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【紹介と感想】『これで大丈夫!小学校プログラミングの授業』

【紹介】現場の教員向けに、実際の指導案を示しながら、プログラミング教育の具体的な計画や進め方を紹介している本です。学年は小学1年~6年まで、教科は国語・算数・理科・社会など、39の授業実践が紹介されています。いずれも机上の空論ではなく、実際に行なわれた授業の紹介となっています。
ありがたいのは、具体的な指導案があるだけでなく、実際に授業を進める上でのポイントや、授業を受けた児童の振り返り、さらに専門家からのアドバイスなどがあるところです。プログラミング教育に対してピンと来ていなかった教員も、これら指導案と授業進行を見れば、何をすればいいのか腑に落ちるかもしれません。
ということで、本書に紹介された授業の多くでは、実際にはコンピュータを使っていません。というのは、学習指導要領が求めているのは、あくまでも「論理的思考力」を養うことだからです。それは、コンピュータがなくても実践可能です。

【感想】まあ、とても分かる。現場の先生たちは、こういう本を待っていたんじゃなかろうか。よく分かるのは、実際の授業ではコンピュータを使用する必要はなく、教科教育の枠の中で「論理的思考力」を伸ばしていけばよいということだ。

しかしこの「論理的思考力」を伸ばす授業の実際が、とても興味深いのだ。そもそもプログラムを書くとは、
(1)目標を明確にする
(2)筋道を見透して計画を立てる
(3)小さなステップに分解する
(4)ひとつひとつのステップを適切に表現する
(5)着実に実行する
(6)結果を評価する
(7)目標に合わせて集成する
という一連の行為から成立しているわけだが、実はこの流れは、はるか以前から学校教育で黙々と行なわれてきたことのはずだ。教科教育にプログラミングの発想を組み込むことは、実はこれまで先生たちが行なってきた伝統的な教科教育を、改めて根本的に点検することでもある。つまりプログラミング教育とは、単に伝統的な教科に異物が付け加わることではなく、実は教科教育の本質に密接に関わってくるはずなのだ。
たとえば、授業で躓いている子供がどこに課題を抱えているかは、授業の流れを「小さなステップに分解する」と明確に見えやすい。分解された小さなステップを着実に実行していって、止まってしまったところが躓きの瞬間だ。ところが、授業の流れを大雑把にしか理解せず、小さなステップに分解できない先生は、子供がどこで躓いたかがサッパリわからない。子供がどこでどのように困っているかが、わからない。躓きの主観を捉えられない。しかし、先生が自分の授業をプログラミング教育の文脈で構成し直すと、小さなステップに分解してあるから、子供がどこで躓いたかが可視化される。問題が可視化されて、初めて具体的で効果的な指導が可能となる。教師は、自分の授業を「小さなステップに分解する」という作業を通じて、初めて自分が授業がどのような要素で成り立ち、どのようなシーケンスで組み立てられていたか、自覚する場合もあるだろう。つまり、その授業の本質がどこにあるのかが、プログラミング教育化の手続きの過程ではっきりと浮かび上がってくるということだ。これは学習指導要領が求めている「深い学び」を実現する上で、決定的に重要な観点となるだろう。

実は、プログラミング教育は、子供のために行なうだけでなく、先生たちの授業を合理化・工学化し、「深い学び」を実現する上で決定的に重要な役割を果たすかもしれない。コンピュータを使うか使わないかは、実は本質的な問題ではない。この本に示された数々の実践例を見て、そう思ったのだった。

小林祐紀・兼宗進・白井詩沙香・臼井英成編著監修『これで大丈夫! 小学校プログラミングの授業 3+αの授業パターンを意識する 授業実践39』翔泳社、2018年

【紹介と感想】石嶋洋平『子どもの才能を引き出す最高の学びプログラミング教育』

【紹介】保護者向けに、プログラミング教育の意義と、具体的な始め方、民間スクール選びなどを解説した本です。プログラミング教育が、単に職業教育として期待されているだけではなく、メタ認知能力やソフトスキルなど人格形成にも効果的であることが、様々な視点から分かりやすく示されています。
本書は、プログラミング教育で身につく普遍的能力を7つ挙げています。
(1)目的意識:目標から逆算して考える力が付く。
(2)論理的思考力:筋道を立てて考える力が付く。
(3)数学的思考力:数字・図・式に置き換えて物事を理解する力が付く。
(4)問題解決力:問題点を洗い出す力とリカバリーする力が身につく。
(5)クリエイティブ力:頭の中のアイデアを具現化できるようになる。
(6)実行力:自分から積極的に行動するようになる。
(7)文章読解力:人工知能にも負けない読解力が付く。
ということですが、私個人の経験から言っても、確かにそう思えます。

