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【福島県会津若松市】鶴ヶ城は茜色の瓦が素敵

 会津若松の鶴ヶ城は、THEお城という佇まいのたいへん立派なお城で、初心者が行っても素直に楽しめると思います。そして城マニアにはマニアなりの楽しみ方がある、奥が深い城でもあります。

 北側から見る天守閣。かっこいい。鉄筋なのは多少残念だけど。茜色の瓦も素敵です。

 南側、南走り長屋から連なる天守閣を見る。かっこいい。青空に茜色の瓦がよく映えます。

 南側、鉄門の下から天守閣を臨む。かっこいい。

 西側、石垣の下から天守閣を仰ぐ。かっこいい。

 案内板。鶴ヶ城というと、やはり幕末戊辰戦争での籠城戦が印象的なわけですが、松平家以前にも長い歴史がありますね。

 天守閣に登って、南側の窓から鉄門を見下ろすの図。長屋と門が組み合わさって、鉄壁の防御です。

 天守閣の中は郷土博物館になっています。訪問した2014年は戊辰戦争150周年を4年後に控え、会津の正統性を強調しようと力がこもった展示でした。映像資料も充実しており、明治新政府の非道ぶりがよく分かるようになっています。

 天守閣内の郷土博物館からの出口は、南走長屋を通った先にあります。なかなか嬉しい構造です。

 天守閣の北東方向に、白虎隊士たちが自刃した場所としてあまりにも有名な飯盛山が見えます。本丸広場では、会津まつりが絶賛開催中です。ちょうど「八重の桜」が放映された直後で、出演者たちも集合し、盛り上がっていました。
 しかし向こうの山の上から大砲の弾が飛んでくるのは、怖いなあ。

 鶴ヶ城の見所は天守閣だけではありません。石垣と堀も実にかっこいいです。高石が木から廊下橋を臨むの図。薩長の攻撃を一ヶ月も阻んだ立派な高石垣です。

 高石垣の上から廊下橋門の跡を見下ろすの図。鶴ヶ城は石垣の上に登ることができて、城マニアにはたまりません。

 北側の追手門跡。石がデカいです。

 石垣の上に登って、追手門跡を見下ろすの図。鉄壁の虎口。かっこいい。

 ところで、地政学的に見た場合、会津若松の重要具合がいまいちピンと来ていません。奥羽全体を押さえようという場合は、会津若松よりも、米沢と仙台が決定的に重要なように見えてしまいます。しかし現実には中世以降に会津若松を押さえた蘆名氏が勢力を誇っているから、交通の要衝として機能していたのでしょう。米沢から新発田に抜けるルートが現実的でなかったりして、いったん会津に出るルートが有力だったんでしょうか。このあたりは、中世交通史をしっかり勉強しないといけないところです。
(2014年9月訪問)

【栃木県足利市】鑁阿寺に日本人の「名門」好みを見る

足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)に行ってきました。

この鑁阿寺、個人的には、日本の歴史を貫くライトモチーフを理解する上で極めて重要な場所であると認識しています。

鑁阿寺の手前には、室町幕府初代将軍、足利尊氏の銅像があります。

この足利尊氏の銅像、武家政権のトップにもかかわらず、武者姿ではなく、公家様式なんですよね。最初に見たときは、違和感が先に立ちます。他に、埼玉県東松山の菅谷館にある畠山重忠像や新発田城の初代藩主像も、武者姿ではなく公家様になっていますが、なんでなんだろう?

鑁阿寺の仁王門。

寺の周りを水堀が囲んでいて、かつては武家館として守りを固めていたことが分かります。「足利氏館」として日本百名城にも選定されています。

参道から本堂を見る。この本堂は鎌倉時代に建てられたもので、国宝に指定されています。鎌倉の建物が戦乱等で失われているので、鎌倉時代の関東では極めて貴重な国宝となっています。

紅梅が咲き始めていました。梅の向こうに本堂を見るの図。

上の写真は、2012年に訪れたとき、本堂脇にあった案内板。2012年時点では重要文化財だったのですが、この後、なんと2013年に国宝に再指定されます。ということで、今回訪問時には、案内板は撤去されていました。

中御堂。本堂等と比べると小さく感じるけれど、なかなか風雅な建物です。

案内板によると、建物は安土桃山時代のもののようで、再修したのは生実御所国朝(おゆみごしょくにとも)ということです。この国朝が、関東戦国史に名を残す小弓公方=足利義明の孫に当たります。小弓公方については、過去記事を参照=「千葉県千葉市・市川市・松戸市 小弓公方足利義明の野望」。
小弓公方の野望は後北条氏によって潰えることになりますが、秀吉が後北条氏を滅ぼした後、足利義明の系統は秀吉の計らいによって復活することになります。復活した足利家は喜連川藩となって、江戸時代を通じて藩閥体制の中の例外的な存在として生き残ることになります。小弓公方一族の粘り強さが興味深いわけですが、日本の歴史を考える上で重要なことは、実力で天下を取ったはずの秀吉や家康が、零落した名門足利家の権威をまったく無視できていないという事実です。

御霊屋。

中には、室町幕府歴代15将軍の像が祀られています。2012年に訪れたときは、この15代将軍像の特別展示を見ることができました。9歳で亡くなった7代将軍義勝の像とか、けっこう面白かったなあ。

