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【要約と感想】青木栄一『文部科学省―揺らぐ日本の教育と学術』

【要約】旧文部省と旧科学技術庁が2001年に合併して誕生した文部科学省は、科学技術・イノベーションの観点が強化されることで、旧文部省とは異なる新しい組織になっています。
 従来から内(教育委員会、国立大学、教育関連諸団体等)に強く外(政治家、他省庁、民間企業等)に弱かった文科省は、官邸主導で立案された教育政策や産業界の意向を背景とした他省庁からの「間接統治」の圧力を受けて、施策実現を目指すだけの下請け機関となりつつあります。具体的な様子は、高校無償化政策や高大接続改革等に見ることができます。
 文部科学省(および教育関連業界)がジリ貧状態を抜け出すためには、従来の殻を破って、積極的に外に打ち出していく覚悟が必要です。

【感想】良い本だった。我々の来し方を踏まえ、現在の立ち位置を確認し、未来を展望するために、数多くの示唆を与えてくれる。勉強になった。
 私個人は私立大学の教職課程に所属しており、文部科学省とは二重に関わる(大学教員として・教員養成として)仕事を受け持つ立場として、まさに現在我が身に降りかかっている問題を整理するのにも役に立った。

 思い返してみれば、30年くらい前までは文部省を腐していれば何か言ったことになるような気になれた教育学徒だった私が、今現在は単に文部科学省を批判するだけでは何の意味もないことを主張するようになっている。私自身が、理想に燃えてピュアだった20代から、ある程度社会の現実を知って責任ある仕事を受け持つ40代に成長?したという側面もある。が、一方で、文部科学省の仕事や立ち位置も確かに変わっている。特にここ10年くらいは、文部科学省がむしろ防波堤となって、政治界や経済界の圧力から教育界を守っていることを実感する始末だ。今や私自身が、新自由主義に批判的なスタンスを取りつつ「教育の公共性」を前面に打ち出して、おおまかには文部科学省と同じ方向を向き、いわゆる「抵抗勢力」と化していることを自覚せざるを得ない。そういうポジションから見ると、若い頃のように文部科学省を腐して悦に入るどころか、もう同情するしかないような気分になったり、あるいはできることなら側面支援したくなったりすることもある。これが大人になるということかどうか、いやはや。

 ともかくまあ個人的には、教育界の末席に連なる責任ある立場として、専門家としての見識を磨きながら、文部科学省の仕事に協力したり批判したりしていこうと改めて思ったのであった。

【言質】
 「教育の商品化」がなしくずしに進行して教育の公共性が衰退し、民間教育産業が続々と市場に参入してくることについて、個人的には大きな危惧を抱いているわけだが、それに関する本書の言葉をメモしておく。

「今回暗礁に乗り上げた大学入試改革は、政治家と企業にとって新しい「市場」を生み出すという点で利益にかなっていた。税金で運営されてきたセンター試験を衣替えするのだから、官業の民間委託や「払い下げ」のようなものであり、官製市場の民間開放そのものである。この過程に携わる政治家は教育企業からの支援を期待できるし、少子化に苦しむ教育企業も売り上げが確実に見込める官製市場へ参入できれば一息つける。」(221頁)

 身も蓋もない話だが、GIGAスクール構想にも同じように金の匂いがプンプンするし、実際に民間企業がよってたかっている。私の個人的な危惧にも関わらず「教育の商品化」はどんどん進行するのだろうし、日本全体のことを考えれば危惧するしかないのではあるが、一方さて私個人の身の振り方はどうしよう?というところなのだ。本当にどうしよう??

青木栄一『文部科学省―揺らぐ日本の教育と学術』中公新書、2021年

【教育学でポン!?】2021年10月21日

5年も通っていたキャンパスに、私の知らなかった学食が存在していたことを、今日知る。
【本日の歩数】8965歩■池袋散策。

ICT

■熊本市「不登校生のオンライン学習支援」の中身 来年度実施に向け9月から学習体験スタート(education×ICT)
テクノロジーの有効な使い方です。

■山梨県甲府市の小中学校 グーグルの学習支援アプリを活用へ(UTY ※動画あり)
学習支援ソフトを使い始めて、ようやくICTのありがたさを実感するようになると思います。

■GIGAスクール「ICT化の波」乗れない先生の処方箋 よくあるトラブルや失敗をカンタン解決に導く(education×ICT)
教師が使うのではなく、生徒が使う。とても大事な指摘から始まる良い記事でした。