まあ、保護者にとっては分かりやすい本ですが、これから学校にプログラミング教育をどうやって組み込むのが参考にしたい教師にとっては、かゆいところには手が届いていないように感じるでしょう。学校関係者は、まず文部科学省のサイトを覗いた方がいいかもしれません。本書はあくまでも保護者目線で書いてあります。

【感想】プログラミング教育が、プログラマー育成を目的としているのではなく、普遍的な能力を育てるものであることが、かなり分かりやすく説かれている。本書では「7つの才能」をまとめているけれども、個人的にはさらに「仲間と協力して一つの目標に向かうためのコミュニケーション力」と「ルールを自分で設定する力」は、プログラミング教育で伸びる力として極めて有力であるように思う。
なにはともあれ、現場がプログラミング教育を「コンテンツからコンピテンシーへの転換」という文脈で捉えなければ逆効果になるだけだろうという思いを、ますます強くした。コンピテンシーの文脈で「活用力」を伸ばす「ツール」であると捉えれば、きっと現場に恩恵をもたらすだろうけれども、そうでなければ単に負担が増えるだけに終わる。まあ、結局は現場の先生たちの力に全てがかかってくるわけで、改めて教員養成課程の使命が重いことを自覚せざるを得ないのだった。

で、本書では、執筆者が関わるプログラミング私塾の宣伝が目に付いて、それ自体はもちろん悪いわけではないけれども、公教育という観点からすれば、食い足りない感じが残るのも仕方がない。個人的には、「学校は学校でしかできない凄いことがある!」と反論したくなるところではある。

石嶋洋平著・安藤昇監修『子どもの才能を引き出す最高の学びプログラミング教育』あさ出版、2018年

【紹介と感想】石戸奈々子監修『プログラミング教育がよくわかる本』

【紹介】2020年から小学校でプログラミング教育が始まります。先生も保護者も恐れおののいているかもしれませんが、大丈夫です。問題ありません。難しいことをゼロから勉強する必要はありません。まずは、できることからやっていけば大丈夫です。うまくいきます。
本書は、タイトル通り「とてもよくわかる本」です。プログラミング教育をどうやって始めるか、これまでの教科教育との関係はどうなるのか、どうして必要なのか、とてもよく分かります。プログラミング教育について右も左も分からずにオロオロしている超初心者が最初に手に取るべき本として、間違いなくお薦めできます。

【感想】「プログラミング教育が始まる」と聞いて、世間の人々が往々に勘違いするのは、国語や算数などと並んでプログラムという教科が作られるのではないかということだ。が、実際のところは、プログラムの時間がわざわざ週1時間とか2時間などと設定されるわけではなく、各教科の中で適宜取り入れていくとされている。算数の図形の理解とか、理科の力学に関する実験とか、音楽での作曲とか、各教科の中で、「手段」としてプログラミングを導入することが求められているわけだ。

そこで期待されているのは、実際に「プログラムの知識」を習得することではない。実際に期待されているのは、試行錯誤の積み重ねを通して目標に向かって粘り強く取り組み続ける力の育成であり、チームで対話を重ねながら協力して一つの目標に向かっていくコミュニケーション力の育成であったり、個性的な表現力の育成であったりする。
そのようないわゆる「ソフトスキル」を伸ばしつつ、また同時に各教科の知識が役に立つことを実感することも期待されている。「三角形の内角の和が180度」という知識は、実生活の中ではさほど役に立たないかもしれない。しかし画面の中のキャラクターをイメージどおりに動かしたいとなったときには、この知識は極めて重要な役割を果たしたりする。力学的な知識もまた同様。学習指導要領が求めてきた「知識の活用」を行なおうとする時、プログラミング教育の存在は現場に多大な恩恵を与えるはずだ。
プログラミング学ぶのではなく、プログラミング学ぶ。これを分かっていれば、きっとうまくいく。