多宝塔。

案内板によると、多宝塔は徳川家が寄進して再建したものですが、その理由の説明がちょっと興味深いですね。案内板には「徳川氏は新田氏の後裔と称し」と書いてあります。「徳川氏は新田氏の後裔であり」とは書いていないんですね。徳川氏が新田氏の後裔であるというのは、事実として確認されておらず、あくまでも「自称」であるというところがポイントです。鑁阿寺の公式見解として、「称し」とされているところに趣を感じます。このあたり、名門の権威を利用しようとする徳川家と、名門の矜持を保とうとする足利一族の微妙な関係を伺えるように思います。

仁王門近くにある説明盤。名門縁の大寺院だったのに、廃仏毀釈によって寺勢が衰えた無念さが滲み出ているように読めました。

説明盤の裏には、足利氏の家系図が刻まれています。名門を誇る自意識が示されています。
日本では、応仁の乱(1467年)までは武士であっても名門であるかどうかが極めて大きな意味を持っていたわけですが、150年間の下克上の世を経て実力重視の世の中へと変化しました。とはいえ、秀吉や家康ですらこの名門足利家の存在を無視できなかったという事実が、鑁阿寺の各所に刻まれているわけですね。そう考えると、鑁阿寺の前にある足利尊氏の像が武者様ではなく公家様である理由も、分かるような気がするわけです。

ガンダムシリーズ等に日本人の「名門」好みの特質が如実に出ているよなあと思いつつ、鑁阿寺を後にするのでした。
(2018年2/26訪問)

【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)

【岩手県盛岡市】盛岡城ともりおか歴史文化館

 盛岡城は、関東以北にはとても珍しい、重厚な石垣が張り巡らされたお城として大注目です。とても格好いい城です。

 北側の三の丸から攻め入ります。さらに北側にある下曲輪跡に飲食店が建ち並ぶ現在の風情も興味深いところではありますが、城としては三の丸からが本番かなあ。

 盛岡城は、北側から下曲輪→三の丸→二の丸→本丸というふうに順番に並べて設計されている、いわゆる連郭式のお城になります。連郭式は横からいきなり本丸を攻められると弱いのですが、盛岡城は中津川と北上川に挟まれていて、いきなり横から攻められる心配はあまりないんですね。

 三の丸の虎口の脇にある桜山神社には、烏帽子岩という巨大岩石が祀られています。

 三の丸から本丸方面を臨む。現在は多目的広場になっている部分は、台所と呼ばれている場所で、周りを高石垣に包囲されている巨大な枡形という趣ではあります。が、あまりにも巨大すぎて、枡形として機能するかどうか、ちょっと不思議な感じがします。こんなに巨大な枡形は、他に類例があるのかな。なかなか個性的な縄張のように思います。

 台所から盛岡城をパノラマで見る。左側が本丸で、右側が三の丸。

 改めて、三の丸から城内へ。クランク型の虎口を抜けると、城に入ったって気分が高まりますね。

 二の丸付近から、本丸の石垣を見る。極めて立派な高石垣です。盛岡城は、各所の石垣が本当に素晴らしい。

 この橋を渡ると本丸です。江戸時代には、この橋には屋根がかかっていたようですね。

 盛岡城はところどころの案内板も充実していて、見学のしがいがあります。

 三の丸の東には、もりおか歴史文化館が建っています。一階は盛岡のお祭りなどを展示する無料スペースで、2階が有料の博物館施設になっています。
 博物館の展示は、南部家の宝物が素晴らしいのと、模型や復元などものすごく気合いが入っているのとで、たいへん見応えがありました。中世以前の蝦夷の歴史等にも触れられていて、東北地方の個性を考える上でも貴重な施設です。

 また、歴史館から東に中津川を越えたところに、もりおか啄木・賢治青春館があります。ここでは盛岡中学で学んだ石川啄木と宮沢賢治の事跡が紹介されています。一階には喫茶店も併設されていて、趣がある建物でいただくコーヒーは格別です。こういう文化の香りがする場所があるのは、とても貴重ですね。
(2015年10月訪問)

【青森県弘前市】天守閣移動中の弘前城と、弘前市立博物館

 青森県の弘前城と弘前市立博物館に行った2015年は、弘前城の石垣工事準備が始まったところでした。

 一口に準備と言っても、石垣を修復するために天守閣を移動させるという、ものすごく大変な準備です。日本伝統の曳屋という手法で、天守閣を解体せずに、そのまま移動させています。すごい大技です。写真では、天守閣がレールに乗っている姿が見えます。
 ちなみに、弘前城天守は江戸時代からそのまま残っている12の天守閣のうちの一つで、とても貴重です。間近で見ると、けっこうこぢんまりとして見えます。
 石垣工事と調査が終わって天守閣が元の位置に戻るのは、2021年の予定のようです。

 弘前城の案内板。
 弘前城は、現存天守の他にも堀や郭の状態が良好に保存されていて、石垣もたいへん立派で、見応えがあります。素晴らしい城です。

 絶賛工事中の石垣。本当はここに天守閣がありました。

 本丸の石垣工事中。なかなか見られる景色ではありません。

 北の郭から内堀を通して天守閣跡を臨む。お堀も石垣もとても立派です。天守閣が建っていたら、いい絵になりますね。

 石垣についての案内板。なかなか詳しく解説しています。

 城内三の丸の一角には弘前市立博物館があり、津軽氏の事跡や弘前城の推移などが展示されていました。津軽氏の事跡を通じて、津軽と南部の確執についてもなんとなく分かるようになっています。歴史関連の展示だけでなく、美術品展示も充実している総合博物館です。陸羯南の企画展示は見たかったなあ。

 そんなわけで、石垣の修復がなって天守閣が元の位置に戻る頃には、もう一度行きたいなあと思いつつ、津軽を離脱するのでした。
(2015年10月訪問)