「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【紹介と感想】石戸奈々子『プログラミング教育ってなに? 親が知りたい45のギモン』

【紹介】主に保護者向けに書かれたプログラミング教育の案内書です。右も左も分からない超初心者にお薦めの本です。プログラミング教育がどうして必要なのか、何を学ぶのかなど、保護者が抱きがちな疑問に対して簡潔に答えています。よくある疑問や不安は、この一冊で解消しそうです。またプログラミング教育の初歩の初歩を知りたい現場の教師にとってもおそらく有益で、「社会に開かれた教育課程」とか「教科等横断的」など新学習指導要領のキーワードと絡めながら理解することができます。
逆に言えば、初心者を脱している人には特に必要がない本ではあります。まずは入口に立つための本であって、プログラミング教育の扉をくぐる段階の本ではありません。

【感想】分かりやすく書かれているけれども、全方位でかゆいところに手が届く、偏りなく行き届いた良心的な案内本であるように思う。本当に右も左も分からない保護者は安心できるのではないか。
特にプログラミング教育の意義には不安がなく、実際に子供に経験させてみたいと思っている場合は、本書は必要ないのでスキップして、同じ著者の『プログラミング教育がよくわかる本』を手に取るのをお薦め。

石戸奈々子『プログラミング教育ってなに? 親が知りたい45のギモン』Jam House、2018年

【紹介と感想】澤井陽介編著・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校著『鎌倉発「深い学び」のカリキュラム・デザイン』

【紹介】新学習指導要領の理念を実際の教育活動に落とし込んだ小学校の実践が報告された本です。学校全体で理論的なVISIONを共有した上で、具体的に各教科それぞれの「本質」や「見方・考え方」を構成しているので、全体的な統一感があります。従来の各教科指導案の羅列では見えてこなかったような「教科等横断的な資質・能力の育成」や「プロセスを重視した指導」の具体的な姿が、この取り組みではとても見えやすくなっています。学校の「重点目標」の策定から、それを踏まえた具体的な「カリキュラム・デザイン」までを考える際に、実践的に練り込まれた例として参考になるのではないでしょうか。

【感想】「カリキュラム・デザイン」というPDCAサイクルの「P」および「プロセスを重視した指導=深い学び」という「D」の部分に集中した実践報告として、とても興味深く読んだ。(逆に言えば「C」と「A」は主要テーマとして扱われていないので、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」が全般的にカバーされているわけではないけれども。)
「校内研修」でボトムアップ式に積み上げてきただけあって、個性的で独創的な取り組みに発展してきているように見える。印象に残るのは、多様性や協働性を実践に落とし込む際の「ズレ」という言葉の使い方や、「賢いからだ」という独特の表現だ。文科省や教育委員会の文書から言葉を借りるのではなく、日々の経験を校内研修を通じて積み上げていく姿勢が感じられる。独創的な実践を作り上げていく際に、見習うべきところが多いように思った。
また、「学校目標」の実際的な作り方に関しては、一つの事例として興味深く読んだ。従来の小中学校の教育目標は、著者も言うように「知・徳・体」をキャッチフレーズ的にまとめたものが多かった。明治期に輸入したスペンサーの三育主義以来、140年間変わっていないわけだ。新学習指導要領では、この旧来型学校目標の見直しを強く求めてきている。文科省が想定している新しい学校目標とは、おそらく学校教育法に定められた「学力の三要素」をベースとしたものだ。しかし旧型目標と新型目標の整合性をどう取るかは、なかなか厄介な実践的な課題となる。その厄介な課題に対して本書が示した解決法は、なかなか実践的だと思った。

気になったのは、「社会に開かれた教育課程」という概念が論理的に矮小化されていたところだ。が、まあ、ボトムアップ式の取り組みという点から考えれば、別に文科省の言う概念を無批判に取り入れる必要はなく、目の前の子どもの姿から徐々に課題が立ち現われていくものであるだろうとは思う。

澤井陽介編著・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校著『鎌倉発「深い学び」のカリキュラム・デザイン』東洋館出版社、2018年

■参考記事:「カリキュラム・マネジメントとは―3つの指針と学校運営の要点―

【要約と感想】田村学『深い学び』

【要約】今時学習指導要領の重要キーワードの一つが「主体的・対話的で深い学び」であることは周知の事実ですが、特に「深い学び」という概念が重要です。「深い学び」は単なる「主体的」で「対話的」な活動で成立するわけではなく、教科の本質を理解した教師による適切な指導が必要です。「深い学び」を実現するためには、単元全体を見透したカリキュラム・デザインを前提とし、「知識」が相互に関連付けられ構造化される仕組みを理解し、プロセスを重視して評価と一体となった授業を作りあげ、そうして練り上げられた授業の経験を「授業研究」等で共有化していくことが必要となります。