いじめ

■深刻! 低年齢化する「いじめ」 小・中学生で増加 コロナ禍でますます「見えづらく」なる?(鷲尾香一)(JCAST会社ウォッチ)
学生がレポートでこういうことを書いてきたら、不可にしたいレベルの、まずい記事です。まず、増えているのは「いじめの実数」ではなく、「いじめの認知数」です。「いじめが増えた」のではなく、「いじめを発見する感度」が向上したのです。ここをまったく理解せずに、短絡的に数字が増えたことを以って「いじめが増加」と事実を捏造しているのが、問題です。つまり、「低年齢化」もまったくしていません。少なくともその証拠はこの資料から読み取ることは不可能です。

学校

■「浪岡高存続を」 青森市長、知事に初の直談判(東奥日報)
仮に存続したところで、学校の在り方そのものを根本的に変えていかないと、どっちみち滅びます。

教育全般(国内)

■「そこじゃない」と言わせない、地に足がついた保育政策を【衆院選論点】(普光院亜紀)
エビデンス重視の人たちのせいで、数字で表せるものだけ取り繕うような世の中になってますね。「質」は置いてきぼり。

■中学教頭5割、教諭など3割「過労死ライン」 部活動など影響 千葉(朝日新聞DIGITAL)
「働き方改革」がまったく機能してませんね。

■秦野市学校給食センター完成 12月から提供開始へ(TVK ※動画あり)
まさにこれが行政にできる仕事です。

■中学校給食「保温性高くして」 横浜・山中市長に生徒が意見(カナロコ)
秦野市が実現したから、次は横浜市の番。

教育全般(海外)

■学校を守るために奮闘するリアルな学生運動『これは君の闘争だ』11月6日に公開へ(cinema cafe.net)
ブラジルのドキュメンタリーです。

【要約と感想】ボエティウス『哲学の慰め』

【要約】著者ボエティウスは、無実の罪を着せられて処刑されることとなり、牢屋の中でこの世の不条理に絶望しています。そこに「哲学」が現れて、世界は神の摂理で成り立っていることを教え、彼は不幸どころではなく、本当は至福であることを諭そうとします。死を目前に控えながら、「本当の幸福」とは何かに目を開いていきます。

【感想】もうすぐ処刑されて命を落とすことが確実な人間が「論理的に考えれば私は幸福だ」という内容を淡々と書き連ねている本で、そういう状況を思い浮かべると、類書が見当たらないものすごい迫力の本なのだった。同じような前例としてソクラテスという偉大な人物の処刑死もあるにはあるものの、ソクラテス刑死の様子を描いた『パイドン』は長生きするプラトンの手になる書物であって、実際に処刑される当の本人が死を目前にしながら書いている本書とは当事者具合がまるで異なる。本書が内容的に区切りの良くないところでプッツリ終わっているのも、ああ、ここまで書いたところで連行されて処刑されたんだなと、実に生々しいのであった。

 内容としては、『パイドン』の他にもプラトンの影響を顕著に感じる。善人が苦しむ一方で悪人が栄華を誇るのは何故かというテーマは、『国家』序盤で扱われているものだ。またさらに「一」に対する信仰は、プロティノス等新プラトン主義の影響が色濃いように読める。自由意志と決定論に関する問題については、両方が両立すると主張するのはストア派的か懐疑主義的か。いちおうアウグスティヌスもそういう立場ではあるが。ともかく全体的には、あまりキリスト教的には読めないような印象を受ける。
 まあそういう観点からすればオリジナリティや独創性というものを感じることはないのだが、本が書かれた状況が状況だけに、むしろ実践的な説得力の高さは半端ないのだった。死に臨んだ著者の生き様そのものを含みこむ形で、本書特有の迫力が立ち上がってくる。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関する記述サンプルをたくさん得た。まあ、内容そのものは新プラトン主義が到達した地点を越えてくることはないのだが、古代思想の到達点を端的に示しているという点で参照する意味があるように思う。

「だが、理由は極めて明白だ。すなはち、その本性上単一的で不可分的なものを人間が誤つて分割し、かくて、真実なもの・完全なものを、偽なもの・不完全なものに変へてしまふのだ。」p.113
「では、その本性上一にして単一なるものが、人間の斜視に依つて、部分に分けられてゐるのだ。そして人間は、もともと部分のないものについて部分を得ようと努力してゐるのであつてみれば、全然存在しないその部分は得られる筈もないし、全く得ようと力めないところのその全体も亦得られる筈がないのである。」p.115