プログラミング教育は、決して従来の教育から独立した異物ではない。これまでの学校教育で育ててきているであろう論理的思考力、判断力、表現力、コミュニケーション力等々が、プログラミング教育の理念とがっちり噛み合うはずだ。というか、噛み合うようにやらないと、意味がない。単に知識だけ与えるプログラミング教育は、害悪しかない。

この本は、一見わかりやすく簡単に書いてあるように見えながら、プログラミング教育を越えて将来の教育全体に希望が見えてくる、なかなか奥が深い本だと思った。

石戸奈々子監修『図解 プログラミング教育がよくわかる本』講談社、2017年

【要約と感想】堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』

【要約】現場の役に立つ哲学を考えると、それはほぼ「対話」と同じものになります。とはいえ、もちろんただ漫然と話すのではなく、参加者にとって意義のある結果をもたらすために、練り上げられた技法を伴った対話です。そのモデルとなるのは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの実践です。
練り上げられてきた対話のルールとして、本や他人から仕入れた知識ではなく自分の経験に基づいた話だけをする、簡潔に話す、文章として記録する、全員が参加する、誰も置き去りにしない、対話のルールに対する見当の時間も設ける、等々があります。

【感想】新しい学習指導要領では、アクティブ・ラーニングという言葉が消えて、代わりに「主体的・対話的で深い学び」という言葉が踊っている。表面的に言葉が変わっただけではなく、そこそこ中身も変わっている。そんなわけで、教育における「対話」について改めて考え直す機運が(個人的に)高まっている。実際に対話に関する論文も書いてみたり。そういう流れで、「対話の哲学」というタイトルを冠する本書を手に取ったわけだ。残念ながら締切り後の発行のため、自分の論文に参照することはできなかったけれども。

で、事前に予想していた内容とはずいぶん違っていた。そして、とても興味深く読んだ。まあ、これがタイトル買いの醍醐味ではある。

事前に予想していたのは、ソクラテス対話篇のテキストに即して対話の技法を抽出し、実践を再構成するんだろうなという程度だったけど。実際は、対話の論理を具体的かつ実践的に考え抜いた上で、試行錯誤の過程を経て鍛え上げられてきた技術の集成だった。そして現在の技術水準は、本書の報告を見る限り、ソクラテスが実践した哲学的問答法の核心にそうとう近づいているように思う。実践の裏付けが着実に積み重ねられてきていることも、説得力を強烈に担保している。
思わず自分も真似してみようかな、などと思ってしまった。

個人的な研究のための備忘録

ソクラティク・ダイアローグの創始者ネルゾンが言う「教育のパラドクス」の解きほぐし方は、なるほど、一つの知見であると思った。私なんかは教育のパラドクスに居直ってきた類の人間なわけだけど、このパラドクスに真摯に向き合う姿勢は、いやはや、なんだか格好いい。

【教育のパラドクスを踏まえて技法を練り上げる】
「まずネルゾンは言う。ソクラテス的方法とは、哲学ではなく「哲学することを教える」技法であり、哲学に関する授業ではなく「生徒を哲学するようにさせる」技法である。(中略)
哲学的方法が目ざすのは「原理へと遡る」作業を安全・確実にすることである。(中略)
では「原理へと遡る」作業を、どのようにして実現するのか。それは通常の授業によっては実現できない。結果として得られた哲学的な諸真理を伝えるだけでは、単なる哲学の歴史の授業に過ぎない。そうではなく、生徒が「自分で考え、抽象の技法を自ら行なう」授業が求められる。このとき模範となるのがソクラテスである。(中略)
しかし教育は、生徒に対して外的影響を行使することである。外的影響に左右されない人間を、外的影響によって育てる。これは可能なのか。ネルゾンによれば、外的影響の意味を二つに区別することで解決できるという。すなわち、単なる「外的刺激」と「外的決定の根拠」である。外的決定の根拠を教える場合、それは他人の考えを受け入れるよう強制することになる。他方、外的刺激を通して、人間精神本来の「自ら判断し行動する」という活動が呼び覚まされうる。それゆえ、哲学の授業は「哲学的理解を阻む外的影響を計画的に弱め、哲学的理解を促す外的影響を計画的に強める」ことを課題とする。」128-129頁

