【要約と感想】セネカ『怒りについて』

【要約】怒っても、いいことは何もありません。

【感想】まあ確かに、私が怒ることで学生が勉強するならいくらでも怒るけれども、私が怒ったところで彼らが勉強する気になるはずがないわけで。
個人的にはセネカは当たり前のことを言っているようにしか思えないわけだけれども、こういう文章を必要とする人もいるのでしょう。たとえば以下の文章なんかは、現代においても、twitter等ネット上の議論で白熱している人に対して、一言一句も変えずに適用できてしまうのであった。逆に言えば、人間、2000年ものあいだ全く進歩していないということでもあるのだった。

「あの議論では、君の語り方はかなり喧嘩腰だった。今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できず、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えられるかどうか、気をつけるがいい。良き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受け取るものだ。」3・36・4

【今後の研究のための備忘録】
子どもに関する記述は、なかなか興味深い。ギリシア時代の子ども観を引き継いで、子どもに理性を認めない立場が徹底されている。

「そういったものは、なんであるにせよ、怒りではない。怒りのようなもの、子供のそれのようなものにすぎない。子供は転ぶと、台地に懲罰の鞭がふるわれるのを願う。なぜ怒っているのかが自分でも分かっていないことも間々ある。ただひたすら怒るだけで、理由も不正もない。」1・2・5
「仮にもし怒りが善であったとすると、まさに完成に到達した人間にそなわることになるはずではないか。ところが、いちばん怒りっぽいのは幼児と老人と病人である。およそ、ひ弱なものは本性上、愚痴っぽい。」1・13・5
「こんな場合、行なっている人間の性格と意志を突きとめよう。子供だ。年齢に譲ってやれ。悪いことをしているか分からないのだから。」2・30・1
「怒りと不正に耐えるというのは、実は今、あなたがしていることなのだ。なぜあなたは病人の激怒、狂人の罵言、子供の無遠慮な手の悪戯に耐えているのか。言うまでもなく、彼らは何をしているのか分かっていないとみなされているからだ。」3・26・1

それから、人間の生まれつきの性格が変わらないことについて明確な表現があることは、押さえておいていいかもしれない。「氏か育ちか」という議論は教育学では宿命的に避けられないわけだが、セネカは「氏」を踏まえた上で「育ち」の意義を主張している。なかなかバランスがとれているようには思う。
また、性格そのものの形成について、セネカが環境決定論のような発言をしているのも押さえておく。

「最も大きな力をふるうのは習慣である。それが劣悪なとき、悪徳が養われる。自然を変えることは難しい。いったん生まれくる者の構成要素が混合されると、それを覆すことはできない。とはいえ、知っておくと役立つことはある。灼熱質の人から酒を遠ざけることなどだ。プラトーンは、子どもに酒を禁ずるべきだと考え、火を火で駆り立てることを禁じている。」2・20・2

また、教育に関しては簡潔な言葉しか残っていないものの、なかなか含蓄が深い。極端に偏らず、バランスを取ることを重視している。

「私は主張するが、子供を早いうちから健全に躾けることこそ、何よりもためになる。だが、その舵取りは容易ではない。というのも、彼らのうちに怒りを養わないよう、同時に素質を鈍らせないよう努めなければならないからである。事は細心の配慮を要する。持ち上げるべきものも抑えつけるべきものも、似たものによって育まれる。そして、似たものは注意深い者をすら容易に欺くからである。覇気は放任によって増大し、隷従によって減少する。褒められれば立ち上がり、自信へとつながっていく。けれども、同じそのことが増長と怒りやすさを生み出す。だから、ある時には馬銜を、ある時には拍車を用いるようにして、両者のあいだを巧みに操縦していかねばならない。」2・21・1-3

セネカ『怒りについて 他二篇』兼利琢也訳、岩波書店、2008年