「多くの人々に依つて追求される諸物が真の完全な善でない所以は、それらのものが相互に異つてゐるからであるといふこと、つまりそれらの各々は、互に他のものを欠くが故に充実した・完全な善を与へることが出来ないのだといふことを。更にまたこれらが、いはば一形相・一作用にまで結合される時、例へば満足が同時に勢力であり、尊敬であり、名誉であり、愉快である時には真の善となるが、之に反して、これらすべてがにして同一物でないやうでは、それらは願はしいものの中に数へ入れられる所以の何者をも持たぬといふことを。」p.131
「では、分離しては決して善でない諸物が、たり始めると善になるのだ。それならこれらはたることの獲得に依つて善となるわけではなからうか。」p.131
「それではお前は同様に、たること(unum)と善とは同一であるといふことをも認めなくてはならない。本性上同じ結果をもたらすものは、同じ実体を持つわけだから。」p.132

「存在する一切は、たる限りに於て存続し・持続するが、ひとたびたるを失ふや滅亡し・崩壊するといふことを知つてゐるか。」
「どうして?」
「それは諸生物に就いて考へて見るとわかる、」と彼女は言つた、「すなはち魂と身体とがに結合しそしてたるに留まる限り、それは生物と名づけられる。だが、両部の分離に依つてこのたることが崩壊するや、それは明かに滅亡し、もはや生物でなくなつてしまふ。身体そのものもまた、それが各部分の結合に依つての形相を保持する限り人間の外形を呈してゐるが、しかし、身体の各部分が分裂し・離散してそのたることが壊されるや、今まであつたところのものは無くなつてしまう。これと同様に、その外の諸物をひとわたり観察してみるに、如何なる事物も、それがたる間は存続したるをやめると滅びるといふことが疑ひもなく明白になるのであらう。」pp.132-133

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」p.135
「一切のものはたるを欲する」
「然るに、我々の示したところに依ればそのものが善である。」
「それでは、一切の事物は善を求める。」p.136

 プラトンやプロティノスが抽象的に表現していた思想内容が、本書だとかなり具体的な記述に落とし込まれて分かりやすくなっているような気がする。中世末までよく読まれていたというのも、なんとなく分かる気がする。

【要検討事項】カトリック教義との関連
 中身はキリスト教っぽくないと思ったのだが、しかしボエティウス(480-525)の生きた時代が、西ローマ帝国滅亡(西暦476年)直後のゲルマン人東ゴート族支配の時期で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と国家的にも教会的にも対抗していたことを考え合わせると、当然なのかもしれない。なにしろ、公会議が立て続けに行われた時期で、三位一体やイエスの神性に対する教義そのものが定まっていない。ちなみにフランク人メロビング朝のクローヴィスがカトリックに改宗したのが西暦508年で、カロリング朝カール戴冠が西暦800年。西ローマ教会(カトリック)は、完全にゲルマン人に乗り換えると割り切るまでは、やはり東ローマ(ビザンツ)教会との協調関係を模索せざるを得ない。西ローマ教会と東ローマ教会が教義の面で対立していた段階では、東ゴートとしては西ローマ教会と協力する意義が大いにある。ボエティウスもラヴェンナの東ゴート宮廷で重きをなしていだだろう。しかし西ローマ教会が東ローマ教会に接近すると、東ゴートとしては西ローマ教会を疑いの目で見ざるを得なくなる。ローマ貴族の末裔であったボエティウスの身柄も危なくなる。で、現在私たちがカトリックの教義と思っているもの(三位一体やキリストの神性)は、度重なる公会議の過程で、東ローマ教会に馴染みやすい教義(ネストリウス派、キリスト単性説)と対決しながら鍛え上げられてきたものだ。で、西ローマ教会が東ローマ教会と仲が良かったということは、逆に言えば今わたしたちがカトリックの真正教義と思っているものがないがしろにされていたということでもある。そして、西ローマ教会がネストリウス派や単性説を批判してカトリック特有の理論を打ち出すと、今度は東ローマ帝国との仲が険悪になる。で、ボエティウスが東ゴートに睨まれたということは、西ローマ教会と東ローマ教会が仲が良くなったということで、つまり教義的にはカトリック特有の考えがないがしろにされるということになり、『哲学の慰め』にカトリックの匂いがしないことにも説明がつく。さて、はたして。

