底されている。

「そういったものは、なんであるにせよ、怒りではない。怒りのようなもの、子供のそれのようなものにすぎない。子供は転ぶと、台地に懲罰の鞭がふるわれるのを願う。なぜ怒っているのかが自分でも分かっていないことも間々ある。ただひたすら怒るだけで、理由も不正もない。」1・2・5
「仮にもし怒りが善であったとすると、まさに完成に到達した人間にそなわることになるはずではないか。ところが、いちばん怒りっぽいのは幼児と老人と病人である。およそ、ひ弱なものは本性上、愚痴っぽい。」1・13・5
「こんな場合、行なっている人間の性格と意志を突きとめよう。子供だ。年齢に譲ってやれ。悪いことをしているか分からないのだから。」2・30・1
「怒りと不正に耐えるというのは、実は今、あなたがしていることなのだ。なぜあなたは病人の激怒、狂人の罵言、子供の無遠慮な手の悪戯に耐えているのか。言うまでもなく、彼らは何をしているのか分かっていないとみなされているからだ。」3・26・1

それから、人間の生まれつきの性格が変わらないことについて明確な表現があることは、押さえておいていいかもしれない。「氏か育ちか」という議論は教育学では宿命的に避けられないわけだが、セネカは「氏」を踏まえた上で「育ち」の意義を主張している。なかなかバランスがとれているようには思う。
また、性格そのものの形成について、セネカが環境決定論のような発言をしているのも押さえておく。

「最も大きな力をふるうのは習慣である。それが劣悪なとき、悪徳が養われる。自然を変えることは難しい。いったん生まれくる者の構成要素が混合されると、それを覆すことはできない。とはいえ、知っておくと役立つことはある。灼熱質の人から酒を遠ざけることなどだ。プラトーンは、子どもに酒を禁ずるべきだと考え、火を火で駆り立てることを禁じている。」2・20・2

また、教育に関しては簡潔な言葉しか残っていないものの、なかなか含蓄が深い。極端に偏らず、バランスを取ることを重視している。

「私は主張するが、子供を早いうちから健全に躾けることこそ、何よりもためになる。だが、その舵取りは容易ではない。というのも、彼らのうちに怒りを養わないよう、同時に素質を鈍らせないよう努めなければならないからである。事は細心の配慮を要する。持ち上げるべきものも抑えつけるべきものも、似たものによって育まれる。そして、似たものは注意深い者をすら容易に欺くからである。覇気は放任によって増大し、隷従によって減少する。褒められれば立ち上がり、自信へとつながっていく。けれども、同じそのことが増長と怒りやすさを生み出す。だから、ある時には馬銜を、ある時には拍車を用いるようにして、両者のあいだを巧みに操縦していかねばならない。」2・21・1-3

セネカ『怒りについて 他二篇』兼利琢也訳、岩波書店、2008年

【紹介と感想】『ある日、クラスメイトがロボットになったら!? イギリスの小学生が夢中になった「コンピュータを使わない」プログラミングの授業』

【紹介】プログラミング教育の本です。実際にイギリスで実践された授業の事例が豊富に示されています。特徴は、コンピュータを使わずに授業を行なうことです。
コンピュータを使わなくても、プログラミングに必要な能力は伸びます。たとえば、論理的思考能力や、粘り強くデバッグを行なう忍耐力や、アルゴリズムに関わる基本的な知識(逐次処理や条件分岐、プロシージャの概念)など、コンピュータ無しでも身につけることができます。そしてそれは、単にプログラミング教育だけでなく、ピアジェやヴィゴツキーが言うような、普遍的な認識能力の発展(構成主義)と密接に関連しています。

【感想】多少、上級者向けの本のような気がする。プログラミング教育の基本が分かっていない教師がいきなり本書を手にとっても、何を言われているのか理解するのは難しそう。逆に言えば、基本を理解していると、意味深い実践が行なわれていることに感心するはずだ。

私が驚いたのは、単にアルゴリズムの基礎だけではなく、インターネットの構造や仕組みや実際の働き方とか、あるいはパケットやルーターの概念とか、さらには暗号化の仕組みなど、ネットワークに関する知識を全面的に扱っているところだ。日本のコンピュータ教育はスタンドアローンの範囲で終わっているが、イギリスではネットワーキングこそが本質になっている。コンピュータについて詳しい人ほど、これらの実践に感心するだろうと推測するが、どうか。

ヘレン・コールドウェル、ニール・スミス『ある日、クラスメイトがロボットになったら!? イギリスの小学生が夢中になった「コンピュータを使わない」プログラミングの授業』学芸みらい社、2018年