【栃木県足利市】鑁阿寺に日本人の「名門」好みを見る

足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)に行ってきました。

この鑁阿寺、個人的には、日本の歴史を貫くライトモチーフを理解する上で極めて重要な場所であると認識しています。

鑁阿寺の手前には、室町幕府初代将軍、足利尊氏の銅像があります。

この足利尊氏の銅像、武家政権のトップにもかかわらず、武者姿ではなく、公家様式なんですよね。最初に見たときは、違和感が先に立ちます。他に、埼玉県東松山の菅谷館にある畠山重忠像や新発田城の初代藩主像も、武者姿ではなく公家様になっていますが、なんでなんだろう?

鑁阿寺の仁王門。

寺の周りを水堀が囲んでいて、かつては武家館として守りを固めていたことが分かります。「足利氏館」として日本百名城にも選定されています。

参道から本堂を見る。この本堂は鎌倉時代に建てられたもので、国宝に指定されています。鎌倉の建物が戦乱等で失われているので、鎌倉時代の関東では極めて貴重な国宝となっています。

紅梅が咲き始めていました。梅の向こうに本堂を見るの図。

上の写真は、2012年に訪れたとき、本堂脇にあった案内板。2012年時点では重要文化財だったのですが、この後、なんと2013年に国宝に再指定されます。ということで、今回訪問時には、案内板は撤去されていました。

中御堂。本堂等と比べると小さく感じるけれど、なかなか風雅な建物です。

案内板によると、建物は安土桃山時代のもののようで、再修したのは生実御所国朝(おゆみごしょくにとも)ということです。この国朝が、関東戦国史に名を残す小弓公方=足利義明の孫に当たります。小弓公方については、過去記事を参照=「千葉県千葉市・市川市・松戸市 小弓公方足利義明の野望」。
小弓公方の野望は後北条氏によって潰えることになりますが、秀吉が後北条氏を滅ぼした後、足利義明の系統は秀吉の計らいによって復活することになります。復活した足利家は喜連川藩となって、江戸時代を通じて藩閥体制の中の例外的な存在として生き残ることになります。小弓公方一族の粘り強さが興味深いわけですが、日本の歴史を考える上で重要なことは、実力で天下を取ったはずの秀吉や家康が、零落した名門足利家の権威をまったく無視できていないという事実です。

御霊屋。

中には、室町幕府歴代15将軍の像が祀られています。2012年に訪れたときは、この15代将軍像の特別展示を見ることができました。9歳で亡くなった7代将軍義勝の像とか、けっこう面白かったなあ。

多宝塔。

案内板によると、多宝塔は徳川家が寄進して再建したものですが、その理由の説明がちょっと興味深いですね。案内板には「徳川氏は新田氏の後裔と称し」と書いてあります。「徳川氏は新田氏の後裔であり」とは書いていないんですね。徳川氏が新田氏の後裔であるというのは、事実として確認されておらず、あくまでも「自称」であるというところがポイントです。鑁阿寺の公式見解として、「称し」とされているところに趣を感じます。このあたり、名門の権威を利用しようとする徳川家と、名門の矜持を保とうとする足利一族の微妙な関係を伺えるように思います。

仁王門近くにある説明盤。名門縁の大寺院だったのに、廃仏毀釈によって寺勢が衰えた無念さが滲み出ているように読めました。

説明盤の裏には、足利氏の家系図が刻まれています。名門を誇る自意識が示されています。
日本では、応仁の乱(1467年)までは武士であっても名門であるかどうかが極めて大きな意味を持っていたわけですが、150年間の下克上の世を経て実力重視の世の中へと変化しました。とはいえ、秀吉や家康ですらこの名門足利家の存在を無視できなかったという事実が、鑁阿寺の各所に刻まれているわけですね。そう考えると、鑁阿寺の前にある足利尊氏の像が武者様ではなく公家様である理由も、分かるような気がするわけです。

ガンダムシリーズ等に日本人の「名門」好みの特質が如実に出ているよなあと思いつつ、鑁阿寺を後にするのでした。
(2018年2/26訪問)