【感想】学習指導要領改訂の理論的な背景や時系列的な経緯も簡潔に説明されている上に、具体的な実践例も豊富に提示されていて、さらに「知識が駆動する」というパワーワードが前面に打ち出されていてビジュアル的なイメージが浮かびやすく、「深い学び」の諸相が多面的に理解できる。現場の先生だけでなく学生が読むにも良い本だと思った。最新学習指導要領では「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」が密接不可分不離一体なので、本書と合わせて田村学『カリキュラム・マネジメント入門』も読むと全体像が見えやすくなると思う。またこの理論を実際の授業で使用した実践編とも言える『深い学びを育てる思考ツールを活用した授業実践』と併せて読むと、具体的な実践のあり方がイメージしやすいかもしれない。

とはいえ、個人的には、同じことを既にヘルバルトが論理的には全部言っているとも思ってしまった。結局は「教授のない教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育のないいかなる教授も認めない」ということなのだった。噛み砕くと、ヘルバルトの言う「教授」とは基礎・基本の知識の習得であり、ヘルバルトの言う「教育」とは活用を通じた学びに向かう人間性の涵養(ヘルバルトの言葉では「多方の興味」)なのだった。具体的にはカリキュラム・デザインは「中心統合法」だし、単元構成は「開化史的段階」だし、深い学びは「五段階教授法」として提示もされているのだった。200年かけて、時代がようやくヘルバルトに追いついたということか、どうか。あるいはヘルバルトの教育理論を、ようやく我々が「活用・発揮」できる段階に入ったということか、どうか。ただ「評価」という観点に関しては、ヘルバルトよりも圧倒的に進化しているようには思う。今後の教育技術の進展は「評価」にかかっているのだなあと、改めて思った次第。
まあこのあたりの思想史的なあれこれは現場の先生方や学生には直接的には関係ないし、あれこれしたところで著者が主張したいことを生産的に発展させるわけでもないので、まあ個人的な研究として深めていくことにしたい。本書が学習指導要領が目指す理念を具体的な授業実践に落とし込む上でとても参考になるいい本であることは間違いないので、教職を目指す学生にはぜひ読んでおいてもらいたいと思った。シラバスで参考書に指定しておくのかな。

田村学『深い学び』東洋館出版社、2018年

■参考記事:「主体的・対話的で深い学びとは―アクティブラーニングを超えて―

【要約と感想】ソポクレス『オイディプス王』

【要約】オイディプスは恐ろしい予言で、将来は実父を殺し実母と交わることになると聞かされたため、その予言を成就させないよう決意し、生まれ故郷を後にしました。そして流れ着いたテバイの町の危機を救い、未亡人の妃と結婚して王となりますが、再び訪れたテバイの危機を救うために先王殺害の真実を知ろうと欲したため、恐ろしい悲劇的な結末を迎えることになります。

【感想】アリストテレスも『詩学』で大絶賛する古代ギリシャ悲劇最大の傑作との呼び声も誉れ高い作品、さすがの読み応えなのだった。徐々に高まっていく緊張感と、すべての伏線が収束した末に出来する一挙の破滅、そして誇り高き主人公であったがゆえに必然的に迎える悲劇的な破滅、読後に胸中に去来するなんとも言いようのない人間の力に対する無力感。何ひとつつけ加えることもできず、何ひとつ取り去ることもできず、いっさい無駄のない完璧な展開には惚れ惚れせざるを得ない。文句なく傑作だ。まあ、改めて私が褒める必要などないのだが。

批評的に読み解くとしたら、ひとつはやはりアリストテレス『詩学』のように「筋」の見事さを分析する視点が有力なのだろう。「認知」がそのまま「逆転」に結びつく展開は、圧倒的な説得力と納得感を生じさせる。美しい。理屈では分かっていても具体的にこのような美しくも説得力のある筋を生み出すのはとても難しいわけだが、1970年代前半の少女マンガにはこういう構造に挑んだ作品がけっこう多いような気がする(個人的には特に一条ゆかりの作品を思い出す)。

そしてもう一つは、「運命」とか「必然性」という如何ともしがたいものに対する人間の「自由意思」の無力さを強調する視点か。人間が「良かれ」と思ってしたことが、ことごとく自分の不幸に結びついていくという皮肉。あるいは、結果が既に分かっているにも関わらず、その結末を避けようと意図して却って自らその結末に飛び込んでしまうという皮肉。アナンケーの女神の前では、ちっぽけな人間の意志など何の意味も持たない。「自由意思」とは何だろうかという形而上の疑問が、本作品の余韻を味わい深いものにする。

そして自由意思に絡んで、人が人を罰することなど本当にできるのだろうかという畏れ。本作では、オイディプス自らが罰を欲したからこそ、自ら罪が発覚した時には自らを罰することを躊躇しなかった。しかしオイディプス以外の人間が彼を罰することなどできないだろう。「罪と罰」の関係に対する形而上的なモヤモヤが、本作の余韻を長からしめる。

