【千葉県千葉市・市川市・松戸市】小弓公方足利義明の野望

千葉県千葉市の小弓城(おゆみじょう)と小弓御所に行ってきました(2018年1/31訪問)。
ここは、関東の戦国史で忘れてはならない小弓公方(おゆみくぼう)の本拠地です。
小弓公方とは足利義明(1538年没)のことで、室町幕府の将軍足利家の親戚筋です。関東制覇の野望を抱き、一時期はいいところまで勢力を伸ばしましたが、後北条氏との戦いに敗れて命を落としています。歴史の教科書には載りませんが、なかなか興味深い人物です。
小弓城は、現在の千葉市の南端のほうに位置しています。

虎口のような切り通しを抜け、坂を登ると、真っ平らに整地された台地の上に出ます。そこに小弓城の石碑が立っています。あたりは一面畑になっていて、当時の面影はまったく残っていません。

石碑から100mほど南に行くと、小弓城の案内板が。

案内板に足利義明の事跡が少し記されています。

案内板の隣には石碑も立っていますが、背後は墓地。墓地の端まで行くと断崖絶壁になっていて、戦国時代には要塞として機能していた痕跡を伺うことができます。他、付近では堀や土塁の跡のようなものも確認できます。
案内板のある地点から東に150mほど行くと、八剱神社があります。ここに足利義明が構えた小弓御所があったようです。

八剱神社の本殿。この背後の木立あたりに小弓御所があったようです。

八剱神社、額の文字がなかなか趣深いです。

小弓御所跡。一面の木立となっており、当時を偲ぶよすがは全く残されていません。

小弓城跡の台地の全景。なかなかの比高差があり、人の手が確実に入っています。台地の前に広がる葦原の様子から鑑みるに、戦国時代には東隣の大百池から広がる湿地帯に囲まれ、沼地の上に浮かぶ要塞のようになっていたことが想像されます。

さて、そんな小弓城から北西に40kmほど行ったところに、小弓公方終焉の地があります。

1538年、小弓公方と北条氏綱との間で第一次国府台合戦が行われ、ここで小弓公方の野望が潰えることとなります。現在の千葉県市川市です。(2018年2/8訪問)

国府台合戦激戦地跡。写真の中央に立っている木の棒は、昭和の電信柱が朽ちたものではなく、国府台合戦の激戦地であったことを示すものです。

階段を上がると西蓮寺という寺院があるのですが、ここに国府台合戦の案内板があります。主に第二次の経緯が解説されていますね。

橋の上から国府台合戦跡地を見下ろす。当時の面影は、まったく残っていません。とても平和です。

激戦地から南に1kmほど行ったところに、国府台城跡があります。足利義明はここに陣取ったんでしょうね。現在は里見公園となっています。(2013年4/27訪問)

国府台城の案内板によると、例によって最初に築いたのは太田道灌ということになっていますね。小弓公方足利義明の事跡にも少しだけ触れられています。

足利義明は市川市で命を落としているわけですが、お墓は5kmほど北の松戸市にあります。(2013年5/5訪問)

お墓は、聖徳大学のキャンパス内にあります。史跡を見学するには入り口の警備員に一言ことわる必要があります。

門を入ってすぐ左、2つの土饅頭と「相模台戦跡碑」という石碑、案内板が立っています。この土饅頭自体は、小弓公方本人のものというよりは、戦死者全体の供養のためのものでしょうか。

案内板には小弓公方の事跡が書いてあります。足利義明と嫡男の義純が、第一次国府台合戦で討ち死にしたことが分かります。
ただ、このお墓自体は後に復元されたもののようです。1919年に陸軍工兵学校を作るために、いったん破壊されてしまったようですが、なぜか1931年に陸軍によって復元され、聖徳大学が1995年に現在の場所に移転させたとのことです。陸軍が1931年に復元させた経緯は、少し気になるところですね。

そんなわけで、関東の覇者を目論んだ小弓公方足利義明の野望に思いを馳せ、江戸川を渡るのでした。