で、外的影響を二つに区別するとして、教育学は伝統的に「興味」という外的刺激を効果的なものとし、単なる「注入」を悪いものと考えてきた(ヘルバルトとか)。パッと見、ネルゾンの言う「単なる外的刺激/外的決定の根拠」の区別は、伝統的な「興味/注入」という区分とはかなり違うように思える。その違いは、具体的には「技術」の有無にあるように思える。ネルゾンの方には対話を効果的に導く技法への配慮が見える。とはいえ、ヘルバルトも「興味」を放任するのではなく、「教育的タクト」という技術的概念を提出しているわけで、実は本質的なところで重なり合ってくる可能性はある。

堀江剛著・中岡成文監修『ソクラティク・ダイアローグ 対話の哲学に向けて』大阪大学出版会、2017年

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

【要約】神など持ち出すまでもなく、世界を説明することは可能です。雷だろうが、地震だろうが、日食だろうが、なんだろうが、すべて「原子」の振る舞いによって合理的に説明することができます。そうやって神様抜きで物事の本質を捉えれば、迷信から抜けだし、不安が消えてなくなり、平穏で幸福に暮らすことができます。

【感想】エピクロスの教説を、ほぼそのままなぞっている。原子説や、自由意思の発生の根拠や、気象地質学に関する見解や、幸福と倫理に関わる議論や、社会契約論など、基本的にエピクロスからの逸脱は見られない。

 顕著な特徴を挙げるとすれば、繰り返し強調される「宗教」への敵意だろうか。ルクレーティウスによれば、この世の不幸の原因は全て宗教(あるいは宗教による迷信)にある。雷や地震などの自然現象を徹底的に合理的に解釈するのは、宗教による迷信を取り払うためだ。
 とはいえ、彼の自然科学的な説明は、現在の科学水準からすると、思わず笑ってしまうほどトンチンカンではある。が、故に、真空中での物体の落下速度は等しいとか、可算無限の等質性とか、エネルギー保存法則への言及があるところには、けっこう驚く。

【要確認事項】
 個人的に気になったのは、全体的な論調がルソーを思い起こさせるところだ。特に似ているのは、(1)自然科学に対する素朴な信奉、(2)人間の自然状態を根拠とした社会契約論にある。

(1)自然科学の知識に関しては、もちろんルソーの水準はルクレーティウスを遙かに上回ってはいる。また、ルソーは物理学というよりも普遍的な数学理論の方をより本質的なものと見ているようではある。とはいえ、自然科学的な知識を土台として世界を合理的に見ていこうとする姿勢は、極めてよく似ているように思う。

(2)そしてそれ以上に気になるのは、自然状態を根拠とした社会契約論がよく似ていることだ。特に本書の議論は、要所要所でルソー『人間不平等起源論』を直ちに思い起こさせるような言い回しに溢れている。ルソーがエピクロスやルクレーティウスからどの程度の影響をうけているのか、専門家でない私には今のところ見当がつくわけはないが、素人でも明らかに気がつく類似であることは、メモしておきたい。

 その上で、ルソーとの決定的な違いは、ルソーがそれでも最後には神の存在を認めている点と、社会契約論を単なる現状説明で終わらせずに理想の社会を描いている点にあるように思う。

【今後の研究のための備忘録】社会契約説
 本書に見られる社会契約説的な議論は、単にスローガンを掲げるだけのエピクロス教説とは異なり、人間の自然状態の記述から説き起こしており、近代の社会契約説を直ちに想起させるものとなっている。(ちなみにエピクロス本人も、今はすでに失われてしまった書物のなかで社会契約論を詳細に展開していた可能性は高そうだ)

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力な力か、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニスム)を勉強していて、このルクレティウス(およびそれを通じたエピクロス主義)が想像以上に大きな支持を受けていることを認識した。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価していたりする。実は感心していたのではないか。はたしてルネサンス期にルクレティウスが復活することを通じて、後の自然科学や社会契約説勃興への道ならしが行なわれたなんてことはあるかどうか。

ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫、1961年