【宮城県多賀城市】多賀城と東北歴史博物館

 宮城県多賀城市の多賀城跡と東北歴史博物館に行ってきました。

 多賀城は、奈良時代に作られて平安時代まで機能した、大和朝廷が奥羽を支配・経営するための拠点です。全国に62箇所しかない特別史跡のうちの一つです。

 外郭南門から政庁まで続く直線道路が、萩によって表現されています。とても長い道です。

 案内板によると、多賀城を後背地として、奥羽各地に大和朝廷による支配拠点が築かれていったことが分かります。

 政庁推定復原模型。伊治公砦麻呂による反乱などで、政庁は何度か作り直されているようです。

 気になるのは、南北朝で北畠親房と顕家が義良親王(後醍醐天皇の跡を継いて後村上天皇となる)を奉じて多賀城に入城していることです。多賀城を軍事拠点にしようとした後醍醐天皇の地政学観が気になるところです。まあ、14世紀の多賀城の様子は、現地の見学だけでは分からないですね。

 政庁跡の広場。

 案内板。

 政庁正殿跡。礎石部分が復原されています。

 案内板。

 政庁跡南門から外郭南門方面を見る。けっこう高いところに築かれていることが分かります。奈良や平安の当時は、かなり遠くまで見晴らすことができた場所ではないかと思います。

 外郭南辺築地の案内板。多賀城の敷地は約1km四方という広大な規模で、それを囲っていた築地塀の跡。

 多賀城跡の近くには、東北歴史博物館があります。宮城県だけではなく東北地方全体の歴史をカバーする、模型や映像も豊富な素晴らしい展示で、たいへん充実しています。続縄文文化とか、蝦夷と呼ばれていた人々の稲作文化とか、伊治公呰麻呂などの大和朝廷の支配に対する抵抗だとか、奥州藤原氏の栄枯盛衰だとか、大和朝廷中心史観とは一味違った歴史を見ることができます。

 博物館のツアーで、多賀城廃寺の見学に連れて行ってもらいました。

 博物館から東に200mほどのところに、石碑があります。

 太宰府の観世音寺とよく似ているということで、やはり多賀城と太宰府が大和朝廷の政治と軍事の拠点として重要視されていただろうことが想像されます。ただ、関東の戒壇が多賀城廃寺ではなく下野薬師寺に置かれた理由は少し気になります。多賀城周辺が軍事的に安定していなかったからという理由でいいのかな。

 かつては繁栄を誇ったであろう多賀城廃寺も、今は礎石を残すのみ。奥羽の栄枯盛衰を思いつつ、多賀城を後にするのでした。
(2015年9月訪問)