まあ、他にも様々な角度からいろんなことが言えてしまえそうな作品だ(たとえば精神分析学者の手にかかれば、人類すべての心理的根源にまで話が至ってしまうわけだし)。懐が深い。

ソポクレス/藤沢令夫訳『オイディプス王』岩波文庫、1967年

【要約と感想】ホメロス『オデュッセイア』

【要約】トロイア戦争に参加した英雄の一人オデュッセウスは、自らの知謀でトロイエを滅亡させることに成功したものの、神々の怒りに触れたために故郷に帰ることができない。一方オデュッセウスの故郷では、愛する妻と子供が無法者たちのために危機に陥っていた。オデュッセウスは10年間の苦難の流浪の末にようやく故郷に帰還し、息子のテレマコスと共に無法者たちを討ち果たし、愛する妻と再会する。

【感想】個人的な感想だけ言えば、『イリアス』よりもこっちのほうが圧倒的に好き。もう段違い。『イリアス』はウンザリしながら「教養のため…」と我慢して読んだけれども、『オデュッセイア』は純粋に夢中になって読めた。
客観的に出来がいいかどうかという問題ではなく、私の個人的な興味関心の有り様に関わっているんだろうけれども。とはいえ、その好き嫌いの理由は、明らかに『イリアス』と『オデュッセイア』の作品の質の違いにも関わっているので、以下、どうして好き嫌いが生じたのか、理由は分析しておく。

(1)『イリアス』は主人公がアホすぎるが、『オデュッセイア』は賢い
まず、私はアホな登場人物が嫌いだ。『イリアス』の主人公であるアキレウスの低脳ぶりには目を覆うばかりだ。低脳だけならともかく、残虐で短慮で浅はかで自分勝手でマザコンという、もはや人間のクズと言っても過言ではない、酷い主人公だ。
一方オデュッセウスは、慎重で賢く、しかも勇気がある。主人公として共感できる資質の持主なのだ。感情移入しやすいキャラクターという点で、アキレウスよりもオデュッセウスのほうが圧倒的に優れている。

(2)テレマコスのキャラクターが素晴らしい
『オデュッセイア』ではオデュッセウスの息子テレマコスがもう一人の主人公として大活躍するのだが、このキャラクターが素晴らしい。純真で清々しく、健気で若々しい。こういう素直に応援したくなる若者は、『イリアス』には一人も登場しない。テレマコスが徐々に男らしく成長していく姿は、読んでいて実に気持ちがいい。ルソー『エミール』にはテレマコスにハマって婚期を逃す女性のエピソードが語られるが、分かる気がする。こんな男性を理想像としていたら、そりゃあ現実の男性に魅力を感じることはないだろう。

(3)「遠山の金さん」あるいは「水戸黄門」的なおもしろさ
オデュッセウスは自分の正体を隠して故郷に帰還し、自分の家で乱暴狼藉を働く無法者たちの悪行を自分の目で確かめた上で、最後に正体を明かし、ばったばったとやっつける。その爽快さたるや、これぞエンターテインメントの真骨頂だ。その痛快活劇のあり方は、「遠山の金さん」や「水戸黄門」の面白さと完全に同じだ。高貴な自分の素性を隠している間は悪者たちに侮られ続けるが、いざ正体を明かしてからは完全無双状態。裏切った女中たちが12人並んで首を吊られるところなんかは、まるで必殺仕事人。痛快極まりない。

(4)そもそも戦う理由に共感できる
『イリアス』が酷いのは、そもそも戦う理由が意味不明なところだ。どうしてアカイア勢とトロイア勢が戦う必要があるのか、わけがわからない。立派な人間がわけのわからない理由で次々と殺戮されていく描写が延々と続き、ゲンナリとする。かわいそうすぎて、見てらんない。特にアキレウスが戦う理由は私利私欲と私怨でしかないのだから、どれだけ活躍しようと、いや活躍すればするほど「死ねよ」としか思えない(まあ、ほんとに死んじゃうんだけど)。
が、『オデュッセイア』では、オデュッセウスとテレマコスが戦うのは「家族の絆」のためなのだ。家族の絆を守るために傍若無人な無法者と戦うのだから、戦う理由に正当性がありすぎる。特に健気なテレマコスには、無条件に「がんばれ」と応援したくなる。

まあ、『イリアス』と『オデュッセイア』の作劇上の違いについてはアリストテレス『詩学』が相当つっこんで議論しているところだけれども、以上書き連ねたのは客観的な作劇上の問題ではなく、あくまでも個人的な感想が生じる理由についての分析でありました。

ホメロス『オデュッセイア(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年
ホメロス『オデュッセイア(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年