ボエティウス『哲学の慰め』畠中尚志訳、岩波文庫、1938年

【要約と感想】中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』

【要約】プラトンの著作に触れるときにまず大事なのは、それが「対話」として書かれているという事実です。私たちは、様々な人々が織りなす対話に参加した気持ちになって、性急に結論を求めず、ゆっくりじっくり物事を考えていきましょう。テキストを「批判的」に読み込み、自分の行動や態度を改めて点検する糸口にすることこそが、プラトンが目指していたものです。

【感想】前半は、わりとオーソドックスにプラトンの思想を説明している。対話編として書かれた意味、無知の知、イデア論、『国家』の構成。特にイデア論を真正面から扱っているのは、とてもいい。改めて勉強になる。が、魂の三分割の意味やシュトラウス派を批判する後半部は、なかなか手ごわい。それこそ「入門書」の体裁を借りて、学術論文では論証できない見解を自由に開陳している、という趣だ。まあ、それも「入門書」の醍醐味ではある。こういう無礼講がないと、「入門書」を改めて読む意味はない、と個人的には思う。

 で、類書と異なる本書の特徴は、副題に示されているとおり、プラトンを「批判と変革の哲学」として読むところだ。ちなみに私個人はプラトンを「教育」の営みとして読む立場にあり、それは著者の言う「変革の哲学」とも響き合う。というか著者自身も「プラトンは、いわば「生き生きとした知」の体現者であるとともに、そうした知を通じて、文化や社会のあり方の問題をとりわけ教育の問題として引きうけようとした哲学者だったのである。」(218頁)と言っているので、いっそのことタイトルは『はじめてのプラトンー教育の哲学』でもよいわけだ。
 ただしこの場合の「教育」とは、もちろん近代以降に成立した学校教育制度の下での教育ではない。それはむしろプラトンが批判したソフィストたちの教育に近いものだ。プラトンが意図する「教育」とは、知識を外部から与えるinstructionではなく、生きる姿勢や態度を内部から反省する「魂の向け替え」である。そしてそれは意図的・計画的に外部から注入する働きかけではなく、偶然始まった「対話」の過程から不意に立ち上がってくるような僥倖であり恩恵であり贈与である。それは近代的な意味での「教育」ではありえない。とすれば、著者が副題に「教育」という言葉を使用できなかったのも、当然ということになるだろう。が、私は敢えてそれを「教育」と言い張りたい、ということだ。そしてその私の姿勢は、著者が端的に指摘しているように、「俺のプラトン!」という読みなのだった。いやはや。

中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』講談社現代新書、2021年

【教育学でポン!?】2021年10月20日

サンシャイン60の展望台の年間パスを持っていて、コロナのせいでしばらく行っていませんでしたが、今日は天気がすこぶる良かったので登ってきました。筑波山はよく見えたものの、富士山は見えずに残念。
【本日の歩数】11948歩■池袋散策。

ICT

■先生は「YouTubeすらアクセスできない」は本当か 禁止一辺倒の管理では信頼は高まらない(education×ICT)
ですよね。

■オンラインで複式学級教育研修会(奄美新聞社)
複式学級のような環境でこそ、テクノロジーの真価が試されるように思います。

学校

■インターナショナルスクール、続々開校 英名門2校も 寮生活・英語で授業…「世界」見据えた学び(EduA)
各種学校としてのインターナショナルスクールはこれまでにもありましたが、一条校を目指すのは新しい流れですね。

■小学生が測量体験 校庭に校章描く(YTS ※動画あり)
数学を学ぶ意味がよく分かる、とても良い取り組みのように思いました。

教育全般(国内)

■【非認知能力】「森のようちえん」は、SDGs時代に必要なセンスの宝庫です【おおたとしまささん著者インタビュー】(LEE)
楽しそうです。就学前教育だけでなく、小学校以降にも取り入れていきたい考え方です。

■東北大学で「100円朝食」 メニューは全部で25種類 コロナで苦しむ学生を支援(仙台放送)
私も学生時代、駒場寮の寮食で150円朝食にお世話になりました。

■ひろゆきが「徒競走で順位をつけない教育」はバカすぎると考えるワケ(日刊SPA!)
長年教育の世界に関わってきて、多くの現場を見てきた私にして、「徒競走で順位をつけない」ような学校はまったく見たことがありませんし、そういうことを主張している教師を見たことも聞いたこともありません。誰と戦っているのでしょうか?

教育全般(海外)

■教育先進国「オーストラリア」…日本の学校教育との究極の違いとは?(幻冬舎ゴールドライフオンライン)
煽りすぎのタイトルですが、比較対象として知っておくのは悪いことではありません。